現代ミステリー小説の読後評2015〜2016
※タイトル横に【ネタバレ注意】の表記がある作品はその旨ご注意を
2015年1月読了作品の感想
『グロテスク(上/下)』(桐野夏生/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2004年版(2003年作品)5位作品。正月に1日で上下巻2冊を読了。1997年に実際に起こった東電OL殺人事件を元にして書かれた小説である。事件当時は、なぜ一流企業のOLが夜は売春婦となって挙げ句の果てに殺害されることになったのかということで世間の注目を集めたが、本書はその事件をモチーフにしているだけで、あくまでフィクションである。本書があまりに細かいディティールまでリアルに描きこんでいるため事実に基づいた作品なのではと誤解される可能性も高そうで、発表当時は遺族の立場からの批判もあったのではないかといらぬ心配をしてしまった。タイトル通りのエログロ全開の、女性の醜さをとことんまで追求した作品で(男性の愚かさも十分に描かれているが)、過去に読んだ作者の作品同様、後味の悪さは最悪なのだが、文学的クオリティとしてはやはり★★★をつけねばならないレベルの作品と言わざるを得ない。巻末の解説では、最悪の後味の悪さどころか「一種爽快な読後感」「不思議な解放感」が得られると書かれているが、これは人それぞれであろう。言葉通りにとれば、それは殺害されるOL兼売春婦の和恵と同じような歪んだ思考を持った者にしか得られない感想のような気がするし、満足感という意味で肯定的に捉えるならば「下には下がいる」という優越感に近いものではないかと思われる。ちなみに和恵は主人公ではなく、彼女の高校時代の同級生であり、幼い頃からユリコという美人の妹にコンプレックスを抱き続けている「わたし」が何者かに語りかけるスタイルで物語は進んでいく。この「わたし」、ユリコ、和恵、そして「わたし」の高校時代の同級生で優等生だったミツルをはじめとした、ほとんど全ての登場人物が、見事にどこか病んでおり歪んでいて、これでもかというくらいに薄汚く描かれており、一般的なミステリ小説とはかなり趣が異なるが、読者に強烈なインパクトを与える作品であることは間違いない。特に和恵の売春日記が記された第7章は本作のクライマックスと言える部分である。しかし、いつまでも自分の醜悪さに気がつかない和恵が不思議でしょうがなくストレスを感じた。自分こそ最高の女だと信じて疑わない彼女の目にはそんなものは見えないのだということなのだろうが、通常の読者にはなかなか受け入れがたい部分なのではないか。そうやって読者をイライラさせるのも作者の計算の内なのだろう。そして「わたし」とユリコの遺児・百合雄がパソコンの購入費を得るために、これまで「わたし」が最も忌み嫌っていた売春行為を始めるというとんでもない結末には正直びっくり。ここまでやるのはさすがにやりすぎではないかという感も否めないが、これだけの作品にけりをつけようと思ったら、これぐらいの大胆なエンディングが必要なのかもしれない。
都内の区役所にアルバイトとして勤める「わたし」は、同じハーフでありながら完璧な美貌とスタイルを持つ妹のユリコとは似ても似つかぬ容姿の持ち主で、そのことをコンプレックスとして持ち、ユリコと彼女を評価する世間を憎み続けながら男性経験もないまま中年になってしまった女性である。スイス人の父は「わたし」が高校に進学する時に事業に失敗し日本人の母とユリコを連れてスイスに帰国するが、外国生活になじめない母が自殺したとたん妊娠中の愛人を自宅に住まわせる。それに耐えられなくなったユリコは、日本に戻って「わたし」と暮らそうとするが、前科のある母方の祖父との団地での2人暮らしを楽しんでいた「わたし」にとってそれは許せないことであった。結局ユリコは幼い頃に別荘で親しくなったジョンソン一家のところに居候することになる。しかし、ユリコは淫乱な女性で、スイスでは父の弟と関係を持ち、日本に戻ってからはジョンソンとも関係を持って彼の家族を破壊しただけでなく、「わたし」と一緒に通っていた一流のQ女子高校も売春行為を「わたし」の密告によって退学になっていた。ユリコはモデルになるが、男関係ですぐに問題を起こすため、掲載雑誌を転々とした挙げ句ホステスになり、年齢と共に店のランクもどんどん下がっていき、最後は立ちんぼの売春婦にまで落ちぶれて中国人に殺害された。そこに高校時代同級生だった和恵から電話がかかってくる。一流の建築会社に就職したはずだった彼女だが、殺されたユリコと同業だから自分も気をつけようというのである。「わたし」と共にQ女子高校に外部生として進学した和恵は、入学時は内部生との格差に圧倒されていたが、早々に競争を諦めた「わたし」に対し、父の教え通り努力で内部生に張り合おうとした。美人の内部生しか入れなかったチアガール部へ入部しようとしたり、ソックスにブランドのロゴを自分で刺繍したりする痛々しさに、「わたし」は友人を装って彼女を見下していた。しかし、第3章で公開されるユリコの手記を見れば、和恵に負けないくらいに「わたし」が嘘つきで見栄っ張りだったことがうかがえる。「わたし」は優等生のミツルとも最初は仲良くしていたが、彼女の母と自分の祖父が関係を持つようになったことを不快に思い、彼女の母を非難したことでミツルからは絶縁されてしまい、その後は孤独な学生生活を送ることとなる。ここまでが上巻のあらすじである。
下巻の冒頭の第5章では、ユリコと和恵の殺害容疑で裁判中の中国人・チャンの上申書の内容が記されている。いかに自分が来日まで苦労してきたかということ、ユリコは死んだ自分の妹を侮辱したから衝動的に殺してしまったこと、和恵は会ったことすらないことなどが延々と語られるのだが、後述されているようにこれらはすべて嘘であった。第6章では、チャンの公判を傍聴する「わたし」の様子が描かれる。人相学の知識を仕入れてきて、それのみで目に入る関係者を次々判断し、チャンも人相学的に間違いなく和恵を殺していると弁護士に主張する「わたし」の異常性には本当に気持ち悪さを感じる。もしかして和恵殺害の真犯人は「わたし」というオチなのかとここで一瞬考えてしまったが、残念ながらハズレであった。この章でミツルが再登場する。上巻で刑務所に服役中であることが記されていたが、彼女は目標にしていた東大医学部に進学し医者になったものの、そこから先の目標を見失い、夫と共にオウム真理教を思わせる宗教団体に入信し幹部になって逮捕されていたのであった。「わたし」は出所後も正常とは思えない言動をするミツルを「頭がおかしい」となじるが、ミツルからもあなたも「頭のおかしな人」とユリコの手記にあったような批判を浴びる。「わたし」は、高校時代に自分がハーフであることを自慢していたこと、妹に対するコンプレックスの度合いが異常だったことを、自分で全く認識できていなかったのである。そして「わたし」は、法廷でユリコとジョンソンの息子で、盲目の美少年・百合雄と出会い、身寄りのない彼を引き取ることを決意する。第7章では、ミツルから押しつけられた和恵の日記の内容が公開される。どんどん醜さを増していき、会社にも客にも必要とされなくなっていっている自分を全く自覚できず、一流企業に勤めながら夜の世界で客を取る自分を過剰なまでに誇りに感じている和恵は、まさに異常な「怪物」であった。最終章では、「わたし」と百合雄が、和恵が客を取っていた場所で同じように体を売るようになるという結末が描かれ、この異常極まる物語に幕が下りるのであった。
『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2004年版(2003年作品)7位作品。他に2003年週刊文春ミステリーベストテン1位、2004年本屋大賞2位を受賞している。タイトルの「クライマーズ・ハイ」とは、登山者の興奮状態が極限まで達して恐怖感が麻痺してしまう状態のことで、読者に印象づけるためか前半に繰り返し登場する言葉だが、後半ぱったり見かけなくなる。このタイトルから山岳小説と勘違いする読者もいるかもしれないが登山シーンは僅かである。山岳小説なら先日読了した『神々の山嶺』に勝るものはそうなかろう。同じく先日に読了したばかりの『グロテスク』と同じ年度の作品で、実際に起こった事件事故を元に書かれているのも共通で、本作が題材にしているのは1985年に発生した日航機墜落事故である。
小説としてはかなり読み応えがあるのだが、ところどころに引っかかる箇所があり、評価を★★にするか★★★にするかかなり迷った。結局★★★を付けてしまった『グロテスク』に劣っているとは思えないので★★★とした。今回は、詳しいコメントは最後に…。
主人公は群馬の地方新聞社・北関東新聞社(架空の新聞社で通称・北関。本作にも北関のライバル紙として登場する、群馬県トップ紙である上毛新聞社に勤めていた筆者の経験が本作に生かされている)のベテラン遊軍記者・悠木和雅の、17年前の事故当時と現在の二つの物語が並行して語られていく(前者が7割、後者が2割、その他1割くらい)。過去の方では、社内の登山サークル「登ろう会」のメンバー、安西耿一郎(あんざいきょういちろう)と共に衝立岩登攀を予定していた日に事故が発生し、全権デスクに任命された悠木は、衝立岩に向かう前に繁華街の路上で倒れ植物状態になってしまった耿一郎を心配しつつ、戦場となった新聞社社内で格闘の日々を送ることになる。現在の方では、17年前に耿一郎と共に登れなかった衝立岩に彼の息子・燐太郎と共に挑む悠木の姿が描かれる。
まずは過去の物語から。悠木を慕う中堅記者の佐山と3年生記者の神沢の2人は事故翌日の御巣鷹山の現場を踏み必死で現場雑感を送ってくるが、「大久保赤連」世代の上司たちは、若手が自分たち以上の活躍をすることを快く思わず、現場雑感は社会部長の等々力(とどろき)によって潰される。その後、悠木の誤解によって2人の仲はさらに悪化するが、政治部デスクの同期・岸が設けた酒席で本音をぶつけ合って以来、等々力は悠木を擁護するようになる。悠木は佐山の奮闘に応えるため現場雑感を一面トップでの連載記事にしようとするが、今度は編集局次長の追村と白河社長により潰される。
販売局長の伊東は、早くに父を亡くした悠木の母が売春をやっていたことを知っており、締め切り時間で悠木と対立するのみならず、悠木には常に不愉快なプレッシャーをかけてくる男だった。白河社長の追い落としを狙う飯倉専務派であり、新聞配達員から正社員に引き上げたことで伊東に感謝している耿一郎を白河社長の弱みを探させるためにこき使って、彼を過労死同然の状態に追い込んだ張本人こそ伊東であった。そんな伊東に、悠木は母親の売春相手が伊東の父親であったのではないかという想像をぶつけると、それは図星であった。
何もかもがうまくいかない中、工学部出身の若手記者・玉置が、事故の原因として「圧力隔壁」が破壊されたのではないかというスクープ情報を入手する。これでやっと悠木達の努力が報われるかと思いきや、情報の裏が十分に取れなかったことで悠木は記事にしない決断を下し、結局全国紙にスクープを抜かれるという事態を生み、またしても追村と衝突する悠木。とどめは過去に悠木が自殺に追い込んだように思われている部下だった望月亮太の従姉妹・望月彩子の登場である。彼女は、亮太の死が新聞で小さくしか取り上げられなかったことを今も不満に感じており、「たとえ世界最大の悲惨な事故でなくなった方々のためであっても、彼の死に泣いてくれなかった人のために自分は泣かない」という過激な内容の投書を新聞の投書欄に載せるように悠木に迫り悠木は了承してしまう。周囲の反対を押し切って新聞に載せた悠木であったが、予想通り読者からの苦情が来て白河社長の逆鱗に触れ、新聞社を辞めるか左遷されるかの選択を迫られる。結局悠木は草津通信部への左遷を選択するのであった。
現在のシーンで、過去を回想しつつ山岳会のホープである燐太郎に助けられながら衝立岩を登っていく悠木であったが、ついに恐怖が勝って「ハーケンが遠すぎて届かない」と弱音を吐き、それ以上の登攀を諦めようとする。しかし、燐太郎は「届くはずです。だってそのハーケンは淳君が打ち込んだんですから」と励まし悠木を驚かす。昔から息子の淳とうまくいっていなかった悠木は、そのことをずっと気に病んでいた。一時は燐太郎をだしにして一緒に登山をしていたこともあったが、淳には燐太郎ほどのセンスがなく、淳が就職してからはまた息子との距離が離れてしまっていた。しかし、一月前に悠木に内緒で燐太郎と共に衝立岩に登っていた淳は、年老いた父のために余分にハーケンを打ち込んでいたのだった。気を取り直した悠木は見事に最難関の第一ハングをクリア。そこで燐太郎は、悠木に娘の由香との結婚を申し出るが、岩に手を伸ばした悠木は「上で話す」と言って笑顔を見せるのであった。
以上が本作のあらすじである。「下りるために登るんさ」という耿一郎が残した謎の言葉について作中で何度も悠木の解釈が登場するが、いずれもあまり意味が分からないまま物語は進む。結局、耿一郎が会社を辞めて山の世界に戻ろうとしていたことを表していたということで決着が付くのだが、さんざん引っぱった割には、どうにもすっきりしない。新聞社内の殺伐とした人間関係も、それが現実なのだとしても不愉快に感じる読者は多いだろう。その中に理解者がいたり、反目していた人物が味方になってくれたりする部分には救いもあり、感動もあるのではあるが…。本作の魅力は、過去のシーンでのその数少ない理解者との連携と、現代のシーンでの燐太郎を通して悠木とその息子の淳の和解が見えてくる部分であろう。今時の若者がそんなに急にものわかりが良くなるわけがないという意見もあるのかもしれないが、個人的には素直に感動できた。自分にとっての一番のネックは、やはり望月彩子の存在である。彼女が従兄弟の亮太の自殺は悠木のせいだと恨み続けているのは多少理解できるとしても、明らかに不穏当な投書を新聞に無理矢理載せさせようとする暴挙ぶり、そして投書が載った途端、悠木の窮地に思いをめぐらせることもなく、それに感動して新聞記者になりますとFAXを送ってくる脳天気ぶりには呆れるしかない。後日譚として、彼女が北関に入社し敏腕記者になったという記載があるが、自分のわがままのせいで悠木が左遷されたことについての描写は全くない。亮太への負い目から彼女の投書の掲載を安易に引き受けてしまう悠木も悠木である。「俺は『新聞』を作りたいんだ。『新聞紙』を作るのはもう真っ平だ。…上の連中の玩具にされて腐りかけてるんだ。この投稿を握り潰したら、お前ら一生、『新聞紙』を作り続けることになるぞ」というセリフはカッコイイが、こういう場合に使う言葉ではないだろう。明らかに彼女の投書内容には問題があるのだから。書きながら『グロテスク』ともども、★★に変更しようかという気になってきた…。
『月の扉』(石持浅海/光文社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2004年版(2003年作品)8位作品。前回読了し微妙な判定を下した『クライマーズ・ハイ』のすぐ下にランキングされた作品だが、本格ミステリ・ベスト10では3位に入っっており、「このミス」2006年版で2位にランキングされた同じ作者による『扉は閉ざされたまま』に自分は★★★の評価を与えているので(正直あまり内容が記憶に残っていないのだが)それなりに期待して読み始めた。
沖縄でのほのぼのとしたキャンプシーンから一転してハイジャックシーンになる冒頭部分のつかみは見事。心に傷を負って不登校になっている子供たちを集め数日のキャンプで立ち直らせてしまうカリスマ「師匠」こと石嶺孝志が、いわれのない誘拐容疑で逮捕され、キャンプの手伝いをしていたボランティアスタッフの柿崎修、真壁陽介、村上聡美の3人が、ハイジャックによって石嶺を取り戻そうという計画を立て実行に移す。なぜ彼らがそこまでして石嶺の釈放にこだわったのかというと、そこには荒唐無稽な理由が存在した。人知を超えた能力を持った石嶺は、人間が輪廻転生する際に魂が立ち寄り悪の心を浄化する「再生の世界」の存在を示し、死後ではなく生きた状態でその穢れなき世界に行ければ、そこで永久に幸せに暮らせると語っていた。そして彼は、最大の皆既月食が現れる7月16日に自らその世界への扉を開き、自分と彼を思う者は共にその世界へ行けると主張していたのだ。その情報はキャンプ関係者に広まっていたが、そのイベントの日の直前に沖縄県警本部長の仲宗根が情緒不安定な娘の無謀な要望を聞き入れて石嶺逮捕の指示を出してしまい、「再生の世界」への旅立ちが危機的状況に陥ってしまった。3人は巧みに凶器を機内に持ち込みハイジャックに成功するが、そこで不可解な事件が発生する。航空機内のトイレで過去にキャンプに参加した少女の姉がカッターナイフで手首から出血し死亡したのだ。真壁は乗客の中の1人の男性を指名し、その謎を解くことを指示する。座間味島のTシャツを着ていたことから座間味君と呼ばれるようになったその男性は鋭い推理で真相を明らかにしていくという物語である。
トイレでの殺人事件は、歌手として成功し、この飛行機にたまたま乗り合わせていたキャンプ経験者の杉原麻里が、過去にキャンプ関係者にダメージを与えた女性がなぜか石嶺の主張を信じ「再生の世界」に行こうとしていることを知り、それを邪魔するためにペーパータオルのボックス内にカッターの刃を取り付けて彼女をトイレに誘導し彼女を傷つけようとしたところ、彼女が予想外に転倒して脳震盪を起こして出血多量で死亡したというのが真相であった。ラストシーンで、座間味はもう一つの何かに気がつくが時既に遅く、石嶺は「再生の世界」へ旅立つ前に柿崎に刺殺される。柿崎は、自殺した息子が生まれ変わった時に、同じく生まれ変わった石嶺に救ってもらうために、石嶺が「再生の世界」に留まってしまうことを阻止したくてハイジャックに参加していたのだ。柿崎は真壁に刺殺され、真壁と聡美は警察に射殺されて事件は終結する。エピローグでは座間味が再登場し、皆既月食の日、キャンプ関係者15人が失踪していたことが明らかになる。石嶺は死の直前、「再生の世界」への扉を開くことに成功していたのだった。
巻末の解説にも記されているが、ハイジャック小説×密室殺人ミステリ小説×幻想小説といったところだろうか。一番のポイントはやはり3番目の、カリスマが信者と共に別世界へ飛ぶことを目指すという設定の部分で、いかにも「このミス」投票者が好きそうなぶっとび系である。しかし、インパクトはそこそこあるが強烈に惹きつけられるほどのものはない
のが残念。
ちなみに犯人達が石嶺の奇想天外な言葉を信じて犯行を行っている点には特に文句はない。むしろ自分も石嶺のような人物が実在するなら会ってみたいし、「再生の世界」とやらも見れる者なら見てみたい。1番目のハイジャックのテクニックについても、たいして驚くようなものはないし、2番目の密室殺人についても、この物語の中では少々浮いた感じがする。怪我をさせることだけが目的だったとは言え、そこまでやる必要があったのか疑問であるし、怪我を負わせられる成功率も高くなさそうだし、仮にうまく怪我を負わせることができたとしても「再生の世界」への旅立ちの妨害になったかどうかは怪しいものだ。県警本部長が自分の娘のために不当逮捕を実行するというのも、あまりにリアリティがない。
乗客の中から適当に選ばれた男性が、探偵役として活躍するというのも無理がありすぎる。まあ、この作品にリアリティ等という言葉を持ち込むこと自体間違いなのかもしれないが、幻想的な部分を生かすためにも、リアリティを持たせるべき所はきちんと持たせてほしい気もする。結論としては、斬新かつ読ませるミステリではあるが、読み終えると
少々期待はずれだったというパターンの作品。
『傍聞き(かたえぎき)』(長岡弘樹/双葉社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2009年版(2008年作品)12位作品。「このミス」2014年版2位作品『教場』で読者をうならせてくれた長岡弘樹の出した2冊目の単行本(『教場』は4冊目)。年始めからギリギリ★★★という作品を2作読了したが、今回は文句なしの★★★。第61回日本推理作家協会賞短編部門を受賞し、文庫化されてからも『おすすめ文化王国2012』国内ミステリー部門で第1位に選ばれ39万部を超えるヒットになったというのも納得の傑作。なぜこれがこの年12位止まりだったのか理解に苦しむが、当時はまだあまり知られていない作家だったのであろう。本作に収められているのは「迷い箱」「899」「傍聞き」「迷走」の4編で、いずれも話が盛り上がってきたところで、ぱんっと場面が変わって読者を一瞬突き放す意地悪なところが特徴だが、絶妙に準備された結末にただただ納得。特に「傍聞き」「迷走」の2作は面白く、タイトルにもなった「傍聞き」は言うことなしの秀逸な作品。
ところがネットを見ると結構ぼろくその書評が散見される。確かに永久に語り継がれる超大作というほどのものではないが、そこまでこき下ろすほどの駄作にはとても思えない。自分も世間で評判の作品を批判することは多々あるので人のことは言えないのだが
、やはり人それぞれ好みがあるということだろう。
「迷い箱」…主人公は、父親が元受刑者で苦しんだ過去があったことから社会的差別を受ける元受刑者を期限付きで受け入れる更生保護施設「かすみ荘」の施設長になった設楽結子(したらゆうこ)。強い意志でこの仕事を選んだはずであったが、盗壁が直らない佐藤をはじめとする不良入所者に手を焼いていた彼女は心が折れかけており辞表を常に持ち歩いていた。そんな彼女が特に気にかけていたのは、自転車の飲酒運転で小学2年生の女の子を撥ね、川に落として死なせてしまった碓井のことであった。彼は何とか結子の幼なじみの飯塚のところに再就職できたが、女の子の命日に死ぬように書かれた遺族からの手紙に従って自殺することを恐れていたのだ。彼は命日にも、その後も自殺することなく、結子との禁酒の約束も守っていたが、結局命日から4日後に碓井は川に身を投げ重体となり、結子は自分のふがいなさに辞職を決意する。しかし、飯塚はその4日間、結子のことを考えて碓井が自殺を思いとどまっていたことを結子に告げ、結子の辞表を破り捨てるのであった。
「迷い箱」とは飯塚が従業員にいつも言っている、捨てようかどうか迷っているものを入れておく箱のことで、そこに数日入れておくと捨てる決心が付くというものであった。碓井は、NHKの番組に連続で出演していた結子を毎日見続け自殺を思いとどまっていた。碓井にとってテレビこそが「迷い箱」だったのである。4作の中では一番微妙な作品だが、テレビを迷い箱に置き換えるという発想はなかなか。
「899」…「899」は要救助者がいることを示す消防署内の符号である。主人公は、隣に住むシングルマザーの新村初美に想いを寄せている消防署員の諸上将吾。さらにその隣に住む認知症の老人がぼや騒ぎを起こしたことがきっかけで顔見知りになって以来、彼女のことを色々と調べ、親密になる機会をうかがっていたのだった。諸上にはもう一つ気になることがあり、それは息子を事故で亡くした同僚の笠間のことであった。若手の消防士・石崎がなくしたトルクレンチを、その大切さに気がつかせるため諸上が探し出してロッカーに隠している話をしても表情を変えない。そんな時、再び認知症の老人宅から出火する。今回は初美の自宅にも延焼する勢いで、その屋内には生後4か月の娘が残っているという。娘の部屋に最初に飛び込んだ笠間は娘を発見できず、続けて入った諸上も発見できない。無線の向こうでは職場から駆けつけた初美の叫び声が聞こえる。家中を捜索しても発見できず、諸上の焦りが頂点に達した時、笠間は再び娘の部屋に入り娘を見事救出していた。なぜ諸上が発見できなかった娘を笠間が発見できたのか。笠間がこの火事のあとに辞職しようとしていること、初美の職場で娘を抱かせてもらってその手足に目立たない火傷を見つけたことで、諸上は全てを理解する。最初に現場で娘を発見した笠間は娘が虐待されていることに気付き、初美に娘の大切さを気付かせるために、一時的に娘をクローゼットの天辺に隠したのだ。諸上が石崎のなくしたトルクレンチを隠したように。
笠間が出動の直前にポケットにしまっていたスーパーの大型のビニール袋を娘にかぶせて娘が煙を吸い込まないような対策をしていたところ、ビニールのクシャクシャした音が赤ちゃんを落ち着かせるのに効果的という前振りも見事に活かされていたところなど、とにかく隙がない。娘の虐待を知った諸上が初美を見限るのではなく、娘を大切にするようになった初美をその後も追い続けるというハッピーエンドも心地よい(それを脳天気すぎると不快に思う読者もいるかもしれないが)。
「傍聞き」…「傍聞き」とは、直接相手に情報を伝えるよりも別人を通してその人の耳に入れた方がその人にとって信憑性が高まるというもの。刑事の羽角啓子は、同じく刑事であった夫を犯罪者に殺され娘と2人で暮らしていたが、居空きの窃盗事件や通り魔殺人事件などの捜査に負われて娘にかまってやれず関係がぎくしゃくしていた。娘には不機嫌になると啓子と口をきかなくなりハガキで不満の内容を知らせようとする変な習慣があった。郵便でハガキが届くまで娘が何に怒っているのか分からないことに加え、居空きの被害者の1人であり、啓子と名前と住所が似ている、自宅裏に住む老婆の所に間違ってハガキが配達されることが多かったことも、啓子をいらだたせていた。ある日、娘の料理を大きい声で褒めた啓子は、いぶかしげな顔をする娘に、今のは仏壇の夫に聞かせるために言ったのだと「傍聞き」の話をする。そんな時、居空きの容疑者として逮捕されたネコ崎に面会を求められた啓子。ネコ崎は、自分は居空きの犯人ではなく、犯人が間もなく捕まること、ただその人物が逮捕されると警察が困ることがあるということが取調室の雰囲気で分かるということを主張する。ネコ崎は、以前啓子が逮捕した人物であったことから、間もなく自分が釈放されることを臭わせて復讐に行くことをほのめかしているのではと不安になる。しかし、事実は異なり、ネコ崎の真意は、「傍聞き」によって居空きの真犯人を自首させることにあった。面会時に立ち会いをしていた若い警官こそが、ネコ崎が現場で目撃していた真犯人だったのだ。そしてもう1つ「傍聞き」が実践されていたことを啓子は知ることになる。老婆の家に届いていた、捜査に没頭する啓子を非難する内容の娘のハガキは、「あなたが被害者となった居空き事件も警察はしっかり捜査している、あなたは世間から見捨てられているわけではない」ということを孤独な老婆に知らせて励ましてあげるためのものだったのだ。娘は、ハガキが老婆に届くように、あえて配達員が住所を読み間違いやすい字を書いていたのだった。そんな娘の成長を喜ぶ啓子であった。
「傍聞き」が作中に三重に登場し、それら全てが全く違和感なく作中に溶け込んでいる、家族小説とミステリ小説を見事に融合させた文句なしの傑作。
「迷走」…救急隊員の蓮川潤也は、婚約者・佳奈の父でもある隊長の室伏光雄と共に救急車で傷害事件の現場に向かっていた。腹部を刺された被害者である検察庁の葛井は、佳奈を車で撥ねて彼女を車椅子生活に追い込んだ医師の増原和成を不起訴にした男でもあった。事故直前、増原が運転しながら目を閉じていたという子供の目撃証言があり、増原には何らかの疾患があったのではと室伏や蓮川は考えていたが、検察はそれを認めようとしなかったのだ。あらゆる医療機関から搬送を拒否された葛井は、増原なら断るはずがないと主張するが、室伏が増原の携帯に電話したところ、どこかの病院を出たばかりらしい彼との通話は途中で途絶えてしまう。室伏は、20分後に受け入れが可能になりそうな済生会病院に救急車を向かわせるが、病院の近くに来ても一向に救急車を救急患者専用の搬入口に向かわせようとせず、病院の周りをぐるぐると回らせるだけであった。室伏が自分を脅迫していると考えた葛井は室伏に取引を持ちかける。すぐに病院に向かってくれれば増原を起訴してやると。そのやりとりから、葛井が増原と取引していたことを確信した蓮川は、これこそが室伏の狙いだったのだと納得するが、その後も室伏は救急車をむやみに走らせ続ける。そして蓮川に預けられていた室伏の携帯から救急車の音が聞こえてきたことで遂に室伏の真意が明らかになる。室伏は、済生会病院の近くで電話の途中に倒れた増原を救急車の音を頼りに発見しようとしていたのである。そしてついに増原を発見することができたのであった。
実際にこうやって怪我人や病人を発見することはあるそうだが、それをミステリーに仕立てた作者の手腕は見事としか言いようがない。
『転迷 隠蔽捜査4』(今野敏/新潮社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2012年版(2011年作品)14位作品。「隠蔽捜査」シリーズは、昨年10月に刊行された『自覚 隠蔽捜査5.5』まで、短編集
2作(3.5と5.5)も含めて7冊が刊行されている。第1弾『隠蔽捜査』(「このミス」2006年版20位)と第2弾『果断
隠蔽捜査2』(2008年版4位)は読了済みで、どちらにも★★★を付けているので期待して読み始めた。ちなみに『疑心 隠蔽捜査3』『初陣
隠蔽捜査3.5』『自覚 隠蔽捜査5.5』は「このミス」にランク入りしていない。
主人公は、第1弾の不祥事で降格処分となり、第2弾で大森署に署長として異動させられたキャリア(警察官僚)の竜崎伸也。嵐の前の静けさから一転して、竜崎の周囲で様々な事件が起こる。近隣署での外務省職員の刺殺事件、担当区域での外務省OBの轢き逃げ事件と連続放火事件
が起こっているさなか、さらには覚醒剤捜査をめぐって厚生労働省の麻薬取締官の矢島が警察は捜査の邪魔をするなと怒鳴り込んでくる。プライベートでは娘の恋人の乗った航空機がカザフスタンで墜落し、外務省にいる警察庁時代の知人である内山に詳細を問い合わせるが、逆に刺殺事件の詳細について情報を
しつこく求められる竜崎。しかし、竜崎はいずれの件にしても、いつも通り何者にも物怖じせず、冷静かつ適切に対応してい
く。当初は、被疑者となった2人の外務省関係者は、協力していたコロンビアの麻薬カルテルを裏切って消されたのではないかという見方に傾きつつあったが、竜崎は内山の野心によって2人がカルテルに潜入捜査を行った末に消されたという真相にたどり着く。
刺殺事件と轢き逃げ事件と、麻薬取引事件が実は1つに結びついていたという構造で、連続放火事件については、個性的な強行犯係の若手の戸高を活かすため、航空機墜落事故については、家族のことも顧みるようになった竜崎を描くための演出ということで、直接今回のメインの事件には関わっていなかったというのは、若干拍子抜け。メインの3つの事件にしても、関連性があることは最初の段階から見えており、被疑者が殺害された理由にもそれほどの意外性がないため、全体としてはインパクト不足の印象もあるが、キャラクターを活かしきってシリーズ物の1作としてきれいにまとめてあるのは間違いない。
主人公の竜崎は言うに及ばず、幼なじみの刑事部長で竜崎をさりげなく助けてくれる伊丹が特に良い味を出している。以前にも書いたように、末端の警察官が上層部からの圧力によって苦しみながら捜査を進めるというパターンの警察小説は、正直息が詰まって読むのに必要以上にエネルギーを消耗してしまうのだが、降格されているとはいえ、それなりの力を持ったキャリアが権力に屈せずに活躍する小説は爽快感があって心地良い
(そのことにリアリティがあるかどうかは別にして)。同じ左遷されたキャリアでも、大沢在昌の「新宿鮫」シリーズの主人公は相当末端に追いやられて苦労しているが、本作の竜崎は降格されても警察署長であり、過去の伝手や幼なじみを利用して、警察上層部や官僚たちと対等に渡り合い、部下達の賞賛を集める存在である。彼のように生きられたら…と憧れる読者も多いはずだが、彼の頭のキレと度胸は、容易に真似できそうにない。
期待値が高かった割にインパクトがないことと少々マンネリ気味なところを差し引いて★★としておくが、限りなく★★★に近い良作であり、読後大きな後悔はしないことは保証する。
『秋の花』(北村薫/東京創元社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」1992年版(1991年作品)12位作品。実は昨年末に発表された「このミス」2015年版の中から見事1位に輝いた米澤穂信の『満願』を早速確保できたのでそれを読もうとしていたのだが、「このミス」2015年版の米澤穂信のインタビューを読んでみると、何と彼は北村薫の円紫さんシリーズ第4弾『六の宮の姫君』に接してミステリーを書こうと決意したという。その『六の宮の姫君』は、以前から奥さんに借りたままずっと手元に置いてあり、北村薫作品は昨年4冊も読んだのでそのままにしてあったのだ。そこで、それならそちらから読もうと思ったのだが、それと一緒に同じシリーズ第3弾の『秋の花』も借りてあったので、どうせならとそれから読み始めることに。ちなみにシリーズ第1弾『空飛ぶ馬』と第2弾『夜の蝉』は読了済みで、共に自己評価は★★だった。
様々な作品を読了後にいつも感心するのは、作者に対してはもちろんだが、その解説者に対してである。今回の文庫版の北村暁子氏の解説も見事で、あれを読まされると正直もう何も付け加えるべきことなどないのである。が、そこには当然のように賛辞の言葉しか並んでいないので、あえて気になったところを記しておこう。まずは、あらすじを簡単に記しておく(概要自体は本当にシンプルな話なのである)。
シリーズ開始時、大学2年生だった主人公の「私」は大学3年生になっていた。「私」は友人と話していて文化祭の話題になった時、自分の出身高校の文化祭が中止になったことを語り出す。仲良し2人組だった後輩の津田真理子、和泉利恵のうち、真理子が高校の屋上から謎の転落死を遂げ、その後利恵がすっかり落ち込んでしまっているのであった。「私」の郵便受けに真理子の教科書のコピーが投函されていたこともあって、事件の真相を求めて調べ始める「私」。真理子は間違いなく屋上に1人でいたこと、真理子と利恵が事故の直前に鉄パイプでチャンバラをしていたこと、2人が5人分の法被を作ると言って布地を購入していたことなどが明らかになるが、結局「私」はこれまでにも何度も助けてもらっている落語家の円紫に助言を仰ぐ。円紫は、「私」の話からあっという間に真相にたどり着く。2人が作ろうとしていたのは法被ではなく垂れ幕で、布地と鉄パイプはその材料だったのだ。試しに人気のない学校で真理子が垂れ幕を屋上から垂らし、それを利恵が下からチェックしていた時、一階の電灯が付いたため、先生に見つかるとまずいと思った利恵が布地を引っぱって知らせようとしたら、真理子が引っぱられて転落してしまったというのが真相であった。利恵は真相を自分から言い出せず、教科書のコピーを「私」の郵便受けに投函したりして誰かに追及してほしかったのである。
ストーリーは本当にこれだけのものだ。北村暁子氏の解説にあるように見所はたくさんあるのだが、やはりミステリーという視点だけで見ると物足りなさは否めない。これだけの話に、こんなにもの字数を費やしてあるのは、正直読むのがかったるいという批判があるのも頷ける。今回がシリーズ初の長編なのだが、短編にしても全く問題なく成立しそうな気がする。名探偵役とは言え、円紫が一瞬で真相にたどり着いてしまうのもどうか。さらに、真相を真理子の母に知らせるべく利恵を連れて「私」と円紫が真理子の家に行くのは分かるとして、そこで真理子の母と2人きりになった利恵が眠ってしまうという結末にも引っかかる。たまっていた思いの全てを吐きだして力尽きてしまったということなのだろうが、そんなこれ以上いたたまれない場所で眠れるものだろうか。また、作者に罪はないが、本文中から引用された「私達って、そんなにもろいんでしょうか」という帯のキャッチコピーもあざとさが鼻につく。明らかに読者の誤解を狙っているとしか思えない。
『満願』(米澤穂信/新潮社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2015年版(2014年作品)1位作品。「夜警」「死人宿」「石榴」「万灯」「関守」「満願」の6つを収めた短編集。作者が影響を受けたという北村薫の『六の宮の姫君』を読んでから手をつけようと思っていたが、読了したばかりのその前作『秋の花』が今一つだったので、結局こちらを先に読むことにした。
結論から言えば、ミステリ史に残る傑作とまでは言わないが1位になっても不思議ではない作品であることは確か。
「夜警」…交番長の柳岡は、以前刑事課にいた時に、部下を厳しく指導したせいで自殺に追い込んだという苦い過去があったため、交番に配属されたばかりの新人の川藤が警官に不適格だと察しても同じような厳しい指導はしてこなかった。その川藤が、自宅で妻に刃物を振り回した田原勝を射殺しながらも首を斬りつけられ殉職してしまう。川藤は犯人に5発の弾丸を発射していたが、命中したのは4発で、あとの1発は現場となった庭の地面から発見された。柳岡は真相を知りたいという川藤の兄に威嚇射撃をした時のものだと説明するが実際は違っていた。事件のあった午前中に、川藤が触っていた拳銃が暴発し弾丸が道路工事の誘導員のヘルメットに命中。大事にはいたらなかったため自動車が跳ねた小石がぶつかったと誘導員に思わせ、弾丸を回収した川藤は、日頃から妻の浮気を疑っていた田原勝に妻が警官と浮気をしているという偽情報を流して暴れさせ発砲のチャンスを作ったのだった。柳岡は川藤の兄が真相に気がついていると感じつつ、自分の辞職のことを考えていた。
ヘルメットに拳銃の弾丸が命中しても、小石が当たった程度のダメージしか与えられないのだろうかとい疑問がないではないが、誘導員が倒れるくらいの衝撃はあったようだし、命中角度によっては跳弾で済むのかもしれない。それ以外は文句なしの作品。
「死人宿」…証券会社に勤める「私」は、2年前に失踪した恋人の佐和子の居場所をついにつかんで彼女の働いている山奥の温泉旅館にやって来る。当時上司のパワハラに苦しんでいた彼女に対し真剣に相談に乗ってやれなかったことを反省する「私」を試すかのように、彼女は露天風呂で拾った遺書を彼に見せ、3人の宿泊客のうちの誰のものか考えてほしいと頼む。彼女の勤めるこの温泉旅館の近くには火山ガスがたまる窪地があり、「死人宿」と呼ばれ自殺の名所として有名になっていたのだった。彼は佐和子と共に従業員のふりをして部屋をまわるが、書き手が誰か分からないが常識的に考えて同情を引こうとする狂言の可能性が高いという彼の結論に佐和子は失望した様子であった。2年前も、常識的に考えてそんなひどい嫌がらせをする上司はいないと言って佐和子を失望させたことに思い至った「私」は、署名のある遺書の続きが川に捨てられていると考え、捜索の結果自殺志願者の男性を特定し自殺を思いとどまらせることに成功する。しかし、翌朝別の女性宿泊客の遺体が発見される。その彼女の部屋には備え付けの浴衣とは別の死に装束としての浴衣があったことに気付くべきだったと無力感に襲われる「私」。
何とも救いようのない話。主人公は恋人とよりを戻すべく誠意を見せようと努力するが、彼にできることには限界があった。佐和子との関係が修復できたのかどうかも全く語られないまま物語は幕を閉じてしまうが、発見された遺体が運ばれている間、「どうにもできなかったのよ」とつぶやき続ける彼女の様子からは悲観的な結末しか想像できない。人生の真理の1つを具現化した作品として魅力的だが、遺書の書き損じが川に捨てられたと断定した根拠と、簡単にそれを発見できてしまったことについてはかなり無理を感じる。
「石榴」…子供の頃から美人だったさおりは、大学時代にライバルを蹴落とし、女子学生の人気を独り占めしていた同じゼミの佐原成海と結婚する。しかし、彼は生活破綻者だった。長女の夕子が高校受験を控えた年にやっと離婚の決意をし、余程のことがない限り親権を得られるものと考えていたさおりであったが、夕子の策略により親権は成海のものとなり驚愕する。夕子は男としての成海を手に入れるため、次女の月子と共謀して、お互いの背中を金属製の靴べらで殴り合うことによって傷を作り、母親の虐待を装ったのだった。親権を父親に移す方法は他にもあったが、その方法を選んだ理由は、将来自分よりも美しくなるかもしれない妹の背中に一生残る傷を残すためであった。
何ともえげつない物語。退廃的な美を感じさせるインパクトはあるが、これはさすがに嫌悪感しか抱けない。
「万灯」…井桁商事に勤める伊丹は、インドネシアでのガス田開発のプロジェクトを成功させ、次にバングラデシュ東北部での仕事に取りかかろうとしていた。サイクロンや洪水等に悩まされる国で集積拠点として利用できそうな条件を満たすところはなかなか見つからなかったが、ボイシャク村というところが条件を満たすことが明らかになる。ところが、アラム・アベットというその村の長老の1人が頑として同意しない。アラムの指示で襲われた伊丹の部下が辞職するなど、一向にプロジェクトが進まず頭を抱えていたある日、伊丹は村に呼び出される。そこにはフランスのエネルギー企業に勤める日本人の森下もいた。結局アラムの意志は固く、開発の件は拒まれ、失意の中、村を後にしようとする2人。しかし、そんな彼らを呼び止める者がいた。それは伊丹と森下を手紙で村に呼び出した張本人であるアラム以外の長老達であった。彼らは開発に積極的で、アラムを殺してくれれば開発に全面的に協力するというのだ。そして、伊丹は森下と共に交通事故に見せかけてアラムを殺害する。しかし、森下は罪の重さに耐えかねて職を辞して帰国してしまう。伊丹は口封じのために彼を追って帰国し、東京のホテルの駐車場で森下を撲殺し山中に埋めるが、そこで問題が持ち上がる。森下がボイシャク村でコレラに感染しており、東京のホテルで他の宿泊客に伝染したことが明らかになり、彼の行方が捜索されていたのだ。ホテルのトイレで吐きまくっていた森下が菌をばらまいたせいであろう。そして、伊丹にもコレラに似た症状が出始めていた。空港で感染なしという診断を受けていた伊丹がコレラに感染していたとなれば、森下との日本での接点が明るみに出てしまう。ただの疲労による症状なのか、コレラによるものなのか、伊丹はホテルの一室で裁きを待っているのだった。
「私は裁かれている」という一文で始まる本作は、当然警察にその罪が明らかになった主人公が法の裁きを待っているという状況を描いたものかと思いきや、実は上記のあらすじの通りの展開。このあたりはなかなか。伊丹の他にもホテルでの感染者が複数いるのだから、仮に伊丹が森下から感染していて発症しても森下と接触していたことにはならないのでは、という疑問も感じたが、やはり伊丹がなぜそのホテルに立ち寄ったのかというところを突かれると厳しいということか。だが、仮に接触したことを認めたところで重症化した森下がどこかで行き倒れた可能性も出てくるので逃げ切れる可能性も…。いや、優秀な日本の警察が伊丹に興味を持てば使用したレンタカーを調べられてやはりアウトか。
本書の中では、本作が長編を読んでいるようでもっとも引き込まれた。
「関守」…フリーライターの「俺」は、スポーツ専門のライターを目指していたが限界を感じ、いつの間にか何でも屋になっていた。コンビニで売る都市伝説のムック本のための原稿を依頼され、5本の内の4本を書き終えたものの残り1本で手が止まり、結局いつも世話になっている先輩ライターから伊豆半島南部の桂谷峠での連続事故死のネタをもらう。客が来そうもない峠のドライブインの婆さんから話を聞き出そうとすると、幸運なことに、病院の事務をしていたというその婆さんは、過去の4件の事件と5人の被害者のことを全て知っていた。苦もなく取材が進むことに喜ぶ「俺」であったが、婆さんの話は予想外の方向に進む。過去の事件へ遡りながら話を聞いていた「俺」は、連続事故死の最初の被害者の高田が、婆さんの娘の夫であることを知らされ驚く。婆さんの娘は、婆さんの目の前で我が子を連れ去ろうとする夫を石仏で撲殺し、娘の罪を隠蔽するため、今は亡き爺さんが車ごと高田を崖下に転落させたのだ。石仏は娘が高田を撲殺した時に首が折れてしまい、爺さんが接着剤で補修していたのだが、2人目の学生の大塚はフィールドワークの一環として石仏を調べに来たため、3、4人目のヒモ男の田沢とその恋人の藤井は石仏を蹴って再び首を折ったため、5人目の前野は観光資源として石仏を調査しようとしたため、婆さんによって飲み物に睡眠薬を盛られ事故死させられていたのだった。真相を知ってしまった「俺」が無事で済むわけはなく、彼の飲んだコーヒーにはすでに睡眠薬を盛られた後だった。
ラストシーンで、意識が遠ざかっていく「俺」の耳元でつぶやかれる「ねえ、聞こえるかね。お兄さん、聞こえるかね。まだ聞こえるかね」「それとも、もうそろそろ、聞こえんかね」という婆さんのセリフにはぞっとさせられる。「怖い話」にはありがちな展開ではあるが、ここでホラーチックな小説を挟んでくるとはなかなかの構成の妙である。
「満願」…若手弁護士の藤井は、学生時代に下宿先のおかみさんとして世話になった鵜川妙子の弁護に燃えていたが、控訴審まで進んだところで妙子が控訴を取り下げたため懲役8年の一審判決で刑が確定してしまい、藤井は納得のいかないものを感じていた。妙子は夫の借金の取り立てに来た貸金業の回田商事社長・矢場英司を刺殺した罪で逮捕されていた。藤井は妙子が家宝として大切にしていた掛け軸に血痕が付いていたことを指摘し、もしも計画的な殺人であったら、家宝をこれから殺害現場になると分かっているところに掛けるはずはないと主張し、犯行の計画性を判決に盛り込ませないことに成功していた。彼女が控訴を取り下げなければさらなる減刑も目指せるはずだったのだ。そして、妙子が収監されてから5年後、藤井はふとあることに気がつく。妙子は客間で人に見られたくないことがある時、客間に飾ってあった達磨を後ろ向きにする習慣があった。そして現場で押収された達磨は後ろ側に血痕が付着していたのだ。これは明らかに計画的な殺人の証拠ではないか。そしてさらに恐るべき事実に彼は気がつく。家宝の掛け軸に血が付いたのは殺人の結果ではなく、血を付けることが殺人の目的だったのではないかと。血は表装の部分にだけ付着しており、同じく証拠品として押収された座布団の血痕は掛け軸の大切な禅画の部分を覆うように置かれていたことが判明した。血を付けることでその掛け軸は証拠品として押収され、借金の形として競売に掛けられることはない。病死した夫の保険金で借金を返済し終えた彼女は堂々と掛け軸を取り戻すことができるのだ。妙子と一緒に学生時代に同じ達磨を購入した藤井は弁護士になって満願成就を果たせたが、妙子は果たして満願成就を果たせたのだろうか。
結末まで、この話のどこがミステリーなのだろうといぶかしく思っていたが、最後の最後でしっかりと見せ場が用意されていた。しかし、それにしても、これが果たして今回の6編を代表して本書の表題になるにふさわしい作品なのかというとどうか。ミステリ小説史上いまだかつてない殺人動機という点では秀逸だが、やはり個人的には「万灯」の方が印象的であった。
『ビブリア古書堂の事件簿6〜栞子さんと巡るさだめ〜』(三上延/アスキーメディアワークス)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版ノミネート前の新刊。結論から言うと過去のシリーズ作品同様、あるいはそれ以上に上位ランクインは難しいと思われる。理由はあらすじのあとに。
前年に篠川栞子から太宰の直筆入りの『晩年』初版本を奪おうとした田中敏雄という古書マニアの青年は、栞子を石段から突き落として大怪我を負わせて警察に逮捕され判決を待つ身となっていた。その稀少な『晩年』は、敏雄の目の前で栞子がそのレプリカを燃やすことで、二度と敏雄に狙われることはないはずであったが、保釈された敏雄からそのトリックはばれているという脅迫じみた手紙が舞い込む。しかし、主人公の五浦大輔が接触した敏雄は脅迫状のことを知らず、逆に別の『晩年』を探してくれるよう大輔と栞子に依頼をしてくる。それは、敏雄の祖父・田中嘉雄が所有していた、栞子が所有しているものとは異なる太宰の別の書き込みのある『晩年』の初版本であった。調査の過程で、嘉雄が「ロマネスクの会」という太宰の研究サークルに所属しており、そのメンバー達は大輔の母が経営していた食堂に出入りしていたことが明らかになる。探している『晩年』は50年近く前に、サークルメンバーの1人、杉尾が経営する古書店・虚貝堂で販売されていたもので嘉雄が買ったようだが、何かがあって嘉雄と杉尾は疎遠になったらしい。同じくメンバーだった小谷に会った大輔と栞子は、嘉雄が、メンバーだった大学教授の富沢の書庫から稀覯本を盗んだせいで「ロマネスクの会」が解散したことを告げられる。そして富沢の娘から、その盗まれた本が『晩年』ではなく『駆込み訴へ』の限定版であったことを知らされる。その後の栞子らの調査によって、嘉雄が所有していた『晩年』は太宰の直筆で「自殺用」という書き込みがあったこと、47年前に久我山書房の久我山尚大がその『晩年』と『駆込み訴へ』の両方を狙っており、久我山が嘉雄を強請って『駆込み訴へ』を富沢の書庫から綴じ紐をバラして少しずつ盗ませた上、その7年後に金に困っていた嘉雄から『晩年』も安く買いたたいて手に入れたことが判明する。『駆込み訴へ』の方は、栞子の祖父・篠川聖司が何らかの方法で取り返して富沢に返還されていたが、「自殺用」の『晩年』の方は行方不明のままだった。栞子の所有している『晩年』は安全のために大輔が持ち歩いていたが、それに気がついた敏雄に襲われ奪われそうになる。敏雄は自分が探している『晩年』の所有者をすでに突き止めており、栞子の所有する『晩年』と交換することによって、目的の本を手に入れることができる約束になっているという。しかし、敏雄と大輔が実は従兄弟同士だったという大輔しか知らない秘密を敏雄に明かすと、敏雄は「自殺用」の『晩年』の所有者を捕まえたいという大輔の提案を聞き入れる。そして、明らかになったその所有者とは久我山尚大の孫娘で女子大生の久我山寛子であった。あらゆる面で栞子に勝てずにコンプレックスを抱いていた寛子は、古書好きになるために稀覯本を集めるという歪んだ考え方の持ち主になっていた。取引現場で両方の本を奪って逃げようとした寛子ともみ合いになって石段から転げ落ちた大輔であったが、寛子のみが救急車で運ばれ、彼は大怪我をしたまま栞子と久我山宅を訪れる。そして栞子は、寛子の祖母の久我山真里こそが今回の事件の黒幕であることを看破し、「自殺用」の『晩年』の現物は、机の上の開き戸棚から発見される。死ぬ前にアンカットの『晩年』を切り開きながら読むのが夢だった真里は、一部がアンカットでなくなくなってしまった「自殺用」の『晩年』の代わりに、栞子の所有する完全なアンカットの『晩年』を譲ってくれるよう栞子に頼むが栞子は断る。真里は残念そうに眠ってしまい、大輔は意識を失って病院へ搬送される。病院で栞子の母・智恵子と話した大輔は、智恵子が久我山尚大の愛人の娘であり、尚大が後継者にしようとしていた人物であることに思い至る。しかし、実際には智恵子が尚大の後継者にはならず、彼の宿敵であった篠川聖司の店で働き、その息子と結婚までしたのはなぜかという謎が残るのであった。
