昆布ロードと敦賀

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       目 次

      はじめに
      1、昆布
       A)昆布の産地
       B)昆布の採取
       C)昆布の生産

      2、コンブロード
       A)コンブロードのはじまり
       B)コンブロードの全国制覇
       C)中国大陸へ

      3、敦賀
       A)最初の昆布
       B)コンブロードの中核地
       C)昆布加工の町



                       (1998年7月)


 はじめに

 昆布は不思議な食品です。北の海(北海道と東北の一部)でしか採れないのに、日本全国で食べられ、様々に加工され利用されています。一人あたりの消費量は富山県と沖縄県が一位二位を争い、日本の最も北でしか採れない昆布が、一番南の沖縄で毎日の食卓に欠かせない食材となっています。昆布の食べ方にも、各地でいろいろあって面白いものです。
 海に生えている昆布をそのまま食べるのは、貝類や往古の海牛(デスモチルス)をはじめとする哺乳類ですが、人は採取した昆布を干して乾燥させてから食べることを思いつきました。浜に打ち上げられた昆布が自然乾燥し、それを食べたところから昆布を干すすべに思い当たったのでしょう。
 海から揚げたばかりの濡れた昆布を、北海道辺りの原始の人々は食べたのでしょうか? しかし、魚介類が豊富にある時にはほとんど無視されたと思われます。
 干して乾燥した昆布を食べるのが、昆布食のはじまりのようです。乾燥していれば保存が効きます。昆布は人類最初の保存食として、厳寒期に食されたのでしょう。また、乾燥した昆布は移送がたやすい。昆布は最初の長距離交易食品であったかも知れません。
 
 出し汁をとって、あとは捨ててしまう使い方があれば、昆布を煮込んで食べる所も多くあります。さらに昆布は、様々に加工できます。
 まず、形を変えます。細かく切ったり、あるいは酢で柔らかくして薄く削ったりします。調味料と共に煮込んで、味や歯ごたえを楽しむのにも色々な種類があります。お菓子として加工するのも古くから行われています。

 昆布は採れる所が遠く北に限定されていますので、古くは貴重品として神や仏に供えられ、大切に利用されました。
 後に、海運が盛んになると大量の昆布が北から移送され、庶民の食卓へも上るようになり、日本の一般的な食品となったのです。
 特に戦時中、昆布は統制の対象になり、需要の有無にかかわらず全国一律に配給され、食料の不足した頃ですからそれまで昆布を食べなかった所でも食べるようになりました。
 
 昆布は、日本の食文化を代表する食品であるばかりでなく、借金国だった薩摩藩を清国への昆布輸出で儲けさせ、近代兵器を備えた強国へと転換させ、それによって幕府を転覆させて日本の近代化を決定づけた、政治的にも大きな役割を果たした史上希な食品でもあります。
 したがって、昆布に関する全貌を知ることは、日本のはじまりからの全てを知ることと同様に、その広がりも深さも大きく、わずかの知識や労力では追いつきません。それで、以下では、昆布と敦賀の結びつきにしぼり、簡略に述べるにとどめます。
 昆布が特殊な食品であるように、敦賀も特殊な地勢の町として位置づけられます。敦賀の昆布との出逢いも、その特殊性によるものです。昆布が敦賀を変え、敦賀も昆布を変えて共存を計って来ました。そのパートナーシップに光をあてることが出来れば幸いです。

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  1、昆布

A)昆布の産地

 昆布の特色の一つは、その産地が限定されていることです。しかもその地域は、政治的に辺境の地であった、北方に位置しています。したがって、昆布が太古よりその地(海)に繁茂していたとしても、それを採取して利用するようになるのには、その地方への意識的な進出が前提となります。古代には、その地は蝦夷エミシ・エゾの地で、畿内から蝦夷への最初の進出は『日本書紀』の崇峻スシュン天皇の二年(589)に、阿部臣アベノオミ を越コシの国境へ派遣して視察させたとあります。そしてその頃には、北陸沿岸や佐渡の要所に部下を配していたともされます。
 その後、斉明サイメイ天皇の時代に、阿部引田臣比羅夫アベノヒケタノオミヒラフが越国守コシノクニノカミに任じられて、水軍を派遣して越の蝦夷を討ち、更に東北から北海道の蝦夷を征服した(658〜660年)と伝えています。しかし、畿内の政権が成立するのは大宝律令の制定(701年)以降のことですから、この時代に北陸の日本海沿岸を支配していたのは、敦賀に根拠を置く角鹿海直ツヌガノアマノアタイの一族でした。水軍を組織できたのも畿内の豪族ではなく、新羅シラギ・シンラ などから一族を引き連れて移住してきた、海に生き、船を操る人々であったはずです。
 新羅からやって来て敦賀(角鹿、thun-ga,tsun-ra)に住み着いた一族のこの時代を、天野久一郎『敦賀経済発達史』(昭和18年)では「天日槍アメノヒボコ植民時代」としています。
 新羅などから一族で渡来してきた指導者については、天日槍の他に都怒我阿羅斯等ツヌガアラシト が有名です。しかしこれらは個人の名前ではなく、天日槍の天は海(どちらもアメ・アマ)のことですから、金属製の武器を装備して海を渡って来た者の総称です。
 都怒我阿羅斯等も別名于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキと言い、新羅国内の海軍族の一族の長を指し、その一族が角鹿に到着したので都怒我の名を名乗ったのでしょう。敦賀に住み着いたこの一族は、敦賀の地を根拠として日本海沿岸の要津を行き来し、北へは能登・佐渡や、さらに蝦夷地へと、船で進出したことが伝説化し、それを『日本書紀』編纂期(720年)に取り入れられたのです。
 敦賀の海人族が北方へ進出した痕跡は、能登羽咋郡の久麻加布都阿羅加志彦神社や能登郡の加布都彦神社阿羅加志彦神社、鳳至郡の任那彦任那姫神社などに、角額の兜を着た人がやって来た話が伝わっていることで証明されるだろうと、吉田東伍『大日本地名辞書』1860頁にあります。

 昆布の文字が日本の文献にあらわれる最初の記録は『続日本紀ショクニホンギ 』(797年)の中の記録です。そこには霊亀レイキ 元年(715)の記録として、「蝦夷須賀君古麻比留スガノキミコマヒル (蝦夷の族長)等言う。先祖以来、昆布を貢献す。常に此の地に採る。年時、闕カカサ ず」とあります。
 この昆布はホソメコンブ(細布昆布)と言われる種類で、昆布のなかで一番暖かい所を好む種類とされます。北海道南部の箱館(函館)より西の狭い地域で採取されました。この昆布が蝦夷からの貢献品として日本海沿岸を敦賀まで船で運ばれ、山を越えて琵琶湖に出て、水運で琵琶湖を渡り(琵琶湖の水運を制していたのも天日槍系の一族でした)、朝廷へと運ばれたのです。
 これがコンブロードのはじまり(縄紋時代を除いて)です。コンブは、アイヌ語のcombu(水の中の石に生えるもの)を語源とする説が有力ですが、中国では紀元300年頃から昆布の文字が使われています。しかし、中国の「昆布」は海藻全般を含む文字だったようです。
 
