現代ステリー小説の読後評2009〜2010

※タイトル横に【ネタバレ注意】の表記がある作品はその旨ご注意を

2009年購入作品の感想

『ゴールデンスランバー(伊坂幸太郎/新潮社)★★★

 「このミステリーがすごい!」2009年版(2008年作品)1位、2008年本屋大賞1位 、第21回山本周五郎賞受賞作品。さらに第139回直木賞候補にもなりながら「執筆に専念したい」という理由でノミネートを辞退したという、いわく付きの作品。久しぶりの宿泊人間ドックのお供に、何かいい本がないか考えたときに真っ先に浮かんだ本がこれ。これだけ話題になった本を文庫 化するまで待っていられないと思い、ドック出発前に書店に平積みされたハードカバー本を購入。「伊坂幸太郎作品の集大成!」と絶賛する声が大多数の中、「そこまでの作品ではないだろう」というネット上の一部のコメントが気になっていたのと、2004年に読んだデビュー作「オーデュポンの祈り」、そして昨年読んだ「アヒルと鴨のコインロッカー」に対し、実際自分は微妙な感想を持っていたので少々心配もあったのだが、今回この作品を読んでみて正直驚いた。突っ込みどころ満載だった「アヒル〜」と比較すると全くというほど突っ込む隙がなく、「アヒル〜」の最大の魅力である甘く切ないエッセンスはそのままに、ミステリーのスケールは国家レベルにまで大きくふくらんでおり、「アヒル〜」では読者に中途半端にしか与えられなかった感のある感動が、今回は次から次へと押し寄せてくる(特に終盤)といった具合だ。自分の好きな小説ベスト5にいきなりランクインしたと断言できる。すでに5作品が映画化(予定含む)されている伊坂作品だが、本作品も間違いなく映画化されるだろう。前述の「そこまでの作品ではないだろう」というネット上のコメントは、本作品登場以前まで伊坂作品の中で 高い人気をほこっている「重力ピエロ」を意識したものかもしれないと考え、比較する意味でも早速購入してしまった。「オーデュポン〜」を読んだときに、「重力〜」が文庫化されたらすぐ買おうと言っておきながら、2006年に文庫化されているにもかかわらず未だに手を付けていなかったことを大いに反省する。紹介が遅くなってしまったが、物語のあらましは、数年前にアイドルを暴行犯の魔の手から救って一躍ヒーローになった宅配便のドライバー・青柳雅春が、国家レベルの陰謀で首相暗殺の濡れ衣を着せられ、容赦のない警察の追跡から必死で逃げ回るというものである。所々で過去のシーンに飛び、主人公は楽しかった学生時代を回想する。そして、その過去のシーンに登場する人物達も、現在の青柳の動向に注目しつつ、彼を何とか助けようと手を差し伸べようと、彼の知らないところで努力するのだ。青柳は仲間の助けを借りて無事逃げ切れるのか、見えざる権力によって闇に葬られてしまうのか、最後まではらはらどきどきの連続である。これはもう文句なしの傑作、誰にでも勧められる必読の1冊である。

 

2009年購入作品の感想

『重力ピエロ(伊坂幸太郎/新潮社)★★

 「このミステリーがすごい!」2004年版(2003年作品)3位、直木賞候補作品。「ゴールデンスランバー」(08年)以前の人気の高い伊坂作品ということで、「ゴールデン〜」と比較すべく文庫本を購入した。ネットなどで調べてみると、伊坂作品の中で一番好きだという人も少なくないようなのだが、結論から言うと、個人的には「ゴールデン〜」はもちろん、「アヒルと鴨のコインロッカー」(04年)にも及ばないと思う。やはり伊坂作品は新しい作品ほど洗練されレベルが上がっていると感じる。「ゴールデン〜」09年1位、「アヒル〜」05年2位、「重力ピエロ」04年3位という「このミス」での順位も妥当と思われる。主人公の泉水と、その二つ下の弟・春の兄弟には、父親が異なるという辛い過去がある。そして、発生する連続放火事件と、その現場近くに残されている謎のグラフィティアート。さらに、その放火現場と落書きの現場には遺伝子のルールとの奇妙なリンクがあることに泉水が気付いて…。といった物語なのだが、まず、この作品に重い影を残す春の生い立ちに、読者は眉をひそめずにはいられない。その内容よりも、いかに残酷であろうと、ありえない展開であろうと、とにかくインパクトのある設定を突きつけて読者を引きつけようという意図が見え隠れするところに若干の不快感を抱いてしまうのは私だけだろうか。そして肝心なミステリー部分であるが、放火・落書き現場と、遺伝子のルールのリンクについては、裏表紙のあらすじを読むまでもなく誰でも気がつくものであるし、兄弟それぞれがこれからやろうとしていることや春の父親の正体などについても、読者はすぐに見当をつけてしまうだろう。物語終盤の、事件の犯人に対する登場人物達の中途半端な対応に対しても微妙な感想を持つ。「謎解きに乗り出した兄が遂に直面する圧倒的な真実とは−。溢れくる未知の感動、小説の奇跡が今ここに。」という裏表紙のコメントは明らかに言い過ぎ。決して面白くない作品とは言わないが、「ゴールデン〜」を読んでしまった人(特に同等の感動を期待する人)には正直なところ積極的に勧められない。

『ナイチンゲールの沈黙(上)(下)』(海堂尊/宝島社)★★

 あの『チーム・バチスタの栄光』の続編である。宝島社は公正を期すため自社の作品は「このミス」にノミネートせず、その結果ランキングにも登場しない。しかし、『バチスタ』の面白さを知ってしまったら、とりあえず次回作に期待して買ってしまうのは当然であろう。といっても2008年秋に文庫化されていたのに、年明けになってやっと購入し2月末にやっと読み終えた。
 舞台は、前作同様、東城大学医学部付属病院。その忘年会の隠し芸大会で小児病棟の看護師・浜田小夜がアベマリアの独唱で優勝するところから物語は始まる。その帰り道、小夜と同僚の如月翔子は、謎の男・城崎に誘われ、幻の歌手・水落冴子のライブ会場を訪れ、小夜は冴子と同じステージに上がらされ歌わされる羽目に。そして、その場で倒れた冴子は、東城大学医学部付属病院の救急に運び込まれ一命をとりとめる。まず、この最初の展開が強引すぎて少々顔をしかめてしまった読者は多いのではないか。なぜ、城崎は小夜に声をかけたのか、なぜ、小夜たちは彼に簡単について行くのか、なぜ、ライブの一観客がステージに上がらされてしかも歌わされるのか。一応、作品中で理由は語られてはいるが、あまりに展開が不自然すぎる気がする。そして、次の気になる点は、肝心の事件がなかなか発生しないこと。小夜の勤務する小児科には、眼球摘出が必要なレティノブラストーマという病気を持つ14歳の牧村瑞人と5歳の佐々木アツシが入院しているが、物語の最初ではこの二人には真実が告げられておらず、失業し酒におぼれた瑞人の父は息子の手術をなかなか承諾しないため病院側は焦っている。そんな状況の中で、我らが主人公・不定愁訴外来担当・田口公平に、二人のカウンセリング相手として白羽の矢が立つ、という感じで物語は進んでいくのだが、殺人事件が発生するのは上巻の終盤である。これは、少々引っ張りすぎではないか。しかも、引っ張った割に事件のスケールが前作に比べ余りに小さすぎるのだ。そして、3点目の気になる点はその事件後の展開である。ミステリー小説における殺人事件解明の楽しみ方のパターンは、大まかに分けて2通りあると思うのだが、1つは犯人が読者に分からず、読者が物語中の探偵役とともに犯人を推理して楽しむというもの、もう1つは犯人が読者に分かっていて、その犯人が探偵役の推理によって追いつめられていく様を楽しむものであろう。ところが本作は、著者が意図したものなのかどうか分からないが、そのあたりがきわめて曖昧なのである。詳しく書くとネタバレになってしまうので、これ以上は触れないが、読者は裏の裏を読んで、あの伏線から考えて真犯人はあの人ではないかと目星をつけたりすると思うのだが、期待は見事に悪い方向に裏切られる。結局最後までサプライズらしいサプライズもなく物語は終わってしまい、大きな期待を持って読み始めた読者は相当な欲求不満になるのではなかろうか。前作でおなじみ、探偵役の厚生労働省の変人役人・白鳥と、警察庁の加納が行うコンピュータを使ったSFチックな現場分析描写が一部読者からの批判を浴びたようだが、それも含めて上記のようなもどかしい点のある作品である。この2作目をとばして、3作目の『ジェネラル・ルージュの凱旋』が映画化されたのもうなずける話だ。批判的なことばかり書いたが、決して悪い作品ではないことは一応断っておく。特に、前作を読んで、もっと田口・白鳥ワールドに浸りたいという人には十分勧められる。ただ、やはり前作が偉大すぎたということだろう。


『ジェネラル・ルージュの凱旋(上)(下)』(海堂尊/宝島社)★★★

 前作『ナイチンゲールの沈黙』では、ずいぶん厳しいことを書いてしまったが、本書を読むとなぜか全て許せてしまう。なんと、本書は前作と同じ東城大学医学部付属病院を舞台に、同じ時間軸で並行して語られる物語なのである。前作は本作のエピローグ的作品だったのだ。両作品で起こる2つの事件は直接には関係しないが、様々な場面で両作品はリンクしていて、両方を読み比べると色々と楽しめ、それだけで前作の存在価値がある。さらに驚くことに、前作の感想で「引っ張った割に事件のスケールが前作に比べ余りに小さすぎる」と書いたが、なんと本作では、前作のような殺人事件1つ発生しない。それでも前作以上に物語に引き込まれるのだから恐れ入る。
 物語は、「ジェネラル・ルージュ」の異名を持つ救命救急センターの速水部長が収賄に関わっているという告発文書が、リスクマネジメント委員会委員長の田口のもとに届くところから始まる。同委員会が扱う案件ではないと判断した田口は、院長と相談ののち、悪名高きエシックスこと倫理問題審査委員会の委員長・沼田のもとへ向かうが、結局調査は田口がやる羽目に…。速水は本当に収賄に手を染めていたのか?告発したのは誰か?速水を追い込む沼田から田口は速水を守ることができるのか?下巻では、速水を被告とした会議のシーンばかり描かれているが、実はそこがこの作品の見せ場。シリーズの要である白鳥も、今ひとつ存在感がないながら、もちろん登場するし、白鳥が病院に送り込んだ謎の新人看護士・姫宮も次回作の伏線として登場。病院内で繰り広げられる多数の看護師達の人間模様も見逃せない。本作には、前作同様、本当に魅力的な看護師が多数登場するのだが、なぜか今ひとつ彼女たちのビュジュアル的なイメージがわかない。そのあたりがもっとイメージしやすいと、さらに楽しく本書を読めると思うのだが。そこを各自想像をふくらませていくのが読書の楽しみというやつなのだと思うが、どうもその辺の読者へのフォローが足りない気がするのは気のせいだろうか。自分の読み取り能力および想像力の不足だと言われそうだが…。
 とにかく、本書は殺人事件がなくてもミステリー小説は成立するのだということを証明してくれた作品である。

 

2009年購入作品の感想

『赤朽葉家の伝説(桜庭一樹/東京創元社)★★★

 「このミステリーがすごい!」2008年版(2007年作品)2位となった作品。たまたま立ち寄った図書館で見つけ、その鮮やかなデザインのカバーにも惹かれて借りたもので購入したものではない。同年度1位に輝いた「警官の血」(佐々木譲)とわずか1点差だったこともあり、相当の期待感を持って読み始めたが、結論から言えば予想以上に素晴らしい作品であった。前述した「警官の血」は、昭和の時代から三代にわたって警官となった男達の物語であったが、偶然にも本作品は、同じ時代に三代にわたって鳥取の山奥にある旧家を支えた女達の物語である。三代記ということで、章立ても「最後の神話の時代−赤朽葉万葉」「巨と虚の時代−赤朽葉毛毬」「殺人者−赤朽葉瞳子」という三部編成になっている。
 どんな名作でも書き出しは結構退屈なものも珍しくないのだが、本作品は「最後の神話の時代」の冒頭部分からいきなりその独特の世界観に引き込まれる。戦後の日本が舞台であるにもかかわらず、サブタイトル通り、まさにそこには神話の世界があった。「山の人」によって製鉄を生業とする山緑村に置き去りにされ、村の若い夫婦に育てられた千里眼の能力を持つ不思議な女の子・万葉は、ある日ふとしたことがきっかけで赤朽葉家の大奥様に気に入られ、ついにその旧家に嫁入りすることになるのだが、万葉から話を聞いた孫の瞳子の視点から語られる数々の神秘的な物語に浸っていると、現代においては胡散臭くしか思われない千里眼という力の存在にもまったく違和感を感じない。万葉と、その友人・みどりが山奥に三日三晩かけて踏み入って、ある場所を見つけた幻想的な場面は特に印象的である。本作品で最も魅力的なのは、この第一章であるといっても過言ではない。
 その余韻を大きく引きずっているためか、第二章での、レディースの総長から人気漫画家へ転身する万葉の娘・毛毬の荒唐無稽な物語も意外とすんなり受け入れられてしまうから不思議である。
 波瀾万丈の人生を送った二人と比較すると、明らかに平凡な人生を送っているのが万葉の孫・瞳子である。その人生になんの物語もない自分を卑下している彼女であったが、万葉の死に立ち会い、万葉が残した一言に衝撃を受けた彼女は、真実を知るために過去を調べ始める。ここだけ急に現代ミステリー調になるのが少し気になるが、現代人の典型とも言える瞳子の悩める姿に共感する読者は少なくないはずだ。多くの物質・情報に囲まれ豊かで多忙な人生を送る現代人は幸福で、現代人の目から見ると退屈でつまらない、日々変化のない平凡で慎ましい人生を送っていた昔の人は幸福とは言えないという考えは誤りであることに多くの現代人は気づき始めている。偉大な母と祖母を持った瞳子は、人並み以上に現代人に欠落しているものを感じ、悩み苦しむ。そんな自分にできることを探し求めていた時に万葉の遺言を聞き、行動を起こした瞳子は果たして真実にたどり着けるのか…。第三章に入って、物語の雰囲気がかなり変わってしまったことに不安を抱く読者もいるかもしれないが、結末は十分に満足できるものなので、心配せずに最後まで読み切っていただきたい。
 ばあちゃん子の自分には、年老いた万葉の一挙一動がツボに入りまくりだったということもあるが、自分の中で相当上位にランクされたオススメの1冊である。

 

2009年購入作品の感想

『禁断のパンダ(拓未司/宝島社)★★

 2007年に行われた第6回「このミステリーがすごい!大賞」の大賞受賞作品で、2008年1月に出版された。未だ文庫化されないので図書館で借りることにしたのだが、このミス大賞の大賞受賞作を読むのは、第4回の『チーム・バチスタの栄光』、第5回の『ブレイクスルー・トライアル』に続いて、これで3作品目。前の2作は十分に楽しませてくれたので今回も大いに期待して読み始めた。
 まずは簡単に物語の紹介から。冒頭に登場する関西弁を操る怪しげな司祭(というか舞台が神戸ということもあり、全編にわたって登場人物のほとんどが関西弁で話すのだが、関西圏の読者には親しみがわくであろうものの、そうでない読者には少々抵抗感を抱く人もいるかもしれない)と二人の信徒。これから起こるであろう犯罪に彼らが関係していることを臭わせる。そして場面は結婚式のシーンへ。小さなフレンチレストランを営む料理人の柴山幸太は、妊婦である妻に頼まれて、妻の友人・美佐と木下貴史の結婚式に参列することになる。幸太が知らない人物の結婚式への参列を快諾したのは、その披露宴の会場が、新店でありながらレストランのガイドブックで最大級の賛辞を送られていたフレンチレストラン「キュイジーヌ・ド・デュウ」だったからであった。そこで、そのレストランのオーナーであり、新郎の祖父である元料理評論家の中島と知り合い、彼の鋭敏な味覚に驚かされる幸太であったが、その翌日、神戸ポートタワーで貴史の父・貴明が営む通関手続き代行会社・木下運輸の事業部長・松野が死体で発見される。兵庫県警捜査第一課の青山は、事件と同時に失踪した貴明の犯行ではないかと疑いつつ捜査を進めていく過程で、神港物産という木下運輸の取引先が事件に関係していそうな事実をつかむ。やがて捜査に行き詰まる青山だが、幸太との出会いによって事件は急展開を迎える…といったストーリーである。
 「禁断のパンダ」というタイトルと、皿に盛られたパンダを描いた表紙、そして事件のキーワードとして「料理」「通関手続き」とくれば、「食材としてのパンダの肉の密輸がからんだ事件」という推理が簡単に成り立ち、実際にその通りだったら読者ががっかりしてしまうこと間違いなしなのだが、先に断っておけばその心配は無用である。これ以上書くとネタバレになってしまうのでやめておくが、物語の核心は「密輸」とは別のところにあり、「パンダ」は「パンダ」で物語の中で重要な役割を果たしていることは記しておこう。
 数ある書評を読むと、そのほとんどが美食に関する表現に集中している。確かに、この作品の売りの一つは「美味しんぼ」顔負けの美食シーンに他ならず、帯に書かれた「★★★の美食ミステリー」は実に言い得て妙なキャッチコピーであるのだが、「それ以外の展開は平凡」という多くの批評には賛成しかねる。随所に散りばめられた伏線が、あとで次々につながっていく様は、言い古された表現であるが「まさにパズルのピースがはまっていくよう」である。これが最後の最後まで続くのだから、まったく退屈しない。「主人公は幸太なのか、青山なのかはっきりしない」という意見もよく見られたが、個人的にはそのあたりが特に読んでいて気になることはなかった。あえて気になった部分を挙げれば、刑事・青山の人物設定か。作品の後半、幸太の目線で「おしゃれな髪型をした仕事の出来そうなスマートな若いサラリーマン」といった表現がされているが、そこまで物語を読んでいた読者には、そういうイメージはまったくないのではないか。もっと古典的な刑事像をイメージして読んでいるような気がするのだがいかがだろうか。確かに捜査の展開には、もう少し深みもほしいと思えないことはないが、現代のミステリー作品として十分に楽しめることは間違いない。シリーズ化も期待して良いのではないだろうか。

『ジョーカー・ゲーム(柳広司/角川書店)★

 「このミステリーがすごい!」2009年版(2008年作品)で、1位の「ゴールデン・スランバー」に差はつけられたものの2位にランクインした作品。昭和13年に諜報や防諜、宣伝など、秘密戦に関する教育や訓練を目的として開設された陸軍中野学校がモデルと思われる「D機関」にまつわる5編の物語が収められている。

 第1話は、本作のタイトルにもなっている「ジョーカー・ゲーム」。「魔王」と呼ばれる結城中佐がスパイ学校として「D機関」を開設するにあたり、陸軍上層部が出した条件は、参謀本部からの出向者を受け入れることであった。そしてその役を任されたのが、本編の主人公・佐久間中尉である。「D機関」を快く思っていない参謀本部の武藤大佐は、アメリカ人技師ジョン・ゴードンにスパイ容疑をかけ、「D機関」に証拠を押さえるよう命じたが、そこには「D機関」つぶしの罠が仕掛けられていた。憲兵隊を装った「D機関」のメンバーと共に、偽隊長としてゴードンの自宅に踏み込んだ佐久間の運命は…という展開である。戦時中に日本軍人でありながら全く他の軍人とは異なる思想を持った「D機関」のメンバーは、既成概念に縛られた我々の目には非常に新鮮に映る。そして、その頂点に立つ結城が、作中で最も魅力的な人物として描かれているわけだが、欲を言えば「魔王」と呼ばれるにふさわしい不気味さ、強烈なインパクトがもっとあっても良かったのではないか。淡々と読み切れてしまうところが心地よいという人もいるとは思うが、物足りないと感じる人も少なからずいるように思われる。

 第2話「幽霊」では、洋服屋の店員として英国総領事公邸に出入りする「D機関」のメンバー蒲生次郎の活躍を描く。蒲生の目的は、総領事グラハムが要人暗殺計画に関わっているどうかを調査することであり、彼はグラハムの好きなチェスの相手として頻繁に公邸に通う環境を作り上げた。その調査は行き詰まりを見せたが、結城のアドバイスにより思わぬ展開に…という物語である。この物語も淡々と進んでいき、蒲生の様々な策によって最後にスマートな結末を迎える。このあたりが「最高にスタイリッシュなスパイ・ミステリー」と評される所以であろうが、やはり若干の物足りなさを感じてしまうのは自分だけだろうか。

 第3話「ロビンソン」では、ロンドンで写真屋を営む「D機関」のメンバー伊沢和男が、英国の諜報機関に囚われの身となるところから物語が始まる。自白剤を打たれる寸前に彼が思い出したのは、日本を発つ直前に結城が餞別として渡してくれた1冊の本「ロビンソン・クルーソーの生涯と不思議な驚くべき冒険」であった。そこに一体どんな意味があるのか。果たして伊沢は無事に脱出することができるのか…。確かにスパイ活動の様々な手口を知ることができ、それらの技術を巧みにこなしてピンチを乗り切っていく主人公の姿を追っていくことは楽しいのであるが、やはりここもインパクト不足を感じる。あまりにあっさりしすぎ。もっとハリウッド映画的な、ハラハラドキドキ感があっても良いと思うのだが。

 第4話「魔都」は、やっと読者の期待する妖しい世界を少し感じさせてくれた一編である。上海に派遣されて三ヵ月、いまだに上海での生活になじめない本間憲兵軍曹は、自分の上官であり、長い上海生活での活躍が評価され出世が約束されている及川憲兵大尉から、憲兵隊の中にいる敵国の内通者を探し出すよう命じられる。前任者は3日前に殺害され、犯人は捕まっていないらしい。その命令を受けた直後、及川の自宅が爆破された。そんな状況の中、本間は知り合いの新聞記者から、大学時代の同級生の草薙が「D機関」の一員として上海に潜入しているという情報をつかむ。
 内通者とは誰なのか?爆破事件と「D機関」との関係は?といった感じで、謎が謎を呼ぶ、なかなか複雑な事件を描いているのだが、結構先が読めてしまうのが惜しい。先が読めないような読者を欺く工夫をして、上海の妖しい世界をさらに深く描き、話をふくらませれば、もっと面白い話にできたのではないかと思う。

 第5話「ダブル・クロス」は、「魔都」以上にかなり早い段階で先が読めてしまう話である。結城中佐の命令で、二重スパイの容疑のかかっていたドイツ人海外特派員記者のシュナイダーを調査していた飛崎少尉は、この命令を「D機関」の「卒業試験」と考え調査に尽力していた。しかし、飛崎が張り付いていたにもかかわらず、シュナイダーは遺書を残して死亡してしまう。自殺なのか?何者かに消されたのか?「D機関」のメンバーはそれぞれ結城中佐の命令通り調査のため散っていった。果たして飛崎は真相にたどり着くことができるのか…といった話だが、前述したように事件自体はたいしたことはない。この話のポイントは、現在の事件と主人公の過去とのリンクにある。そして印象的なラストシーン。謎の多い結城中佐の一面を垣間見ることができる貴重なエピソードである。しかし、この話も、もっと印象的な演出ができたはずだ。

 すべての物語に共通するのは、やはり物足りなさ。スパイ小説と言えば生死を賭けたハラハラドキドキ感を味わう物だと思うのだが、仮にこの作品がそこを狙っていないにしても、あまりにも物語に厚みがないというか、飾り気がなさ過ぎる。完成に至る前のプロットを読んでいるような感じがするのだ。そのあたりがバージョンアップされた続編があるのなら、ぜひ読んでみたいと思う。