まず、
冒頭で大輔がいきなり入院しているシーンを出してくるのは読者に不親切。ラストの一部が冒頭で示されているという、ある意味ありがちなパターンなのだが、5巻の最後で大輔が怪我をしていたっけ?と混乱する読者がいるのでは。次に「ロマネスクの会」のメンバー
等、次々と新キャラが登場して話がややこしい。いずれもキャラが今一つ確立していない(キャラが立っていない)ため、巻頭のイメージイラストがなかったらもっとストレスがたまっていたかも。
そして、誰がどうやって富沢の書庫から稀覯本を盗み出したかというのが今回のミステリの1つなのだが、大輔の祖母との不倫をネタに久我山尚大に強請られた田中嘉雄の犯行だったというのはともかく、和綴じの本をバラして二重になっていたクリップボードに隠して少しずつ持ち出したというトリックにはかなりの引っかかりを覚える。オリジナルコンディションを重視するマニアが思いつく方法ではないだろう。栞子の祖父がそれをどうやって取り戻したのかも最後まで明らかにならないのも不満。事件の黒幕が久我山真里だったというのは少々意外ではあったが、彼女が昔から栞子に冷たく、また夫の久我山尚大が、かつて愛人とその子供を家に連れてきて真里を泣かせたことがあったというエピソードからは、その子供が栞子の母であったという想像は簡単に付くので、そこに驚きはあまりなかった。
あちこち血がつながりすぎなのもどうかと思う。田中敏雄が簡単に大輔の協力者になるの点にも、久我山寛子が明らかに警察沙汰になりそうな犯罪を犯してまで稀覯本を手に入れようとする点にも疑問が残る。世界観は個人的に大好きなシリーズなのだが、今回は
長編ということもあり全体的にいつもよりメリハリがなく物足りなさを感じた。あと1、2冊で完結するそうなので次巻に期待したい。
2015年2月読了作品の感想
『闇に香る嘘』(下村敦史/講談社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)3位作品。最新「このミス」ランキング2作目の読了。過去の満州での厳しい生活の影響で41歳の時に盲目となったカメラマンの村上和久には、腎不全の孫娘・夏帆がいた。娘の由香里からの腎臓移植は成功したがその腎臓は1年半しか持たず、今度は和久が提供を申し出たが、検査の結果、数値が悪く移植はできなかった。自分の世話を由香里やその恋人に強要してきたことで、由香里の縁談をことごとく潰し、結局家を飛び出した由香里をシングルマザーにしてしまった和久は、彼女に歩み寄る機会をまた失ってしまったのであった。最後の望みは、東北で年老いた母と暮らす兄の竜彦であったが、移植どころか事前の検査すらもかたくなに拒絶される。そこで和久はある疑念を抱く。終戦時、命からがら帰国した和久と母であったが、竜彦は逃避行の最中に川で流され行方不明となり、40年後に中国残留孤児として認定され帰国していた。DNA鑑定もされないまま帰国した兄は、日本国籍と遺産目当ての偽者ではないか、と考えたのだ。和彦は、当時の関係者を捜し出して真相を明らかにしようとする、という物語である。
このようなあらすじを、「このミス」2015年版や本書の裏表紙などで、ある程度知って思ったことは、主人公の予想通りに兄が偽者だという展開はまずないだろうということ。そして、効果的などんでん返しとしてあり得るのは、兄はむしろ善人であり、実は弟の主人公こそが、何かの事情で村上家の一員となった、母や兄とは血のつながらない人間であり、だからこそ兄は、その秘密が明らかにならないように、弟の孫への移植を拒絶したのではないかというものだ。そしてその予想はまんまと的中し
てしまい失望した。
和久は、母が生活に困った中国人から引き取った養子だったのだ。精神安定剤の影響で時々記憶を失うという思わせぶりな主人公の設定は結局あまり活かされていなかったし、夏帆を誘拐した組織のアジトに盲目の和久が娘と2人きりで乗り込む無茶ぶり、しかも娘1人であっという間に夏帆を救出してしまう展開にも唖然とした。終盤で、満州での逃避行中に別れた女の子がすでに亡くなっていたことを和久が竜彦に伝えた時、竜彦が打ち沈む様子を見て「愛していたのか」と聞く和久にも、「初恋だった」と即答する竜彦にも気持ち悪ああを感じた。確かに盲目の主人公というのは斬新であるし、物語の各所で張られた様々な伏線が次々と回収されてラストに
収束していく様は見事であるが、肝心のメイントリックがこんなにも簡単に見破られるようでは困る。本作は、第60回の江戸川乱歩受賞作でもあるということで、巻末に審査員の絶賛の言葉が並んでいるのだが、正直そこまでの傑作だとは思わない。最後のシーンでは、和久が母の墓前で感謝の気持ちを述べることで感動的な結末を演出しようとしているのだが、それまでの母の描き方が中途半端なので今一つ感動できない。どうせならそこにもっと焦点を絞って、最初から母と子の絆を強調した作品にした方が良かったかもしれない。
『いつまでもショパン』(中山七里/宝島社)【ネタバレ注意】★★
第8回「このミス」大賞を受賞してデビューした中山七里の最新刊にして、岬洋介シリーズ第3弾(短編集を含めると第4弾)。ちなみに「このミス」主催者の宝島社の作品ということで「このミス」ランキングにはノミネートはされない。プロローグでは、2010年4月に実際にあったポーランド政府専用機の墜落が描かれるのだが、いきなり引っかかる点が2つ。レフ・カチンスキという人物が主体であることは2行目の記述から分かるのだが、史実を知らない読者には、彼が何者かがしばらく分からない。4行目でどこかの国の大統領であることがうかがえるのだが、名前から架空のロシアあたりの大統領かと思いきや、18行目に「ロシア大統領との会談」とありまた混乱。3ページまで読み進んで「ポーランド国民の」云々でやっとポーランド大統領であることが何となく分かるといった感じ(この後「ポーランド空軍のパイロットは皆優秀」という記述があるだけで、結局はっきり「ポーランド大統領」と述べている部分はない)。そして、軍参謀総長が大統領に「着陸予定だったスモレンスク北空港までは距離があり、最寄りの空港を探させているが濃霧で着陸困難」と言っていたのに、それからすぐに機体は着陸のための低空飛行と上昇を繰り返し4回目のチャレンジで墜落。遠かったはずのスモレンスクまで一瞬で移動したのか、適当な最寄りの空港がすぐに見つかったのか。結局どこの空港に着陸しようとしていたのかは全く分からないままプロローグ終了。話の流れからして後者の可能性の方が高そうだが、史実ではスモレンスク北空港の近くで墜落している。実に些細なことではあるが、読み始めからこの不親切さにいきなりテンションが下がった。
しかし、本題に入ると、そんなことは本当に些細なことと思われるくらいに物語に引き込まれる。主人公はポーランドの音楽一家に生まれ、ポーランド国民の期待を一身に背負う若きピアニスト、ヤン・ステファンス。彼は5年に一度開催されるショパン・コンクールでの優勝を、国民のみならず厳格な父から義務づけられ、その価値に疑問を感じ始めていた。ヤンのピアノの師であるカミンスキが審査委員長を務めるとは言え彼にはヤンの採点権はなく、そもそも彼の権力による操作などヤンも期待はしていなかった。1次予選でライバル達の演奏に感銘を受けながらも自分の演奏の会心の出来に満足するヤン。しかし、その1次予選最終日に殺人事件が発生する。会場の控室で刑事のピオトルが射殺され、彼の両手からはすべての指が切断されていたのだ。第一発見者はコンテスタント(出場者)の1人で盲目の日本人・榊隆平。通訳として呼ばれた同じくコンテスタントの岬洋介は、事件に関心を持ち捜査協力を申し出る。一匹狼の謎のテロリスト「ピアニスト」の仕業と考えられたが、捜査が進展しない中でコンクールは継続され、コンテスタントは1次予選で81名からヤン、榊場、岬を含めた36名に絞られた。警察では、殺人現場となった控室に入ることのできるIDカードを持った関係者122名の中から、「ピアニスト」が関係しているパリでの爆破事件発生時にフランスに入国履歴のあった18名まで容疑者を絞り込んだが、そのうち11名はカミンスキをはじめとする審査員で残りの7名が今回のコンテスタントであった。
2次予選で初めて榊場の圧倒的な演奏を目の当たりにしたヤンは調子を崩すが、辛うじて12名の通過者の中に入ることができた。その中には、岬と榊場の名もあった。気晴らしで訪れたコンサート会場でテロに遭いながらも何とか無事だったヤンは、岬の3次予選での演奏の見事さにさらに気分が萎える。それでもヤンは岬や榊場と共に8名のファイナリストに名を連ねた。そしてその8名のうち岬を除く7名は、警察が絞り込んだコンテスタントの中のテロ容疑者の7名と一致していた。公園での爆破テロで知り合いの女の子の死を目の当たりにしたヤンは、コンクール決勝でまたしても見事な演奏を披露する榊場に動揺することなく、何もかも吹っ切った演奏で喝采を浴びる。その一方、岬は演奏中に持病の突発性難聴の発作が発症し、彼のファンになっていたヤンを苦しませるが、岬は死んだ女の子がリクエストしていた曲「ノクターン第二番変ホ長調」を突然弾き出し、その感動的な調べに会場を大いに湧かせる。そして、岬は入賞を逃すも、ヤンは見事に優勝を果たす。その授賞式の会場で登壇したカミンスキに駆け寄る人影。またしても「ピアニスト」によるテロかと思いきや、それは岬であった。岬が取り押さえたカミンスキの手には拳銃が握られていた。カミンスキこそが「ピアニスト」であり、彼は軍の不正を正そうとした息子が兵士に殺された事件を隠蔽しようとした政府に復讐しよう決意し、大統領に最も近づける場として授賞式会場を選んだのだ。刑事の遺体から指を切り取ったのは、刑事ともみ合った際に手を引っ掻かれたため、爪の間に自分の皮膚片が残っているとDNA鑑定で簡単に犯人が分かってしまうからであった。岬は切断理由に気付き、関係者と握手をしまくってカミンスキの犯行と断定したのだ。ヤンは師であるカミンスキの行動に悲しみ、そして彼の計画を知りつつ放置していた父に絶望する。空港で帰国の途につく岬に「自分を好きになる」ようアドバイスされたヤンは、彼と別れた後にパキスタン大統領からの緊急放送を聞く。それは、岬の弾いたノクターンの中継を聴いたタリバンが戦意を喪失したおかげで、人質になっていた24人のキャラバン隊が脱出できたことに対する感謝のメッセージであった。
孤高のテロリスト「ピアニスト」の正体は誰か、というのが本作の柱になっているわけだが、正体はコンテスタントの誰かか、あるいは、そうと見せかけつつヤンの父だろうと思わせておいて、実は審査委員長だったというオチ。これは予想できなかった。トリックのレベルとしてはそう高いものではないが、予想を外した読者は多いのではないか。ここには素直に脱帽しよう。ただ、せっかくピアニストが大勢登場しているのだから、被害者を刑事にしなくてもピアニストの誰かにして、ピアニストの命である指の切断を描くことで怨恨の線を臭わす手もあったのではという気はする。また、相変わらず音楽描写が多く、音楽ミステリのパイオニアの面目躍如といったところだが、決してそれは読み手の苦にはならない。音楽好きの読者は十分に楽しめるであろうし、音楽に興味のない読者はさらりと読み流してもらっても問題はないのだ。全体の7割くらいが音楽描写ではないかと思えるくらいに多いので、読み流してばかりいると内容が若干薄く感じられるかもしれない。あるコンテスタントが凄い演奏を見せたかと思えば、次のコンテスタントがさらに凄い演奏を見せる描写では、一体どこまでいくの…と呆れてしまう読者もいるだろう。一体どこまでと言えば、今回の岬の活躍ぶりには驚かされる。これまで比較的目立たない活躍だった印象があったが、今回はピアニストとしても探偵としても世界デビューの大活躍である。ちょっとやりすぎでは…と思ったシリーズ愛読者もいたかもしれない。個人的にはこれぐらいやってくれた方がすっきり感が得られて良いと思うが、次回作以降の舞台作りが大変そうだ。
『六の宮の姫君』(北村薫/東京創元社)【ネタバレ注意】★
「このミス」1993年版(1992年作品)18位作品。先日も記したように、「このミス」2015年版で、本書に接してミステリーを書こうと決意したという米澤穂信のインタビューを読んで以来、手元には以前からあったので早く読まねばと思っていた本書。それにやっと手をに付けた。
大学4年生となり、芥川をテーマに卒論を書く予定をしていた私は、文壇の長老・田崎信の全集発行の手伝いをする出版社でのアルバイトを始める。芥川や菊池寛とも面識のある田崎から、芥川が自作の『六の宮の姫君』について「あれは玉突きだね。…いや、というよりはキャッチボールだ」という謎の言葉をつぶやいていたという話を聞いた「私」は興味を引かれる。そして、いつものように円紫師匠からもヒントをもらいつつ、様々な資料をあたった「私」は、ついにその謎を解明する。『身投げ救助業』を書いた菊池寛が、無住の『沙石集』を読んで反発を覚えて著したのが『頸縊り上人』であり、『往生絵巻』を書いた芥川が、その『頸縊り上人』に反発を覚えて著したのが『六の宮の姫君』であり、その関係を芥川が「玉突き」「キャッチボール」と表現した、という結論である。
一言で言うと「文学部の学生の卒論とはかくあるべし」という作品であり、文学部の学生とっては優れたテキストと言える。しかし、それ以外の読者にとってはどうか。ミステリーと言えばミステリーだが、読者を選ぶ作品であることは間違いない。当時の文壇の交友関係などが詳細に記されていて、芥川や菊池好きな人にはたまらないだろうが、このシリーズにそこそこ好意的だった読者であっても、今回の毛並みの違った仕上がりには抵抗のあった人もいたはず。決して芥川嫌いでもなく北村嫌いでもない自分でも正直読み進めるのは辛かった。amazonのカスタマーレビューを覗くとその絶賛ぶりに驚かされるのだが、もともと好きな人が買ってコメントしているわけだからあれだけの高い評価になるのだろう。「このミス」ランクの下位に沈んだのにも納得。ちなみに第5弾(シリーズ最終巻?)の『朝霧』は完全にランク外だったようだ。
『小さな異邦人』(連城三紀彦/文藝春秋)【ネタバレ注意】★
「このミス」2015年版(2014年作品)4位作品。著者の作品が、今回は本作と9位の『女王』の2作ランクインしているが、その内容が評価されたというよりも、2013年10月に65歳で亡くなったばかりの直木賞作家の作品ということで注目を浴びたという面が大きいと思われる。本作は表題作を含めた8編を収めた短編集なのだが、過去に「オール讀物」に発表され、その後単行本として出版されていなかったものを急遽集めたもののようだ。それまで単行本化されなかっただけのことはあり、正直「これは」というものはない。それどころか相当ひどい。2001年版(2000年作品)1位作品「奇術探偵曾我佳城全集」(泡坂妻夫)や、2005年版(2004年作品)3位作品『天城一の密室犯罪学教程』(天城一)などは、寡作作家の単行本化されていなかった作品を集めて出版されたことが注目を浴びてのランクインで、内容的には一般読者に厳しいものであったが、本作もそれに近い。「このミス」には、このパターンと、「すごい」だけで面白くないという2大残念パターンがあるので要注意である。過去に読んだ同著者による『人間動物園』も厳しい内容だったので警戒はしていたが、直木賞をはじめ数々の文学賞を獲られた方の作品だとは思えない残念さであった。amazonのカスタマーレビューもさんざんかと思いきや、評価者6人の評価は、★5つ満点で、★5つが4人、★4つが1人、★3つが1人。自分の感性がおかしいのだろうか。『女王』を読むのが非常にためらわれる。
第1話「指飾り」…42歳の平凡なバツイチサラリーマンの相川康行は、3年前に離婚した妻の礼子らしき女性の姿を街で見かけ、その場所で再び彼女が現れるのを待った。そしてその後ろ姿を再び見つけた康行は、その女性が結婚指輪を路上に捨てるのを目撃した直後、職場の同僚の倉田和枝から声を掛けられる。康行は別れた妻の話をし、和枝も付き合っていた劇団員と今日別れ話をしたばかりだということを話し、和枝は康行の部屋に泊まっていく。翌日、先に退社した和枝から電話で驚くべきことを康行は告げられる。康行が街で見かけた礼子らしき女性に自分が声を掛けたら間違いなくそれは礼子で、和枝が会社近くのバーに呼んであるというのだ。康行が遅れてバーを訪れると、バーテンは礼子も和枝も帰ったあとだと言い、康行は置き去りにされた古い結婚指輪を持ち帰る。しかし、康行はバーテンと和枝の嘘を見抜いた。礼子らしき香水の香りが店内には残っていなかったからだ。再びバーを訪れた康行は、和枝の交際相手と思われるバーテンに、和枝への自分のプロポーズの印だと言って結婚指輪を彼女へ渡すようにバーテンに冗談を言ってからかうが、その指輪が路上で拾われた礼子のものではなく、康行の部屋の洗面所で和枝が見つけたものであることを知り、康行は自分の礼子への未練を思い知らされるのであった。
ミステリとして読むのはもちろんだが、普通の小説として読むにも物足りない中途半端な作品。
第2話「無人駅」…定年が迫っている駅員の高木安雄は、雨が続く梅雨の季節の夕方、最終電車が去った後のように人気がないホームの端のベンチに女の姿を見つける。彼が声を掛けると、その女性は持っていた切符でどこまでいけるか高木に聞いてきた。結局彼女はその駅で降りることにしたらしく、タクシー運転手の大島成樹に双葉という旅館の名を告げる。しかし、双葉に着いた彼女は、大島にイシダという客が来ていないか旅館の者に聞いてくれと言ってタクシーから降りない。イシダという客はおらず、西田という予約客の到着が遅れているという話を聞いた女は、再び駅へ戻るよう指示して、大島が紹介した「ランタン」というスナックで食事をするためタクシーを降りた。大島は、女が駅の掲示板に見入っていたことを思い出し、そこに石田広史という殺人犯の指名手配ポスターを見つける。今日の午後12時が時効成立の時であり、彼女はその石田と待ち合わせをしているのではないかと考えた大島は、友人の刑事・山根に知らせる。山根は、「ランタン」の主人から、女が金の時計を忘れていきそうになったこと、また、近くの雑貨屋の店番から、女が花火を買ったことを聞く。山根は、女が石田と当時交際していた水野治子であると考える。女と接触した山根は、彼女が同じ金の時計を2つ持っていることを不思議に思いながら、女に頼まれたとおり、彼女をダムに連れて行く。そして、彼は真相に気がつく。女はすでにダムで過去に石田を殺害しており、ダムを訪れ花火をしたのは彼の供養のためであり、彼が生きているように見せかけるため、彼の指紋の付いた金の時計を旅館に置いていくために、この街を動き回っているのだと。そして、旅館に一緒に泊まるよう誘われた山根は、生きている石田役を演じさせられようとしているのだと。しかし、女にだらしない山根は、彼女の犯罪に気がつきつつも、仕事より彼女の誘惑を選びつつあるのであった。
女が店に意図的に何かを置き忘れてくるという展開は前作と同じながら、こちらは、かなりミステリーっぽい。しかし、石田の死亡が疑われているわけではないのに、女が必死になって彼の生存証明をしようとしており、しかも時効成立間際にそれをやらなくてはいけない理由が今一つ分からない。石田の死体が見つからなければ何も問題はないのだし、万が一、石田の死体が発見された時に今回の工作で別人の遺体だと判断してもらえればともかく、石田の遺体だと判断されてしまえば彼女が石田殺害に関わった可能性を疑われるのは確実ではないか。工作に用意した石田の指紋付きの時計も、警察の捜査で、そこからしか指紋が出なければ逆に不自然であ
ろう。
第3話「蘭が枯れるまで」…乾有希子は自分の誕生日に娘を外食に誘った。有希子との関係が良くない娘が「後ですごいプレゼントをあげる」とまで言って承諾したのは意外だったが、娘のプレゼントというのは夫が浮気しているという情報だった。有希子は夫の浮気相手を知っていた。1年前、有希子は、小学校の同級生で同じフラワーアレンジメントの教室に通っているという木村多江に声を掛けられ、夫の交換殺人を持ちかけられていた。多江が有希子の夫を殺すために彼に近づいていたのだ。そして教室をすぐにやめて、有希子から直接フラワーアレンジメントを習うことになった多江は、自分が本物そっくりに作った蘭の造花を前に、この造花が枯れる前に実行に移したいと思わせぶりなことを言う。実際に造花が枯れ始めたことで焦った有希子は多江の別荘で眠っていた男を絞殺するが、殺害後に確認すると、それは多江に殺すことを頼まれていた男ではなく、自分の夫・乾孝雄だった。多江が教室に一時入会したというのも、彼女が有希子の同級生だったというのもすべて多江の嘘で、なんと、多江は乾秀子という孝雄の本当の妻だったのである。秀子は元々孝雄と結婚しており、孝雄が有希子と結婚した時に籍を抜き、最近また乾の籍に入っていたのだ。つまり、孝雄はずっと2つの家庭で二重生活を送っており、交換殺人と言いつつ、実は2人の女は、同じ男を殺そうとしていたのであった。すべて秀子によって仕組まれていたのだ。結局、警察は秀子の主張を信じて有希子だけを逮捕する。有希子の訴えに、一応秀子のことも調べると刑事は言うが、有希子には「どっちが、造花だったのか興味があるし」という刑事の声も遠くに聞こえるのであった。
ありきたりな交換殺人と思いきや、実は主人公の夫が2つの家庭を持っていて、2人の女がその1人の男を殺そうとしているという構図になっており、しかもその計画は1人の女の謀略であったというどんでん返しにはそれなりのインパクトがある。しかし、そんなに簡単に警察を欺けるものだろうか。
第2話同様、警察をなめている気がする。籍を抜いたり入れたりしている怪しさ全開の木村多江こと乾秀子の主張が、全面的に警察に受け入れられているのも大いに疑問。主人公が、タイトルにもなっている蘭の造花が枯れていくのに追い詰められて犯行に及んだというのもどうか。造花が本物の蘭にすり替えられていただけなのだが、そんなことで心理的に追い詰められるだろうか。
第4話「冬薔薇」…夫にも息子にもよそよそしい態度をとられるようになり、自分だけの人生を失った気がしていた悠子は、高校の同窓会で再会した男と関係を持つようになるが、その男とも何日か前に別れ話を切り出されていた。情緒不安定になった悠子は、夢と現実の区別が付かなくなり、自宅と、男と待ち合わせたレストランの間を彷徨う。悠子は、レストランで男を男が用意していたナイフで刺した気がしていたが、実際には男に怪我はなく、悠子が自宅を出る前に、息子のナイフで夫と息子を刺殺し、警察に自分で通報してから、訪れたレストランで男と争った末に気を失ったのであった。そして意識を取り戻した悠子は、「このまま寝ていていいですか。少し眠れば、今度目が覚めた時にはみんな夢として消えているかもしれないから。そこの死体も、警察の人もみんな…」とつぶやいて、再び眠るのであった。
何の救いも同情の余地もない馬鹿な女の話。短編集にはありがちな話だが、共感を抱く女性読者もいるのだろうか。自分には全く無価値。
第5話「風の誤算」…大手電機メーカー企画部二課の水島課長には、様々な悪い噂が途切れることがなかった。奥さんとうまくいっていない、小料理屋の女将と付き合っている、ライバル会社の株主になって儲けている、宣伝部の女子社員に抱きついた、実は若い男性社員にしか興味がない、などなど。部下の沢野響子は、そんないじめに近い噂話を気にもとめない無口な課長が気になっていた。忘年会の晩、水島本人から、噂の出所が水島の営業部時代のライバル・岩瀬らしいことを聞いた響子であったが、その後、後輩の加古から、最近発生した連続殺人事件の犯人が水島ではないかという話を聞いて驚愕する。響子は加古に、岩瀬の話をして噂の出所を調べさせる。結局、同僚の優実が出所と判明したが、優実からその話を自分にしたのは響子だと言われ響子は驚く。響子は、水島が様々な悪行を自分から広める変質的な犯罪者ではないかと疑っていたところへ、ばったりと水島に出会う。そして、水島は、彼が自分に嫌がらせをする岩瀬に復讐するために、岩瀬が自分の悪い噂を流している最低な人間であることを自分でさりげなく広めているのだということを響子に告げる。そう、響子も水島の術中にはまった1人であったのだ。
自分で自分の悪い噂を流して、その情報源に設定した人物を貶めるという作戦は果たして有効であろうか。実際に物語の中でもそれが成功して岩瀬が悪人呼ばわりされているようには思えない。仮にそのターゲットにダメージを与えられても、それ以上に自分へのダメージが大きすぎるだろう。悪い噂話が連続殺人事件にまで発展した時には、おっと思わされたが、それも今一つ緊迫感を高められないまま中途半端に終わってしまう。響子自身が同僚の優実に無意識に水島を殺人犯呼ばわりしていたという謎が目を引いたが、結局それは優実の勘違いということで、あっという間にスルーされてしまうのは、あまりに読者を馬鹿にしている。
第6話「白雨」…女子高生の縞着乃里子は入学して間もない頃からいじめに遭っていた。そんな時、乃里子はある人物から祖父母の心中事件の真相を母の千津に伝えたいから会いに来てほしいという母宛の手紙を読んでしまう。乃里子の祖父母、つまり千津の両親である遼二とスミは、心中事件を起こし、スミは一命を取り留めたが、遼二の方は死亡していた。画家であった遼二は、親友の大学助教授・笹野竣太郎とスミが浮気していることに激高して、スミを刺した後、自分も刺して自分だけが死亡してしまうという事件を起こしていたのだ。千津は、乃里子へのいじめが、自分に関係していることに気付き始める。乃里子の鞄に入っていた血濡れのナイフや、下駄の絵のコピーは、心中事件を想起させるものばかりだったからである。乃里子が、自分へのいじめの黒幕が千津ではないかと言い出したのに対し、必死で否定する千津であったが、ではなぜ手紙を送ってきた人物、つまり笹野に会って真相を知ろうとしないのかと問い詰められる。そして、それは千津が真相を知っているからではないかと。千津は確かに真相を知っていた。無意識に真相から目を背けていただけで、笹野からスミに贈られた新しい着物を着て笹野に会いに行こうとしていた遼二を先に刺したのはスミであり、心中に見せかけるため、笹野がスミを死なない程度に刺したことを理解していたのだ。そして乃里子は真相から目を背けようとしていた千津を追い詰めるために、自分が受けていたいじめに便乗して、心中事件を想起させる自作自演のいじめを演出していたのだった。そして、千津は乃里子に手紙を残して笹野の元へ向かう。笹野に、「あなたも父も、本当に母を愛していなかったのか」ということだけを聞くために。
小説だろうが漫画だろうがTVドラマだろうが、とりあえずいじめの話は胸くそが悪くなる。やっといじめ話から離れて本題に入って一息ついたところで仕掛け解読に集中。千津が無意識に真相をねじ曲げていることはうかがえるのだが、そこで想像できるのは、2人を刺したのは千津で、笹野とスミが、彼女をかばってそれを隠しているのではないかというもの。しかし、乃里子のいじめの黒幕が千津ではないかという
著者のミスリードにはびっくり。それはあまりにも無茶だろう。心中事件の真相については、見事に予想が外れたものの、「そうきたか」という感じで特に感動はなかった。ただ、母・スミの生涯がいくらかでも報われるようにと、千津が笹野の気持ちを確かめに行くという結末は
悪くないと思う。
第7話「さい涯てまで」…50歳に手が届こうとしているJR職員の須崎は、行きつけのパチンコ店で親しくなった34歳の同僚・石塚康子と時々不倫旅行に出かけていた。しかし、須崎には心配なことが1つあった。それは、彼女と旅行するたびに、その後ある女性が窓口に現れ、自分たちが乗った乗車券と全く同じものを買いに来ることであった。しかも、2度目からは自分たちが泊まった旅館のパンフレットを見せるだけで代金を払わずに去っていくのであった。明らかな脅迫で、須崎はやむなく自分のへそくりでその代金を肩代わりしていた。妻の差し向けた人物かとも疑ったが、その女の正体は、同僚の後輩の砂原という職員の妻であることが判明する。砂原の本当の浮気相手こそ康子であり、須崎との旅は、康子が砂原との不倫旅行の行程をなぞっているだけであって、砂原の妻は康子を間接的に困らせるために須崎を脅迫するような真似をして切符の払戻金を得ていたのである。退職してしまった康子にパチンコ店で再会するが、彼女は不平を言う須崎を完全に無視した。その後、2人分の切符を窓口に買いに来た康子に対し、須崎は無言で1人分の切符を渡すのであった。
絶妙な距離感でつきあい始める2人の様子に、今回こそ面白い話が楽しめるのかと思いきや、肝心のオチが意味不明。まず砂原の妻の復讐方法からして意味不明である。なぜ
自分の夫の浮気相手の、その相手である須崎を困らせれば浮気相手への復讐になるのか。確かに結果的には、須崎と康子の関係は壊れ康子は職場を退職することになったが、こんな脅迫の仕方が実際に成功するとは思えない。康子が砂原との旅行行程を、須崎となぞっていたという心理も意味不明。別の男と同じ旅館に泊まって従業員に顔を覚えられていたら相当気まずいだろうに。そして何と言っても
、話のオチである、須崎の康子に対する仕返しとも呼べないような大人げない態度。この結末を読んでどういう感慨を持てばいいのか分からない。
第8話「小さな異邦人」…母と8人兄弟が暮らす貧乏な柳沢家に、誘拐犯から「子供の命が惜しかったら3千万円用意しろ」という脅迫電話がかかってくる。しかし、家には子供が8人とも揃っていた。中学生で長女の一代は、いつもゲームばかりしていて存在感のない晴男が本物なのかどうか疑っていた。しかし、犯人は柳沢家の掛かり付けの医師の高橋で、彼が誘拐したと言っていた子供とは、中学の音楽教師の広木と一代の間にできた、まだ一代のお腹の中にいる胎児のことであった。高橋は、まず広木を「3千万円払ったら誰にも知られないよう胎児を処理してやる」と脅迫し、次に柳沢家を脅迫したのだった。結局、広木は一旦用意し高橋に渡そうとした金を回収し、教職を辞して、一代に出産させる道を選んだのだった。
最後の砦。表題作にまでなった作品なのだからと期待して読み始めたがまさかの大ハズレ。中学生を妊娠させる中学教師、そして妊娠したことも知らず、それを知った後、その教師が迷った末に出産を望んでくれたことにラストシーンで幸せをかみしめる中学生のヒロインに呆然。世も末である。教師を一度脅迫した後、何の事情も知らせないまま、二度目以降は柳沢家に脅迫電話をかけ続ける高橋医師も意味不明。事情も知らない母親がなぜ身代金を用意すると考えるのだろうか。とにかくひどい。ひどすぎる。
『さよなら神様』(麻耶雄嵩/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)2位作品。出版社は異なるが「このミス」2006年版(2005年作品)
5位作品『神様ゲーム』の続編。前作については、正直、詳細な内容は覚えていないのだが、結構面白かった印象があり、実際に★★★を付けていて、今回も期待が高まるのだが…。主人公は小学5年生の桑町淳。そして、次々と起こる殺人事件の犯人の名前を淳に告げる神様こと鈴木太郎と、彼の言葉の真偽を確かめようとする久遠小探偵団の活躍する物語である。読んでみると、前作以上に鈴木の存在感が大きい。前作ではあまり目立たず、主人公にのみ心を開いているような地味なキャラクターだったような気がしたが、今回はクラス内でも目立つ人気者として扱われている。神様を堂々と自称しており、その能力も児童内には知れ渡っていて、知らないのは大人達だけである。ストーリーがつながった6編の短編から成っているが、その冒頭は全て「犯人は○○だよ」という鈴木の淳に対する言葉から始まる。このインパクトは大きい。懐かしのTVドラマ「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」のように、殺人シーンから始まり、犯人やトリックが視聴者に最初から明らかなミステリもあるが、本作はいきなり名前だけが明らかになり、その動機や殺害方法、トリックなどは明らかにされず、それを主人公も含めた探偵団が解き明かしていくという展開である。しかし、あまりにも事件が主人公の身の回りに集中し、そのことを周囲の登場人物達がそれほど異常事態だと思っていないことや、鈴木が指摘した真犯人6名のうち半数が結局警察に捕まることなくのうのうと暮らしている様子、絶対こんな会話や思考をする小学5年生はいないだろうという状況には、かなりの違和感を感じる。全体をまとめると以下のような感じである。
第1話「少年探偵団と神様」…犯人は上林護。探偵団の1人上林泰二の父である。被害者は隣の小学校の教師の青山。淳達の担任である美旗が青山と口論しているところ目撃されていたため美旗が疑われていたが、実際には、美旗に浮気を注意された上林が体格の似ていた青山を夜間に見間違って殺害、その後、ラストシーンで改めて美旗を襲った上林が失敗して警察に捕まったというあっけないオチ。
子供達の推理にはたいして注目すべきものはなく、主人公の淳と鈴木の他、探偵団団長で児童会役員を務めるしっかり者の市部始、彼を慕う霊感少女の比土優子、父親が市会議員で母親がPTA役員をしている噂好きの丸山一平、淳の幼なじみで何かと淳の世話を焼く美人の新堂小夜子、熱血教師の美旗進といった主要人物を紹介するだけの話で、完全に肩すかしの作品。
第2話「アリバイくずし」…犯人は丸山聖子。探偵団の1人、丸山一平の母である。被害者は聖子の陰口を言いふらしていた上津里子とその飼い犬。聖子には、里子の死亡推定時刻に、市部の自宅で行われていた婦人会の集まりに参加していたというアリバイがあったが、市部がラストシーンで、そのアリバイを崩す推理を披露する。里子は、事件当日夕食に作っていたカレーの付け合わせとして、市部宅の近所にある漬物屋にラッキョウを買いに行き、そこで市部宅から車へ荷物を取りに出てきた聖子と出会って、口論の末、殺されたのではないか。死体は一時的に聖子の車に積まれ、婦人会の集まりの終わった後に里子宅へ運ばれたのではないか。里子の死亡推定時刻に里子宅で人の気配があったのは、金の無心に彼女の所へ通っていて、その後失踪している里子の甥だろうという推理である。結局、その甥が殺人容疑で逮捕される。甥は、窃盗と飼い犬殺害は認め里子殺害は認めなかったが、警察は彼の言い分を信じず、聖子が逮捕されることはなかった。偶然、被害者の方が加害者の近くに来ていたというトリック。
第1話よりはミステリーらしいが、ありきたりのトリックで特に感動するほどのものでもない。主人公の所属する探偵団の親が続けて殺人犯というのは、さすがにどうか。
第3話「ダムからの遠い道」…犯人は美旗。被害者は彼の恋人の榊原英美理で、頭部を殴られ殺害された後、足に石をロープで結ばれた状態でダムに投げ込まれていた。英美理は美旗の他に石橋という男性と二股を掛けていたが、アリバイのない石橋の方が容疑者となっていた。様々な推理で美旗のアリバイの時間を少しずつ削っていく探偵団のおもおもであったが、完全になくすところまでにはなかなかいかない。犯行の当日、ダムに向かって自分の白いセダンを運転している英美理の姿が目撃されていたが、淳は美旗にドライブに誘われ、美旗が左ハンドルの白いセダンに乗っていることを知る。英美理は自分の車を自分で運転していたのではなく、美旗の車の助手席で死体となって運ばれていたのではないかという推理によって、美旗のアリバイは完全に崩れた。しかし、淳には美旗に「外車だときっと悪戯されるから、先生はその車で学校に来ちゃだめだよ」というのが精一杯だった。
美旗のアリバイを崩せない1つの大きな要因が、英美理が自分の車を自分で運転してダムに向かっていたという目撃証言だったのだが、それが目撃者の見間違いだったというのはあんまりだ。右ハンドルの車の運転席と左ハンドルの車の助手席を見間違えたというのは着眼点としては面白いが、一方は国産車でもう一方は高級外車というのでは普通は見間違いようがなく読者は納得しないだろう。しかも、運転していたように見えたというのに実は死体だったというのも無理がありすぎる。第4話で明らかになる叙述トリック、実は淳は女だったという点においても、女子児童をドライブに誘う美旗は教師失格である。第4話以降、殺人犯の美旗は何事もなく教師を続けており、主人公をはじめ事実を知っている者が誰1人何もそのことを気にしていない点にも違和感ありまくりである。
第4話「バレンタイン昔語り」…犯人は依那古朝美。転校生の依那古雄一の母である。被害者は前年のバレンタインデーに盛田神社の池で溺れて事故死扱いされていた同級生の河合高夫。淳は、河合とその親友で河合と同じ日に生まれたという赤目正紀の2人に告白され、2人の悪戯だと考えた淳は、先に返事を要求してきた河合を振ったのだが、その直後に河合が死んだため、赤目が犯人ではないかと考えていた。赤目が犯人にしろ、自分が河合の死に関係したショックで女を捨て男らしく振る舞うようになった淳。赤目は赤目で淳が犯人だと考えていたが、鈴木が淳に犯人の名前を告げるのを盗み聞きし、一緒に朝美のことを調べることになる。丑の刻参りの噂のあった盛田神社の話にも朝美が反応しないことを不思議に思うが、後日、赤目と淳は盛田神社で丑の刻参りをする朝美を目撃する。朝美は丑の刻参りの邪魔をした河合を殺したと考えていた赤目は、証拠写真を撮ることに成功し逃げ出すが、その途中に転倒して朝美に撲殺されてしまう。淳は市部に助けられ朝美は逮捕されるが、朝美は河合の死亡時には入院しており、河合の死とは関係のないことが明らかになる。鈴木の言葉が本当だとすると、河合と赤目は生まれた時に病院で取り違えられたと考えられた。つまり、河合が朝美に殺されたという鈴木の話は間違いではないのだ。しかし、鈴木が意図的にそのあたりの説明を省略したために今回の事件は起こったと言え、淳は悪趣味な鈴木に憤りを覚える。
結局、河合として生活していた赤目の本当の死因が不明のまま終わる後味の悪さが気になる。前述した淳が女であるという叙述トリックは、ミステリをある程度読んでいる読者には新鮮味がない上に、あまり効果的な使われ方をしていないのも今一つ。また、河合の死亡時に入院していたのが雄一か朝美かという叙述トリックも微妙。登場人物は雄一だと思い込んでいたが、自分は朝美だと思って読んでいたので、登場人物達のとらえ方に最初混乱した。病院での新生児の取り違えなど、1つ1つのトリックはたいしたものではないが、それらの組み合わせによって鈴木の謀略を成立させた今回の物語はそれなりに読み応えがあるので、あえて挙げるならば、本作の中ではこの話が最も評価できる。
第5話「比土との対決」…犯人は比土優子。被害者は新堂小夜子。新堂は掃除の時間に視聴覚室の操作室で金属バットで撲殺された。淳は比土を直接問いただすが、比土は新堂に呪いを掛けただけだと言う。比土が想いを寄せる市部は淳のことが好きだから市部を諦めろ、諦めない場合は比土の秘密をばらすと言われたことが呪いを掛けた理由だと言う。しかし、淳は、比土の真意が、淳と市部を仲違いさせることにあり、アリバイを完璧にするために無差別殺人を計画した結果、たまたま一番殺したい新堂を殺すことに成功したことに気付く。結局、比土は殺人を認めないまま失踪してしまう。
またしても主人公に身近な同級生の死という展開にそろそろうんざり。しかも正直この話はよく理解できない。1年坊と2年坊とのやりとりの中で比土の真意に気が付く点が特に分からない。自分のアリバイを完璧なものにするため、偽の動機をでっちあげ、特定の人物に絞らない無差別な殺人を行うという作戦は斬新ではあるが、結局目的の人物を殺せなかったら何の意味もないではないか。
第6話「さよなら、神様」…「犯人は君だよ」という書き出しで読者を驚愕させるが、それは淳の夢の中の話であった。転校が決まった鈴木の「最後に教えてあげようか。君が一番知りたいことを」という言葉を拒絶した淳に、鈴木が「代わりに」と言って教えてくれたのは、比土優子は自殺したということだった。鈴木の転校後、比土殺害の疑いで悪魔呼ばわりされるようになった淳は、罪を認めるようでためらっていた県外への転校を6年生になってから実行に移し男装もやめた。そして市部と同じ高校に進学し、クラス一のバカップルと呼ばれるようになっていた。そんなある日、小学5年生のままの姿の鈴木が一瞬だけ淳の前に姿を現す。幸せのさなかに現れた根が不親切な鈴木の真意に思いを巡らせた淳は、彼の転校直前に彼が淳に教えようとしていた「君が一番知りたいこと」を思い出す。淳が知りたかったことは「誰が河合を殺したか」であり、彼の答えは「市部」だったということに思い至る。そして比土を自殺させたのも。あれは、鈴木と市部の暗黙の連係プレーだったのだ。しかし、鈴木の策に対して淳の心はいささかも乱れない。「今のわたしには、わたしの心には、かつてのように神様が忍び込む余地は全然残っていないのだ。残念でしたでした♥さよなら、神様。」という一文で物語は幕を閉じる。
これまでの重いストーリーと、「さよなら神様」というタイトルから、淳が自分に不幸を呼び込む鈴木を殺してしまう話だと最初は想像していたのだが、結果は全く異なっていた。淳が少しずつ信頼を寄せ、ついには恋人同士にまでなった市部こそが、2人もの同級生を死に追いやった恐ろしい殺人犯であることに気が付き、話の重さがマックスになったと思いきや、主人公がその全てを放り投げる衝撃のエンディング。「残念でしたでした♥さよなら、神様。」というフレーズは、決して読者には予想できないものであり、普通のエンディングを用意しないところが麻耶雄嵩の真骨頂とはいえ、これには茫然自失。しかし、これが意外にも読者には好評のようで、本作を絶賛はできないものの続編が出ればおそらく読んでしまう自分がいることは認めるしかない。
2015年3月読了作品の感想
『三月は深き紅の淵を』(恩田陸/講談社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」1998年版(1997年作品)9位作品。『三月は深き紅の淵を』という1冊の本にまつわる4つの物語が語られる。読了後に本作が作者のデビュー作と知って驚いた。それくらい読書家をうならせるハイレベルな作品なのだが、個人的には、前半の第1章と第2章は相当お勧めなのに対し、後半の第3章と第4章はあまりお勧めできない(第3章は好きな読者も多いようだが)。特に第4章は中途半端すぎる。はっきり言って消化不良。
第1章「待っている人々」では、平凡な新人サラリーマンの鮫島巧一が会社の会長の別荘に招待される。ある有名な建築家が建てたその建物内には、彼が購入したおびただしい数の本が詰め込まれており、会長は彼の死後その家を本ごと譲り受けて移築したのだが、その家のどこかに幻の本が隠されているという。会長と共にその家に毎年三月に集まる人々は、過去に読んだその本の魅力を滔々と巧一に語り、滞在期間中にその本を探し出してほしいと巧一に依頼する。様々な推理を巡らせた巧一は、その本は実在しないという結論を彼らに披露するが、その根拠をことごとく会長に切り崩された挙げ句、すでに発見されていた本を見せられショックを受ける。しかし、その本は偽物であり、巧一が去った後、彼らは、『三月は深き紅の淵を』をどのような作品にするかという執筆会議を始めるのであった。
この作品が一番面白い。読者を引き込む力は圧倒的である。読者は皆、『三月は深き紅の淵を』という本は一体どんな本なのか、この話を読んでいるとどんどん気になっていき、主人公でなくとも読みたくてたまらなくなるだろう。本当はそんな本は実在しなかったというオチには少々がっかりさせられたが、この時点では★★★を確信していたのだ…。
第2章「出雲夜想曲」では、これも『三月は深き紅の淵を』という本に関する物語ながら、読んでいくと全く別世界の話であることが分かる。編集者の堂垣隆子は先輩の江藤朱音を誘って夜行列車で出雲へ向かっていた。彼女は偶然にも幻の本『三月は深き紅の淵を』の作者を知ってしまい、その人物に会うため訪ねてみることにしたのだが、現地に着いてみると、その作者と思われた今は亡き有名作家の娘は行方不明になっていた。しかし、そこで隆子は驚愕の事実に気が付く。朱音もその有名作家の娘であり、『三月は深き紅の淵を』という作品は、精神的な危機に瀕していた姉妹がそこから脱出するために苦しみながら共同執筆したものだったのだ。
これも非常に魅力的な作品であったが、第1章の存在が否定されてしまったようなショックが少なからずあり、素直に楽しめなかったのも事実。
第3章「虹と雲と鳥と」も、予想通り『三月は深き紅の淵を』にまつわる、また別の世界の話である。篠田美佐緒と林祥子という2人の美人女子高生が公園内の崖から転落死を遂げる。2人のそれぞれの関係者は、相手の女子高生によって殺されたのだといがみ合う。時間を遡ると、美佐緒によって自分たちが異母姉妹であることを知った祥子は、父の墓参りに一緒に出かけるが、そこでその父が連続殺人を犯した挙げ句に自殺していることを知る。祥子は新しい父と幸せに暮らしている自分の家庭を美佐緒が壊そうとしていると考え、美佐緒を怨み始める。そして、あの日、祥子は美佐緒を崖から突き落とそうとしたのだ。しかし、祥子はその直後美佐緒を助けようとし、結局2人とも転落死することになったのであった。祥子は自分の家庭教師だった野上奈央子に、いつか読んだ人が次々と自殺してしまうような暗い小説を1作だけ書くつもりだが自分が書けなかった時は代わりに書いてほしいと奈央子に頼んでいた。奈央子は、自分がその小説を書くのだという予感が確信に変わっていくのを感じていた。
やたらと暗い少女漫画を読んでいるような感覚(そんなものを読んだことはないのだが)。美人異母姉妹の父親がとんでもない殺人鬼で、しかも世間を賑わした事件であったにもかかわらず姉妹はそのことを全く知らず、その事実を知った途端に突然2人がいがみ合いだして…と、ちょっとそれはどうなのという展開。幻の本であったはずの『三月は深き紅の淵を』のイメージからどんどん遠ざかっていくのが、ただただ残念。
第4章「回転木馬」は、この『三月は深き紅の淵を』の作者である「私」が、水野理瀬という少女を主人公にした学園帝国ものの物語を第4章として書き上げることで、第1章から第3章までを包括した『三月は深き紅の淵を』という4部作の作品を完成させようとしているという話である。
魅力的なエピソードを紹介したと思ったら、「この書き出しはどうだろう」と読者に尋ねてくるパターンの繰り返しは結構ツボではあったが、結局本書の全体をまとめきれないまま終わってしまった感があり、もう何が何だか…というのが正直な感想である。
『異次元の館の殺人』(芦辺拓/光文社)【ネタバレ注意】★
「このミス」2015年版(2014年作品)10位作品。他に「週刊文春ミステリーベスト10」2014年12位、「本格ミステリ・ベスト10」2015年4位、「ミステリが読みたい!」2015年5位となかなかの評価をされている森江春策の事件簿シリーズ第22弾。しかし、以前同シリーズの『綺想宮殺人事件』(「このミス」2011年版10位)が全く琴線に触れる部分がなかったので不安だったのだが、案の定、同系の作品。これだけシリーズが続いているのだからコアなファンがそれなりにいて売れているのだろうが、一般人にはまずうけない内容。「このミス」でも感じることだが、「このミス」以上に上位にランクインさせる「本格ミステリ・ベスト10」と「ミステリが読みたい!」の投票者は相当偏った層の方々と思われる。
検事の名城政人が四維ヶ原学園の女性教師を毒殺した容疑で逮捕され、後輩検事の菊園綾子はその嫌疑を晴らすために、弁護士の森江春策と共に学園関係者が集う洋館ホテル「悠聖館」に、春策の事務所の事務長を装って潜入する。しかし、捜査らしい捜査も始まらないうちに養護教諭の箱中和恵が密室で刺殺され、あっという間に身分を明かすはめになる綾子。
学園教師の長月文彦が密室内でうめき声を聞き、入れ替わりで駆けつけたホテルの支配人・土田一郎がマスターキーで部屋を開けたところ、和恵の刺殺体を発見したというのが事件の概要であったが、綾子は、長月がノックした開かない扉は、あとでその形跡を消されたダミーの扉で、衝立で隠された本当の扉から土田が出入りして和恵を殺害したという推理を関係者の前で披露する。衝立で本当の扉を隠していたというトリックもチープだが、ダミーの扉を跡形もなく消すトリックについては全く説明なし。さらに驚愕するのは、綾子が推理を披露した途端に、彼女がパラレルワールドに飛んでしまうという展開。そして、その異世界では、関係者の名前も風貌も微妙に変わっているのである。森江春策は水江夏策という具合に。夏策は、綾子の推理が間違っていたため宇宙の意志に拒否されて、このような現象が起こったと説明する。
今度は、土田一郎改め日田二郎がドアを開けた瞬間、部屋に駆け込んで和恵を抱き起こした、学園の卒業生の松戸祐也が一瞬で和恵を刺殺したという推理を披露する綾子。なぜ和恵が生きたまま倒れていたのかの説明はスルーした上に、早業殺人というあまりに無茶な推理。そしてまたしても綾子は別のパラレルワールドへ飛ばされる。
今度は、長月文彦改め彦長月文が、自動でスライドする本棚を利用して「糸とピンの密室」トリックを使い、和恵の密室殺人を成立させたという推理を披露した綾子は、三たび別のパラレルワールドへ。
今度は、最初に発見された遺体は別の生きた女性による偽装であり、あとから本物の死体を運び込むことができた見張り番の従業員・若山ゆみこ改め若宮まゆここそ真犯人であるという推理を披露した綾子は、4度目のトリップに見舞われる。