 食用の昆布は植物学的には、コンブ目コンブ科コンブ亜科のコンブ属とトロロコンブ属に分類されます。コンブ属にはマコンブ・リシリコンブ・ホソメコンブ・チヂミコンブ・ミツイシコンブ・ナガコンブ・ゴヘイコンブなどがあります。文献の記録として最初にあらわれた昆布がホソメコンブです。
 奈良・平安時代がホソメコンブの時代です。続いて、宇賀コンブの時代になります。
 
 鎌倉時代になると、安東氏が蝦夷地の管領となり(1195年)、松前物産の交易が飛躍的に拡大します。
 宇賀昆布は函館の湯の川温泉あたり、津軽海峡に面した所で採れます。マコンブの中でも最も幅が広く、一番大きい種類です。この昆布の時代が江戸初期まで続きます。そして、箱館近辺や津軽の十三湊トサミナト から、やはり北陸地方を経て敦賀・若狭に運ばれ、昆布の加工も行われるようになりました。
 この時代には、敦賀が戦乱に巻き込まれて、港の機能が停止し、船が小浜に集中するといった事もありました。また、唐船に昆布を売ったという記録(1306年『東日琉ツガル 外三郡誌』)もあります。京都「松前屋」の創業は1392年です。
 
 江戸時代初期に、松前から下関を廻って大坂までの西廻り航路が開かれると、昆布の漁場もさらに東へ進み、元揃モトゾロイ 昆布と三石ミツイシ昆布の時代に入ります。元揃昆布は噴火湾で、三石昆布は日高で採れます。大坂で、昆布の佃煮が開発されました。
 北海道の開拓が襟裳岬を越えて北方に及ぶ幕末になると、長昆布の時代になります。昆布は琉球(沖縄)を経て清国(中国)へ大量に輸出され、函館が開港されると清国の商人が駐留して、直接に中国へ送られました。長昆布は煮食シャクショクに適し、沖縄での昆布食が根付くことになります。
 
 その後、昆布の需要が増え続き、天然のままを採取していたのでは追いつかず、増殖・促成の方法が開発され、中国でも輸入を止めて、昆布を日本に輸出(1972年)するようになりました。


B)昆布の採取

 昆布の実際の採取の模様を、宇賀昆布(現在の志苔昆布)の採取地で見てみましょう。『函館市史・銭亀沢地区編』を要約します。

 まず、マコンブは採取時期や成長段階、それに生育場所によって細かく分類され、厚さや色沢、泥などの付着物の有無などによって等級分けがされています。
 採取時期と成長段階による分類基準
1、走り昆布  9月までに採ったもので、柔らかいため煮物などの食用に向く。
2、後採り昆布 10月以降に採ったもので、「走り昆布」より色が黒く、厚い。最高のだしがとれ、甘みが強いので伝統的加工品の原料とされる。
3、水昆布  細くて短く薄い一年目のマコンブを呼び、本来は禁漁であるが、二年コンブとともに混獲されたものだけが出荷される。極めて柔らかく食用に最適。「ほそめ」よりも価格が高い。

 生育場所による分類基準
1、岸昆布   海岸線近くの水深約5メートル(3尋)までの浅い岩礁に成育し、「ねじり」と呼ばれる棹先にラセン状の鉄棒が2本ついた漁具で収穫される。色が最も黒いので「黒昆布」、60枚の1束8キログラムを越えるので「8キロ昆布」とも呼ばれる。重量当たりの価格は最も高い。根元の最大幅9センチメートル以上が1等級で、平成8年度の価格はキログラム当たり2、800円であったが生産量は多くない。
2、中間昆布  水深約5メートルから15メートルのやや深い岩礁あるいは礫底に育成するもので、底質が岩礁では「ねじり」、礫では「かぎ」と呼ばれる2本の鉄爪のついたアンカー状のマッケで収穫される。コンブの幅は「岸昆布」よりもやや広いが、厚さと色はより薄い。価格も「岸昆布」よりやや低く、根元の最大幅12センチメートル以上が1等級で、キロ当たり2、700円であった。
3、沖昆布   水深が15メートル以上の深い礫の海底に成育する。もっぱら「かぎ」をロープで引き、海底の礫に成育するコンブを礫ごと引っかけて収穫する。最も幅が広く、生の状態では幅40センチメートル、長さ10メートル以上にも達するが、厚さおよび色はマコンブ中で最も薄い。価格は天然コンブで最も低いが、1本あたりの重量が大きいため、漁獲効率と製品の歩留りが高く、マコンブ生産量の中では最大である。価格は、根元からの最大幅15センチメートル以上が1等級でキログラムあたり2、530円であった。(186頁)

 昆布漁
 コンブ漁に出る資格は、戦後では漁業協同組合に加入していることが条件で、組合員一人あたり一艘の漁船を出すことができる。コンブ漁に直接携わる(コンブをとる漁具を扱う)のは一艘当たり一人に限定されるが、補助する者の乗船は認められている。
 コンブ漁の解禁日は7月20日と定められており、この日をアラキという。アラキが開けてからのコンブ漁はクチアケといい、その日の天候や海の状況をみてクチアケするかどうかを決定した。
 コンブ漁に使用する船は、モジップといわれるイソブネよりも大型の漁船で、これを二人乗りで使用した。昔はモジップもイソブネ同様ムダマの船で、ムダマの口(幅)は四尺から四尺五寸あった。イソブネのムダマは三尺二、三寸のものが多かった。
 最初に「岸コンブ」採り、それから「中間コンブ」を採る。「沖コンブ」は藻体が大きく歩留まりもよいが、広い干場を要し価格も安いため小漁家では採らないことが多い。
 採取したコンブは陸揚げし、その日のうちに砂利を敷き詰めた干場で天日乾燥し、一日で干し上げるのが普通である。干場に敷く小石や砂利はかつて近郊の海岸や河原から人力で運んだものであるが、近年では黒色の採石をトラックで運び、敷き詰める例が多い。これは黒色の石が太陽光線をよく吸収し、コンブの乾燥に優れているためと思われる。
 完全に乾燥したコンブは夕方納屋に取り入れる。これを根元から90センチメートルに切ると「長切り昆布」として出荷できるが、人手の多い漁家では、伝統的な「本場折り昆布」に仕上げる。これは極めて手間のかかる処理で、その工程は15段階以上ともいわれる。(189、263頁)