『女王国の城(有栖川有栖/東京創元社)★★

 有栖川作品で読んだことのあるものは「朱色の研究」のみで、正直あまり良い印象がなかったため、その後この著者の作品を読むことはなかったのだが、「このミステリーがすごい!」2008年版(2007年作品)で3位に入っていた本書をたまたま図書館で見かけたので借りることにした。
  本書は「アリス」シリーズの第4弾にあたり、前3作が未読だったので少々不安もあったが、そのあたりは配慮されており、前3作を知らないと楽しめないとか、分からないことがあるとか、また本作を読むことによって前3作のオチが分かってしまうとかといったことはないので、心配無用である。
  物語の主人公は、著者と同姓同名の有栖川有栖。前述の「朱色の研究」にも登場していたキャラクターだ。英都大学推理小説研究会に所属する法学部の3回生だが、そのサークルの部長であり本シリーズの探偵役でもある江神二郎が、宗教団体「人類協会」の聖地・神倉へ向かった痕跡を残したまま連絡が取れなくなっていることを心配し、サークルのメンバーとともに神倉に向かう。そしてその途中、神倉で過去に未解決の密室殺人事件があったことを知ったメンバーは、紆余曲折の末に何とか協会の施設=城の中に入ることができたものの、連続殺人事件に巻き込まれた上に、城内に軟禁されてしまうというストーリーである。そして、「過去の密室殺人事件の真相とは?」「今回の城内での連続殺人事件の犯人は?」といったミステリーに読者は挑むことになる。
  本格ミステリを謳うだけのことはあって、終盤には「読者への挑戦」もちゃんと用意されており、難解な謎は最後に探偵役の江神によって見事に解き明かされ、その論述には全く隙がなく、読者のほとんどをうならせてくれるものである。また、登場人物の言動に対し時々入る突っ込みなど軽快な文章もユーモアが効いていて好みだ。そういう意味でこの作品の満足度は高い。だが、気になる点がないわけでもない。まず、前半の展開が妙に遅い。これだけ説明するのに果たしてこれだけの字数を割く必要があるのだろうか。また、事件が起こってからも、人が殺されたというのに余りに周囲が冷静すぎて盛り上がらない。クライマックスシーンの1つであるサークルメンバーの脱出シーンも、協会がメンバーの命までは奪おうとしていないためハラハラドキドキ感はなく、かなり物足りなく感じられる。リアリティを追求してのことだと思うが、もうちょっと新興宗教の狂気を前面に出しても良かったのではないか。そして、ラストシーン。最後に城に現れる人物と、この人物がこのタイミングで現れる理由というのが、少々ご都合主義的ですっきりしなかった。冒頭からの謎の1つであった江神が網倉を訪れた理由も最後に明かされるのだが、あまりにさらりと流されてしまうので、これにも納得がいかなかった。このあたりが、この年の「このミス」1位の「警官の血」、2位の「赤朽葉家の伝説」に及ばなかった理由ではないだろうか。ただ、前3作に関しては、ちょっと読んでみたい気になった。

 

2009年購入作品の感想

『悼む人(天童荒太/文藝春秋)★★★

 「このミステリーがすごい!」2000年版(1999年作品)で1位を獲得した「永遠の仔」に感銘を受けて以来、是非次回作も読んでみたいと思いながら、発売から半年も手を付けていなかったこの作品。もちろん文庫化されていなかったこともあるが、それ以上に「今回はミステリーではない」というのが読まなかった最大の理由だった。しかし、意を決して図書館で借りて読むことに。
 主人公は、タイトル通りの「悼む人」こと坂築静人。様々な理由で不慮の死を遂げた人の死亡現場を訪ね歩き、地元でその死者の生前の人となりを聞いて回ったのちに、「悼む」という行為を続けている不思議な人物である。物語は、目次のサブタイルを見て分かるように、3人の人物と彼との関わりを通して進んでいく。その3人とは、離婚歴のある評判の良くないライター・蒔野抗太郎、不治の病に冒されている静人の母・坂築巡子、そして夫殺しにより服役し出所したばかりの女性・奈義倖世。蒔野は自分とは正反対の静人に興味を持ち取材対象として追い始める。巡子は静人の帰りを心待ちにしている。倖世は夫殺しの理由を誰にも打ち明けないまま、静人に興味を持ち一緒に旅を始める。
 読み始めた当初は、多くの作中の登場人物同様に静人の心理を理解することができず、違和感、いや正直に言えば不快感に近いモノすら感じていた。しかし、読み進めるにつれ、なんとなく彼の行為を許せてしまうようになり、やがて認めたくなってくるから不思議である。これにはやはり、脇を固める前述の3人の功績が大きい。最後のエピローグに至っては、もう涙なしで読むことはできない。
 人の命は何物にも代え難い大切なもの、その死は簡単に忘れてはいけないもの、と頭では分かっていても、人は自分とは無関係であればあるほど、その死者のことを忘れていく。果たしてそれでいいいのか。いや、良くないと分かっていても、だからといって我々はどうすればよいのか、一体何ができるのか。そんな簡単には答えの出せない問題について深く考えさせてくれ、家族の幸せ、人間の幸せについても何かを心に残してくれる名作である。私にはこの作品に批判すべきところは何も見つからない。とにかく一人でも多くの人に一読してほしい1冊である。

 

2009年購入作品の感想

『邪魅の雫(京極夏彦/講談社)★★

 「このミステリーがすごい!」1995年版(1994年作品)の『姑獲鳥の夏』から4年連続でランクインした京極作品も、最近はすっかりランキングから遠のいてしまったが、決して作品の質が落ちたとか、そういうことではなく、単に読者がより新しいモノを求めているということと、京極作品がシリーズ物のため新しい読者は途中参加しづらいということが、その理由であろう。
 シリーズ第9弾の本作品は、2006年に発表され今年の6月に文庫化された。8月半ばに購入したが、相変わらずの分厚さと自分の多忙さのため、1カ月かかってやっと読破した。 まずは序盤のあらすじを紹介。
 プロローグ。海辺に一人取り残された女性を見やる人物の回想。これは、本作品のエピローグでもある。最後まで読み終えた後に再読してみることをオススメする。
 第1章。気になる女性をつけ回すストーカーをどうしたらよいか旧友の警官に相談する男。この男は、明らかにストーカーに殺意を抱いている。
 第2章。舞台は、おなじみ薔薇十字探偵社。探偵・榎木津の下僕であり、元警官の益田は、榎木津の親戚の今出川から、榎木津の縁談相手に引き続いて不幸が起こっているので榎木津に内密に調査をしてほしいと依頼を受ける。
 第3章。酒屋の店員・江藤は、想いを寄せていた真壁恵の死体の第一発見者となる。恵はストーカーにつきまとわれていたこと、死因が青酸毒による中毒死だったこと、そして真壁恵という名が偽名であったことなどが、次々と明らかになっていく。
 第4章。江戸川河川敷で発生した商社社員・澤井の毒殺事件。その捜査経過に納得のいかない警官の青木は先輩の刑事・木場に相談する。現場付近をうろついていたチンピラ・赤木大輔と、澤井・赤木両人と接点のあったらしい女性の正体とは。謎は更に深まる。
 第5章。想いを寄せていた女性に死なれて刑事をやめた大鷹は、流れ着いた先で真壁恵という女性に出会い、自分の名前を貸している幼なじみを護衛してほしいと依頼される。どうやら彼が、これまでに話に登場しているストーカーの正体らしい。しかし、前述のように、その女性は殺されてしまった。大鷹が油断していた隙に。途方に暮れる大鷹。
 第6章。殺人者の告白。誰を殺した人物なのか。ここまでもう何人も死んでいる。
 第7章。ついに京極堂登場。作家・関口の憑きもの落としの最中の京極堂に、益田が榎木津の件で相談に行ったのである。京極堂は、その特殊な青酸毒に心当たりがあるらしく…。
 第8章。モデルの宇都木実菜を失った画家の西田。実菜の失踪にはストーカーが関わっているとしか考えられない西田は、より強い殺意を抱く。そう、第1章で警官にストーカー被害の件を相談した男こそ、この西田であった…。
 このように少しずつ繋がっていく複数の事件と登場人物。あまりに登場人物が多いので、少々混乱する(特に警察関係者)が、そのことを除けば、最近の京極作品の傾向か、読みづらい蘊蓄話はほとんどなく非常に読みやすい。結末は、ぼんやりとはイメージできるのだが、やはり事件が複雑すぎて、推理小説なのに細かいところまでは推理する気力が途中で失せてしまう読者は多そう。意外にも京極堂と探偵・榎木津の登場シーンは少ないが、非常に効果的に用いられている。面白かったか、そうでなかったか、オススメか、そうでないか、そういった判断が難しい作品。とりあえず京極シリーズのファンは読んで損はないが、やはり第9弾ともなると多少の前知識は必要になるわけで、途中参加の方には厳しいかもしれない。

 

2009年10購入作品の感想

『告白(湊かなえ/双葉社)★★★

 久しぶりに何か読んでみようと図書館の棚を眺めていて本書を発見。「このミステリーがすごい!」2009年版(2008年作品)の4位作品ということで、各年の上位3作品程度までしか読んでこなかった自分としては特に注目していなかった作品だったのだが、筆者にとって、これがデビュー作であり、しかも前年度の伊坂幸太郎著「ゴールデンスランバー」に続く2009年度本屋大賞受賞作品であることを今更ながらに知って読むことに。少々陳腐な言い方をすれば、今も議論が続けられている現行少年法への問題提起的作品ということになるのだろうが、この作品の読者を引きつける力は半端ではない。読書中も、読み終わった後も、不愉快さしか感じないといった読者もいるかもしれないが、逆に、えも言われぬ爽快さを感じる読者も少なくないはずだ。
  第1章「聖職者」では、退職することになった中学教師・森口悠子の口から自分のクラスの生徒に対し、事故死と思われていた彼女の娘が、実はこのクラスの生徒によって殺害されたのだという衝撃的な告白がなされる。事件の経緯は匿名で語られるものの、クラスの生徒には明らかにその人物が特定できる内容であった。そして、警察に訴えることはしないという彼女は、さらに衝撃的な事実を生徒達に告げて、教員生活最後のホームタイムを締めくくる。最初にこの第1章だけが一つの作品として発表されたということもあり、この章だけで十分に完成された作品なのだが、続く第2章から第6章までかけて、様々な人物の視点で事件が描かれることで、真にこの物語は完成する。その視点転換によって、読者の登場人物に対する印象をその都度変えてしまう点は見事であり、読者の知りたかった内容、知らなかった事実が次々に明らかになっていくことで、第1章に勝るとも劣らない力で読者をぐいぐいと作品世界に引き込んでいく。
  以降のあらすじはというと、第2章「殉教者」では、第1章の「その後」が、クラス委員長の美月が悠子へ手紙を書く形で語られ、第3章「慈愛者」では、犯人の一人である生徒の姉が、母親の日記を発見し、弟が起こした事件の真相を知っていく過程が描かれる。第4章「求道者」では、その犯人の一人が別件で逮捕され少年刑務所(?)内で、事件を振り返る様子が描かれるが、所々に台本のト書き風のサブタイトルのようなものが入るため、夢オチのような終わり方(これまでの話はすべて演劇の台本だったとか)になるのではと冷や冷やさせられた。今の自分と過去の自分を同一視できなくなった生徒の心理状態を表現するための手法と思われるが、ここは何か他の方法をとってほしかったところ。第5章「信奉者」では、主犯格のもう一人の生徒が、事件の経緯を遺書という形で自分のウェブサイト上で公開するという形で描かれる。そして、結末の第6章「伝道者」では、自殺しようとするその生徒の携帯に、ある人物から電話がかかってくるのだが…。結末については、これから読む人のためにあえて触れないでおくが、この自殺しようとしている生徒の周辺にいるはずの大勢の人間の様子が全く描かれていない点が少々不自然に感じた。これも電話の内容に読者を集中させるための演出の一つだとは思うが、ここは物足りなさを感じる。
  2点ほど不満点を挙げたが、あとは大満足できた作品であった。これからは「このミス」の4位以下にも注目していきたい。

『サクリファイス(近藤史恵/新潮社)★

 前回の読書で「このミス」の4位以下にも注目してみようと考え直し、さっそく図書館で見つけて借りたのが、「このミス」2008年版(2007年作品)の7位作品であったこの『サクリファイス』。日本ではマイナースポーツである自転車ロードレース(クローズドコースを走る競輪とは違う)を舞台にした物語であることは知っていたが、「押し寄せる感動!」「絶対に損はさせません!」「この厚さの中で、これだけの感動と物語を描き出すことができるのか!と、きっと驚かれることと思います」と派手に煽った帯の言葉の数々につられて選んだ。
 しかし、冒頭部に何か大きな事件が発生したことを臭わす描写がある以外は、インターハイの陸上競技で優勝を果たしながら大学で自転車に転向し実業団チームで頭角を現す主人公の姿、そして自転車ロードレースというスポーツの特殊性が淡々と語られていくのみで、ミステリーらしさはまったく感じられない。過去に1巻のみ読んだ佐藤多佳子著の青春小説『一瞬の風になれ』に近い雰囲気だ。このロードレースの説明を延々読むのが辛くなり途中で挫折した人もいると聞いていたが、自分は特に気にもならずそれなりに興味を持って最後まで読めたものの、やはりハラハラドキドキ感を期待する読者には厳しい部分があるのも確か。事件は全十章のうちの第八章「惨劇」にて発生する。その事件の真相は、帯にもあるように確かにその後二転三転するのだが、感想としては正直「ふーん、なるほどね」といった程度。帯の絶賛の言葉の数々は明らかに煽りすぎ。もちろん読む人によるのだろうが、個人的に7位という順位はおそらく妥当なものと思えるし、8位以下を読む気はかなり失せてしまったのも事実。

『私が殺した少女』(原ォ/早川書房)★★

 「このミス」1989年度1位作品。「このミス」は、1990年より1990年刊行の作品の集計結果を1991年度版として発表するようになったので、この作品は1989年刊行の作品である。これだけ古い作品だが、今回はレンタルでなく、ちゃんと書店で購入した。「このミス」の第2号で発表された20年前の作品に、なぜ今頃手を出したかというと(3位の「奇想、天を動かす」と8位の「生ける屍の死」は読書済み)、「1988−2008年版 ベスト・オブ・ベスト発表!(別冊宝島「もっとすごい!! このミステリーがすごい! 」)」の3位にランクされていたから。ちなみに1位は宮部みゆきの「火車」(1993年度版・1992年2位作品)で、これは随分前に購入して読んだはずなのだが全く記憶に残っていない。読んだのがHPを始める前だったため、記録も残っていないのが残念。本は残っているはずなので、また読み直すか…。
  さて、話を元に戻し、「私が殺した少女」である。主人公の探偵・沢崎は、バイオリンの天才少女・真壁清香の誘拐事件に巻き込まれ、なぜか犯人と思われる人物から身代金の運び役に指名される。警察に共犯ではないかと疑われつつも、少女救出のため最善を尽くすが、身代金の受け渡しに失敗した直後、無惨な姿に変わり果てた少女の遺体を発見することになり、少女の死に責任を感じる沢崎。ここがこの作品のタイトルにつながってくるわけである。清香の母の兄である音大教授の甲斐正慶は、誰よりも清香を可愛がり、彼女を熱心に指導していたため、それに嫉妬した4人の自分の子ども達が誘拐事件を企てたのではないかと疑い、沢崎に調査を依頼し、その調査の過程で色々な事実が明らかになっていく…というストーリーである。
 ここからは少々ネタバレも入ってくるので、これから読む方には気をつけていただきたいのだが、最後まで読んだ後に気になった点をいくつか挙げる。
 @携帯電話どころかテレホンカードも使ったことがないという設定の主人公に時代を感じるのは仕方がないが、外見の描写が少なく今ひとつイメージしにくかった。読者の想像に任せるという方針なのか、単に自分が描写場面を見落としているのか、沢崎シリーズの第2弾ということで、あえて前作で触れたことは繰り返し描写していないだけなのか…。
 A沢崎シリーズの第2弾という点で言うと、第1弾に登場したらしい人物が何人か登場するのだが、本作中では存在意義がほとんどなく肩すかしをくらったのも気になった。特に暴力団幹部の橋爪とその用心棒・相良は作品中繰り返し登場し、何か事件に関係のある情報をもたらしてくれるのかと期待していたが、結局全く無関係であった。これ以降のシリーズ作品に重要人物として再登場させるための前振りなのかもしれないが、やはりあまり感心できない。第1弾から対立関係にある新宿署の警部・錦織に関してはそれなりに描かれていたが、もっと主人公とからめて、物語を盛り上げることができたように思う。
 B物語終盤で、これまで全く登場していなかった人物が突然容疑者として浮かび上がるのも、推理小説としてフェアではないのではないかと気になった。結局その人物は清香の殺害犯ではなかったのだが、その人物もこの誘拐事件にかんでることには違いないわけで、やはりそういう展開の仕方には受け入れがたいものがあった。
 Cそしてお約束の最後の急展開。沢崎が、様々な状況証拠から事件の真相を暴き、清香殺害犯を的中させるわけだが、いかにも犯人でなさそうな人物が犯人というセオリーに持って行くために相当無理をしているというか、物語の中で語られる今回の事件が発生した理由をすべての読者が納得してくれるかというと、個人的にはかなり厳しいのではないかと思う。
 翌年の「このミス」1位作品として、華々しく登場する「新宿鮫」と比較すると、主人公が刑事と探偵という違いこそあるが、ハードボイルド小説としての面白さは共通だが、随所に「おっ」と思わせる魅力的な表現を見つけることができるのはこちらの作品。ただ、やはりこの作品を単独で評価する限りは、上記のいくつかの点が 個人的に気になってしまって高いポイントはつけられなかった。

 

2009年11購入作品の感想

『首無(くびなし)の如き祟るもの』(三津田信三/原書房)★★

 「このミステリーがすごい!」2008年版(2007年作品)5位作品で図書館で借りた。三津田作品には、作者と同名の作家三津田信三を登場人物としたシリーズと、流浪の幻想小説家・刀城言耶(とうじょうげんや)を語り手としたシリーズがあり、本書は「厭魅(まじもの)の如き憑くもの」「凶鳥(まがとり)の如き忌むもの」に続く後者のシリーズの第3弾にあたる。ちなみに第4弾「山魔(やまんま)の如き嗤うもの」は2009年版(2008年作品)8位作品で、こちらも図書館ですでに借りてある。
 舞台は戦前戦後の日本の奥多摩。そこで代々続く秘守(ひがみ)家は、一守家、二守家、三守家に分かれて跡目争いを続けていたが、秘守家を束ねる一守家の長女が「十三夜参り」という儀式の最中に謎の死を遂げ、その10年後の「婚舎の集い」にて長男・長寿郎の花嫁候補の1人が首無し死体で発見され、その場にいたはずの長寿郎は行方不明に。その後、第二、第三の首無し死体が発見され、この地に古くから伝わる淡首様の祟りか、首無という化け物の仕業かと、村は騒然となる。一守駐在所の巡査の妻であり、推理小説作家である媛之森妙元こと高屋敷妙子が、一守家の使用人であった斧高(よきたか)の視点で、後日連載小説として発表するという体裁で物語は進んで行く。
探偵役と思われた刀城言耶は物語の途中にちらっと登場したのみで、一向に事件は解決の兆しを見せない。第17章で、ある登場人物に関する衝撃的な事実が明かされるが、事件については第22章でとうとう迷宮入りとなってしまう。しかし、第23章を執筆中の妙子のもとにある人物が突然現れて事件の謎を整理し、第24章でとんでもない事件の真相を解き明かす。
 二転三転する犯人像と、後味の悪い不気味な結末に読者は翻弄されるだろうが、理屈では説明できない怪異な部分もいくつか残るものの、一応真犯人は最終的に確定するので、そこは安心していい(読者の中には、で、結局最後はどうなったの?と理解できない方もいるかも知れないが)。事件解決の鍵の部分に読書中に気付くことのできる読者は多いだろうが、数多くの謎解きの中には、「それはちょっと…」という部分も多々あるので、完全に事件を解明できる読者はいないだろう。しかし、それを差し置いても十分に推理を楽しむことができ、終盤のどんでん返しの連続も痛快で、ラストの不気味な余韻もある意味新鮮だ。次に読む予定の「山魔の如き嗤うもの」は、ランキング8位とちょっと低めなのが気になるが楽しみになった。

『山魔(やまんま)の如き嗤うもの(三津田信三/原書房)★★

 「このミステリーがすごい!」2009年版(2008年作品)8位作品で、前述の「首無の如き祟るもの」と同時に図書館で借りた。
 「首無の如き祟るもの」の続くシリーズ第4弾であり、舞台は戦後間もない奥多摩の神戸(ごうど)地方の一集落である奥戸(くまど)。そこで、その地に伝わる六地蔵にまつわる童唄に見立てた連続殺人事件が発生する。事の発端は、奥戸同様、神戸地方の一集落である初戸(はど)を出て中学教師になった郷木靖美(ごうきのぶよし)が、集落に昔から伝わる「成人参り」という儀式を行うため、帰省して儀式で登ることになっている三山に登る途中、誤って忌み山である乎山(ならやま)に足を踏み入れてしまい、まか不思議な体験をすることに始まる。様々な怪異現象を体験した靖美は、恐怖が限界に達したとき、乎山の山中に異様な一軒家を見つけ泊めてもらうのだが、その家でさらなる怪異を体験した後、翌朝、その家の家族全員が朝食中に消失するという最大の怪異を体験することになる。精神に異常を来した靖美を心配した従兄の高志は、探偵として有名になっていた流浪の幻想小説家・刀城言耶に謎の解決を依頼するのだが、言耶が現地に着いたとたんに連続殺人が始まる…というストーリーである。
 桜庭一樹著「赤朽葉家の伝説」でも感じた、人間が踏み込んではいけない自然の領域があった時代の世界観は個人的に実に魅力的である。このあたりは前作「首無の如き祟るもの」以上に引き込まれる。そして結末も前作に負けないどんでん返しが用意されている。読中に目ざとい読者は、様々に張り巡らされた伏線のいくつかには気付くはずだし、犯人候補も2人ほどに絞れるはずである。しかし、著者は簡単には当てさせてくれない。(ここから先は、真犯人の名前こそ出していないがネタバレ注意)まず、言耶は、終盤の第14章で、これまでの謎を36個に整理し(細かい分類をすると46以上!)1つずつ明らかにしていくのだが、その過程で一家消失の謎を明らかにし、読者をあっと言わせる。それだけで十分に満足できる結論にもかかわらず、そのトリック推理を「問題がある」として惜しげもなく捨て去り、さらに衝撃的な事実を読者に示す。そして、ついに連続殺人の真犯人の名を挙げるのだが(読者の多くが予想した犯人候補の1人である)、しばらくそれを前提に数々の謎解きの解説していくのに、またしても言耶はその人物の真犯人説を放り出す。次に名を挙げられた真犯人(その名は、これも読者の想像の範囲内の人物ではあるのだが、その正体には若干反則気味の印象も)は、逃亡を図るも言耶と刑事に追い詰められ、そこでまたしても怪異現象が…。そして、さらに前作同様、最終章にはトドメのどんでん返しが待っている。これも著者のサービス精神のなせる技なのであろうが、ちょっとやり過ぎな気もしないではない。あの伏線はいつ使うのだろうとずっと気にして読んでいた「あるもの」がやっとその最後の話の中で登場するのだが、証拠品として 警察に発見されたという話はないし、この最終章での、ある人物をめぐる新事実に対しては、すっきり納得がいかない読者もいるように思う。 また、巻頭に登場人物一覧と共に舞台周辺の地図も欲しい。しかし、トータル的に見れば個人的には十分に楽しめる作品であった。次回作も是非読んでみたい。