今度の世界では、森江春策の名前が少しずつ変化していった結果、元の名前に近い江森春策になっていた。風貌が元の春策と全く異なるその人物に、これまでの推理の失敗を話した綾子は彼に殺されそうになる。彼こそ真犯人の学園理事・碓氷久達の名前と風貌が変化した姿だったのである。綾子の話したこれまでの推理の部分部分が真相を微妙に言い当てていたため、追い詰められたと感じた真犯人が牙をむいたのである。結局本物の春策に助けられ、真相を明らかにし、綾子は無事元の世界に帰ることができた。その真相は、動いた本棚によって、犯行現場の隣の和室の壁が床に倒れて洋室に変化するというとんでもないトリックによって密室殺人を演出したというとんでもないものだった。
粒子加速器による毒物の鑑定によって名城の無罪が立証され物語は幕を閉じるのだが、この話の面白さは自分には全く理解できない。毒の鑑定の話の最後は妙にあっけなく、結局どうでもいい感じ。次々登場するしょうもないトリックと、SF本格推理小説を自称しながらも、とてもSFとは呼べないような理由で次々現れるパラレルワールドの何が楽しいのか。推理が誤っているとトリップ、正解すると元の世界に戻れるという設定のどこが科学なのか。これのどこが本格なのか。エンターテイメントなんだから細かいことに目くじらを立てなさんなと言われるかもしれないが、自分にとってこの作品はエンターテイメントではない。
『ペテロの葬列』(宮部みゆき/光文社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)7位作品。大企業・今多コンツェルンの会長・今多嘉親が愛人との間にもうけた娘・菜穂子と結婚し、その結婚の条件として会長直属のグループ広報室に勤務することになった主人公を描いた杉村三郎シリーズ第3弾。シリーズ第2弾の『名もなき毒』の悪い読後感の印象が強く残っていたのだが、今回もそれに近い後味だった。
冒頭で、他の6人の乗客と運転手とともに、いきなりバスジャック事件に巻き込まれる杉村。犯人は拳銃を持った佐藤一郎を名乗る老人で、事件後に乗客と運転手全員に高額な慰謝料を払うという奇妙な約束をし、警察に3人の人物の呼び出しを要求する。しかし、警察の突入で犯人は自殺し、事件は3時間であっけない幕切れを迎える。その後、本名を暮木一光という犯人が、実は貧乏で孤独な老人であることが分かり、慰謝料を期待していた乗客達は失望するが、実際に慰謝料が人質グループ全員に送られてきて皆を驚かせる。その金を受け取って使っても大丈夫なものかどうかを判断するために、人質グループは手分けして、犯人の正体を調べ始めるが、彼が日商フロンティア協会という詐欺集団のトレーナーであったことを突き止める。本作は、昭和に起きた巨大詐欺事件である豊田商事事件を題材にしているのだ。結局、届いた慰謝料は警察には届けないことになり、使い道は各自の判断に任されることになるが、人質の一人だった坂本啓という若者は、暮木とともに詐欺集団の会長を焚きつけた、もう一人の人物・御厨を探し出すことを要求しバスジャックを起こす。坂本は、多くの人を不幸にしながら、何の罰も受けずに姿をくらませている御厨と、別の詐欺商法に手を出してしまった自分自身が許せなかったのだ。杉村は、慰謝料を人質グループに暮木の指示で送った早川多恵という暮木の幼なじみの老婆から、暮木によって殺害された御厨の遺体の隠し場所を聞き出し、坂本を投降させることに成功する。これで一件落着かと思いきや、本社からグループ広報室に異動してきていた問題社員の井手正夫の口から菜穂子が浮気していることを告げられた杉村は大きな衝撃を受ける。杉村は、暮木から慰謝料を受け取っていたことを公にしなかったことの責任を取って辞職したのみならず、菜穂子とも話し合いの末、離婚することになったのであった。
詐欺集団を作りながらも改心した暮木が、バスジャックという方法で世間に詐欺集団の悪行を知らしめ贖罪しようとしたことについては、他にいくらでも方法はあったろうにという思いがまずある。諸事情から、人質グループ内では慰謝料の受け取りを公にしないことになったのに、暮木と同じようにバスジャックを起こしてすべてをぶちこわしにした坂本の暴挙には、さらに呆れてしまう。御厨が暮木に殺害されてすでにこの世にいないことは、早川の話からうかがえたはずなのに。慰謝料の件を警察に届けることは確かに正義ではあろうが、坂本の軽率な行為は、結局グループ全員を世間の非難にさらすことになった。
前作では、今は亡き私立探偵の北見一郎の後を継ぎそうな雰囲気を漂わせ、今回もその雰囲気を維持しつつ、結局結論が出ていないのこともすっきりしない。北見のかつての依頼人・足立則生が事件に巻き込まれ、それを杉村が助けるエピソードが挿入されているが、その雰囲気を維持するためだけに無理矢理押し込めた感じが否めない。
そして、菜穂子の浮気という最後の爆弾。本作の数々の事件をすべて吹き飛ばし霞ませてしまうくらいのインパクトである。物語の最初から、あまりにできすぎた、人間臭さのない人形のような妻という印象に、これも大きな突っ込みどころの1つだと思っていたのだが、大きく裏切られた。人間臭いどころではない。とんでもない女である。こんなところにクライマックスがあってよいのだろうか。杉村でなくとも、多くの読者にとっては、今までの話はなんだったのだというくらいの衝撃なのだ。ラストの杉村と会長との会話では、自分の娘の非をもっと責め、杉村にもっと申し訳ない気持ちを持ってよいはずの会長が、娘の人間的成長を一方的に喜んでいるところなどは、個人的に違和感ありまくりである。前作同様、私立探偵に転職しそうな雰囲気を臭わせつつ、傷心の杉村が旅に出てエンディング。これで、次回作で探偵になっていなかったら、いい加減にしろと誰もが言いたくなるだろう。
『邪馬台国はどこですか?』(鯨統一郎/東京創元社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」1999年版(1998年作品)8位作品。「悟りを開いたのはいつですか?」「邪馬台国はどこですか?」「聖徳太子は誰ですか?」「謀反の動機はなんですか?」「維新が起きたのはなぜですか?」「奇蹟はどのようになされたのですか?」の6編を収めた歴史ミステリ−。舞台はカウンター席だけの地下一階のバー。在野の若き歴史研究家・宮田六郎が披露する大胆な珍説に、三谷敦彦教授とともにそのバーを訪れた美人助手の早乙女静香が噛みつく様子を、静香に憧れている40代のバーテンダーの松永が興味深く見守る。「悟りを開いたのはいつですか?」では「仏陀は悟りなど開いていない説」を、「邪馬台国はどこですか?」では「邪馬台国東北説」を、「聖徳太子は誰ですか?」では「聖徳太子=蘇我馬子=推古天皇説」を、「謀反の動機はなんですか?」では「織田信長自殺説」を、「維新が起きたのはなぜですか?」では「明治維新の黒幕は勝海舟説」を、「奇蹟はどのようになされたのですか?」では「キリストとユダの入れ替わりによるイエス復活トリック説」を展開。中学程度の知識レベルでも十分に理解できる内容で、かつ、いかにももっともらしい根拠付けがなされるため、専門家でなければこれこそ真実だったのだと思い込まされること必至。おそらく専門家にとっては突っ込みどころが満載なのだろうが、そこを詳しく知りたい。そういう本やサイトはないのだろうか。そうしないと本当にこの本の内容を信じてしまいそうだ。特に歴史に興味がなくても、あっという間に読破できてしまう本書は、ちょっとした時間つぶしには最適だと思う。
2015年4月読了作品の感想
『症例A』(多島斗志之/角川文庫)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2001年版(2000年作品)9位作品。
S病院に勤める精神科医の沢村が謎の転落死を遂げた。後を引き継いだ精神科医の榊は、沢村が精神分裂病と診断した患者の亜左美の診断に悩んでいた。離人神経症か精神分裂病か…。そして平行して語られるもう一つの物語。首都国立博物館に勤める江馬遙子は、同じ職場にかつて勤めていた亡き父・江馬文範宛の博物館の同僚・五十嵐潤吉からの手紙を見つけ、収蔵品の中の重要文化財の1つに贋作の疑いを持つ。彼女は五十嵐がS病院に入院していることを突き止め、その病院を訪れるが、五十嵐との面会を断られたものの、亜左美から「博物館にはすごい秘密があると五十嵐から聞いた」という話を聞き、強い興味を覚える。
榊が前の職場を追われた上に離婚することになった原因は、精神分裂病以上にやっかいな境界例の患者を担当し、その患者が自殺したことであった。榊が、亜左美はその境界例ではないかと確信を持ち始めた頃、臨床心理士の広瀬由起から、亜左美の精神分析をさせてほしいと迫られる。亜左美は、境界例ではなく、解離性同一性障害いわゆる多重人格ではないかと言うのだ。精神分析と多重人格の存在そのものに懐疑的な榊は拒否するが、亜左美の師匠とも言うべき岐戸という精神科医に出会い、考えを改めることになる。彼の診療所で、由起自身が多重人格の持ち主であること、そして岐戸が懸命にその治療に当たっていることを知ったからであった。
遙子は、博物館内の資料をあさり、戦時中に博物館の美術品を疎開させた京都の山寺の存在を突き止める。そして、その山寺に、父と五十嵐の他に真柴という上司が派遣されており、その真柴こそS病院の理事長であることも。院長自らが担当している入院患者の五十嵐が回想録を書いているらしいことを榊から聞いた遙子は、その回想録をなんとか読ませてもらうよう依頼するが、榊が伝えても院長はかたくなにそれを拒絶した。しかし、別の入院患者がその回想録の原稿を五十嵐から借りて持っており、それを読んだ榊は衝撃を受ける。美術品が米国によって差し押さえられ散逸することを恐れた博物館関係者は、美術品の贋作を作ってそれを防ごうと、山寺を贋作工房としたというのである。さらにその巻末には、真柴が本物の美術品の方を米軍中佐に流して不当な利益を得た後、山寺に放火して証拠隠滅を図ったのではないかという推測まで書かれていた。真相を隠すために、院長が真柴の命により五十嵐を監禁した上に、真相を知った沢村を殺害したのではないかと考えた榊は、院長に全てを話し辞職を申し出る。
回想録の内容を聞かされた遙子は、金工室長の岸田と共に贋作調査に打ち込むことを心に決める。そして、亜左美の人格交代の現場をついに目撃した榊は、そのうちの1人の人格から沢村が事故死であることを聞かされ、辞職の必要がなくなったことを知る。多重人格の存在を確信した榊は、岐戸の病死に動揺し不安定になってる由起の全てを受け止める決意をし、榊のもとを去ろうとしていた彼女を見つけて抱きしめるのであった。
多重人格が米国とは正反対に日本の医学界では全く受け入れられていないこととか、精神科医と臨床心理士の微妙な関係とか、そういう精神医学の世界についても興味深い作品なのだが、
本作に登場する精神分裂病が現在では統合失調症に名称が改められるなどしているため、精神医学の現状も現在ではかなり変わっているのかもしれない。それにしても、序盤から亜左美の話題が中心となって進んでいた話が、突然、中盤に
登場する岐戸による由起の詳細な多重人格の症状説明
があまりにも圧倒的で、そのあたりからは興味が引かれるどころか、かなり引いてしまった。岐戸の口から、次から次へと語られる膨大な由起の別人格の説明はやりすぎ感があまりにも強い。
一体いくつの別人格があるのかと…。終盤でまた亜左美の話題に戻るものの、この由起の症状のインパクトが強すぎて、全体のバランスが崩れてしまっている感が否めない。
結局、主人公の榊が亜左美の治療を続けるのかどうかもうやむやのまま、榊と由起だけの世界を作って物語が終わってしまうのはどうなのか。病気の話ばかりではなく、一見、精神病とは全く関係のなさそうな博物館の謎と絡んでいるところは面白いのだが、最初は博物館の秘密の地下室に謎が隠されているような話だったのに、それがいつの間にかうやむやになってしまったのにも引っかりを覚える。亜左美の複数の人格によって、沢村の死や博物館の謎が解明されていく点はよく考えられているが、院長が隠そうとする回想録の中身が、主人公に明かされる前から読者にだいたいの予想がついてしまうのもマイナス。結構面白く読み応えはあるのだが、絶賛するまでには今一つ及ばないという感じ。
(いろいろ本作について調べていて、本作の著者が失踪し現在も行方不明という事実にはちょっと驚かされた。)
『函館水上警察』(高城高/東京創元社)★
「このミス」2010年版(2009年作品)12位作品。筆者の名前・高城高(こうじょうこう)を知ったのは、「このミス」2008年版10位に『X橋付近』がランクインした時。この作品はすぐに絶版になってしまい、現在も購入することはできず自分も未読である。調べてみると『X橋付近』の初出はなんと1955年で、当時、江戸川乱歩に絶賛されたという。その作品が再版にあたってランクインしたようなのだが、北海道と宮城県でしか発売されなかったと聞いてまたびっくり。30年以上沈黙し「幻の作家」と言われていたのが、2007年から活動を再開されたらしい。今年で80歳くらいになるのだろうか。さて、本作は、明治24年の函館を舞台にした警察小説である。フェンシングの名手である五条文也警部が、ラッコ密漁船の水夫長の変死事件や英国軍艦の水兵失踪事件など、明治時代の函館ならではの様々な事件を解決していく物語なのだが、正直退屈であった。時代考証は素晴らしいのかもしれないが、キャラクターの魅力に乏しく、物語も淡々としていて面白いと思える場面が全くない。北海道の歴史に興味のある読者でなければ読破するのはかなり苦痛なのではないか。続編として『ウラジオストクから来た女』『冬に散る華』と2冊も発売されたというのが信じられない。「寡作作家の作品はとりあえずランクインする」という「このミス」のパターンの1例としか思えない。
『紅楼夢の殺人』(芦辺拓/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2005年版(2004年作品)10位作品。他に「2005本格ミステリベスト10」4位、「2004年週刊文春ミステリーベスト10」10位。なかなかの好成績のように見えるが、芦辺作品は、本作を除きこれまで3作品(『綺想宮殺人事件』2011年版10位、『奇譚を売る店』2014年版20位、『異次元の館の殺人』2015年版10位)を読んだものの正直感想は「苦手」。芦辺作品は「このミス」では過去8回もランクインしているが、最上位は2003年版9位の『グラン・ギニョール城』が最高でトータル平均13.8位。これはやはりかなり微妙な気がする。
今回の舞台は清代の中国。本書を開くと、膨大な数の難しい名前の登場人物の一覧と、膨大な数の難しい名前の建築物が記されたマップが目に飛び込んできて、いきなり心が折れそうになるが、しばらく読んでいると話はそれほど難解ではなく何とか慣れる。主人公は、過去に帝に多大な功績があり今も栄華を誇っている賈一族の貴公子・賈宝玉(かほうぎょく)。帝の貴妃(皇后の次の位)となった姉の元春の命により、元春の里帰りのために莫大な費用をかけて造営された「大観園」に、貴族社会の中で自由のない
賈一族の少女達にひとときの幸福を与えるため、彼女達を住まわせることになり、賈宝玉は「大観園」唯一の男性住人としてその管理を任されることになる。しかし、住人の美少女達が次々と何者かによって殺害され、高貴の人・北静郡王の命により、司法官の頼尚栄(らいしょうえい)が捜査に乗り出すといった物語である。尚栄は事件に纏わる様々な怪奇現象を目の当たりにし、住人の中で知略を巡らせることのできる唯一の人物・宝玉こそ真犯人ではないかと疑いの目を向けるが、真相は賈一族の腐敗を生み出す者達が別々に起こした事件であった。そこに宝玉が様々なトリックを追加したせいで尚栄に疑われるところとなったのであるが、宝玉のその真意は、悪事を働いても貴族というだけで何事もなかったかのようにもみ消してしまう犯人達に、確実に罪の報いを受けさせる
ことにあった。最終的に犯人達は報いを受けるが、同時に賈一族は没落し、「大観園」は廃墟となったのであった。
『紅楼夢』というのは実在する中国の古典文学であり、昔から熱烈な読者が多数いるらしい。その作品と見事に世界観をリンクさせているところが本書の一番のポイントなのだが、『紅楼夢』を知らない多くの読者にとってはごく普通の推理小説としか映らないであろう。
『紅楼夢』を知らなくとも全く問題なく読める作品なのだが、本格推理小説と呼べるような驚くようなトリックもなく、恋愛小説と見るにも中途半端で、古代中国貴族の華麗な世界を舞台にした推理小説を読んでみたい読者にならお勧め
できる。
『ボーダーライン』(真保裕一/集英社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2000年版(1999年作品)6位作品。舞台はアメリカ。総和信販ロス支社に調査官として所属する私立探偵のライセンスを持つ永岡オサムが本作の主人公である(こういうタイプの私立探偵が存在することを今回初めて知った)。永岡は、日本で交際していた女性を捨て、カメラマンになる夢を追い求めてアメリカに渡ったものの、隠し撮りの仕事くらいしかなく、7年前に今の上司のトッド関口に拾われ、彼の計らいでグリーンカード(永住権)とPI(私立探偵)ライセンスを取得し、現在の職を得たのであった。彼の仕事のほとんどは日本人旅行者のトラブル処理であったが、そんな彼に、4年前に日本からやって来て行方知れずになっている安田信吾という若者を捜してほしいという依頼が舞い込む。信吾の父が信販会社のカードを持つお得意様らしい。永岡は、突然失踪した同棲相手のメリンダの行方を気にしつつ信吾の捜索を開始する。信吾の写真が隠し撮りされた場所をようやくつかんだ永岡は、そこで信吾が黒人に一方的に殴られ、その翌日、その黒人が惨殺死体となって発見された事実を知る。フリオというメヒカーノ(メキシコ系アメリカ人)の犯人はすでに逮捕されロスの刑務所に収監されていたが、永岡は信吾こそ真犯人ではないかとにらむ。フリオに面会し信吾の行方を聞き出した永岡は、到着した先でいきなり信吾の銃撃を受ける。永岡の車が防弾ガラス仕様でなければ彼は間違いなく死んでいた。シェリフオフィスに駆け込んだ永岡は、信吾が地元で要注意人物と見なされながら犯罪の証拠がないため逮捕に踏み切れない状態であることを知る。そして自分のオフィスに戻った永岡は、信吾の隠し撮りをした人物が実はロスの同業者であり、信吾に消されたらしいことを知り驚愕する。信吾は予想以上の凶悪犯だったのだ。そんな永岡の自宅を突然訪問してきたのは、信吾の父・英明であった。彼は総和信販グループと関係の深い企業の専務取締役であり、永岡の予想通り、信吾が日本で複数の殺人事件に関与していたことを告げられる。英明は信吾の件を警察に届けると言って姿を消すが、オフィスにやってきた信吾の妹・真由美によって、信吾が生まれつきの極悪人であること、英明がその信吾を銃で殺害しようとしていることを知る。何とか英明を止めるべく信吾の居場所を探し求める永岡であったが、時既に遅く、英明は信吾の返り討ちに遭い射殺され、信吾は逃亡した後だった。現場に車を取りに来た信吾の仲間に不意打ちを食らわせ信吾の隠れ家を聞き出した永岡は、そこで3人の手下を撃ち倒し、ついに信吾を追い詰めるが、なぜか無抵抗な彼を撃つことができず、2人とも警察に逮捕されることになる。信吾には死刑判決が下り、永岡は過剰防衛と見なされ、執行猶予が付いたとは言え有罪となったため、PIライセンスを剥奪されてしまった。信吾の死刑執行前に英明の気持ちを伝えるべく何とか彼と話したいと願った永岡だったが面会許可は下りず、刑務所の係官からは、英明が言っていたことと同様に生まれつきの悪人という者は存在するという話をされ、彼と話しても無駄だと諭される。永岡の元に戻ってきたメリンダは、10代の頃に自分の子供を殺害した過去があること、現在永岡の子供を妊娠していることを永岡に告白し、永岡は全てを受け入れて彼女と正式に結婚した。そして産まれた子供に、刑務所に収監されている友人・マーヴィンと同じ名前を付け、その子に会いたいというマーヴィンの願いを叶えるため妻子と共に刑務所に向かうのであった。
果たして生まれつき心に障害のある犯罪者気質の人間は存在するのか、そのような人物にどのように対処すべきか、というのが本作のテーマの1つである。本作中でも述べられているように、犯罪者を生む一番の要因は、その人間の生育環境であろうが、世界中で起こっている膨大な数の凶悪犯罪を見ても、先天的な異常者が存在する可能性は高いと思われる。話はそれるが、医学が進歩して遺伝子検査でその障害が早期に発見されるようになったら、社会は犯罪を行う前のその人物をどう扱うべきであろうか。また、犯罪を起こし懲役の刑期を終えた後、更正の見込みがないのに社会に戻しても良いのかという問題もある。現状で、加害者の人権が守られすぎているという問題もあるが、基本的に犯罪者には厳罰で臨んでほしい。
ラストのクライマックスでの主人公が妙にワイルドで強力すぎるとか、メインの事件と並行して語られるメリンダとマーヴィンのエピソードが今一つメインテーマとリンクしていないとかいった、若干気になる部分がないではないが、トータル的には大変良くできたハードボイルド作品だと思う(本作読了前、2作続けて読みにくい作品を読んでいたので少々評価が甘めかもしれないが)。
2015年5月読了作品の感想
『依存』(西澤保彦/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2001年版(2000年作品)8位作品。西澤作品を読むのは初めて。過去の「このミス」では、97年版で『人格転移の殺人』が10位にランクインしているだけだが、「本格ミステリベスト10」では、1996年に『人格転移の殺人』で8位にランクイン後、2000年(『黄金の祈り』7位、『夢幻巡礼』11位)以降は毎年のようにランクインしている(2010年『身代わり』の2位以外はそれほどの上位作品はないが)。ちなみに本作は2001年7位。2000年の「週刊文春ミステリーベスト10」では17位となっている。本作は、安槻大に通う大学生のタックこと匠千暁、タカチこと高瀬千帆、ボアン先輩こと辺見祐輔、ウサコこと羽迫由起子らが活躍する「タック&タカチ」シリーズの第5弾。とりあえず過去のシリーズを読んでいなくても問題なく読めるが、やたらと過去のエピソードを臭わせる場面が多いのが鼻につくのは事実。著者にそのつもりはないのかもしれないが少々しつこい。
この4人を含めた7人の仲良しグループが白井教授宅に招待されるが、教授の再婚相手がタックの実の母であり、しかもタックの双子の兄を殺した張本人だというタックの告白から始まる冒頭のインパクトはなかなかである。しかし、そこからが一向に盛り上がらない。物語は、冒頭のシーンの後、教授宅で深夜にタックとタカチが交わす会話をウサコが盗み聞きする様子と、タック達が教授宅を訪れるまでに起こった様々なエピソードが並行して交互に語られていく。まずは後者の方であるが、白井教授お気に入りのルルちゃんこと木下瑠留の住むマンションの、内側からしか開けられない裏口のドアに何者かが小石を挟み続けている話、牟下津カノンことカノちゃんが同棲相手の雁住のところから逃げ出したことでボアン先輩の家で雁住が大暴れする話、ボアン先輩が昔幽霊を見たのは、ある思い込みが原因ではなかったかという話などなど、いずれも実はどこかがリンクしていて結末に結びついていく話なのだが、正直無駄に長い。登場人物達がああでもないこうでもないと延々議論をしているのに付き合うのはかなり疲れる。普通ならおっと思うような結論が導き出せても、その頃には読むのに疲れ果てていて、ああそうなの…という程度の反応しかできない。そして前者の、タックとタカチの会話のシーンであるが、タックの秘められた過去が彼の口からどんどん語られていく。タックの実の母・美也子は、その不幸な生い立ちのためにセックス依存症になってしまった女性であり、タックの父とは結局結婚しなかったのだが、美也子はその病気こそ完治したものの、次々と結婚相手を変えてタックを追い回すストーカーとなっていたというのだ。タックを追い回す前は、タックの双子の兄を誘惑し、兄は美也子を実の母と知らずに彼女に迫られ肉体関係を持った後に事実を知り自殺したため、タックは美也子を心から怨むようになったということが明らかになる。もちろん美也子が白井教授と結婚したのも、タックが教授に自分の後継者として期待されていることを知り、タックの傍にいられると考えたからであった。タックは、美也子のせいでタックが想いを寄せるタカチが不幸になると考え苦しむが、タカチは全てを見抜いていた。タックの双子の兄は、美也子の誘導によって作られた虚像であり、タックの別人格であったのだ。タカチはタックを美也子から守ると宣言し、美也子を圧倒する。タックとタカチの強い絆を見せつけられたウサコは、自分がタカチに惹かれていたのではなく、タカチに近づくためにダシに使っていたつもりだったタックにこそ恋をしていたことに気付くとともに、それが終わってしまったことに深い悲しみを覚えるのだった…という結末である。
本作はウサコが主人公であり、ウサコの視点で物語が語られていくのだが、切ない結末に向けて揺れ動き続ける彼女の心理描写は秀逸。ウサコのみならず、登場人物の作り込みは素晴らしく、特に一見三枚目キャラでありながら誰よりも頼りになるボアン先輩の人間的な魅力は
、ずば抜けて光っている(逆の見方をするとボアン先輩とウサコ以外はそれほどでもない)。しかし、前述した部分も含め、やはり引っかかる部分の方が多い。いくらメインストーリーに絡むからと言って、ルルちゃんのストーカー話はあまりに長すぎ。美也子の、タックとの接点を調べるために教授達の鞄を盗み続けたというエピソードも滅茶苦茶であり得ない話。ラストのタカチによる美也子撃退も中途半端
で全然スッキリ感がない。今後のシリーズ続編でタックに幽霊のようにつきまとうのかと思うと憂鬱きわまりない。本作の一番のトリックのポイントととも言えるタックの乖離症状というものも、つい先日たまたま『症例A』というぶっ飛んだ作品を読んだばかりだったせいもあり
大したインパクトがなかった。シリーズ第4弾まで読んでいるファンにはオススメするが、それ以外の方には微妙。
『十八の夏』(光原百合/双葉社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2003年版(2002年作品)6位作品。前回の西澤作品同様に今回の光原作品も読むのは初めて。内容とは全く無関係だが、いきなり文庫版の表紙の写真が気になった。青々とした草原で昼寝する若い女性というイメージは作品にマッチしていて悪くないが、明らかに狸寝入りしている表情の年齢不詳のモデルさんの写真は、絵として問題ありなのでは。もうちょっとましなショットがなかったのだろうか。さて本題に戻るが、結論から言うと本作は「当たり」で★★★確定。★★★評価率は、2011年は30作品中9作品で30.0%、2012年は33作品中11作品で33.3%、2013年は40作品中15作品で37.5%、2014年は後半にハズレが多く64作品中18作品で28.1%、今年は23作品中7作品で30.4%と、とりあえず例年並みに近づいた。しかし、失敗のないようにランキング上位作品に絞って読んでいるにもかかわらず、満足できる作品が3作品に1冊ではちょっと…という気もする。
本作は、第55回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞した「十八の夏」に、「ささやかな奇跡」、「兄貴の純情」、「イノセント・デイズ」の3編を加えた計4編の短編を収めたミステリ短編集であり、花をモチーフにした連作となっている。
「十八の夏」は、浪人生の三浦信也が、夕方のジョギング中に見かけた女性との交流を描いた青春小説。ふとしたことで、いつも河原でスケッチをしているデザイナーの蘇芳紅美子と知り合うことになった信也は、彼女の住むぼろアパートの一室を自分も勉強部屋として借り、時々彼女の部屋を訪問するようになる。彼女の部屋には、「お父さん」「お母さん」「僕」「私」という変な名前の付いた朝顔の鉢植えが置いてあったが、それは実はロシアンルーレットで、どの鉢植えの朝顔が早く咲くかによって、彼女は想いを寄せる既婚男性の家族または自分を殺そうとしていた。そして最初に咲いたのは「私」。「僕」が信也を表しており、自分の想い人が信也の父であったことを、睡眠薬を盛って眠りに落ちようとする信也に告白する紅美子であったが、信也はすでにそれを知っていた。父の浮気情報を確認すべく信也は紅美子に近づいたのだった。結局、紅美子は「死んじゃいけない」という信也の言葉を聞き入れ、自殺を思いとどまりアパートを引き払って姿を消し、残された彼女のスケッチに描かれたのが信也の姿だったことに信也は涙した。
「ささやかな奇跡」は、病気で妻を亡くし、幼い一人息子の太郎と2人暮らしをしていた書店勤めの水島高志が、太郎の面倒を見てもらうため義父母のいる大阪に引っ越し、そこで出会った書店店員の佐倉明日香に恋をする物語。職業柄、書店を見つけるとつい入ってしまう高志は、さくら書店という小さな書店で、気の利いたポップを作ったらしき笑顔の素敵な女性店員に惹かれる。義母は未婚のまま身ごもって死産した明日香の悪い噂を高志に吹き込むが、高志は彼女と交際を続け、ついに再婚を決意し、太郎と3人での野球観戦を計画する。しかし、急な仕事が入り、明日香と太郎だけで野球観戦に行ったことを後で知った義母は機嫌を損ね、さらに明日香の家は便所の匂いがしたという太郎の言葉に、高志はショックを受ける。太郎が明日香に悪印象を持ったなら再婚を諦めようと考えた高志であったが、太郎が言った便所の匂いというのが、明日香の家で咲いていたキンモクセイの匂いであったこと、太郎が明日香に好印象を持ってくれていたことを知り、高志は太郎を連れて今度こそ正式なプロポーズをするために明日香の家に向かう。
「兄貴の純情」は、進路に悩む高校2年生の近江洋二の兄で劇団員の濤一(とういち)が、洋二の中学1年生の時の担任・前島典介の娘に一目惚れをし、役者の夢を捨て公務員を目指そうとするコメディ小説。典介の娘の芽久美にお姉ちゃんと呼ばれる美枝子との結婚を考えた濤一は、公務員を本格的に目指すため劇団を辞め、酔っ払った状態で洋二に進路の悩みを聞こうとするが、濤一に飲まされた洋二は、濤一の勝手気ままのせいで自分が翻訳家への道を諦めざるを得ない不満をぶちまける。翌日、濤一が美枝子にプロポーズに向かったことを知った洋二は慌てて彼を止めに向かう。美枝子は芽久美の娘ではなく後妻だったのだ。間一髪で洋二の言葉が届いた濤一は、美枝子に会う前に芽久美に適当な演技で挨拶をしたのみで前島宅から去っていった。
「イノセント・デイズ」は、妻の家族とともに学習塾を経営している栂野浩介(とがのこうすけ)が、次々と不幸に見舞われた元教え子の相田史香にまつわる事件に巻き込まれるミステリ小説。史香の両親と史香が想いを寄せる3歳年上で同じ元塾生の浜岡崇の両親は、学生時代仲良し4人組だった。史香の父と崇の母、そして史香の母と崇の父が結婚するかと思われていたが、様々な事情でそうはならなかった。事故で障がい者になった父を風呂場での事故で亡くした史香は、その死に疑問を持っていた。同時期に崇の母が自殺し、史香の母と崇の父は再婚するが、今度はその2人が食中毒で死亡する。崇までが交通事故で死亡し、1人取り残された史香に浩介は同情するが、史香の父と崇の母は、それぞれの配偶者に自殺させられたこと、そしてその復讐のために、崇と史香が完全犯罪を計画し史香の母と崇の父を同時に毒殺したことを知り驚愕する。自殺をほのめかす電話を掛けてきた史香を必死に止めようとする浩介の願いが届き、妻の志穂によって彼女は無事保護されたのであった。
「十八の夏」は『小暮写真館』を思い出させる、少年と大人の女性の恋物語。主人公とヒロインのみならず、主人公の父親も魅力ある人物として描き込まれており、衝撃の告白をするヒロインに対し、その事実を実は主人公はすでに知っていたという展開も新鮮で、日本推理作家協会賞受賞も納得の素晴らしい出来映え。一切の無駄のない濃密な短編は読んでいて実に気持ちが良い。同程度の内容のものを無理矢理長編にしようとして失敗している作品が世の中には多すぎる。
「ささやかな奇跡」も、主人公が再婚するかどうかを決めるために息子の気持ちを優先しようと苦労している姿が心を打つ感動作。気分を悪くする場面も若干あるが、すべてにフォローが入って最後は何のわだかまりもなく気持ちよく結末を迎えることができる。これも文句なしの傑作。
「兄貴の純情」は、前の芝居の役のせいで侍言葉が抜けない役者馬鹿の兄のコミカルさが実に楽しい。主人公の洋二が、それまで我慢していた本音を吐き出すシーンも良い。ただ、前2作と比較するとストーリーのひねりが甘い。結局、濤一のプロポーズしようとしていた美枝子が人妻であることに気が付かずに彼が暴走するという、それだけのネタ。悪く言えば稚拙。読者には、美枝子に対する表現があまりに不自然なので状況はバレバレだし、最後のシーンで勘違いに気が付き前島家を去る濤一の対応を「名演技」と評するのは明らかに過剰。役者の卵らしく素晴らしい演技で事なきを得た、というならいざ知らず、あれはただ適当にごまかしただけはないか。花をモチーフとしたシリーズという割に、今回登場する「ヘリオトロープ」に存在感がないのも引っかかる。1人の女性が「お母さん」とも「お姉ちゃん」とも呼ばれることがあるということを、「キダチルリソウ」とも呼ばれる「ヘリオトロープ」で表現しようとしたのは分からないではなく、全く必然性がないわけではないが、あまりにマイナーすぎ。
「イノセント・デイズ」は、前3作とは全く異なる本格ミステリで、あまりにもドロドロした重い話に、最後にこれか…と構成のセンスを疑ったのだが、オチはそれなりに感動的で救いがあったので良しとしよう。今回の花、夾竹桃もきちんと物語の核として活かされている。しかし、ローリエと夾竹桃の葉をすり替えてのトリックだが、ローリエをカレーに入れる家庭が一体どれだけあるのか、また入れるにしても大量に入れるものではなく、そこを警察は絶対疑うはずという疑問は残る。雰囲気的にも、やはりこの作品は別の本に収録すべきだったと思う。
『土漠の花』(月村了衛/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2015年版(2014年作品)6位作品。
筆者は『機龍警察』シリーズの月村氏。大賞受賞こそ逃したものの、2015年本屋大賞にノミネートされたことからも期待は高まる。『Flower of
Desert』という英文タイトルからも分かるように「土漠」とは砂漠のことである。より荒涼感を出すための選択であろう。そして「花」とは本作のヒロイン・アスキラである。近未来の東京を描いた『機龍警察』シリーズとは異なり、舞台は現代のソマリア国境。主人公は特に決まっておらず(あえて言うなら友永曹長か)、12名の陸上自衛隊第1空挺団の精鋭達が理不尽な戦闘に巻き込まれながらも、命懸けで活動拠点への帰還を目指す壮絶な物語である。
活動拠点から70km離れたヘリの墜落事故現場で捜索救助活動を行っていた彼らだったが、乗員全員の死亡を確認し、遺体の搬出を翌日に行うことに決めたその深夜、彼らの野営地にソマリアのビヨマール・カダン氏族の族長の娘・アスキラが、対立するワーズデーン氏族の一団に追われ2人の侍女を連れて逃げ込んできたことに驚かされる。その直後に襲ってきた一団により、あっという間に戸川1士と佐々木1士、アスキラの侍女2人が射殺され、部隊は氏族の一団に制圧されてしまう。動哨に出ていた原田1士は既に殺害されており、抗議しようとした指揮官の吉松3尉も予告もなく処刑され、残った隊員とアスキラも処刑されようとした時、市ノ瀬1士の狙撃が皆の危機を救う。たまたま小便に出ていた市ノ瀬1士は襲撃を逃れていたのだった。一斉に逃げ出したメンバーだったが、徳本1曹だけが逃げ遅れ命を落とす。残った7名の隊員(友永曹長・新開曹長・朝比奈1曹・由利1曹・津久田2曹・梶谷士長・市ノ瀬1士)とアスキラは山岳地帯の遺跡に逃げ込むが、元凶となったアスキラの処遇を巡って部隊の意見が割れる。彼女を置いていくことを主張する冷酷な新開曹長に対し、人道的に見殺しにはできないとする友永曹長に賛成する者は朝比奈1曹と梶谷士長だけだったが、市ノ瀬が賛同したことでアスキラは同行を許されることになる。硫黄島さながらのガソリン攻めに苦しみながらも何とか遺跡を脱出し、敵のトラックを奪って難を逃れた部隊の行く手を、今度は濁流が遮る。先に渡りきったトラックのホイールをウインチ代わりにして、ロープにつかまった全員を引き上げようという作戦を実行に移すが、しんがりの新開曹長がナイフを持った追っ手に襲われる。射撃の名手・津久田2曹は全く人を撃つことができず、絶体絶命に陥った新開曹長を救ったのはまたしても市ノ瀬1士だった。しかし、今度は市ノ瀬1士自身が命を落とす(第1章)。
そして助かった新開曹長は、何かを隠しているアスキラを問いただし、アスキラは、ビヨマール・カダンの領地で発見された石油をワーズデーンに奪われようとしていることを告白する。何とかオアシスにたどり着き、束の間の平和を味わう一行。そこで友永曹長は、冷酷無比と思っていた新開曹長が誰よりも子供に慕われる人物であることを知る。自分達のいた痕跡を消しオアシスを後にした一行であったが、新開は日の丸の徽章を子供に渡したことを思い出し全員がオアシスへ引き返す。しかし、すでにそこではワーズデーンの民兵による虐殺が始まっていた。激戦の中、遂に覚醒した津久田1曹は、朝比奈1曹と由利1曹を救うため敵を撃ち倒すが、自らも負傷してしまう。新開曹長も子供を救うために凶弾に倒れ、友永曹長を指揮官に任命して息を引き取る(第2章)。
オアシスを襲った民兵を全滅させ、武器を奪って、活動拠点から20km離れた廃墟となった街にたどり着いた一行(友永曹長・朝比奈1曹・由利1曹・津久田2曹・梶谷士長・アスキラ)は、そこで敵の追っ手を待ち伏せることにする。事務所跡で桜と富士山の写真に見入るアスキラに、友永曹長は「俺と一緒に見に行かないか」と告げるが、アスキラの返事はなかった。そして、街には想像を超えた大部隊が押し寄せてきた。イスラム武装組織アル・ジャバブの指導者・ギュバンと、ワーズデーンのリーダー・アブディワリが、直々にそれぞれ大勢の戦闘員を引き連れてきたのである(第3章)。
激戦の中、敵の指揮車への突入を決意した由利1曹を援護するため、梶谷士長は敵を引きつけて自爆。敵兵と格闘中だった朝比奈1曹はアブディワリに殺されかけるが、狙撃で大活躍しながら弾を撃ち尽くし拳銃で仲間を助けに来た津久田2曹に救われる。そして死闘の末、合気道でアブディワリを倒した。由利1曹は、バイクのガソリンタンクに火を放ち指揮車に飛び込み、ギュバンを道連れに爆死して目的を果たす。指揮官2人を失った敵の混乱に乗じて街を脱出した友永曹長・朝比奈1曹・津久田2曹・アスキラの4人は、しつこく追いすがってくる敵に絶望するが、そこに海上自衛隊の哨戒機が現れ九死に一生を得る。重傷の津久田2曹は一命を取り留め、友永曹長、朝比奈1曹も回復後原隊に復帰、アスキラはアメリカに保護され全面的な援助を約束された。しかし、自衛隊による戦闘行為はなかったこととされ、戦死者は全員、ヘリの捜索救助活動中の事故死ということにされてしまう。アスキラが渡米する直前、友永は改めて彼女といつか一緒に富士山を見に行く約束を交わすのであった(第4章)。
エンターテイメント作品としては申し分なく、映画化にも向いている作品だと思う。
国のためでもなく家族のためでもなく、ただ正義のためだけに命懸けで闘う男達の姿は確かに美しい。自衛隊を単に美化するわけではなく、専守防衛等の問題点や、なくならない部隊内部でのいじめなど、深刻な問題提起も行っている。あえて気になることを挙げるなら、あまりにも戦闘シーンに主眼を置きすぎている点か。本屋大賞を逃した
理由もおそらくそのあたりにあるのではないか。とにかく全編にわたって戦闘シーンばかりで、これでもかというくらい人が死ぬ。さすがにメインの登場人物達は簡単には死なないが、その分、危機一髪で助かるご都合主義が
あちこちで目立ってしまう。せっかく市ノ瀬が命懸けで助けた新開が結局死ぬのは子供を助けるためということで許せるとしても、梶谷士長の死の必然性は疑問だし、早い段階で負傷しながらもその後大活躍して最後まで生き延びた津久田2曹は逆に意外だった。タイトルにまでなっているヒロインのアスキラの描き方も
どうか。美人で教養もある勇ましい女戦士という一見理想的なヒロインイメージを作ろうとしているのは理解できるが、友永曹長が想いを寄せるほどの魅力ある女性として描き切れてい
るかというと微妙。著者の頭の中にはもっと完成されたヒロイン像があるのだろうが、それが読者にうまく伝わっていない気がする。一応★★★を付けてはおくが、カバーの折り込みに書かれた各界著名人の絶賛コメントを読んで過剰に期待すると、肩すかしを感じる読者もいるだろうから要注意。
『ハルビン・カフェ』(打海文三/角川書店)【ネタバレ注意】★
「このミス」2003年版(2002年作品)5位作品。第5回大藪春彦賞受賞作品ということもあって期待して読み始めたが、話が複雑すぎて正直疲れる。冒頭に主な登場人物一覧があり、13名の名前と肩書きだけが紹介されているが、実際の登場人物ははるかに多く、話について行くのがやっとという感じ。その一覧表の最初に名前があり、序盤から登場する石川ルカという女性が主人公かと思いきや、話はどんどん別の所で進んでいく。次々に新しい人物が登場し、話があっちへ行ったりこっちへ行ったりするので、とにかく読むのに時間がかかり、頻繁に銃撃シーン等のアクションシーンが出てくるのだが、それでも眠くなり、読書中に何度もウトウトしてしまった。自分の地元が舞台ということで、麻生幾の『宣戦布告』のような臨場感が味わえるかと期待していたが、そこも期待はずれ。知っている地名はいくつか出てきても、ただ名前が出てくるだけで、我々地元の読者がニヤリとできるような演出は全くない。
中国・朝鮮・ロシアのマフィアが覇を争う無法地帯と化した新興港湾都市・海市で、異様に高い殉職率に業を煮やした下級警官が秘密組織Pを誕生させる。犯罪者のみならず、警察上層部に牙をむくP。そのPが県警によって壊滅させられたと思われていた矢先に、Pによる公安部長暗殺が成功。首謀者の元生活安全課長は自殺するも実行犯は捕まっていないという状況で物語が始まる。このあたりは、なかなか面白そうだと思わせてくれるのだが、序盤で児童売春組織からルカを救い出した謎の男・洪孝賢とルカの物語に注目していると、前述したようにその2人については僅かな話でフェードアウトしていまい肩すかしを食らう。そして、警視庁監察課管理官の小久保仁と、警察庁監察官の水門愛子が、Pの捜査の中で様々なトラブルに巻き込まれていく様が描かれていく。結局、洪孝賢の正体が、愛子の知る「情報源M」と呼ばれていた元海市警察麻薬係長・布施隆三であり、下級警官の報復心をあおるためにハルビン・カフェ事件を起こした首謀者であり、Pの初期メンバーに潜り込み密告によって彼らを葬った張本人であることが明らかになり、ここがこの物語の重要ポイントの1つだと思われるが、ここに至るまでに読むことにすっかり疲れ切っているので、今更驚きも感動もない。物語の途中から元生活安全部長の娘で高校教師の小川未鴎とその教え子で殉職警官の息子・内藤昴が絡んでくるが、この2人の行動についても理解に苦しみ、特に昴の方は登場時のイメージとその後のイメージが重ならず、結局最後まで何を考えているのかよく分からなかった。そして肝心の結末もよく分からない。後日談に登場する売春業者のDと、行方をくらませていた布施とルカらしき男女との短いエピソードすらよく理解できない。しかし、前後を読み返す気力も残っていなかったので理解することを諦めた。貴重な時間を返してほしい。
『最悪』(奥田英朗/講談社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2000年版(1999年作品)7位作品。前回は第5回大藪春彦賞受賞作品であったが、今回は第2回大藪春彦賞候補作品。結局、この回は福井晴敏の『亡国のイージス』が受賞し、奥田英朗は第4回の時『邪魔』で受賞している。筆者の作品で読了しているのはこの『邪魔』のみだが、その時は★★★を付けている。今回も導入から期待通りの吸引力を発揮。しかし、タイトル通りに、とにかく登場人物の状況が最悪。これは読んでいて相当なストレスを感じるほどのものである。よく主人公がひたすらイジメ抜かれるドラマがヒットしたりするが、個人的には全く理解できない。そういうドラマを支えている視聴者とは、余程幸せで幸せでしょうがなく、他人の不幸でも覗き見しないと退屈でやっていられないという人ではなかろうか。実際、そういうドラマが流行るのは好景気の時らしい。自分は、別に不幸ではないが、幸せで幸せでしょうがない人間でもないので、こういう話は正直耐え難い。
小さな鉄工所を経営する川谷は、後から越してきた近所のマンションの住人達に休日や夜間の騒音を責められ、取引先からは次々と無理な要求をされ、まともにコミュニケーションの取れない従業員は不良品を出したり無断欠勤したり無言電話を掛けてきたりで、仕舞いには取引先から大型機械の導入を進められ何とか金策してやっと工場に機械が運び込まれようかという時になって銀行に融資を突然キャンセルされる。また、女子銀行員のみどりは、高校を中退しブラブラしている異母妹のめぐみとの不仲に悩み、上司のセクハラが原因で辞職寸前に追い込まれ、そして親友でもある同僚が自分が想いを寄せるエリート銀行員の男性と親密になっていく様子に苦しむ。そして、パチンコと恐喝で生計を立てていた人間の屑とも言うべき和也は、トルエンの盗難を巡ってヤクザとトラブルになり、事を収めるために金庫破りで金を手に入れるも相棒に持ち逃げされ、和也の所に転がり込んできためぐみとともに、みどりの勤める銀行を襲うことを決意する。その不幸のどん底の3人が銀行で初めて顔を合わせ、めぐみも含めた4人での不思議な逃避行が始まる。全ての人物の全ての行為に共感などできる読者はいないであろうが、それぞれに様々なトラブルや悩みを抱えている読者は、リアルに描き込まれたそれぞれの危機に何らかの想いは皆抱くはずである。または、むしろ問題対応の下手な登場人物達に共感などとてもできないから、逆に彼らの行く末に引き込まれるのかもしれない。犯罪者の和也は論外として、堅実そうでありながらも、お人好しで、パニックになると冷静に状況を把握することのできない川谷は自業自得の部分が大きいし、女性の反感を買うかもしれないが、セクハラに悩むみどりにしても、せっかく上司を処罰すべく相談に乗ってくれる人物が現れたのに「上司に謝ってもらえればそれでよい」「事を荒立てたくない」という態度で周囲を適当にあしらい、辞職という選択肢しか頭にないというのはどうかと思う。一行が警察に追われる身になった後、警察の逆探知など考えず自宅に電話をかけまくる頭の悪さにも閉口。
ひたすら堕ちるところまで堕ちていく一方の話に、内容に引き込まれながらも憂鬱な気分になりかけていたのだが、ラストはわずかに救われるエンディング。結局、隠れ家に潜んでいるところを警察に踏み込まれ、和也は逮捕されて拘置所に、川谷は工場を畳んで一工員に、みどりはデザイン会社のアルバイトに、という結末。予想外に誰も死ぬことはなく、それどころか過去にはなかった一応の平和を手に入れる3人。現状維持に汲々とするよりも、思い切ってリセットするのも人生には必要というのがこの物語の教訓であろうか。
『機龍警察 未亡旅団』(月村了衛/早川書房)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2015年版(2014年作品)5位作品。月村氏は先日読了した同年6位作品『土漠の花』と共に2作をランクインさせたことになる。この年の「このミス」ベスト10作品のうち8位の『破門』と9位の『女王』以外は全て読了したが、個人的には本作こそ1位であると断言する。ちなみに「週刊文春ミステリーベスト10」2014年で9位、「ミステリが読みたい!」2015年で15位にランクインしているが、なぜそんなに評価が低いのか理解できない。『機龍警察』シリーズ
の第4弾であり、前3作では龍機兵の3人の搭乗要員が1人ずつ掘り下げされて描かれていたが、今回主人公に据えられたのは、特捜部の捜査班主任の由起谷志郎警部補。
カンボジア人グループが不法入国者集団と大がかりな取引を行うという情報をキャッチした神奈川県警は、取引現場に突入し、ブローカーのカンボジア人6名と、取引相手の外国人女性10名を逮捕するが、女性のうち4名が次々と自爆し6名が逃走。警官や一般市民に多数の死傷者を出したこの集団は、チェチェン共和国から日本に潜入した女性だけのテロリスト「黒い未亡人」であることが判明する。「砂の妻」「風の妻」「剣の妻」という3人のリーダーに率いられた彼女達の目的は、第1種機甲兵装「エインセル」のエネルギーパックの入手であった。「エインセル」は小型の機甲兵装で身長の低い者しか搭乗できない。つまり彼女達は、日本国内で子供の搭乗者による自爆テロを計画していると考えられた。彼女達のアジトを突き止め、警視庁の機甲兵装「ブラウニー」と神奈川県警の「ブーマン」が突入するが、対戦車地雷により大きな被害を出し、特捜部の龍機兵をもってしてもリーダー達に逃げられてしまう。しかも彼らは、テロリストとはいえ子供を殺してしまったことにショックを受けていた。
そして、由起谷はたまたま六本木で一緒に反グレ集団と闘った外国人の少女を、その現場で目撃していた。今回協力体制を取っている公安部はあっという間に彼女の潜伏先を発見し身柄を確保。その少女・カティアの取り調べを由起谷が担当することになる。周囲の励ましもあり、熱意ある説得で閉ざされたカティアの心を少しずつ開いていく由起谷。そしてついにカティアの口から、テロの目標が新潟のメタンハイドレート液化プラントであることを聞き出すことに成功する。
