グラード歴1349年元日。
はじまりの神アルカーナの月の初日が地平に沈み、
夕闇が空を赤く染める頃――
トロウで信仰される12神の一柱、情愛を司り出産の守護神とされる
ヴァルンツェの神殿では一般の信者、また出産の為に逗留する人々の裏で極秘に、
ある計画が進行していた。
神殿に仕える司祭級神官のうちでも、
特に高位の者を選りすぐり編まれた封魔の結界――
邪悪なる存在を討ち滅ぼす為の
巨大な神霊兵器が起動準備を終え、待機状態にあったのだ。
街の西側、ラグノーと呼ばれる川のほとりの丘上にそびえる
古めかしくも巨大な神殿の4つの門の一角にて、
二人の男女が薄く積もった雪の上を足踏みしつつ、
不平の顔も露に愚痴をこぼしていた。
神殿に張り巡らされた結界の一端を担い、
来るべき時にその起動を行い、逃げ場を失った魔を封滅する――
そのような役を任される神官が、通常の――
信徒相手に礼拝堂で説教を行う者と、同一であろうはずがない。
「よりにもよってこれとかいw てゆか、帰って寝たいなぁ、さむいなぁ。
むしろ旦那といちゃいちゃしていたかった。
…なんで正月そうそう仕事なんだろう。
ふざけてるにもほどがある!」
「ガキ二人産んでてお盛んだな。そんなにパンパンしたいんか」
( ´_ゝ`)y−~
「はっ。それをする相手もいないくせに」
「屁垂れるぞこの人妻。ってか何を隠そう司祭長にノボリつめてからは
毎晩とっかえひっかえなのだ。宅の坊ちゃまは絶倫なのです」
などと他の宗派の司祭たちが耳にすれば目を向きかねない会話も、
―快楽と怠惰の神ヴァルンツェ―
とも呼ばれる神に仕える、この宗派ではそう珍しい事でもなかった。
軽口と実力は比例しない。
一時は冒険者として名を馳せ、英雄と呼称されるまでに至った者たち――
教義に反するあらゆる魔と戦い滅ぼす事をこそ、彼らの本分であるのだ。
「……!……来た。こりゃあ大物だね」
さらに何か続けようとした女性が、
面を改めて虚空を睨む。人にあらざる存在。
それも、今までに出会った事が無い程に強大な――が、
神殿の結界を踏み越え、内部に侵入した事を
自らの天使に告げられたのだ。
「ウンコでもしたくなったんか?さっさと行ってキナサイ」
それに応じた男の応えは、およそ緊張感というものが欠落していた。
見れば小指で鼻をほじっている。
否、この男は大抵の状況においてかくあるのだが。
「いいから、狩りの時間さね。あたしは後ろで光ってるから、後はよろしく」
己しか知らぬ、自らの天使の真名を鍵として、
神殿そのものを結界として起動し定着させる。
相手の力を考えればそう楽観出来た物でもないが、
大幅に能力を削げるはずだった。
魔が狙う相手は知れていた――
其の為に半ば囮のような形で、一般の人々とは
独立、隔絶した棟に対象を逗留させている。
”万が一にも、他の皆様を巻き込む事の無いよう――”
それが彼女の主張した、唯一つの事柄だった。
おそらくは唯独りであっても、
例え身重の体であろうとも、彼女は魔と対決していたのだろう。
――否――
それはあり得ない想像だった。
彼女にはこの国に冠絶する英雄が夫として傍らに控え、
また数多の協力者が、各々の得意とする力を持って
共に戦う為ここに集まっている。
例え相手が不死の王と呼ばれる存在であったとしても、
その汚れた手で触れる事すら叶うまい。
もはや言葉も交わさず、二人は神殿深部へ歩を進める。
かつてなく激しく、
静かな戦いの幕が切って落とされようとしていた―――
「いやぁ、女の子でしたよ。
名前はそう、どこかの国の言葉で、輝ける頂き、という意味の…
クレスティア、としました。素敵な響きでしょう。
妻は少し格調高い響きがするから、
クレス、とかクレスタと呼ぼうって言ってるんですけどね。はははは」
その頃区役所の窓口で、定時間際の受付女性の
苛立ちを覆い隠した愛想笑いに気付かず。聞かれもしない名づけの由来を
とうとうと語る男が居た。名をセルシオ・オトーという。
出産届けを提出に来ただけであり、
これが長女、長男に続き三度目の出来事であるにも関わらず
一向に要領を得ず、窓口で一から書き方を尋ねては
後ろに並ぶ他の利用者の怒りを煽っていた。
無論本人は無自覚であるし、幸福の絶頂であるのだが。
「いや、それにしても一月一日生まれとは縁起がいい。
祝い事は重なった方が出費も少なくて済むし、
何より覚え易いのが有り難いですね。
私は物覚えの悪さにかけては社内でも評判で……」
役所の終業を知らせるベルが鳴る中、
男の浮ついた独自が室内に留まる事無く流れていた―――
ズルリ…… …ズルリ――
其れは、死に瀕していた。
否。それは正しい表現ではない。
其の存在は、初めから”死んで”いるのだから。
ズルリ――
――全身を焼き焦す聖疵。
特に、光の神の司祭のみが放つ、神業――<Ruby><Rb>『消滅』</Rb><Rt>バニシュ</Rt></Ruby>。
その奇跡によって、其の体の左半分が永遠に失われていた。
敗北だった。己の全存在をかけて挑んだ戦いは、
完全なる敗北によって、その永劫とも言えた歴史と共に
終焉を迎えようとしていた。
不死の王―――
暗黒の極限に位置し、死と破壊と悪夢を振りまく夜の主。
その己が、たかが人間によって、
完膚無きまでに滅ぼされようとしている。
神殿に張られた結界は未だ力を残し、
己の力、魂、存在そのものを削り続けていた。
もう僅かな時間を置いて、己はこの世界から完全に消え去るだろう―――
もはや死者を統べる王としての矜持も捨て、逃げた。
出口の存在しない迷路を彷徨い、みじめに朽ち果てようとしている――
今はただ、安らう場所のみを欲していた。
神の奇跡が及ばぬ闇の聖地にて、壊れた器を脱ぎ捨て、魂を癒す。
其の存在は、唯それだけを望んでいた。そして―――
その聖地は存在した。
生まれついた時、神の祝福を得られなかった存在。
常に死と共に歩み続ける運命を背負ったもの。
それは格好の隠れ蓑だった―――
――ズルリ――
死者は たどり着いた。
運命の扉の前に。
その簡素な扉には
小さな木の札がかけられていた。
札には部屋の主を示す名前が記されている―――
『セラ・オトー』と。
―――それが全ての始まりだった―――