『インシテミル(米澤穂信/文藝春秋)★★

 「このミステリーがすごい!」2008年版(2007年作品)10位作品で、これも図書館で借りたもの(最近図書館の利用が多くなってきた)。10位という低さが少々気になったが、意味深なタイトルと「このミス」で読んだあらすじが面白そうだったので借りることに。そのタイトルの意味だが、物語を最後まで読んでも謎のまま。表紙には「THE INCITE MILL」という英語表記もあるが、「INCITE」の意味は「励ます、 激励する、 刺激して…させる」、「MILL」の意味は「ひき臼、 製粉機、 精米機、工場、製作所、工作機械、(人・事柄を機械的に処理する)公共機関」と、今ひとつしっくりこない。ストーリーからすると「人にある刺激を与えて、人を処理していく機関」という解釈がもっとも近いだろうか。しかし、「INCITE」の発音は「インシテ」ではなく「インサイト」なのだが…(ちなみに車のインサイトは「INSHIGT」)。「ミステリーに淫してみる」「謎の施設にインしてみる」と、まあ、いろいろ解釈のしようはあり、その辺で読者に悩んでもらうのも計算のうちなのかも知れない。
 さて、
本編の主人公は、漠然と車が欲しいと考えている平凡な大学生・結城。時給11万2千円という破格のアルバイトに興味本位で申し込んだところ、他の11名の参加者と共に謎の地下施設に連れて行かれる。アルバイトの内容は、その3食食事付き・個室有りの地下施設で7日間過ごしてもらうというもの。つまり、7日間無事に過ごせれば、1人1881万6千円という夢のようなアルバイト代が得られるというわけだ。(バラエティ番組の「逃走中」をちょと思い出した。あれは時給ではなく秒給だが。)しかし、普通の地下施設生活実験ではなかった。参加者を殺害した者には報酬2倍、殺害1件に付き解決の場で正しい犯人を指摘した者には報酬3倍といった「不穏当かつ非倫理的」なボーナスが用意されているのである。鍵のかからない個室で他の参加者に知られない形で各人別々の凶器を与えられ、施設からの脱出不可(秘密の脱出路の存在は一応参加者に告知されている。ちなみに終盤で見つかるが、おおかたの読者の予想通りの場所にある。)かつ外部との連絡不可という状況で、主人公は7日間生き残り、バイト代を手に外の世界に戻ることができるか、という物語なのである。ミステリ用語で言う、いわゆる「クローズド・サークル」ものである。その代表作と言えるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』といった古典はほとんど読んだことはないが、綾辻行人の『 十角館の殺人』を思い出した。
 ある意味、非常にオーソドックスなミステリーで、条件も限定されているので非常に読みやすい。主催者である「機構」が、施設内で起こった殺人を含むすべての出来事に対し責任を持つという設定(要するに施設内で殺害された参加者を単なる行方不明者にしたり、別の死因で発見させるように仕向けるのであろう。)にかなりの無理を感じるが、その辺を気にせず読めば、それなりに物語に引き込まれる。それ以外に気になるのは、まず、今ひとつ主人公の性格がつかみどころがないところ。キャラクター付けが弱い気がする。そして、何より最初の被害者の死に至る真相について。探偵役となった参加者が、一応その死因を明らかにするのだが、読者はあれで納得できるのだろうか。そして、参加者が次々と殺害され減っていくという一番の見せ所も今ひとつ。ハラハラドキドキ感にかなり欠けるのだ。(ここから先はネタバレになるので、これから本書を読もうという人はご注意を。)なんと主人公が終盤で無実の罪を着せられ脱落。時給が著しく下がる監獄部屋送りとなるのだ。いくら、時給が下がるとはいえ、監獄部屋はロックされており同居人は1名のみで、生命の危険がほぼない。これでいっきに緊張感が削がれてしまう。監獄部屋には、他の生存している参加者の様子を見ることができるモニターが設置されているが、それによって恐ろしい場面を目撃したり、何か新事実を発見するわけでもなく、せっかくの設定が生かされていない。そして、7日目のラストでいくつかの新事実は明らかになるものの、たいした衝撃はない。とどめは最後のエピローグである。(これから本書を読もうとしている人は本当にこの先は読んではいけない。)
 生還者のその後が語られるのだが、うち2名の件がすっきりせず気持ちが悪い。1人目は本作品のヒロインとも言える須和名。彼女が主人公に言っていた指1本分の「とどこおっているもの」とは一体何だったのか。結局最後まで明らかにされなかった。また、彼女は実験中全く身の危険を感じていなかったことから、主催者の仲間と思いきや、そうでもないらしい。落ちぶれかけた名家のお嬢様で、須和名家復興のため今回の主催者と同様のイベントを計画しており、その手始めに自らのイベントの参考とすべく今回のイベントに参加したという設定のようだ。今回の主催者が用意した警備ロボットの導入に前向きで、トライアルの検討を始めさせたという記述からすると、やはり主催者とは仲間ではなくとも何らかの関係があり、あらかじめ命の安全の補償はされて参加していたという設定なのかもしれない。そして2人目は、最後にそれまで謎だった殺人を告白する関水。今回、目標額を稼がないと何人も死んでしまうと言い、最後に自分の死をもって目標額を達成しようとする。難病の家族の手術代?倒産寸前の親の会社の回転資金?まあ、そのあたりだろうととりあえず考えた。自分の殺人の習慣を目的額達成を目処にやめ、新しい人生を始めようとしているのかも、とも思ったが、それなら死んでまで目標額を達成しようという意味が分からない。しかし、前者でもなかった。彼女は、結局生きて目標額を手にしたにもかかわらず、一振りのナイフを手に家を出るのである。やはり、彼女はただの殺人狂だったというオチなのか。それとも、この目標額を用いることによって誰かとの接触が可能になり、その誰かに何らかの復讐を果たそうというのか。謎を謎のまま終わらせ、読者に大いなる余韻を味わわせて議論を巻き起こそうというエヴァンゲリオン的手法なのかも知れないが、
やはり気持ちの悪いことに変わりはない。個人的には、ミステリーの最後には爽快感を味わわせてほしいものだと思っている。結論を言うと「見つかった。何が?私たちのミステリー、私たちの時代が。時代を変える1000枚!」という帯のキャッチコピーは、明らかにオーバー。「このミス」ランキング10位も妥当な線だろう。上位に食い込むにはまだまだという感じだが、見所もいろいろあったので、次回作には期待したい。

 

2009年12購入作品の感想

『扉は閉ざされたまま(石持浅海/祥伝社)★★★

 「このミステリーがすごい!」2006年版(2005年作品)2位作品で、最近の例に漏れず図書館で借りた。 表紙に描かれたサイトウユウスケ氏によるリアルかつ、やや人形チックな登場人物のイラストが目を引く。登場人物を自分なりにイメージしたい人には余計かもしれないが、個人的には嫌いではない。表紙カバーの見開きには、「『鍵のかかった扉を斧でたたき壊す』本格ミステリの世界にはよくあるシーンです。『そうではない』話を書こうと思いました。」という著者の言葉。なかなか挑戦的である。
 大学の同窓会を、ある同窓生の兄が成城で経営する高級ペンションで行うことに。そこで久しぶりに再会した7人であったが、その中の1人、伏見亮輔は後輩の新山を殺害。密室トリックによって事故に見せかけようとするが…という物語である。
 
正直、犯人が最初から分かってしまっている「刑事コロンボ」的展開は(古今東西のミステリを読み尽くしたミステリファンならばもっと適切な表現ができるのだろうが中途半端なミステリ好きの自分には無理)、あまり好みではないのだが、ノベル版独特の2段組に違和感を感じつつも早速読み出す。しかし、いきなりストレスを感じる事態が…。冒頭部は、主人公であり、これから同窓生の新山を殺そうとしている伏見が、その新山の部屋に忍び込む場面なのだが、そのあたりを理解していない状態で読み始めると、最初その伏見がどこにいるのかよく分からないのだ。最初の一文は「伏見亮輔は部屋に入るなり、ドアの鍵をかけた。」ではなく「伏見亮輔は新山の部屋に入るなり、ドアの鍵をかけた。」とすべきだろう。そうしないと自分のように「伏見は自室に入った」と最初に思い込んでしまった場合、その後の描写が誰の視点なのか混乱する。しばらく読み進んでようやく事態を理解するが、殺害方法も密室トリックも超平凡でがっかりさせられる。これまでの本格ミステリに挑む作品ではなかったのか!?と怒りすら感じる読者もいるであろう。
 しかし、この作品の真骨頂はここからだ。同窓会参加者達は、部屋から出てこない新山の安否を早く知りたいのだが、疲労と薬で熟睡しているのだろうという先入観と、合い鍵がこのペンション内にはないという事実(普通は置いておかないと何かと困ると思うのだが)、このペンションが由緒ある建物であり個室の扉も高級品のため簡単に壊すことができないという事情、そして、犯人の伏見のミスリードにより、密室の扉が閉ざされたままの状態は延々と続く。これがカバー見開きの著者のメッセージの意味だったのだ。確かに、これは新しい。ここで読者が気になるのは、犯人・伏見の殺人の動機と、なぜ死体の発見を遅らせようとしているのかの2点であろう。そう、主人公が密室トリック殺人を行った理由は、事故に見せかけるためのみならず、死体の発見をできるだけ先に延ばすためという、もう1つの目的があったのである。
 そしてその謎は、ヒロインであり、この物語の探偵役である碓氷優佳により、ラストで見事に明らかにされる。犯人が最初から読者に分かっている場合、犯人をじわじわ追い詰める探偵役というのは、たとえそこに正義があったとしても、犯人に少しでも共感できる部分があると、コロンボにしろ、古畑任三郎にしろ、読者にとってイラッとする存在である場合があるが、今回もまさにそんな感じ。誰がどう見てもこの物語の中のヒロインはちょっと嫌なヤツなのである。しかし、この作品のラストでは、その考えがきれいにぶっ飛ぶ。「刑事コロンボ」的結末の予想を見事に裏切られると同時に、ヒロインは、どのキャラより魅力を増し光輝くのである。こういうエンディングもあり、どころか、個人的に非常に気に入った。伏見が新山に面と向かって言いたいことをきちんと話していれば殺す必要などなかったのでは?という突っ込みもあるにはあるだろうが、この作品のラストは高く評価したい。

『完全恋愛(牧薩次/マガジンハウス)★

 「このミステリーがすごい!」2009年版(2008年作品)3位作品で、前出の『扉は閉ざされたまま』と一緒に図書館で借りた。帯にはこのミスのランキングについてはもちろん「第9回本格ミステリ大賞小説部門受賞」「綾辻行人さんも激賞!『これはもう、感動するなというほうが無理な話なのである』」とある。自分が敬愛する綾辻氏がここまで絶賛するのだから自然と期待も高まる。
 作品の冒頭に、タイトルの由来について説明されている。「他者にその存在さえ知られない罪を完全犯罪と呼ぶ。では、他者にその存在さえ知られない恋は、完全恋愛と呼ばれるべきか?」
 物語は、3つの殺人事件に関わった洋画家・柳楽糺(なぎらただす)こと本庄究(ほんじょうきわむ)の一代記の体裁をとる。戦中の空襲で身寄りをなくした究少年は福島の温泉郷の老舗旅館・刀掛本館の主である伯父に引き取られる。その坂上家では有名な小仏画伯が身を寄せており、究はいつしか彼の娘・朋音に恋心を抱くようになる。第1の殺人は、ある朝、彼女に目を付けていた進駐軍大尉・ジェイクが刺殺体で発見されるという事件であった。結局軍内部のいざこざということで事件はうやむやになるが、究はその真相を知っていた。まもなく闇成金の真刈のところへ不本意ながら嫁に行くことになった朋音に娘・火菜が誕生。究は、その本当の父親が自分であることを確信するが、火菜が自分の娘でないことに気がついた真刈は病床の朋音を電話で問い詰め死に至らしめる。打ちひしがれる究に不幸はさらに続く。恋人の子供を身ごもった火菜が死産し、その火菜は、真刈に会社を倒産させられた浅沼の復讐によって殺害されてしまうのである。しかも、福島にいた浅沼の手にあった凶器が沖縄の火菜の胸を貫くという壮大なトリックである。これが第2の殺人。そして、第3の殺人は、真刈がゲストハウス近くの沼で水死体で発見されたこと。究の弟子である魅惑は、朋音を死に追い込んだ真刈を恨む究の関与を疑うが、究には自宅にいたという完璧なアリバイがあった…。
 結論から言うと、期待はずれだったというほかない。この年1位の「ゴールデンスランバー」は文句なしの傑作だったが、2位の「ジョーカー・ゲーム」はかなり微妙だったので、3位はこんなものか。4位の「告白」と8位の「山魔のごとき嗤うもの」はまあまあだったので、期待したかったのだが、それは間違いだったようだ。とにかく、ミステリとしてあまりに中途半端である。前半は普通の純文学として一応それなりに読める。第1の殺人はあくまでオマケ的なものであるが、このあと読者をうならせる展開が待っているに違いないと我慢して読み進める。ここからが問題だ。連続物の昼ドラの脚本を読んでいるような感じなのだ。展開が散漫で、正直退屈だった。おそらく3つの事件の中で一番の売りであろう第2の殺人も、ネタが分かれば「なんだそれ?」という感じ。第3の殺人の種明かしに至っては完全に閉口してしまった。しかも、作者自身が探偵役として登場し、その謎を解明するのだが、まったく必然性がない。実を言うとこの作品自体、トリックを暴いたこの探偵役が究の許可を取って書いたという設定のようなので、必然性がないわけではないのだが、探偵役が究の死後に究の一代記というスタイルで書いているということがこの作品からほとんど感じられないので、この探偵役が妙に浮いているのだ。
 はっきり言ってこの作品の最大の売りは最後の数ページである。感動できる唯一の場所であると言っていい。しかし、その部分も注意深い読者ならいつかそのような展開があるだろうと予測できたはずだ。その伏線となっている第1章の記述トリックにはミステリ好きならすぐに気がつく。つまり第2章以降、最終章までの展開は、単にその第1章で読者に芽生えた疑念から目をそらさせるためだけにあるように感じる。この作品に中途半端なトリック殺人などいらない。朋音のため手を汚し続ける究を描きさえすればラストは十分に引き立つ。そのようなシンプルな作りにした方が余程読者は感動できたのではないか。綾辻氏がどういういきさつで帯に書評を寄せたのかは知らないが、あの賛辞は絶対本音ではなかろう。大人の事情で書かざるを得なかったであろう綾辻氏に心から同情する。

『そして誰もいなくなった』(アガサ・クリスティー/早川書房)★★★

 現代のミステリー小説を十分に楽しむには、海外の古典作品も知っていなければいけないことに今更ながら気がつき、久々に図書館ではなく書店に行き、「ミステリが読みたい!2010年版オールタイム・ベスト・ランキングforビギナーズ第1位」という帯の付いた本書を発見。本書は、先日読んだばかりの「インシテミル」や、自分がミステリにはまるきっかけになった「十角館の殺人」など、多くの現代ミステリが影響を受けている名作ということで、いつかは読まねばと思っていたものだったため、帯との相乗効果で即購入した。この「ミステリが読みたい!」は早川書房が2007年からやっているランキングで、ストーリー、サプライズ、キャラクター、ナラティブという4つの基準によって、評価者がそれぞれ25点満点で評価をするというものである。
 さて、本書は70年前の1939年に発表され、日本で刊行されたのは1955年。これだけ古い作品にもかかわらず、ストーリーは全く色褪せていない。確かに現代のように携帯電話が普及した時代では本書のような展開にはならないかもしれないが(前述の「インシテミル」では最初に携帯電話は取り上げられていた)、それ以外は十分現代にも通じる魅力的な作品である。イングランドのデヴォンにあるインディアン島の豪邸に、10人の老若男女が謎のオーエン夫妻によって招待されるところから物語は始まる。しかし、全員がオーエン夫妻と面識がなく、しかも、インディアン島の屋敷には、その10人以外誰もいなかった。屋敷の各個室には、10人のインディアンの少年が1人ずつ減っていって最後には誰もいなくなったという内容の不気味な童謡が額に入れて掛けてあった。そして、食堂の丸テーブルの上には10体のインディアン人形が…。島に到着したその日の夕食後、突然壁から流れてきた声。その声は、その場にいた10人の過去の殺人を告発するものであった。必死に弁解し合う10人の中の1人が突然死し、翌朝また1人が謎の死を遂げる。1人死ぬたびに食堂の人形の数も減っていくことを知った招待客達は恐怖のどん底に陥り、身を守るためにあらゆる策を練るが、その甲斐むなしく最後にはタイトル通り、島からは誰もいなくなるという話である。それだけでは、ただのホラーなので、最後にはちゃんと種明かしも用意されており、そのオチも十分満足できるものであった。
 最近物覚えが悪くなって登場人物をなかなか覚えられず、これが横文字になるとなおさらなのだが、それさえ覚えてしまえばあとはすらすら読める非常にシンプルで読みやすい作品である。確かにこれはミステリファン必読の1冊であることは間違いない。

『新世界より(上)』(貴志祐介/講談社)★★

 「ゴールデン・スランバー」「ジョーカー・ゲーム」「完全恋愛」「告白」に続く「このミステリーがすごい!」2009年版(2008年作品)5位作品。舞台は何と1000年後の日本。これはミステリ小説という以前にSF小説なのである。主人公は中学生くらいの少女・渡辺早季。彼女が35歳になったとき、過去に体験した事件を1000年後の世に伝えるため、書き記すことにしたその内容が、この作品という体裁をとっている。彼女の生きる世界は、自然が現代以上に豊かになっている以外は、一見現代と変わらない風景に見える。しかし、人々が住む町の周りは八丁標(はっちょうじめ)というもので囲まれており、子ども達はその外へ出てはいけないことになっている。その外には、バケネズミや悪鬼や業魔という恐ろしい生き物がいるから危険だというのである。では、なぜ大人は良いのかといえば、大人は呪力と呼ばれる念動力を身につけているため身を守ることが出来るからだ。子ども達には知らされていないが、小学校の卒業条件が自然発生的なこの呪力を得ることであり、呪力を得た子どもはしかるべき手続きを経たのちに全人学級という施設に進学できる。子ども達は自分の将来のために、さらにそこで呪力を磨くのである。早季も同級生から遅れながら全人学級に進学することができた。全人学級進学後の序盤では、早季、真理亜、覚、瞬、守の仲良し5人組の、バケネズミとの出会い、搬球トーナメントの様子が描かれる。搬球とは呪力を用いた球技であり、式神を用いた競技の様子を描いた万城目学著「鴨川ホルモー」(2006年)を思い起こさせる。正直このあたりはただひたすら不思議な世界観が描かれているだけで特に面白くはない。そして、上巻のメインとも言える全人学級最大の行事・夏季キャンプの話へと移っていく。生徒だけで八丁標の外に出て利根川をカヌーで遡り、テントを張って7日間過ごすというものだ。ここでミノシロモドキという謎の生物に出会ってしまったことが5人の運命を大きく変えてしまう。キャンプを通して、早季は様々な恐ろしい体験を重ね、結局4人の友人のうちの1人を失ってしまう…というのが上巻の物語のあらすじである。
 結論から言うと、上巻を読んだだけでは何とも評価のしようがない。なぜ、早季達が生きているこの世界が誕生したのかが明かされるキャンプ中の話はそれなりに興味を引くが、性的な風習について描かれている箇所については嫌悪感を抱く読者は多そうだ。やはり結末まで読まないことには何とも言いようがない。ミステリーらしい、あっと驚くような展開が待っていることに期待したい。

『新世界より(下)』(貴志祐介/講談社)★★

 上巻を読んでいる間は、「いつまで著者の妄想につきあえばいいのか」という不満すら感じていたが、下巻を前にして早く読みたいという欲求が抑えられないことに気がつく。著者の「呪力」にまんまとやられたようだ。
 下巻の最初、第4章では、上巻の最後で自分にとって大切な人を失った早季が、日常に戻っているシーンから物語は再開する。全人学級では、全員男女二人一組の当番委員に振り分けられることになっており、これは男女お互いの指名が一致したペアから決まっていく。恋愛までが学校に管理されているのである。そして、彼女のパートナーはそれまで同じ班にいなかったはずの良だと誰もが思っていた。クラス全員の記憶が大人達の呪力によって書き換えられていたからだ。記憶の書き換えに気がついた早季は、パートナーに良でなく覚を選び、記憶から消された仲間のことを思い出すため、覚・真理亜・守達と調査を始めたが、それを知った倫理委員会から呼び出しを受ける。そこで議長の富子から過去の悪鬼や業魔の出現時の話を聞かされた早季は、いつか自分の後継者となって悪鬼や業魔の出現に備えてほしいと富子から懇願され戸惑う。そんな時、教育委員会から処分されそうになった守が家出した。早季・覚・真理亜の3人は何とか守を発見するが、彼の意志は固く早季達は真理亜を残して町に戻ることに。彼女を待ち受けていた教育委員会に反抗し処分されそうになった早季を助けてくれた富子に対し、守と真理亜の命の保証と引き替えに、2人を連れ戻すことを約束した早季だが、結局彼女は2人を見つけ出すことは出来なかった。そして、第5章では26歳になり町の保健所に勤めるようになった早季が描かれる。バケネズミのコロニー同士が不可解な戦争を始めた矢先に、夏祭りに乗じてバケネズミが町に攻めてきた。呪力のある人間にとうてい勝ち目のないはずのバケネズミが決起した裏には恐ろしい秘密兵器の存在があった…という展開である。
 そして、物語の終末に向けて様々な謎が明らかになっていく。確かにこれはSF小説であり、かつミステリ小説でもあった。最初はなじめなかったこの作品の世界観にもすっかり慣れ、可能性は低いだろうが同じ世界観の別のストーリーがもし作られることがあったら是非読んでみたいと思う。私が最初に読んだこの著者の作品「黒い家」に対しての自分の過去の書評を読み返してみて、その酷評ぶりに我ながら驚いたが、今回の作品で著者に対する印象は随分変わった。大絶賛とまではいかないが、読んで損のない作品である。