 ここに出てくるイソブネ(ムダマ)の構造は、出雲から越前海岸辺りで使用された「ソリコ舟」によく似ています。出雲の方からソリコ舟にのって、越前に移住してきた漁民がいて、その集落は「そり子」・「反子」と呼ばれて、先住民とは区別され、漁業権でも差別されたそうです。(谷川健一『古代海人の世界』)
 その他にも、若狭から能登へ移住した例や、立石からの移住もあった事が、同書に岡田孝雄氏の研究を引いて述べられています。若狭や敦賀の立石からの移住がソリコ舟に乗ったものだったかは分かりませんが、越前海岸からは丹後半島がよく見える地勢ですから、その間の若狭や敦賀の漁民もそれほど違った舟に乗っていたとは思えません。
 ソリコ舟は、元来一本の丸木舟だったものを縦に二つに割って切離し、船底に板を挟んだ構造をしています。したがって、丸木舟よりも幅が広く、船底は平たくなっています。ソリコ舟に帆を張って、かなり遠方まで航海ができたと言われます。
 そんなソリコ舟で北上し、蝦夷地まで往来したとしても不思議ではありません。先のムダマ舟がソリコ舟と同じ構造ですから、若狭周辺の漁民・海人から伝わったものかも知れません。
 
 丸木舟が昔からあった事は、三方町の鳥浜貝塚から全長6メートル以上の丸木舟(約5500年前のもの)が発見されていることで証明されています(『日本の古代』第4巻)。縄紋人は丸木舟にのって漁や交易をしていました。
 若狭から越前海岸に沿って能登へ、能登からは佐渡が島がすぐ目の前です。糸魚川辺りでしか採れないヒスイや、北海道の黒曜石が、青森の山内丸山遺跡から出土しています。広い範囲での交易があったと思われます。


C)昆布の生産

 昆布の需要が高まると、自然の成育を待つだけでなく、何とかして昆布の収穫を増やそうとする努力がなされました。漁場を東に北へと拡張することは、昆布の産地の移動で分かります。それとは別に、決まった所での増産の方法について見てみます。

 大林雄也『大日本産業事蹟』(明治24年。東洋文庫所収版)に、「北海道昆布人工繁殖の事蹟」として、函館の山田文右衛門が開発した投石法を掲載しています。以下、文章を修正して引用します。
 文久二年(1862)六月、文右衛門が自分の漁場である沙流、勇払各郡を巡視すると、沙流郡の海浜でたまたま小片陶器(四五寸のすり鉢の破片)に昆布八九本の生えているのを認め、はじめて昆布の天然礁石のみに成育するものではなく、人力を以て海中に岩石を投じて繁殖させることを考えて、意を決して翌年より投石法を試みようとした。翌月、蝦夷人および旧来の雇人を牽いて東西を跋渉し、字「サルブト」川口において堅質の石があるのを発見した。翌年、製造した五艘の石積舟で、二万七千個の石を投入した。さらに翌年三月にも、五万個の石を投入した。翌慶応元年に例のごとく投石に着手し、前年投石した石を熟視すると、若昆布生出することが極めて多くあった。天然礁石の昆布とともに苅取った。その高、二百石になった。その後も投石を続け、明治元年には新旧昆布七百石を収穫し、後年さらに増加した。

 次に、促成コンブ養殖について、『函館市史・銭亀沢地区編』から抜き出してみます。
 昆布の促成栽培は、日本と中国でそれぞれ独自に開発され、1969年にはじめて提供されました。銭亀沢地区では昭和50年代からおこなわれたそうです。
 自然界ではコンブの種となる遊走子は、秋冬に親コンブから放出され、着底、発芽して、翌年春にコンブが姿を見せる。促成技術の核心は、人工照明と人工肥料の入った培養液の利用によって、コンブの受精、発芽期間を半分以下の二か月に短縮できたところにある。九月に地先の沿岸で採取した「沖コンブ」から種を採り、十月末には稚コンブの付いた種糸を出荷する。
 養殖漁場は水深約30メートル程度の沖合で、海底に投入した4トンのコンクリートブロックに、長さ120メートルのロープを張り、これを10個程度の浮玉で一定水深に保つ。種付けはロープの隙間に種糸を挟み込んでおこなう。種付け間隔は30から50センチで、一月以降コンブの成長を待って、小個体や変形個体を徐々に取り除き、最終的には一株五本以下に間引きする。
 間引きコンブは身が柔らかいので煮物に向き、干して出荷する。種コンブは直射日光に弱いため、当初は3メートル以深に沈めるが、春以降のコンブは成長にともなって光を求めるので、浮玉ロープを縮め、養殖コンブを海面近くにまで浮上させる。波浪や潮流を見て補強・調節を行う必要がある。

 このような促成栽培の技術によって、中国でも昆布が収穫されるようになり、逆に日本へ輸入されるようになりました。

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  2、コンブロード

A)コンブロードのはじまり

 昆布は宮城県以北の寒海でしか採れないので、他の地方へ昆布がもたらされるには、北から南西への輸送ルートが形成されます。昔は陸路がなく、あったとしても危険すぎて、無事に荷物が届くかどうか、保証されていませんでした。
 それに比べて、海路の方は古くから発達し、海賊などもいましたが漁民や廻船人も海賊と同じようなものなので、通行料を払えば無事に通れました。また、海路が開けていたのは日本海側で、太平洋側は波が高く、航路が定まるのはずっと遅れてからでした。それで、最初のコンブロードは北海道から北陸への日本海側の航路でした。北陸は越国コシノクニ と呼ばれ、後に、越後・越中・越前の三国に分割されました。
 越前はコシノミチノクチ・コシノマエです。山を越えた所にある国、あるいは海を越えた所にある国なので越国と呼ばれたと言われます。その越国から、さらに海を越えた所で昆布は採れます。

 縄紋期には北海道沿岸を暖流が流れ、現在よりも温暖であったので(戸沢充則編『縄文人の時代』)、昆布の成育には現在よりも条件が適わなかったようです。暖かさに強いホソメコンブが多かったかも知れません。縄紋時代に交易が盛んであったことはすでに述べましたが、そうは言っても全体の人口が少なく、絶対量としての交易は僅かなものです。
 北陸全体の縄紋時代の人口は、早期400人、前期4200人、中期14600人、後期15700人、晩期5100人と推定されています(小山修三『縄文学への道』)。そして、弥生時代が20700人で、奈良時代になると491800人と急激に増加します。弥生時代にも約4倍に増えますが、その後に大勢の渡来人がやって来て、人口が増えたのが分かります。

