とうふあれこれ その
 
 豆腐は冬の食べ物だった?
鎌倉時代まで、豆腐はおもに僧侶の食べ物だったと言われています。
庶民の間で、食べられるようになったのは、室町時代に入ってからのことでした。
この時代になると、農耕技術が発達し各地を結ぶ交通も盛んになって、日本人の食
生活が大きく変わり始めました。
初めて京都に豆腐売りが現れたのも、この頃だとものの本に記されています。
只、現在のように店を構え、そこで造って売っていたわけではないようです。
大峯辻子(おおみねつじこ)と呼ばれる売り子が、奈良の豆腐を運んで京の路上で売っていたそうです。
古い本の挿絵では、低い台の上に正方形に近い薄めの豆腐を並べ、この大峯辻子が「とうふ めせー 奈良より登りてそうろう」と呼びかけながら
売っている様子が描かれています。
当時は京都より奈良が、豆腐の本場でした。
それにしても京都と奈良の間は30キロもあり、夏など運んでくる間に、豆腐が傷んだりしなかったのだろうかという疑問が湧きます。
実は当時、豆腐は冬の食べ物だったらしく、昔の人の日記でも豆腐が出てくるのは、冬が多いようです。。
また室町時代に作られた「七十一番 職人歌合わせ」の中には

「ふる里は壁のたとへに奈良豆腐 白きは月のそむかざりけり」
という歌があります。豆腐はその色から「白壁」あるいは「壁」と言われました。
「白きは月の」も、やはり豆腐の白さにかけているのですが、月が白く冴えるのは冬で、ここでも豆腐は冬に結びつくのではないでしょうか。


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