カティアは仲間を自爆死させないためにあえて裏切り者になってテロを阻止する危険な役を志願する。新潟の潜伏先の仲間に合流し、機甲兵装の爆破か、仲間の食事への睡眠薬の混入の機会をうかがうが、なかなかチャンスが来ない。しかも、警察内部に巣くう特捜部の「敵」によって、カティアの裏切りは、すでに「黒い未亡人」に伝わっており、カティアは絶体絶命の危機を迎える。そして、彼女のSOSをキャッチした龍機兵が突入。姿俊之警部はアーミーナイフで「風の妻」を倒し、ライザ警部は銃で「剣の妻」を倒す。彼らの活躍によってメタンハイドレート液化プラントへのテロは阻止できたものの、彼女達にはもう一つの別のターゲットがあった。それは、ロシア総領事館。「風の妻」ことシーラは、特捜部理事官・城木貴彦の実の兄で、昔の彼女の恋人だった衆議院議員の宗方亮太郎に自分のテロ行為を見せつけるべく彼をそこへ呼びつけていた。龍機兵による格闘戦でオズノフ警部は「風の妻」を倒すが、別の女テロリストが無差別にウージーを乱射。恐怖で立ち尽くしていた少女に火線が迫り、もう駄目かと思った瞬間に身を盾にして少女を守ったのは亮太郎であった。亮太郎は死亡し、テロリストとの不適切な関係をもった若手大物議員という一大スキャンダルから、英雄へと祭り上げられる。
警察で保護され一命を取り留めたカティアは病院から逃走。国外へ逃れた彼女から「あなたにあえて本当によかった」という手紙をもらった由起谷は、心から警官になって良かったと思うのであった。
『土漠の花』のように、必要以上に残虐シーンばかりということもないし、メインの登場人物の描き込み不足もない。チェチェンの問題にも深く切り込んでいるし、主人公の由起谷、ヒロインのカティア以外の登場人物、例えば兄や父との関係に悩む城木や、いつもクールで出番は決して多くないのに存在感を失わない沖津などの脇役達の描写も見事。これまでとは打って変わって主役から脇役に回っている龍機兵の搭乗員達も要所要所をしっかり締めてくれている。特に缶コーヒーにこだわり、場を和ませてくれる姿俊之警部は人気が高そうだ。文句なしのオススメ作品。
『破門』(黒川博行/角川書店)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2015年版(2014年作品)8位作品。これで、この年の「このミス」ベスト10作品のうち未読は9位の『女王』のみとなった。読み始めてから気が付いたのだが、本作は第151回(平成26年上半期)直木賞受賞作品である。こんなバリバリのヤクザ小説が?と意外に思ったが、振り返ってみればミステリ作品が直木賞を受賞している例は多い。平成に入ってからだけでも、第102回(平成1年下半期)の原ォ『私が殺した少女』、第109回(平成5年上半期)の村薫『マークスの山』、第110回(平成5年下半期)の大沢在昌『新宿鮫
無間人形』、第120回(平成10年下半期)の宮部みゆき『理由』、第121回(平成11年上半期)の桐野夏生『柔らかな頬』、第123回(平成12年上半期)船戸与一の『虹の中の五月』、第130回(平成15年下半期)の京極夏彦『後巷説百物語』、第134回(平成17年下半期)の東野圭吾『容疑者Xの献身』、第141回(平成21年上半期)
の北村薫『鷺と雪』と、本作を除き9作品も受賞している(全て読了)。筆者は過去に5回も直木賞候補になった実力派。しかし、落選するたびにショックを受けていたようで、本作でついに受賞した時には「もう候補にならないのが一番ありがたい」と述べたらしい。
本作は、一応堅気だが父が元ヤクザの幹部だった縁で今も色々と組に関係している建設コンサルタントの二宮と、狂犬と呼ばれるイケイケヤクザ・桑原の中年コンビを描いた「疫病神」シリーズ第5弾。神戸川坂会の直系団体の二蝶会の組持ち幹部・嶋田は映画製作に1500万円出資したものの、その資金をプロデューサーの小清水に持ち逃げされる。二蝶会に所属する桑原も150万円を出資しており、嶋田に恩義もある二宮は、腐れ縁の桑原にいいように使われながら、桑原と一緒に小清水の行方を追うことになる。しかし、同じように小清水を追っていた川坂会の直系団体の亥誠組の組員に絡まれた桑原は、亥誠組の規模の大きさなどおかまいなしに組員をボコって組同士の揉め事に発展。桑原らは小清水を捕まえたり逃がしたりを繰り返しながら金を吐き出せて次々と襲ってくるピンチを切り抜け、最後は亥誠組の若頭の布施に750万円を納めることで事態の収拾を図る。桑原の奔走で、最初に映画製作を通じた詐欺を計画した滝沢組の初見は絶縁処分となり、何とか組同士の対立は収まったものの、バランスを取るために二蝶会を破門になった桑原は行方不明に。桑原からやっと解放された二宮には平和な日常が戻ってきたのであった…という物語。
バリバリのヤクザの桑原と、中年らしさもヤクザ関係者らしさも全く感じられない二宮の対照的な姿、その2人の漫才のような軽快な関西弁のやりとりが実に魅力的な本作品。初めは桑原に一方的に使われていた二宮も、ヤクザ顔負けの言葉の巧みさで関係者を騙して次々やってくるピンチをしのぎつつ、物語の進行と共にどんどん図々しくなって桑原から何かに付け駄賃を要求するようになっていく様子がなかなか面白い。客観的には明らかに駄目人間なのだが、従妹の悠紀とのほのぼのした描写などにも騙されて、人間的な嫌らしさや嫌悪感を全く抱かせない不思議なキャラクターに仕上がっている。桑原の方も根っからのヤクザ者ながら、度胸があって頭が切れ、いつも金払いがよく、喧嘩は強いが二宮には決して暴力を振るったりはしない憎めない人物である。理想の上司…とまでは言わないものの、付いていきたくなるという人は多いのではなかろうか。とにかく犯罪が絡む物語の読書には、嫌悪感やストレスが付きものだが、本作品にはそれらが全くない。最後まで爽快感が味わえる希有なミステリ作品である。あえて言えば、あれだけの活躍を見せて読者を楽しませてくれた桑原が、ラストであっさりといなくなってしまう大きな喪失感が引っかかるくらいか。これだけの息の長いシリーズとなっているのだから、次回作ではあっさりと復活を遂げていることを期待したい。
2015年6月読了作品の感想
『女王』(連城三紀彦/講談社)【ネタバレ注意】★
「このミス」2015年版(2014年作品)9位作品。2月に同年4位作品の同じ筆者による『小さな異邦人』を読んで、あまりの残念さに本書を読むのを相当ためらい、結局ベスト10作品の中では一番最後に読むことになったのだが、見事に予想通りだった。『小さな異邦人』同様に、その内容が評価されたというよりも、2013年10月に65歳で亡くなったばかりの直木賞作家の作品ということで注目
されただけと
しか思えない作品。1996年から1998年にかけて「小説現代」に連載されたものの単行本化されず「お蔵入り」になっていたというのは、やはり「これは売れない」という出版社の判断があったからだろう。寡作作家の埋もれていた作品や大御所の未刊行作品が注目を浴びてのランクイン、また、話の内容がぶっとんでいて、ただ「すごい」というだけでのランクインという2つのパターンが、「このミス」に時々見られる典型的「読んでがっかり」パターンなのだが、本作はその両方をクリアしてしまっている。しかも直木賞作家だけに、読ませる力があるあまりに最後の最後まで期待させられてしまい、途中で残念作品であることに気が付いて斜め読みに切り替える本もたまにある中で、本作は不覚にも最後まで精読してしまいダメージは倍増。帯にある田中芳樹氏の「序章を拝読したときにどこへ連れて行かれるのだろうと驚いた」というコメントは嘘をつかないギリギリの賛辞と言える。本当に期待させるのは序章だけで、後は最後まで裏切られ続けるのである。田中氏もコメントを求められた時には相当困ったに違いない。
序章で、精神科医・瓜木の元を訪れた主人公・荻葉史郎は、昭和24年生まれの30歳ながら、なぜか東京大空襲の記憶があるという。しかも12歳の時に海岸に打ち上げられたのを発見された時に記憶喪失になっており、その後唯一蘇った記憶がその東京大空襲の記憶だというのだ。そして17年後に2人は再会し、そこで瓜木は東京大空襲の日に史郎を目撃していたことを告白する。さらに史郎と一緒に暮らしていた古代史研究家の祖父・祇介は、昭和47年の大晦日にある人物からの電話に大きな衝撃を受けて京都へ出かけ、そのまま帰らぬ人となっていた。電話の内容は、邪馬台国に関する大発見に関するものではなかったかと考えられたが、祇介の遺体は京都から遠く離れた福井の小浜の海岸で発見された。そして、史郎はまた新たな記憶を蘇らせる。ある女が、火の付いた櫛で史郎の頬に火傷の跡を付けた記憶だ。また、過去に祇介の助手をしていた史郎の妻・加奈子は祇介から史郎の亡き父・春生のことを聞いていた。なんと春生にも生まれる前の記憶があったというのだ。それも南北朝時代の記憶である。SFなのかタイムスリップものなのか、このミステリアスな導入部分のインパクトは絶大だ。しかし、春生の頬にも史郎と同じ火傷の跡があったため、瓜木が空襲の時出会ったのは史郎ではなく春生であろうと結論づけたのは良いとして、死んだ春生と同じ生を孫に与えるため、祇介が女装して史郎の頬に春生と同じ火傷の跡を付けたのだと瓜木が主張するあたりから話が怪しくなってくる。さらに春生は南北朝時代の記憶のみならず、邪馬台国の時代の記憶まであったという荒唐無稽の大技が飛び出す。ここまでが序章の内容である。
1章では、加奈子が祇介の死の謎に挑む。祇介の死は大量の睡眠薬の摂取による自殺とされていたが、死の直前に、祇介は自分の日記の一部を史郎に読めるように加奈子に書き直させていた。それが邪馬台国の謎を解くことになるというのだが、そのこじつけ具合がもうかなり苦しい。結局加奈子は、この日記は祇介の手によるものではなく、祇介の祖父が書いたものであり、魏志倭人伝の「1月」が「1日」を表すものであることを伝えようとしているのだと訴える。そして、祇介の死のきっかけとなった電話を掛けたのは自分であったのだと史郎に告白する加奈子。そして、祇介の子供を流産していたという衝撃の事実まで告白する。「昭和を明治と置きかえるだけで、ほぼ1月近い時間を1日に短縮できたんです。(中略)親が子を産むのではなく、子が親を産むのですから血の逆流はそのまま時の逆流と言えますね。手品のように種を明かせば簡単なトリックですけど、先生はこの日記で時を人為的に操るという不可能をやり遂げたんです」「母親のヒミコが子供のヒミコを産むという普通の時の流れを逆巻かせて、子供のヒミコが母親のヒミコを産み、そのヒミコがまた母親のヒミコを産むという逆流をどんどん過去へと繰り返していけば…邪馬台国の卑弥呼までたどりつくでしょう。荻葉先生は何かそういうことを私に教えようとしている気がするんです」と言う加奈子。祇介も加奈子も完全に頭がおかしいとしか言いようがない。「時を逆流させる」という表現が頻繁に登場するのだが、完全に意味不明。いっそのことタイムスリップものにしてくれた方が余程スッキリする。気持ちが作品から離れかけたところで、加奈子の例の電話の内容が明らかに。それは、南北朝の時代に春生が生きていた証拠を加奈子が見つけたというものだった。南北朝時代に後亀山天皇一行が京都へ旅立つ日に桜の木に刻んだ名前の中に春生のものがあったという記録があったのである。それが事実なら、春生が本物のタイムトラベラーであり、邪馬台国の記憶も持つ彼が唱えていた邪馬台国近畿説も事実である可能性が高まるのだが…。ここまでが1章の内容。
この後、2章、3章、終章と続くのだが、思い出して記録するのも億劫な内容。結局、加奈子が見つけた証拠は、終盤で春生の行った「でっちあげ」であったことがさらりと語られ、史郎の産まれる前の記憶の数々は、祇介によって春生の日記を繰り返し読まされて刷り込まれたものと判明し、これまでのミステリアスな色合いが一気に色褪せる。2章で延々語られる春生の邪馬台国での出来事は、「邪馬台国に向かうことが離れること」だとか、「離れることが向かうこと」だとか、さんざんうだうだと書き連ねた挙げ句に、最後は全て春生の妄想だと片付けられてしまう。「日」の意味と「月」の意味の両方を持つ字の話も結局うやむやのまま終わる。邪馬台国の正確な位置を魏に知られないために、魏志倭人伝にはあえてその道筋が曖昧に書かれているのだという話が出たかと思ったら、魏の国は遠すぎて現実的には魏の国が軍がやって来ることなどないという話があったり、もう支離滅裂。邪馬台国の謎についての話なら3月に読んだ『邪馬台国はどこですか?』の方がはるかに面白い。全ては史郎と加奈子の娘、紀世を卑弥呼の生まれ変わりとして生み出すために仕組まれたことなのだという方向で話は収束していくのだが、当然そんな話が出てくる頃には、多くの読者はもう全く全てがどうでもよくなっていることだろう。
『13階段』(高野和明/講談社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2002年版(2001年作品)8位作品。
「これだけの傑作が8位?」というのが正直な感想。この年のベスト10作品は、これまでに6作しか読了しておらず、1位の『模倣犯』、2位の『邪魔』は確かに素晴らしく、5位の『超・殺人事件』も大いに楽しませてもらった記憶はあるが、第47回江戸川乱歩賞に満場一致で選ばれたというのは伊達ではないことを思い知らされた一作。本書の存在は以前から気にはなってはいたものの、内容が重そうで敬遠していたところがあった。著者の作品は、恥ずかしながら『ジェノサイド』しか読んだことはなかったのだが、本書が著者のデビュー作であることを今回初めて知り、その完成度の高さに驚かされた。死刑制度や犯罪者の更生について刑務官の立場からの様々な意見が記されており、色々と考えさせられるところも本書の魅力だが、死刑囚の死刑執行が迫る中、彼を救うため奔走する主人公たちの前に、新事実が次々に浮かび上がっていくというストーリーは実に見事。真犯人像も二転三転していく中で、何と言っても、ついに発見した凶器からまさかの人物の指紋が発見されたシーンには仰天。もちろん全ての伏線が収束するラストのクライマックスシーンや、最後の主人公の手紙も文句なし。これはオススメ。
主人公は、飲食店でからんできた佐村恭介という青年を殺害してしまったことにより傷害致死罪で服役し仮釈放されたばかりの青年・三上純一と、彼を、ある仕事のためにスカウトした刑務官の南郷正二。南郷は、杉浦という弁護士を通じて、匿名の人物から10年前に保護司の宇津木夫婦を殺害した容疑で逮捕され死刑囚となった樹原亮の冤罪を証明するための調査を依頼される。南郷は、約束されている多額の報酬でパン屋を開き、別居中の家族との生活をやり直すことを夢見ると共に、これまで職務として2人の死刑囚を処刑した心の傷を追っていたため、何としても冤罪による死刑は回避したかった。また純一も、佐村恭介の父・佐村光男への謝罪を済ませた後、自分のせいで光男への賠償金の支払いに苦しむ両親のために南郷に協力し懸命に調査に取り組む。一番の問題は、被害者の財布を所持していて捕まった樹原が、事件直後のバイク事故により記憶を失っていたことだった。しかし、その樹原が事件当時「死の恐怖を感じながら階段を上っていた」ことを思い出す。真犯人に脅されて協力させられていた可能性が出てきたのである。調査を進めていく中で、2つの可能性を見出した2人。1つは、すでに逮捕され死刑囚として収監されている31号事件と呼ばれた連続殺人事件の犯人・小原歳三が真犯人ではないかという可能性。もう1つは、当時宇津木夫婦に保護観察を受けており、殺人で無期懲役の刑を受け14年間の服役経験のある室戸英彦が、宇津木に仮釈放を取り消されそうになり事件を起こしたという可能性である。しかし、結果はどちらもシロ。しかし、その調査の過程で、宇津木が保護観察の対象者達を脅迫していた疑いが出てくる。宇津木夫婦殺害現場近くの山腹に、増願寺という寺と階段が土砂崩れで埋まっていることを突き止めた2人は、そこでついに凶器と行方不明になっていた宇津木の印鑑を掘り出すことに成功するが、何とそれらから見つかった指紋は純一のものだった。事件当時高校生だった純一は恋人の木下友里と共に家出しており、現場近くにいたことは南郷も知ってはいたが、予想外の事実に大きな衝撃を受ける。
警察に追われる身となった純一だが、純一には全く身に覚えがなかった。ホテルのオーナーで、保護観察中の樹原の面倒を見ていた安藤紀夫こそ今回の調査の依頼者だと考えていた南郷は、危機を乗り切るため安藤に協力を依頼する。警察の追跡をかわし、埋もれた寺の仏像内から、真の凶器と通帳を発見した純一は、真犯人が安藤であったことを知る。安藤は保護観察を受けていた過去について宇津木に脅迫され、多額の金を宇津木の口座に振り込んでおり、その証拠を隠滅するために通帳を奪い隠していたのだった。純一より先に真相に気付き、純一の向かった寺から離れた場所に安藤を誘導した南郷であったが、安藤に襲われた南郷は正当防衛とは言え安藤を殺害してしまう。そして、純一は寺で別の男に襲われていた。佐村光男である。彼は息子を殺された怒りから、湯飲みに付いた純一の指紋を利用して偽の証拠を捏造し、純一を宇津木夫婦殺害の犯人に仕立て、処刑台へ送り込もうと計画していたのだ。今回の冤罪調査も、安藤ではなく佐村光男が純一を陥れるために杉浦弁護士に依頼したものだったのだ。そして、佐村光男は計画を変更し、真相をつかもうとしている純一をその場で猟銃で射殺しようとしたが、猟銃の発射した散弾が寺の柱を破壊し寺が崩壊したことで純一は危機を脱出した。
死亡した安藤が真犯人であったことが明らかになったことで、樹原の死刑執行は直前で回避され再審が認められた。佐村光男は猟銃で純一を襲ったことについて殺人未遂罪で逮捕されたが、純一を処刑台に送り込もうとしたことについては罪に問われなかった。そして、殺人罪で逮捕され、無罪を勝ち取るため周囲の人々が尽力していた南郷の元に、純一から手紙が届く。そこには衝撃的な事実が記されていた。高校時代の家出中に純一は佐村恭介に出会っており、その時、恋人の木下友里を強姦された復讐のため、最初から佐村恭介を殺害するつもりで彼に近づいたこと、彼に対する贖罪の気持ちが全くないことが記されていたのだ。それから1年後、樹原は無罪を言い渡された。
『虚像の道化師』(東野圭吾/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2012年版(2011年作品)ランク外作品。人気のガリレオシリーズ第7弾だが、実はこのシリーズ、第3弾の『容疑者Xの献身』が1位になった以外は、一度も「このミス」のベスト10に顔を出しておらず、20位以内で探してみても第5弾の『聖女の救済』が「このミス」2009年版で18位に入ったのみである。「このミス」は、ここ最近は70人前後の投票者によってランキングが決められているが、2012年度版では73人の投票者のうち2つの大学サークルが4番目と5番目に本書に投票したのみ(1人につき6番目まで投票)。結果、順位は50位くらいといったところ。Amazonの書評も結構厳しめ。読んでみるとそこまでひどくはないのだが、確かにマンネリ化を感じるし、あまり物語に奥行きがなく、連続TVドラマシリーズの脚本っぽい(実際にTVドラマ第2シリーズで映像化されている)。
単行本と2015年に刊行された文庫版では構成が変わっており、元々単行本に収録されていた「幻惑す(まどわす)」「心聴る(きこえる)」「偽装う(よそおう)」「演技る(えんじる)」の4編に、第8弾『禁断の魔術』に収録されていた「透視す(みとおす)」「曲球る(まがる)」「念波る(おくる)」の3編を加えた7編が文庫版に収録されている。第8弾『禁断の魔術』の残る1編「猛射つ(うつ)」は、長編作品に改稿され、文庫版オリジナルの『禁断の魔術』として刊行されているので後日読む予定。
第1章『幻惑す』は、新興宗教もの。教祖が念を送ると、送られた者の体が温かく感じるのを、湯川がマイクロ波によるものと見破る話で、もろにTVドラマの脚本という感じ。
第2章『透視す』は、草薙が湯川を銀座のクラブに連れて行き、レイカというホステスの透視能力に湯川が驚かされるところから物語が始まる。レイカは会社で不正経理を働いていた男の鞄を透視したことで、その男に殺害されてしまう。透視能力の種明かしは、袋に入れてあった赤外線カメラという芸のないものなのだが、レイカと継母との確執の真相が明らかになるラストは好み。
第3章『心聴る』では、脳内音声装置というものを用いて、上司を自殺に追い込み、同僚の活躍を妨害し、想いを寄せる女子社員にサブリミナル効果で自分を好きにさせようとする男の犯罪を描いているのだが、致命的なのはこの物語のメインアイテムとも言うべき脳内音声装置が実用化されていない架空のものだということ。それは、どんな不思議な事象も現代の科学で解明できるという、このシリーズの根幹に関わる大問題なのでは?
第4章『曲球る』では、戦力外を宣告された上に、車上荒らしに妻を殺害されたプロ野球の投手・柳沢が、スポーツ誌に載っていた湯川の記事がきっかけとなり、湯川に投球の分析をしてもらうことになる。その中で、生前浮気を疑われていた柳沢の妻が、実は夫に台湾で野球をさせてやろうと奔走していたことが明らかになるという物語。心温まる話と言えばそうなのだが、結局、プロ野球の変化球の話に加え、消火液が車の塗装を傷めるというネタと、台湾では置き時計を贈り物にすることはタブーであるというネタを、とりあえず詰め込んだだけのやっつけ仕事的なところが今一つ。
第5章『念波る』は、双子の姉妹がテレパシーで通じ合っているという導入で、妹が胸騒ぎがすると訴えると実際に姉が何者かに襲われ病院に運ばれていたという展開が待っているのだが、実際には、妹は姉の夫が姉に殺意があることを最初から知っていたという身も蓋もない話。
第6章『偽装う』は、湯川と草薙が友人の結婚式に参列するために山奥のホテルに向かう所から物語が始まる。そこで大雨により土砂崩れが発生し、参列者が帰れなくなるというありがちなパターンに入っていくのだが、実はそこは本筋とは全く関係がない。事件はホテル近くの別荘で発生する。湯川達がホテルに向かう途中にタイヤがパンクしてタイヤ交換をしている時に傘を貸してくれた女性・桂木多英の両親がその別荘で殺害されているのを多英が発見したのだ。父親は猟銃で撃たれ、母親は扼殺されていた。母親の首には父親の血が付いており、猟銃が外に投げ捨ててあったことから、犯人は、まず父親を射殺後、母親を殺害して逃走したと考えられた。しかし、草薙が現場で撮った写真を見て湯川は現場の偽装に気付く。ロッキングチェアに座ったまま銃で撃たれた場合、反動で前に投げ出されるはずなのに遺体が座ったままだったのは、反作用を生むような状態で撃たれたから、つまり自分で自分を撃った自殺だったからだと判断したのだ。真相は、養子縁組をしていない義理の父の遺産を手に入れるため、母親が先に死んだことが明らかになると困る多英が、その順番が逆に思われるように母親の首に父親の血を付けるという偽装したというものだった。ここまでは、平凡な展開だが、最後に「傘を借りた御礼」と称して、「父の血の付いた猟銃は暴発が怖くて庭に捨てた、その血の付いた手で母の首に触ってしまったと警察に言えば問題ない」と多英にアドバイスをして、偽装の罪を消し去ろうとする湯川の行動は、ちょっとイイ話かもしれない。
第7章「演技る(えんじる)」は、劇団の主宰者・駒井の胸に元恋人の敦子がナイフを突き立てるシーンから始まる。平凡なアリバイトリックで読者を拍子抜けさせておいて、実は真犯人は駒井の現在の恋人・聡美だったという大どんでん返しの趣向。それはそれなりにインパクトがあったが、敦子は聡美をかばったわけではなく、劇団員として犯人の気持ちを味わいたかっただけで、自分が疑われても最後には聡美が逮捕されるだろうと割り切っていた単なる役者馬鹿だったというオチ。これが本書の『虚像の道化師』というタイトルの由来になっているのだが、感動と言うより唖然呆然という感じ。この話に湯川を絡めるために、湯川が劇団のファンクラブの会員だったという設定も何か無理を感じるし、やたらと出てくる花火のトリックの話も、別にここにはなくてもいいのではと思える。
結局、どの話もぱっとせず、第2章ぐらいしか印象に残らなかった。文庫版オリジナルの『禁断の魔術』に期待したい。(「このミス」の最新版に再ノミネートされるのだろうか?)
『虚ろな十字架』(東野圭吾/光文社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)19位作品。2作続けての東野圭吾作品
となったが、気が付けば東野圭吾作品はもう20作目。一時期凝って大量に読んだ江戸川乱歩作品を別にすれば、綾辻行人作品の23作に続く多さである(あとは京極夏彦作品18作、伊坂幸太郎作品11作、大沢在昌作品11作、北村薫作品11作、米澤穂信作品10作、宮部みゆき作品9作という感じで続く)。本書の内容はというと、つい先日読了したばかりの『13階段』同様に死刑制度の是非をテーマにした作品である。
主人公の中原道正は、11年前に小学校2年生だった娘を強盗に殺害される。中原夫婦の願いが叶い、犯人の蛭川和男は死刑となったが、この事件が原因で妻の小夜子と離婚。現在は、以前勤めていた広告代理店を退職し、伯父の経営していたペットの葬儀屋を引き継いでいた。そんな道正の元に、当時の担当刑事だった佐山から、フリーライターとなっていた小夜子までが強盗に殺害されたという話が飛び込んでくる。小夜子を殺害したのは町村作造という無職の老人で、娘の花恵の夫である医師の仁科史也に生活を支えてもらいながら、金目的で小夜子を襲い、自首してきたというのが事件の概要だった。納得のいかなかった正道は、真相を知るために調査を始める。そして、小夜子が万引き依存症の井口沙織という女性を取材していたこと、小夜子の遺品の中にあった「こども医療相談室」の案内状の担当医師が仁科史也だったこと、井口沙織と仁科史也が同郷であったことを知る。そして正道がつかんだ事件の真相は、次のようなものであった。
高校1年生だった史也と中学3年生だった沙織が交際中に、沙織が妊娠。家族に知られないよう自宅の風呂場で出産した沙織は、史也とともに生まれたばかりの赤ん坊を殺害し青木ヶ原樹海に埋めるという罪を犯す。沙織がこの経験こそ万引き依存症の原因となっていることを小夜子に告白したことで、小夜子は、史也にも自首を勧めるべく行動に移す。それを知った作造は、娘の幸せを守るため、小夜子を殺害したのであった。結局、史也と沙織は自首するが、警察は赤ん坊の遺骨は発見できず、不起訴処分になる可能性が高まる。小夜子の両親は作造の死刑を願っていたが、義理の息子の犯罪を隠すためになったとなれば死刑どころか無期懲役もなくなりそうである。その義理の息子の犯罪が証明できない状態で、作造の裁判が進められることに、道正は「矛盾だらけだ」とつぶやくのであった。
作中にも登場する「死刑判決が出ても全く反省の色がない者がいる」、「死刑囚が死刑になっても死んだ者は帰らない」、「冤罪の可能性がゼロではない」…といった主張は決して死刑反対の理由にはならないと思う。殺人犯に全く反省の色がなくても、犯人が生きていること自体許せない遺族は多いだろう。死んだ者が帰ってこないからといって、それが殺人の罪を許す理由にはなり得ないことは明らかである。冤罪の可能性についても、それをなくすために慎重な裁判が存在するのであって、その前提がなければ全ての犯罪自体裁けない。実際の殺人事件のほとんどは犯行が明らかであるのに、それらまで全て冤罪の可能性を考慮して刑が甘くなるのでは遺族はたまったものではない。そういう意味で、離婚後も死刑推進派として精力的に活動していた小夜子に共感を覚えた読者は多いはずだ。ところが、物語が進むにつれ小夜子の描かれ方が変化してくる。明らかになることによってどんな犠牲が生まれようが殺人は絶対に明らかになるべきであり、基本的に殺人者は死刑になるべきであるという小夜子の主張に対し、何の反省も示さない牢獄の死刑囚とは違い捕まりはしなかったものの苦しみながら誠実に贖罪に努め続けている史也を見逃してほしいと涙ながらに訴える史也の妻・花恵の主張の方が、読者には受け入れやすいのではないか。著者もそのように読者を誘導しているふしがある。確かに殺した人数によって死刑になるかどうかが決まる現在のルールはおかしいと思うが、いかなる理由があっても殺人は即死刑というのは大問題であろう。今回の史也と沙織のような未成年の特殊な犯罪を、小夜子の論理と比較し、小夜子を悪者風に描くのはちょっとフェアではない感じがする。あとは、ずっと屑人間として描かれていた作造が、娘とその夫のために突然殺人を犯すという展開があまりにも受け入れがたい。また、捜査には素人の一般人の道正がたどり着いた真相に、優秀なはずの日本の警察が全く近づいてもいない点もマイナス。死刑制度についてそれなりに考えさせられるもので決して悪い作品ではないが★★★には届かない。ランキング前後の作品はほとんど未読だが19位は妥当なところだと思う。
『イニシエーション・ラブ』(乾くるみ/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2005年版(2004年作品)12位作品。文庫版裏表紙によれば「最後から二行目(絶対に先に読まないで!)で、本書は全く違った物語に変貌する」との記載があり、叙述トリック作品であることがうかがえる。よし、それでは万全の注意を払いながら読もうと気合いを入れたが、読み始めてみると、たっくんと繭子という若い男女2人を巡る、いまだかつて読んだことのない拍子抜けするくらい超ベタな恋愛小説的内容に半分呆れてしまう。しかも、2004年発表の作品にもかかわらず、舞台はなぜか1986〜1987年。前半のside-Aでは大学4年生のたっくんが、後半のside-Bでは社会人1年生のたっくんが描かれている。「繭子に別の男の影?」「あれ、そんなこと前に書いてあったっけ?」「主人公ってこんな性格だったっけ?」などと、所々に違和感を覚えつつも、それほど気にもせず読み進み、やっと最後の2行目にたどり着くと、確かに読者は大きな衝撃に見舞われることになる。
前半のside-Aでは、今一つさえない静岡大学4年生の鈴木夕樹が、友人の望月に誘われドタキャンしたメンバーの代打として4対4の合コンに参加する。そこで夕樹は、歯科衛生士の成岡繭子に惹かれるが、彼女も彼を気に入り、経験の浅そうな2人の初々しい交際がスタート。繭子は、夕樹の夕と言う文字から彼を「たっくん」と呼ぶことし、たっくんは彼女のアドバイスに従って眼鏡をコンタクトに変え、自動車免許も取得する。合コンのメンバーでテニスに行った日、初めて繭子を相手に女性経験をしたたっくんは、クリスマスイブに静岡ターミナルホテルを予約し、彼女と人生最高の幸福な時を過ごす。
後半のside-Bでは、静岡大学を卒業し、社会人1年生となったたっくんの奮闘が描かれる。繭子のためにあえて内定の決まっていた大手メーカーを蹴って地元企業への就職を選んだものの、彼の優秀さ故に東京勤務となってしまったたっくんは、毎週繭子のアパートを訪れるよう努力するが、才色兼備の同輩、石丸美弥子に迫られ、美弥子に繭子という恋人の存在を伝えるものの、結局関係を持ってしまう。繭子の妊娠・堕胎をきっかけに繭子との関係が気まずくなっていたたっくんは、繭子の部屋のベッドの上で繭子を美弥子と呼んでしまったことが決定打となり、繭子を捨て美弥子に乗り換えることを決意する。ある日、美弥子の実家を訪問することになったたっくんは、美弥子の部屋で何となく繭子に思いをはせていた。その姿を見た美弥子は「……何考えてるの、辰也?」と訝しげに声を掛けるのであった。
ラストシーンで、読者は「辰也って誰!?」「夕樹はどうなったの!?」と茫然自失するという仕掛け。要するにこの物語は、繭子が、鈴木夕樹と鈴木辰也という2人の男性と並行して付き合っていた、つまり二股をかけていたという物語なわけである。舞台をあえて1980年代に持ってきたのも、その時代のカセットテープを思わせるside-A、side-Bと言う言葉で物語全体を区切り、そういう構成になっていることを暗示させるためだったようだ。タイトルの「イニシエーション・ラブ」については、作品中で美弥子が辰也に語っているシーンがあるが、「大人になるための通過儀礼的な恋愛」を指す。そのシーンでは、辰也にとっての繭子との恋愛がそうだという説明であったが、結局、繭子にとっても辰也との恋愛が「イニシエーション・ラブ」だったというオチなのである。本書については、その時系列表をはじめとして、ほぼ完璧な分析を披露している「ゴンザの園」という有名なブログがあるので、様々な仕掛けを全て理解されたい方は、そちらを参考にしていただければベストかと思う。
さて、私個人の評価だが、確かに全編にわたって巧妙に仕掛けられた仕掛け・伏線は素晴らしく、ラストシーンで読者に前代未聞の衝撃を与えるという作戦は見事に成功していることは間違いないものの、それだけで高い評価をしてしまっていいものかという思いがある。その最後の仕掛けのためだけに存在する物語というのはどうなのか。確かに、甘く切ない恋愛ストーリーもそれなりに楽しめる人もいるのだろうが、あまりにベタすぎて、このストーリーに感情移入できるのは中高生までではないかと思える。正直「陳腐」という言葉しか思いつかない。こういう本の楽しみ方もあるのだという可能性を示してくれた作品ではあるが、心に残るのが最後のトリックだけというのはあまりに寂しくないか。文学作品として、作者はもう少し読ませるものにできたのではないかと思えてならない(ちなみに作者は男性である)。
『第三の時効』(横山秀夫/集英社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2004年版(2003年作品)4位作品。F県警強行犯シリーズ第1弾。尾関刑事部長、田畑捜査第一課課長の指揮の下、捜査第一課強行犯の3つの班がしのぎを削り事件を追う。青鬼と呼ばれる理詰め型の捜査一係班長・朽木、公安上がりの謀略型の捜査二係班長・楠見、動物的カンを持つ天才型の捜査三係班長・村瀬。個性的という言葉では片付けられない、恐れすら感じる3人の班長達の存在感は圧倒的。ライバル2人が競い合う構図はあっても、3人のリーダーが張り合うというパターンの警察小説は過去に見たことがない。そして、一見冷徹に手柄を争っているだけのように見えて、彼らが部下や被害者や先輩に対して垣間見せる人情味は実に魅力的。引き込まれて、短編6編をあっという間に読了。★★★確定の傑作。
第1話「沈黙のアリバイ」では、強盗殺人を犯し自供までした犯人の湯本が、裁判で一転して、主犯で逃走中の大熊の愛人の所にいたというアリバイを主張。不適切な取り調べをした上に犯人の策にまんまと乗ってしまった一係の島津は辞表を出すが、班長の朽木は、湯本が、大熊とその愛人を殺害しているという真相にたどり着く。大熊の愛人が死んでいるからこそ、永久に肯定も否定もされない完璧なアリバイが成立していたのだが、死体の遺棄した場所まで朽木に言い当てられた湯本は、目を血走らせて震えるしかなかった。
こんなに頭の回る殺人犯がいるのか、そんなに頭の良い殺人犯がなぜこんなに最後に動揺して犯行を認めるようなことをしてしまうのか、なぜ朽木は僅かな情報で大熊の死体がある場所まで思いついたのか、といった疑問がないわけではないが、いきなり読ませてくれる。
第2話「第三の時効」は、本間ゆき絵を暴行し、その夫を刺殺した武内の時効が迫っている場面から物語が始まる。武内は逃走中にゆき絵に連絡を取ろうとしていた。武内は逃走中の一時期、海外に出国しており、その時期が時効までの日数にカウントされないことを武内が知らなければ、つまり第二の時効の存在を知らずに連絡をしてくれば、第一の時効が訪れた直後に連絡をしてきた武内を逆探知で逮捕できるのではないかと警察は考えていた。しかし、武内は知っていた。武内は第二の時効が完成した後に連絡をしてきたが、二係の班長・楠見の仕掛けた「第三の時効」という荒技が見事に決まる。逮捕されてもいないホシを起訴して、時効を6日間延ばしたのだ。無線で武内が逮捕される様子をゆき絵の前で中継する楠見に不快感を抱く捜査員達。そこで意外なことが起こる。ゆき絵が夫殺しを自供したのだ。武内はゆき絵をかばっていただけだった。楠見はすべてを見通しており、起訴したホシというのもゆき絵であった。
第二の時効はよくある話だが、第三の時効はさすがに強引な技。しかも、そこからさらにもう一つ仕掛けが用意されているところがお見事。ただ、一係の森が結婚を考えている子持ちの女性を調査した楠見が淫売呼ばわりしたのに森が激高し、それでも結婚の意思は揺るがず、ゆき絵の娘まで一緒に暮らそうと考えているというオチのエピソードは少々痛い。他の人間ならいざ知らず、優秀な楠見の調査は信用できそうで、その時点でこの結婚が相当危険なことが感じられるのに、そこに森とも相手の女性ともまったく無関係な女子中学生も自分の家族にしてしまおうと楽観的に考えている森には非常に共感しづらい。作者は「ちょっといい話」を狙ったのだろうが、本書をすべて読むと楠見の魅力が読者に伝わってしまうので、ここはちょっと失敗ではないのか。
第3話「囚人のジレンマ」では、「主婦殺し」「証券マン焼殺事件」「調理師殺し」という3つの殺人事件を同時に抱え、記者との駆け引きに苦悩する田畑課長の姿が描かれる。田畑は癖のある3人の班長の扱いに頭を痛めていたが、退官間際の三係の刑事・伴内に最後の手柄を立てさせたくて一係が尽力し、記者の真木を自分との媒介役として貴重な情報が三係にそれとなく伝わるようにし、それを三係が神妙に受け止めたことを知り、捜査一課の砂漠には水も緑もあったことに気付く。第2話ではちょっと滑ってしまった「ちょっといい話」が今回は上手い具合に決まっている。
第4話「密室の抜け穴」では、入院した村瀬の代わりに班長代理を務める東出の失態を描く。殺人死体遺棄事件の容疑者・早野が暴力団関係者であったことから、尾関部長からの命令でやむなく暴対課と共に早野のマンションに夜から張り込んでいた東出であったが、予定通りに翌朝部屋に踏み込むと東出は消えていた。そして、早野は昔の女のアパートに現れ姿を消したという情報が。一体誰が早野を見逃したのか。幹部捜査会議は限りなく「裁判」に近いものとなっていた。突然姿を現した村瀬は、時間はたっぷりあると言い、ミスがないならマンションの全戸捜索を命じろと東出に怒号を飛ばす。東出が命令を出そうとした瞬間、暴対の氏家が携帯を握りしめ早野の新たな目撃情報を叫ぶが、それこそが抜け穴作りであった。東出は村瀬の真意に気が付いた。氏家は早野とグルでマンション内の別の部屋に早野をかくまい、偽の目撃情報を流していたのだ。東出ら三係は見事に早野を逮捕する。
東出は、村瀬が単に自分をスペア扱いしているのではないかという疑念を持っていたが、決してそういうわけではないことに気付き、毛嫌いしていた同期のライバル・石上とも最後は軽口を叩いて別れる。これもなかなか良くできた「ちょっといい話」なのである。
第5話「ペルソナの微笑」では、特定郵便局長殺人事件を解決し、打ち上げの最中の一係のもとに、隣県で発生した青酸カリによる殺人事件の報告が入る。F県警では、管内で13年前に少年を利用した青酸カリによる殺人事件が発生し未解決になっていたため、その手の事件には敏感であった。犯人にそそのかされた少年・阿部勇樹が、何も知らずに父親を殺してしまったのだ。朽木の指示で主任の田中と若手の矢代が隣県にタクシーを走らせる。殺害されたのはホームレスで身元は不明であったが、現場で目撃された犯人の顔は、13年前にF県内で起こった青酸カリ殺人事件当時に描かれた似顔絵そっくりであった。果たしてこれは13年越しの連続殺人なのか。朽木が勇樹の元に通い続けていることを知った矢代は、朽木が勇樹に何らかの疑いを持っていることに気が付く。真相は、13年前に勇樹の母親を毒殺しようとした男から青酸カリを受け取った勇樹は憎んでいた父親を殺害、そして13年後、その男がホームレスになっていたことを知って、勇樹は13年前に自分が適当に書かせた似顔絵と同じ変装をして、母を殺そうとした復讐のためホームレスを殺害したというものだった。
矢代と勇樹のあまりに軽い会話に違和感を覚えるが、矢代の思い過去と、軽い会話から一転して勇樹を怒鳴る矢代の急変に引き込まれた読者も多いはず。テレビドラマの脚本風だが、良くできた話だと思う。
最終話「モノクロームの反転」では、5歳の男の子を含む一家3人刺殺事件を担当する3係に、さらに1係を応援に出す田畑。尾関はそれが気に入らないが、田畑は1プラス1が3にも4にもなる方に賭けると言い張る。実際には情報も交換せず、我が道を進み続ける2つの捜査陣。三係は、殺害された妻の方が、小学生時代の同級生の男達から多額の借金をしていたことを突き止め、黒い車に乗る中学教師の久米島を疑うが、向かいの家の男性によって目撃された犯人のものらしき車は白であった。一係の朽木は、実験を重ねて男性が覗いた穴と光の反射の加減で白く見えた犯人の車が黒色であったことを明らかにし、それを三係の村瀬に伝える。ネタを流した理由として葬式で子どもの棺を見たからだろうと村瀬は朽木を追及するが、朽木が答えることはなかった。
犯人を追及する材料としてチューリップのネタも利用しているが、別にそれはなくても良いのではと思える。確かに光の加減のネタだけでは弱いのだが。どちらにしてもミステリーとしては微妙なのだが、それでもこの物語がそれなりに輝いているのは、朽木の人情味がにじみ出た話だからであろう。
2015年7月読了作品の感想
『桑潟幸一のスタイリッシュな生活』(奥泉光/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2012年版(2011年作品)17位作品。6月末からの3泊4日の出張のお供に、全面改訂で文庫化されたばかりの東野圭吾の『禁断の魔術』と一緒に持って行ったのだが、移動中に読もうにも酔い止め薬が効き過ぎて睡魔になかなか勝てず、結局この1冊しか読了できなかった。筆者は1994年に『石の来歴』で芥川賞を受賞し、2012年から芥川賞の選考委員もされている奥泉光氏。作品として知っているのは「このミス」2011年版5位作品『シューマンの指』のみだが、今一つ好印象はなかった記憶がある。過去の自分のコメントを読み直すと、「あまりにアンフェアなミステリーだが、文学性の高さから一応オススメする」という感じであった。
さて、本書はタイトルからも表紙のイラストからも芥川賞作家の作品とはとても思えないライトさであるが、中身を読み出すとそれ以上にライトなことに驚かされる。これでもかというダメっぷりを発揮する主人公の三流大学准教授・クワコーこと桑潟幸一、彼を使える手駒として潰れかかった短大から引き抜いた、権力好きで怪しい経歴の持ち主・鯨谷光司教授、そして、クワコーが顧問をすることになった文芸部の個性溢れる部員学生達が織りなすハチャメチャな物語である。テレビドラマ向きだなと思っていたら、すでに2012年に全8話でドラマ化されていた(奥泉作品唯一の映像化作品でキャラ設定は本作以上にぶっとんでいる)。文章を読む限り、クワコーは中年太りの冴えない男なのだが、表紙のイラストは単行本も文庫本もなぜかイケメン。で、テレビドラマの主演も佐藤隆太になったようだ。
文章の特徴として、笑いのポイントが太字になっているところが面白い。また、学生が使いまくる若者言葉もインパクト絶大で、これもなかなか面白かった。あと、著者の文体で唯一気になった点が1つ。『シューマンの指』にもあったのかどうか記憶がないが、「桑幸が遠慮がちに意見をいったのへ坊屋はまた軽く応じた」(p79)
の「〜のへ」という表現に強烈な違和感を覚えた。最初「〜ので」の誤植かと思ったが、本来は「〜ことに対し」「〜のに対し」あたりを用いるのが適当だろう。本作中には、この箇所の前後に同様の表記が7カ所ほどあった。雑誌ならいざ知らず、普通の単行本の文章に違和感を覚えることは今までほとんどなかったのだが(20年以上愛読している車雑誌「ベス○カー」の誤字脱字の多さは以前有名だったが)、今回はさすがに引っかかった。
本作には、「呪われた研究室」「盗まれた手紙」「森娘の秘密」の3編が収められている。
「呪われた研究室」では、鯨谷の誘いで、潰れる直前の関西圏随一の低偏差値を誇る麗華女子短期大学・通称レータンから、元女子短大で男女共学の4年制になったばかりの千葉県のたらちね国際大学へ転職できたことを喜んでいたクワコー
が、与えられた研究室で昔首つりがあり、毎年4月に「出る」という話を聞かされる。しかも、泥舟から助け船に乗り移ったはずが、その助け船も経営の苦しい泥舟であることが発覚、さらには文芸部顧問を押しつけられ、研究室は、バスの車掌のような変なファッションに身を包んだ部長・木村都与に率いられたおかしな学生達がたむろする部室と化してしまう。そしてある夜、研究室の通風口から笑い声が聞こえ、4階にある研究室の窓を叩く音にびびったクワコーは悲鳴を上げて逃げ出した。その後、ホームレス女子大生で2年生部員のジンジンこと神野仁美は、事務室の園村課長をはじめとする覗きグループが、樹木の
成長の関係で4月限定で女風呂を見ることのできるクワコーの研究室を夜間に独占するため、研究室の主に対し毎年悪戯をしていたという真相を突き止める。
「盗まれた手紙」では、クワコーがセキュリティ−会社のタムコの総務部次長の柿崎から、故・春狂亭猫介が書いた、ある重要な手紙の保管を依頼されたにも関わらず、それを盗まれてしまう。数年前に「日本近代文学者総覧」が編纂されることになった時、クワコーは自分の専門である太宰治を担当したがったが、所詮三流准教授にそのような大きな仕事が割り振られるはずもなく、マイナーな文学者を多数担当させられたうちの1人が、春狂亭猫介であった。猫介は実はタムコの会長であ
った人物であり、柿崎はライバルの佐藤を蹴落とし2代目猫介を襲名するために、クワコーが持っているはずの、柿崎を後継者とする文言が書かれた手紙を50万円で買い取ると申し出てきたの
であった。たらちね国際大学での初月給が驚愕のわずか11万円で困窮していたクワコーは即引き受ける。部員の協力で研究室内から何とか手紙を発見したクワコーは、ホームレス生活をしているジンジンにその手紙を預けるのだが、それを何者かによって盗まれてしまう。最初は敵の佐藤陣営ではないかと疑ったが、またしてもジンジンが一気に事件を解決する。真犯人は、柿崎自身であり、自分が捏造した手紙を詳細に鑑定されないように写真だけを撮って現物は処分してしまおうと考えたのだった。しかし、
そのことに事前に気が付いたジンジンは、すでに手紙の入った封筒の中身をすり替えていた。柿崎に暗殺されることを恐れたクワコーは、ジンジンから手元に戻ってきた偽の手紙を柿崎に郵送するが、事情を知らない柿崎は、クワコーを名探偵と褒め称え、この件は胸にしまっておいてくれと5万円を振り込んでくる。そして、50万円は逃したものの、その5万円に大喜びするクワコーなのであった。
「森娘の秘密」では、鯨谷のライバルの馬沢を蹴落とすために、馬沢が森という女子学生にセクハラをしているという噂があるからその証拠写真を撮ってこいと鯨谷に命令され、従うしかないクワコーの姿を描く。森という女子学生のことを知ろうと、それとなく部員に聞くと、なんと彼女達は本人をクワコーの前に呼んできた。アンドレ森と呼ばれる彼女はプロレスが趣味の巨大な女性で、明らかに馬沢のセクハラ相手ではなかった。結局、噂の森という女子学生は「森」という名前の人物ではなく、「森ガール」と呼ばれる「森にいそうな女の子」をテーマとするファッションの女の子であることが判明する。いつまでたっても証拠写真が撮れないクワコーに下った鯨谷の次の指令は、営業用に業者から50万円で購入した地元の高校生の名簿をPCに入力することであった。ところが、この名簿が金庫から消え、鯨谷はクワコーに弁償を迫る。馬沢、または森ガールが犯人ではないかと疑われたが、そこで名探偵のジンジンが登場し、またしてもあっさりと事件を解明してしまう。真犯人は鯨谷で、彼は偽の
古い名簿をつかまされたことに気が付き、教授会で責任を追及される前に、クワコーに管理不行き届きの罪を押しつけて古い名簿の存在を抹消しようとしたのであった。ちなみに森ガールの正体は馬沢の娘であり、馬沢の娘がいない時に見られた女性の正体は馬沢の女装した姿だったというオチ。名簿はジンジンが鯨谷のロッカー内から発見し回収しており、「家に持って帰っていました」と言って鯨谷の所へ持って行けばいいというアドバイスまでクワコーに与えてくれたジンジンであったが、しっかりと探偵料1万円を請求。貧乏なクワコーはローン
での支払いを提案するのであった。
疲れている時にさらっと読み流す分には、それなりに楽しめる作品だが、真面目な読者には、あまりに情けない主人公と、あまりにも頭の悪そうな今時の学生達の言動に対しストレスがたまるかもしれない。ミステリとしても第1話のトリックは全くたいしたことななく、第2話と第3話にいたっては、大事な文書が盗まれ、その犯人は保管の依頼主だったという全く同じパターンの話というのは、さすがにいただけない。しかし、「続編があったら読んでみたい
」(実は『モーダルな事象』
というクワコーが登場する作品が先に存在し、さらに正当な続編『黄色い水着の謎−桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活〈2〉』が2012年9月に発売されており、2015年4月に文庫化もされている)、「ドラマの再放送があったら見てみたい」という願望が
不思議とわいてくることも確か。評価が分かれるのは間違いない作品であろうが、個人的には、今、奥さんに強くオススメしようとしている自分がいることを認めざるを得ない。
(奥さんの読後評はクワコーが「ダメ男」すぎて萌えないとのこと…)
『禁断の魔術』(東野圭吾/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★★
先日読了した『虚像の道化師』のところでも記載したように、2012年10月に刊行された4つの短編を収録した単行本『禁断の魔術』から、『虚像の道化師』の文庫化にあたって「透視す(みとおす)」「曲球る(まがる)」「念波る(おくる)」の3編を『虚像の道化師』文庫版に移動させ、残った「猛射つ(うつ)」を長編作品に改稿して、これのみで文庫版オリジナル『禁断の魔術』として成立させたのが本書である。この6月に刊行されたばかりなので当然最新の「このミス」のランキングには登場しておらず、そもそも全面改稿して再登場した作品が次年度のランキングのノミネート対象になるのかどうかも不明。元が短編なだけにプロットは至ってシンプルである。