 水稲栽培を核とする弥生文化は、北九州に上陸して西日本へ広がります。ところが、日本海側では敦賀の辺りで弥生文化の伝播が停滞します。越国が新たな文化の導入を拒んだのです。東北や関東も同様です。それで、そのような地を蝦夷エミシ と呼んでいました。
 蝦夷の地を進む事は困難でした。それでも、海岸沿いの浦々には農耕をしない海人族が住んでいて、越国でもその先への舟での往来が可能だったようです。
 越国が弥生文化を受け入れるようになると、その地への入口が敦賀であり、北方進出の拠点となりました。
 敦賀には津守ツノカミが置かれ、越国全体の海上交通を掌握しました。とは言っても、政治力のまだまだ弱い時代ですから、漁民などは自由に出漁し、海上を制していたのは海賊だと思われます。津守に任じられた者も、海賊の首領に近い存在だったのでしょう。そして、この時期に、阿部比羅夫が蝦夷平定に水軍を進攻させたのですから、その水軍は敦賀・若狭、および能登から佐渡にかけて集めたものだと思われます。

 蝦夷地から昆布が朝廷に貢献され、それがコンブロードのはじまりとなりました。記録に伝わっているものとしては715年ですが、先祖以来とされていますからそれよりも前に始まったようです。蝦夷から海上を途中寄港しながら敦賀に入り、敦賀から陸路と琵琶湖を通って都へ運ばれました。
 その頃、昆布は最北の地からの希少品として朝廷から神に捧げられ、朝廷の権威を示すものとして貴族や神社・寺院へも配られたようです。気比や気多の神社にも供えられたはずです。
 このようにして、量的には少ないながらも昆布が北陸や畿内にもたらされました。神社は神饌としてアワビを重宝し、昆布は寺院で尊ばれました。儀式の絵イロドリとして使用され、お寺の精進料理に使われるようになりました。

 鎌倉時代になって、北条義時の代官であった津軽の安東尭秀が蝦夷地を支配するようになると、宇賀昆布が採取されて運ばれるようになり、肉厚の昆布なので、加工を施されるようになります。宇賀昆布は北陸の要津でも売られましたが、敦賀・小浜の湊に到着すると全部降ろされ、そこから京へ運ばれました。
 鎌倉新仏教の各宗派が精進料理をひろめたので、同時に昆布食も広く知られるようになりました。
 戦国時代には出陣式と凱旋の祝に、昆布はアワビと栗とともに欠かせないものになりました。また、京文化の茶の湯の点心のおかずである「茶の子」としても、昆布が重宝されるようになります。昆布の「茶の子」は京だけでなく、北陸でも親しまれました。
 京では「松前屋」が1392年に創業し、敦賀に自前の船を持って、昆布を輸送していたと言われています。

 天正18年(1590)、安東氏の家来だった蠣崎慶広が、独立して蝦夷の福山に城を築き、松前氏を名乗りました。それ以前から、若狭からの移住者がいて商売をしていましたが、この頃からは近江商人が移住しはじめます。近江商人は敦賀の湊を根拠として、松前物を京や大坂に売り込みました。

 戦国の頃から小浜では、「細工昆布」や「刻昆布」などの新しい加工品や、「みずから(水辛)」・「灸昆布」などの菓子昆布が工夫されました。天目屋九郎兵衛の「召しの昆布」は、足利義政(在将軍職、1443〜1473年)に献上したと伝えられています。


B)コンブロードの全国制覇

 寛永15年(1638)、加賀藩が城米100石を初めて西廻り航路により大坂へ運漕しました。それまでは敦賀で陸揚げし、琵琶湖を渡って大坂へ運ばれていたものです。
 他の藩も西廻り航路を利用するようになり、松前物の昆布も同様に大坂へ直送されるようになりました。距離的には西廻りの方がずっと長いのですが、途中で荷の積み替えがなくて済み、敦賀・近江の運送業者の質が悪くて荷を抜かれる損失を勘定に入れると、西廻り航路の方が安上がりになったのです。
 コンブロードは敦賀で止まらずに西へ伸び、長崎に至って、瀬戸内海を抜けて大坂に到着するようになりました。
 この頃から、昆布は元揃・三石昆布となり、大坂での利用が増えます。

 寛永17年(1640)に駒ケ岳が噴火し、津波で百余隻の昆布取舟が転覆してほとんどの人が溺死したと記録されており、江戸初期には昆布採取が盛んに行われていたことがうかがえます。その昆布が敦賀・小浜へ、そして大坂へも直接に運ばれるようになったのです。

 松前藩は寛文年間(1661〜73)頃に場所請負制を導入し、蝦夷地交易を商人に請け負わせ、交易所(運上屋)を設けて特定の商人が蝦夷地交易を独占しました。とくに近江商人は、若狭や奥羽の商人を押し退けて運上屋となり、交易を独占するだけでなく漁場を開き、漁業を営むほどに身を入れて産物の増加をはかり、蝦夷地の産業に大きく貢献しました。
 大坂で昆布の売買を初めて行ったのは、江州出身の昆布屋伊兵衛で、元禄7年生まれの松前問屋をしていた人物だと言われています。
 刻み昆布は、大坂では享保6年(1721)ごろに、紙裁ち包丁で昆布を細かく切り刻んではじまり、30年後の宝暦年間(1751〜64)に京極若狭之助によって鉋カンナ の使用が考えだされ、同時に仕事場や干し場も設けられました。
 宝暦12年(1762)には、大坂の刻昆布業者23人が仲間を組織しています。そして、寛政2年(1790)8月には、大坂昆布商仲間も結成されました。
 元文ゲンブン5年(1740)、松前藩が幕命により昆布を長崎へ移送し、幕府は昆布を輸出品にしようとします。その後、天明8年(1788)幕府が長崎奉行に抜荷ヌケニ の厳禁を命じた頃、薩摩藩は大坂で昆布を買い、琉球に売り、砂糖を大坂に売ることをはじめました。

 北前船キタマエブネの出現は1700年頃と言われています。北前船は蝦夷から北陸、北陸から大坂への昆布の道(コンブロード)を完成しました。
 北前船の呼称は、瀬戸内の人たちがつけたといいます。船の形は、弁財船ベンザイセンを水主カコを少なくして帆走専用船にしたものです。北前型弁財船ともいわれます。北前船は運賃積みではなく、買い積みとして往復とも自分の荷物を積み、寄港地で売買する海のマーケットでした。北陸の米・縄・筵、東北の木材・酒などを大量に積み込んで、蝦夷地で売り払い、その代金で昆布・鰊ニシン ・数の子・粕シメカスなどを買い込んで、日本海沿岸・阪神地方の各港で売り捌きました。
 富山の昆布巻かまぼこの起源は分かりませんが、嘉永年間(1848〜54) に女川屋伝右エ門が富山湾のアジ、ニギス、サワラなどの白身の魚と、北前交易で荷揚げされた昆布で昆布巻かまぼこを作り、藩主に献上して喜ばれ、広まったと言われています。