『アクロイド殺人事件』(アガサ・クリスティ/新潮社)★★

 今月6冊目である。1カ月にミステリー小説を6冊も読むのは自己の過去最高記録かもしれない。「そして誰もいなくなった」が意外と面白かったので、クリスティの代表作を一通り読むことを決意し、「そして〜」の次に選んだのが本作品。あとは「オリエント急行殺人事件」「ABC殺人事件」あたりが今後の読書候補に挙がっている。本作品は、出版社によって「アクロイド殺し」「アクロイド殺害事件」などタイトルが異なる。著者がベストセラー作家の仲間入りするきっかけになった作品であり、また、現在では珍しくなくなった叙述トリックによりフェア・アンフェア論争が起こるなど発表時大きな話題になった歴史的作品ということで選んだが、「そして〜」や「オリエント〜」に比べると一般的な知名度は今ひとつのような気がする。
 本作品は1926年に発表された長編で、著者の長編としては6作目、名探偵ポアロシリーズとしては3作目にあたる。キングス・アボット村のファンリー荘の主人ロジャー・アクロイドから夕食の誘いを受けた医師ジェイムズ・シェパードは、アクロイドから自分がプロポーズした相手ファラーズ夫人が夫を毒殺したこと、そしてその件で彼女が何者かに脅迫されていることを知らされる。その告白の直後、自殺したファラーズ夫人からロジャーに手紙が届き、そこに脅迫者の名前があるかどうか知ろうとするジェイムスに対しロジャーはそれを拒否し、ジェイムスはファンリー荘をあとにするが、その夜、ロジャーは刺殺体で発見される。警察は、事件直後から行方不明になっているロジャーの亡妻の子ラルフ・ペイトンを犯人と睨むが、ロジャーの姪フロラ・アクロイドは、婚約者であるラルフの無実を信じ、ジェイムスの隣に引っ越してきたポアロに助けを求め、その依頼を引き受けたポアロは、ジェイムズを助手役に捜査を開始する…といった物語である。
 少々だらだらした展開と、いらっとさせる登場人物達(ポアロとジェイムス以外はいかにも田舎者という感じで教養が感じられない)が気になるが、結末は確かに叙述トリックが一般的でなかった時代には衝撃的であっただろう。しかし、叙述トリックに慣れている現代の読者には、犯人が結構早い段階で分かってしまいそうである。かなり最初の方の場面で、ある登場人物の行動について、あまりに不自然な一文が入っているため大抵の読者は気がついてしまうのだ。その点については、結末の方に振り返る場面があり、「なんと慎重な言葉づかい」と記されているが、誰がどう読んでも単に不審なだけである。ミステリ初心者には十分楽しめる作品かもしれないが、「そして〜」を超える満足感は得られなかったというのが正直なところ。

『黒百合』(多島斗志之/東京創元社)★★

 なんと自分でも驚きの今月7冊目である。またまた自己記録更新だ。今回の作品は「このミステリーがすごい!」2009年版(2008年作品)7位作品である。1952年の夏、3人の少年少女が避暑地の六甲山で出会い、そこで生まれる淡い恋…。本書の帯でも、他の紹介文でも、だいたいそんな感じで紹介されている本書。一体そんな話のどこにミステリーの入る余地があるのか。単にそれだけの青臭い文芸書なら正直あまり読む気はしないと思いつつも借りてしまったので、とりあえず読み始める。目次によると、その1952年の少年少女の話と、そこから17年さかのぼった別の話が並行して語られるスタイルのようだ。読んでいて惹かれるのは、宣伝されている現在(1952年)の話より、やはり過去の方の話。両方の話に共通して登場する人物が何人かいるのだが、それぞれの物語において、はっきりリンクさせられていない人物をつなぎ合わせていくのが、どうも本書の楽しみ方らしいが、1つの殺人事件が途中にさらりと描かれているだけで、いつまでたっても肝心のミステリーらしさはどこにも現れない。どういう終わり方をするのだろうと思いきや、終盤で過去の殺人事件に関連のある殺人事件が再び発生し、ラストで誰も予想しなかった犯人が読者のみに明かされる。著者のミスリードもあって、まず犯人当ては不可能と思ってよい。この作品の味わいは、そんな叙述トリックうんぬんよりも、少年少女達が事件に関わり犯人に迫っていくというありがちなパターンでなく、事件の真相など彼らは全く知らぬまま青春真っ盛りの少年少女の夏が終わりを迎えるという展開にこそあるのではないかと思う。叙述トリックだけなら目新しいものではないからだが、やはり中学生の青春物語がメインに据えられていることについては好き嫌いが出てしまうのは仕方がないかもしれない。 読み終えた直後に著者の失踪がニュースになってちょっと驚いた。

『ABC殺人事件』(アガサ・クリスティ/新潮社)★★

 今月ついに8冊目。決してヒマなわけではないのだが…。ポワロのもとにABCの署名のある挑戦状が届き、被害者名と事件現場名がアルファベット順となるような連続殺人事件が発生する。第1の事件がアンドーヴァでのアリス・アッシャー殺害、第2の事件がベクスヒルでのベティ・バーナード殺害というように。最初から、いかにも犯人らしき怪しい人物が登場しているが、ミステリに慣れている読者であれば、明らかな犯人が探偵役によって追い詰められていくコロンボ的展開ではなく、著者がミスリードを狙っているものであることはすぐに気が付く。この作品も「アクロイド殺人事件」同様、だらだらした展開が結構気になるが、そこから一気に事件に片が付く結末は確かにそれなりの爽快感がある。しかし、その解決の過程には多少の無理を感じざるを得ない。怪しい人物が捕まった時に、その人物と真犯人がポアロの言うようなつながりを持っていたのであれば、真犯人が残した物証が絶対見つかるはずなのに、何も発見されなかったというのはあまりにも不自然。そのあたりの不満点を除けば、よく計算された作品ではある。

 

2010年1購入作品の感想

『四日間の奇蹟(朝倉卓弥/宝島社)★★

  第1回「このミス大賞」大賞受賞作品。「このミス大賞」大賞受賞作品で過去に読んだのは、第2回の「パーフェクト・プラン」、第4回の「チーム・バチスタの栄光」、第5回の「ブレイクスルー・トライアル」、第6回の「禁断のパンダ」以来、5冊目である。
 ピアニストとして将来を期待されていた如月敬輔は、留学先のオーストリアで日本人家族を襲った強盗の銃撃から少女を救うため左手の薬指の先を失った。両親を失い身寄りのなくなった少女・楠本千織は如月家に引き取られ、ピアニストとしての道を閉ざされ帰国した敬輔と一緒に暮らすことになる。彼女の特殊な才能に気が付いた敬輔は、彼女にピアノを教え、様々な施設を2人で慰問するようになった 。そして、2人でとある施設を訪れた敬輔は、人見知りの激しい千織が、その施設の職員・岩村真理子になつく姿に奇妙な感覚を抱く。敬輔と同じ高校の後輩で、敬輔に想いを寄せていたことを告白した真理子だったが、千織を連れてヘリコプターを見に行った彼女を悲劇が襲う。物語の真ん中当たりまで微笑ましい話が続き、一体この物語のどこがミステリーなのか?と思っていたらこのあと衝撃の展開が…。
 ここからはネタバレなので注意。真理子は落雷によるヘリコプターの墜落事故に巻き込まれて重傷を負い意識不明の状態が続くのだが、軽傷で済んだ千織が目覚めると、その体には何と真理子の心が宿っていたのである。この作品の「あとがき」で「物語の核になる仕掛けが、ある人気作家の先行作品とほとんど同一」という指摘をされており、気になっている読者もいるであろうが、その先行作品とは1998年に刊行され、翌年映画化もされている東野圭吾の「秘密」である。まあ「秘密」に限らず(実は未読なのだが)、何か弾みで登場人物の体と心が入れ替わるというパターンは今時全く珍しいものではないのだが、ミステリーらしいミステリーを期待していた自分としては、その非現実的でSFチックな展開には、驚きと共に少なからず失望感も感じた。また、その「奇跡」は(なぜか作品中の記述は題名に用いられている「奇蹟」ではない)四日間だけのものであると真理子の夢の中で何者かがつぶやいたというのもご都合主義的すぎて素直に受け入れられないものがあったのも事実。しかし、この後の、あまりの出来事に戸惑う敬輔と真理子の2人が次第に心を通わせていく様子は確かに感動的である。全てが終わった後のエピローグとも言うべき終章も期待を裏切らない。読み終えて思ったほどの感動を味わえた気がしなかったのは、最初に期待しすぎていたせいだと思われる。読んで決して損のない名作の一つであることは保証しよう。

『アマルフィ(真保裕一/扶桑社)★★

  フジテレビ開局50周年記念作品として2009年7月公開された映画公開に先立ち4月に刊行された作品。この映画の脚本は、監督の西谷弘氏と真保裕一氏の2人が担当したが、真保氏が「1人で書き上げたわけではない」という理由でクレジットに名前を載せることを辞退したため、映画の脚本家のクレジットが存在せず、日本シナリオ作家協会が制作者側に抗議を申し入れるという「脚本家無記名問題」に発展した。真保氏が「最初の(自分の)アイディアが気に入っていたので小説ではそちらを採用した」「(映画の脚本は)最終的には自分の直しではないので、小説家仲間にこれが自分の脚本だとは思われたくない」と語っているように、映画の方では西谷氏によって不本意なものに変えられたことに納得できなかったようだ。案の定、映画は不評。内容の異なる小説版は、「ホワイト・アウト」で大きな感動を与えてくれた真保氏の作品だけに期待していたのだが、「このミステリーがすごい!」2010年版(2009年作品)には残念ながらランキングされず。2009年発表の国内作家のミステリー作品だけで550冊以上もあるのだから、公表される20位以内に入っていなくても仕方がないのかも知れないが、結論を先に言わせてもらえば、決して期待を裏切る作品ではなかった。
 「アマルフィ」は、作品の舞台となるイタリアの世界遺産の名前であり、今回の事件の犯人グループの作戦名でもある。外交官の黒田は、外務大臣のローマ訪問応対のためイタリアの日本大使館に着任早々、並外れた行動力でテロリストを捕らえる。大臣到着5日前、大使館に火炎瓶が投げ込まれるなどしてピリピリムードの中、日本人少女がローマのホテルから誘拐されるという事件が発生するが、事件に関わりたがらない大使館関係者の中で、正義感溢れる黒田だけが「邦人保護担当特別領事」という肩書き通り、少女救出のため上司の命令も無視して活躍するという物語である。
 映画は、ストーリーより先に出演者が決まっていたと言うだけあって、主人公の黒田は、主演の織田裕二のイメージがぴたりとはまる。他の配役も合わせて、そう言う意味では非常に読みやすかった。黒田と犯人グループの駆け引きが見物なのだが、どちらもハイレベルすぎて、こんな駆け引きが実際あり得るのかという疑問がないわけではないが、犯人グループの犯行動機にチェチェン紛争に絡むマスコミが報道しない実在の社会問題が盛り込まれている点など(映画はここをカットしてしまっているらしい)実に読み応えがある。映画で裏切られたと感じた方は、真保氏の名誉のためにも、小説版を是非ご一読願いたい。

『Anniversary50(綾辻行人ほか/光文社)★★

 2009年12月にカッパノベルズの創刊50周年を記念して光文社から刊行された9人のミステリ作家によるアンソロジー。収録されている物語は、すべて「50」という数字をキーワードにして本書のために書き下ろされた作品である。

@深泥丘奇談(みどろがおかきだん)−切断(綾辻行人)
 綾辻作品のファンとしては短編といえど作品が収録されているとなれば見逃せない。2008年にメディアファクトリーから刊行された短編集『深泥丘奇談』の流れを汲む作品。このシリーズでは、京都のある町に長く住みながら「この町の常識」を九州出身の妻以上に知らない、また思い出せないことに対し、悩み戸惑う推理小説作家(綾辻氏自身をイメージしているようだ)が主人公となっている。本作も、主人公が「如呂塚遺跡」近くの湖のほとりの洞窟内で異様なものたちのうごめく姿を夢で見て、そのことを相談した妻から町内で伝説化している「******」かもしれないと告げられたものの、それを知らない自分にいつものように戸惑う主人公の様子から始まる。そのような状況の中、主人公は、通院先の病院の医師から最近発生したバラバラ死体事件について知らされ、マスコミが全く報道していないことに疑問を抱き、同じ病院に入院している刑事に話を聞きに行くのだが…という物語である。
 なぜこの事件は殺人事件として報道されないのか、犯人は50回切断したと証言しているのに、なぜ死体のパーツは51個ではなく50個なのか、という部分が謎解きのメインになっているのだが、前者は読者の想像通り。しかし、ありがちながら主人公の思考がなかなかそこに行き着かない展開が引っかかる。そして、後者の謎は、確かに答えを示されれば一応納得は出来るものの、単なる「なぞなぞ」の域を出ないもので、多くの読者は満足感を得られないだろう。そして中途半端なエンディング。このシリーズに共通するパターンらしく、こういう結末に満足できない方は他の作品をどうぞということらしいが、期待していたファンとしては正直ちょっと残念。

A雪と金婚式(有栖川有栖)
 金婚式(結婚50周年)を迎えた幸せな田所雄二・安曇夫妻の唯一の悩みは、離れに居候している雄二の義弟・重森弼の存在であった。その記念日の翌朝、離れを訪れた安曇は重森の死体を発見する。間もなく角田、折口という2人の容疑者が浮かび上がるが、2人にはアリバイがあった。死体発見の6日後、雄二はあることを理由に2人のうちどちらが犯人か気がつき、警察に向かう直前に階段で転倒して記憶を失ってしまう。どうやって雄二は犯人が分かったのか。鮫山警部補は、犯罪学者・火村英生と作家・有栖川有栖に謎解きを依頼する…という物語である。こちらも、ヒントが途中で与えられるので謎解きはたいしたことはないが、「ちょっといい話」的なものを狙った短編なので気にしてはいけない。

B五十階で待つ(大沢在昌)
 ある日、新宿タワーホテル50階の一室に向かう主人公。新宿の街を陰から支配する超大物「ドラゴン」は、後継者候補を街から見つけて「テスト」に合格した者を次の「ドラゴン」に指名するという噂が昔からあったが、主人公は、前夜その「ドラゴン」の部下と思われる人物から呼び出しを受けたのだ。裏DVD屋の雇われ店長、メンキャバの従業員、クラブのセキュリティというように職を転々とし、ぱっとしない人生を歩んでいる主人公は、果たしてそのテストに合格することが出来るのか…という物語である。大沢在昌と言えば『新宿鮫』、『新宿鮫』と言えば新宿署の刑事・鮫島。その鮫島が、この作品にもしっかり登場する。主人公にどう絡んでくるのかが見物。短編と言うことで、上記の2作品同様、過大な期待を抱いてはいけないが(3作目まで読み進めてきて、やっと本書の楽しみ方が分かってきた…)、軽い気持ちで読めば『新宿鮫』ファンには楽しめる作品。

C進々堂世界一周 シェフィールド、イギリス(島田荘司)
 島田作品で過去に読んだものと言えば、「このミス」89年版3位作品であった吉敷竹史シリーズの一つ『奇想、天を動かす』のみ。自分のHP作成以前に読んだものなので、自分の感想コメント等も残っておらず、ストーリーも忘れてしまったのだが、自分の読書表には最高評価の★★★をつけているので、満足できる作品だったのだろう。国内外のミステリー史に明るくないため読書前に著者について調べてみたところ、この世界ではすごい御仁らしいことが分かった。デビュー作でもあり代表作の一つでもある『占星術殺人事件』(1981年刊行)は2008年に改訂完全版が出ているそうなので是非読みたいと思った。
 さて、本作は前述した吉敷竹史シリーズとは別の御手洗潔シリーズの流れを汲むものである。京大受験を目指す予備校生の「ぼく」は、世界放浪の旅から帰ったばかりの御手洗が、障害を持つ定食屋の店員に見事な気配りをする場面を目撃する。喫茶店に入った2人だが、そこで「ぼく」は御手洗から、イギリスで出会った障害者の青年の話を聞かされる。その青年はIQが50しかないが、重量挙げに目覚めて300ポンドまで上げられるようになった。全国大会に出るにはあと50ポンドをプラスした350ポンドを上げられるようにならないといけないのだが…という物語である。
 この作品にも、例に漏れずきちんと「50」というキーワードが埋め込まれている。しかも2つも。最初に断っておくが、本作はミステリではない。ミステリ作家の名が多く連ねられていたので勝手にミステリ短編集だと思いこんでいたが、もともと本書には最初からどこにもミステリとは書かれていないのである。そんなことに今更ながら気がついたのだが、本作は現代社会における障害者の現状改善について真摯な姿勢で取り組んだ作品であり、『雪と金婚式』とは違った意味で「ちょっといい話」である。

D古井戸(田中芳樹)
 学生時代に『アルスラーン戦記』『銀河英雄伝説』を読破した覚えがあるが(田中芳樹三長編の中で『創竜伝』のみ未読。あと『タイタニア』は読んだ)、それ以来、久しぶりの田中作品である。
 舞台は戦後のイギリス。主人公は警官を退職した老人で、彼が誰かに50年前の過去の体験を語って聞かせる形をとっている。50代続いているホワイトウッド家の当主リチャードからの、祟りが気になるので刑事を1人寄越してくれという警視庁への要望に対し、派遣されたのが若かりし頃のこの主人公であった。20代前の当主が愛人を殺害し井戸に捨てたらしいのだが、その愛人が死の直前に50代目の子孫に祟ってやると言い残したのだそうだ。実際にその古井戸に柵を付けようとした大工が何人か事故で死んでいるらしい。土地管理人のヘンリーの小屋でお茶をごちそうになった主人公が、ホワイトウッド家に泊まった夜に事件は起こった。ヘンリーがリチャードを襲い、失敗して逃げ出したヘンリーが例の古井戸に落ちたのである…という物語である。
 ミステリ的にはありふれたものを用いているが、結局真相は闇の中という独特の余韻を残す短編である。

E夏の光(道尾秀介)
 数々の賞を受賞してきた若手作家らしいが、この著者の作品を読むのは初めてである。
 明日から夏休みが始まることに喜びを隠しきれない利一と慎司は、下校途中にクラスメイトの宏樹たちが、同じクラスメイトの清孝を取り囲んで問い詰めている場面に遭遇する。宏樹は、彼の父が撮った写真に、子ども達が可愛がっていた野良犬のワンダを清孝が殺した決定的証拠が写っていると主張しているのだ。清孝犯人説に疑問を感じた利一は、町の広報誌の写真を見ていてあることに気がつく…という物語である。
 上記のあらすじの中に「50」という数字は登場しないが、あとからしっかり出てきて謎の解明に関係する仕掛けになっている。本作の謎解きもそれ自体はたいしたものではないが、心温まる「ちょっといい話」に仕上がっている。

F博打眼(宮部みゆき)
 これまでに『火車』『理由』『模倣犯』といった満足度の高い作品を読ませてもらった宮部氏による今回の短編は「妖怪モノ」である。「妖怪モノ」と言えば京極夏彦氏だが、子どもを中心にした軽めの作品になっている。
 舞台は江戸時代か、醤油問屋・近江屋の主人・善一は朝食中、突然兄の政吉が死んだと言い出した。そして「あれがうちに来る」と言った直後に、何かが近江屋に飛んできて、善一たちはそれを三番蔵に閉じこめた。善一の娘のお美代は、黒い蒲団のような化け物を目撃した近所の男の子・太七とともにその正体を調べ始めるが、町飛脚・山登屋の居候・竹次郎と、人語を話す神社の狛犬の協力により、その化け物が50の目を持つ「博打眼」という名の災いをもたらす存在であることを知る。狛犬の話では「博打眼」を退治するには、笊を背負った犬張り子が50体必要だという。善一たちはさっそく犬張り子を集め始めるのだが…といった物語である。
 「怪異に負けない子供たちをとても楽しく書きました」という冒頭の作者のコメントの割には子供たちが特に活躍するわけではなく、その辺は少々期待はずれなのだが、狛犬と子供たちのほのぼのとした交流は読んでいて微笑ましい。以前「博打眼」を引き受けた政吉のエピソードや「博打眼」の最期の場面など見所は結構あって、それなりに楽しめる作品ではある。この話で犬張り子に笊を背負ったタイプがあることを初めて知った。

G天の配猫(森村誠一)
 森村氏の作品を読むのは初めて。華々しい経歴を見て期待しながら読み始めた。
 駅でひったくりに遭い転倒して死亡した老婆。地方から一旗揚げようと上京するも全財産を掏られて呆然とする青葉良男。青葉良男に同情して自室に招き入れ食事をごちそうする杉村弥生。杉村弥生の下着を狙う変態性欲者の遊佐正美。杉村弥生が探していた猫を彼女に届けようとするホームレスの太田虎吉。杉村弥生の部屋で彼女の死体を発見し飛び出した太田虎吉と廊下で鉢合わせした杉村弥生の隣人の佐山幹雄。さあ、事件の真相は…?という物語である。最後はちょっとあっけないが、これらのパズルが一つに合わさって事件が解決するというミステリらしいミステリ。キーワードの「50」を含んだ物が決め手となる。

H未来の花(横山秀夫)
 正直ここまでの8作品の中に心から満足できる作品はなかった。最後は『動機』『半落ち』『震度0』といったレベルの高い作品を過去に読ませてもらった横山氏の作品。他にこれまで見たことのあるTVドラマ『臨場』、映画『出口のない海』の原作も横山氏の作品であることを恥ずかしながら最近知った。結論から言わせてもらえば、この作品は大当たりである。
 入院中のL県警検視官・倉石義男を訪ねてきたS県警察本部刑事部捜査第一課警部・今村幸政。妻に対する容疑が深まっている「証券マン殺し」事件に関して意見を求める今村に対し、倉石は現場の写真から「自死」と断言する。全く理解できず戸惑う今村。果たしてその根拠とは…?という物語である。
 キーワードの「50」は、なぜか倉石がナースに「五十さん」と呼ばれているというところに登場するが、この部分の謎解きはたいしたことはない(それでもきちんと結末に絡んでいるところはさすが)。やはり見所は先の倉石の見立てについての説明。そして、もう一撃読者をうならせる弾を作者は最後に用意している。文句なしの傑作である。

 