湯川の母校の後輩にあたる古芝伸吾は、自分の所属する高校の物理研究部が存亡の危機に際していた時に、湯川の指導によって新入生を驚かす実験を成功させ、その危機を脱したことがあった。その古芝は湯川を慕って帝都大に進学するが、育ての親だった姉の秋穂が病死したことで大学を中退して町工場に就職する。しかし、彼のこの行動には大きな理由があった。秋穂の死因は卵管破裂によるショック死であり、倒れた彼女を救急車も呼ばずにホテルに置き去りにして死に至らしめた、彼女の不倫相手の代議士・大賀への復讐が、古芝の真の目的だったのである。古芝は、高校時代に湯川と共に作ったレールガンを夜の町工場の工作機械を使って改良を重ね、日に日に精度を高めていた。大賀の不正疑惑を追っていたフリーラーターの長岡が絞殺され、姿を消していた古芝の関与が疑われたが、犯人は大賀が地元で進めていたスーパー・テクノポリス・プロジェクトの反対派組織内で、大賀側のスパイとして反対派の動きの情報を流していた勝田という男であった。古芝は警察の目を欺き、大賀殺害にあと一歩のところまで迫るが、湯川にレールガンのコントロールを奪われる。湯川は、どうしても大賀を殺したいのであれば、自分が古芝を指導した責任を取ってトリガーを引くと宣言するが、過去に海外で地雷製造に携わっていた古芝の父が、贖罪として帰国後に地雷撤去のための機械の研究に打ち込んでいたことを湯川から聞かされた古芝は、実行を断念する…という物語である。
このようにシンプルな話ではあるが、「シリーズ最高のガリレオ」と筆者自身が自負するだけのことはあり、面白いのは間違いない。ただ、そのキャッチコピーを帯で見てしまうと過剰な期待が生まれて少々肩すかしを食らうのも事実。「科学は使い方を誤ると人を不幸にする『禁断の魔術』となる」というのが、この物語のテーマの1つであるが、そもそもレールガン自体、想定される一番の用途は軍事兵器であり、そんな危険なものを高校での新入生勧誘の見世物として湯川が用意するというところから、いかにもこの物語のために作られた無理のある話ではある。せっかく盛り込んだフリーライター殺害のエピソードも、古芝がからんでいそうな雰囲気が最初からあまり強く出ていないため緊張感をうまく醸し出せていない。大賀の描き方についても、終盤で、ただの悪役ではなく、秋穂を惹きつけた人間的魅力の持ち主として上手く描いてくれてはいるが、どうせなら秋穂を死なせてしまったことに対する改悛の情をもう少し見せてくれれば良かったのにと思う。リアルな政治家らしさを追及しすぎて物語的に損している感じがする。重箱の隅をつつくような突っ込みばかりしているが、ガリレオファンにお勧めな1冊であることは保証する。
『ゴースト≠ノイズ(リダクション)』(十市社/東京創元社)【ネタバレ注意】★
「このミス」2015年版(2014年作品)15位作品。筆者名は「とおちのやしろ」と読むらしい。本作がデビュー作で、作品名は「ゴーストノットイコールノイズ」と読むのだろうか、よく分からない。
主人公は一居士架(いちこじかける)という高校一年生。架は入学してからずっと教室の一番後ろの席から座席が替わることはなく、クラスでは「幽霊」扱いされている。ヒロインの玖波高町(くばたかまち)が架の前の席に座るようになってから、彼の生活が少しずつ変わっていくという物語である。1ページ目からいきなり叙述トリックの匂いがプンプンするが、@主人公は生存していて自覚がある(イジメを受けはぶられている)、A主人公は生存しているが自分を幽霊だと思いこんでいる、B主人公は幽霊で自覚がある、C主人公は幽霊だが生きていると思い込んでいる、という4パターンのうちのいずれなのかがはっきりしない。著者は、あらゆる可能性を臭わせながら、のらりくらりと読者を揺さぶってくる。例えば、クラスメイトの徹底した無視ぶりと、架の自覚ぶりからして、明らかにBのように思わせておきながら、「(架が)授業を抜けだしたことは仲のいい三人から(高町の)耳に入る可能性はある」(p78)といった記述で、@やCのような可能性もちらつかせるのだが、その揺さぶり方があまりに大雑把で惹きつけられない。ヒゲを蝶結びされた2匹のネズミの死体、尻尾を蝶結びにされた2匹のトカゲの死体に続き、骨を砕かれた前脚を結ばれた状態の猫の死体が高校の敷地内で発見されるというミステリ的事件も挿入されるが、たいしたインパクトはない。で、前半のクライマックスとも言える7章末で、架は、自宅が火災に遭い、両親が死亡し自分だけ助かって入院中であり、学校にいる自分は「生き霊」であることを高町から認識させられる。結局@〜Cの可能性はすべて否定され、「そうきたか」とは思ったが特に感心もしない。
そして、後半、連続動物虐待事件の犯人の高町の先輩・末田仁が学校祭当日に自殺したことをきっかけに、高町が末田同様に施設出身であること、施設から玖波家に引き取られた高町と、難病を抱え死亡してしまう高町の妹・夏帆とは血がつながっていないこと、高町が養父から性的虐待を受けている可能性があることなどが次々と明らかになる。架は、何とか高町を養家から救い出そうとするが、高町は、自分を弄びつつ夏帆の死を望んでいた養父母
(実子より養子を大切にするという設定は新鮮ではあった)を殺害し、自宅に火を放って自分も死ぬ道を選ぶ。と読者に見せかけておいて、実は養父母は外出していて無事であり、高町は架に助け出されていたというオチ。つまり、架は幽霊でも生き霊でもなく、最初から実体を持った普通の人間だったのだ
(「手のひらの向こうに高町の顔が透けて見えた」(p132)とまで書いておいてアンフェアにもほどがある)。高町は、自分を幽霊だと思い込んでいた架を、まずは生き霊だと思わせ、段階を追って実体を持った人間だと自覚させようとしていたということか。以前、高町が架に見せた一居士家の火事の新聞記事は偽物であり、裏が白紙であることを、その時の高町は隠そうとしていた、というフォローがここで入るのだが、そんなものは両面に記事のある切り抜きである必要はなく、片面しかないコピーであっても全然問題ないではないか
、と思わず心の中で突っ込んだ。放火事件後、突然、一斉に架に話しかけ始めるクラスメイト達の様子のなんと不自然なことか。末田の起こした連続動物虐待事件はこの物語に必要だったのか
(そのような内容の事件を起こした理由には一応納得できたが)。本書を叙述トリックというなら、先日読了した『イニシエーション・ラブ』の方がはるかにまし。とにかく作りが「雑」な印象が強い作品である。
読了後に、amazonのレビューの高評価コメントに続き、「今年読んだ100冊の中で一番面白かった本は
ゴーストノイズリダクションでした」というブログの見出しを見つけて絶句。あとの99冊って何を読んだのだろう…。
『ストックホルムの密使(上/下)』(佐々木譲/新潮社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」1995年版(1994年作品)2位作品。日本冒険小説協会大賞受賞作。筆者に『ベルリン飛行指令』(「このミス」88年4位)、『エトロフ発緊急電』(「このミス」89年4位)に本作を加えた「第二次大戦三部作」という著書があるのは知ってはいたが、やはり「佐々木譲=警察小説」のイメージが強い。上下巻というボリュームもあって、これまでずっと読むのをためらっていたのだが、ついに挑戦することに。この長さに加え、明らかに狭義のミステリ小説からははずれた冒険小説であること、舞台が現代ではなく太平洋戦争末期であるということから、ミステリファンにとっては、ある程度読者を選ぶ作品であることは間違いないが、「このミス」2位にふさわしい傑作であることは確認できた。
上巻の巻頭で語られる、登場人物の1人、帝国海軍スウェーデン在駐武官・大和田市郎の妻・大和田静子の回想で、1945年7月末に市郎が2人の密使に日本を救う極秘情報を託し、その情報は無事日本に届いたものの、結局悲劇を回避することはできなかったという物語全体の流れは明らかになってしまっている。そもそも史実に基づいて書かれているため、「悲劇=ソ連の参戦・原爆の連続投下」が現実のものとなることは周知の事実であり、主人公たちにそれらを防げないことは読者には分かりきっているのだが、それでも読者を十分に満足させられるという筆者の自信がこの冒頭の回想からうかがえ、実際にそれは見事に成功している。上巻はその先の長さもあって読みながら少々気が重くなることもあるが、下巻はそのスピーディな展開もあって一気に読める。
主人公は、パリで「バロン」と呼ばれ、事件に巻き込まれてゲシュタポに追われることになってスウェーデンに流れ着いていた根無し草の不良日本人・森四郎。アメリカの原爆実験成功、ソ連の対日参戦決定という重要情報を得た大和田市郎は、これまで自分が日本に送っている情報が上層部に伝わっていないことを疑い、アメリカが戦後の世界のリーダーとなるべく原爆投下を急いでいること、そして、それに乗り遅れないためソ連がアメリカの原爆投下後に必ず対日参戦するであろうことを分析し、祖国の悲劇をこれ以上拡大しないよう早期講和を願い、いつも通り日本へ暗号電報を発信するのみならず、日本への情報伝達をより確実なものとするためスイスのベルンへ密使を送ることを決意する。市郎は、電報を送る直前に早期講和を阻止しようとする連合国軍に襲われ重傷を負い電報は日本に届かなかったが、四郎は、自分と同じように市郎に恩のある元ポーランド軍の情報将校であるヤン・コワルスキと共に、市郎から依頼された極秘情報を持ってスイスのベルンに向かう。一方、日本では、海軍省書記官の山脇順三が、憲兵に目を付けられながらも極秘に高木少将の片腕となって終戦研究を始める(ちなみに順三は三部作全てに登場する人物のようで、他にも本作には全二作の登場人物らしき者が複数登場している)。ここまでが上巻のあらすじ。
下巻の冒頭では、四郎とコワルスキが、多くの人を騙しながら連合国軍占領下のドイツを通過していく苦難が描かれる。フランクフルトでコワルスキが彼の正体を知る英陸軍の将校を殺害。ますます苦しい旅となったが、ドイツ戦犯の脱出騒ぎに乗じて、2人はついにスイス入りを果たす。目的地のベルンの公使館にたどり着いたものの、まともに相手をしてもらえなかった上に、盗聴していた連合国軍側に狙われるはめになった2人は、たまたまカジノで親しくなったソ連のサベンコ中佐を騙し、空路でモスクワを目指す。そこで旧知のオペラ歌手・小川芳子に再会した四郎は、コワルスキを彼女の指導者に仕立て、彼女らと共に極東慰問団に潜り込むことに成功。しかし、慰問先から国境を越え満州へ脱出する際に、四郎とコワルスキはソ連軍の銃弾を浴びてコワルスキは死亡してしまう。ハイラルの憲兵・久住大尉に保護された四郎は彼に全てを語り、四郎と美子は東京へ移送されることになった。そして彼らの最初の立ち寄り先の広島で原爆投下を目の当たりにする。憲兵隊の秋庭の依頼で、東京の陸軍病院に収容された四郎に会うことになった順三は、事前に四郎の供述書を読み、大和田情報の重要性とその分析の正確さに驚愕する。結局全て市郎の分析通りのことが起こり、政府は予告されていた悲劇を食い止めることができぬまま終戦を迎える。順三を前に、四郎は、「大和田武官の情報活動は無意味だった」「自分の行動が役に立たなかった」「コワルスキの想いが活かされなかったことがむなしい」とこぼすが、順三はそれを強く否定する。「大和田情報は早期講和の主張にいっそう強い裏付けを与え、強硬派を説得する論拠になった」「情報の正しさが事実で証明され、情報と事実の重なりが、さらに和平のほかなしという分析の正しさを明らかにした。そのことがやっとこの国の指導者に理解されたからこそ講和の決定があったのだ」と。戦後、四郎と芳子の消息は不明となるが、順三らが用意したであろう偽名でアメリカに渡ったらしきエピローグで物語は締めくくられる。
「本作のテーマは『祖国とは何か』『国を愛する感情とは何であるか』という問いかけである」という巻末の解説には納得であり、その正確な分析には何も言うことはない。主人公の四郎がかすむくらいに、要所要所に挟まれた登場人物のドラマの濃密さ(最後に四郎が生き残るので彼を主人公と捉えているだけで、コワルスキが死亡するまでは彼も四郎以上の活躍をするし、順三もそれなりに目立っている)、そしてそれら全てのエピソードが物語の本流としっかり結びついているのが見事。戦争を推し進めてきた軍部の愚かさもよく描かれており、反戦小説としても価値がある。個人的には、大和田情報を握りつぶしていた連中に何の報いもない(現実にはあったのかもしれないが描かれてはいない)のが少々不満ではあったが、暗い話が続く中で慰問団のエピソードなどはユーモアもあってなかなか面白かった。前作の『ベルリン飛行指令』、『エトロフ発緊急電』(本作同様、日本冒険小説協会大賞受賞作であり、日本推理作家協会賞・長編部門と山本周五郎賞も受賞している)をすぐに読みたくなるかというと、「それはちょっと…」という感じだが、いつかは読んでみたい。
『或るろくでなしの死』(平山夢明/角川書店)【ネタバレ注意】★
「このミス」2013年版(2012年作品)18位作品。平山夢明と言えば、「このミス」2007年版で1位となり、2006年日本推理作家協会賞短編部門賞を受賞した『独白するユニバーサル横メルカトル』が印象的だったが、あれは筆者のばらまく高濃度の毒が「すごい」だけで決して万人受けする作品ではなかった。本作はあれほどではないものの系列は同じ。「角川ホラー文庫」として文庫化されているが、ホラーと言うよりは、グロ・変態系。読者によっては不快感しか感じない短編を7編収めた短編集。
第1話「或るはぐれ者の死」は、路上でぼろ切れのように車に踏みつぶされた子どもの遺体を見つけ周囲に訴えるが誰にも相手にされず、挙げ句の果てに不良少年に殺されてしまう浮浪者の物語。こんな救いようのない話を最初に持ってくる時点で、作品としても売り物としてもどうかと思う。
第2話「或る嫌われ者の死」は、なぜか舞台がSF。過去に生物兵器の開発に失敗し世界中を危機に陥れた日本は世界の嫌われ者となり、事後処理のため日本人は保護の対象となるくらいに激減、日本に住む人々の多くは白人であった。日系の消防隊員であるジェイクは、列車とホームの間に挟まれた純粋の日本人である男の救助に休暇中指名されて駆けつけるが、その男は一見元気なものの、挟まれていることで出血が抑えられているだけで、救助した途端に出血多量で死亡することが分かっていた。ジェイクは彼が死ぬまでの話し相手として選ばれたのであった。日本人に対する汚いヤジが飛び交うホーム内で、次第に死を意識し始めた男は、妻と電話で最期の会話をした後、救助された直後にジェイクの前で死亡する。
かなりベタな展開ではあるが、本作の中で一番マシな短編。
第3話「或るごくつぶしの死」は、浪人生の「俺」が、偶然再会した小中の同級生で「頭の巧い女ではなかった」小海を性処理道具として扱うようになり、妊娠させた上に、だらだらと堕胎の時期を引き延ばしているうちに出産させてしまう物語。小梅がろくに子どもの面倒を見ないことを知りながら、やっと合格した大学でのキャンパスライフを楽しむのに忙しく、見て見ぬふりをしていた「俺」は、ある日、小梅の部屋でミイラ化した子どもを発見する。
いかにも現代にありそうな救いようのない話。
第4話「或る愛情の死」は、家族で車で外出した時に交通事故にあった「私」が、生まれつき脊椎に障害があって自立歩行できず、さらに小児癌を発症して死期が近いと医者に言われていた長男よりも健常者の次男を先に救助し、長男が焼死したことで、崩壊していく家庭を描いた物語。次男は長男の幽霊に怯え、妻は「私」と次男に呪いの言葉を吐き続ける日々が続く。そんなある日、自宅を訪ねてきた刑事は、夫婦に衝撃的な事実を告げる。長男の余命が僅かと診断した医師には精神的な異常があり、長男は小児癌になどかかっておらず、歩行できないという障害も治る見込みがあったというのである。ショックで家を飛び出した妻は、1か月後、長男の焼死体を思わせる異様な姿で帰宅し、生ける屍となった妻を「私」はただ見守ることにするのであった。
純文学にもできそうな素材を、このような奇異な料理の仕方で片付けてしまった本作は何となく残念。
第5話「或るろくでなしの死」は、中古屋を装いながらヤクの売人と闇金で稼いでいる男を殺すところをサキという女児に目撃された殺し屋の物語。サキは殺し屋をヨミと名付け、殺人をバラされたくなかったらハムスターを買うよう脅迫してきた。ヨミは言われ通りに買い与えるが、サキは少し可愛がっただけですぐに殺してしまう。サキはハムスターの購入と殺害を繰り返し、ついにドーベルマンを購入するが、さすがにこれは殺すことができず、サキを救うためヨミが始末する。そんなある日、殺し屋のボス・パインとヨミの仲介をしているニューハーフのデデは、ヨミをサキのアパートへ連れて行き、サキが母親の首を絞め、結局母親の絞殺に失敗したサキを母親が殴る場面を見せられる。サキの母親は、自殺願望に加え、自分の娘の哀しそうな顔が見たいという異常嗜好があったのだ。そしてデデは、パインの指令としてこの母子を殺害することを伝える。ヨミは母親を殺害し、サキを引き取ろうとしていた変質者のカネコの部屋に侵入。心臓の停止したサキを発見したヨミは、襲ってきたカネコを返り討ちにする。ヨミは、デデに頼み込んで息を吹き返したサキを逃がし、脳を露出する手術を施したカネコを椅子に縛り付け林に放置し、虫や鳥獣に喰わせるという残酷な方法でカネコを殺害したのであった。
ハードボイルドの殺し屋のシリーズものとして成立しそうな作品だが、やはり内容が異常すぎ。特に最後のカネコの処刑方法は完全に常軌を逸している。こういう作品が大好きだという人間とは正直関わりたくない。
第6話「ある英雄の死」は、中学2年の夏に溺れたところを助けてくれた1年先輩のばふんを、彼が落ちぶれた今も慕い続け、いつも行動を共にしているサトルの物語。ある夜、ばふんに誘われるまま、猫を使って自慰をしようとしている工場経営者を覗いた後、頭のおかしい老婆の家に上がり込み、自家製の酒をご馳走になって死んだふりをして老婆をからかった2人は、帰り際に老婆の双子の息子の帰宅に出くわし、ばふんは両目をつぶされてしまう。その後、すっかり白髪になってぼろ屑のようなジジイになったばふんは、毎日のようにサトルの元を訪れ老婆の家に向かう。そこはすでに更地になっていたが、ばふんは奴らがいかに自分に酷いことをしたかを思い知らせるために、何時間も気の済むまでそこに立ち尽くすのであった。
筆者によると、この物語には26もバージョンがあるとのこと。その中から厳選したのがこれらしいが、厳選してこれなのか?英雄が落ちぶれて無残な姿をさらすという骨格はともかく、工場主の話や双子の話には何も意味を感じない。
第7話「或るからっぽの死」は、自分に関心のない人間が見えないという特殊な体質を持つ「俺」の物語。子どもの頃にラーメン屋を経営していた父は自殺、高校卒業の頃に母親も家出をされた「俺」は、カメラ屋でのバイトで生計を立てていた。彼は、参加した撮影会で見かけたドライブインの店員の女が、他の人間と違い、透けることなく自分に見えることに興味を持つ。自分を死にたい子だからシニコだと名乗った女は、自分を嫌ってくれる人間が好きだという。彼女は、どうせ死ぬなら保険金を掛けて死んでくれるよう父親に頼まれ、経営難のドライブインを救うために自分を殺してくれるよう「俺」に」頼むが、「俺」に断わられた裸のシニコは、「俺」から全く見えなくなり車の行き交う夜の路地に飛び出し自殺を図る。透明になった瀕死のシニコを何とか見つけた「俺」は、彼女の首を絞めることによって彼女が再び見えるようになり、感謝して死んでいくシニコを「俺」はライカで撮り続けた。ドライブインで、人でなしのシニコの父親の目をスプーンでえぐった後、「俺」は自殺を決意する。彼にはもう鏡に映っているはずの自分の姿が見えなかった。
この話も、「自分に関心のある人間しか見えない」、「最後には自分自身すらも見えなくなる」という設定や展開は面白いのだが、他の作品同様に仕立て方がえぐすぎ。
結局のところ、「普通」に飽きた、変態・グロ好きな方だけにオススメできる作品ということで。
『絶叫』(葉真中顕/光文社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2015年版(2014年作品)11位作品。いきなりだが断言できる。「このミス」2015年版の真の1位作品は本作であると。「このミス」2015年版のエントリーされたミステリ作品は、2013年11月から2014年10月に刊行されたもの。本書が発売されたのはエントリー期限ギリギリの2014年10月16日(奥付では10月20日)であり、11位にランキングされただけでも大健闘と言えよう。著者の作品で読んだことのあるのは、「このミス」2014年版10位の『ロスト・ケア』のみで、それにも★★★という高評価をさせていただいたが、本作は明らかにそれを上回る出来映え。とにかく筆者の真面目で几帳面な性格がうかがえる緻密に組み立てられたプロットが素晴らしい。
物語は、NPO法人「カインド・ネット」の代表理事・神代武(こうじろたけし)殺害事件の新聞記事の引用と、マンションの一室で孤独死し多数の猫と共に白骨化した中年女性の遺体が発見されるエピローグから始まる。つかみのインパクトは十分。結婚生活に失敗し夫と娘を捨てた女刑事の奥貫綾乃は、残された通帳から遺体は鈴木陽子という名前であることを知る。
そして始まる第1部からは、なぜか違和感のある「あなた」という2人称で陽子の過去が幼少時より少しずつ語られ、また並行して綾乃の捜査状況が述べられていく。優秀な弟・純にしか愛情を注がず、純が交通事故死したあとも自分に無関心な母を疎ましく思っていた陽子は、地元の短期大学を卒業後、憧れの東京への就職を諦めて地元の小さな部品メーカーに就職する。そんな時、陽子の父は借金を残して失踪、自宅が競売に掛けられることになると、母はあっさりと陽子を置いて伯父の家に去り、その頃から陽子には金魚の姿をした純の幽霊と会話を交わすようになる。陽子は
、偶然再会した中学時代の先輩・山崎と交際を始めた3か月後、漫画家としてメジャーデビューが決まった山崎にプロポーズされ、憧れの東京に住むことになる。
そして、現在の綾乃は、陽子について捜査を進めていくうちに彼女に不自然な複数の離婚歴があることを突き止める。
第2部では、浮気した山崎と離婚し、コールセンターで働くようになったもののその仕事に失望を感じた陽子が、栗原芳子という女性に勧誘されて生保レディに転職し、人生が大きく変わる様子が描かれる。イケメン上司の芳賀にいいようにコントロールされ
、がむしゃらに結果を出そうとする陽子は、苦労の末、一時的にはそれまで得たことのなかった高収入を得て贅沢ができるようになったが、
それにも限界が来る。業績を維持するため、また、伯父の家を追い出され生活保護に頼ろうとしていた母親に仕送りをするため、「枕」と「自爆」
という規則違反を繰り返し、陽子は解雇されてしまうのだ。
一方現在では、綾乃が陽子の母の住むアパートを見つけたものの母は行方不明で、そこで発見された陽子のへその緒から、DNA鑑定で白骨化した遺体が陽子であることを確認する。
第3部では、デリヘルに身を堕とし、暴力を振るう元ホストのレイジと同棲する36歳になった陽子が描かれる。ある日の明け方、仕事仲間の樹里と琉華と別れた後、デリヘル狩りにあった陽子は、加害者の神代にレイジを保険金をかけて殺害することを持ちかける。ホームレスを支援するNPOと言いながら、実はあくどい貧困ビジネスを行っていた神代はその話に乗り、レイジこと河瀬幹男を交通事故を装って殺害し保険金を手に入れ、次に河瀬殺害役をさせた元ホームレスの新垣清彦を陽子と偽装結婚させ、同様の手口で殺害。さらに、新垣殺害役の元ホームレスの沼尻太一も陽子と偽装結婚させた上に三たび殺害した。それでも陽子は満足できず、神代の支配から逃れ、神代が保管している多額の保険金を狙って、陽子は、沼尻殺害役の八木と共謀し、神代殺害計画を立てる。
現在の場面では、綾乃達の活躍によって一都二県連続不審死事件合同捜査本部が立ち上がり、その後NPO法人代表理事殺害事件との関連が明らかになって、警察はついに八木を逮捕。陽子が神代殺害の実行犯であることが判明するが、犯人の陽子はすでに死亡しているため、これで事件は幕を下ろそうとしていた。
しかし、ここで驚愕の事実が明らかになる。神代殺害の仕上げとして陽子が呼びつけたのが「私」=「樹里」だというのだ。ここまで、なぜ陽子が作中でずっと「あなた」という不自然な2人称で呼ばれているのかという謎がついに明かされたのだ。登場したのは一瞬だけの樹里が実は真の主人公だったのかと、驚きと同時にちょっとした失望を感じる読者に、筆者はさらなる衝撃を与える。樹里は陽子にあっさりと殺害され、陽子の身代わりとされるのだ。つまり、物語当初に発見された白骨死体は樹里であり、陽子は、DNA鑑定を欺くため樹里が持ち歩いていたへその緒を陽子の母親宅に置き、DNA鑑定される可能性のある母親を殺害してその遺体を処分していたのである。「あなた」とは過去の陽子であり、「私」とは、樹里こと「橘すみれ」として生まれ変わった現在の陽子を指していたのだ。
読者への衝撃は実はもう1回ある。第3部の最後から2ページ目、「他人だったんだよ」という文章が読者の目に飛び込んでくるのだ。「せっかくの完全犯罪が最後の最後で瓦解?」「ここまでの盛り上がりがいきなりぶち壊し?」と思わせるが、実は陽子の父の免許書を持ったホームレスが少年に襲撃され殺害されるという事件が発生し、ホームレスの遺体のDNAと陽子の遺体のDNAと比較する鑑定が行われたが、当然親子関係の可能性はゼロとの結果が出たという話である。綾乃は疑念を持つものの、樹里の遺体を陽子の遺体だと思い込んでいる警察は、陽子の父の免許をこのホームレスがたまたま拾っただけだと判断してしまい、陽子はついに完全な自由を手に入れるという結末である。陽子は完全犯罪を成し遂げ、多くの犠牲と引き替えに、大金と共に真の自由を手に入れたのだ。
「陽子と樹里の、へその尾に添えられた母親の文章が全く同じなのはなぜ?」とか、「陽子の父のDNA鑑定がおかしい時点で警察はもっと疑念を持つべきでは?」などといった些細な疑問や不満が全くないわけではないが、孤独死をはじめとして、貧困ビジネスの悪質さ、コールセンターや生保レディの過酷な現実、連続保険金殺人に、ホームレス狩りといった現代の社会問題を的確に切り取った素材を貪欲に詰め込み、世相を見事に反映させた本作はどんな賞をとってもおかしくない傑作だと思う。
『照柿(上/下)』(村薫/講談社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」1995年版(1994年作品)3位作品。合田雄一郎シリーズ第2弾。村薫作品を読むのはこれで5作目だが、最初に読んで大きな感銘を受けた合田雄一郎シリーズ第1弾『マークスの山』(94年版1位)以外の『黄金を抱いて翔べ』(92年版9位)、合田雄一郎シリーズ第3弾『レディ・ジョーカー』(1999年版1位)、『冷血』(2014年版15位)の3作は、正直微妙だった。本作も濃密な人間模様の描き込みは確かに「すごい」と言えるが、最初から最後までひたすら汗臭く、救いようのない男の狂気がふくらんでいく本作には、とにかく辟易するばかりでついていけない。なぜ登場人物の誰もがこんなに不器用で不幸なのだろうか。まずそこから違和感を感じる。そういう小説だからと言ってしまえば身もフタもないのだが…。主人公の雄一郎の方から見てみると、本作に限らないが、ミステリ小説に登場する刑事は、皆ほぼ例外なく家庭を壊した過去があるか、壊そうとしているかであり、良くても偽りの幸福な家族を演じているかであろう。彼は見事に前者の例にあてはまる。まあ、それは定番パターンとして受け入れるとしても、雄一郎が博打にはまっている様子について、違法と知りつつ捜査のためやむなく手を出しているのか、その魅力に少なからず引き込まれつつあったのかが、今一つ分かりにくい。当然前者と思い読み進めていたが、周囲の反応からは後者のような感じもうかがえるからだ。ここはもう少しはっきりしてほしかったところ。さらに何より理解できないのは、雄一郎が物語冒頭で美保子に一目惚れする理由。しかも、一目惚れしたことが読者に分かりにくいため、さらに始末が悪い。下巻で彼自身の自己分析が明らかになるまで本人にすら理解できていない節がある。男と女の話に理屈は不要とか言われても、出会いの場面の映像がない状態で、文面のみからそれを読み取れと言うのは無理があるのではないか。美保子はそんなに魅力的な女性に描かれていただろうか。雄一郎のリアクションからその心理が十分に汲み取れるような描かれ方がされていただろうか。不正な手段を用いて達夫の上司を脅して達夫を転勤させようとまでしている姿には相当な違和感を感じるし、それが中途半端に終わっている点も不満。また、自業自得の面もあるとは言え、どんどん狂気をふくらませていくもう1人の主人公とも言うべき達夫については、さらに理解不能だ。達夫が雄一郎を美保子の過去の男だと思い込む理由も理解できないし、筆者が美保子にそれを認めるような発言をさせるものだから、ますます読者は混乱する。雄一郎が美保子との交際期間を聞いただけで、雄一郎に殴りかかる達夫の心理はすでに意味不明で、いくら寝不足と数多くのトラブルで精神が壊れかけていたとはいえ、いきなり笹井を殴り殺す達夫の心理に至っては全く理解不能。あと、工場のシーンは長すぎ。そこまで細かく描き込む必要はあったのか。達夫が精神的に追い込まれていく様子をリアルに描くために必要と言うのかもしれないが、読者は熱処理の仕組みなど別に知りたくはないし、それはリアリティの追求とは別の話だろう。確かに読み応えはあるが、この上下巻を読み切るには相当なエネルギーが必要なので、読もうと思われる方はそれなりの覚悟をして読んでもらいたい。
警視庁の刑事・合田雄一郎は、一人暮らしのホステスが自室で殺害され、80万円の現金が奪われた事件を追っていた。この事件では、土井と堀田という2人の男が容疑者として挙がっていた。雄一郎の同僚の森は、被害者の爪から発見された塩の結晶に注目し、そこから事件の2日前に姿を消していた建設会社作業員で博打打ちの土井が捜査線上に浮上。雄一郎も彼が本命と睨んでいたが、別の侵入盗で逮捕されていた元暴力団員の堀田が犯行を自白し、警察上層部からは堀田の線で早く決着を付けるようにと現場に指示が出ていた。堀田がホステスの首を絞めたのは間違いなかったが、それが直接の死因となったのかどうかが遺体から判断できなかったため、どうしても土井の自供が必要と考えた雄一郎は、免職を覚悟で賭場に通い詰めて情報を集め、ついに大阪で別件逮捕された土井に接触することになる。
雄一郎は、その前日に、偶然、女の電車への飛び込みを目撃していた。事故直前に女ともみ合っていた佐野敏明と共に、雄一郎は2人を追う佐野の妻・美保子も目撃していた。この時は知られていなかったが、実は彼女は敏明の浮気を知りナイフを持って夫とその愛人を追いかけていたのだった。雄一郎に声を掛けられた美保子は、後で警察に出頭すると言って住所氏名を雄一郎の手帳に記し、雄一郎から彼の連絡先を受け取って姿を消した。そして雄一郎は、後に逮捕される敏明の存在は所轄に知らせたが、なぜか美保子の存在は報告しなかった。
現場近くでは、美保子の目撃者がもう1人いた。彼女と過去に交際していた野田達夫である。大工場の熱処理部門に勤める達夫は、10代の頃の乱れた生活からは想像できないくらい、その劣悪な環境で17年間真面目に働き続けていたが、古くなった機械の不調、現場を理解しない上司、規則を守らない部下達等、多くの頭痛の種を抱え込み苦しんでいた。そして、追い打ちを掛けるように縁を切っていた実家の父親の訃報が飛び込んでくる。そして、飛び込み事故の件で美保子が警察に出頭していることを知り、仕事の後、彼女を引き取りに行き、妻で中学教師の律子も知らないアパートに彼女をかくまう。翌朝、父親の通夜に参列するため大阪に向かう前に自宅からアパートに向かった達夫は、美保子を大阪に連れて行くことを思いついて彼女を誘うが、東京駅で彼女を待っていた達夫の前に現れたのは、大阪へ土井の取り調べに向かう雄一郎だった。2人は大阪で幼なじみだったのである。偶然の再会で、2人は僅かな会話を交わした後、雄一郎は通夜に参列することを約束してその場を去り、そこへ美保子が大阪行きを断りにやってくる。その場面を雄一郎に見られていたことに気が付いた達夫は不快な気持ちを抱いて大阪に向かう。通夜で親戚ともめた達夫は雄一郎と呑みに行くが、雄一郎から美保子との交際期間を尋ねられ、雄一郎が美保子の過去の男の1人ではないかと疑った達夫は激高。路上で警察沙汰になるほどの暴行を働くが、雄一郎は酔いつぶれた達夫を宿に押し込むと去って行った。雄一郎は、結局、土井から有力な自供を得られず、やむなく暴力団組長の秦野に取引を持ちかけ、土井への脅迫を依頼する。葬儀に寝坊し、さらに立場を悪くしながら東京に戻った達夫は、隠れ家のアパートで美保子に雄一郎との関係を問い詰め、関係を認めた彼女を激しく抱くのであった。ここまでが上巻のあらすじ。
雄一郎は、たった一度しか話したことのない美保子に恋心を抱いたことを自覚し、達夫を不正な手段を用いて転勤させようと企て始める。一方、葬式のために自宅を出て3日目の達夫は美保子と銀座へ出かけていた。その途中で、ふと思いついて父親の絵を預かっている画廊を初めて訪れた達夫であったが、主人の笹井は、店が改装中のためすぐには絵を返却できないと言う。深夜に帰宅した達夫は、妻の律子に浮気を知られて追い出され、やむなく工場に向かい、人手不足のためそのまま職場で徹夜することになるが、最終的に68時間に及ぶ不眠が始まっていたことに、この時の彼は知るよしもなかった。その頃、雄一郎は、暴力団組長の秦野に博打でいいようにカモにされ350万円を失うが、代わりに土井の借金の取り立てを引き受けてもらうことに成功する。暴力団に厳しい追い込みをかけられるよりも、ホステス殺害について自首する道を選ばせることが目的で、ついに土井は自首するが、80万円の盗みについては自供したものの、肝心なホステス殺害についての供述がなかなか得られない。
達夫の工場の方では、機械の不調で火事が出るは、大量の不良品は出るは、上から無茶な見学路設置の要請は出るは、QCで若い研究員が気の利かない難解な話をやめないは、それに若い工員がキレるはで、達夫はどんどん追い詰められていく。さらに老工員の源太がガス壊疽で死亡し、上司から責められた達夫は、通夜のため自宅に礼服を取りに帰った自分を無下に扱う息子にも絶望する。達夫は、加速度的に壊れながら銀座へ向かい、衝動的に画廊の笹井を殴り殺してしまう。
土井がホステスに触れたことは明らかになったものの、土井がとどめを刺すまでもなくその時点でホステスが死亡していたとほぼ断定され、この事件は収束しようとしていたが、笹井の遺体が発見されたことで本庁は再び大騒ぎになる。達夫が美保子に大阪に来るよう電報を打っていたことから、警察は2人がグルであり、待ち合わせ場所の大阪駅で2人一緒に身柄を確保できると考えていたが、達夫は一緒に逃げることを拒絶した美保子に重傷を追わせて逃亡。警察は、達夫が雄一郎に電話をしてきたところを逆探知で何とか居場所を突き止め逮捕した。雄一郎は、責任の一端を感じ、異動届を出し受理されたのであった。
2015年8月読了作品の感想
『リヴィエラを撃て(上/下)』(村薫/新潮社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」1993年版(1992年作品)5位作品。前回あれほど村薫作品の上下巻を読破するのに苦労したのに、なぜか続けて読むことになった。しかし、感想は案の定同じ。苦労して読破した割には満足感は今一つ。
超大作であることは分かるが、それと楽しめる作品かどうかというのは別問題ということ。まず主人公
だが、冒頭で死ぬことが確定しており、下巻の途中で意外にも早くあっさり舞台から退場するジャック・モーガンには、テロリストということもあって最後までほとんど感情移入できなかった。彼と行動を共にするCIAのケリー・マッカンの方が、余程人間的魅力を感じる。事件を追い続け最後に真相をつかむ日本人の手島修三
こそ主人公という捉え方も可能だが、物語の最初と最後に存在感があるだけで、
そこまでの強い印象はない。テロリストの忘れ形見である子どもを引き取って養子にし、わざわざテロリストの本場に移住して育てようとする発想も理解不能。何より肝心のリヴィエラに拍子抜け。どんなに凄腕のスパイなのかと思いきや、結局は重要書類を1回運んだだけのただの日本人のおっさんで、スパイでも何でもない。リヴィエラが起こしたと言われていたいくつかの暗殺事件は、それぞれ別の組織が起こしたものであり、そのような大物スパイは残念ながら最後まで登場しない。本作一番の黒幕と言えるギリアムも、ちょこちょこ登場したと思ったらあっけない最期を遂げる。最後の最後まで分からないノーマン・シンクレアを殺害した人物は誰かという謎についても、最後の最後に登場する新キャラという通常のミステリーだったら絶対に許されないオチ。多くの犠牲を生んだ元凶である中国政府の重要書類の内容というのも、政治犯の逮捕者リストだったという、それほど衝撃的ではないもの。本作では、形の見えない国益と、各国関係者を行き交う金の流れのせいで、多くの人が次々と命を奪われていくところに人間の愚かさが描かれているのだといえばそうなのかもしれないが、本当に無駄死にしすぎ。彼らの人間模様に感動する前に馬鹿馬鹿しさを感じてしまう。政治と歴史に興味があり、ハリウッド映画的な派手さは不要だがそこそこ命のやりとりが描かれるスパイものが大好きだという読者には傑作にしか見えないのだろうが、自分のような凡人にはどうにも辛い作品である。
1992年冬、東京で女性から「リヴィエラに殺される」という110番通報があった直後、ジャック・モーガンと、その恋人のウー・リーアンが殺害され
る。ジャックは、アメリカ人かイギリス人と思われたが、アメリカ大使館からもイギリス大使館からも「該当者なし」の返事があり、後に彼は元IRAテロリスト
であることが判明する。彼のアパートを突き止めた警視庁外事一課の警視・手島修三は、その部屋で名ピアニストのノーマン・シンクレアのレコード盤を見つける。
1978年、アイルランドのアルスターで、IRAのテロリストだったジャックの父、イアン・パトリック・モーガンは、知人でもあったリーアンの遠縁にあたるウー・リャンという男を相手を知らずに殺害してしまう。危険を感じてアルスターを離れたイアンは、ジャックを伯父のオファーリーの家に預けたが、その斜め向かいのフラットに住んでいたのが、ピアニストを廃業した30代のノーマン・シンクレアであり、ジャックは彼と温かい交流を続けていた。ある日、そのシンクレアの元に、IRAの参謀本部長ゲイル・シーモアが訪ねてきて、イアンがパリでリヴィエラと呼ばれる東洋人に射殺されたらしいという報告をし、ジャックは、シンクレアがIRAの関係者であることを知る。当局にシンクレアとシーモアを売ったオファーリーは殺され、父の仇を取るべくIRAに入ったジャックはリヴィエラを追い始める。IRAで実績を積んできたジャックであったが、1989年に仲間の命を救うため失態をおかした上に組織を抜けることを希望したため、両脚を撃たれてIRAを永久追放処分となった。その彼を拾ったのがCIA職員の「伝書鳩」ことケリー・マッカンであった。ケリーは、1972年に中国からイギリスに亡命したウー・リャンが中国政府から重要な書類を持ち出しており、その資料がシンクレアを通して東京でリヴィエラに渡されたという話をし、その資料が誰の手によって消されたのかを知りたいという。父を殺した奴らの顔を見たいジャックは、利害が一致したケリーと組んで活動を始める。元IRAの活動家2名の暗殺というCIAの仕事を片付けたジャックは、シンクレアが教会の日曜ミサでオルガンを弾くという情報を得て、リヴィエラの正体を教えてもらうという8年前にシンクレアとした約束を果たすため会いに行くが、自分を知るMI5の男を偶発的に殺してしまい、ケリーもシンクレアの命を狙う中国人の工作員を殺してしまうという騒ぎを起こす。CIAは、仕事を果たしたジャックにアメリカへの旅券と金を渡す約束だったが、その騒ぎのせいでその約束の行使を渋り始める。シンクレアは、自分が何事に関わってしまったのかを知るために、リヴィエラをおびきよせるためのパーティをパートナーのダーラム侯と共に開くが、リヴィエラは現れず、ダーラム侯の妻であり中国の
情報員であるレディ・アンに真意を追及される。シンクレアはレディ・アンの口からリヴィエラの正体を話すよう迫るが彼女の口は堅く、結局ダーラム侯が、リヴィエラの正体が田中壮一郎という日本大使館参事官であることを明かす。CIAとMI6は、秘密を知ったジャックとケリーの抹殺を決め、まずはケリーの恋人でCIAの同僚・サラが殺される。ジャックは東京にいるリヴィエラに一緒に会いに行こうとケリーを誘うが、ケリーにはもうそれが不可能なことが分かっていた。ケリーは、ジャックの命を救うためMI5にジャックを逮捕してもらうことを考え、MI5のM・Gに彼の現れる場所を伝えるがM・Gは彼を逃がし、追い詰められたケリーは駅で列車に飛び込み死亡する。
1992年2月、手島の元に、MI6のギリアムから3月のウィーン・フィル公演で急遽シンクレアが演奏することが決まったこと、その公演のチケットをリヴィエラが入手していることを知らせる暗号の手紙が届く。その後、その件に関して霞ヶ関の関心も関与も最大級のものであることを知った手島は唖然とする。手島はその公演チケットを入手し、公演当日、演奏後にリヴィエラに1本のバラを渡し身を翻して消えるシンクレアと、座席にへたり込み私服刑事に抱えられて去るリヴィエラの姿を目撃した。その身に何が起こるか分からないシンクレアとダーラム侯を宿泊先まで護衛することになった手島とMI5のキム・バーキンは、ダーラム侯から、シンクレアがリヴィエラに「イアン・パトリック・モーガンの息子ジャック・モーガンに代わって、あなたの顔を見に来た。地獄へ行け」と言ったこと、ギリアムこそがMI6の長官であり不正の大木であること、その彼がシンクレアとダーラム侯に自殺を迫っていることを伝える。そして、キムは手島にリヴィエラにまつわる事件の真相を語り始める。ウー・リャンが亡命時に持ち出した書類は政治犯の逮捕者リストであり、そのリストを公にすることによって起こるであろう予測のできない事態は避けた方が良いと判断し「なかったことにする」という結論を出したアメリカと日本政府は、その書類の中国への返却を決定したのだが、それをイギリス政府に認めさせたのが20年間中国のスパイであり続けたギリアムであったというのだ。ギリアムの秘密を知っているというシンクレアは、この手でギリアムを地獄へ連れて行くと宣言し、ダーラム侯と共に帰国する。
1992年3月、イギリスに渡った手島は、キムと共に、ダーラム侯達が閉じ込められているというスリントン・ハウスに乗り込むが、ギリアムが去った後の屋敷では、ダーラム侯のピストル自殺した遺体が発見され、シンクレアは行方不明となっていた。手島とキム、彼らに協力するスコットランド・ヤードのモナガンの必死の捜索も空しく、結局シンクレアとギリアムは遺体で発見される。ギリアムはシンクレアに撃たれたと考えられたが、シンクレアを撃った者は不明で、その人物を追い始めたキムは射殺され、手島も爆弾の爆発に巻き込まれる。一命を取り留めた手島は、リヴィエラこと田中と彼の勤める大学の教室で接触することに成功するが、田中は、ウー・リャン暗殺にもイアンの暗殺にも関わっておらず、東京で回収した書類をワシントンに運んだだけであることを告げ、リヴィエラを巡る話がこれまで多くの犠牲者を生んできたのは、中国からのリベートがアメリカやイギリスの関係者に流れており、この金の話も洩らすまいという攻防が原因であることを手島は知る。そして、シンクレアを殺害した人物が、ギリアムと対立していたアーノルド・バーキン、キムの父親であったことも。田中と別れた手島は何者かに拉致され拷問を受けた挙げ句に路傍に捨てられた。
1995年、手島はジャックの子どもに、同じジャックという名前を付けて養子にし、アルスターで暮らしていた。ジャックが両親の故郷でテロリズムよりももっと勇気のある道を選ぶように…。
2015年9月読了作品の感想
『火花』(又吉直樹/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
珍しく流行り物に飛びついてしまった。お笑い芸人がデビュー作で芥川賞を受賞したということで話題を呼んだ「火花」である。ミステリ小説ではないが、大衆小説であることに変わりはない。この数年、結構なペースで多くのミステリ小説を読破してきたが、8月に読んだのはわずか1作品(上下本だったので2冊)。なんとなく「超時空要塞マクロス」が懐かしくなり、旧作から最近の作品までシリーズを片っ端からDVDやブルーレイで購入し、子どもと一緒に見まくった挙げ句、7月半ばにデアゴスティーニ刊の「週刊マクロスクロニクル新訂版」全81巻を大人買いして毎晩のように読みふけっていたのが一番の要因だが、正直ミステリ小説を読むのに疲れてしまったというのも否定しがたい理由の1つだ。ここ2作連続で村薫の大作を苦労して読み切ったせいもあるが、どんなに出来の良い作品でも、読んでいて疲れる作品があまりに多い。いや、作品のせいではなく、自分はミステリ好きだと思っていたが、実は苦手だったのかもしれないとまで思えてきた。確かに少々意地になって読みあさっていたことは間違いないのだが、今回「火花」を読んでいて読書の楽しさをちょっと思い出せたのは収穫だった。読書中、何の苦痛を感じることもなく、続きを読むのが普通に楽しみだった。しばらく、ミステリ小説から離れてみるのもいいかもしれない。
内容はと言うと、作者自身をモデルとしたのであろう、なかなか売れないコンビ芸人「スパークス」の徳永が、尊敬する先輩お笑いコンビ「あほんだら」の神谷に突然弟子入りし、交流を深めていくという物語である。弟子入りと言っても、2人はそれぞれの別のコンビで仕事を続け、時間ができると2人で呑みに行くという関係である。とにかく徳永に優しい神谷との交流の中で、徳永は癒されつつも、神谷の圧倒的なお笑いの才能に恐怖を感じている。この人には絶対に追いつけないという焦りと言ってもよい。確かに神谷の言動からは、常人が考えつかないようなお笑いに対する異常にストイックな理想が伝わってきて、徳永でなくとも感心させられることが多いのだが、なぜか神谷は一向に売れない。そして、いつの間にか徳永の方が売れ始める。しかし、徳永本人が早くから自覚していたように、一時的なブームが去ると徳永も再び売れなくなり、芸能界引退を決意する。感動的な引退ライブの後、不動産屋に勤めるようになった徳永。全く売れないまま借金がかさんで失踪していた神谷は、やがて豊胸手術をして徳永の前に現れる。ただテレビに出たいがためにそのような方法をとった神谷に説教する徳永であったが、結局神谷を突き放すことはできず温泉旅行に誘い、それを素直に喜ぶ神谷であった…という結末。
大爆笑できるような部分はないが、常に漫才をしているような2人の関西弁全開の会話は実に心地よく面白い。考えていることはたくさんあるのに、不器用で自分を表現しきれないジレンマに苦しむ徳永にも感情移入しやすい読者は多かろう。神谷を支える2人の女性も魅力的である。最後までそれなりに楽しく読めたのだが、やはり新人らしい荒さも感じる。2人がこれだけのお笑いに対する情熱や理論を持っていても簡単に売れるわけではないというのは、実際に現実がそうなのだろうが、神谷に全く売れる兆しがない中で、徳永が少しずつ売れていくという展開に今一つ不自然さを感じる。そういう
後輩が先輩を追い抜いていくという展開は小説としては面白いが、なぜ徳永が売れていくのか、その説得力が物語の流れの中で感じられない。彼が真摯な態度でお笑いと向き合って、それなりの努力をしていることについては作中で多少描かれてはいるが、相方にはそれほどの情熱はなさそうで、これといったエピソードが描かれているわけでもなく、何がきっかけでこのコンビが売れ出したのかが全く読者に分からずスッキリしない。もやもやしたままで売れ始めた様子が描かれたと思ったら、あっという間に落ち目になって引退ライブ。ここが一応この作品のクライマックスになるのかなという感じなのだが、それまで出番の少なかった徳永の相方が目立って、肝心の神谷は脇に追いやられてしまっている。よって、ここまでの物語の過程からすると、作者の「泣かせてやろう」という策に乗って素直に感動することが難しい。そして、ここで物語に幕を下ろしてしまえばいいものを、だらだらと話を引っぱってしまったことがこの作品の一番の問題点かもしれない。あれほどの見識と理想を持っていた神谷が、終盤になって、売れたいがために徳永のファッションの真似をし始めるところにも違和感を感じたが、性同一性障害
といった性に問題を抱えた人間でもないのに安易に豊胸手術をして徳永の前に現れるという展開には違和感以上のものを感じて呆れた。ずば抜けたお笑いのセンスの持ち主であっても
、お金にだらしなく借金を重ねてしまうという短所を持っているという神谷の設定は、それなりにバランスが取れていて良いと思うが、ラストの彼はあまりに愚か者過ぎる。こんな馬鹿げたことを実行する人間ではなかったはずだ。しかもクライマックスを過ぎて、もうエピローグ
段階に入っているという場面での爆弾投下である。すでに芸人をやめてしまっている徳永が全力で説教をしている姿にもやはり白けてしまう。理想と現実のギャップで壊れてしまった神谷を描きたかったのかもしれないが、酒や薬や女に溺れることもなく、真顔でそのような行為に走る神谷を「壊れた」とは呼べず、ただただ痛々しい。旅先で素人参加型の「熱海お笑い大会」に出場しようと神谷が言い始めたところで物語が終わるが、ここで神谷と徳永がコンビを組んで誰も見たことのないような斬新な漫才を見せるというクライマックスを用意した方が、まだ物語として分かりやすい。それではベタ過ぎるのかもしれないが、本作のこの結末には蛇足感