C)中国へ

 中国への昆布ロードが始まったのは、清朝の汪楫ワウシフ一行が琉球から帰った後、天和3年(1683)から貞享ジョウキョウ3年(1686)頃だといわれています。長崎経由が本格化したのは元禄11年(1698)とされています。
 那覇の昆布座(18世紀末設置)が置かれた所にすぐ近い村が、古くからの市が開かれた所で、その村を若狭町村といいます。沖縄唯一の漆器の産地でした。若狭町の町は若狭市の市が転じたもののようです。村の名前からすれば、若狭(小浜か敦賀)から渡って来た人が市を開いた村だと言えそうですが、証拠はありません。ただ、若狭町村の市は古く14世紀からあり、ワカサイチと呼ばれていました。若狭から昆布などを売りに来ていたのかも知れません。
 薩摩藩は琉球を通じて昆布を清国に売り、代償に薬種(竜脳リュウノウ ・沈香ジンコウ・山帰来サンキライ ・辰砂シンシャ・麝香ジャコウ・牛黄ゴオウ など)を得て日本で売り、財を築きました。薬種は富山の薬売りが買いましたが、昆布を薩摩に集めたのも富山の薬売りでした。
 富山の薬売りは全国を22に分け、独特な組制度を持っていました。このうち薩摩藩組26人脚キャク は昆布を通して薩摩藩と密着し、能登屋(密田家、後に北陸銀行を設立)などの信用のある富山売薬行商人に低利融資をして北前船を造船させ、それで昆布を運ばせたのです。
 
 薩摩藩の清国との昆布交易は密貿易に近いものでした。幕府に知られてはならないものだったのです。それで、昆布を薩摩まで運ぶのに、西廻り航路をとらずに、太平洋側を航海するという危険もおかしました。当然、遭難する船もありました。能登屋の持船の北前船「長者丸」(650石積み、21反帆)は天保9年(1834)9月中旬、松前箱館で薩摩藩向昆布を五、六百石積込み、10月上旬出港しました。南部田之浜で艀テンマ を修理し、11月上旬に仙台唐丹湊トウニミナト(釜石)に着きます。そして、11月23日に同港を出帆するものの、朝4時頃大西風に吹き流されて遭難してしまいました。翌年4月、米国捕鯨船ジェームス・ローバ号に救助されるまで昆布を食べて飢えをしのぎましたが、3名が死亡していました。9月にローバ号がハワイに着き、そこからカムチャッカ・オホーツク・アラスカ・エトロフへと送られました。
 このような困難もありましたが、薩摩藩は清国との昆布交易で財政を立て直し、蓄財もなしました。そして、嘉永6年(1853)には、鹿児島にガス灯・ガラス・陶磁器・紡績・火薬・弾丸・小銃・大砲などの洋式の製造所(集成館)を建設しました。
 この「集成館」でつくった武器で、薩摩藩は倒幕へと至ったのです。昆布が日本の近代の扉を開く原動力となったのです。


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  3、敦賀

A)最初の昆布

 敦賀は古代から、畿内と日本海とを結ぶ交通の要所でした。文字の記録としては最古の昆布ロードが715年の蝦夷の酋長からの朝廷への昆布の貢献ですが、それには「先祖以来」となっており、それ以前から昆布が移入されていたと思われます。これは、阿部比羅夫の水軍による蝦夷平定を受けてのことです。
 しかも、この頃の蝦夷平定と言われるものは、蝦夷地のいくつかの浦を平定しただけのことです。
 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されたのが797年で、田村麻呂が蝦夷を平定して胆沢イザワ に城を築いたのが802年です。しかも、平定の地域は青森までに至っていません。北海道となると手付かずのままです。

 陸路ではこんな具合でしたが、海路では蝦夷地との交易が古くから行われていました。蝦夷地の昆布も、日本海沿岸の人には古くから知られていたと思われます。
 昆布が蝦夷地から海路南西へ運ばれていたとすれば、敦賀に入らないはずはありません。北陸一帯の沿岸は敦賀の湊を根拠にして交通がなされていて、敦賀からさらに西へ航路が伸び、大陸ともつながっていました。
 中国でも昆布の事が知られていたようです。紀元前219年、中国の斉セイの国の方士ホウシ (不老長寿の術士)である徐福ジョフクが秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の天台烏薬の根テンダイウヤクノネ という薬を求めて日本にやって来たという伝説があります。徐福が求めたこの薬は昆布だと言われています。『史記』によれば、徐福は仙人の住む三つの島(蓬莱ホウライ・方丈ホウジョウ ・瀛州エイシュウ )へ行って仙人から不老不死の薬をもらってくると始皇帝に上奏し、神に使える童男童女数千人を請い請け、東海へ船を出してそのまま行方をくらましたそうです。この徐福伝説の伝わっている所が、日本全国に20ヵ所もあります。
 中国では採れない昆布を、中国の人が欲しがっているところから広まった伝説でしょう。中国では水質が悪く、昆布のヨードが甲状腺の病によく効くのと、塩の販売が制限されていたので、昆布の塩分が必要とされたと言われています。
 中国が日本の昆布を求めるのは、中国で昆布の促成栽培が成功するまで続きました。

 阿部比羅夫の蝦夷地への水軍による進出と同じ頃、百済が唐と新羅に攻められて、白村江ハクスキノエの戦いで日本軍が唐の水軍に破れ、結局百済が滅亡するという事件が起きています。大勢の百済人が新たな渡来人として移住してきました。
 また、727年9月、出羽国デワノクニ の海岸に渤海ボッカイからの使節団24名を乗せた船が漂着し、蝦夷エミシ と呼ばれていた人々によって16人が殺害されました。生き残った8人は奈良の都に入ることが出来、以後926年に渤海が契丹キッタンによって滅亡させられるまで、渤海船が日本海沿岸の湊に入港し、敦賀にも受入れました。
 松原客館もつくられ、もてなしました。渤海国はウラジオストクの辺りも含んでいましたから、昆布も採れたはずですが、大虫(虎)・熊・豹の毛皮や人参・蜜などの献上品が記録されていて、昆布はみえません。記録に残っているのは公式な使節団の来着だけですから、非公式な船がどれくらいやって来たのかは分かりません。
 渤海からの貴重品を目当てに豪族や商人が湊に殺到したのでしょう。唐船も往来し、政府は王臣家が私的な貿易をすることを禁止しました。
 995年には、宋の商人が敦賀に来ています。その後、宋商人が度々敦賀に来着し、唐人町のような場所も形成されました。この宋商人たちは、昆布を求めたと思われます。

