逢魔ヶ刻


――銀の月灯り亭――

大陸一の商都トロウの中にあっても、老舗として知られる冒険者宿である。
約半世紀に渡り幾多の若者たちがその胸に夢、
あるいは野望を抱きこの宿の扉をくぐって来た。
ある者はその手に栄光を。幸運を。あるいは生涯の伴侶を掴みとり……
またある者は絶望と汚名にまみれ……己の限界を見出し、去っていった――


夕刻――

 その日、月灯り亭の主人アックスは不在であり、客が掃け、酒場に珍しく人が絶えた時、その場に佇んでいるのは給仕服に身を包んだ女性…ノワール1人であった。
 彼女はこの店の登録冒険者であって、雇い人ではない。従業員であるネイルが、同じく従業員であるクラケット、アリサリス・ゴキカブリを風呂に入れるという難問に挑戦し――両者相打ち、という結果に終わった為代わりに店番に立ったのだ。

「――清掃作業完了。これより伝票整理作業に入ります」
 ホールに誰も居ない事を知りつつ、静かな声でそう申告するとノワールは掃除道具を片付け、伝票の束を収めてあるカウンターへ向かった。
 勤勉を絵に描いたような性格の彼女は、与えられた時間を無為に過ごすことを厭う。あと30分もすればアックスが帰宅する予定であり、自分の本日の仕事は終わるのだが、そのことも関係はないようだ。

 作業を終えた後、本来の奉公先の屋敷へ戻る前に、知人の見舞いへ向かうことを検討しつつ機械的な動きで整理を進めて行く。
夕日が地平へと完全に沈み、夕焼け色に染まっていた室内が、急激に夜の色へと装いを変えていく――その時。ノワールはホールの隅に1人の小柄な人物が佇んでいることに気付いた。
――ドクン――
 平素から動揺と無縁でいる自分が、その姿を認めた時、心拍音が跳ね上がった事を自覚した。忘れていた、否――忘れようとしていたのかもしれない、自分の本来の任務を思い出さずにはいられない、その姿。

「随分と板についた仕事振りだな。そうしていると普通の人間と何も変わらなく見えるじゃないか」
 ゆっくりと歩み寄りつつ、おどけるように声をかけたのはその人物――黒い紳士用の夜会服に身を包んだ、男装の少女――であった。短く切った金髪に、病的な肌の白さ、紅い瞳が、訪れた薄闇とのコントラストを成している。
「――私は人間です、マスター。 ――カミュ様。なぜ、このような場所へ――」
 深々とお辞儀しつつ、ノワールは答えた。自分は通常通り平静だ。感情を持たない自分が、取り乱す事はありえない――
「…誰がお前に質問する事を許した?」
 チリ一つ落ちていないテーブルの上を指でなぞりつつ、少女はぞんざいに続けた。その瞳には、かすかに訝しがるような色を湛えている。
「――申し訳ありません。分際を越えた発言をお赦し下さい」
「フン――七年も人間どもの中で暮らせば、それらしい振る舞いを身につけるか… まあいい。私が訪れた理由は知れた事。我らがダーク・ファントム様のご様子を伺いに来たのだ」

――ダーク・ファントム――
 DF団と呼ばれる秘密結社が存在する。
世界の闇からグラードを手中にせんと蠢き活動する、不死者たちの組織である。
この銀の月灯り亭にかつて籍を置き、今は英雄と称される者達との長く激しい闘いの末――
首領ダークファントムは滅び、組織は壊滅した。否、そう見せかけ雌伏していた。
彼ら不死者とは滅びぬもの。終焉を迎えてなお終らぬ者たちなのだ――

 ノワールは、DF団の諜報員として七年前から人間社会に潜伏している。その最大の任務は、人間の内に転生した首領ダークファントムの傍に仕え、真の復活を果たすその時まで護り育てること。
その任務を彼女に与えたのが、この少女――”吸血鬼”カーミラルシュ・リューゲンである。

「先日、ダークファントム様の波動を察知した。いよいよ復活の第一段階に入るのだ……例の依代である娘はどこに居る?」
いつのまにかノワールの目前までやって来た少女は、長身の部下を見上げつつ尋ねた。
「――シェリオット・ラングフォルド様はご健勝であらせられます。本日はフィラルデル家の主催する園遊会へご出席されております」
「な――!?」
おそらく予期していなかったのであろう、ノワールの返答を聞いて少女は狼狽した。
「そんな――そんなはずは無い。『影の心臓』の活動が顕在化すれば、立ち上がることすら不可能なはず――体が生者から、不死王たるダークファントム様が降臨されるに相応しいものへと、造りかえられているのだぞ」
「――ですが、事実です。おそらくダークファントム様の呪いは母体であるクラウディア・ラングフォルド様に影響を及ぼすことができなかったのではないかと」
自身の中に存在していた、微かな懸念を押し隠しつつ、ノワールはさらに続けた。
「――確信が持てず、これまで報告を行いませんでした。私が観察したところではシェリオット様にダークファントム様の魂の片鱗は見とめられません」
「馬鹿な……では、ではダークファントム様は――あの忌々しい聖女によって肉体を滅ぼされた、その御霊はいずこにおられる」
「――推察致しかねます」
能面のように表情を変えない部下に対して、苛立ちも露に少女は睨み――ふと、その眼差しをさらに鋭い物へと変えた。
「貴様……何を隠している」