しか感じない。さんざん好き勝手に書いたが、個人的には好印象の作品だった。次回作で真価が問われると思うので期待したい。
『スクラップ・アンド・ビルド』(羽田圭介/文藝春秋)【ネタバレ注意】★
前回の『火花』と同時に第153回芥川賞を受賞した作品である。『火花』を読むまでは(いや、読んだ後でも)、『火花』の受賞は一般人離れの進んだ文壇を盛り上げようというあくまでも話題作りであり、本作こそ審査員の本命なのだろうと思っていたのだが、読後の正直な感想は「これが芥川賞?」であった。
主人公は自己都合でカーディーラーを退職したばかりの28歳の青年で、行政書士資格を取るための勉強と中途採用の就職活動と筋トレに励んでいる健斗。ごく普通の若者らしく彼女とのデートにも余念がない。母子家庭であったが、認知症まではいかないまでも、ある程度の介護が必要な母方の祖父と暮らすことになり、祖父に厳しく当たる母よりも一緒に過ごすことの多い健斗は、早く死にたいと愚痴ばかりこぼす祖父に対し、積極的な介護をすることにより、祖父の能力を衰えさせ死を早めさせようという地味な努力を続けているという物語である。健斗が予定より早く外出から帰宅してみたら祖父が普段からは想像できないほど家の中を自由に動き回って好きなものを食べていることが分かり介護の必要性に疑問を感じる場面、健斗が目を離した間に自宅の浴槽で溺れた祖父から叱責されるかと思いきや感謝され祖父の生への執着に気付く場面あたりに、ちょっとした盛り上がりがあるだけで、あとは淡々と物語は進んでいき、最後は再就職先が決まって祖父から激励の言葉をかけられて不意を突かれる健斗の姿が描かれて物語はあっけなく幕を閉じる。「え、もう終わり?」という感じだった。
読後に内容を振り返ると、まず、健斗の内面が今一つ理解できない。最初に気になったのは、5年間勤めたカーディーラーを退職し、またすぐに次の仕事を探している理由。カーディーラーでトラブル処理に追われ、女性問題もあったことが冒頭で触れられているが、それはどちらかというと人生経験として肯定的に捉えているように書かれており、それが退職理由だとは記されていない。仕事を辞めるというのは余程のことなので、そこは主人公の現在における内面を明らかにするためにも、物語序盤でいくつかのエピソードを交えてある程度詳しく語るべきところなのではなかろうか。健斗の筋トレの描写もやたらと多いが、死に近づいていくだけの祖父と若さ溢れる自分の違いを再確認し、自分の励みとするための健斗独特の行為なのだろうか。そのあたりも、ある程度語られてはいるが、今一つ説得力がない。若い老人介護者全てが筋トレに励んでいるわけではなかろう。そして、最も重要な健斗の祖父に対する心情が今一つ中途半端で分かりにくい。わがままで愚痴ばかりの(しかし読者が不快に感じるほどではない)祖父をうとましく思いつつも憎みきれず、せめて祖父が望む早い安らかな死を、少しでも早く与えてあげようという程度の思いやりは持っているという感じだろうか(それが思いやりと呼べるかどうかは別として)。積極的に死に向かわせるような行為に及べば殺人罪にとわれてしまうので、介護に懸命に取り組むことで祖父のやるべき仕事を奪い祖父の能力を早く衰えさせようという実に地味な努力を健斗は続けているのだが、老人介護に苦しんでいる人々には、健斗の考えの一部に共感はしても、その全てには共感できないだろう。何よりも介護という行為自体が苦痛な人々にとって、いつまで続くか分からない介護に全力で取り組もうとする健斗の逆説的な行為は、簡単には理解しがたいものがある。そのようなもやもやを抱えながら、ただひたすら淡々と進む物語を読んでいくうちに、健斗の再就職による引っ越しによって、唐突に健斗と祖父との交流は終わりを告げる。
これを書いていて、実は祖父は周囲に甘えているだけで自由に動き回れることや、祖父が健斗に語った特攻隊の生き残りという話が嘘っぽいと発覚したことなどを、健斗が祖父に全く追及しないことで、作者があえてクライマックス的な場面を作らずに全体を抑え気味にすることにより、チープな小説に堕さないようにしているのではないかという気がしてきたのだが、やはり小説にはそれなりの山場があるべきだと考える自分にとっては、実際にそういう作為があったとしても受け入れがたい。確かに老人介護について考えさせられる話ではあるが、それならば「このミス」2014年版(2013年作品)10位作品の『ロスト・ケア』(葉真中顕/光文社)の方が、はるかに訴える力は強い。
『ワイルド・ソウル(上/下)』(垣根涼介/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2004年版(2003年作品)10位作品。ミステリを離れて最新の芥川賞受賞作を2作続けて読み、2冊目には少々失望もしたもののミステリ以外の本も悪くないと思い始めてはいたのだが、それらの読了前に本書を借りてしまっていたので、とりあえず読まねばとあまり気が進まずに読み始めた。裏表紙のあらすじを見ると明らかにミステリではなく自分のあまり得意としない海外舞台の作品
で、かつ冒険もの、しかも読了するのにものすごくエネルギーのいる上下巻もので、「このミス」順位は微妙な10位ときている。我ながら気が進まないのも当然であり、憂鬱といってもよい。しかし、その不安は、読み始めてすぐに吹き飛ぶことになる。面白いのだ、これが。ものすごく。
戦後日本政府に騙されて未開のアマゾンへ移住し地獄を見た第1世代と第2世代の移民の男達が、日本に帰国し復讐を果たそうとする物語である。戦前のブラジルへの移民が奴隷扱いを受けて苦労したという話は聞いたことがあったが、戦後に再開された
ブラジルへの移民には成功者が多いというイメージがあった。しかし、本書はフィクションとはいえ、そういう事実に基づいた作品であることを知って考えを改めさせられ、主人公たちへの感情移入も十分にできた。移民達の悲惨な生活と、それを怨んでの復讐劇というと、ものすごく暗く陰湿なものを想像してしまうが、現代での登場人物達がユーモアたっぷりに実に生き生きと描かれており、最初から最後まで一気に読まされてしまう。大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞の三賞同時受賞という快挙にも納得の傑作だ。
「このミス」10位というのは、前述した作品の成り立ちに加え、少々マイナーな出版社から刊行されているという事情もあるのだろう。
1961年、衛藤は妻と弟を連れて移民船「サンパウロ丸」に乗り込み、希望に胸を膨らませてブラジルに渡った。その船に乗っていた700人ほどの移民は、アマゾン各地の入植地に散っていったが、割り振られた入植地に着いた衛藤にとって、それは地獄の日々の始まりであった。土地が開墾済みで、灌漑用水や家が完備されていて、とれた野菜が飛ぶように売れるという日本政府の説明は全てが大嘘であり、あるのは開墾しても全く農作地に向かない未開の暗い密林だけであった。衛藤を含む12家族50人ほどの入植者は、引き返すこともできず、自分たちで家を建て開墾を始めたが、マラリアやアメーバ赤痢に冒されて次々に死に、入植地から逃げ出す者も現れた。1年半足らずで、その地の入植者が4家族11人まで減った時、衛藤の妻と弟も病に倒れ命を落とす。絶望して死を選ぼうとした衛藤を引き留めたのは仲間の野口であった。野口に見送られ入植地を後にした衛藤は、職を転々としながらブラジル各地を放浪し、1969年、ついに生きる気力を失いかけていたところをレバノン人のハサンに救われる。ハサンにサンパウロ郊外の巨大青果市場セ・アーザでの仲買人見習いの仕事を紹介された衛藤は、ハサンの言ったとおり3年踏ん張った結果独立することができ、その後の1年で取引先を倍々ゲームで増やした。そして、妻と弟の遺骨を引き取るためにアマゾンに必ず戻るという野口との約束を果たすためアマゾンへ飛んだ衛藤であったが、そこで見たのは無人と化した入植地に残された野口の墓と、密林の中で野生化してしまった野口の息子・ケイこと啓一の姿であった。
第2章では現代の日本に舞台が移る。シェラ・ペラーダで衛藤と共に砂金を掘っていた山本は、アレックス・藤井という偽名パスポートで日本に帰国し、浮浪者から戸籍を買い取り田中伝三という名で生活していた。そして、彼が成田空港で出迎えたハロルド・石井という男こそ、衛藤が養父となって育てたケイであった。さらに彼らに加わるのは、ケイの入植地での幼なじみの松尾。松尾は入植地を両親と脱出後に両親を賊に殺され麻薬シンジケートのボスに拾われて、現在は組織の日本支部を任されるまでになっていた男だった。彼ら3人はパーキンソン病で動けなくなった衛藤と共に日本政府への復讐を企てていた。外務省が間借りしていたビルの屋上から時限装置で外務省の罪を暴く垂れ幕を垂らした上、機関銃で高速道路上からそのビルの人のいない全てのフロアの窓ガラスへ銃弾を撃ち込むという計画だ。ケイは、アナウンス部から報道制作局へ異動したものの行き詰まっていたNBSテレビの井上貴子を利用して自分たちの行動を世間に知らしめようとするが、ケイに本気になり始めていた貴子はケイの真意を知って激怒する。しかし、貴子はケイへの想いから警察にはケイのことは届けず、その事件のスクープレポートによって、彼女の社内での評判は急上昇する。
日本国民に政府の棄民政策の愚を訴えることに成功した3人であったが、彼らには次の計画があった。それは実際にその棄民政策に荷担した生き残りの3人、入植者達の訴えを黙殺しデータを改ざんしていたベレンの総領事、移民募集映像の偽造を行った映像会社社長、移民のお金の流用や着服を行っていた移民を扱う団体の社長を誘拐し、生還困難な青木ヶ原樹海の中央部に放置して、政府からの謝罪会見がない場合、彼らの居場所を教えないというものであった。山本が日本脱出直前にくも膜下出血で倒れ入院していたことが警察に知られることとなったことをきっかけに、警視庁一の変わり者の秋津管理官らによって人質の居場所が突き止められ救出されるが、貴子のインタビューによって首相から謝罪の言葉を引き出すことに成功したケイと松尾は満足する。病院で意識を取り戻した山本は飛び降り自殺をし、ケイは韓国経由で日本を脱出してブラジルへ戻る。ケイにブラジルへ誘われた松尾であったが、シンジケートを抜けることが困難であることを知っていた彼は日本での裏稼業を続けるしかないと諦めていた。しかし、ボスに内密に日本に機関銃を取り寄せ、大事件を起こした松尾にはボスから処分命令が出ていた。殺し屋と差し違えるつもりだった松尾は奇跡的に生還し、自由の身となる。
そして1年後、ケイにブラジルに呼び寄せられた貴子は、貴子にプロポーズするケイの股間を蹴り上げるのだった。
史実と現地取材に基づく過去の日本政府の犯罪の詳細な内容公開はもちろんだが、本作の一番の魅力は、やはり前述したように登場人物の魅力であろう。血のにじむような地獄の苦しみから成功を勝ち取る衛藤、残酷な最期を迎えるものの衛藤とケイを支えた衛藤の妻のエルレイン、衛藤の意志を受け継ぎつつ、天真爛漫で予測不能な行動で貴子を振り回すケイ(ここまで行動が予測不能なキャラは珍しい。今回一番のお気に入りキャラ)、仕事の行き詰まりに苦しみながらケイによって輝きを取り戻していく貴子、40年間自分の罪を心に抱えたまま仲間のために死んでいく山本、犯罪組織の掟に縛られながら両親の無念を晴らすため、仲間との計画を成功させるために邁進する松尾。お見事としかいいようがない。彼らの描かれ方が素晴らしすぎて、終盤に登場する面白そうなキャラである秋津管理官の描写の少なさが物足りなく思える。それ以外ほとんど突っ込みどころ
はないのだが、あえて言えば、樹海の大捜索のシーンで、毎年100名近い死体が発見される樹海で1体も発見されなかったのは不自然だったかなというくらい。遭難者や自殺者の遺体が発見されるたび捜索隊や捜査本部に緊張が走る、といったシーンがあっても良かったのではと思った。そんなことはほんの些細なことで、とにかく大満足の1冊であった。
是非ご一読を。
『後妻業』(黒川博行/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)15位作品。結局、またミステリ路線に完全に戻ってきてしまったが、前回の『ワイルド・ソウル』があまりに面白かったせいもあって本作の序盤ではかなりストレスのたまる読書となった。現実社会でも問題になっている「後妻業」。とんでもない悪女が結婚相談所
所長の柏木と組んで、資産のある孤独な老人をターゲットに資産目当てに結婚し、巧みに相手を殺害してその遺産を手に入れ、次々と相手を乗り換えて同じことを繰り返していくという
、実際にあった犯罪をモデルに描かれた物語なのだが、とにかく悪党コンビはひたすら不愉快なだけで、被害者の娘達はどうしようもなく凡人で、何のスッキリ感も得られない。
「後妻業というのはこういうあくどい手口の犯罪なんですよ」とただ紹介しているだけという感じ。途中からやっと元大阪府警のマル暴で現在は興信所の調査員を務める本多が登場して
、悪女の小夜子の過去を少しずつ明らかにして追い詰めていき、それなりに面白さが出てくるのだが、
結局本多の熱心な捜査は、正義感からでも何でもなく、ただ単に小夜子と柏木を脅迫して大金を得ることが目的であることが明らかになり、最終的に悪が滅びる爽快感を期待していた読者を失望させる。ラストは小夜子の弟のチンピラが暴走して小夜子を殺害してしまい、その小夜子の死体を捨てようとした柏木が偶然出くわした警官に逮捕されてしまったため、被害者の娘達は取り戻せそうだった遺留分の5000万円を取り戻せず、本多は脅迫した柏木から受け取るはずだった3000万円を受け取れず、何もかもがぐだぐだで物語は幕を下ろす。同時期に発表され最新の「このミス」に同時にランクイン(8位)した同じ作者による『破門』と同じ匂いのする作品だが、『破門』のような徹底したユーモアもなく人情味もなく、何もかもが中途半端。登場人物についても、主人公コンビが際立っていた『破門』と比べると、誰一人としてキャラが確立されておらず、特に本多が魅力ある主人公として描き切れていないのが残念。いい人ならいい人らしく、悪党なら悪党らしく、もっとはっきりしたキャラ作りをした方が良かったのではないか。被害者の娘の姉妹にも肩すかしを食らった。特に妹の方の朋美は建設設計事務所を経営しているという設定で、やたらとその方面の話が出てくるので、てっきり最後にはそういう建設設計の知識を活かした仕掛けで小夜子達に逆襲するのかと思いきや、全くそんな仕掛けは登場することなく、最後まで凡人のまま舞台から消える。とくかく色々と残念な作品で、『破門』との順位の差にも納得。
『アルモニカ・ディアボリカ』(皆川博子/早川書房)【ネタバレ注意】★
「このミス」2015年版(2014年作品)17位作品。「このミス」2012年版(2011年作品)3位作品『開かせていただき光栄です』の続編だが、正直その前作の記憶がほとんどなく、よくできてはいるもののあまり面白
くはなかったという印象しかない。冒頭の死体のすり替わりの場面と、途中から詩人の少年が登場したことくらいしか覚えていない。ミステリの続編には前作を知らなくてもある程度楽しめるものが多いように思うが、本作はそのあたりは微妙である。明らかに前作を読んでいて、かつきちんと内容を覚えている読者を対象にした作品のように思える。2作共に、盲目の治安判事ジョン・フィールディングと、外科医で解剖学の先駆者ダニエル・バートン、そしてその弟子達を中心にした物語なのだが、前作で十分に語られており本作では説明が必要ないと判断されたせいか記憶の薄れた自分には弟子達のキャラが今一つつかめず、物語のキーマンになる前作の事件が元で出奔中の弟子達についても、その事件の記憶がないので
その複雑な心情が十分に理解できなかった。
舞台は1775年のイギリス。今回は鉱山の縦穴で踏み車を使って採石を引き上げる仕事をしていた盲人とその相棒が「天使」を引き上げた事件が発端となる。「天使」に見えたものは実は両手を掲げて死後硬直した死体だった
ではと判事は考える。判事の元で犯罪的発情報新聞「ヒュー・アンド・クライ」を発行していたダニエルの元弟子アルバート・ウッド達の所へ、逓信大臣フランシス・ダッシュウッド卿の領地ウェスト・ウィカムの管理人ラルフ・ジャガーズが、その事件の情報を求める広告を出そうとやってきた。洞窟内に落下したであろう死体を発見したら、その遺体の胸には「ベツレヘムの子よ、よみがえれ!」「アルモニカ・ディアボリカ」といった謎の言葉が記されていたという。その頃、前作に登場していた詩人の少年ネイサン・カレンは、ケンタウロスの格好で見世物になっている男レイ・ブルースが、行方不明になっている恋人のアンドリュー・リドレイを探している宿屋の下女エスター・マレットに対し、彼はベツレヘムにいると占ったという話を聞く。判事はレイを呼んで話を聞くが、レイはベツレヘムという言葉はふと頭に浮かんだだけだと言う。そして彼と入れ替わりで判事と面会したエスターは、ウェスト・ウィカムという地名を聞き驚愕する。ウェスト・ウィカムこそ恋人のアンドリューが14年前に行方不明になった場所であったのだ。発見された死体が安置されているウェスト・ウィカムの教会に駆けつけたダニエルと弟子達は、死後あまりにも時間がたちすぎている死体の様子に疑念を持つ。そして同じ教会に安置されている腐敗しない聖女の遺体を見学しようとした一行が棺の中に見たものは、何と出奔中のダニエルの元弟子の1人、ナイジェル・ハートの遺体であった。さらに驚くべきことに、「天使」の正体はこのナイジェル・ハートであり、古い死体と同じ謎のフレーズが胸に記されていたことが明らかになる。なぜ、ナイジェルは殺されこの棺に入れられたのか?もう1体の古い死体は誰なのか?
判事は、ナイジェルと同様に出奔中で、一緒に暮らしていたと思われるダニエルの元弟子エドワード・ターナーが、ナイジェルと別れ、その後ナイジェルと一緒に暮らしていたと思われる、判事の助手アン・シャーリー・モアの助手デニス・アボットが、ナイジェルの死をエドワードだけに知らせようと、あのようなフレーズを残したのではないかと推理する(もうこのあたりから訳が分からない。人間関係は何となく理解できるにしても、なぜそのような推理が成立するのだ?)。
遡ること1759年、ガラス職人だったエスタ-の父マーティン・マレットの元に、ベンジャミン・フランクリン博士と弟子のテレンス・オーマンが現れ、フランシス・ダッシュウッド卿の資金によってグラス・ハープという楽器を作るようにという注文が入る。人並み外れた音感を持つマーティンの弟子のアンドリューは、兄弟子達の嫌がらせに負けることなく、1761年5月についにグラスハープを完成させ、それは博士によって「アルモニカ」と名付けられた。そのグラスハープは、ウェスト・ウィカムにあるダッシュウッド卿の領主館で演奏するのだという。そして、
怪しげな人々が集う洞窟内の館で」についに国王陛下の前での演奏が始まろうかという時、エスターの記憶は途切れるのである。落雷らしきもので大やけどを負ったエスターは慈善病院へ入院させられ、入院中に父は事故死し、家は借金のかたに処分され、アンドリューの行方は分からなかった。
ネイサンは、ベツレヘムはロンドンにあるベドラムと呼ばれている精神病院の正式名称であることに気が付き、アルバートは、行方不明だったエドワードに再会するが、その居場所をダニエル達には教えない約束をして別れる。…とここまでが第1章のあらすじ。
第2章に入るとすぐに判事がこれまでの捜査のポイントをまとめてくれているのがとりあえず親切。@我々の目的の第1はナイジェルの死の真相を突き止めること(天使事件の解明という最初の目的からずれていないか?)とエスターのためにアンドリューの消息を知ること、Aナイジェルはベドラムで生まれ育ち、彼の胸には2つのメッセージがあり、1つ目のメッセージ「ベツレヘムの…」はデニスからエドワードへの通信と見て間違いない(とにかくこの論理が理解できない)、B2つ目のメッセージ「アルモニカ…」はアンドリューが作った楽器の名前でダッシュウッド卿が洞窟内で演奏させた時に火災が発生したもので、その後アンドリューは行方不明になった、Cレイはエスターに恋人はエルサレムにいると言った、Dナイジェルの死はガラスの楽器とどのような関係があるのか…といった感じである。で、この後は、第3章も含めて、ベドラムでの過去のシーンと、現在の捜査のシーンが交互に描かれていくのだが、とにかく内容が煩雑で読んでいて疲れるばかり。
判事は、ドディントン家で侍女をしていたケイトが、ドディントンの妾のステラが正妻を殺害して後釜に収まったことを知り、それを伝え知ったケイトの恋人のベイカーがドディントンの策謀によってベドラムに入れられ、ベドラムでベイカーからドディントンの悪事を聞いたナイジェルがベドラムを出た後デニスを使って彼を脅迫したと推理し暗い気持ちになる。そしてさらに、洞窟事件の真相は、フランクリン博士が国王陛下に献上した電気鰻を国王陛下が悪戯心で会場に持ち込んだせいで火災が起きたものと推理するのだが、なんだそのチープな推理は?さらに、天使事件の真相は、デニスが不慮の死を遂げたためナイジェルがエドワードを呼ぼうとして起こしたもので、その作業中にナイジェルは墜死ししたため最初は天使の正体がナイジェルかと考えられたが彼は意識不明のまま数日後に死亡したと訂正。これも無理矢理すぎではないか。レイがケンタウロスの見世物になった真相も長々と語られるが特に感動はなく、極悪なベドラムの所長ラッターと電気を使った拷問器具を持つオーマンはすでに収容人達によって殺害されていたという部分はちょっと「おっ」と思わせてくれたが、宿屋の下男として働いていたビリーの正体が、オーマンを臭わせつつ実はアンドリューだったというのは話ができすぎではないか。
ラストは、ダッシュウッド卿を脅迫したエドワードの策によって、レイとケイト、アンドリューとエスターという2組のカップルをアメリカへ脱出させ、同じ船でエドワードと、ダニエルの元弟子のクラレンスが志願兵としてアメリカへ向かうのを、判事達が見送るというもの。
結局、縦穴の底で最初に見つかった死体は誰?誰でもよかったということか?デニスが先に死んだにしろナイジェルが先に死んだにしろ、なぜそのことをエドワードにそうまでして、しかもそんな馬鹿げた方法で知らせないといけなかったのか?こんなにたくさんの人物を登場させる必要があったのか?出し過ぎて1人1人の描き込みが中途半端になっていないか?(ケイトの印象はほぼないし、最後にエドワードと共に旅立つクラレンスも作中では全く存在感がなかった。)判事の推理に無理がありすぎなのではないか?などなど、読んでいて疑問や不満がとにかく多い。悪党のラッター、オーマンは死亡し、ダッシュウッド卿もちょっと困らせるシーンが最後にあるが、全くスッキリ感がないのも不満点の1つ。様々な悲劇を通して美しい感動的な物語にしようとしているのは何となく分かるが、悲劇はただ不愉快に感じられるだけで、個人的には美しさも感動も最後まで感じられなかった。Amazon等のレビューで絶賛されているのが全く理解できない。単に好みの問題なのだろうか。85歳という高齢でこのような濃密な作品を作り上げる作者には確かに感服するしかない。しかし、作者と作者のファンには申し訳ないが、正直どこが面白いのか私には分からない。
『密室殺人ゲーム王手飛車取り』(歌野晶午/講談社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2008年版(2007年作品)12位作品。
歌野晶午と聞くと「このミス」2004年版1位の『葉桜の季節に君を想うということ』がすぐに思い浮かぶ。冒頭からの大胆な叙述トリックが少々「ズルい」という気がしたが、タイトルの美しさも含め結構好印象の作品であった。前回あまりに疲れる作品を選んでしまったので、今回は作者に安心感があり、あらすじを見て軽く読めそうなものを選んだのだが、読みやすさという意味では大正解であった。物語の展開の設定は奇抜だが、舞台は18世紀のロンドンから一転して現代の日本で、内容は読者が純粋に推理を楽しめる本格推理ものである。おかげで前作とは打って変わって一気に読破できた。
主要登場人物は、頭狂人、044APD、axe、ザンギャ君、伴道全教授といった独特のハンドルネームを持った犯罪マニアの5人。彼らは実際に顔を合わせることなくチャット上で変装した姿で会話を行う。そして、1人ずつ順番に殺人事件を起こし、密室トリックやアリバイトリックの謎解きをあとの4人に出題し、期日までに誰が解けるかというゲームに興じていた。このゲームはすでに何周かしており、つまり全員が殺人経験者という異常なグループによって、警察に全く疑われることなく続いているのである。
第1章では、axeが山手線を舞台とした連続殺人を行い、結局予告していた10人の被害者が出たところで、044APDが、ある法則性に気が付き十二支にちなんだ殺人であることが判明する。
第2章では、順番の回ってきた伴道全教授が、実行の時間がないということでプランのみをメンバーに公開するが、その鉄道もののアリバイトリックは、話に登場する特殊な列車に乗ったことのある頭狂人によってあっけなく崩されてしまう。殺人の起こった列車と一見別もののように思わせていた犯人の乗る列車が、実は名称は別でも連結していたという実に簡単なトリックであったがために、伴道全教授はメンバーの集中砲火を浴びるのであった。
第3章では、ザンギャ君が起こしたバラバラ殺人事件について語られる。紙板加工工場に勤める多賀谷という男が無断欠勤を続けたため、同僚の鶴巻という男がアパートの様子を見に行ったところ、多賀谷の生首が花瓶に生けてあるのを発見。胴体は近くの公園で発見された。ザンギャ君の出題は、目撃者に見とがめられることなくどうやって胴体を公園へ運んだのかという謎を解かせるものであった。道路工事の警備員が多賀谷の帰宅を目撃しており、隣人は多賀谷の死亡推定時刻に室内でうめき声を聞いている。警備員は死体のような大きなものを運んでいる人物をその後見ておらず、ザンギャ君は被害者のうめき声が聞こえた時刻にはメンバーとチャット中だったというアリバイトリックも含んでいた。殺害自体は公園で行われ、多賀谷を装ったザンギャ君が頭部を持ってアパートへ向かったという展開は読めたが、ザンギャ君が去った後で隣人が死者の声を聞いたのはなぜなのか誰も分からない。そこでまたしても044APDが重要なことに気付くも、PCのバッテリー切れでチャットから戦線離脱。あとを引き取った伴道全教授が何とか正解にたどり着く。何と花瓶の中に仕込んだドライアイスから発生した炭酸ガスによって生首に発声させたという奇想天外なトリックだったのである。ザンギャ君は、発声がうまくいくように事前に2人を殺して実験済みだったというおまけ付きだ。
第4章では、伴道全教授のリベンジ企画で、ベトナム旅行中に浜名湖サービスエリアで起こした殺人事件のトリックを暴けというもの。どう考えても実行不可能な犯罪に見えたが、みたび044APDが核心を突く。フライトスケジュールに載らないチャーター便を利用すれば犯行は可能というものである。伴道全教授にやり込められていたメンバーは一気に反撃に出て、頭狂人は伴道全教授が修学旅行を引率した先生であるという推理を披露し、ザンギャ君に至っては静岡県東部にある共学もしくは女子生徒のみの私立高校の先生とまで絞り込むが、044APDはメンバーの正体暴きに不快感を示し、次の出題者として「今晩、これから殺しに行く」とメンバーに宣言する。
第5章は、044APDが予告通り殺人が完了したことを報告する。大阪府豊中市にあるセキュリティ万全が売りの住宅地での長期にわたる住人への様々な手段を用いた脅迫と、夫婦の寝室での夫のみの刺殺という犯罪の謎に、メンバーは頭を悩ませる。044APDによる被害者が死亡するまでの49日間を綴った小説風の投稿を読んで、新築の家の引き渡し前から044APDが屋根裏に隠れ住んでいたという結論をaxeが導き出し、メンバーは044APDの完全犯罪への執念に驚愕するのであった。
第6章では、頭狂人の出題の時間に044APDがなかなかチャットに現れないため、伴道全教授が実行するには多少難ありのネタと断った上で謎解きを2つ披露するが、カツラに凶器を隠すとか、魚の干物で作った凶器を猫に食べさせるとかいう内容に、メンバーは失望の色を隠せない。
第7章では、結局現れない044APD抜きで頭狂人の出題が始まる。27歳の男性が鍵のかかった自宅のトイレで撲殺され第一発見者の妹が通報したという事件の謎を解けという出題であったが、あまりの平凡さにメンバーは不満を漏らしながら次の集合日を5月5日と決めて解散する。そしてその2日前に頭狂人にアクセスしてきたザンギャ君は思わぬことを口にする。2か月前に彼はザンギャ君と会っているというのだ。ディスプレイの向こうで素顔をさらしたザンギャ君に頭狂人は驚く。その顔は、頭狂人がバラバラ殺人事件の時に聞き込みをした相手、鶴巻だったのだ。そして、彼の口からさらに驚くべき事実が告げられる。頭狂人こそ、今回の事件の被害者の妹であるという事実である。さらに、頭狂人は死んだ兄の部屋に入り、兄こそが044APDであったことを知る。
最終章では、頭狂人の起こした事件の真相に加え、044APDこそが被害者であったことが冒頭ですでに明らかになっており、頭狂人が残りの3人のメンバーを別荘に招待するところから始まる。高校教師だと思われていた伴道全教授が実は女子高生で、axeが現役の警察官であったことに一同は驚きを隠せない。メンバーは頭狂人に怪しげな椅子に座らせられ、頭狂人自身も隣室で同じ椅子に座るのだが、何と4つの椅子のいずれかに起爆装置があり、その椅子から立ち上がった瞬間、頭狂人の椅子が爆発するという仕掛けになっているという。究極の刺激を求めた彼女は。何もできない3人の前でモニター越しに目を閉じる。「頭狂人はくすりと笑い、もう一度だけ目を開けてみることにした」という1文で物語は幕を閉じる。
良心の呵責もなく淡々と殺人を重ねていくメンバーの異常性に不快感を感じざるを得ないが、エンターテイメント作品として、そのような感想は無意味であろう。それなりのインパクトはあり、今時の若い読者が喜びそうな設定ではある。トリックの内容については、第1章の謎が干支に絡んでいることは早くに気がつけたが、時計のトリックは分からなかった。しかし、第絶賛するほどのものではない。むしろ気になったのは、未遂を含めて10回も殺人事件が続くのに主人公らしき頭狂人が1回しか調査に向かわなかったこと。他の事件でも1回ずつしか行動しておらず、他のメンバーの調査を臭わす描写も僅かで、そこは淡泊すぎて拍子抜けした。もっと探偵らしい足を使った戦いが見られると思っていたのだが…。第3章の事件では、前述したように殺害現場のトリックはすぐに気が付いたが、生首の発声トリックはさすがに推理不可能だろう。犯人は2回も練習したという補強はされているもののあまりにトリッキーすぎる。とても成功率の高いトリックとは思えない。第4章のトリックも「ふーん」という程度で感動はなく、第5章の屋根裏トリックも、さんざん引っぱった割に、オチがあまりに古典的すぎて閉口した。しかも、今時の家の屋根裏に人が長期間隠れ住めるほどの強度と遮音性と広さがあるのか甚だ疑問である。第7章の、頭狂人の起こした殺人事件の被害者が実は兄であり仲間だったというダブルパンチについては、後者がちょっと予想できてしまったものの、さすが歌野晶午といったところか。個人的には、最後は5人で殺し合いを始めるのだろうという予想を立てていたのだが見事に裏切られた。最終章の展開に至っては、まったくの予想外。様々な結末を予想させるところに(頭狂人の死は確実だが)この物語の余韻を与えたということなのだろうが、それはどうなのだろうというのが正直なところ。結末として果たしてこれがベストなのか。もっと面白い結末が用意できたのでは?という気持ちが強い。続編として『密室殺人ゲーム2.0』という作品が刊行されており、第10回本格ミステリ大賞を受賞しているが、「このミス」2010年版18位と聞くと、ちょっと手を出すのがためらわれる。
『パラダイス・ロスト』(柳広司/角川書店)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2013年版(2012年作品)16位作品。「D機関」シリーズ第3弾。第1弾『ジョーカー・ゲーム』、第2弾『ダブル・ジョーカー』ともに、その年の「このミス」2位に入っているが、過去のコメントを見直してみると自分の評価は妙に厳しい。『ジョーカー・ゲーム』に至っては★1つとなっており、さすがにそれはやりすぎ
だったかと今になって反省し『ダブル・ジョーカー』同様の★2つに変更した。決して嫌いなシリーズではなく、もの凄く面白くなりそうなのに面白くしきれていない点に不満を感じ
た記憶がある。スパイ小説ながらハリウッド映画的なものを期待すると肩すかしを食らう、アクションシーンがほとんどない裏舞台メインの話が物足りなく感じたということもあろう。今回の第3弾は
、「このミス」順位が過去2作品の2位から大きく落ちているところが不安ではあったが、読んでみると意外に好印象。相変わらず話が地味な感じがするのは否めないが、個人的には十分楽しめた。今年1月の『ジョーカー・ゲーム』の映画化に合わせてシリーズ第4弾『ラスト・ワルツ』が同時刊行されているが、評判は今一つのようである。
第1話「誤算」では、結城中佐率いる「D機関」のメンバー島野亮祐が、ドイツ占領下のフランスで老婆を助けようとしてドイツ兵に殴られ記憶を失いフランスのレジスタンスに保護されるという展開。記憶を失いながらも、それまでの厳しい訓練を活かし適切な行動でピンチを切り抜け任務を全うするというストレートなスパイもの。元々老婆を助けることでレジスタンスの信頼を得てレジスタンスの実態を確認把握することが今回の任務だったのである。レジスタンスに潜り込んでいたドイツのスパイを倒すことでさらなる信頼を勝ち得た島野は彼らから仲間になることを誘われるが、素人とスパイごっこをする気などない彼は、迷いなく結城の帰還命令に従うのであった。
第2話「失楽園」では、英領シンガポールの高級ホテル「ラッフルズ・ホテル」で米海軍士官マイケル・キャンベルが遭遇した事件を描く(全く本作とは関係ないが本作を読書中にTVドラマ「失楽園」のヒロインを演じていた川島なお美が死去。ドラマは全く見ておらず彼女には「お笑いマンガ道場」のイメージしかないのだがご冥福をお祈りする)。キャンベルの恋人ジュリア・オルセンが、酒に酔った英国人実業家ジョセフ・ブラントを誤って転落死させてしまった。ジュリアを救いたい一心で事件を調べるキャンベルは、英国陸軍大尉リチャード・パーカーという人物がブラントと揉めていたことをつかむ。日本軍の危険性を訴えるパーカーに対し、バーに居合わせた者達は彼をあざ笑うのみ。その中心人物がブラントであった。キャンベルは動かぬ証拠を得てパーカーを追い込み彼を逮捕させ、ついにジュリアの無実を晴らすことに成功する。しかしキャンベルは、後にブラントに死んだふりをする悪癖があったことに気が付く。ブラントはパーカーの暴力で死んだふりをして相手を驚かせ、その後酒の勢いで絡んだジュリアに突き落とされて死亡したのが真相ではないか。パーカー犯人説は、ホテルの東洋人のバーテンダーの巧みな誘導によってキャンベル自身が考えたように思わされているだけではないのか。日本人が1人もいないはずのこのホテルに「D機関」のメンバーがバーテンとして潜り込み、日本軍危険説を唱える人物を水面下で排除しようと活動しているのではないか。そこまで気が付いたキャンベルであったが、ジュリアのために全てを忘れようとするのであった。
第3話「追跡」では、英国タイムズ紙極東特派員アーロン・プライスが、結城中佐の生い立ちの秘密に迫る。英国のMI6のスパイでもあった彼は、有崎子爵が晃という名の子供を引き取り養子にしないまま英才教育を施し、晃がその後行方不明になっていることをつかむ。有崎家の家令を務めていた里村老人から晃にまつわる詳しい話を聞き、プライスは彼こそが結城中佐であると確信する。しかし、その情報をラジオに偽装した特殊電信機で本国に送ろうとしたその時、彼は憲兵隊に逮捕される。取調室で死を覚悟した彼であったが、なぜか釈放され、しかも身元引き受け人として里村老人が現れる。里村老人に連れて行かれた療養所で眠っている痩せこけた男を「晃様」であると紹介され、驚くプライス。里村老人の話はすべて、結城中佐を調べようとする者への備えとして結城中佐が用意していた作り話だったのだ。プライスは命こそ助かったたが、遺書として持ち歩いていた日本での情報網を記したメモ用紙をいつの間にか奪われていた。敗北を知ったプライスは、妻の祖国のベルギーで余生を送ることを考えるのであった。
第4・5話「暗号名ケルベロス」は、サンフランシスコから横浜へ向かう途中の豪華客船「朱鷺(とき)丸」の船内が舞台。唯一の途中寄港地ホノルルを目前にした船内で事件は起こる。「D機関」のメンバー内海脩は、結城中佐の命を受け、英国秘密諜報機関の暗号解読の専門家ルイス・マクラウドの日本入国阻止任務を果たそうとしていた。日本上陸時に逮捕されると諜報機関の裏切りを臭わせ、ホノルルで下船させることに成功しかけていた矢先に、英国軍艦の臨検というハプニングが発生し、その直後にマクラウドは服毒死する。自殺はあり得ないとして、内海は、英国軍も利用し彼の死の真相を明らかにするため捜査を開始する。そして、ドイツのエニグマ暗号の解読のため夫の乗った船をマクラウドに沈められた過去を持つシンシア・グレーンという子連れの女性こそ、暗号名ケルベロスと呼ばれるドイツのスパイであることを突き止める。彼女の自決を予想した内海は、ホノルルで彼女の娘を育てる自分の姿を想像するのであった。
第3話と第4・5話のラストの雰囲気がかぶるのがちょっと気にはなったが、どの物語も実によくできている。特に気に入ったのは第3話。もろに、さいとうたかを『ゴルゴ13』の世界である。47年も続いている漫画作品『ゴルゴ13』では、主人公のプロのスナイパー・ゴルゴ13ことデューク東郷の出生の秘密を、様々な組織や個人が探ろうとするエピソードが多数描かれている。その出生の秘密のいずれもが最終的には誤りであり、調べようとした者の多くはゴルゴ13に抹殺されているのだが、本作では、そこまで似せてはこないだろう、実際にこれが結城中佐の過去なのだろうと考えながら読んでいたら、見事に結城中佐のトラップだった。記憶を失いながらもメンバーが任務を全うする第1話、相手の思考を巧みに誘導することでメンバーが任務を果たす第2話、主人公の乗った船がいつ沈められてしまうのかというスリルを読者に与える罠を最初に仕掛けつつ、ミステリらしいミステリを用意した第4・5話もなかなか読み応えがあった。前作を上回らねばならないという宿命を持ったシリーズ物の続編としてはやはり地味すぎたのが16位という下位ランクの要因であろうが、個人的にはオススメできる1冊。
2015年10月読了作品の感想
『謎(リドル)の謎(ミステリ)その他の謎(リドル)』(山口雅也/早川書房)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2013年版(2012年作品)13位作品。前回の『パラダイス・ロスト』と同年度の作品で順位は僅かに上。この年の上位作品には豊作のイメージもあり期待したいところだが、10位作品『盤上の夜』、11位作品『屍者の帝国』では失望を味わったので油断は禁物と肝に銘じて読み始める。芥川龍之介の『藪の中』のように、結末は読者の想像に任せるというリドル・ストーリーを集めた短編集ということだったが、結論のないミステリーほどストレスがたまるものはないのではないか。読んでみたら案の定であった。
以下あらすじを紹介。
第1話「異版 女か虎か」…昔々、東方のある国を治めていた半未開の王がいた。その王には勝ち気な王女がおり、王は彼女に愛情を注いでいたが、廷臣の若者が王女と恋仲になったため、激怒した王は、若者を捕らえ「女か虎か」の刑に処することになった。闘技場に全く同じ形の2つの箱が並べてあり、一方には人喰い虎が、もう一方にはその国一の美女が入っている。若者が虎の箱を開ければ虎に食い殺され、女の箱を開ければその場で結婚・無罪放免の身となることができる。刑に臨席した王女は、他の者に分からないように若者に右の箱を指さした。勝ち気な王女が自分以外の女に若者を渡して面白いはずがないのは分かっていたのだが男は右の箱の扉を開いた。その扉の奥から現れたのは女か虎か。その結末は謎のまま終わっている小説が存在していた。そして、この謎の解明に関わる出来事が20世紀に入ってから起こる。ヴァチカン国会古文書保管庫で事件の顛末を記した書簡が発見されたのである。それによれば、半未開の王とは紀元前1世紀にユダヤを支配していたヘロデ王であり、王女はサロメ、廷臣はイアソン、国一番の美女はミリアムという宮廷の侍女であった。サロメは、ミリアムと入れ替わりイアソンに自分のいる箱をあらかじめ教えてイアソンと結婚しようとするが、刑の執行される朝になって王妃がイアソンより格上のゼガリア国の王子との縁談を持ち込み悩み始める。ヘデロ王は、両方の箱に虎を入れるトリックで、ミリアムもろとも確実にイアソンを殺そうとするが、刑の直前になってミリアムとサロメが入れ替わっているという情報を入手して、彼もどうすべきか悩み始める。そしてイアソンまでもが、念のためサロメと入れ替わったミリアムが貴賓席から合図を送ってくるはずだったのに、その合図がなかったため、箱の選択を悩み始める。(完)
第2話「群れ」…群れ型ロボットの共同作業に関する事業を開発・展開している会社に勤める主人公は、ある日、交差点を行き交う人々が、三角形やV字型、ドーナツ型や五芒星の形の群れになって、表情や顔の向き、動作、歩調までもが完全にシンクロして移動していく様を目撃する。そして、一緒にそれを見ていた同僚は「その時が来たんだよ」と苛立った口調で言う。その同僚は、かつて主人公の「動物はなぜ群れるのか」という質問に対し、「天敵から身を守るため」と答えていた。同僚は、「我々も遂に、群れる時が来たということなのさ」と言うと、主人公の腕を掴んで適当な群れに合流する。行進しながら天を仰ぎ見た主人公は、ようやく何を言われているのか分かった気がした。(完)
第3話「見知らぬカード」…財布がカードでいっぱいになった主人公は整理を始めるが、1枚だけ身に覚えのないカードが入っていることに気が付く。周囲にカードを見せて聞いて回る主人公であったが、同僚は怯え、上司は嫉妬し、妻は軽蔑し、母親は笑うだけで、誰もカードの正体を教えてくれず、ネットでも情報が掴めない。意を決してカードに記された住所にある建物に乗り込んだ主人公は、大きな部屋で喪服を思わせる服装の老人に頭を下げられる。そして主人公はカードを見せられた老人の意外な反応に驚愕する。その老人は泣いているのだ。「これは、いったい、何のカードなのですか?」という主人公の問いに、老人はハンカチで涙をぬぐった後、おもむろに口を開いた。(完)
第4話「謎の連続殺人鬼リドル」…弱者の2人を狙い、一方の子供や老人を人質にしてもう一方になぞなぞを突きつけ、正解を導き出せない場合は両方を射殺するという連続殺人鬼・リドルが現れる。最初の犯行で正解を答えられ殺人が未遂に終わってしまったことをずっと後悔していたリドルは、2つの答えを用意するという卑劣な作戦で、再度拘束した被害者を射殺する。そしてリドルは、FBIロス支局の捜査官・ジョイスの息子を人質に取り彼女を呼び出した。「俺がこれから何をするか言い当てたら、子供を撃たないが、不正解なら、撃つ」というリドルの出題に対し、ジョイスは答えを見つけそれを告げる。90秒もたたないうちに住宅街に2発の銃声が響き渡るが、ジョイスの解答も、彼女と彼女の息子とリドルの運命も不明。読者には彼女の答えを推理してほしい。(完)
第5話「私か分身(ドッペルゲンガー)か」…若い頃から文学好きで現在は妻の反対で嫌な会社を辞めそこなってノイローゼ気味になっている二見景一は、自分のドッペルゲンガーの存在を恐れていた。そんな彼は、ある夜、偶然にホームレスとなっているもう1人の自分と出会う。そして、また別のある夜、寝ている妻の首に手を掛けた私は、酷い恐怖に襲われる。妻は死んでいたのである。その後、二見はホームレスの自分の住むテントを訪れる。彼は紛れもなく二見自身であった。彼は、妻と離婚して会社を辞め、憧れていた田舎生活に失敗してホームレスになったのであった。2人は妻の殺害をなすり合うが、ホームレスの二見は自分が罪を背負うと言ってナイフを自分の胸に突き立てた。その直後、無軌道な若者に液体を掛けられ火を付けられた2人は炎に包まれる。辛うじて助かった1人は自分は何者なのか考えるのであった。(完)
第1話は、さんざんR・F・ストックトンの元ネタをいじくりまわし、結末が分かるような物証が見つかったと読者に期待させつつ、やはり結末は「藪の中」という物語。それまでの状況から導き出せる結末の可能性は色々と考えられ、史実(実話だとすれば)以外に唯一の答えなどありえないのだから、考えてもしょうがないこと。何が面白いのか分からない。
第2話は、SFチックな雰囲気を漂わせる作品。「動物は天敵から身を守るために群れる」という知識を同僚から与えられていた主人公が、天を見上げて人間が群れ始めた理由が分かったというのだから、その上空には人間を脅かす恐ろしいものが見えたのだろう。得体の知れない化け物の群れか、異星人のものらしき攻撃的な宇宙船団か、そういったものと想像が付く。これは想像の幅が狭すぎて、第1話とは逆の意味で面白くない。
第3話は、明らかに第1話のような正解を用意できない問題を提起している。選択肢すら存在しない分、第1話よりたちが悪い。矛盾を生じない整合性のとれるカードの正体を説明することは不可能なため、第1話とは別の意味で考えるだけ無駄。実はたった1つだけカードの正体を説明できる答えが存在している、という結末が用意されていないとミステリとして楽しめない。ミステリ作家は、日々様々な誰もがうなり納得してくれる新しいトリックを成立させることに頭を悩ませていることと思うが、ただ単に解決しようのない謎を読者の前に放り投げて悩ませようという手法は、非常に安易で趣味が悪いものだと思う。
第4話は、いかにも「今回は正解があります」的な書かれ方をしているのが悪質。本文中にほぼ答えは書いてあるみたいなことまで書いてあるが、おそらく作者の罠であろう。
第3話同様、整合性のとれる答えは存在しないと思われる。ジョイスが『不思議の国のアリス』の作者が書いた物語を思い出してそれをヒントに答えを導き出したような展開になっているが、その話とは、ワニが子供を人質にとり、その母親に向かって「私が今から何をするか言い当てたら子供を食べないが、言い当てられなかったら食べる」と言うものである。これは現在の状況そのままであり、何のヒントにもなっていない。
そもそもこの「ワニのパラドックス」と言われているものが厳密に自己言及のパラドックスと言えるのか微妙な気がする。ワニの話で考えられるパターンは4通り。ワニの行動がA「子供を食べる場合」、B「子供を食べる以外の場合」、母親がC「子供を食べると答える場合」、D「子供を食べる以外の答えを言う場合」(「子供を食べない」という答えは「すること」ではないので不可だろう)。まず、ADとBCの組み合わせでは、無条件で子供が食べられてしまうため、
子供を助けたいのならばACかBDの組み合わせを考えねばならない。しかし、子供を食べる以外の答えというのは無限にあるためBDの組み合わせに賭けるのは危険すぎる。
子供が助かる最も可能性の高い選択肢は、残ったACの組み合わせしかない。母親はBCの可能性も心配しつつ「子供を食べる」としか言いようがないのだ。ACなら正解したのだから食べられなくてすむはずだが、
ワニが食べることを実行しないと食べようとしていたことは証明できないのでここに矛盾が発生
するというところがこの寓話のポイントなのだろう。しかし、「今からやること」と「正解した場合の見返り」では当然後者が優先されるべきで、前者は取り消されるのが筋ではないか。まあ、こういうどうでもいいことを色々と読者に考えさせようということこそが作者の一番の罠なのだとしたら、まんまと引っかかっているわけだ。
第5話は、最後に生き残ったのが、会社員の二見なのかホームレスの二見なのかが読者に分からないというのなら、リドル・ストーリーとして成立するかもしれないが、放火される直前にホームレスの二見はナイフで胸を刺し貫いている。生き残った方は100%会社員の二見で間違いない。妻を殺したのはどちらかという謎は残るが、推理の材料も意味もないので正直読者にはどうでもよいことであろう。
リドル・ストーリーを集めた短編集という未だかつて見たことのない体裁に敬意を表して★★を付けておくが、積極的にオススメはできない。東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』のように、結末を記さないにしても推理によってそれを導けるようなミステリでないと個人的には受け付けない。
『北帰行』(佐々木譲/角川書店)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2011年版(2010年作品)15位作品。
個人で旅行代理店を営んでいる関口卓也は、ロシア人のターニャという女性を東京でアテンドすることになるが、彼女の言うとおりの場所で車から降ろすと、彼女はそのビルの中で暴力団・西股組の組長・西股克夫を射殺して戻ってきたため一緒に逃げざるを得なくなる。ロシアマフィアに所属する売春婦のユリア・クリヤカワを勢い余って殺害してしまった西股は、真相を隠そうとした上に賠償金までけちったために、マフィアの送り込んだヒットウーマンのユリアの姉に処分されたのだ。ターニャは西股の死亡を確認するため向かった病院で、大滝組の組員も射殺。西股の弟分の藤倉奈津夫は、寒河江(さがえ)久史警部の追及をかわしつつ、西股の兄貴分である大滝組組長の大滝剛三に命じられターニャを殺害するためにターニャと関口を追う。藤倉は稚内市立病院に勤める卓也の妹を取引のカードに使うべく知り合いの組長に彼女の調査を依頼するが、その組長から命令を受けた組員の福本晴哉は暴走して彼女を殺してしまう。警備の厳しくなった成田空港からターニャを帰国させることが難しいと判断した卓也は、ロシアマフィアの拠点のある新潟のボストーク商会へ向かう。しかし、そこへは大滝の差し向けた刺客3名と、彼らと手を組んでターニャの始末をもくろむ藤倉も向かっていた。