 12世紀後半の頃、「山陰・北陸から東北にいたる日本海沿海諸国は、海上交通を通じて古くから緊密に結ばれていたが、とくに若狭と越前には南宋の船もしばしば来着し、ここから琵琶湖を通じて京都へいたる高通路は、列島を横断する当時の幹線的な水上交通路であり、若狭と越前は北陸側の窓口であった。延暦寺と日吉ヒエ社は、この琵琶湖から北陸にいたる水上交通を担う廻船人を神人として組織し、越前の気比社、加賀の白山社の神人も傘下に収め、北陸に多くの荘園を獲得し、強力な力をこの地方に及ぼしていた。賀茂社(上賀茂社)、鴨社(下賀茂社)も日吉社と競合しつつ廻船人の掌握につとめているがこうした北陸の廻船人の活動は、北は津軽、西は山陰・九州にまで伸びていた。/その九州には、海上の交易に非常に積極的であった南宋の商船が、膨大な陶磁器などの貨物や銭を積んで頻々と来航していた。その動きは沖縄諸島にも及び、沖縄には中国大陸の青白磁がもたらされ、南九州との交流を通じて、‥‥」(網野善彦『日本社会の歴史』(中))というような状況でした。
 そして、「山門(延暦寺)は早くも10世紀に、海藻等の海産物を貢進する日本海の窓口としての浦を確保していた。」(『小浜市史』232頁)とあるように、山門と結びつきを強めていた気比社の敦賀も、山門にとって昆布を確保する地となっていたと思われます。昆布は京を中心として、寺院で特に利用された食材だったからです。
 狂言「昆布売り」(作者の玄恵は1350年に没)には、毎年京都の北野の祭りに若狭小浜の昆布売りが来て昆布を売り歩いたことが描かれています。この頃、京都と若狭湾を結ぶ道は敦賀からと小浜からの二つの道があり、一時的には小浜の方が繁盛する時もありました。それは、敦賀が戦火に巻き込まれて、湊が危険であったからです。交通の要所であることは政治的にも重要な土地であることを意味しており、政変の時期には戦乱に巻き込まれ、湊としての発展が何度も阻害されました。その点、小浜は一貫して平穏な町であり、敦賀の港が混乱するたびに、船が小浜に入るようになります。
 港として発展を続けるには政治的に安定していることが前提となりますが、敦賀は海路だけでなく陸路でも要所の地であり、どうしても戦火が及びました。
 
 鎌倉幕府が成立する前、敦賀は平家の知行国でした。そして、平家軍と木曽義仲軍との戦いが敦賀で行われ、敦賀は木曽義仲軍に占領(1182年)されます。さらに、承久の乱(1221年)の軍勢に荒らされ、文永の役(1274年)の頃には異国襲来に備えて越中の武士団が敦賀津の警備に派遣されて来ました(『富山市史』)。
 南北朝の政変の時には、気比弥三郎太夫氏治が三百騎の軍勢で新田義貞を敦賀に迎え入れ(1336年)、翌年にかけて足利尊氏軍と戦い、気比社も含めて敦賀の町は焼き払われました。
 その後、斯波義敏と甲斐常治の戦い(1458年)や応仁の乱(1467年)が起こり、織田信長軍の朝倉討伐のための進攻(1570年、気比社が兵火で焼ける)が続き(1573年、1575年)、関ヶ原の戦いで敦賀城主大谷吉継が戦死し(1600年)敦賀城が焼かれるまで、戦乱が続きました。
 このような戦火の間を縫って、敦賀の廻船業者は事業を継続・拡大してきたのです。

 天野久一郎『敦賀経済発達史』によれば、「蝦夷松前の昆布、鯡、鮭、鱒などの土産が敦賀商人の着目する処となり、応仁、文明の乱の頃には所謂松前貿易が既に開始され平山氏道川ドノカワ氏の先代など敦賀に於ける有力業者として頭角を現わすに至ったものである。/松前貿易開始以前の敦賀に於ける相物アイノモノ (四十物)の移入先は越中、越後沿岸地方から特に塩鱈、塩鯖等多くこの方面から入荷し、江州相物商人の手によって京畿に売り捌かれていたのであるが海運の発達に従って、津軽十三湊が繁昌を示し延いて敦賀との交易が益々盛んに行はるるようになった。」とされています。

 慶長五年の、南部信濃守利直より道川氏に与えられた諸役免許状があります(山口徹『日本近世商業史の研究』)。
「其方船我等領内何れの津へ罷越候共、役儀一切有間敷もの也
  慶長五年七月二日            利直(花押)
   道川三郎左衛門とのへ」
 これによって、既に1600年に、敦賀の道川氏の船が津軽海峡を通って南部藩の湊に入り、荷を運んでいたことが分かります。藩内のどこの湊へも自由に入れ、その上諸役(税)も免除するというのですから、厚い信頼のあった事が窺えます。何年も前からの付き合いなのでしょう。
 津軽海峡まで通過して廻船していたということは、北海道との交易の経験を十分に積んでいたことも分かります。
 道川氏は、元々は越前若狭の領域で塩・相物の買集めをしており、また、気比社の神人かそれに準ずる人でもあり、能登や佐渡ともつながりがあり、次第に持船を蝦夷地にまで進出させたのでしょう。そして、文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の朝鮮出兵に協力して船を出し、手柄をたてた事から、諸国海路の課役を免除される朱印を賜ったのです。それに、この時期には、秋田から伏見城用の板材を運漕しています。敦賀での住居は、茶町が出来るまでは茶町の西端辺りにあったと推定されます。

 この時期にはまだ、昆布は商品として位置づけられておらず、進物品として僅かな量が入って来ただけのようです。しかも、昆布は京の都で貴族が茶の湯の際に食べたりする以外は、一般的な商品ではなく、やはり神饌として扱われていました。
 気比社の神官平松家に朝倉義景が陣中見舞の礼状を送っています。
「就任陣之儀、蒲穂子竝昆布一折祝着之至候、委細幸乗坊可申候、上々謹言
 十月二十二日               義景 黒印」
 陣中見舞として、蒲鉾と昆布を進物したのでした。
 他にも、松前城主が敦賀船問屋川舟兵太郎に宛てた書状があります。
「尚々任見来、昆布拾駄、御音信計に候、船御下り候に付て大鉄砲送給候。萬々畏入候。(以下略)
 八月十九日            松前志摩守慶廣(花押)
 越後屋兵太郎殿」
 このように、産地からも昆布を進物として礼状に添えて送って来ています。越後屋兵太郎は、道川兵三郎(三郎左衛門)の兄だといわれ、この書状の時期は先の南部利直のものと同じ頃です。