2010年購入作品の感想

『樽(F・W・クロフツ/東京創元社)★★

  図書館で素晴らしい本を見つけた。『東西ミステリベスト100』というタイトルの文庫本である。今から24年前の1986年に刊行されたこの本は、海外のミステリと国内のミステリをそれぞれ100作品ずつランキングし、あらすじやその作品にまつわる蘊蓄を紹介しているのだ。ミステリの古典をきっちり勉強してみたいと思っていた自分にはぴったりのガイドブックである。昨年読んだばかりのアガサ・クリスティ作品『そして誰もいなくなった』は4位、『アクロイド殺し』は8位にランクインしており、『ABC殺人事件』はランク外であった。このランキングを参考に、2位作品の『幻の女』〈ウイリアム・アイリッシュ〉(ミステリが読みたい!2010年版オールタイム・ベスト・ランキングforビギナーズ2位)、3位作品の『長いお別れ』〈レイモンド・チャンドラー〉(同4位)、17位作品の『死の接吻』〈アイラ・レヴィン〉(同5位)の3冊を書店で購入、7位作品であるこの『樽』と16位作品の『黄色い部屋の謎』〈ガストン・ルルー〉の2冊を図書館で借りた。さて、この『樽』は著者のF・W・クロフツが鉄道技師をしていた40歳の時、入院中に書いた処女作であり代表作であるとのこと。翻訳者の癖なのか、「」の独特の使い方が気になったが、49ページの「問題の樽は明るい青色に塗ってあり…」は、明らかに「問題の樽を乗せた馬車は明るい青色に塗ってあり…」の間違い。
 さて、ストーリーはこうだ。フランスからロンドンへ運ばれた樽の一つが汽船から降ろしている最中に一部が壊れ、樽のラベルには彫刻入りと記されていたが、中から出てきたのは金貨と女性の死体であった。宛名のフェリックスという人物の住所はでたらめであったが、波止場にそのフェリックスを名乗る人物が現れ、荷物を引き渡そうとしない船会社をトリックでだまして樽を持ち去ってしまう。警察はフェリックスの居場所を突き止めるが、ロンドン警視庁のバーンリー警部に対し、ある手紙によって警察を欺かざるを得なかったことをフェリックスが釈明した直後、またしても何者かに樽が奪われる。バーンリーの地道な捜査によって、ついに樽は発見され、「君に借りた50ポンド、2ポンド10シリングの利子を付けて返す」というメッセージ入りの封筒と共に女性の死体が姿を現した。女性の名を叫んで気絶するフェリックス。バーンリーはフランスに渡り、パリ警視庁のルファルジュ警部と組んで捜査を開始する。そして、フェリックスの受け取った手紙を書いたとされるル・ゴーティエは、それを否定。樽を発送した美術商は、間違いなく彫刻を詰めて発送したと証言。そしてサン・ラザール駅の駅長の証言から、該当の樽を発送した3日後に、また同じような樽がフェリックス宛に発送されたことが判明。謎がどんどん深まっていく中、ついに死体の女性の身元が判明する。 女性は、パリのポンプ会社の専務取締役・ボワラックの妻・アネットであった。その後、第3の樽の存在が浮上。バーンリーは3つの樽が同一の物で、パリとロンドンを往復していたのではないかと推理し、ルファルジュとの地道な捜査を続けた結果、犯人はフェリックスかボワラックのどちらかではないかと考える。ボワラックのアリバイが次々に明らかになっていく中、ついにフェリックスの自宅から決定的な証拠が3つも見つかりフェリックスは逮捕されることに。フェリックスの友人で医師のマーティンは、フェリックスの無実を信じ、彼を救うために、ロンドンの弁護士・クリフォードに弁護を依頼する。クリフォードは調査を続ける中で彼の無実の証明の困難さを痛感し、私立探偵ラ・トゥーシュに調査協力を依頼した。 ラ・トゥーシュは、ボワラックへの容疑を深めていくのだが、果たして彼のアリバイを崩せるのか…という物語である。
 結末近くまであらすじを書いてしまいネタバレ気味になってしまったのはご容赦願うとして、本作は途中で何回か探偵役が変わるが、彼らに共通するのは地道に自分の足で捜査を進めていくところであろう。読了するのに相当の時間を要したが、その地道な捜査の場面は決して鬱陶しいものではなく、無駄に長い一部のミステリとは一線を画すものであった。ただ、アリバイ崩しが最後の山になっているとはいえ、巻頭の地図にない地名が次々に出てきて(これは序盤からずっとであるが)、そこに細かな時間の話が繰り返し出てくるとと正直完全について行けずに流し読みしてしまったところがあったのも事実。メモをとりながら読まないと100%楽しむのは困難な気するのは自分だけであろうか。地名に関しては、ヨーロッパの読者にはなじみのあっても日本の読者には分からない場所が多いと思うので、もう少し詳細な地図を付けてほしかったところ。トータルとしては、海外ミステリ歴代7位というランキングに十分納得できる作品であった。

『新参者(東野圭吾/講談社)★★★

  「このミステリーがすごい!」2010年版(2009年作品)1位作品。テレビドラマ化も早速決定したらしい。この作品の特徴は、ミステリ小説らしく確かに殺人事件が最初に発生し、その犯人を見つけるため刑事が捜査を開始するのだが、 前半においては、その被害者に焦点をほとんどあてないところである。日本橋で発生した一人暮らしの女性が絞殺死体で発見されるという事件を捜査するため着任したての 「新参者」刑事・加賀恭一郎は、犯人に繋がる情報をつかむため聞き込みにまわるのだが、その聞き込み先で展開される様々な人情ドラマがこの作品の肝なのである。ちょっとどころか、極上の「いい話」が9つも用意されている。
 第1章「煎餅屋の娘」は、美容師を目指す煎餅屋の娘・聡子の物語。聡子のところにやってきた保険会社の外交員・田倉は、被害者の女性が殺害される直前に彼女の部屋を訪れていた。しかも彼が事件当日の行動について嘘をついていることを加賀から聞かされた聡子は事件に興味を持つのだが…。
 第2章「料亭の小僧」は、主人に頼まれて女将に内緒でいつも人形焼きを買わされている料亭で修業中の修平の物語。聞き込みに来た加賀から殺人事件の現場に人形焼きがあったことを聞かされた修平は主人を疑うが…。主人と女将の人情味溢れる人間性が見事に描かれている。
 第3章「瀬戸物屋の嫁」は、器量の良いキャバ嬢を嫁にもらったまでは良かったが、嫁と姑との間に挟まれ苦悩するサラリーマン・尚哉の物語。瀬戸物屋を経営している自宅を訪ねてきた加賀が、なぜ妻の名前を知っていたのか修平は気になって…。これもちょっと ホッっとするいい話。
 第4章「時計屋の犬」は、娘の駆け落ちが許せない町の時計屋の主人・寺田玄一の元で働く米岡彰文の物語。被害者は、殺害される直前に、犬と散歩中の玄一と公園で出会っているはずなのだが、なぜか目撃者がいない。玄一はなぜ嘘をついているのか…。最初に出てくるからくり時計が最後のオチに絡んでいる点もお見事。
 第5章「洋菓子屋の店員」からは、ついに被害者と被害者の家族が登場してくる。被害者の息子であり、家を飛び出し小劇団の役者をしている清瀬弘毅は、母親の死を父親から知らされ衝撃を受ける。知らないうちに自分の近くで一人暮らしをしていた母のことを少しでも知りたいと、色々調べ始める弘毅。被害者の身近には妊娠している知人がおり、また被害者は洋菓子屋に通っていたことをつかんだ加賀は、ついに被害者が息子の近くに引っ越してきた理由を突き止め、それを弘毅に伝える。少しマンネリ化してきた展開を、被害者の家族を登場させることで大きく動かし、読者に刺激を与えようという作戦だろうが、今回ばかりはオチが見えてしまったな…と油断していたら、最後にしてやられた。
 第6章「翻訳家の友」では、被害者の死に責任を感じている、彼女と一緒に翻訳の仕事をしていた吉岡多美子の物語。被害者と会うはずだった予定の時刻に彼女は殺された。多美子は急に婚約者と会うことになったために、被害者と会う時間をずらしてもらったのだが、そのせいで彼女を助けることができなかったと悔やんでいるのである。しかし、最後に加賀が多美子を苦しみから解放する。このエピソードに始まったわけではないが、これまでの章の出来事や登場人物が複雑に絡み合っていて、このあたりもお見事としか言いようがない。
 第7章「清掃屋の社長」は、清掃屋の社長である被害者の夫・清瀬直弘の物語。社長秘書として元ホステスの女性を身近に置くようになった直弘を腹心の岸田要作は責めるが、直弘は全く耳を貸そうとしない。被害者 が殺害される前にお金が必要になって直弘から離婚時の慰謝料の増額を考えていたらしいことが分かった加賀は、弘毅にそれとなくそのことを話したのだが…。物語は加速度的に進んで行き、第8章「民芸品屋の客」でついに凶器が特定され、読者にも犯人が見えてくる。余談だが、この章に出てくる岸田玲子は、この作品中で一番不愉快なタイプの人間かも知れない。そして、最終章「日本橋の刑事」で事件は解決。最後の1行まで計算し尽くされた本作品が「このミス」1位に輝いたのも納得。一分の隙もない傑作である。

『死の接吻(アイラ・レヴィン/早川書房)★★

  『樽』の読後評でも書いたように、『東西ミステリベスト100』17位 にして「ミステリが読みたい!2010年版オールタイム・ベスト・ランキングforビギナーズ」5位の本作品を、他の何冊かの作品と一緒に購入したので早速読んでみた。著者の処女作であり代表作であるという点では、F・W・クロフツの『樽』と共通するものがある。しかし、驚くべきは、F・W・クロフツが『樽』を書いたのが40歳であったのに対し、アイラ・レヴィンが本作品を書いたのは弱冠23歳の時なのである。
 ドロシイ、エレン、マリオンという3つの章からなる本作品であるが、その各章のタイトル名は社長令嬢の3姉妹の名前である。いつもの如くあらすじを記そうと思うが、真犯人の名前以外は書いてしまっていいだろう。なぜなら本作品の「あとがき」には、ちょっと書きすぎではないかと思えるくらい詳細なあらすじが繰り返し書かれているのだから…。読む楽しみがなくなるのではと心配な方はこの先は読まないように。もちろん「あとがき」もだ。第1章では、3姉妹の末っ子で女子大生のドロシイと、彼女の恋人で同じ大学の貧乏学生である「彼」が深刻な状況に陥っている。「彼」は彼女の家の資産を狙っていたが、彼女の妊娠によって計画が狂ってしまったのだ。彼女の父の性格から考えると、彼女の妊娠を知った父は彼女を勘当することが予想され、それでは「彼」は目的の財産を手に入れられないというのに、世間知らずの彼女は貧乏な生活でもいいからと「彼」に結婚を迫ってきたのである。貧乏の辛さを身に染みて分かっている「彼」は、彼女を憎み彼女の殺害を決意する。第2章では、ドロシイの死に疑問を抱いた次女のエレンが、ドロシイの住んでいた街に乗り込み、探偵の如く捜査を開始する。容疑者を2人の学生に絞ったエレンは、大胆にも偽名を使って2人に近づき証拠をつかもうとし、ついに犯人の「彼」の正体を知ることになるのだが、彼女も「彼」に殺されてしまう。第3章では、長女のマリオンに近づき、婚約するところまでこぎつけた「彼」の尻尾をつかんだ青年の執念深い戦いを描く。マリオンの父に「彼」の不審な点を必死に訴える青年。「彼」の野望は成就するのか、それとも、正義感溢れる青年の手によって阻止されるのか、といった物語である。
 真犯人は、エレンが絞り込んだ2人のうちのどちらなのか、それとも別にいるのか。また、「彼」を追い込む青年は、果たして「彼」に勝てるのか、犯人の犯行を明るみに出すことは可能なのか。といったところが、本作品の見せ場である。結構緊迫感があって読者を引きつけるし、各登場人物の描き込みもたいしたものだ。しかし、絶賛ばかりでもない。まず、この世間知らずな姉妹たちが、あまりに頭が悪すぎて、読んでいるとかなりイライラさせられる。若い女性読者は感情移入しやすいのかもしれないが、男性読者の多くは多少なりとも不快感を抱くはずだ。特にひどいのはエレン。次から次へと口から出任せの嘘をついて、さらに後先考えない行動をとり、結局自分の首を絞めている。まったく同情の余地無しである。次に気になったのは、第3章での探偵役の青年の犯人の追い込み方。犯人を攻め落とすための証拠がどれも状況証拠ばかりで弱すぎる上に、やっとちょっとマシな証拠を手に入れたと思えば、その入手方法は犯罪そのものだし、最後の追い込みは理詰めどころか力ずくだし、そこに至るまでにかなり余計な描写が目立つしで、不満な点が数多く目に付いた。ミステリの1つのパターンを提示したという功績は大きいのだろうが、やはり傑作とは言い難い。 

『パフューム ある人殺しの物語』(パトリック・ジュースキント/) 【ネタバレ注意】★★★

 1985年に発表されたサスペンス小説なのだが、今回は映画版にたいしてのコメント(いつもの如くほとんどがあらすじの記録だが)。映画好きの職場の先輩が、これまで見た映画の中で5本の指に入る作品を教えてくれた中にあった作品で、さっそくレンタルしてみた。2006年に製作されたドイツ・フランス・スペインの合作映画で、日本では翌2007年に公開。監督はドイツのトム・ティクヴァ、脚本はトム・ティクヴァとアンドリュー・バーキン、ベルント・アイヒンガー。ストーリーは以下の通り。あまりに気に入ったので、内容を忘れたくない故、いつも以上に詳細にあらすじを書き留めておくことを最初に断っておく。これから、小説や映画に触れようとしている方は要注意。

 冒頭で、牢獄から引きずり出され、興奮する大衆の前に引きずり出され死刑判決を受ける男。その男こそ、この物語の主人公、グルヌイユ(ベン・ウィショー)その人である。彼は、悪臭立ちこめる18世紀のパリの市場で誕生する。市場で魚を売る女が商売中に屋台の下でグルヌイユを出産、放置したことで、彼女は殺人未遂容疑で逮捕される。施設に送られた彼は、誰もかなわない特殊な能力を持っていた。それは、この世のすべての臭いをかぎ分ける能力であった。
 皮なめし職人に売られたグルヌイユは、その能力を生かすことのないまま、5年しか持たないと言われていたこの仕事に適応し、黙々と働きながら成長していく。皮を売るため主人と共に街に出る機会を得た彼は、これまで嗅いだことのない様々な臭いに圧倒される。そして彼は、ある1つの臭いに引きつけられる。それは、果物売りの少女の臭いであった。彼女の後を付け、彼女に悲鳴を上げられそうになった彼は、彼女の口をふさぎ、結果的に彼女を窒息死させてしまう。
 そして、何事もなかったように仕事に戻り、再び商品の配達のため街に出かけたグルヌイユは、落ちぶれた調香師・バルディーニ(ダスティン・ホフマン)の香水屋を訪れ、新進気鋭の調香師がはやらせている香水「愛と精霊」の成分分析に悩んでいるバルディーニの前で、店にある材料を用いてあっという間にその香水を再現したばかりか、その上を行く香水も作ってしまう。弟子にしてくれるよう訴えるグルヌイユを一旦は追い返したバルディーニであったが、結局皮なめし職人から大金で彼を買い取り、彼の作る香水でバルディーニの店は再び昔の繁栄を取り戻す。バルディーニは大喜びだったが、グルヌイユは満足できない。彼が学びたいのは調香の方法ではなく、臭いの抽出の方法だったからだ。もちろん、あの時の少女の臭いを再現するために。バルディーニから「蒸留法」を教わるグルヌイユであったが、金属や生き物からは臭いが抽出できないことを知り、絶望し寝込んでしまう。
 香水の産地・グラースに行けば、もう一つの抽出法である「冷浸法」を学ぶことができるというバルディーニの話に、再び活力を取り戻すグルヌイユ。バルディーニは、金を生むグルヌイユを失いたくはなかったが、グルヌイユが100種類もの新作の香水のレシピを置いていくことで、バルディーニは快く彼を送り出した。彼がグラースに出発した夜、幸せな気分でベッドに入ったバルディーニであったが、彼が再び目を覚ますことはなかった。その夜のうちに老朽化した店が跡形もなく倒壊し、死亡したのである。これまでにもグルヌイユの周辺には常に死の臭いがあった。彼の母親は殺人未遂容疑で死刑、彼を引きとった施設の女は彼を皮なめし職人に売った直後に強盗に遭い死亡、皮なめし職人もバルディーニに彼を売った直後に事故で死亡、そしてそのバルディーニも…といった具合である。やはり、彼には悪魔か死神が取り憑いていたのだろうか。
 グラースへ向かう途中、まったく臭いのない洞窟を見つけてねぐらとした彼は、自分自身に体臭がまったくないことに気が付く。臭いがすべての彼にとって、臭いのないものは存在していないことと同義であった。自分の存在を確かなものとするため、彼は究極の香水を生み出すことへの決意を新たにするのであった。
 無事グラースに着き、バルディーニの書いてくれた紹介状によって職を得たグルヌイユは、主人の目を盗み秘密の実験を始める。2度目の殺人を犯し、巨大な蒸留器に女性の死体を入れてみるが当然の如く失敗。そして、動物の脂を対象物に塗り、臭いの移ったその油から香りを抽出する「冷浸法」をマスターしたグルヌイユは、ついに3人目の被害者となる売春婦の女から、「冷浸法」によってその体臭を抽出することに成功するのであった。
 グルヌイユは、その後も次々と美しい生娘ばかりを選んで殺人を犯し、抽出液の小瓶を増やしていくが、グラースの街は、次々と発見される美女の死体でパニック状態に。エジプトで見つかった古代の究極の香水が13種のエッセンスによって出来上がっていることをバルディーニから聞いていたグルヌイユは、13本目の抽出液の材料として、グラースに来たときから目を付けていたグラース一の美少女ローラ(レイチェル・ハード・ウッド)にこだわる。娘の危機を感じ取ったローラの父親は、娘を街の外に連れ出すが、鼻のきくグルヌイユから逃れることはできず、少女は13番目の抽出液になり果てた。しかし、街ではグルヌイユの住居から少女達の髪や衣類が埋められているのが発見され、グルヌイユは山中で究極の香水を完成させた直後に逮捕されることに。
 そして、これが冒頭の判決シーンにつながっていくわけであるが、その判決シーンは飛ばされ、逮捕後、ローラの父による拷問のシーンをはさんで、いきなり死刑執行の日が描かれる。どういう方法をとったのか、完成した究極の香水の小瓶を牢獄まで隠し持ってきていたグルヌイユは、その香水を処刑当日に使用。係官は彼に色鮮やかな正装を許し、処刑場の広場に集まった群衆は、彼の発する香りに跪き、ひれ伏すのであった。処刑台の上で香水を染みこませたハンカチを振るたびに、歓喜の声を上げる群衆。感極まって泣き出す者まで現れる。そのハンカチが彼の手を離れ、風に舞い、群衆の中に落ちたとき
その感動がピークに達した群衆は皆衣服を脱ぎだし、前代未聞のエキストラ750人によるラブシーンへと突入。正気を保っていたローラの父が、グルヌイユを狙撃して皆が我に返る展開を予想していたのだが、「わしはだまされん」と処刑台に駆け上がってきたローラの父も、グルヌイユを目前にして「我が息子よ…」と泣き崩れる。呆然とあたりを見回すグルヌイユの目には、いつの間にか最初に殺した少女の姿が映っていた。自分の求めるべきものは、究極の香りなどではなく、愛し愛されることであることを悟った彼は、グラースから姿を消した。
 グラースでは、我に返った人々がその日あったことを羞恥心のためになかったこととし、司法当局はグルヌイユの雇い主を真犯人として処刑してしまった。そしてグルヌイユは、ある夜、自分の鼻の記憶によって生まれ故郷の市場に戻ってきた。その究極の香水によって世界征服も百万の富も夢ではなかったグルヌイユであったが、自分のこれまでの行為の愚かさ、虚しさに気付いた彼は、残った香水のすべてを頭に振りかける。押し寄せる正気を失った群衆に身を任せ、食い尽くされて跡形もなくなる彼の体。夜明けに衣服も子供たちに持ち去られて、後に残ったのは究極の香水が入っていた小瓶だけであった…。

 あまりのインパクトに、すべてのあらすじを記してしまったが、すべてを読んでしまった方も是非一度映画を見ていただきたい。もちろん何の知識も無しに見るのが一番理想的ではある。レンタルしたDVDに何パターンかの予告編が付いていたが、あれもかなり見せすぎである。蒸留器の中の女性のシーンや、処刑台の上で群衆を煽る主人公のシーンなど、重要なシーンを安易に公開してしまうべきではなかった。この作品は、見た後にすっきりするわけでもないが、特に後味の悪さを引きずることもない。今まで体験したことのないインパクトと、独特の余韻を与えてくれたこの作品は、自分の見た映画の中でも確かに5本の指に入る傑作であった。

『黄色い部屋の謎(ガストン・ルルー/東京創元社) 【ネタバレ注意】★★

  『東西ミステリベスト100』7位作品である『樽』と一緒に図書館で借りた同16位作品の『黄色い部屋の謎』 。いかにも古風な感じのタイトルが新鮮に感じられる。F・W・クロフツの『樽』、アイラ・レヴィンの『死の接吻』に続き、これも著者のデビュー作である。しかし、彼らと少し違うのは、『東西ミステリベスト100』にランキングこそされていないものの、『オペラ座の怪人』という代表作を別に持っていることであろう。最近の例に漏れず、読書記録として結末まであらすじを記すので、この先を読む方はご注意を。

 事件は、スタンガースン博士が住むグランディエの城の離れである、通称「ぶな屋敷」と呼ばれた建物の中で起こる。この屋敷のメインルームは博士の実験室であり、その部屋の隣に、博士の娘で助手でもあるマチルド・スタンガースンの私室「黄色い部屋」があって、実験室に博士とスタンガースン家の老僕・ジャックがまだ残っている時に、マチルドが何者かに襲われて瀕死の重傷を負ったのである。鍵がかかっていて密室状態だった部屋に、博士とジャックが扉を破って飛び込んだ時、そこに犯人の姿はなかった。一体犯人は誰なのか、そしてどうやって逃げたのか。その謎に挑むのは、弱冠18歳の新聞記者ルールタビーユ と、その相棒であり本作の記述者となる弁護士・サンクレール。 そして、再び犯人がスタンガースン邸のマチルドの部屋に侵入しているのを発見したルールタビーユは、屋敷の廊下の各所に、ライバルとなる名探偵フレデリック・ラルサン、老僕のジャック、スタンガースン博士の3人を配置してから、犯人を取り押さえるべくマチルドの部屋の窓から飛び込んだが、廊下へ逃げ出した犯人はまたしても4人の前から煙のように消えてしまうのであった。そして、その数日後、三たびマチルドを襲う犯人。ルールタビーユとラルサンは睡眠薬で眠らされてしまったため、やむなく逃げ出した犯人に発砲するサンクレール。ジャックも発砲し手応えがあったが、庭で見つかったのは森の番人の刺殺体であった。マチルドの婚約者、ロベール・ダルザック教授を犯人と断定し、彼を警察に逮捕させたラルサンに対抗心を燃やすルールタビーユは、ダルザック教授の裁判の日に自分が現れなかったらこれを開けて読み上げるようにと新聞社の社長に真犯人の名前を書いた手紙を渡して旅に出た。果たしてそして裁判の日に裁判所に現れたルールタビーユに衆人の注目が集まるが、真犯人の名を明らかにするのは4時間後と告げ、裁判所内は大混乱。そして4時間後、ルールタビーユによってついに明かされたのは、なんとラルサンの名であった…。

 この若い主人公の自信満々の態度と、サンクレール(筆者か)のやたらテンションが高く、今ひとつしまりのない文章が、面白 いと言えば面白いが大雑把と言えば大雑把に感じられ、この辺は評価が分かれそう。巻末の解説で問題点として挙げられている、謎のまま続編に引き継がれてしまういくつかの件については、それほど気になるものではなく、名探偵=犯人という1つのパターンを高いレベルで確立した歴史的作品という評価は全く間違いではないと言える。ただし、やはり本作品を文学的視点で見たり、現代のミステリのレベルで見てしまうと、大満足とは言えないのは仕方のないところ。

『幻の女(ウイリアム・アイリッシュ/早川書房) 【ネタバレ注意】★★★

  『東西ミステリベスト100』、『ミステリが読みたい!2010年版オールタイム・ベスト・ランキングforビギナーズ』の両方で2位にランクされた作品だけに、否が応でも期待は高まる。