ロシアマフィアのメンバー2人を拉致してターニャと交換しようとした藤倉であったがターニャの返り討ちに遭い、人質を奪い返された上に大滝組の3人と藤倉が連れてきた岩瀬もターニャに撃たれ孤立する。このままでは東京に帰れない藤倉は、ロシアマフィアのボスであるソーバリに取引を持ちかけ、ソーバリがターニャを売ることで藤倉が大滝組の復讐を止め、この抗争を手打ちにすることを提案する。ソーバリの裏切りに気付いたターニャは、大阪へ向かうと見せかけ、妹の葬式のためにフェリーで稚内へ向かう卓也に同行する。ターニャは罪滅ぼしのため福本の殺害を卓也に提案するが、卓也は藤倉から福本の居場所を聞き出して自らの手で復讐を果たす。ターニャとともに負傷した卓也は、お互いの出血が触れたことでターニャのHIVウイルスに感染。サハリンへの脱出をはかる2人であったが、裏切ったロシアマフィアと藤倉
の待ち伏せに遭い、寒河江の到着前に銃撃戦の末に死亡する…といった物語である。
新潟の話までで物語の半分くらいなのだが、その時点でもういつクライマックスが来て終わってもいいような展開
。タイトルからして北へ向かわないといけないのは分かるが、稚内行きは蛇足ではないか。妹の葬式に向かう卓也と、組織を欺き卓也の妹の敵討ちを志願して彼に付いていくターニャの行動が何となくちぐはぐで、舞台を無理矢理北に移そうとしている感じが否めない。ターニャがHIV感染者であることは何度も前振りがあったので
読者には分かっているのだが、お互いの出血が触れただけで2人とも卓也が感染したと決めつけ、急に2人がベタベタしだすのも非常に違和感がある。旅行代理業の堅気の主人公と、ロシア人の女殺し屋のヒロインという組み合わせは確かに斬新で、抵抗なくすらすら読める文章も決して悪くないのだが、面白かったかというと素直には頷けない作品。
『怒り(上/下)』(吉田修一/中央公論新社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)11位作品。2015年本屋大賞6位作品(5位は「このミス」6位の『土漠の花』、7位は「このミス」1位の『満願』)。この年の真の
「このミス」1位と疑わない『絶叫』と同点の11位作品ということもあって期待して読み始めたが、冒頭からテンションは著しく下がった。
いきなりの凄惨な殺人シーンで幕を開けるのはミステリ小説なのだから仕方がないとして、その事件に一見関係なく次から次へと新しく登場する人物達(しかも色々と「残念」な人ばかり)に辟易。そんな頭の回るヤツは大人でもいないというくらい頭脳明晰な子供が登場する話も好きではないが、頭の弱すぎる大人達がたくさん登場する話はもっと嫌いだ。上巻のあらすじは以下の通り。
八王子での尾木幸則、里佳子夫妻殺人事件の凄惨な状況と、犯人の28歳の山神一也が1年間逃亡を続けているという状況がまず語られる。山神は現場に「怒」という血文字を残していた。
次に、槙洋平と愛子の父子家庭の様子が描かれる。やや知的障がいが見られる愛子は、交際相手との間に自分の浮気が原因で起こしたトラブルが元で4か月前に家出をし、向かった先の東京で男に騙され風俗店で働かされていたところを見つかって連れ戻されたという経歴を持つ。洋平と共に愛子を心配している愛子の従姉の明日香は元不良娘であったが、今は母子家庭の母としてリゾートホテルで真面目に働きながら1人息子の大吾を育てている。洋平の勤める漁協でアルバイトとして働きながら大吾らにサッカーを教えている、何か訳ありのよそ者の若者・田代哲也と親密さを増してきた愛子を、洋平は微笑ましく見守っていた。
次に描かれるのは、大手通信系の会社に勤めるゲイの青年・藤田優馬。彼は、ゲイ仲間と遊び回り男漁りに精を出す一方、すい臓癌で余命幾ばくもない母の貴子を頻繁に見舞っていた。ある夜、男性同性愛者の出会いの場所である発展場で無理矢理に関係を持った大西直人が、どこにも行く当てのないことを知り、彼は何となく自分のアパートに住まわせるようになる。
次に描かれるのは、八王子署巡査部長の北見荘介。北見は八王子夫妻殺害事件を追い続けていたが、テレビの2時間特番で情報を募ってもなかなか有力な情報は得られなかった。スーパー銭湯から常連客の中に似た人物がいるという情報を得た北見は、警部補の南條邦久とともに現地に向かうが人違いであった。
北見には自分の拾った猫の面倒を見てくれる美佳という恋人がいたが、訳ありそうな彼女は自分の正体を決して明かそうとはしなかった。
次に描かれるのは、男にだらしない母親のせいで3年前に名古屋から福岡へ夜逃げし、また今回沖縄へ夜逃げすることになった高校1年生の小宮山泉。母親は、沖縄の離島、波留間島のペンションで働き始め、泉も転入した島の高校に通い始めた。同学年の男子、知念辰哉にボートで無人島に連れて行ってもらった泉は、その島の廃墟に隠れ住んでいたバックパッカーの田中という男と出会い、同じよそ者として台風を乗り切った連帯感から辰哉に内緒で食料を運ぶようになる。また、辰哉から好意を寄せられていることを知った泉は、その想いに応えるべく映画の誘いに乗るが、偶然那覇市内で出会った田中に夕食をご馳走になった後、1人で辰哉の叔母の家に向かう途中、白人の米兵の2人組に暴行を受けそうになる。
ここまでが上巻だが、一見最初の事件と無関係そうな、その後の登場人物達の中に犯人の山神一也がいるという趣向らしい。槙愛子と交際を始めたアルバイトの田代か?藤田優馬の同棲相手の大西直人か?沖縄の無人島に現れるバックパッカーの田中か?そういう趣向はそういう趣向で別にかまわないのだが、気になったのは、登場時に得体の知れない不気味さを漂わせていたこの3人が、話が進むにつれてどんどん普通の人になっていくところ。そうやって読者を油断させておいて、そこからまた最終的に尋常ではない異常者というポジションへ堕とすというギャップを狙っているのかもしれないが、上巻だけを読む限りその構成に面白さを感じることはできない。
「人は愛する人をどこまで信じることができるか」というテーマは理解できるのだが、そのテーマに悩む登場人物達があまりに特殊すぎて全く感情移入できない。下巻のあらすじは以下の通り。
洋平は、アパートを借りて田代と一緒に暮らしたいという愛子に同意しつつも、彼の前の職場のロッジを訪ね、彼が別の名前で自分が聞いていたよりも短期間しか働いていなかったことを知り、彼こそが殺人犯の山神でないかと疑いを深める。さらに、愛子はもちろん、明日香にもそのことを告げてしまい、明日香から「愛子が幸せになれるわけがないって思ってない?」と痛いところを突かれて狼狽えてしまう。田代への疑いを深めた愛子はとうとう警察に通報してしまうが、警察の捜査で姿を消した田代は山神ではないことが明らかになり愛子は泣き崩れる。そして警察から情報が漏れたのか、洋平のところには田代を追って借金取りが押し寄せてきた。田代が親の借金のせいで借金取りから逃げ回っているという話は本当だったのである。
優馬は、直人が若い女性と会っている現場を目撃し動揺し、そのことを隠そうとする直人に不信感を持つが、死んだ母の墓を建てようと良い場所を探す過程で、直人と一緒の墓に入るという想像に魅力を感じ始める。しかし、山神と同じホクロを持つ直人につい「まさか殺人犯だったりしないよな」と告げてしまう優馬。呆れる直人であったが、その直後に直人は優馬の前から姿を消してしまう。その後、直人について警察から問い合わせの電話があったが、直人が殺人犯として捕まったと思い込んだ優馬は彼との関係を否定してしまう。
辰哉は泉の件で苦しみ続けていたが、「お前の味方にだったらいつだってなる」という田中の言葉に励まされる。そしてその後、田中から彼が事件を目撃しており、田中自身が泉を襲った米兵を追い払いながらも泉を置き去りにしてしまったことを悔やんでいることを告白され、より強く田中を信頼するようになる。
北見は、素性が不明の美佳との交際に苦しみつつ事件を追っていたが、山神が埼玉の土建会社で2ヵ月働いていて、ある日突然暴れ出して姿を消したことをつかむ。また、別の工事現場で山神と働いていた傷害事件の容疑者から、山神の殺人の動機が派遣会社からいいかげんな情報を与えられ炎天下の中を無駄に歩き回されたことに腹を立てたことであったこと、田中という偽名を使っていたこと、仕事を辞める時にキャンプ用品を買い込んでいたことを知る。そして、ついに波留間島での山神の目撃情報を得た北見であったが、彼の到着直前に田中こと山神は辰哉に刺殺されていた。辰哉は田中の正体が殺人犯の山神であることは知らなかったが、田中の隠れ住んでいた廃墟に残されていた落書きから、泉が暴行されそうになっているところを田中が面白がって傍観していたことを知ってしまい、信じていた田中の裏切りに激怒したのであった。
廃墟で辰哉が発見した落書きを見つけた泉は、田中刺殺事件の真相を知り、母親に止められるも警察に全てを話したことで辰哉に情状酌量の余地が出てくる。
優馬は、喫茶店で直人の会っていた女性と再会し、彼女が直人と同じ施設にいたこと、彼女が孤児だった直人の妹的な存在であったこと、そして彼が心臓の病気を持っており、それが原因で上野公園内で人知れず死亡していたことを知る。自分を信じてくれていた直人を信じてやれなかったことを心から悔やんだ優馬は、自分の母の墓に直人の名も同時に刻んだ。
北見は、美佳に彼女のことを調べたと嘘をつき、彼女にどんな事情があっても結婚したいと迫るが、彼女に拒絶され絶望する。
愛子の元に田中から連絡があり、迎えに行った彼女の説得に応じた田代が戻ってくることになり、洋平は涙を流す。
横浜に引っ越した泉のもとに、手紙を出し続けていた辰哉からやっと返事が届くが、そこには「僕は泉さんのためにやったのではありません。だから泉さんには早く忘れてほしいと思っています」と書かれていた。
物語がどんどん暗い方向に進む終盤では、もう評価はほぼ★1つで固まりかけていた。田代を追って借金取りが押し寄せてきたのが警察からの情報漏れが原因で、しかもその警察が洋平達を守ってくれる様子がないという場面は不愉快極まりなかったが、洋平と愛子父子のグダグダ感が何よりもさらに不愉快で全く同情できなかった。2人の調整役となることが期待されている明日香がそれに油を注ぐのだからもう救いようがない。下巻の帯には、「何の涙なのか、自分でも全くわからない」という某映画監督のコメントが載っているが、一体どこで泣ける話なのだろうか?愛子のストーリーにも、優馬のストーリーにも、泉のストーリーにも、泣けるものは全然なかった。記述があまりに少ない北見とその恋人のストーリーには言うに及ばず。埼玉の土建会社で山神が突然暴れ出した原因も結局分からずじまい。
「人は愛する人をどこまで信じることができるか」というテーマと、「怒り」というタイトルのマッチ具合も微妙。山神の殺人の動機の他に、沖縄の基地問題や、性的マイノリティに対する差別問題、田中の裏切りに対する辰哉の気持ちなど、「怒り」に関連づけようとすればいくつか挙げられないことはないが今一つこのタイトルに必然性を感じない。泉が警察に全てを告白したことでやっと救われた気持ちになって評価は★2つとしたが、「2014年早くもベストワンの声!衝撃のラストまでページをめくる手が止まらない。」というキャッチコピーは明らかに盛りすぎ。この話が上下巻構成ではなく1冊の本に綺麗に収まっていればもう少し評価は変わっていたかもしれない。延々上下巻を読まされて満足できなかった時ほど「怒り」を感じるものはないのだが…。
『闇先案内人』(大沢在昌/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2002年版(2001年作品)6位作品。
当時北朝鮮の指導者であった金正日の後継者問題をモチーフとしたハードボイルド小説。今回はとにかく読むのに疲れて下記の文章はいつも以上にメモ状態でまとまりがない。
主人公は「逃がし屋」の葛原。葛原より一回り年下の29歳で、叔父のガソリンスタンドに勤め車の運転とアマチュア無線を特技とする北見、鉄道と地図のマニアである米島(まいじま)らとチームを組み、高額な報酬と引き替えに訳ありの人物を海外に逃がすという仕事を5年前からしていた。ツナギ役の高利貸し
の姜(かん)から紹介された初井という兵藤組から追われている信金職員を、チームのメンバー美鈴(びれい)の別れた亭主の康(こう)が引取先としている台湾に無事に逃がした葛原は、国枝護という葛原の本名を知る望月と野尻という2人の男の訪問を受ける。葛原
には、親友だった久保洋輔の妻・悦子と親しくなったことで久保が妻を殺害し、その罪を葛原に着せようとしたという過去があった。手配された葛原は姿を消し、逃がし屋のスキルを自然と身につけこの稼業を始めたのであったが、望月と野尻の2人が、葛原に引き合わせた警察庁の河内山は、日本に密入国している某国の要人・林忠一(りんちゅういち)を捕まえ、この国で何をし、今後何をするつもりなのかを聞き出したいという。
林は5日後に彼はその国に戻っていなければ危険分子と見なされ密殺される可能性があり、亡命先もないという予断を許さない状況の中、成滝という葛原同様の一流の逃がし屋が彼のバックに付いているものの、成滝の使い走りの少年・豊川が2日前に要人の自国の工作員に拷問の上殺されており、事は一刻を争うというのだ。謝礼として葛原と国枝が同一人物であることを示す資料、北見と米島と康が逃がし屋のメンバーであることを示す資料の一切を破棄するという河内山の取り引き話にも食いつかず、一旦は逃げることを考えた葛原であったが、兵藤組に北見の情報を流して脅しをかけてきた河内山に結局は屈する。2人のSPを付けるという条件で仕事を引き受けた葛原達の元に現れたのは、大阪府警警備部警備課の巡査部長で、公安出身の咲村恵美子と機動隊出身の大出圭であった。豊川の勤め先から錦木というメンバーの存在を掴んだが、錦木のマンションには某国の国家安全部の工作員のアシストをする在日本人民団体
(在団)の車が張ってした。何とか侵入した彼の部屋の電話に登録してあった番号から花園タイプ印刷という成滝チームの「書類屋」らしき場所を突き止めるが、そこで書類屋らしくない男を拉致しようとする4人の男達と銃撃戦となる。
応援の警官が駆けつけ何とか拉致されそうだった男を救出し、襲撃犯はそこに立て籠もる。
ここまでが上巻の前半で、ここまでは展開もテンポ良く面白いのだが、ここから急にテンポが悪くなる。救出され病院に搬送された男が黄英洙(こうえいしゅ)という名の元在団であることが判明し、次に豊川とつながりのあった畑谷加奈子の勤め先のスナック「ルージュ」を訪れるが成滝グループと無関係であることが分かる。次に成滝グループの中継基地と思われる「淀川情報サービス」に踏み込むことになり、やっと話が再び盛り上がるかと思いきや、成滝グループを襲った工作員をあっさりと拘束して縛られていた男を救出したところ、その男は咲村の元上司の土田で、彼との会話が延々と続く。翌日病院で黄と話して、また土田と話してから、葛原は自分の勘で京都へ向かう。林が隠れていそうな京都の屋敷も在団にマークされていることを確認した葛原は次の東京は東京だと宣言する。ここまでが上巻なのだが、とにかく遠回しなセリフのオンパレードで読んでいて疲れる。
下巻の冒頭で東京の自宅に帰ってきた葛原に成滝本人から初めての電話がかかってくるが、共闘を持ちかける葛原を冷たくあしらって電話は切れてしまう。行き詰まった状況を打開するために、チームのツナギ役の姜から情報を得ようと葛原は彼の事務所を訪問する。姜が在団の人間であり、成滝ともつながりがあることを知った葛原は、成滝のチーム内に畑谷という女スパイがいることを教え、自分がデコイになって成滝をサポートするという作戦を提案し、姜は成滝に連絡を取ってくれることを約束する。しかし、事務所を出た直後に成滝の手下に襲われる葛原。咲村と大出に伴われ姜の事務所に引き返すと、そこには姜と成滝がいた。元々葛原は成滝を引っ張り出すつもりで姜に接触したのだった。林忠一をなぜ危険の多い東京に連れてきたのかという葛原の問いに成滝は答えない。姜は、自国の指導者で林忠一の父である林剛哲の熱烈な崇拝者である金富昌の影響力が大阪よりも小さいからだと代わりに答える。姜は、元々河内山とつながっており、愛国心から成滝と葛原を利用したという。そして、成滝は姜と同郷でありながら、今度の仕事は愛国心からではなく、悪人でない人間を助ける仕事だから引き受けたと言い切る。結局成滝は葛原の計画に協力することを拒否。金と広域暴力団の柳井組のつながりを掴んだ葛原は、葛原がかつて逃がしたことのある本条という男が柳井組に復帰していることを思いだし彼に連絡を取る。金は在団特務と密入国した国家安全部の工作員を引き連れて上京し、その受け入れ先となっているのが柳井組と考えられたが、彼らによって姜とその家族が攫われたことが本条からの情報で確認された。柳井組の組員が4人、在団特務と工作員が5人も見張りに付いているアジトへ、柳井組の組員は本条自ら説得するから機動隊は呼ばないでほしいという本城の要請で、葛原は咲村、大出、河内山のみを連れて乗り込むことになる。
組員は本条が帰らせ、残った敵とは銃撃戦に。何とか姜とその娘は救出するも、姜の妻は死亡しており大出も殉職してしまう。信用を得た姜から金の居場所を聞き出した葛原は、在団に飼われている公安刑事に化けて接触するが、1時間以内に姜の居場所と河内山の協力者の正体(葛原のこと)をつかまなければ殺すと脅される。タイムアップ間際に葛原を監視していた大男を公安が取り囲み大男は自殺。何とか危機を乗り切った葛原であったが、今度は林忠一と日本の要人との会談を成功させるため、そしてそのための成滝の金殺害を成功させるために、自分自身が林忠一のデコイになり、金を呼び寄せることを志願する。金に裏をかかれるも何とか成滝は金を倒し、林忠一は会談を終えて帰国。逃がし屋チームは解散となったが、最後に葛原は河内山と友人としての握手を交わすのであった。
やはり上巻の後半から下巻の前半にかけてが辛い。こんなに読むのに疲れる大沢作品は初めて
。前述したように、やたらと登場人物が遠回しな表現で理屈をこねまわすのに辟易する。裏稼業をしていたり国家機密を抱えていたりすればペラペラと本音が話せないのは分かるが、もう少しすっきりさせられなかったものか。下巻の姜救出作戦あたりからまた話が盛り上がってきて、葛原が身分を偽って金にタイムリミットを設定されて脅されながら咲村と行動するところはなかなか緊張感があって良かった。その後の、葛原が林忠一に変装して金をおびき寄せようとするところはまた期待させたが、予想していたようなクライマックスはなくあっけなく終わってしまったのは残念。ラストの河内山が涙ぐみながら葛原と握手をするシーンにも今一つ感動できなかった。河内山の登場シーンは多いにもかかわらず、彼の人間味が最後まで十分に描き切れていないのが要因であろう。ヒロインの咲山も、葛原のチームに入りたそうな気持ちに傾きつつも、そのあたりに深く踏み込まないまま話が終わってしまって消化不良。偽刑事に化けて金に殺されかけるエピソードをきっかけに、もっと葛原に接近してほしかったところ。咲山の元上司の土田も人間味はありそうだったが、役割がよく分からないままフェードアウト。チームの仲間でありながら北見と米島も最後まで存在感が薄い。主要登場人物以上に読者の目を引くのが、ヤクザらしくないヤクザの本条と、巨体の「顔師」の美鈴ママ。出番が少なくてもったいない感じがした。林忠一のモデルは、当時よく極秘に日本を訪れていたと言われる金正日の長男の金正男、林煥のモデルは、2010年に金正日の後継者となった三男の金正恩と思われるが、この作品に感情移入した読者は実際の歴史に一抹の悲しさを感じてしまうであろう。
『銀輪の覇者(上/下)』(斎藤純/早川書房)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2005年版(2004年作品)5位作品。この年のベスト10作品で唯一読了していなかったのがこの作品。ただこの年には不作のイメージがあり、少々心配
しながら読み始めることになった。実際この年のベスト10の残り9作品の中で★3つをつけたのは9位の『臨場』のみなのだ。
また、作品のテーマが自転車レースで、舞台は戦前の日本というのもさらに不安を大きくした。自転車レースをテーマとしたミステリと言えば、大藪春彦賞を受賞した「このミス」2008年版7位の『サクリファイス』を思い出すが、これは自転車レースがどういうものかという勉強にはなったものの小説としては正直楽しめなかった。その同じテーマで、過去や海外を舞台とする作品があまり得意でない自分にとっては、この作品にはかなり抵抗があったのである。しかし、読み始めると意外と普通に読めた。まず、時代をほとんど感じさせない。筆者は、日本人同士が戦う自転車レースを描きたかったが現在の日本にはそのような大規模な自転車レースがないため、盛んであった時代をあえて舞台に据えたのではと考えてしまったほどで、時代感を出すことよりも純粋にレースの中の人間ドラマに重点を置いている。全体的にのんびりしていて緊迫感がなく、色々と読者を感動させようとするエピソードが用意されているものの、いずれも今一つ盛り上がれないのは残念なところで、『サクリファイス』以上にミステリっぽくないのはミステリファンには不満であろうが、個人的に『サクリファイス』よりは好印象かも。あらすじは以下の通り。
下関から青森まで10日間走り続けるという前代未聞の「大日本サイクルレース」には、莫大な賞金目当てに、訳ありの男達を多数含んだ300人もの参加者が集まった。主催者は詐欺師の匂いのする山川正一。ブルジョア階級の集まりである帝都輪士会は、日本のオリンピックへの出場と東京オリンピック実現に向けて自転車レースのアマチュア化を進めていたため、山川は様々な妨害を受けるが、レースは無事スタートする。自転車はスポンサーの意向で全選手がレース用ではないサンライズ号という実用車を使用。主人公の紙芝居屋の響木健吾は、門脇運送社長の息子の朝彦を助けたことから門脇社長に気に入られ、彼の援助でレースに出場することになるが、自分の父を死に追いやった明宝ミルク社社長に復讐すべく、彼の息子で明宝ミルクチーム主将の明善寺恒章をつぶすという企みを抱いていた。響木は個人で参加していたが、1日目のレースの走りで、個人1位となった薬売りの越前屋平吉と、個人2位となった左官屋の小松丈治、そして失業中の望月慈介の3人をスカウトして、チーム門脇を結成。2日目からチームの主将として参戦する。チームの方が協力することで走りに有利になり賞金も10倍違うのである。レースの中で友情を深めていくチーム門脇のメンバー達であったが、物語が進むにつれ彼らの正体や事情が少しずつ明らかになっていく。やがて、このレースが陸軍の自転車部隊のテストを兼ねていること、また軍部の不正が絡んでいることが明らかになり、日程の後半のレース中に突如レース中止が決定する。その日がレースの最後と分かった響木は全力で強豪のドイツチームに挑む。そして、クライマックス。チェーンが切れてしまった響木にライバルの明善寺は自分の自転車を差し出す。チーム門脇の仲間も次々と脱落していく中、朝彦の応援に最後の力をもらってついに響木はドイツ選手を追い抜いて1位でゴール。感動のフィナーレを迎えるのであった。
個性的で魅力的なキャラが多数登場し、しかもその多くが全く別の裏の顔を持つという設定がなかなか面白い。レースの駆け引きの中でチーム内やライバルとの間で深まる友情も、ベタな展開とはいえ嫌いではない。ただ、それらの魅力的な登場人物達が絡む、たっぷりと用意された様々なエピソードは実によく作り込まれているのだが、どれももう少しが感動しきれないのが実に惜しい。あれもこれもと欲張りすぎているせいかも。レース内容も、この時代にこんなレースができたのかと疑ってしまうくらい現代と変わらぬリアル感あふれる駆け引きが描かれるのだが、こちらももう少しが緊迫感に欠け、ドキドキハラハラが今一つ感じられない。また、レース中に記者がサイドカーや自動車で併走して全力走行中の選手を取材するという場面がやたら登場するのだが、当時はこれが普通だったにしてもさすがに違和感あり。現在のレースでは絶対あり得ないだろう。もう一つ気になったのは、終章で登場人物達のその後を詳細に記しているところ。「あとは読者のご想像にお任せします」というパターンより個人的には好みなのだが、どうやって死んだかまでは書く必要はなかったのでは?最後に、いつものことであるが上下巻構成は長すぎる。本当にその長さに渡って読み続けていたいと思わせる作品はごく僅か。1冊にまとめていればもっと好印象だったのにという作品の方が圧倒的に多い。本作品も半分でいいとは言わないが、もう少し短くてもいい。
『引フ/エンジン』(矢作俊彦/新潮社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2012年版(2011年作品)16位作品。
主人公が外国人の女殺し屋に翻弄される主人公という作りは、先日読了したばかりの「このミス」2011年版15位作品の佐々木譲『北帰行』に似ている(2人が追い詰められて死亡するという結末も)。タイトルの「引フ」は「エンジン」の中国語で、そこからもうかがえるように著者が車好きらしく、やたらとマニアックな車が多数登場する(オーテック・ザガートなんて一般人はまず知らないはず。自分は知ってはいたが実車は見たことがない)。主人公の愛車であるランエボはともかく、マイバッハやベントレーなどの浮世離れした高級外車が中心なので今一つ惹かれないのだが、小説版「頭文字D」か、というようなシーンもある。あらすじは以下の通り。
築地署の刑事・片瀬游二は、同僚の茂原とともに高級外車窃盗団を追って張り込みをしていたが、持ち場を離れた片瀬の前に現れた金髪の女がティファニーのショーウインドウに突如乱射しダイヤのピアスを奪って姿を消す。茂原は張り込みの車内で殺害されており、マークしていた高級外車も消えていたことで、片瀬は事件への関与を疑われ捜査から外される。狙われている高級外車の情報を提供してくれた瑪(マー)から話を聞き出すべく、知り合いで六本木や銀座で白タクまがいの仕事をしている太ったロシア人、テディ・ボマーのキャディラックで瑪を探すが、彼は東洋人の女と共に殺されていた。瑪の持っていたUSBメモリには「引フ」という名前の付いたファイルが入っていたがパスワードが分からず開くことができない。別れた元妻の玲子から金を借り、瑪のバックにいた大物の趙大徳の店・レオンズミルに向かった游二は、そこでティファニーを襲撃した女・モニィを目撃する。店のロシア娘のマリエットから色々と聞き出そうとするが、そのせいで趙のいる事務所に連れて行かれる。法外な請求書を突きつけられた游二であったが、情報交換によってそれは相殺され最後には20万円の現金を渡され解放される。店からベンツのCクラスでモニィが姿を消した後、同型のベンツが店の前で爆発。モニィが支配人の常磐祐介の車と爆弾を搭載した車とをすり替え、趙の爆殺を狙ったものと思われた。改めてマリエットと会い、何か知っているかもしれない同僚のキリエムのマンションに案内してもらうと、そこには常磐の射殺体が。隠れていたモニィに襲われるも、モニィは押しかけてきた趙の手下との銃撃戦になってマリエットが命を落とし游二は趙に捕まる。趙は、モニィが「引フ」というコードネームを持つフリーランスの殺し屋であること、游二の疑っていた「ムーシカ」と呼ばれるボストークマフィアとは無関係であることを彼に教え、30万円ほどの現金を彼に渡して3日以内にモニィを探すよう命じる。逆らった場合は、游二の指紋の付いた常磐の携帯と、趙が隠している常磐とマリエットの死体が表沙汰になって、謹慎中の游二は免職確定という寸法である。しかし、モニィは自ら游二の部屋へ押しかけてきた。なぜか游二を気に入り、彼とベッドを共にするために。彼女からムーシカが組織の名であると共にボスの名であること、そのボスの本名はビャチェスラフ・スクリャービンであること、彼女が彼をずっと追っていることを知らされる游二。游二は彼女をレストランに連れて行きトイレから趙に連絡を入れるが、その間に彼女に逃げられ、リミットの3日がたったため再び趙に捕まり殺されかける。その彼を助けたのはモニィであった。彼女は趙と接触するため故意に游二を趙に捕らえさせたのだ。モニィはムーシカの居場所を知らなかった趙をあっさりと射殺し、彼の前からまた姿を消す。游二は、「本当の車」の取引に関わっているムーシカの右腕のユスチノフという男の存在をつかむが、つかんだ瞬間にその男が目の前に現れ、さらにその直後に現れたモニィによってその男も殺害されてしまう。新潟港で「本当の車」と思われるマイバッハがモニィに奪われ、游二のランエボとカーチェイスの末、相打ちとなり両者の車は移動不能に。そしてまたモニィは姿を消す。積まれていたブツは、鉛入りのシール材で密封された冷凍庫で中身は鉛のインゴット。どうやらこれはダミーらしい。その後、游二とのよりを戻したがっていた元妻の玲子がモニィに殺害され游二の怒りは頂点に。真の「本当の車」を追って游二はフェリーで那覇に向かう。彼の追っていた「本当の車」はホテルの廃墟に停車するが、その車はすでにモニィの制御下にあり、ムーシカは游二から現場を聞き出し彼の前に現れる。ムーシカの正体はテディであった。テディはブツ=放射能兵器を米軍基地に放置することで日米を大混乱に陥れ世論を改憲ムードに持って行こうとする右派のフィクサー飯島耕範と組んで一儲けを企んでいたのだ。しかし、テディはモニィに瞬殺される。そこに突如現れる警察のヘリ。逃げようとするモニィを游二は射殺。続けてホテルに潜む急襲部隊員に銃を向けた游二も射殺されて物語は幕を閉じる。
この作品の唯一おっと思わせてくれるところは、ラスボスのムーシカの正体が、序盤から登場していた臆病そうなオカマっぽいロシア人運転手のテディだったというところなのだが、茂原の殺害現場近くで防犯カメラに走り去る原付が写っていたのに現場のすぐ近くにいた游二が原付のエンジン音は聞いていないという時点で、キャディラックと共に普段電動のモペットに乗っているテディが怪しいのはバレバレ。さらに、ムーシカが手に入れようとしている鉛でシーリングされた「本当の車」に積まれたブツが、放射性物質であることもどう考えてもバレバレなのに、游二は最後の最後まで気が付かない。このあたりが本作品の最大の致命的欠点である。また游二が「放射能と放射線の違いは心得ていたが」と述べているが、直前の「放射能をばらまく怪獣」という記述からは、游二が本当に分かっているのかどうか怪しい(「放射線」は放射性物質が出す電磁放射線や粒子放射線のことであり、「放射能」は放射線を放出して放射性崩壊を起こす能力(性質)のこと)。游二は、殺された茂原をやたら気にしているが、生前の茂原との交流を描いたシーンがほとんどないので読者がそこにあまり感情移入できないのもマイナス。主人公がピンチになり、女殺し屋が助けに来てまた逃げるの繰り返しには途中から飽きてくるし、前述したように主人公が少々鈍い頭の持ち主で、ヒロインまでが、『北帰行』の人間味のあった女殺し屋とは対極の何を考えているか分からない狂犬であることも作品の魅力を低下させている。「身勝手な刑事が派手にドンパチやって、それを『濃い』言い回しで書き上げればハードボイルドのできあがり」という安易さがとにかく目に付く。上下巻ものでなかったことは救い。★1つというほどの駄作ではないが16位という順位には納得。
2015年11月読了作品の感想
『下町ロケット』(池井戸潤/小学館)【ネタバレ注意】★★★
第145回(2011年上半期)直木賞受賞作。2011年にWOWOWの連続ドラマWでテレビドラマ化、2012年3月20日にTBSラジオでドラマスペシャルとしてラジオドラマ化、2015年10月3日から続編『下町ロケット2
ガウディ計画』が朝日新聞に連載開始、2015年11月5日に単行本が刊行される予定。また、2015年10月18日からはTBS系の日曜劇場でもテレビドラマ化され、10月3日から朝日新聞で連載されている続編が後半5話で映像化され新聞とテレビの同時進行で描かれるという人気絶頂の本作。ミステリではないが気になって借りてみた。
第1章…幼い頃は宇宙飛行士になることが夢だった主人公の佃航平は、宇宙科学開発機構の元研究員であったが、自分が設計したエンジンを積んだロケット打ち上げに失敗。設計ミスという形で責任を取らされ居場所を失った彼は、父親の死に伴って7年前に家業の佃製作所を継ぐことに。佃製作所は精密機械製造業の中小企業で、佃が社長を引き継いでからは業績を3倍に伸ばしていたが、主要取引先の京浜マシナリーから突然取引終了を申し渡され、メインバンクの白水銀行からは3億円の融資を渋られる。さらに追い打ちをかけるように、ライバル会社のナカシマ工業から身に覚えのない特許侵害で訴えられ窮地に追い込まれる航平。法廷戦略の得意なナカシマ工業の狙いは、裁判を長期化させて佃製作所を倒産寸前まで追い込み、最終的に佃製作所を傘下に収めて技術を奪おうというものであった。航平は思い切って頼りない顧問弁護士の田辺を切り、元妻の紹介してくれた知財専門の凄腕と呼ばれる神谷弁護士に変更する。神谷はナカシマの戦略を見抜き、佃製作所がこれまでに取得した特許を見直した上で、逆にナカシマを訴える手に出る。
第2章…一方、日本を代表する企業・帝国重工の宇宙航空部では、新型水素エンジンを搭載した大型ロケットを開発する「スターダスト計画」という一大プロジェクトを藤間社長の肝いりで推進していたが、キーテクノロジーと言える新型エンジンバルブの特許が佃製作所に先に出願されていることが判明し動揺が走る。キーテクノロジーは内製化するという藤間社長の方針があったため、財前部長は20億での特許の買い取りを佃製作所に申し出るが、多くの役員が申し出を受けるべきという意見の中で、経理部長の殿村の応援もあり航平は拒否する。財前は大学の同期でナカシマに勤める三田に裁判の行方について探りを入れるが、佃製作所がナカシマに買収されてしまってはますます事態が困難になることを知り焦り始める。佃製作所がナカシマ相手に起こした裁判の方は、神谷のおかげで思わぬ方向に進む。裁判官がナカシマの悪質な戦略を見抜き、佃製作所に有利な和解案を提案してきたのである。東京経済新聞によってナカシマの悪質な法廷戦略が特集されたこともあって、ナカシマが佃製作所に56億円の和解金を払いナカシマから佃製作所への訴えは取り下げるという和解が成立し航平は窮地を脱し、財前は特許使用契約に方針を変えざるを得なくなる。
第3章…手のひらを返すようにすり寄ってきた白水銀行を航平と殿村は追い返し、入れ替わりにやってきた帝国重工の財前は特許の買い取りをあきらめ特許使用契約を申し出るが、元妻との会話から航平は自社製品の帝国重工への供給を思いつき、役員の反対の中、航平は財前に部品供給案を提案する。当然のように呆れる財前であったが、佃製作所を見学し考えを改める。財前の部下の富山は、水原本部長の意向を受けて佃製作所のテストを厳しい基準で行い何とか不合格に持ち込もうと画策する。そんな時、航平の元に超一流のベンチャー・キャピタルから佃製作所を大企業に売却しないかという話が持ち込まれる。
第4章…会社の売却話の直後に、宇宙化学開発機構の元同僚で現在は大学教授の三上から教授として招聘したいという話を聞いた航平は、社内での自分への反感が高まっていたこともあって大いに心が揺れ動く。小型エンジン開発チームにいる真野は、社内でも特に大きな不満を抱えていた。
第5章…いよいよ帝国重工によるテストが始まったが、言いたい放題言われた佃側は惨敗の様相であった。しかし、帝国重工が佃製作所の良さを正しく評価をできないならば付き合う必要はないと言い切って社員達を励ます殿村。航平に反発していた社員達も、佃製作所を最初から見下した帝国重工の横暴に対し2日目から気合いを入れて臨み、帝国重工側も佃製作所の技術力の高さに少しずつ気付き始める。予想外の状況に富山は危機感を募らせるが、佃製作所製のバルブの動作性能テストで異常値が出たという報告に新たな希望を見出す。
第6章…バルブのテストで異常値が出た原因は、航平の方針に反感を持っていた真野による正規品と不良品とのすり替えであった。真野は辞職し、富山は嬉々としてテストを打ち切ろうとするが、航平は、つまらない理由を付けて製品供給を拒絶する相手より、正しい評価をしてくれる相手と取引すると断言する。三上教授をも利用していた水原本部長は、航平の固い意志にとうとう降参し、テストの続行を命じる。
第7章…最後のテストとなる燃焼実験は失敗に終わるが、帝国重工側のミスが判明。佃製作所の製品採用を勧める財前のプレゼンに藤間社長が同意し、2度目の燃焼実験は無事に成功、社員達から歓喜の声が上がる。また、航平の口利きで三上のいる大学の研究員となっていた真野は、航平に新バルブシステムの人工心臓への転用を提案する。
エピローグ…種子島宇宙センターからのロケット打ち上げは見事成功。不和が続いていた娘の利菜から花束を渡された航平は、もう何も考えられなくなっていた。
11作ぶりの★3つ作品。佃製作所を窮地に追い込んでいたブラック企業のナカシマ工業が完膚無きまでにたたきのめされ、佃製作所が窮地の時に融資を渋りながら和解金が入った途端に手のひらを返してきた白水銀行を主人公たちが突き放す場面は、それまでの佃イジメがあまりに酷かっただけに実に痛快。その後も会社内外の反発者を次々に味方に付け、感動のクライマックスへ一気に突き進む様はお見事としか言いようがない。完璧である。
『残穢(ざんえ)』(小野不由美/新潮社)【ネタバレ注意】★
「このミス」2013年版(2012年作品)17位作品。小野不由美と言えば「このミス」1999年度版4位の『屍鬼』のインパクトが今でも残っている。次から次へと登場人物が増えていき、異様にダラダラと物語が続くのだが(文庫版で全5巻)、それでも読むのがやめられない中毒性の高い作品だった。今回の久々の新作を結構楽しみにしていたのだが読み始めて気が付いた。この方はホラー小説作家だったのだと。正直苦手なジャンルである。本作には著者自身がホラー小説作家として登場し、読者から投書のあった怪奇体験を紹介するといった、まさに直球ど真ん中の内容。少々びびりながら読み始めたあらすじは以下の通り。
作家の「私」は、作品のあとがきで怖い話を募集しており、30代の女性ライターの久保から自分の住んでいる賃貸マンションの204号室に何かがいるような気がするという手紙をもらって以来交流を続けていた。久保の話によると、和室の方から畳を箒で掃くような音がするが振り返ってみても何も見えないという。その後、一瞬帯らしきものが見えたことから、それは帯が左右に揺れて畳にこすれる音であると分かってきて、この部屋でかつて首つりがあったのではないかという疑いを持つが、調べてみてもそのような事実はないらしい。しかし、401号室でも同じようなことが起こっていたこと、それを体験した401号室の前の住人はなぜか僅か9ヵ月で転居してしまったこと、現在の401号室の住人の西條は特に何も感じていないようだが401号室には人が居着かないという噂が昔からあったこと、203号室も住人の回転が速かったこと、久保の前に204号室に住んでいた27歳の独身男性・梶川が転居後自殺していたこと、梶川が転居先のアパートに子供がいないかを気にしていたことなどが明らかになる。
そして、似たような怪異現象がマンション近くの一戸建てでも発生していることが分かり、その後その範囲がさらに広まっていることが判明する。
2人は調査範囲を広げ、時代も遡って調査を進め、ついに元凶が福岡の奥山家にあることを突き止める。炭鉱王と呼ばれた奥山義宜という人物が明治の末か大正の初頭に家族を皆殺しにして自殺、奥山家は絶えることになったが、その「穢れ」が人物や建物の部材に「感染」して全国に広がった
らしい。「感染」して不幸な死を迎えた者が新たな「穢れ」を生み、二重三重となった「穢れ」が拡散していると考えられたが、「私」は自分たちが遭遇したものが何だったのか結局分からないまま調査を終えたのだった。
これはいわゆる「ルポタージュ」である。「私」は読者の久保と組んでどんどん怪異現象の調査を進めていくのだが、どうしてそこまで?というくらい徹底した調査を行い、その結果報告を書き連ねていっている。そこまでするか?と突っ込みたくなる方もおられるだろうが、それはまあよい
(それより大量に登場する取材対象の人名が鬱陶しく、悪い意味で『屍鬼』を連想させた)。そして、2人はその怪異現象が福岡で起こった事件を発端に全国に拡大していることを掴むのだが、怖い話が苦手な自分にとっては幸いなことに意外と怖くない。最初に登場した怪異現象がどのようにエスカレートしていくのかビクビクしていたのに、同じようなレベルの軽い怪異現象が各地でポツリポツリと確認されるだけで全くエスカレートしないのだ。「穢れ」は土地に縛られるものではなく「感染」するものだという点が本作のポイントなわけだが、それも「感染」したりしなかったりする場合があり、ある場所に「感染」しても
そこに住む人によって、それが感じられたり感じられなかったりするという。そこがいかにも実話っぽくてリアリティがあって怖いという人もいるだろうが、桁外れの「怖さ」を期待していた人にはやはり期待はずれであろう。調査をしていた2人にトラブルが発生し、もしやと期待させるが、結末までに2人は回復。結局元凶が突き止められたこと以外に何のオチもない。山本周五郎賞受賞作とのことだが、これは相当に厳しい作品だ。
『ラバー・ソウル』(井上夢人/講談社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2013年版(2012年作品)13位作品。物語のラストで世界が反転するという典型的パターンのミステリだが、読者によって賛否別れそうな作品。
足に障がいがあり、幼い頃の病気のせいで顔も醜かった鈴木誠は、家が裕福だったことで経済的には何不自由なく暮らしていたが、自分の顔を人が恐れるため、自宅に引き籠もる生活を続けていた。しかし、洋楽の知識が豊富だったことで洋楽専門誌に彼のビートルズ評論が認められ、彼は少しずつ社会に関わり始めていた。そんな彼が、36歳のある日、洋楽専門誌の関係者から彼の所有するコルベットをモデルの撮影のために貸し出すことを依頼される。撮影現場で鈴木はモデルの美縞絵里に出会い強く惹かれるが、その現場で偶然発生した事故によりカメラマンと絵里の親友だったモデルのモニカの2名が死亡。絵里をコルベットで自宅へ送り届けることになった鈴木は舞い上がる。その後、絵里はモニカの部屋を最後に一目見たくて、モニカと同棲していた同じモデル事務所の遠藤裕太と共に部屋を訪れるが、鈴木は裕太を絵里の心の隙間につけ込んで彼女に迫ってきた邪魔者として絵里の帰宅後に裕太を刺殺し、証拠隠滅のため部屋に火を放ち逃亡する。鈴木は、絵里のマンション前の事務所を借りて彼女を監視すると共に、裕太の殺害現場から持ち出したモニカの携帯電話で絵里に電話をかけ続け、絵里をはじめ事務所のモデルやスタッフ達を「霊界からの着信」として震え上がらせる。裕太の営業担当だった富永賢志は、裕太の殺害犯の仕業と見抜いて調査を始めるが、彼も鈴木に車ごと海に突き落とされて死亡する。勢い余った鈴木はついに絵里の部屋に侵入し、彼女ともみ合いの末、胸に包丁が刺さったままベランダから飛び降りて死亡する。ここで物語は急展開し、何と絵里が逮捕される。実は、裕太も富永も殺害したのは絵里であり、鈴木は自分に生きる意味を与えてくれた彼女を守るためにいつ警察に捕まっても良いように計画的に変質者を装っていたのだった。
本作は、事件当時の時間軸のシーンと、現在の警察での聴取と思われるシーンを、それぞれに多くの事件関係者を登場させて交互に描いている。その聴取シーンの中に鈴木のものも含まれているため、ああ、彼は最後に逮捕されるのだなと思って読んでいると、終盤に突然彼が逮捕もされていないうちに死亡して読者を驚かせる。上のあらすじにも書いたように、実は真の犯罪者はストーカー被害者と思われていた絵里であり、鈴木は純粋に彼女の犯罪を隠すために彼女に協力し、警察に自分が加害者として逮捕された時のストーリーまで作り上げていたというオチが用意されている。その彼が作った警察との想定問答集というべきものが、他の登場人物の聴取シーンに紛れて鈴木の実際の聴取シーンのように本作内で使われていたことで読者をミスリードしたわけだが、これを「アンフェア」だと非難する読者がいることは間違いなかろう。このどんでん返しをより強烈に読者に印象づけるために著者は鈴木の「キモさ」を延々描き続けていたのだろうが、自分も、その膨大な描き込みがこのオチでは釣り合わないと感じる1人である。こんなオチのために用意するにしては、この文章量は長すぎる。なぜ、絵里はさっさと警察に相談しないのかと長文に耐えイライラしながら読んでいたが、オチを知って脱力してしまった。本筋から外れるが、そもそもお金持ちの鈴木が、なぜ顔の整形手術をしなかったのかというのもずっと気になっていたが、それに触れる描写はないままに終わってしまった。現在の美容整形技術ならいくらでも容姿は整えられそうなものだが。ビートルズのアルバムに掛けた構成になっているというのも本作の売りであり、それもあってこれだけの長さになったのかもしれないが、ビートルズに何の思い入れもない多くの読者にとってはそこは全く響かない。本作のどんでん返しを高評価する読者には、どんでん返しだけなら他にもっと良作があると言いたい。本作は、それなりに読ませてくれるし、孤独な男の悲哀を感じさせてくれる作品であることは認めるが、やはりビートルズとミステリの両方のファンという狭い読者層のみにしかオススメできない作品である。
『不夜城U鎮魂歌』(馳星周/角川書店)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」1998年版(1997年作品)5位作品。前作を読んだのは20年近く前で全くストーリーは覚えていないが、面白かった印象は残っているので、その続編である本作には大きな期待を持って読み始めた。
前作の2年後の歌舞伎町。2年前のチャイナマフィアの戦争によって北京グループの崔虎(ツイフー)が力をつけ、ボスを失って弱体化した上海グループも朱宏(ヂューホン)という新しいボスを得て巻き返してきていた。彼らに大きな影響力を与えていたのは「薬屋」と呼ばれる漢方薬店の老店主・楊偉民(ヤンウェイミン)。彼は二大勢力のバランスを取ることで、自分の儲けやすい世界を維持していた。そんな楊偉民は、北海道で飼っていた殺し屋の郭秋生(グオチウション)を呼び寄せ、崔虎の部下で四大天王の1人である張道明(ヂャンタオミン)を殺させる。張道明はパチンコの変造プリペイドカードで稼いでおり、その稼ぎで北京が必要以上に力を持つことを嫌ったらしい。部下を殺された崔虎は激怒し、彼の飼い犬となっていた元刑事の滝沢誠に犯人捜しを命じる。滝沢は四大天王の1人である魏在欣(ウエイザイシン)に罪をかぶせ崔虎のさらなる怒りを買い、暴力団の覚醒剤を強奪してヤクザからも追われる身となり、刑事時代の相棒の鈴木からも見限られてどんどん追い詰められていく。そんな彼は、情報通である前作の主人公・劉健一(リウジェンイー)を頼る。また、いつもなら仕事が終わればすぐ北海道に帰されるのに、楊偉民によって朱宏に貸し出され不安を抱いた郭秋生も劉健一を頼るようになる。朱宏から彼の愛人・楽家麗(ロージアリー)のボディガードを任された郭秋生は、彼女に惹かれ関係を持つようになるが、楽家麗には大きな秘密があった。彼女には中国で民主化運動の活動家だった兄を政府に売った過去があり、その同胞であった謝圓(シエユエン)に脅迫されていたのだ。彼女は謝圓を殺害し、彼女がその死体の処分を任せていたのも劉健一であった。彼女の弱みを握った滝沢は、彼女から金をせしめて歌舞伎町から逃げだそうとするが、謝圓失踪の真相を知っている者として疑いを掛けられた楽家麗が、謝圓の所属する活動家グループ・人戦のメンバーによって攫われる。パチンコのプリペイドカード解析を行ったのが謝圓であり、上海同様に人戦にとっても彼は貴重な金づるだったのだ。滝沢は郭秋生と協力して楽家麗の奪回を企てるが思わぬ邪魔が入る。四大天王の1人・陳雄(チエンシオン)だ。滝沢と郭秋生は協力して人戦と陳雄達を皆殺しにして楽家麗を救出する。彼らは検問を突破するために鈴木を呼び出し利用するが、逃走中に1人で逃げだそうとした鈴木を郭秋生は殺してしまう。郭秋生が地下銀行から楽家麗の金を下ろしている間に、滝沢と楽家麗はヤクザに拉致され、郭秋生も朱宏に拉致される。滝沢と郭秋生はあうんの呼吸でヤクザと朱宏を出し抜き両方を倒して脱出に成功するが、滝沢は思わず楽家麗を撃ってしまう。それに気付かなかった郭秋生は取り乱し、昔、楊偉民の後継者と目されていた周天文を頼る。周天文が呼んだ医者が楽家麗を治療し帰った後、2人は話し合っていく中で、今回の事件のすべての元凶が劉健一であり、あらゆる場面において彼が裏で糸を引いていることに気が付いていく。劉健一は、自分に恋人を殺させた楊偉民を筆頭に、歌舞伎町を牛耳ろうとする全ての者を怨んでいた。彼は人身売買で金を貯め、その金をばらまくことで味方を増やし、今回の計画を実行に移したのだ。そして滝沢と郭秋生はお互いに望まない撃ち合いになり、滝沢は郭秋生を撃つが、郭秋生はあえて滝沢を撃たずに周天文と自分を裏切った楽家麗を撃つ。滝沢は、自分の人生を弄んだ楊偉民と劉健一を殺してくれるよう言い残して事切れた郭秋生との約束を果たすべく楊偉民の経営する薬屋へ乗り込むが、楊偉民の新しい後継者・徐鋭(シウルイ)を目付役として劉健一を殺害する役を強いられる。しかし、劉健一の方が1枚上手で、彼は徐鋭さえも手なずけていた。ここまで生き延びてきた滝沢も遂に徐鋭のナイフの餌食となり、劉健一は徐鋭に楊偉民殺害を命じる。警察は一連の事件をすべて滝沢に押しつけ、劉健一は歌舞伎町の半分を手に入れたのであった。