 江戸時代に入り、西廻り航路が開発されるようになると、昆布の移送量が増加し、大坂で昆布が扱われるようになり、昆布が商品として出回ります。


B)コンブロードの中核地

 先に述べたように、松前の昆布取引は場所請負人によって独占されていました。この場所請負人が自らの手船で荷を運ぶのと、北前船商人が荷を運ぶのとの、二つの形態がありました。先ずは、場所請負人手船について見てみましょう(中西聡「場所請負商人と北前船」、『商人と流通』山川出版社)。
「柏屋は近江国愛知エチ郡下枝村の出身で、寛政11年(1799)に福山に出店を設けて蝦夷地産物の取引を始め、文化3年(1806)に余市場所を請負ったのを初めに、文化・文政期(1804〜30) につぎつぎと奥蝦夷地各場所を請負い、天保期(1830〜44) には最大の運上金を納める場所請人に成長した。柏屋は近江に本家を構えていたが、両浜組を形成した八幡町・柳川・薩摩村とは出身地が異なるため、北海道への進出も両浜組商人より遅く両浜組に参加しなかった。
 柏屋が手船経営を始めた時期は不明だが、弘化四年(1847)には17隻の手船を所有して」いた。

  弘化4年柏屋手船運航状況。★は太平洋航路、〔〕は請負場所
住吉丸(敦賀で建造)福山→大坂→福山→兵庫→敦賀→福山→〔国          後〕→福山→兵庫
三宝丸(敦賀で建造)大坂→箱館→大坂→福山→〔利尻〕→福山→          〔国後〕
常昌丸(大坂で建造)大坂→敦賀→福山→〔国後〕→福山→小樽内          →福山→忍路→福山→兵庫
二見丸(敦賀で建造)〔国後〕★江戸→大坂→敦賀→福山→〔国後〕          →福山→〔宗谷〕→福山→兵庫
 これで分かるように、敦賀では造船業も盛んであったようです。
 両浜組の住吉屋の場合、西蝦夷にしか請負場所がなかった。「敦賀が主要寄港地であったことは柏屋と同様で、近江出身の場所請負商人にとって、旧来の取引上のつながりや本店との距離の近さからみて、敦賀を運航上の拠点とすることは有利だったのであろう。」
  住吉屋手船運航状況
金袋丸(天保14年)大坂→敦賀→福山→〔忍路〕→福山→下関
 同 (万延元年)大坂→福山→〔高島〕→福山→敦賀→兵庫→大         坂
 同 (明治3年)大阪→敦賀→福山→〔高島〕→福山→上方
「柏屋手船は主に大坂・兵庫・下関で塩を積み入れ、敦賀で筵・縄を積み入れて蝦夷地へ運び、蝦夷地の漁獲物を大坂・兵庫へ運んでいたとまとめることができよう。」(198頁)

 このような寄港地が固定している場所請負商人の手船と比べると、北前船商人の船は寄港地が多くて変動しており、取扱い商品の種類も多様でした。
 敦賀への着船数を10年毎に一年間平均すると次のようになります。
   慶安1(1648)〜明暦3(1657)  1、344
   万治1(1658)〜寛文7(1667) 1、692
   寛文8(1668)〜延宝5(1677)  1、868
   延宝6(1678)〜貞享4(1687)  1、251
   元禄1(1688)〜元禄10(1697)    890
   元禄11(1698)〜宝永4(1707)    874
   宝永5(1708)〜享保2(1717)    787
   享保3(1718)〜享保12(1727)    668(『敦賀市史』)
 これを見ると、西廻り航路となって敦賀への寄港が急激に減少しているのが分かります。これは主に、米を積んだ船でした。

 『遠眼鏡』(1682年)によれば、松前物問屋として、岐阜屋六兵衛・越後屋市右衛門・網屋傳兵衛の名前があります。そして、昆布屋として、濱嶋寺の市兵衛・太郎兵衛・喜兵衛とあり、昆布屋が濱嶋寺に集まっているのが分かります。
 濱嶋寺町の位置は、蓬莱と大島の間辺りになります。『敦賀志』の濱嶋寺町の項に「上嶋寺町の下の浜に建し故の町名なり、支町狐ケ辻子・土器カワラケケ辻子・鵜殿辻子あり」と書かれていて、寺院の多い町で、その中で浄蓮寺の寺地は稲荷明神の社地跡で、当寺はもと樫曲村にあり、その後洲崎に移り、寛文末にこの地に移ったとされます。稲荷社の跡なので狐が出たそうです。
 寺院の多い所に昆布屋があるのは、昆布が主に寺院で使用されたからでしょうか? カワラケという地名が気になりますが、その由来は不明です。

 安政4年(1854)3月、箱館が開港されて箱館奉行が置かれ、蝦夷地産物は各地の物産会所で統括することになりました。江戸・大坂・兵庫・堺に続き、敦賀にも出張会所が1862年(文久2)に設置されました。文久元年敦賀入津蝦夷地産物箇(本)数は次の通りです(『敦賀市史』)。
    鯡    37、073箇
   白 子   16、553本
   〆 粕    2、744本
   身 欠    4、275本
   撰数子      997本
   棒 鱈      321箇
   元揃昆布   1、028箇
   平昆布    7、818箇
 元揃昆布の1箇は20貫、平昆布の1箇は15貫です。500トン以上の昆布が敦賀に入って来ていたことが分かります。明治3年の日本の昆布総生産が5千トンなので、総生産量の一割以上が敦賀に集まったのです。そして、その昆布は主に、京都方面に送られました。


C)昆布加工の町

 敦賀に於ける昆布加工のはじまりは、諸文献ともほぼ同じです。
 『敦賀市史』・「敦賀における細工昆布は、宝暦年間(1751〜64)に、米屋善兵衛によって初めて製造されたと伝えられている。文政七年(1824)この敦賀の細工昆布が小浜藩御用となり、これによって、同年九月に細工昆布仲間の免許があり、同年十月には看板を掲げ営業を始めた。さらにこのころより、福井および越前各藩から、各城下における御口銭免除の得点が与えられた。また、加賀・越中・美濃・尾張・伊勢・近江・山城・若狭など八か国三〇余の城下、ならびに、江戸に支店を設けるなどして、販路を拡張していった。細工昆布の名声が上がるに従い、細工昆布仲間以外にもこれを製造する者が現われたので、文政十三年三月二十九日には、敦賀町奉行からその製造停止の触が流された。しかし、それでもなおやまず、天保二年(1831)二月に、丸屋六兵衛・水口弥五郎・米屋善兵衛・椀屋太兵衛・目薬屋治郎兵衛などの細工昆布仲間が、井川浪人千田半右衛門などの違法な製造に対し、その差し止めを役所に願い出ている。弘化二年(1845)細工昆布仲間から、細工昆布の献上を小浜藩に出願して許され、米屋善兵衛が翌年一月から毎年献上するようになった。/細工昆布の一種と考えられる刻み昆布は、宝暦年間(1751〜64)、遅くとも明和年間(1764〜72)のころには作り始められたようである。それから三十年ほどのち、伊藤半右衛門が長崎から伝習してきた製法によって、刻み昆布を改良して生産した。これにより、刻み昆布の業者や生産量は次第に増加していった。」