―ードクン――

「―――ご質問の意味が理解できません」
 冷静に答えたつもりだった。表情にも声にも、普段との差異は何も無い――だが、その体が、主の意思を裏切った。
気がついたとき、ノワールは少女から半歩、退いていた――

『 動 く な 』

ギシリ――
 少女がごく簡潔に命令を下した瞬間。室内の全ての物――空気、時間すらも――が動きを止めた。否、ノワールにはそう感じられた。
自分がまるで氷で出来た彫像になったかのように、身動きはおろか、声を出すこともできない。
「私の力を忘れたか―? あれこれと聞き出すのも面倒だ。お前の頭に直接聞くとしよう」
 爛々と輝く紅い瞳に見据えられ、身じろぎ一つできないノワールに少女は無造作に手を伸ばす。相手の思考を読み取り、引き出し、操作する――それがこの少女の持つ能力の一つだった。
「――――ッ!ッ!!」
少女の手がノワールの白い喉元に触れた瞬間、まるで音無き落雷に打たれたかのように、彼女の体が痙攣する。
「――あ、ああ、―ッ――ッ!―あぁ――ッ!!」
 圧倒的な力により心の壁をこじ開けられ、引きずり出される思考、記憶――自らも自覚していない、感情、想い――。それらが犯され、蹂躙される感覚にノワールは自己を認識してより初めて、『悲鳴』を上げていた。
「……シェリオット・ステファーヌ・ラングフォルド。王国歴1350年1月1日、ヴァルンツェ神殿にて分娩。同日同時刻――」
 ノワールの喉を掴み、その長身を事も無げに持ち上げつつ――少女は瞑目して、その記憶から引き出される情報を読み取り、呟いた。
「”クレスティア・オトー”」
「”同日同時刻、ヴァルンツェ神殿にて分娩。生まれつき心臓に疾患を持つ――先日、病状が悪化し入院”――なるほど、な」
 少女が再び瞼を開いたとき、はっきりとした理解と、探し物を見つけた喜びにその表情がほころんだ。残酷な笑みに口元がゆがむ。
「――ッ…―クレスティア…様は、関係ありません……この、件とは、何も……」
 最悪の方向へと進む事態を押しとどめようと、無駄とは知りつつ訴える―― この人の心を読み取る怪物に、何の効果も無いことを知りながら。
「私に向かってその反応…どうやら七年は長すぎたようだな――少なくとも10年は問題なく稼働するものと踏んでいたが。余分なものを身に抱え込み過ぎている――面倒だが、もう一度記憶を消去し初期化してやろう」
「――ッ!!――イヤ―や、め、て――」
「お前は道具だ。道具に感情も記憶も必要ない。お前には何も無い。お前は誰からも愛されないし、必要とされていない。お前は我がダークファントムに尽くす為だけに存在する。それだけがお前がこの世界に存在する唯一の意味なのだ――」

初めてメイドとして、ラングフォルド家に挨拶に上がった日。
仏頂面をしつつも、初めてお付きのメイドをあてがわれて喜ぶ幼い少女の顔。
姉が家を出て行った日、自室で泣いている主人をどう慰めていいかわからずに、ただその頭を撫でていたこと。
冒険者の宿、月灯り亭での日々――
自分の淹れた珈琲を、新聞を読みながら嬉しそうに啜る、中年の魔法戦士。
格闘術での無骨な戦闘を、舞いのようでとても美しい、と褒めてくれた歳若い神官の少女。
その場に居合わせただけとはいえ、一緒に温泉に行こうと誘われた時、どれほどに嬉しかったことか――

 一人の人間として扱われ、人を慕い、人に頼られ、人を護り、人に救われて来た。
そんなかけがえの無い記憶――それが酷薄な眼差しの前に引き出され、色彩と温もりを失って行く――
「――お願い……記憶を…――わたしの思い出を――消さないで――…!」
ノワールは、はらはらと、涙を流していた。組織に拾われ、道具として生きて来たこれまでの10数年、一度も流したことのない涙を。

「……!」
 その時、突然少女の手が緩められ、ノワールは床に崩れ落ちた。
「……パインサラダですか?お肉も食べないと大きくなれませんよ〜。今日のディナーメニューはチキンソテーみたいですけど」
「優秀なルーはお肉なんて食べなくても今に成長するんです。そんなの食べるのは野蛮人ですから!やばんすとらっしゅ!」
そんな会話が二階の階段から聞こえ、近付いて来る。邪魔が入ったことに舌打ちをした後、少女はその体を一瞬にして霧へと変えた。
『まあいい……今日の所は捨て置いてやる。”鎧”と”女王”が次の作戦に移っている。お前はそのサポートを務めろ。”屍鬼”と”傀儡”もじきに復活を果たすだろう――ノワール。裏切りは赦さん。いいな――』
 
霧が夜の闇に溶け込んだ後、そこには床に跪き、嗚咽するノワールと――驚いて駆け寄る仲間だけが居た。
「ノ、ノワールさん!?どうしたんですか、首に痣が……今、お水持ってきますから!」
「分かりました!ちかんさんに襲われたんですね!!ルーがとっちめてやります!」
 慌てて厨房に駆け込む、双剣を下げた少女と、息巻くフェンランの少女――

 ノワールは、初めてはっきりと感じる恐怖と絶望に、こみ上げる涙を止める術も持たぬまま――ただただ身を震わせ泣きじゃくって居た。
「シェリオット様……セルシオ様……私は、どうしたら――」

 破滅へと向かって加速する時――闇に潜む死霊が蘇る日は、刻一刻と迫っていた――