 ある夜、妻と口論の末、家を飛び出した株式ブローカーのスコット・ヘンダースンは、気晴らしに近くのバーで出会った変わった帽子をかぶった若い女性に声をかける。彼女とレストランで食事をし、ショーを見に行った後、彼女と別れて深夜に帰宅してみると、そこには3人の刑事がおり、スコットのネクタイで絞殺された妻の死体と対面することに。彼は、一緒にいた変わった帽子をかぶった女性にアリバイを証明してもらおうとするが、帽子のこと以外に彼女の特徴をまったく覚えていないことに気が付く。しかも、バー、レストラン、タクシー、劇場という具合に、彼のたどったルートでいくら聞き込みをしても、目撃者は皆、スコットは1人だったと証言するのである。彼には若い愛人がおり、離婚を承諾しない妻ともめていたという事実があったこともあって、彼は殺人容疑で逮捕され、死刑判決を受けてしまう。彼は幻を見ていたのか、それとも目撃者全員が勘違いをしているのか、はたまた目撃者全員が何らかの理由で彼を罠にはめようとしているのか…。死刑執行の日まで残された時間は僅か。彼は親友・ロンバードに最後の望みを託す。 スコットに君は無罪だと思うと告げた刑事・バージェスは、バーに勤めるバーテンに真実を吐かせようと女を使って彼をつけ回し精神的に追い込むが、追い込まれたバーテンは事故死。スコットが事件の夜出会った盲目の乞食を見つけたロンバードだったが、その乞食も謎の死を遂げる…。
 帽子の女を見つけるため、調査を続けるバージェスとロンバード。ミステリ好きの読者なら、一見スコットの味方と思われるこの2人のどちらかが犯人なのではないかとお疑いのことであろう。女を使って執拗にバーテンをつけ回させ、結果的に彼を死に追いやったバージェスに読者は引っかかるものを感じるであろうし、ロンバードの呼び出しに応えて盲目の乞食の住処にやってきて、発見した乞食の死体を前にロンバードをさっさと家に帰そうとするバージェスの態度に読者はさらに疑念を深めることになるであろう。これは、バージェスが犯人であることを示唆しているのか、あるいはロンバードが犯人ではないかと考えている読者の注意をそらすための著者の小細工なのか、はたまた、全く別の真犯人がいるのか、色々と読者を悩ませてくれる。(本作品をこれから読もうと考えている方は、この後結末まで記すので、そろそろこの文を読むのをやめた方がいい。)
 そして、スコットが劇場で帽子の女と一緒に見たショーの出演者の一人で、帽子の女に興味を示していたドラマーの存在を突き止めたバージェスは、スコットの愛人・キャロルに調査をまかせる。ドラマーの部屋でついに彼の口から帽子の女の存在をなかったことにするための口止め料がある男から支払われたことを知るキャロルであったが、身の危険を感じ部屋を脱出した彼女がバージェスと共に再びその部屋を訪れた時には、ドラマーは既に死んでいた。翌日、ロンバードはショーに出演していたダンサーの元を訪れていた。帽子の女がかぶっていた変な帽子は、このダンサーの特注した帽子のコピー品だったため、その購入先の店を聞き出したロンバードであったが、コピー品の購入者は分からずじまいであった。実際にコピー品を作って売ったのは、その店をクビになったお針子の娘で、しかも随分前に引っ越ししていたからである。スコットの死刑執行1週間前に、ついにお針子の娘の居場所を突き止めたロンバードは、帽子の購入者を聞き出すことに成功する。しかし、帽子の購入者の女性・ピエレットも目当ての帽子の女ではなかった。彼女は友人に帽子を譲ったと証言し、ロンバードの小切手と引き替えにその名と住所を記したメモを彼に渡すが、ロンバードが駆けつけてみると、なんとその名の主は犬であった。ピエレットの真意を質すため、バージェスと共に再びピエレットの部屋を訪れるロンバードであったが、2人はまたしても関係者の死を目の当たりにすることになる。死刑執行日直前、ショーのプログラムの買い取りを始めたロンバードは、死刑執行のその日、ついにスコットが全てのページに折り目をつけて帽子の女が持ち帰っていたプログラムを売りに来た女性を捕まえる。ロンバードは彼女を無理矢理車に乗せ、スコットの死刑が執行される州刑務所へ向かうのだが…。
 (そしてこの先の展開はもう予想が付いていると思うが、いよいよ結末…)ロンバードの車はどんどん人気のないところに向かっていき、ある場所で彼女を降ろした彼は彼女を射殺しようとする。しかし、それはバージェスによって阻止され、ロンバードは逮捕された。無罪放免になったスコットと帽子の女を演じて殺されかけたキャロルに、事件の真相を話して聞かせるバージェス。しかし、帽子の女の名前だけは「もう済んだこと」と告げてくれはしなかった…。

 以上のような物語である。一番犯人でなさそうな人物が犯人で、怪しそうな人物が実は正義の味方だったというパターンは、今となってはミステリの定番中の定番であるが、70年近くも前の1942年に発表されたとは思えない面白さであった。最近、古典作品をいくつか読んでみたが、正直読んでいる途中苦痛に感じる部分が結構あって読了するのに時間がかかってしまっていたのだが、今回は全くそのようなことはなく一気に読み切ることが出来た。ミステリファン必読の1冊であることは間違いない。

 

2010年購入作品の感想

『ダブル・ジョーカー(柳広司/東京創元社) 【ネタバレ注意】★★

  「このミス2010年版(2009年作品)」第2位、「本屋大賞2009」第3位作品。結城中佐が率いる陸軍の秘密諜報組織「D機関」をめぐる物語をまとめた「ジョーカー・ゲーム」の第2弾。前作は、結城中佐の「死ぬな、殺すな」というポリシーのせいもあって、スパイものにしては生死を懸けて任務に臨むような緊迫感がなく今ひとつの感があったが、果たして前作に続く5つの物語が収められた今回はどうか…。

 第1話は本作のタイトルにもなっている「ダブル・ジョーカー」。ジョーカーは、トランプにおいて最高位の切り札として用いられる一方、時として有害にもなるカードであり、無視できない成果を上げながらも軍隊の常識から逸脱した異端の存在として描かれる「D機関」を象徴した表現と言える。今回は、結城中佐に対抗意識を燃やす風戸中佐によって、もう一つの秘密諜報組織「風機関」が設立され、2枚のジョーカーのうちどちらが生き残れるか、阿久津中将に試されるという物語である。元英国大使白幡樹一郎が、今夜英国のスパイと接触するという情報を、白幡の書生・森島から得た風戸は、部下に森島の処分を命じた後、深夜、白幡の別荘周辺に部下を配置した。しかし、なぜか別荘内に人の気配を感じないことに疑問を抱いた風戸は、一人で別荘内に突入する。そして、無人の屋敷の中を突っ切って一番奥の部屋の襖を開けた時、そこにいたのはなんと結城中佐であった。全ての真相を知らされ愕然とする風戸。
 結城中佐が風戸に格の違いを見せつけるラストに、読者は溜飲が下がる思いを感じるであろう。

 第2話「蠅の王」。前線の現地部隊を慰問団「わらわし隊」が訪れ、野戦病院に急遽設えられた簡易演芸場に詰めかけた日本兵は大喜びであったが、軍医の脇坂は複雑な気持ちでその講演を見守っていた。兄の影響でロシアのスパイになった脇坂は、前線でスパイ狩りが行われており、それに「わらわし隊」が関係しているという情報を得ていたからであった。「わらわし隊」の中の一体誰がハンターなのか、「笑わぬ男」という情報を元に芸人の一人に探りを入れる脇坂であったが、彼の口から出てきた名前に脇坂は驚愕する。その人物にまんまと作戦本部におびき寄せられた脇坂は拘束され、自分の考案した「ワキサカ式」と呼ばれる同志との連絡方法をはじめ、ありとあらゆる秘密が「D機関」によって掴まれていることを知り、愕然とするのであった。
 堂々と「笑わぬ男」について芸人に尋ねる脇坂の不用心さや、現実味がなさそうな「ワキサカ式」と呼ばれる連絡方法にちょっと引っかかりを覚えるが、次々と秘密を暴かれ気力を失っていく脇坂の描写は見事。

 第3話「仏印作戦」。中央無線電信所に勤める民間人の高林は、陸軍の電信係としてインドシナ連邦へ派遣されることになった。土屋少将の通信文を暗号化し、現地ハノイの郵便電信局から日本へ打電、また日本から届いた暗号化された通信文を解読し、土屋少将に渡すのが彼の仕事であった。ハノイに来て1ヶ月後、暴漢に襲われた高林を救ってくれた永瀬は陸軍少尉を名乗り、高林に新たな通信任務を依頼する。何か問題が起きた場合には、「D機関」の名を出せばよいと告げて…。永瀬に言われるがまま任務をこなす高林であったが、「D機関」のメンバーと思しき永瀬に、本部に出入りする現地の商人・ガオが仏印側のスパイではないかと伝えられ、ガオを避けるようになる。しかし、ガオらしき人物に尾行され追い詰められた高林は、その足音をきっかけに自分が永瀬に騙されていることに気づき本部へ連絡、永瀬のもくろみは失敗に終わる。そのおかげで、永瀬に協力していた失態は軍部から不問に付された高林であったが、ガオこそが「D機関」のメンバーであることに思い至るのであった。
 足音をきっかけに永瀬の正体に気がつくくだりが少々分かりにくいが、陸軍と海軍との確執や、軍属の民間人の海外での生活の様子が生き生きと描かれているところなど、「D機関」関係以外の部分でも楽しめる内容になっている。

 第4話「棺」。ベルリン郊外で起こった列車の正面衝突事故。ヴォルフ大佐は、スパイ特有のマッチを持っていた男を尋問し、事故現場のアジア人の死体から奪ったものであるという証言を得る。男をゲシュタポに引き渡し、死体の人物・真木の調査を始めるヴォルフ。真木の自宅からは怪しい物は何も発見されなかったが、ヴォルフはスパイ特有の目立たない警報装置を見つけ、真木がスパイであったことを確信する。ヴォルフは、真木と同じ臭いのする男、日本のスパイ・結城を22年前に捕らえたものの、手痛い反撃にあって逃げられた経験を持っていた。真木の協力者が、真木の遺体が収容されている病院に引き継ぎに現れると考え監視を強化していたヴォルフであったが、彼に気付かれることなく結城自身がその引き継ぎに現れていたことを後で知り呆然とする。
 結城中佐の「D機関」設立前の過去と、その人柄をうかがうことのできる貴重なエピソードである。

 第5話「ブラックバード」。ロサンゼルスの海岸でバードウォッチに興じていた仲根晋吾は、スパイ容疑で警察に連行される。彼の義父であり地元の有力者であるマイケル・クーパーによって解放された仲根であったが、彼こそ二重経歴を持ってアメリカに渡り、西海岸で情報を収集する任務を任された「D機関」のメンバーであった。協力者にすら気付かれることなくバードウォッチを利用して情報収集を続けていた仲根は、ついに組織に紛れ込んだ二重スパイを見つけ出すが、それに満足したのもつかの間、日本の真珠湾攻撃のニュースに驚愕する。第4話でのドイツでの自己処理に忙殺されていた結城の事情と、現地で情報交換をしていた兄の病死に気付かなかった仲根のミスによって、真珠湾攻撃の情報を事前につかめなかった仲根は、彼が時間をかけて築いた情報網をダメージを最小限に食い止めることもできないまま崩壊させてしまったのである。
 ラストで再び警察に連行される仲根。単に不意打ち後に宣戦布告した卑怯な日本の出身者というだけで連行されるのか、彼がスパイであることが漏れて逮捕されたのかが分かりにくく、すっきりしない結末であったが、バードウォッチを利用しての情報収集の仕方や、情報収集のためなら偽の家族まで持ち任務完了後それを迷いなく捨て去る覚悟、嘘発見器の性能確認のためわざと警察に捕まる判断など、スパイものらしい濃い内容で、読み応えのある1編であった。ただ、「天才スパイ達による決死の頭脳戦、いよいよクライマックスへ」という帯のコピーを見ても、本書の結末にしては、やはりこの第5話は弱すぎるという印象は否めない。起死回生を狙った風戸の逆襲、最後の対決を期待していた読者も多いはず。その辺は続編に期待して下さいでは、多くの読者は納得できないと思うのだが。

『長いお別れ(レイモンド・チャンドラー/早川書房) 【ネタバレ注意】★★★

  『東西ミステリベスト100』3位、『ミステリが読みたい!2010年版オールタイム・ベスト・ランキングforビギナーズ 』4位にランキングされた作品。先月購入したものの、他に購入したものや借りたものがたくさんあって、やっと読み始めることができた。

 主人公は、他のチャンドラー作品でも活躍し、ミステリ界では最も有名な私立探偵の1人に挙げられるフィリップ・マーロウ。彼はレストランの前に停められたロールス・ロイスの中で酔いつぶれ、運転する女に置き去りにされた男、テリー・レノックスに奇妙な友情を抱く。テリーを自宅に送るマーロウであったが、11月の末に再会したときも、テリーはやはりショーウインドーの前で酔いつぶれていた。マーロウに再び助けられたテリーは再起を誓ってラスベガスへ旅立っていった。クリスマスの3日前、マーロウは、テリーが一度別れた億万長者の末娘シルヴィアと再婚したことを知らされる。彼女こそ、以前レストランの前にテリーを置き去りにした女性であった。その後、マーロウのオフィスに現れたテリーは、金には困っていなかったものの幸福には見えなかった。そしてある日の早朝、憔悴しきったテリーが拳銃をにぎりしめてマーロウの前に現れ 、飛行機に乗るため国境近くのメキシコの町まで車で送ってほしいと言う。誓って犯罪は犯していないことを宣言するテリーを信じ、言うとおりにしてやったマーロウが帰宅すると、そこには刑事が待ち受けており、シルヴィア殺害容疑で手配されているテリーの逃亡を助けた容疑で執拗な取り調べを受ける。友情のため黙秘を続けたマーロウであったが、テリー自殺の報と共に解放される。事件はシルヴィアの父によって、闇に葬られようとしていた。
 翌朝、マーロウのオフィスにやってきたギャングのボス、メンディはテリーのかつての戦友だった。テリーが自分ではなくマーロウを頼ったことを良く思っていないメンディは、事件のことを忘れるよう忠告して去っていく。3日後、ニューヨークの出版社の代表者、ハワード・スペンサーから翌日会いたいという連絡を受けた後、自宅に帰ると、5000ドル紙幣が入ったテリーからの手紙が届いていた。そこには、妻を殺したかも知れないが、その遺体の顔をつぶしたのは自分ではないこと、そして自分のことは忘れてほしいことが記されていた。翌日面会したハワードの依頼は、行方不明になっているアル中の作家、ロジャー・ウェイドを見つけ出し、書きかけの小説を完成させてほしいというものであり、それはロジャーの美しい妻、アイリーンの願いでもあった。一度は断ったマーロウであったが、翌朝自宅までやってきたアイリーンに泣きつかれ、やむなくロジャーの書き残した「V医師」というメモを頼りに捜査を始めた。もぐりの医者のリストに載っていた3人の「V医師」を訪ねたマーロウは、作家や逃避を求める人々のための芸術村を経営していたヴァリンジャー医師に目を付ける。夜、再びヴァリンジャー宅を訪れたマーロウは、ついにロジャーを発見しアイリーンの元に送り届けたが、テリーやヴァリンジャーのことを知らないふりをしながら知っていたらしい彼女に疑念を抱く。ある夜、バーでテリーの妻の姉、リンダ・ローリングに出会ったマーロウは、彼女たちの父、ハーラン・ポッターが、殺された自分の娘よりもテリーの方に好意を持っていたことを聞かされる。そして、やはり他の人物たちと同じように事件から手を引くよう諭されるのであった。
 ウェイド夫妻にパーティに招かれたマーロウは、そこでローリング夫妻に出会う。リンダ・ローリングの夫で医師のエドワード・ローリングは、ロジャー・ウェイドに対し、自分の妻に近づかないよう忠告する。エドワードは、妻とロジャーの不倫を疑っているらしい。険悪な状況の中、冷静にエドワードを追い出すロジャーを見て、彼を見直すマーロウ。しかし、ロジャーはロジャーで、自分の妻アイリーンとマーロウの仲を疑っていた。それでも、自分が自分を見失わないために側にいてほしいとマーロウに訴えるロジャー。それを冷たく断るマーロウであったが、1週間後、彼からかかってきた緊急の電話に尋常ならざるものを感じて彼の元に駆けつけ、そこで彼が見たのは、玄関で煙草を吸う妻のアイリーンと、頭から血を流して倒れているロジャーの姿であった。結局転んだだけと言うことで、使用人のキャンディと一緒にロジャーをベッドに運ぶマーロウであったが、ロジャーの安否を確認しようともしなかったアイリーンの態度には納得がいかなかった。
 翌朝、リンダ・ローリングにオフィスに呼び出されたマーロウは、ロジャーこそシルヴィア殺害の犯人ではないか、だからマーロウがロジャー宅に頻繁に出入りしているのではないかと彼女が考えていることを知る。そして、彼女は夫の疑念、彼女とロジャーが通じているのではないかという考えを否定した上で、妹のシルヴィアとロジャーに関係があったことを認めるのであった。そして彼女に、彼女の父、ハーラン・ポッターの元へ連れて行かれたマーロウは、ハーランから、たとえ真犯人がテリーでなくロジャーであったとしても事件を蒸し返してほしくないことを告げられる。
 久しぶりにロジャーの元を訪れると彼はまともであったが、ウィスキーを飲み始めると様子が変わってきて、ついに「僕が殺した女の話を残らずする」と言いだし、マーロウが部屋から出た後、拳銃自殺してしまう。ギャングのボス、メンディに電話をし、テリーと一緒にイギリスの部隊に所属し1942年11月にノールウェイである作戦に参加していたことを聞き出したマーロウは、そこからテリーの過去を調べ上げ、彼がアイリーンと結婚していたことを突き止める。テリーが戦死したと思い込んでいたアイリーンはロジャーと結婚するのだが、シルヴィアと結婚しているテリーと再会しショックを受け、テリーもそのショックで一度シルヴィアと離婚していたのである。テリーの過去についてマーロウに暴露されたアイリーンは、テリーと結婚していたことを認めると共に、ロジャーがシルヴィアと通じていたこと、そして彼が彼女を殺害し、しかも自分がその場面を目撃していたことを告白する。しかし、マーロウはアイリーンこそシルヴィア殺害の真犯人であること、そしてロジャーも彼女が殺したことを確信する。アイリーンは、テリーとロジャーという2人の夫を奪ったシルヴィアが許せなかったし、その事情を知っているロジャーを生かしてはおけなかったのだ。
 マーロウに追い詰められたアイリーンは薬物自殺をしてしまい、今度こそ真相は闇に葬られそうになるが、バーニー・オールズ警部は、公開される予定のなかった2人の殺害を認めた彼女の遺書のコピーをマーロウに盗ませる機会を与える。マーロウは、友人テリーの無実を証明するため、危険を承知でこのコピーをマスコミにリークした。予想通り多くの人物を激怒させたマーロウ。遺書が新聞に掲載された翌日の夜、自宅に待ち伏せていたメンディに襲われるマーロウだったが、これはオールズの仕掛けた罠だった。マーロウの前で数々の犯罪について語ってしまったメンディは、ネヴァダから来た代理シェリフに引き渡される。その後、マーロウの自宅にやって来たリンダは、マーロウにプロポーズするが、マーロウは拒絶。翌朝一緒に朝食をとった後、彼女は去って行った。
 弁護士のエンディコットに、テリーからの手紙の内容について疑問をぶつけ、ある結論を出したマーロウの元に、1カ月後、マイオラノスという男が現れる。テリーの最期について語ってくれた彼の正体を見破るマーロウ。テリーはマイオラノスと名を変え、今も生きていたのである。短い会話の後、話すことのなくなった2人は別れを告げ、その後二度と会うことはなかった。

 以上が、この物語のあらすじである。登場人物が多い上に、抽象的で分かりにくい表現が多いのが少々気になる。訳者も理解して訳しているのか疑問な箇所がいくつかあった。終盤の展開も結構分かりにくい。こうしてあらすじをまとめてみて整理するとなんとか理解できるという感じだ。アイリーンに気があったはずの主人公が、いつの間にかラストでリンダと関係を持つのも唐突。男と女は何があるか分からない、と言われればそれまでなのだが…。ここまで細かい不満を記したが、トータルで見れば、「そして誰もいなくなった」「幻の女」同様、ミステリ史に残る名作であることは間違いない。後世のハードボイルド小説は、本作品の影響を多大に受けていることだろう。著者の当時のアメリカ社会に対する批判が、登場人物の口から何度も語られている点も興味深い。確かにミステリファン必読の1冊だ。

『粘膜蜥蜴(飴村行/角川書店) 【ネタバレ注意】★★

 2008年「粘膜人間」で第15回日本ホラー小説大賞長編賞を受賞しデビューを果たした著者の2作目で、「このミステリーがすごい!」 2010年版(2009年作品)6位作品である。1作目のあらすじはだいたい知っているが、問題作と騒がれたのも納得の内容。そして今回世界観を共有する本作品も相当ぶっ飛んでいるというか、かなりイカれている。過去に読んだ作品で近いのは「このミス 2007年版(2006年作品)」で1位となった平山夢明の「独白するユニバーサル横メルカトル」だろうか。あそこまでは壊れておらず、一応それなりのストーリーはあるが、正直受け付けない人は全く受け付けないエログロ系の作品である。
 物語の舞台は太平洋戦争直前の日本。しかし、この世界には爬虫人と呼ばれる、姿は人間だが顔が蜥蜴そっくりの生物が存在しており、奴隷として東南アジアから日本にも輸出されていて、昔は下男用にオスの子供が重宝されたが、現在では変態趣味のお金持ちの間で若いメスの爬虫人に人気があるという設定だ。

 第1章「屍体童子」では、まず国民学校初等科に通う12歳の子供たちが登場する。この物語の主人公で、両親に死なれ兄と共に叔父夫婦に育てられた堀川真樹夫。町の権力者で、この町唯一の病院の院長である月ノ森大蔵の息子、月ノ森雪麻呂。そして食べ物には目のない中沢大吉の3人である。ある日雪麻呂は、下男の爬虫人・富蔵を伴い、真樹夫と大吉を自宅に招待する。雪麻呂に病院の秘密の地下室に連れて行かれた2人は、そこで不気味な老人が管理する屍体保管所と、精神的におかしくなった3人の兵隊を隔離した病室を見せられる。雪麻呂の命令で兵隊の1人を刺激した大吉は、取り乱したその兵隊に殺されてしまい、パニックになる真樹夫と雪麻呂。真樹夫は、その死体を翌朝までに解体しないと殺すと雪麻呂に命令され地下室に閉じこめられる。死体を解体できないまま地下室で眠りに落ちた真樹夫であったが、夢の中に兄の美樹夫と老いた爬虫人が現れ、大吉は生き返ると告げる。雪麻呂に叩き起こされ彼に殺されかけた真樹夫は、その直後、美樹夫の言ったとおり大吉が生き返ったことで窮地を脱した。
 第2章「蜥蜴地獄」では、東南アジアのナムールに出征していた真樹夫の兄、美樹夫の苦難が描かれる。抗日組織ルミン・シルタの男の斬首刑を果たした新任少尉の美樹夫は、坂井曹長と野田伍長の2人の部下と共に、軍の重要人物で「阿片王」と呼ばれている間宮勝一という人物の護衛任務を任される。軍の上層部は間宮とつながり私腹を肥やしていたのである。連絡を絶った阿片栽培をしている村の様子を見に行くのが間宮の目的であったが、間宮の自分勝手な行動によって野田はゲリラに殺され、坂井も密林の中で巨大な食肉ミミズに襲われて命を落とす。なんとか目的の村にたどり着いた美樹夫と間宮であったが、村の住民と常駐していた日本兵は全て爬虫人によって殺されていた。罠にかかっていた爬虫人を殺した間宮は爬虫人に処刑されたが、別の罠にかかっていた爬虫人の子供を助けた美樹夫は処刑を免れ、爬虫人の長老によって願いを1つ叶えてもらえることになった。長老の念力により、弟の真樹夫が困っていることを知った美樹夫は、長老に頼んで大吉を生き返らせることを約束してくれたのである。
 第3章「童帝戦慄」では、雪麻呂の異常な家庭事情について描かれる。雪麻呂の母・千恵子は、謎の失踪を遂げたが定期的に雪麻呂に手紙を送ってきていた。雪麻呂の父・大蔵は、千恵子が失踪してからそれまで打ち込んでいた脳移植に関する研究をやめてしまい、書斎に籠もって怪奇小説の執筆に没頭しているらしい。雪麻呂は大蔵の長弟・昭蔵の娘で2つ年上の魅和子を許嫁にすることをめぐって、大蔵の次弟・平蔵の長男の清輔と火花を散らす。魅和子から戦って勝った方の許嫁になると提案された2人だったが、喧嘩に自身のない2人は魅和子の許可を得て代理人による戦いを行う。そして戦いに勝利し、魅和子を許嫁にすることに成功する雪麻呂だったが、清輔の双子の妹・華代は嫉妬心によって魅和子を毒殺してしまう。怒り狂った雪麻呂は華代を射殺するが、そんなことをしても魅和子は生き返らない。その時雪麻呂は、美樹夫の依頼で爬虫人が大吉を生き返らせたという話を真樹夫から聞いたことを思い出す。魅和子を生き返らせるため、強引な手段で美樹夫と富蔵を連れてナムールに向かう雪麻呂。無事、爬虫人の村にたどり着いた彼らであったが、そこで富蔵から母の手紙を渡された雪麻呂は恐るべき事実を知らされる。父の大蔵は脳移植の研究をやめたのではなく完成させていたのだ。料理人と駆け落ちしようとしていた妻・千恵子を許すことができず、料理人を殺した後、彼女の脳を富蔵の体に移植していたのである。ショックを受ける雪麻呂を待っていたのは、爬虫人の長老による罰であった。魅和子の蘇生は約束してくれたものの、華代を殺し、その件で嘘をついた代償として、雪麻呂の目と足の力を奪ったのだ。雪麻呂は富蔵=母とともに、ナムールで一生をかけて罪を償うことになったのである…。