 『敦賀市通史』では米屋善兵衛が高木善兵衛となっていますが、内容は同じです(248頁)。
 宮下章『海藻』でも、高木善兵衛が宝暦年間に細工昆布の製造を始めたとされています。
 『大阪昆布の八十年』には、「小浜と敦賀では寛政三年(1791)ごろ長崎から製造を伝承し、」とあります。また、同書には、昭和24、5年ごろから堺の職人が敦賀へ移動して行った、とあります。

 敦賀の細工昆布のはじまりが諸書で一致しているのは、元になっている資料が同じで、一つしかないからでしょう。その古文書は次のものです。
「乍恐口上書ヲ以奉願上候
一御免御用細工昆布屋仲間之儀ハ、去ル文政七甲申八月従御上様細工昆布御用□仰付難有、早速奉調達候所、追々御用□□□□誠ニ冥加身ニ余り難有仕合と奉恐入候、□□□□御奉行様江願書ヲ以細工昆布屋□□□□儀願出候処御聞済被為有、同九月四日ニ奉蒙御免許、同十月五日ニ屋根看板御免被為下置候、尚此上諸国江広ク売捌敦賀産物ニ可相成様被為仰付候、夫より仲間一統相励、広ク売捌渡世仕候折から、所々ニ昆布細工仕候者有之ニ付、差留候得共聞入不申ニ付、無処 御上様江御苦労ヲ奉備恐入候、文政十三庚寅三月二十九日ニ町内一統御触流被下置難有仕合ニ奉存候、其後も所々ニ細工昆布□□□□候者も有之候得共、吟味仕差留申候所、此節一向猥□ニ相成所々ニ細工昆布内職ニ手広ク仕候故、度々差留申処、井川之浪人千田半左衛門と申仁、是悲共内職細工昆布仕差留聞入不申故歟、外々ニも細工昆布内職仕、仲間之差支に相成、甚以因り入申候、然ハ先達而従御上様之厚キ御慈悲ニテ細工昆布屋仲間御免許被為仰付被下置候規矩相立不申、打捨置候而ハ、御上様江奉恐入候事歎ケハ敷奉存候、何卒御憐愍之御慈悲ヲ以町中一統細工昆布職仲間之外不成之趣□□□□出被下置候ハヽ難有仕合ニ可奉存候、
右之趣被為聞召分、御憐愍之御慈悲ヲ以、願之通被為仰付被下置候ハヽ、難有仕合ニ可奉存候、
   天保二乙巳年        丸屋六兵衛
       十一月       水口弥五郎
                 米屋善兵衛
                 椀屋太兵衛
                 目薬屋治郎兵衛
 御奉行所様」

 この他には、寛政2年(1790)中山次郎左衛門が福井役所へ赴く際に、勝手吟味役に扇子箱とともに刻み昆布一袋を贈るとか、寛政13年(1801)中山弥七郎が初御目見えのため越前府中へ向かう節に、下役人の勘定元締や道中筋の知人などに刻み昆布を進物として贈るというものがあり、刻み昆布が敦賀の名産品になっていたことが分かります。

 社団法人日本昆布協会10周年記念誌『昆布』の福井の項には次のように書かれています。
「豊富に入荷して来る昆布を原料とする加工業が、早くから行われていたのも当然であろう。既に江戸時代末期には、長崎から刻み昆布の製法が伝えられ、敦賀でも製造されていたというが、何といっても京都と古くから往来のみられた敦賀は、早くから諸事、京風、雅(みやび)風が色濃く影響を受けているため、京都の茶道、料理などに喜ばれる菓子昆布、りゅうひ昆布といろいろな昆布加工法が工夫され、独特の製品が創案されて来た。/昭和34〜38年ごろには、ドイツ製の優秀な染料が輸入され、敦賀の特産である青染・青板、青刻み昆布などが生産され、大変な隆盛であった。」

 敦賀の奇祭「牛腸祭」の献立に昆布があったかどうかを見てみましょう。
 嘉永4年(1851)の牛腸番当家諸事帳の献立の中に、「水引こんふ」の名が見えます。そして、御菓子の欄に「昆布二枚敷て」と書いてあります。昆布が使われていたのが分かります。

 明治33年(1900)に、敦賀の昆布卸売18軒、小売11軒と記録にあります。大阪の例ですが、明治・大正・昭和の昆布屋の生活実態を描いた小説に、山崎豊子『暖簾』があります。

 昭和8年に敦賀昆布商業組合が結成され、昭和17年に福井県昆布工業組合に名称変更し、昭和19年には福井県昆布工業統制組合となりました。そして、昭和24年に福井県昆布商工業協同組合が設立されます。
 この頃から、昆布加工全国一の町を誇っていた堺の業界が税金攻勢をうけて凋落し、この年に40数軒の業者が一度に廃業することもあり、職人の多くが敦賀に移動してきました。昭和34年には敦賀の加工業者は82軒、機械とろろ業者4軒、昆布従事者580名となり、年間生産高は50万貫(2千トン)でした。昭和38年9月には、敦賀若海会が設立されました。


 参考文献
『敦賀市史』通史編・資料編
『敦賀市通史』
天野久一郎『敦賀経済発達史』
『小浜市史』通史編
網野善彦『日本社会の歴史』(中)
『箱館市史』
『富山市史』
社団法人日本昆布協会十周年記念誌『昆布』
大阪昆布商工同業会『大阪昆布の八〇年』
大石圭一編『海藻の科学』
宮下章『海藻』
高鋭一編『日本製品圖説』
大林雄也『大日本産業事蹟』
塩照夫『昆布を運んだ北前船』
山口徹『日本近世商業史の研究』
吉田伸之・高村直助編『商人と流通』
読売新聞北陸支社編『日本海こんぶロード北前船』
他。


 手かき昆布加工の現状(敦賀高校 高橋守論文抜粋)

 全国生産の85%を占めている。
 手かきおぼろの工程
下ごしらえ
1、つけ前
2、手のし
3、巻き舞い 巻き前
4、耳裁ち   「みみ」→とろろ
5、砂掃き 掃き前
削り作業
1、上皮さらえ  「さらえ」
2、むきこみ 中むき  「黒おぼろ」・「むきこみ」
3、太白  「太白おぼろ」・「白おぼろ」
4、芯  「白板こんぶ」・「下地」・「霧地」・「雪地」
とろろ
 「みみ」や「くず」は集められてプレスされ、機械で削られて「とろろ昆布」となる。手かきとろろは効率が悪いためほとんど生産されていない。

 1990年聞き取り調査
海産物     78軒
うち昆布関係  69
問屋       8
加工業者    52
未回答      9

 創業年別事業所(加工業)
大正 1、昭和1〜10 5、11〜20 4、21〜30 18、31〜40 12、
 加工職人数
男  84人
女  41
計 125    (パートも含めて400人前後)


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