 最近の例に漏れず結末までまとめさせてもらったが、それほど酷い話でもないのでは、と思う方もいるかも知れない。しかし、それは間違いである。相当な量を端折っているので、このあらすじの結末まで読んでしまった方でも、本作を実際に読み出すと、その世界観に拒絶反応を示さない人であれば、読み終わるまで手が離せないほどに世界に引き込まれてしまうだろう。単なるエログロ作品ではな く、人間の負の部分から人間の愛憎を描いた傑作であるという見方もあながち間違いではないと思える作品なのだ。興味を持たれた方は、是非その目で確かめてもらいたい。

『グラスホッパー(伊坂幸太郎/角川書店) 【ネタバレ注意】★★★

 「このミステリーがすごい!」2005年版(2004年作品)18位作品。低めの順位が気になるが、この年は2位に「アヒルと鴨のコインロッカー」、16位に「チルドレン」と、20位以内に3作も伊坂作品が入っていたので伊坂ファンの票が分かれてしまっただけなのかもという期待と、奥さんの蔵書の中にたまたまあったこと、そして何より著者自身が「今まで書いた小説の中で一番達成感があった」と語っていたと聞いていたことで、今回読むことにした。

 主人公の鈴木は、交通事故で妻の命を奪いながら何の罰も受けずに暮らしている男・寺原長男に復讐するため、中学教師の職を辞し、長男の父が経営している悪質なキャッチセールス会社「令嬢(フロイライン)」に契約社員として潜入し、復讐の機会を窺いながら1ヵ月の間黙々と働いていた。そんなある日の夜、先輩社員で自分の教育係である同年齢の比与子に、会社への忠誠を証明するため、拉致した若い男女の殺害を強要される。しかし、2人の目の前で長男は何者かに交差点に押し出され車に轢かれて死亡。比与子の命令は、急遽、長男を突き飛ばした犯人を追跡することに変更される。
 政治家の依頼で問題解決のために秘書等を自殺させる仕事を請け負っている鯨は、衆議院議員・梶からの依頼の仕事中に、ホテルの窓から長男が交差点に押される場面を目撃した。そして比与子同様、「押し屋」の仕業ではないかと考える。同じ夜、殺し屋の蝉は、仲間の岩西の指示で家族3人を殺害していた。
 その夜、押し屋と思われる男・槿(あさがお)の自宅を尾行の末突き止め、翌日確認のため訪問した鈴木であったが、槿に貫禄負けし「息子さんに家庭教師をつける気はありませんか」と突拍子もないことを口にしていた。
 その頃、仕事を終えたばかりの蝉に岩西から新しい仕事の連絡が入る。それは梶からの鯨殺害の依頼であった。鯨を信用できない梶は、秘書を自殺させた証拠隠滅のため鯨をも消そうと考えたのである。しかし、約束の時間に遅刻した蝉が梶の指定したホテルの部屋に入った時、梶は鯨によって自殺させられた後だった。寺原が血眼になって長男を殺した押し屋を探していることを知った蝉は、自分が先に見つけ始末することで名を上げようとする。一方、岩西は鯨によって梶に引き続き自殺させられていた。
 槿の家庭を守ろうとした鈴木は、槿は押し屋ではなかったと比与子に嘘の報告をするが、騙されない比与子は鈴木を拉致し、槿の居場所を聞き出すため拷問に掛けようとする。そこへ蝉が現れ鈴木を奪う。しかし、蝉は全てを精算してから仕事をやめようとしていた鯨に殺され、その間に鈴木は槿に救出される。鈴木が槿の自宅に携帯を置いてきた上に、比与子がその携帯にかけた電話に子供が出て槿の住所を教えてしまったことを知った鈴木は取り乱し、「令嬢」の社員達が押し寄せてくる前に槿一家に逃げるよう訴える。しかし、槿の指示で子供が全く別の住所を教えていたことに驚く鈴木。なんと槿の妻子と思われていたのは「令嬢」と対立する組織のメンバーで、押し屋の槿に長男の殺害を依頼していたのであった。そして、寺原の死も知らされる。鈴木と比与子が拉致し「令嬢」の本部に連れて行かれていた若い男女が、実は「スズメバチ」と呼ばれる毒殺専門の殺し屋だったのである。
 結婚指輪をなくしたことに気がついた鈴木は、拷問されそうになったビルまで槿に送ってもらうが、そこには鯨が待ち伏せていた。鯨の能力で危うく走ってきたライトバンに飛び込み自殺しそうになる鈴木であったが、ライトバンは鯨を轢いた。鈴木は槿が鯨を押してくれたのではないかと思ったが鯨の姿はなく、指輪を見つけた鈴木は意識を失う。
 なぜか駅の構内のベンチで意識を取り戻した鈴木は1ヵ月間ビジネスホテルで暮らした後、恐る恐る自分のアパートに帰ってみたが何事もなく、そのうち「令嬢」が消滅したことを知る。そして新しい仕事を見つけた鈴木は、これからも力強く生きていくことを誓うのであった。

 以上がこの作品のあらすじなのだが、正直この作品がなぜ18位なのか理解に苦しむ。やはり3作品同時ランクインのしわ寄せが大きいと思われる。確かに、伊坂作品の典型的な主人公(=お人好しですぐトラブルに巻き込まれる)が、押し屋と思われる男の正体をつかむため、彼の前で咄嗟に家庭教師の営業を装うシーンはあまりに馬鹿げていて読者を呆れさせるが、それ以外は非常に良くできたミステリだと思う。良心の呵責から精神を病み、次第に酷くなっていく幻覚に悩まされながらも全てを精算し楽になるため仕事を続ける鯨、冷酷無比なナイフ使いの蝉と相棒の岩西の絶妙なコンビ、感情を表に出さず穏和な良い父親を装う押し屋の槿。彼らは皆殺人者でありながら不思議と憎めないキャラクターで、主人公以上に読者を楽しませてくれる。終盤の急加速する展開も見事。構成の妙はあったが読んでいてやたらとストレスを感じた同年2位の「アヒルと鴨のコインロッカー」よりも、こちらの方が個人的には好感を持った。

『Another(アナザー)(綾辻行人/角川書店) 【ネタバレ注意】★★★

 「このミステリーがすごい!」2010年版(2009年作品)3位作品。綾辻作品が色々なミステリ小説を読むきっかけになった自分としては、「新参者」「ダブル・ジョーカー」に負けたのは悔しいものの、久々の上位ランクインは喜ばしい限り。

 主人公は15歳の少年・榊原恒一。大学教授でインドに長期間のフィールドワークに出かけることになった父の都合で、死んだ母の実家に世話になることになり、中学3年の4月に東京を離れて夜見山市にやって来た。来て早々に自然気胸を発症し入院することになった恒一は、ある日、病院の地下に降りるエレベーターの中で、見崎鳴 (みさきめい)という少女に出会う。5月に入って退院し、叔母の怜子に転校先の夜見山北中学に伝わる七不思議と、そこでの心構えの一部を聞かされ、その翌日に初めて夜見山北中学に登校した恒一は、教室の窓際の席に鳴の姿を見つける。教室全体に漂う妙な静けさ、堅苦しさ、緊張感に戸惑う恒一だったが、次第にクラス委員長の風見やお調子者の勅使河原といった仲間達の中に溶け込んでいく。体育の見学中、旧校舎の屋上にいる鳴を見つけ会話することに成功するが、彼女からは「私には近寄らない方がいい」と言われてしまう。診察のため、入院していた病院を訪れた恒一は、顔見知りになったナースの水野に、鳴と最初に出会った日に誰か死んだ人がいなかったか調べてくれるよう依頼する。あの日、鳴が向かっていたのが地下2階の霊安室以外に考えられなかったからだ。そして恒一は、その日死んだのが「ミサキだかマサキだか、そんな名前」の中学生の少女だったことを知る。
 病院からの帰り道に見つけた不思議な人形ギャラリーに興味を持った恒一は、翌週、鳴を尾行中に再びそのギャラリーの前に立っていた。鳴を見失っていた恒一は、気がつくと吸い寄せられるようにギャラリーの中に入っていたが、その地下で鳴とそっくりな人形を見つけ、 店番の老婆は「他にお客さんはいない」と言っていたのに鳴本人とも出会い驚く。恒一の鳴に対する質問攻めに、鳴は夜見山北中学で26年前に起こった出来事を語り始めた。3年3組にいたミサキという名の人気者が事故で亡くなった後も、クラスのみんなが、その生徒が教室にいるフリを続けたところ、卒業式の記念写真に写るはずのないその生徒が写っていたという話だ。その話には続きがあったのだが、祖母からの電話で話が中断されてしま う。
 祖母から、母が問題の26年前に夜見山北中学の3年3組の生徒だったことを知った恒一は、その夜、叔母の怜子から事件の詳細を聞き出そうとしたが、「ものごとには知るタイミングがある」と言って教えてもらえない。病院で死亡した少女は藤岡未咲という名前だったことが分かったが、鳴は、彼女が「いとこ」で「昔はもっとつながってた」と謎の言葉をつぶやく。その直後、クラス委員長の桜木の母が交通事故に遭ったという連絡が入る。慌てて教室を飛び出した彼女は階段で転倒して傘の骨がのどに刺さり死亡、彼女の母も助からなかった。6月に入り、怜子も15年前に夜見山北中学で3年3組にいたことを知った恒一は、その年が母の死んだ年であることに気が付き動揺する。翌日、ナースの水野が、恒一と同じクラスの弟の話を電話で恒一に聞かせてくれている最中に事故死すると、クラスは「恒一をいないものとする」という「決めごと」を実行に移す。そしてクラスメイトの高林郁夫が病死し、3年3組関係者の死者は4人になった。
 クラスメイトの望月からの手紙で、鳴が幽霊などではなく確かに実在していることを確認した恒一は、望月にもらった名簿から鳴の自宅が例の人形ギャラリーであることを知る。店番の老婆が、店内に鳴がいるにもかかわらず「他にお客さんはいない」と言っていたのは、彼女が幽霊だったからではなく、彼女がその家の住人だったからなのだ。そして彼女の口から、ついに夜見山北中学3年3組の現在の事情が語られる。今年は「呪い」が「ない年」だと思われていたのに、そうではないらしいことが分かり、その「呪い」の災厄から逃れるために5月1日から「鳴をいないものとする」ことがクラスで決められ、教師の間でもそのことが容認されているという事実である。しかし、結局死者が出てしまったために、恒一も「いないものとする」対象に入ってしまったらしいのだ。
 この中学は26年前の事件以来、ずっとこうやって「呪い」に対処していたらしい 。なぜその年が「ある年(3年3組関係者が連続死を遂げる年)」かどうか分かるのかというと、なんと「クラスの人数が誰も気が付かないうちに1人増える」ことで分かるというのだ。4月の新学期に向けて用意された机がなぜか1つ不足する。誰かが1人余計なのだが、それが誰にも分からない。増えた本人すら気が付いていない。誰の作為でもなく「現象」としてそういうことが起きるのだ。関係者全ての記憶がいつの間にか改ざんされ、名簿などの文書記録まで自然に書き換わってしまうというとんでもない現象が、この中学では26年前の事件以降続いているのである。その増えた人間の正体は、過去にこの「呪い」=「現象」によって死んだ人間がランダムに現れたものであり、卒業式後いつの間にかいなくなることで、その人物が「死者」であったことが判明する。それもきちんと記録に残しておかないと関係者の記憶はどんどん薄れていき、誰が「死者」だったのか完全に分からなくなってしまうという。やがて、クラスの1人を「いないものとする」ことで関係者の連続死を防ぐ効果があることが分かり、今回のように実行されるようになったことをようやく理解した恒一だったが、鳴の彼女の母親に対する「わたしはあの人のお人形だから」「生身だけど、本物じゃないし」という言葉に戸惑いを覚える。
 26年前の3年3組の担任だった司書の千曳を訪ねた恒一に、千曳は「呪い」で死亡した者や判明した「死者」の名前が記録された26年前の事件以降の名簿を見せながら、夜見山北中学における「呪い」の歴史を語ってくれた。この「呪い」は、3組をC組に名を変えても教室の場所を変えても防ぐことはできなかったらしい。名簿の記載事項が増えたり消えたりするような物理的変化は実際には起こっておらず、関係者の心の中だけで起こっている現象かもしれないという説を披露する千曳だったが、「呪い」の災厄が及ぶのはクラスの成員と、その二親等以内の家族であり、この街から離れるに従ってその効力 が薄れるのは過去の事件から見てほぼ確実らしい。そして、怜子が3年3組だった15年前も「ある年」だったことが判明する。恒一の母は「呪い」の被害者の1人だったのである。恒一に15年前のことを聞かれた怜子は、その年、災厄が途中で止まったことを思い出す。
 7月に入り、担任の久保寺が自分の母を殺害後、教壇で生徒を前にして自殺。「鳴と恒一の2人をいないものとする」という「対策」に効果がないことが分かったクラスメイトは2人を無視することをやめたが、災厄が続くことに変わりはない。15年前にどうやって災厄が止まったかを何とかして知りたい恒一は、その年の夏休みに合宿があってその時何かが起こったことを怜子から聞き出す。災厄を止めようと、15年前と同じ日程で合宿を計画する担任代行の三神。そんな時、怜子の同級生の松永という男が、酔ったせいで一時的に当時の記憶を取り戻し、災厄の止め方を記録した何かを教室に隠していたことが分かる。7人目の死者が出た日の前日、恒一、勅使河原、望月の3人は、旧3年3組の教室を捜索し、松永の告白を録音したテープをついに発見した。彼の告白によれば、彼が誤って殺してしまった生徒の死体が消失し、みんなの記憶からその生徒の記憶までもが消えた後、災厄が止まったというのだ。つまり、彼が殺した生徒こそ災厄の元となる4月に紛れ込んだ「死者」であり、「死者」を殺すことによってその年の災厄は止まるというルールが明らかになったのである。
 3人は合宿先で鳴にもテープを聞かせる。 鳴にテープを聞かせながら、合宿前に、母の実家で見つけた26年前の心霊写真を鳴に見せた時のことを思い出す恒一。写るはずのない亡くなっている生徒「夜見山岬」の姿について、なぜか「色」を気にしていた鳴。夕食後、クラスメイトの和久井が喘息で苦しみだし、合宿に助っ人として来ていた千曳が病院に連れて行くことに。いつも持ち歩いている薬を今日に限って忘れたらしい。新たな死者の予感を感じながらも物語は進み、その夜、恒一は鳴の部屋で、死んだ彼女のいとこの藤岡未咲について語り出す。鳴の母と未咲の母は双子の姉妹で、未咲の母も鳴と未咲という双子を出産していた。鳴の母が妊娠していた子供を死産させてしまったため、名字と名前がかぶらない鳴の方が、見崎家へ養子に出されたという話である。つまり、鳴と未咲は元々はいとこではなく姉妹であり、未咲は「現象」による今年度1人目の被害者だったわけだ。「現象」が始まった後に転校してきた自分は「死者」ではないことが分かり安心する恒一。しかし、鳴が恒一を「死者」ではないと判断した理由はもう1つあった。それは、彼女の左目の義眼が持つ、死に近い者を特別な色で認識するという特殊能力によるものであった。そして鳴には、その能力によってすでにクラスに紛れ込んだ「死者」が誰か分かっていたのである。分かったところでどうなるものでもないためこれまで黙っていた鳴であったが、「死者」を殺せばその年の災厄は止まることが分かった以上、そういうわけにもいかなくなった。
 しかし、その名を恒一に告げようとした瞬間、鳴の部屋に、風見を「死者」だと思い込み殺してしまったと勅使河原が駆け込んでくる。風見の生死を確かめるため現場に向かう途中、恒一は食堂で刺されて重傷を負ったクラスメイトの前島を発見する。さらに奥の厨房では、管理人の沼田が殺されて建物に火が放たれていた。パニック状態になる合宿所。炎の中、 恐ろしい形相で次々と生徒を包丁で襲っていたのは、なんとつい先ほどまでとても愛想の良かった沼田の妻であった。和久井を病院に預けて戻ってきた千曳が彼女を取り押さえ窮地を脱した恒一は、鳴が裏庭で「死者」と対峙していることを知る。鳴のもとへ駆けつけた恒一が見た、角材の下敷きになって動けなくなっていた「死者」の正体は、担任代理であり、恒一の叔母でもある三神怜子であった。4月に教室の机は不足していなかったのに「現象」が始まっていたのは、教員の方に「死者」が紛れ込んでいたからであり、実は職員室の机が不足していたのであった。「死者」を「死」に還そうとする鳴からツルハシを奪い、身内である自分が怜子を殺そうと決める恒一だったが、死んだ母の面影がある怜子を前に、鳴の判断だけで本当にそんなことを実行に移してしまっていいものか苦しみ逡巡する。結局、鳴を信じて怜子にツルハシを振り下ろした恒一は、その後気を失った。
 翌日、火災現場からは6体の遺体が発見され、すべて沼田の妻の被害者であることが判明した。沼田の妻は自殺し、彼女の殺人の動機は不明のままであった。喘息の和久井は回復し、風見は軽傷ですみ、三神怜子は最初からいないことになっていた。彼女のことを覚えていたのは、怜子の死に直接関係した恒一と鳴だけであった…。

 以上が、この物語のあらすじである。怜子が「死者」であることを臭わせる記述は作中にいくつもあり、早い段階で気がついた読者も多いことであろうが、残念ながら自分はそれを疑いつつも「怜子=三神先生」というトリックに気付くことが出来ず、そのことを確信することができなかった。しかし、そのおかげで最後の「どんでん返し」を楽しむことができたとも言える(負け惜しみかもしれないが)。帯の「ホラーと本格ミステリの融合」という言葉に嘘はなかった。それなりに賛否はあるようだが、個人的には高く評価したい作品である。
 しかし、綾辻ファンの1人として、あえていくつか苦言を呈したいと思う。
@まずは、やはり本作品の中核をなす「現象」の設定にあまりにも無理がありすぎる点である。毎年「死者」がクラスに紛れ込み関係者に災厄をなすというのはホラーの設定としてアリだとしても、その「現象」が関係者全員の記憶や文書の改ざんにまで及ぶというのはさすがにきつい。物理的な変化は実際には起こっておらず、関係者の心の中を変化させているだけなのかもしれないというフォローも作中に見られたが、説得力には欠ける。しかし、それでも結末を知りたいと読者を物語の世界に引き込む作者の筆力は見事と言うほかない。
A「現象」の災厄から逃れるために、3組の名称をC組に変更したり教室の場所を変えたりしたが、結局失敗したという記述があったが、3組を欠番にするという方法を取らなかったのはなぜなのだろうか。アパートの部屋や駐車場などでも縁起の悪い番号を飛ばすことはよくあることである。3組で過去に多数の死者が出ているのは公に知られているわけだから、「現象」自体がクラス外に秘密であっても可能な対処方法だと思うのだが。
Bこの物語の前半は、読者に鳴を幽霊だと思わせ、そこにホラーの世界を創出するところに1つのポイントがあるわけだが、そこで重要な役割を果たしているのが未咲の存在である。結局彼女は鳴の双子の姉妹であることが判明し、主人公が「死者」ではない証拠の1つとなるのであるが、双子につける名前として「鳴」と「未咲」は、あまりに不自然ではないか。いくら読者をミスリードしなくてはいけなかったとはいえ、そこはもう少し冒険して何か共通項を見いだせるような名前を設定してほしかったところである。ここだけはどうしてもアンフェアな印象が拭えない。
C鳴の特殊能力は本当にこの作品に必要だったのだろうか。何もかも超自然現象ばかりなのはどうかと思うのだが。
D消えてしまった怜子の痕跡について触れてほしかったと思った読者は多いのでは。4ヵ月間もこの世にいて、自室では創作活動もしていたようなので、「現象」によっていくら物理的な改ざんが行われていても、彼女の自室には何か主人公の心を動かすようなものが残されていたのではないか。そんなエピソードがあっても良かったと思う。
E一番気になったのは、結局根本的に問題が何も解決していないところである。今年度は「死者」を殺すことで災厄を止めることができたが、主人公やヒロインが助かればそれでいいのか。「死者」を殺せばその年の災厄は防げるというルールが明らかになっただけで、来年度以降に「現象」がなくなることを窺わせるようなことは何も描かれていない。「現象」のメカニズムがまったく解明されなかったことも含めて実に後味が悪い。「死者」を見つける特殊能力を持った鳴が、高校進学後「仕事人」となって、毎年母校に現れる「死者」を探しだし葬っていくというストーリーが浮かんでしまった。ついでに鳴についてもう1点思いついたことを挙げると、この作品はトリックの都合上、アニメ化や実写化は困難だろうが、それでももしアニメ化するとしたら鳴の声優は林原めぐみ(「エヴァンゲリオン」綾波レイ/「名探偵コナン」灰原哀役でおなじみ)だろうと考えた人は多いのではないか…。

『犬なら普通のこと(矢作俊彦+司城志朗/早川書房) 【ネタバレ注意】★★

 「このミステリーがすごい!」2010年版(2009年作品)5位作品。ヤクザを主人公にしたクライムノベルである。50歳を前にして沖縄での生活にうんざりしていた真栄城一家の理事・ヨシミは、組の金庫の金を強奪し高飛びする計画を立てる。大きな取引を控え、組のダミー会社の金庫に2億という大金が眠っていることを知ったヨシミは、自分で開けることのできる本部の金庫に金を移させるため、金庫番をしている社長の葛西を襲撃するが、葛西を殺害した直後に組長の真栄城が一緒にいることに気が付き、やむなく社長同様射殺してしまう。ヨシミのアリバイ工作をしていた共犯の舎弟・彬は、その途中で指定場所を抜け出した挙げ句、口説いた女・早枝子に薬を盛られて昏倒していたが、早枝子はその場から逃げることなく、彬に県警の暴力団担当・川満殺害を依頼する。その頃ヨシミの妻・森は、400万円ほど入っていたはずの貯金通帳が空になっていることに愕然とする。ヨシミが今回の作戦資金にするため勝手に引き出していたのだ。台湾から戻ってきていた副社長の柴田によって、取引の続行と金庫の金の移動禁止が決められ予定が狂ったヨシミは、直接取引現場を襲うやり方に計画を変更する。現金を運ぶ組の車を彬が足止めしている間に、取引相手の米兵のヤクザ・カーキマフィアを始末したヨシミだったが、遅れてやってくるはずの組の車も同様に襲う予定が、結局柴田の意向で取引は延期になってしまう。しかし、柴田に反発する専務の上原の指示で金は会社の金庫ではなく本部の金庫に入れられ、ヨシミにチャンスが巡ってくる。ヨシミは彬を処分し、森を高飛びのためのクルーズ船に乗せることを決め、彬は彬で、ヨシミを裏切り早枝子と高飛びすることを決めていた。一連の騒動を対立組織の仕業と考え、戦争に備えて厳戒態勢の本部であったが、ヨシミと彬の計画など知るすべもなく、2人の襲撃に次々に組員が倒れていく。早枝子を殺した柴田の片腕・エリマキも倒したヨシミだったが、彬に撃たれ命を落とす。彬は全てが終わった後、柴田を呼び出した。柴田の手先だった彬の情報によりヨシミの計画は全て柴田に筒抜けで、社長をダミー会社に呼び寄せヨシミの計画を狂わせたのも柴田だった。柴田は彬に報酬の金を渡し、国外逃亡の手配を約束して送り出すが、柴田とつるんでいた米軍の男・アッカーマンにより、川満同様に彬は処分された。全てはこの2人の仕組んだものだったのである。そして外国航路の待合室で、森は来るはずのないヨシミを待ち続けていた…。
 以上がこの物語のあらすじだが、最近になく短くまとまった。それだけシンプルな話だということだが、主要な登場人物の設定は実に詳細で、生い立ちから現在置かれている状況までしっかり描かれている。登場する武器の設定もなかなか細かくマニアックだが、キャラの描き込みはこの作品の中で最も高く評価したいポイントだ。ただし、ミステリらしいどんでん返しなどが全くないのは少々寂しいところ。それっぽいのは、彬が柴田の手下だったということくらい。早枝子、森、
シーちゃんという3人の魅力的な女性が登場するが、最初のうちはこの中の誰かと誰かが同一人物なのではないかと疑ったりもしたものの、結局そんなこともなく、早枝子は序盤のミステリアスな女性からどんどん普通の女に落ちていくし、シーちゃんはさんざん期待させておいて結局何の活躍もないしで、かなり期待を裏切られた。ちなみに裏表紙のあらすじには2カ所間違いがある。ヨシミは2億円の取引があることを知って強奪計画を立てるとあるが、ヨシミが当初認識していた取引額は1億2000万円である。また組長射殺の件も、組長と知らずに撃ってしまったみたいなニュアンスで書かれているのがおかしい。そう言えば、本文中には「120万ドル」を「100万20ドル」と記した誤植もあった。些細なことだが、重版の折には直してほしいものである。結論としては、ミステリ小説としては不足だが、ヤクザものの作品としてはまあまあ楽しめる作品ではないかと思う

『龍神の雨(道尾秀介/新潮社) 【ネタバレ注意】★★

 「このミステリーがすごい!」2010年版(2009年作品)9位作品。2010年版のランキング作品は1,2,3,5,6位と読んだのでこれが6冊目になるが、9位となるとさすがに厳しいかもと少々不安を抱きつつ読み始めた。正直読み始めてすぐに不愉快きわまりなくなる作品であると思った。まずは、義父を殺害しようとする主人公のその殺害方法があまりにも適当で、これがいきなり気に障るのだが、この後の展開がことごとく不愉快なのだ。これまでにもグロテスクな作品、残酷な作品は数多く読んできたが、あまりに非現実的だとかえって気になるものではない。しかし、この作品は妙に現実味があって非常に気分が悪くなる。景気のいいときは不幸なドラマが流行って、景気の悪いときにはその逆になる、という話を聞いたことがあるが、この作品はまさに幸せでしょうがない人が刺激を求める場合に勧めることはできても、そうでない人には勧められない作品であると思った。

 第1章。フリーターの添木田蓮と中学生の楓の兄妹は、母が再婚してすぐにその母を交通事故で失い、部屋に閉じこもってばかりいる義父と暮らしているが、義父が楓を性の対象として見ているのではないかという出来事が起こり、蓮は義父に殺意を抱くようになる。そして、中学生の溝田辰也と圭介の兄弟は、父が再婚してすぐにその父を亡くし義母と暮らしているが、兄の辰也は義母に懐かず万引きを繰り返し義母を困らせることを生き甲斐にしているような毎日を送っており、弟の圭介は逆らいがたい兄と優しい義母の間に挟まれて苦しい思いをしている。この似たような境遇の2組の家族が、台風の日を境に恐ろしい事件に巻き込まれる。その日、蓮は台所のお湯を出しっぱなしにして外出することで湯沸器に不完全燃焼を起こさせ、部屋に籠もっている義父を一酸化炭素中毒事故に見せかけて殺害する計画を実行するが、自分の行為に恐ろしくなった蓮はバイト先の酒屋から自宅に電話する。誰も電話に出ないことに恐怖がピークに達した蓮は、電話の際中に酒屋の店内で万引きを行った溝田兄弟を鬼の形相で取り押さえるが、その後早く帰宅した楓が何事もなく電話に出たことで自分の計画が失敗したことを知り落ち着きを取り戻し、警察に連絡することなく溝田兄弟を義母に引き渡す。これで一件落着したかのようだが、恐ろしい事件は着々と進行し続けていた。帰宅した蓮は楓の様子がおかしいことに気が付き楓を問いただしたところ、楓は義父から暴行を受けた後義父を殺害したことを告白し、蓮は床下の収納庫から義父の死体を発見する。死体を車で運び山中に埋めることにした2人だったが、死体を運んでいる姿を万引きの件を蓮に謝りに来た溝田兄弟に目撃されてしまう。
 第2章。脅迫状を書いて添木田兄妹の住むアパートの周りをうろつく辰也の姿に不安を感じる圭介は、義母が父と結婚したいがために母を殺害したのではないかという疑念にも苦しめられていた。そして辰也につきまとわれていることに気が付き不安を感じ始める楓、楓が隠していた脅迫状を発見し脅迫者を抹殺するためナイフを取り出す圭介。
 第3章。新しい脅迫状を、それを隠そうとする楓の手から奪い、毎朝楓を中学まで送ることにした蓮は、脅迫状に何か見覚えのあるものを発見するが、それをどこで見たのか思い出せない。駅で高校時代の友人に再会した蓮は、過去にその友人の彼女に電車の中で悪戯した犯人は蓮の義父だったと証言されショックを受けるが、その頃、楓は自宅に侵入した何者かに床に押し倒されていた。
 第4章。母の墓参りをしていた蓮に霊園のスタッフが話しかけてきて、義父が毎日母の墓参りをしていたこと、義父が立ち直ろうと努力していたことを知る。蓮は何かを間違えていることに気付き始める。その頃、辰也はナイフを持った何者かに拉致されていた。勿論その人物は蓮ではない。そして、楓も工事中のビルの一室で縛られていた。台風の日に起こった本当の出来事を楓は回想する。台風の日に帰宅した楓は動かなくなっている義父を見て蓮の計画に気が付き、すぐにバイト先の蓮に連絡をとったが、駆けつけてきたのはその酒屋の店長の半沢だった。半沢にそそのかされ、まだ死んでいなかった義父にとどめを刺すことを楓は半沢に依頼してしまったのであった。蓮はついに気が付いた。友人の彼女に悪戯したのが半沢であること、妻子の自慢をしていた半沢が独身であったこと、自宅に届いていた脅迫状の紙が酒屋の帳簿の大学ノートと同じであったこと…。半沢によって楓のいるビルに連れて行かれる辰也が書いた脅迫状は、楓宛のものではなかった。父が母を殺害したのではないかという疑念を持っていた辰也は、義母が犯人だと思い込むことで、その何の根拠もない疑念を晴らそうとして、出す予定もない義母宛の脅迫状を作り持ち歩いていたのだった。蓮は、半沢が辰也を拉致したところを目撃した圭介を連れて半沢の所有する工事中のビルに駆けつける。半沢の口から真実を知った蓮は、突風によって隙のできた半沢と格闘し半沢を倒すが、半沢の最期の言葉は、半沢がとどめを刺す前に義父が蓮の計画によってすでに死んでいたという残酷な事実であった。
 終章。自殺を楓に止められた蓮は警察への自首を決める。溝田兄弟は事件がニュースで流れないかラジオに耳を傾けるが、その内容は、損傷の激しい男性の遺体が荒川の下流に打ち上げられたという関係なさそうなものだけだった。

 以上がこの物語のあらすじである。終盤でのどんでん返しは確かに目を見張るものがある。そして、冒頭からずっと救いようのなかった話の数々の中にいくつか救いがあったことが明らかになり胸をなで下ろす部分もある。しかし、やはり最初に抱いた不愉快さはすべてぬぐい去れるものではなく、中途半端さを感じる結末も気分が悪い。そしてタイトルに登場し、文中にも何回か出てくる龍神の扱いも何となく中途半端。登場人物の深層心理を反映させた存在と言うことなのだろうが、序盤であれだけ具体的に描写しておきながら結局ただの幻覚で、終盤ほとんどその存在に触れないのはどうなのか…。色々な意味で非常に良くできているとは思うが、9位はきっと妥当なランキングなのだろうと納得させられた作品であった。

 

2010年10購入作品の感想

『容疑者Xの献身(東野圭吾/文藝春秋)★★

 今年3月までの怒濤の読書はいったい何だったんだろうと思えるぐらい4月以降バタバタと忙しく、定期購読している車雑誌に目を通す以外はろくに読書をしていなかったのだが、10月に入って思わぬ時間ができたため、奥さんの書庫から1冊借りてきて読み始めた。というわけで今更ながらの本書である。 「このミス2006年版(2005年作品)」第1位作品であり、なんといっても第134回直木賞受賞作品である。「ガリレオ」シリーズ第1作目『探偵ガリレオ』を2007年に読んでそこそこ満足し、2作目以降の作品を読む気はあまりなかったのだが、本書はいつか読もうと思っていた1冊で、今回やっとその機会が巡ってきたわけである。最近は、自分の読書内容をきちんと記憶にとどめておくため、あらすじを詳細に記録し、【ネタバレ注意】と警告表示していたのだが、今回はあらすじはさらっと記すにとどめておく。今は詳細に記す時間もエネルギーもないので…。
 さて、作品の内容だが、水商売から足を洗い弁当屋で働く花岡靖子の元へ、離婚した夫の富樫慎二が訪ねてくるところから物語は始まる。平和な生活を築き始めていた靖子に執拗に復縁を迫る富樫に、靖子の娘・美里が逆上したことで乱闘となり、結局、靖子と美里は富樫を殺してしまう。自首しようとしていた靖子を止めたのは、同じアパートの隣の部屋に住む数学教師の石神だった。靖子に想いを寄せていた石神は、富樫の死体の処分と、靖子達のアリバイ作りに協力する。やがて、富樫らしき死体が発見され、靖子は有力な容疑者として捜査線上に上るが、天才数学者でもある石神の準備した完璧なアリバイの前に警察の捜査は行き詰まりを見せる。
刑事の草薙に相談を持ちかけられた物理学者・湯川学は、石神がお互いに実力を認めあっていた大学時代の友人であることを知り旧交を温めるが、彼は次第に石神に疑念を持ち始める…。
 正直、終盤近くになっても「刑事ドラマとしてはありがちな話で、テレビドラマの1話分くらいの内容でしかないのでは?なぜこの作品が直木賞なのか?」といぶかしく思っていたのだが、ラストは秀逸。予想も付かなかった思わぬ展開が読者を待っている。また、一般的な刑事モノ、探偵モノでは、加害者に同情の余地があっても、主人公の刑事や探偵は、その犯罪を見逃すことはないのが普通だが、本書で友人・石神の犯罪を知った湯川がどのような対応をとるのかも見所。

『ラッシュライフ』(伊坂幸太郎/新潮社)★★

 今や押しも押されぬ人気作家の仲間入りを果たした伊坂幸太郎だが、正直自分の中では絶賛できる作品は『ゴールデンスランバー』のみ。過去の自分の読後評を見ても、高評価なのは他に『グラスホッパー』くらいで、これも今になってみればほとんど印象に残っていない。むしろ『アヒルと鴨のコインロッカー』の方がもう一さじ足りない惜しい作品として印象に残っている。『容疑者Xの献身』に続いて奥さんの書庫から取り出してきた本書『ラッシュライフ』は、デビュー作『オーデュポンの祈り』に続く伊坂幸太郎の2作目の作品である。冒頭にエッシャーの騙し絵が掲載されているが、実際に物語の中に登場するだけでなく、読者が騙し絵の鑑賞者のごとく作者に騙されることも暗示している。文庫版の裏表紙のあらすじには「併走する4つの物語」とあるが、実際には@権力者の画商・戸田に従わざるを得ない女性画家・志奈子、A妙なポリシーを持った一匹狼の泥棒・黒澤、B新興宗教の教祖・高橋に憧れる河原崎、C不倫相手のサッカー選手・青山とお互いの配偶者の殺害計画を練る精神科医・京子、Dリストラされた後、偶然拳銃を手に入れた豊田という5つの視点で物語は進んで行く。この5つの物語が実は複雑に絡んでおり、読者が最後に一つに収斂していくさまを体験することが、まさに騙し絵を見ているがごとき感覚なのである。実に緻密に作られたパズルのような作品で、その点については感嘆させられる。それほど衝撃的な展開やトリック等があるわけではなく、読者は少しずつ自然にパズルがはまっていく様子を楽しむことができる。ただし、この複雑さが、展開のわかりにくさに繋がっているのも事実であるし、複雑なパズルを成立させるために無理をしている部分が目に付くのも事実。例えば豊田に関する例を挙げると、彼が拳銃を持っていると知っているのに再び襲ってくる若者の行動は不自然であるし、『ゴールデンスランバー』にも同じようなシーンがあったが、襲われた豊田を都合良く通りかかった車が助けてくれるという展開もご都合主義的。戸田によって明るい未来を奪われた佐々岡を、あるマンションの一室に誘導した人物の異様な行動や、死体と一緒に狭い場所に隠れざるを得なくなった人物の冷静な対応なども到底納得のいくものではない。人気作家の作品というだけで、ついあら探ししてしまう部分もあるのは否定しないが、ラストもきれいにまとまっているようで中途半端な印象は否めず、傑作とは言い難いのが正直なところ。

『秘密(東野圭吾/文藝春秋)★★★

  これも奥さんの書棚から拝借したもの。妻の直子と小学5年生の娘・藻奈美を乗せたバスが崖から転落。夫の平介の前で生き残った娘が意識を取り戻すと、娘の肉体に妻の心が宿っており、それから平介と娘(妻)の「秘密」の生活が始まるという物語である。文庫版の裏表紙には「98年のベストミステリーとして話題をさらった感動の長編」とあるが、「このミス99年版(98年作品)」 9位ということでノーマークだった。しかし、実際読んでみて驚愕。これだけの傑作がなぜこれが9位なのかという驚きである。やはり98年が当たり年だったということだろう(1位の『レディ ・ジョーカー』は今年の3月に文庫化されたばかりで未読だが、読了した2〜5位の『燃える地の果てに』『理由』『屍鬼』『天使の囀り』はいずれも名作揃いであった。未読の6〜8位作品もチェックせねばなるまい)。今年の1月に読了した第1回「このミス大賞」大賞受賞作『四日間の奇蹟』(03年/朝倉卓弥/宝島社)が 発表された時、「物語の核になる仕掛けが、ある人気作家の先行作品とほとんど同一」という指摘を受け、その「先行作品」こそがまさに本書であるわけなのだが、夫婦の問題を題材にしているという点で自分はむしろ『スキップ』(95年/北村薫/新潮社)の方が思い浮かんだ。『スキップ』では、昭和40年代初めの17歳の女子高生の心が、既婚者となった25年後の自分の中に飛んでくるという設定で、当時の書評にもあったように、物語から性的なものを完全に排除している点が不自然で気になったのだが、本書はその点にも正面から真摯に向き合っている。また、娘が成長するにつれ、娘を心配する父親以上に、夫として妻の男性関係を気にして苦悩する平介の姿も、多くの男性読者の共感を呼んだであろう。もちろん、若い娘の肉体を手にし人生をやり直せる機会を得ながら、平介の妻という立場がある以上、青春を存分に謳歌できない直子の苦悩も見事に描かれている。唯一気になったのは、序盤において、図書館で人格の憑依について調べ、過去に海外で起こった同じような事例では結局元の人格に戻ったという事実を知る平介の様子が描かれるが、物語が進行していく中で、平介がそのこと(憑依した人格はいつか消えるという事実)を全く思い出さない点。この点にはかなり不自然さを覚えるが、これが、終盤のある展開に対するインパクトを高めるための伏線であることには、読者はすぐに気が付くであろう。そして、最後の最後に究極の「秘密」が明らかに。読んだ直後は、あまりの切なさに、「この部分は蛇足だったのでは」とも思ったが、この結末があってこその本書だと思い直した。広末涼子主演で映画化された時は結末が原作と違ったようだが、先日放映が始まった志田未来主演のTVドラマではどのように描かれるのだろうか。いずれにせよ、この結末あっての本作。文句なしの傑作である。

『レディ・ジョーカー(高村薫/新潮社)★★

  「このミス99年版(98年作品)」9位作品の『秘密』に思いのほか感動したため、今年の3月にやっと文庫化(上・中・下の3冊)された1位 作品『レディ・ジョーカー』をさっそく購入。1947年、日之出ビールに元社員・岡村清二から送られた怪文書の全文から物語は始まる。リストラにあった自分の本当の解雇理由はもしかしたら部落差別にあったのではないかという趣旨の文書なのだが、会社を強く糾弾するわけでもなく、謂わんとしていることが分かりにくい、まさに「怪文書」。そして舞台は1990年へ。競馬仲間の物井、半田、高、布川、松戸の5人が登場する。物井は、しがない薬局を経営する岡村の弟であり、苦労して育てた娘に毛嫌いされた上、日之出ビールへ就職しようとしていた孫・秦野孝之を交通事故で亡くしていた。刑事の半田は、逸脱捜査でそれまでの殺人事件の担当を外され、日之出ビールが孝之に就職内定を与えなかった件に対する、父・秦野浩之の度重なる不可解な形での抗議に関する捜査に回されていた。在日で信金に勤める高、レディとみんなが呼ぶ障害を持った娘を連れているトラック運転手の布川、若い旋盤工の松戸、いずれも幸福からはほど遠い人生を送ってきた者達であった。施設で岡村の死を看取った物井は、老いた今、これまでの虚しい人生を振り返って最後に何か成し遂げたいと願い、仲間と協力して日之出ビールから大金をせしめることを思いつく…というのが上巻 第2章までの内容。様々な物事が複雑に絡み合っている上に、主体性のない何をしたいのか分からない人物ばかりが次々に登場し、正直、読むのにかなり疲れる。一老人の物井が、大企業の日之出から金を奪おうと一大決心する動機も曖昧で感情移入できない。しかし、これだけ高い評価を受けている作品なのだから、何かあるのだろうと読み進め ると、ここからがこの作品の真骨頂であることを思い知らされる。第3章で「レディ・ジョーカー」を名乗るグループによる日之出ビール社長誘拐事件が発生し、前述の5人からの視点は消え、誘拐される社長の城山、事件を捜査する刑事の合田、そして事件を取材する新聞記者達の視点で物語は進んで行く。超濃密なルポタージュ小説と言おうか、人物の心情の描き込みがとにかく圧巻。しかし、グリコ森永事件をモチーフにしているとは言え、基本的にはフィクション。実際にあった事件を徹底的に取材してもここまでは書けないだろう。筆者の力量恐るべしである。人物のみならず頻繁に登場する競馬場のシーンなど、あらゆるディテールに隙がなく、作品世界に引き込まれていく。ただ一つ物語とは他のところで読みながら考えさせられたのは登場人物の頭の切れ具合。理解不能なくらい頭の悪すぎる人物が登場する作品にもストレスがたまるが、城山にしろ合田にしろ、あまりに優秀すぎて、自分とは住む世界が違うというか、登場人物の誰にも太刀打ちできそうにもない劣等感に少々苦しめられた。さて、中巻、下巻と、登場人物達の様々な駆け引きが描かれ、全く退屈はしないのだが、巻末が近づいてきても一向に結末を迎える感じの展開にならないことに不安を感じ始める。しかし、物語に当然結末はやってくる。その結末は正直後味の良いものではない。社会の暗部が多数描かれたこのような物語にハッピーエンドなど存在しないことは読んでいれば分かることなので、その後味の悪さは肯定するにしても、それまでの徹底的に描き込まれた展開と比較すると、ラストはあっけなさすぎな印象は否めず消化不良な気がする。それなりのエピローグは用意されているのだが、せめて、失踪した布川と、奪った金の行方くらい臭わせてほしいと思ったのは自分だけだろうか…。

 

2010年11購入作品の感想

『びっくり館の殺人(綾辻行人/講談社)★

 20年近く前、自分のミステリー熱再燃のきっかけとなった綾辻氏の「館」シリーズ。本作はその第8弾であるが、2006年3月に発表され、2008年11月にノベルス版が刊行されていた記憶もおぼろげで、今回購入した文庫版が今年の8月に刊行されていたことも今回書店で見つけて初めて知り、 綾辻ファンとしては恥ずかしい限り。そして早速読み始めて、すぐに気になった点が2つ。1つは主人公・三知也の友人で、「びっくり館」のリリカの部屋で殺された館の主・龍平の孫の名が俊生で、三知也の兄の名も十志雄と、発音が同じ。そして文中の俊生の表記はなぜか「トシオ」と片仮名になってるのがいきなり怪しい。 また、龍平の死体を発見した三知也と、同級生のあおい、俊生の家庭教師の新名の3人が、「大急ぎで先にしなければならないことをしたあと、ぼくたちは念のため、もう一度〈リリカの部屋〉を調べなおした」という一文が、またいかにも怪しい。余りに見え透いた仕掛けは、読者をミスリードするための作者の罠か? そんな警戒心を抱きながら読み進め、読み終わった時の正直な感想は、とにかく物足りないということ。前者の疑問については全くトラップなしでがっがり。後者に関しては予想通りのオチの伏線であったが、そのオチ=龍平殺害の真犯人があまりにも…。リリカとトシオの父親の謎も予想通り。あとがきを読んで初めて知ったのだが、本作品は児童向けの「ミステリーランド」というレーベルから発表されたものらしい。よってあまりに難解な謎解きを仕掛けられなかった事情は分かるにしても、もう少しいつもの意外などんでん返しを見せてほしかったところ。『神様ゲーム/麻耶雄嵩』(2006年版5位)、『銃とチョコレート/乙一』(2007年版5位)、『怪盗グリフィン、絶体絶命/法月輪太郎』(2007年版8位)と、ミステリーランドの他の作品が「このミス」にランクインしているのを見ると、もっと頑張れたのではと思ってしまう。ここは次回作に期待したい。

トップページに戻る