これまで多くのハードボイルド小説を読んできたが馳星周は別格である。バイオレンスの度合いも半端ないが、読者を引き込む力が尋常ではない。暴力と暴力のぶつかり合いだけでなく、その中に強烈な人間の生き様が描かれている。突っ込みどころがないというより突っ込む気になれない。それくらいこの作品には圧倒的な力がある。だらだらと話を引き延ばす余計な装飾もないのも良い。体脂肪率を限界まで下げたボクサーのような作品だ。先日読了したばかりの『怒り』以上にゲイが登場するが、そっち方面に関しての性描写はほとんどなく、どちらかというと男同士の友情的な表現が中心なので、苦手な人も気にならないだろう。20年近く前の作品ながら古さは全く感じなかった。筆者は数年に一度直木賞候補になり、今年も『アンタッチャブル』でノミネートされながら受賞できなかったようだが、そのうち間違いなく受賞するはずだ。2004年にシリーズを締めくくる『長恨歌 不夜城 完結編』も出ているようなので機会があれば読んでみたい。
『喝采』(藤田宜永/早川書房)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)14位作品。前回の馳星周『不夜城U鎮魂歌』は同じ著者の作品を読むのが20年ぶり近かったが、今回の『喝采』も同様に同じ著者の作品『鋼鉄の騎士』を読んだのは20年近く前。違うのは、馳星周作品には面白いイメージがあったが藤田宜永作品にはあまり面白いイメージがないこと。好きな車ネタの物語であったにもかかわらず、妙にだらだらと長くて読み疲れた記憶しかない。前作が第二次世界大戦直前のパリを舞台にしていたのに対し、今回は1970年代の東京が舞台のため、思っていたより読みやすくすんなりと世界に入ることができた。最近読むことが多くなっているハードボイルドものだが、果たして結果はどうか。
元警視庁捜査一課の刑事だった父が新宿に開いた探偵事務所を、1971年の父の死と共に31歳の時に引き継いだ息子の浜崎順一郎は、引退した女優・神納絵里香を探してくれるよう彼女の娘を名乗る女子大生・中西栄子から依頼される。絵里香が現役時代に彼女のライバルだった福森里美らの協力もあって彼女の居場所を突き止め、娘と会う約束を取り付ける浜崎であったが、約束の時間になっても栄子は待ち合わせの場所に現れない。やむなく浜崎が絵里香の部屋を訪れたところ彼女は毒殺されていた。浜崎は警察に連絡し事情を話すが、彼に依頼をしていた女性が中西栄子とは別人であることが判明し、彼は有力な容疑者となってしまう。本物の中西栄子は、今回の事件の直前にスリの被害にあった現場を目撃した浜崎がそれを教えてやった相手であった。浜崎は本物の栄子と接触し、偽物の栄子が栄子の高校時代の同級生の松浦和美であることを突き止めるが、和美は事件直後から失踪していた。しかし、和美の交際相手の斉田竜一が、日新映画の元社長で絵里香を愛人にしていた斉田重蔵であったという思わぬつながりが見えてくる。順一郎は、父の同僚だった榊原から父が亡くなる前に現金輸送車襲撃事件を追っていたことを聞き、その事件の記録ファイルを事務所で見つけ、現在まで絵里香と関係のあったゴルフ会員権の売買会社の社長・馬場幸作が襲撃犯の一味ではないかと父が疑っていたことを掴む。絵里香が仕事もないのに何不自由なく暮らしていたのは、この襲撃事件と関係があるのか、また、絵里香の毒殺事件、松浦和美の失踪事件、現金輸送車襲撃事件は、別物でありつつも、どこかで微妙につながっているのではないかと考える順一郎であった。その後、現金輸送車襲撃事件への関与を疑われた同信銀行有楽町支店副支店長の蟻村貢の調査を父に依頼していた副頭取の津島哲治郎から調査継続の依頼を取り付けた順一郎の事務所に、突然和美が現れる。彼女から、絵里香の部屋から出てくる里美の元夫で映画監督の南浦清吾の姿を見たという証言を得た順一郎は、彼女を竜一と共に警察に出頭させる。馬場と付き合いのあった元暴力団員の金貸し・渡貞夫の女の家を突き止めていた順一郎は、彼女の家に向かう途中、中西栄子にスリを働いた女性の犯行現場を再び目撃する。彼は彼女のすった財布を交番に落とし物として届けさせ罪を見逃す代わりに仕事を依頼する。順一郎が南浦から話を聞いた後、彼の手帳を奪うという仕事である。彼女はその仕事を成功させ、南浦の手帳から、馬場が実態のない会社を使って南浦の映画に出資しているらしいことを掴み、順一郎は直接馬場を追及するが馬場は全く尻尾を見せない。そして榊原と情報交換した翌朝、順一郎の先輩の新聞記者の古谷野から渡貞夫殺害のニュースが飛び込んでくる。犯人は分からないまま物語は進み、今度は同信銀行の元行員・大林が自殺する。そして、順一郎は馬場が空き事務所から
飛び降り自殺しようとしている現場に出くわし、彼が渡と大林と組んで現金輸送車襲撃を行ったことを吐かせる。しかも、探偵事務所で心臓麻痺で死んだ順一郎の父が倒れたその場に馬場がおり、救急車も呼ばずに逃げ出したことを知った順一郎は、彼をビルの窓から投げ落とそうとするが思いとどまり警察に引き渡す。
犯罪に絡んだ出資金で制作されたことが明らかになった南浦の映画は、里美の体験を元にしたものであり彼女は公開されることを心から望んでいた。その上映に尽力してくれた順一郎に里美は心を動かされ、ついに2人は結ばれる。しかし、絵里香殺害に里美が関与していた証拠が次々に出てきて、順一郎は彼女の部屋で彼女を問い詰めざるを得なくなる。彼女は犯行を全面否認し彼を追い出すが、数日後彼を訪ねてきた彼女は、絵里香と渡の殺害を自供。映画の公開後、彼女は失踪し山中での自殺が明らかになる。順一郎は窓を開け、雪の激しく降る暗闇に向かって「里美、映画館での喝采、聞いたよな」とつぶやくのであった。
まず、主人公の順一郎が、年増といってもよい年上の福森里美にあそこまで惹かれるのかがよく理解できない。これまでに読んだ作品の中でも気になったことがよくあったが、ビジュアルがない分、文章でその登場人物の魅力をしっかり伝えてもらわないと、いくら作者の中に詳細な人物像ができあがっていても読者には届かない。最後の最後まで体の関係に進まないストイックさは嫌いではないが、もう少し分かりやすさがほしい。それ以上に一番この作品で困ったのは、ハードボイルドらしい含蓄のある表現やセリフに時々惹かれることはあるものの、中盤以降、山も谷もなく、とにかく話がだらだら続いて退屈なこと。最後に大きなどんでん返しでも待っているのかと期待したが(榊原が黒幕だったとか)、そういう展開はまったくなく、ラストで犯行を全面否認した里美が、その直後にあっさり認めてしまうなど拍子抜け。終盤に関尾というヤクザの新キャラが登場して、こいつが犯人だったら読者は怒るだろうと思っていたら、大した働きもなくフェードアウト。意味のない話の引き延ばしは本当にやめてほしい。1970年代が舞台だけあってその匂いを漂わすキーワードがこれでもかというくらい登場するが、その時代と場所を知っている読者が若干ノスタルジーに浸れるというだけで、特にそれらを物語に登場させる必然性を感じないので個人的には何の感慨もない。地元出身の直木賞作家ということでオススメしたいのはやまやまだが、残念ながら積極的にはオススメできない。
『ジョニー・ザ・ラビット』(東山彰良/双葉社)【ネタバレ注意】★
「このミス」2010年版(2009年作品)13位作品。基本的に読んだことのないミステリを片っ端から読んでいるため、事前にあらすじを確認したりすることはほとんどない。その結果まさかのハードボイルド3連発になってしまったわけだが、ハードボイルドと言っても主役の探偵はなんとウサギ。で、ウサギが主人公ならかわいい子供向けの話かというと、いきなり下ネタ全開。数ページ読んで、読書感想文の課題図書になることは100%ないであろうことはすぐに分かるし、何かの賞を狙っているわけでもないこともよく分かる。いわゆる「このミス」に時々見られる「ぶっ飛び」系のミステリなのだが、本も非常に薄く、ある意味気軽に読めそうなので長編の読書にちょっと疲れていた自分としては少し嬉しく思いながら読み始めた。
人間のマフィアのドン、カエターノ・コヴェーロにペットとして飼われていたウサギのジョニー・ラビットは、飼い主が電力会社の総帥、ジョルジ・マンシーニの部下のラッキーボーイ・ボビーに殺された後、シクラメン通り13番に探偵事務所を構えていた。そんな彼の元に、ある日ソフィア・ラビットという雌ウサギからテレンス・ラビットという名の弟を捜してほしいという依頼が舞い込む。ジョニーは彼女が嘘をついていることを瞬時に見抜き、テレンスが彼女の弟ではなく「兎の復活教会」の信者であり、教会として彼を捜していることを彼女に告白させる。そして彼女がまだ何かを隠していることを感じながらも彼は依頼を引き受ける。シクラメン通りのはずれにあるバーを経営しているロイ・ラビットから、スズラン谷で兎の真の復活を説いてまわっている妙な連中がいるという情報を得たジョニーは、途中で銀狐に襲わたりスズラン中毒者にからまれたりしながらも、何とかスズラン谷にたどり着く。そして、捜していたテレンスが向こうから彼の前に現れる。人間を全て滅ぼすためにまず兎が滅びないといけないと主張するテレンスに激高したジョニーはテレンスを痛めつけるが、霧吹きでスコッチウイスキーを撒かれて立場が逆転する。ウサギは蒸発したアルコールを吸い込むと死ぬことがあるくらいアルコールが苦手なのだ。ジョニーが意識を取り戻した時には原子力発電所でアルコールを使ったテレンスを含んだウサギの集団自殺は行われた後で、ジョニーは無力感に襲われる。暗殺された環境保護団体の活動家、モー・モンゴメリーの後継者で、マンシーニの原子力発電所の危険性を訴えていたアーヴィン・バレンタインがテレンスの父親の飼い主であったことを知ったジョニーは、バレンタインの家に向かう。しかし、マンシーニを脅迫して金を手に入れたバレンタインは、マンシーニの差し向けたボビーによって殺され、ジョニーをバレンタインのペットだと思い込んだボビーはジョニーを飼い始める。そして飼い主の仇だったはずのボビーとの奇妙な共同生活が始まる。ジョニーの企みによって、マンシーニの片腕のブルーノ・ラニエリに不信感を持ち始めたボビーはブルーノとの対決を決意するが、ブルーノの正体はマンシーニの逮捕を目的とした潜入捜査官であり、警官隊に追い詰められたボビーに非情な射殺命令を下す。被弾したジョニーはボビーと共にその一生を終えるのであった。
気軽に読める作品ではあったが、何が言いたいのかさっぱり分からない。ハードボイルドなウサギ探偵の視点から人間の愚かさをシニカルかつコミカルに描こうとした試みは面白いとは思うが、それが成功しているとは思えない。この年の「このミス」12位作品『函館水上警察』もあまりの内容の厳しさに★1つを付けたが、13位の本作も間違いなく★1つ。この年の14位以降はまだどれも未読なのだが、これで完全に読む気が失せた。後書きの解説者は、著者が書いた最高の作品の1つと言い切っているが、それならもうこの著者の作品を読むことはないだろう。
『イノセント・デイズ』(早見和真/新潮社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)20位作品。3作続いたハードボイルド小説から一転して、死刑囚を扱った激的に重い作品。
プロローグからは、元交際相手の井上敬介の家に放火し、その妻と幼子2人を死に追いやり死刑判決を受けた田中幸乃と、彼女に関わることになる若き女性刑務官・佐渡山瞳の苦悩を描いた作品と思わせるが、実際には、いかにして死刑囚・田中幸乃は生まれたのかという、彼女をめぐる人間模様が様々な関係者の視点から描かれていく。
第1部の第1章では、幸乃を17歳で出産することを彼女の母ヒカルに決意させてしまった産婦人科の丹下建生の苦悩、第2章では、幸乃を守れないまま生き別れてしまった血のつながらない姉の倉田陽子の苦悩、そして第3章では、幸乃の中学時代の同級生で執拗なイジメを受けた挙げ句間がさしてやってしまった古書店での強盗の罪を幸乃にかぶせた小曽根理子の苦悩を描く。特に第3章で描かれるイジメのシーンは反吐が出そうな内容で、このあたりから読むことが苦痛になってくるのだが、第4章で犯罪者としての幸乃への印象がさらに変わってくる。第4章の視点は敬介の友人・八田聡で、この章では、それまで無垢で同情すべき被害者という印象しかなかった敬介がいかに「人間のクズ」であったかが描かれ、幸乃の裁判を傍聴した聡は彼女を救えなかった自分を責める。短い第5章では冒頭部から久しぶりの幸乃の視点になり、彼女が敬介に捨てられて精神を病んでいく様子が描かれる。
そして、第2部第6章では、丹下建生の孫であり、幸乃の幼なじみの1人だった丹下翔の視点に移る。司法試験に受かった彼は、幸乃の事件を知り、幸乃に面会するため毎週東京拘置所に通うが一向に彼女は会ってくれない。行き詰まった彼に、彼の父は「ある死刑囚との日々」という幸乃のことを綴ったらしきブログを見せる。それは八田聡の手によるものだった。ついに彼女との面会が叶った翔であったが、彼の再審請求の誘いに彼女は全く興味を示さないまま面会室を去ってしまった。しかし、彼は彼女の口から自分が忘れてしまっていた幼なじみの男子メンバーの1人・佐々木慎一の名を聞き、彼が傍聴席にいたことを知る。友人の富樫健吾おかげで聡と会うことができた翔は、幸乃が生まれながらにしてのモンスターだったわけではなく、誰がモンスターにしたのかを検証することが自分にとっての禊ぎだと言い、それでフリーライターの佐々木慎一の取材も受けたのだと言う。慎一の連絡先を知った翔は、彼を連れて行けるかもしれないという手紙を幸乃に書き、再び彼女に面会するが、彼女は慎一はおろか翔とも2度と会わないと告げる。最後の第7章では、慎一の視点となる。翔と会うことになった慎一であったが、翔は幸乃の死刑という前提を当然のように受け入れた人間に見え、本音を話すことができなかった。幸せだった幸乃の家庭を壊したのは、彼女の両親の悪い噂をふれてまわっていた彼女の祖母のせいであったこと、そのことに自分の母や自分自身までが荷担していたこと、そしてクラスメイトからイジメを受けていた慎一があちこちで万引きさせられていて、幸乃が理子の強盗の罪をかぶった古書店でレジから金を盗み続けていたのが彼だったということも。そして、翔と再会してから半年後、ついに慎一は幸乃の支援団体の集会で自分の罪を告白する。そして、妻に見つかったためブログを閉鎖するという聡から、放火事件に関して誰にも明かせない秘密を抱えた人物からメールが来ていたことを明かされた慎一はその老婆に会いに行く。そこで聞かされた内容は、衝撃的なものだった。事故死した老婆の孫は、生前敬介の住むアパートのオーナーに説教された腹いせに仲間と共にアパートに放火していたのだ。幸乃は無実だった。慎一は「本当に間に合った」とつぶやき翔に電話するのであった。
そして、エピローグ。看守部長から幸乃の死刑執行にあたり連行役を命じられた瞳は、幸乃の「興奮すると意識を失う」という病気を利用して刑の執行の延期を企てるが失敗に終わり、刑は執行されてしまうのであった。
自分を必要としてくれた人間に次々と裏切られ続けた結果、死を望むようになった幸乃。世間からは死刑で当然と思われていた彼女には、数え切れないくらいの同情の余地があったことが次々と明らかになり、しかも死刑の最大の理由であった放火という犯行にすら関わっていなかったという真相が明らかになる。その真相をついにつかんだ幼なじみ達であったが、その情報がどのように扱われたかが全く明らかにされないまま彼女の死刑は執行されてしまうという何とも救いようのない物語。百歩譲って間に合わなかったという結末でもやむを得ないとしても、せっかくつかんだ無罪という真相が誰にどのように伝わり、また伝わらなかったのか、もう少し描いてくれてもよかったのではないか。翔の誕生日でもある9月15日。慎一が真相をつかんだ日と、幸乃の死刑が執行された日が同じだったため、全てが間に合わなかったというのはあまりに残酷すぎる。最初から死刑は免れないだろうという気持ちで読んでいた読者は、読み進めながらまさかの展開に希望を見出し始めていくのに、最後の最後でどん底に突き落とされるのだ。終盤に近づくにつれ★3つをつけようと心に決めかけていたものが最後に一気に崩れた。
しかし、それ以外の点については、本作を高く評価したい。死刑判決が覆されるニュースを見ていると、正直なところ「助かって良かった」と素直に思えない部分の方が大きい。大昔の警察ならともかく、現代の最新の捜査では相当の根拠があって逮捕されているはず。単に証拠が不十分だったというだけで、死刑囚が一転して完全無欠の善人のヒーローのように扱われるのには大きな違和感を感じる。逆転無罪になった元死刑囚の中には実際に犯行を行った人間も少なからず混じっているはずだ。悔しい思いをしている警察関係者、被害者も多かろう。しかし、そういう見方が強すぎても危険であるということが本作のテーマの1つだろう。ああ、こいつはやっていそうだという思い込みが、いかに恐ろしいものかを本作は示している。無実の死刑囚が死を望んでしまえば、過ちは簡単に起こりえるという事実。そこに筆者は世間の目を向けさせたかったのだろう。
だが、実は自分が最も気になったのはそこではない。死刑囚・田中幸乃を作り出した1番の原因は何か。それは「イジメ」だという事実だ。理子と慎一がイジメに遭っていたことが結局のところ、幸乃を追い込む元凶になっていたのだ。もちろん「イジメ」を平気で行う子供を育てた親こそ最悪の犯罪人だ。なぜ世間にはこれほど悪い大人があふれているのだろう。イジメに限らず老若男女が引き起こす様々な情けない事件が毎日のように報道されるが、本当に日本の将来が心配である。
『貘の檻』(道尾秀介/新潮社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)11位作品。
主人公は、1年前に妻の智代と離婚し、小学3年生の息子の俊也と月に1度だけ会えることになっている大槇辰男。智代には再婚話があるらしく、智代からゴールデンウイーク中に俊也を預かってほしいと頼まれ引き受けた彼は、ゴールデンウイークの間に俊也を生まれ故郷のO村へ連れて行くことにする。智代からそのことを頼まれた日、長らく精神を病んでいた彼は駅で飛び込み自殺をするつもりだったが、彼はある女性の飛び込み自殺を目撃することでそれを思いとどまったのだった。その女性は、かつてO村の住人で小学校の教師をしていたが土砂崩れの事故で顔に大怪我を負い、彼の父・石塚充蔵によって救助された曾木美禰子だった。32年前、O村では農業組合の代表であった檜場宗悟の他殺体が発見される事件が発生。遺体の胸に充蔵の小刀が刺さったままであったことから充蔵の関与が疑われたが、充蔵の遺体も水路から発見され、事件は未解決のまま辰男は母のとき子と共に村を離れたのであった。顔に怪我を負って以来教職を辞して自宅に籠もって信州紬を織って生計を立てていた美禰子がこの事件と同時に失踪したことから、充蔵が宗悟と美禰子を殺害して埋め、水路に隠れていたところを水路への放水によって溺死したと考えられていたが、美禰子が生きていたことから、週刊誌は美禰子こそ檜場と充蔵殺害の犯人ではないかと報じるようになっていた。
O村で江戸時代に村に穴堰と呼ばれる地下水路を作った英雄・三ツ森六郎実充の子孫で、辰男が子供の頃から世話になっていた三ツ森塔士の自宅に滞在することになった辰男と俊也は、郷土史を調べて回っている綾根という若者と出会う。綾根や塔士の義姉の公恵らと話している時に村の会合から帰ってきた辰尾の父・玄勝は、大事な村の合併話が進んでいる時に過去の醜聞の関係者の滞在は迷惑だと辰男達を追い出そうとする。辰男は素直にその要請を受け入れるが、突如、過去の封印していた記憶を思い出す。狩猟中の怪我で猟師を続けられなくなった彼の父の充蔵が、美禰子のところへ通い彼女と関係を持ち、しかもその様子を充蔵の同意の下に宗悟が撮影していたこと、その様子を辰男が毎日のように覗き見していたこと、そしてある日、美禰子が宗悟を包丁で刺したこと…。混乱する辰男は、山中の水分神社に上着と共に忘れてきた薬を求めて三ツ森宅を飛び出し車にはねられる。いつの頃からか化け物の気配に悩まされるようになっていた辰男はベランダから飛び降り自殺をしようとし、その直前狭心症で倒れ、その時処方されたプロプラノロールという薬にその幻覚を消す効果があることに気が付き、それ以降不正に大量に薬を入手し持ち歩くようになっていたのだ。隣村の病院に運び込まれた辰男の怪我は腕の骨折以外はたいしたことはなかったが、今度は俊也が行方不明になり警察による大捜索が行われる。
何とか無事に発見された俊也は辰男の薬を山へ取りに行っていたことが分かるが、薬を見つけた後、俊也は何者かによって誘拐されて山中の穴へ投げ込まれ、そこから自力で逃げ出したことが判明する。俊也の落とされた穴は穴堰の息抜き穴と考えられたが、24カ所もあってそのほとんどの正確な場所が不明となっている現在では現場を特定するのは困難と考えられた。しかし、綾根は俊也の腕の蜂の刺し傷から、その穴にクロスズメバチの巣があったという仮説を立て、蜂追い名人の岡田の協力を得てついにその穴を発見する。その穴の入り口には俊也の目隠しに使ったと思われる布が落ちており、その布は美禰子がかつて織っていたものと同じ信州紬であった。辰男は、三ツ森家が美禰子の信州紬を買い上げて彼女の生活を支援していたものと考えていたが、実際には逆で、美禰子と結婚したいと言う塔士に思い知らせるため、彼の父の玄勝は村の外から信州紬を購入するばかりか、村人に安く売って美禰子の商売を妨害していたのだった。真実を知ろうと檜場家に宗悟の妻・以津子を訪ねた辰男は、彼女から宗悟が生前美禰子の信州紬を買い込んでいたことを知る。そして、村1番の猟の腕を持っていた充蔵を妬んだ村の猟師達が充蔵を襲おうとしていたという話も。
その話を聞いて宿泊先の民宿に戻ってきた辰男は、辰男の交通事故の知らせを聞いてこちらに来ていた母のとき子が遺書を残して井戸に飛び込んで自殺したことを知る。そして、辰男はその遺書から32年前の事件の真相を知る。猟師を続けられないくらいの怪我の原因となった自分の事故が猟師仲間の企みであることを知った充蔵は、脳に障害を負ったこともあり、村人を皆殺しにすることを計画していた。充蔵が穴堰の中の空洞で決行の日まで潜んでいるであろうと想像したとき子は、猟銃の弾薬を使って村人が代かきの時期を決める参考にしていた深垣山の雪渓に雪崩を起こして形を変え、充蔵が予想していたより早く穴堰への放水を行わせて充蔵を溺死させたのであった。そしてこれは辰男を大量殺人者の息子にしないための苦肉の策だったのだ。遺書はさらに残酷な内容を含んでいた。事件の真相を知っている美禰子が辰男に接触しようとしていることを知ったとき子は無意識に駅のホームで美禰子を突き落としていたのだが、それを辰男に見られたと思い込んだことが直接の自殺の原因だったのだ。
失意のどん底の辰男を、塔士はとき子が穴堰に何かを隠したという話で穴堰の空洞に誘い込む。塔士は、自分が世間に隠れて養っていた美禰子をホームに突き落として殺したのが辰男だと勘違いし、復讐を果たそうとしていたのだった。穴堰への放水で2人共死ぬところであったが、塔士の不審な行動に気付いた綾根の機転によって、辛うじて辰男だけが刑事に救い出された。村を離れるバスの中で、生きることに目覚めた辰男は俊也に救いを求め、俊也はそれを受け入れ母親に話すと約束するのであった。
一言で言えば、いかにもテレビの2時間サスペンスドラマにありそうな話。精神的に病んでいる主人公・辰男が見る悪夢のシーンが頻繁に挿入されるが、あくまでイメージ的なもので特に物語のキーになっているわけではなかったのがまず期待はずれ。権力者が支配する閉鎖的な山村で連続して起こる奇怪な事件の数々といった展開を予想させるも、そういう古典的なサスペンス要素もほとんどなく、現代で起こった美禰子の死、とき子の死、塔士の死という3つの事件は、すべてが誰かの勘違いによるもので起こったという、ただただ空しい事件展開。辰男が檜場宅へ勝手に上がり込んでタンスをあさるシーンは大いに問題有り。檜場宗悟が変態趣味だったというのは分かったが、結局充蔵と美禰子との関係を撮影したテープを売ることなく美禰子の信州紬を買い続けていた理由はうやむやのまま。怪我で頭がおかしくなっていたとはいえ、2人の行為の様子を宗悟に撮影されていることを美禰子にペラペラしゃべる充蔵も理解不能。最後の最後でほんのちょっと探偵役らしさを発揮する綾根だが、これがテレビドラマなら、彼を最初から主人公に据えてもっと存在感を出しておかないといけないだろう。感動的ラストとなるべき最後の親子の会話の場面も今一つ分かりにくい。何をきっかけに辰男が「もう一度生きてみよう」と決意したのか伝わってこない。愛する息子のために、というわけでもなさそうだ。その息子に助けを求めているくらいだから。気持ちの変化のきっかけとなったであろう他人の恋人同士の愛情と、自らの親子の愛情ではそもそもかみあわないではないか。幸福そうな昔の塔士と美禰子の写真を見て、2人のささやかな幸福を自分の両親のせいで奪ってしまったことへの罪滅ぼしを思ったのか、そこから家族愛を再認識したのか…。とにかく最後まですっきりしないことが多すぎて満足度が高まらない作品。
『オーダーメイド殺人クラブ』(辻村深月/集英社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2012年版(2011年作品)19位作品。この年は13位にも『水底フェスタ』を同時にランクインさせており、そちらは随分前に読んだ気がするのだが実はあまり印象に残っていない。そこで過去の自分のコメントを見てみると★こそ2つだが予想外の好評価。そして本作を読み始めてみるとコレが面白い。中学2年生の小林アンの何気ない日常が描かれているのだが、こういう話となると中二病全開の世の中が全く分かっていない戯言しか言わないようなクソガキか、あるいは全く逆でそんな子供がいるわけないだろと叫びたくなるような異様に大人びた頭脳明晰な優等生が登場するのだろうと思いきや、中年の自分が驚くほど共感できる主人公なのだ、これが。彼女は頭の悪い夢見る乙女でもないし、空想の世界にしか存在しない超優等生でもない。くだらないルールに縛られたクラスメイト達、美人なのに残念なことだらけの母、生徒からずれまくりの副担任…、様々な人間に対するアンの憤りは手に取るように分かる。しかし、物語にさんざん引き込まれたところで、彼女は最近口をきくようになったばかりの昆虫系男子の徳川にとんでもないことを言い出す。「私を殺して」と…。この先、せっかく上がった評価がだだ下がりにならないことを祈りながら読み進めるが、一生懸命に世間の印象に残る自分の殺し方を考える彼女に対し意外と嫌悪感は抱かない。徳川がアンの元彼の妹の可愛がっていた猫を殺したことを知り、仲違いしたことで2人の計画は一旦白紙に戻ると思われたが、徳川から死ぬことに本気じゃないと責められたアンはそれまで以上に真剣に自分の死をデザインしていき、再び徳川を説得する。決行の夜、遅刻してきた徳川は彼女を殺せないと涙し、父親の再婚相手を殺しに行かないといけないという彼を、自分以外の人間を先に殺すことは絶対に許さないとアンは激怒する。結局、2人の計画は実行に移されることなく、2人は以前のように会話をしない仲に戻り、アンは自分をいじめていたグループの中にいつの間にか戻り、何事もなかったかのように高校へ進学する。そしてラストシーンは東京の大学へ進学するために引っ越しの準備をしているアンの様子が描かれる。嫌いだった母の良いところを見つけ、面倒だった友人ともうまく付き合い続けていたアンのところへ急に訪ねてくる徳川。このあたりまでくるとかなりベタな展開になってくるが個人的にはかなり好きだ。アンを殺した徳川がアンとの約束を守らず、アンが一生懸命デザインした彼女の死を世間にアピールするどころか闇に葬ってしまうというダークな結末を予想していたので、これでもかというハッピーエンドには心の中で喝采を送ってしまった。久しぶりに下位ランキングから傑作を発掘する喜びを味わうことができた。好みが分かれる作品かもしれないが、個人的には強く推したい。
『セントメリーのリボン』(稲見一良/光文社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」1994年版(1993年作品)3位作品。「このミス」1992年版3位作品の『ダック・コール』以来の稲見作品。「男の贈り物」をテーマとした珠玉の5編を収めた短編集。結論から先に言うと文句なしの★3つ作品。マフィアの女らしき女性を連れて逃げたものの追っ手に追われ山小屋に住む老人に匿われ、その老人の超人的な技で助けられる男を描いた『焚火』は、追っ手を見事な斧さばきで追い払う老人の魅力もさることながら、老人が男に振る舞う素朴な料理が強く印象に残る。次の『花見川の要塞』では、主人公のカメラマンがある作家のエッセイを元に荒れ地の中に埋もれた戦時中のトーチカを発見し、そこで戦時中に走っていた軽機関車を見ることのできる老婆と少年に出会うファンタジー。結局老婆と少年は実在していなかったというオチは予想できるものの、主人公が老婆達と同調していく様子、主人公のお土産のネービーカットの煙草を嬉しそうに吹かし時折若かりし頃の姿が描かれる老婆にえもいわれぬ魅力を感じる。父の乗る爆撃機を自宅近くの原っぱに持って来れないかという息子の願いを思わぬ形で叶えてしまう『麦畑のミッション』もさりげない伏線が絶妙に活かされていて面白い。東京駅で長年赤帽と呼ばれるポーターの仕事を続けていた男が、ある日突然兄弟の夢を叶えるために大胆にヤクザの大金を奪ってしまうという『終着駅』もシンプルな魅力がある。そして秀逸なのは表題となった最後の『セント・メリーのリボン』。竜門卓は失踪した猟犬探しを専門とするアウトローな探偵というとんでもない設定の主人公なのだが、これが読み始めるとまったく不自然さを感じさせない。しかも、次々と目的の犬を発見するのみならず、嫌がらせをするヤクザを堂々と追い払ったり、犬泥棒から強引に犬を奪い返したりと、実に読んでいて気分爽快なのである。さらに、ヤクザの女に自分の対象外の小型犬探しを頼まれて無愛想に断るも、恨みを買うどころか、さりげなく迷子犬の見つけ方を伝授し、見事犬の発見に貢献して女に感謝されてしまうのだ。その女の紹介で、盲導犬誘拐事件に取り組むことになった卓は、あっという間に犯人を特定し、被害者のみならず加害者まで幸せにしてしまうというハッピーエンドが待っている。前回読んだ『ダック・コール』の雰囲気そのままの作品だが、出来映えははるかにこちらが上。誰にでもお勧めできる1冊である。
『女王はかえらない』(降田天/宝島社)【ネタバレ注意】★
「このミス大賞」2014年大賞作品。降田天(ふるたてん)というのは、萩野瑛(はぎのえい)と鮎川颯(あゆかわそう)という2人の女性ライトノベル作家ユニットのペンネームとのこと。今年初の3作連続★3つに期待したのだが残念ながら★1つに終わった。審査員が満場一致で大賞に推せなかったのも納得の内容であった。第1部では、主人公のオッサン目線で針山小学校4年1組に君臨するマキとエリカの2人の女王のイジメ合戦の様子が延々と語られる。転校生として後から登場するエリカが良識派であることを期待したのだが結局マキと同レベル。事なかれ主義のオッサンと、いじめられるのが分かっていていながらついつい女王達に注意を与えてしまいボロボロになっていく学級委員のメグ。こんな展開をずっと読まされて何が楽しいのだろう。なぜ、このような描写を審査員は評価するのだろう。小学生の残酷で複雑な心情を詳細に描き込んでいるから?ただ単にえげつない内容で読者の目を惹きつけようとしているようにしか思えない。『オーダーメイド殺人クラブ』で描かれていたようなリアリティが全く感じられない。第1部の最後で、エリカはマキと乱闘の末にクラスメイト全員の前で事故死し、マキは歓喜の雄叫びを上げる。第2部では教師の視点に変わり、事件を隠そうとしている子どもたちと、それに気付きつつある担任を描いているように見せかけているが、終盤になって失踪していた絵梨佳が発見され、この第2部で描かれているのが第1部の随分後の世界であり、エリカと絵梨佳は別人であることが分かる。そして締めくくりとなる第3部で真相が明らかに。男性と思われていた主人公のオッサンは、実は大崎真琴という女性で、現在、針山小学校4年1組の担任をしており、女性と思われていたメグは恵雅史という男性で、今は真琴と結婚して大崎雅史になっている。真琴は、雅史が意図的にエリカを突き飛ばして死に至らしめたことを知っており、それを隠蔽するためにエリカの死の直後に音頭を取ってクラスメイト全員でマキを殺害。クラスメイト全員で協力してエリカとマキの死体を山中の沼に投棄し、20年間事件を隠し通したのであった。第3部では、その結束を確認するため同窓会が企画され、和気あいあいとした乾杯から会が始まるという異常な展開。ミステリを読み慣れない読者は、叙述トリックによる登場人物の性別の入れ替わりや、時間軸のすり替えにうならされたりするのかもしれないが、そこにたいした価値がないことは分かる人には分かるはず。
『殺意の構図』(深木章子/光文社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2015年版(2014年作品)18位作品。
プロローグで元警察官の私立探偵・榊原聡が紹介されるが、第1章では全く登場しない。民事事件を専門とする街の弁護士・衣田征夫は、付き合いのあった峰岸諒一から刑事事件の弁護を依頼される。彼に掛けられた容疑は彼の義父である峰岸巌雄に対する放火殺人である。彼は一貫して犯行を否認していたが、彼にはアリバイがない上に、義父に借金を申し込んでいたこと、事件当時に現場での目撃証言があること、彼に火傷の跡があること、現場に彼のライターが落ちていたことなど、彼に不利な要素が多すぎて有罪は確実かと思われた。しかし、巌雄の長女で諒一の妻であった朱美が、水没していた別荘の地下2階でエレベーターが停止したことで死亡したことによって事件は急展開を迎える。諒一がそれまで妻を意識して隠していた神奈川県の高級割烹旅館に女性と一緒に宿泊していたというアリバイを告白したのだ。諒一は相手の女性の名前を頑としてしゃべらなかったが、衣田は、その相手が朱美の妹の暮葉ではないかと推測する。無罪を勝ち取った諒一であったが、その半月後、今度は諒一が朱美の死んだ別荘で謎の死を遂げる。最初は転落死と思われたが、別荘で巌雄が趣味で作っていた梅酒に入っていたヒ素による中毒死と判明。衣田は、暮葉の関与を疑いつつも、諒一の車を焼き捨てるという荒っぽい手口に協力者の影を感じ取っていた。彼が疑ったのは、巌雄の妻・悦子の弟であり衣田の親友だった故今村啓治の長男で、暴力団の経営する遊戯施設の住み込み店員をしている今村啓太であった。
第2章では暮葉の視点から事件が語られ、暮葉が諒一の愛人でもなく、諒一殺しの犯人でもないことが明らかになる。暮葉には巌雄の死亡時にも諒一の死亡時にも完璧なアリバイがあり、警察に疑われてすらいなかった。暮葉自身は諒一への放火殺人の疑念が消えず、諒一に毒を盛ったのは朱美で、とどめを刺したのが啓治の後妻の佳苗であり、朱美の死は自殺だと考えていた。そして、彼女の1番の悩みは、なぜ自分が可愛がっていた啓太が自分を轢き逃げしようとしたのかということだった。
この章では続けて佳苗の視点からも事件が語られ、佳苗が諒一と全く関わりがないことが明らかになる。彼女の関心は自分の連れ子の美土里が家を出てしまったことだけだった。高校時代に暴力団の総長の長男・井手大祐と同棲を始めた美土里を無理な借金をして2000万円もの示談金で取り戻したにもかかわらず、成人した彼女は再び彼の元に行ってしまったのだ。借金は巌雄が立て替えてくれたことで取り立ての恐怖からは逃れることができたが、啓治を可愛がっていた巌雄の妻の悦子の死後、諒一が取り立てに来るようになっていた。それを苦にしたのか啓治は駅のホームに転落して死亡。その5か月後に美土里は出て行ってしまったのだ。そして、佳苗は美土里の部屋で赤いソバージュのウィッグとサングラスを見つける。諒一が放火事件当日に旅館で一緒にいた女性が身につけていたと言われているものであった。さらに、突然現れた井手大祐が美土里の失踪を告げる。佳苗は諒一殺しの犯人が美土里ではないかと疑い始める。
第3章では、やっと私立探偵の榊原が再登場し、ファミレスに呼び出した啓太に向き合う。榊原は2時間前に電話で啓太に対し驚愕の質問をしていた。「なぜ峰岸家に放火をしたのか」「なぜ峰岸暮葉を殺そうとしたのか」「今村美土里をどこに埋めたのか」という3つの問いである。榊原は、諒一が啓太を利用して巌雄を殺害し、「一事不再理」という制度を利用して啓太のみが罪に問われる状況にし、啓太が暮葉殺しを諒一に命じられたことまで見抜いていた。啓太は諒一にそそのかされ今村家の借金の借用書を焼くために諒一に協力し、美土里もまた、同様の理由で諒一のアリバイ作りに協力していたのだった。さらに榊原は、暮葉を殺すくらいなら自分を脅迫する諒一を毒殺することを選んだという啓太の嘘も看破する。啓太は、美土里が諒一を道連れに毒入りの梅酒を飲んだと考えていた。啓太が別荘に駆けつけた時、諒一も美土里も瀕死の状態であり、結局死んでしまった美土里を啓太は友人の親が経営している牧場で火葬し埋めたことを告白する。
そして場面は変わり、衣田の事務所で衣田と向き合った榊原は、衣田に「峰岸諒一を毒殺した犯人は衣田先生、あなたであることを認めていただきたいのです」と、またしても衝撃的な発言。衣田は啓太が諒一によって利用されていることを知り、啓太を救うべく諒一の毒殺を計画したことを認めるが、なぜか榊に原は啓太も衣田も告発する気がなく、啓太には黙秘を勧め、衣田には彼を助けるよう要請するのであった。
最後のエピローグでは、榊原の依頼人の正体が佳苗であり、榊原こそが佳苗の元夫で美土里の本当の父であったことが明らかになる。榊原は佳苗に美土里の死は告げず、調査費の受け取りを拒否して佳苗の元から去っていくのであった。
確かに、次々と容疑者が変化していって最後の最後で2段構えのどんでん返しが待っているという構成にはなかなかのインパクトがあるが、素直に評価できない。まずトリックありきというか、終盤まで色々と事件が起こる割にはあまりにも話が淡々としていて面白みがなく、最後まで物語に引き込まれないのである。それぞれの登場人物のディティールも十分に描き込まれており、人間ドラマもしっかり作られている作品だと思うのだが、もう少し読者を引き込む何かが欲しい。本作には「探偵の依頼人」というサブタイトルが付いており、「榊原を雇ったのは一体誰なのか」というのも本作の大きな謎の1つなのだが、冒頭で登場したっきり最後まで出てこないため、そんな謎があったことなど読者は途中で完全に忘れてしまっている。最初と最後にしか探偵が登場しないという斬新な構成を狙ってみたのだろうが、これはあまり成功しているようには思えない。他にも物語のあちこちで展開の強引さが見られるのだが、朱美の死なせ方はさすがに無理があるのではないか。地下室が水没していたら、そもそもエレベーターは動かないか、動いても扉はショートして開かないのではないかと思うのだが。ハズレとは言わないが、あえて強くお勧めもできない作品である。
2015年12月読了作品の感想
『龍は眠る』(宮部みゆき/新潮社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」1992年版(1991年作品)4位作品。ミステリーには珍しい超能力もの。それもそのはずで、超能力が使えればトリックなど考えなくてもたいていの犯罪は簡単にできてしまうからだ。相手に手を触れただけで心が読み取れるだけでなく、物体に触っただけでも残像思念を読み取ることができるというサイコメトラーの少年が登場するが、1996年から2000年にかけて週刊少年マガジンに連載されTVドラマ化もされた『サイコメトラーEIJI』は、本作の影響がゼロではなかろう。さすが直木賞作家で自分好みのミステリーもたくさん書かれている宮部みゆきだけあって読ませる力は見事なのだが、後述するように突っ込みどころは満載。本作が直木賞候補に挙がりながら受賞できなかったのにも納得(受賞したのは1999年作品の『理由』で、こちらに関しては完全に納得)。
主人公の週刊誌記者・高坂昭吾は、台風の夜に車を走らせていたが、自転車をパンクさせて困っていた少年・稲村慎司を拾う。移動の途中で何者かによってマンホールの蓋が開けられ、その付近で子供が行方不明になっている現場に出くわした高坂は最悪の状況を想像した。慎司は高坂に触れて彼の過去を読み取り自分の能力を示した上で、赤いポルシェに乗った若い2人組がマンホールの蓋を開けそこに子供が落ちて死んだのだと主張する。何とか垣田俊平と宮永聡という2人を見つけて真相を聞き出そうとした高坂であったが、正義感の強い慎司がいきなり強い調子で問い詰めたため2人に否定されてしまい真相究明が困難になってしまう。その後、高坂の前に慎司の従兄を名乗る織田直也という青年が現れ、慎司の能力はペテンであると訴える。その説得力のある説明に、高坂は慎司の能力を疑うが、慎司は高坂は従兄ではなく自分以上の能力を持ちながらそれを隠そうとしている人物だと主張し、高坂は大いに混乱する。高坂は直也ともう一度話すべく彼を捜すが、彼は姿を消してしまった。彼と親しくしていた言葉が話せない障がいを持った三村七恵という女性を見つけた高坂であったが、彼を尾行する人物の影を彼女は察知する。高坂には白紙の手紙が続けて送りつけられてきており、やがて脅迫電話へとその手段は変化し、犯人は過去の高坂への恨みを晴らすために高坂の元婚約者であった川崎小枝子に危害を加えようとしていることを臭わせる。そしてついに小枝子は誘拐されてしまう。そのような状況下で、慎司が大怪我を負った状態で発見される。そして慎司の心を読んだ直也が動き出す。実は、高坂をだしにして小枝子を亡き者にしようとしていたのは、小枝子の夫で、愛人・三宅令子と一緒になるために犯行を計画した川崎明男であった。彼は人を雇って小枝子を誘拐したが、その真相を白紙の手紙から読み取った慎司が犯人を捕らえようとして逆に襲われてしまったのだ。慎司の後を継いだ直也は犯人の男に刺された上に、犯人を殺してしまう。犯人がいなくなれば事件はとりあえず終結するものの、いずれ小枝子が明男と令子に殺されてしまうと考えた直也は、超能力をフルに使って犯人の男の代わりを演じ続け、なんとか明男と令子を警察に逮捕させ小枝子の命を救うが、直也も力尽きて死亡する。事件は解決し、七恵と交際するようになった高坂は、人は誰もが心の内に龍を飼っていて、その眠れる龍が起きてしまってはもう祈るしかないのだと考えるのであった。
高坂の相棒は慎司で十分だと思うのだが、高坂が行方をくらました直也にやたらとこだわるのが不思議に思えてならない。傷つけてしまった慎司をそっとしておきたかったという高坂の気持ちは分からないではないが、物語的には作品のメインキャラをいきなり放置するのはどうかと思う。その直也の恋人と考えられた七恵と高坂が短期間で相思相愛になってしまうのにも納得がいかない。高坂の所へ送りつけられてくる謎の白紙の手紙についても、さっさと慎司のサイコメトリー能力で見てもらえばあっという間に解決するのに全く思いつく様子すらないのも不自然極まりない。かなり後になってから、それも考えてはいたが慎司をこれ以上苦しめたくなかったから…といった高坂の言い訳が出てくるのも今更感が大きい。あれほど自分の能力を世間から隠し通したがっていた直也が、これまたあっという間に慎司と同じ立場に立ち事件に立ち向かうようになるのも不自然。慎司との間に何か深い絆でもあるのなら理解できるが、どちらかというと敵同士だったのではないか?以前超能力を持った人物に協力してもらって事件を解決したことのある元刑事が登場するのだが、物語に深く関わってくるのかと思いきや、そういう能力者は実際にいるという証言をする役割を果たしただけでフェードアウト。肩すかしを食らった感じだ。そして慎司や直也の能力を「龍」に例えるのも強引な印象。中盤に「龍」の牙の話がちらっと出てきた以外は、ラストのエピローグまで「龍」の話はまったく出てこない。タイトルに使うために「龍」の話を無理矢理出してきているような印象がある。別に「龍」でなくてもいいのではと考えてしまう。人質を殺されないために、殺してしまった真犯人の役を代わりに演じるという展開は斬新なのかもしれないが、刑事ドラマでありそうなネタではある。結局サイコメトリックという能力を物語に十分に生かし切れないまま終わってしまった作品という印象。筆者の作品の多くを高く評価していただけに、ネットで見かける『サイコメトラーEIJI』(TVドラマを少し見たことがあるだけであまり知らないのだが)の方が面白いという意見にも頷けてしまうのが何となく悲しい。
『鍵のかかった部屋』(貴志祐介/角川書店)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2012年版(2011年作品)17位作品。2012年版ベスト20の最後の1冊。ベスト20を全て読破したのは、2014年版、2015年版に続いて3度目。内容は久しぶりのオーソドックスな推理小説。何しろ密室殺人をテーマとした4編を収めているというのだから超定番である。防犯探偵・榎本シリーズの第3弾。第1弾の『硝子のハンマー』は読了済みだがその印象は微妙はものだった。今回はと言うと…正直ひどい。★1つにしようかと思ったくらい。
1作目の『佇む男』のあらすじ。末期癌だった葬儀会社の社長・大石満寿男が別荘で遺体となって発見される。部屋は密室でドアに寄りかかるように座って亡くなっていたため、患部の痛みに耐えられず常に持ち歩いていたモルヒネの注射を大量に打っての自殺と考えられ、残された遺書にもそのように書かれていた。座った遺体はドアと重いガラステーブルに挟まれており、遺体がある状態で犯人がドアから出たとは考えにくかった。ドアには画鋲と両面テープで白い布が貼られて封印されていたこともあり警察は自殺と判断したが、社長の後継者であり世間の評判の良くない池端専務と共に遺体を発見した司法書士の日下部は納得がいかず池端を疑う。社長は池端に会社を譲るという遺言書を以前に残していたが、それを書き直したいという話も出ていたのに、以前の遺言書とほぼ同内容の遺書が残されていることに不自然さを感じたのである。彼は、防犯コンサルタントの榎本径と弁護士の青砥純子を伴い再び別荘を訪れる。そして、社長の死亡推定時刻より後に社長が室内で立っている姿を見たという少年の目撃談から、榎本は遺体の死後硬直を利用したトリックであることを突き止める。犯人の池端は、遺体を寝かした状態で放置し、死後硬直が最も強固になる12時間後に現場に舞い戻って、ドアに遺体を立てかけてドアの隙間から部屋の外に出て施錠、死後硬直が解けて遺体がずり下がり出すと同時に、上部を画鋲でとめた白布が両面テープでドアを封印するという仕掛けであったのだ。
1作目の『佇む男』の感想。読者がシリーズ物だということを知らないと、榎本と青砥コンビの登場にあまり必然性を感じないのではないか。日下部だけでも解決できそうな事件であり、せっかく登場した榎本からは持ち味の怪しげな魅力が感じられず、天然が売りの青砥が次々に口にする推理も至極まっとうなものが多くクスリとも笑えない。ここにまず違和感を感じた。そもそも『硝子のハンマー』でも感じたことだが警察の能力をみくびりすぎ。これだけ不自然な現場だったら警察はもっと真剣に調べるはず。大量の画鋲や両面テープに自然な感じで社長の指紋が残っていたか、動かされたテーブルに不自然に指紋が拭き取られた後はなかったかなど、調べればいくらでも不審な点は見つかっていたはず。死後硬直を利用したトリックというのは珍しいとは思うが驚くほどのものではなく物足りない作品だった。
2作目の表題作『鍵のかかった部屋』のあらすじ。会田愛一郎は「サムターンの魔術師」と呼ばれたプロの侵入盗だったが、5年前に侵入先で引き籠もりの男に襲われて反撃して殺してしまい、正当防衛が認められずに服役していた。仮釈放となった彼は、亡くなった姉のみどりの元を訪れるが、姪の美樹は甥の大樹が自室から出てこないことに不審を抱き部屋を見に行くがドアは開かない。みどりの再婚相手の高澤芳男がドリルでドアに穴を開けたところへ、なかなかドアを開けられない様子に我慢できなくなった愛一郎は愛用の器具でサムターンを回してドアを開けることに成功する。部屋の中は各所に目張りがされており大樹は練炭自殺を図ったと考えられた。しかし、自殺の理由に思い当たらない美樹も、過去の彼をよく知っている愛一郎も納得がいかない。愛一郎は青砥と榎本を頼り、美樹の立ち会いの下、現場を見てもらうことになる。そして、目張りはエアコンで気圧を上げてドアを開かないようにし鍵がかかっているように見せかけるために高澤が行った細工であること、高澤がドリルでドアに穴を開けた時にサムターンに巻いてあった紙テープが巻き付いて初めて鍵がかかったこと、愛一郎がなかなかサムターンを回せなかったのはサムターンに残っていた紙テープの切れ端で器具が滑ったためであったこと、ドアの目張りは静電気によって完成したことなどを榎本は突き止める。みどりの残した莫大な親の遺産を、養子にした大樹から奪うために理科教師の高澤が計画した犯罪であった。
2作目の『鍵のかかった部屋』の感想は1作目とほぼ同じ。愛一郎が青砥のところへ依頼に行く場面があるので1作目ほど青砥と榎本の登場に違和感はないが、榎本の天然ぶりは今回も滑りまくりで全然面白くない。前作の反省を生かしてか、榎本が警察の優秀さとテープの指紋について言及する場面があるが、それを言ったら目張りテープを用いた密室トリックはすべて解決してしまうのではと突っ込みたくなった。そもそも紙テープとドリルで本当にサムターンを回して施錠することなど可能なのだろうか。表題作とは思えない1作目同様に素直に感心できない作品である。
3作目の『歪んだ箱』のあらすじ。高校の野球部顧問・杉崎俊二は、テニス部顧問の飯倉加奈との結婚を控え、ある問題を抱えていた。それは2人で住むことになっている新築の新居が欠陥住宅で、ドアの開け閉めはできないは、床は傾いているは、開かない窓はあるは雨漏りはするはで散々だったのである。杉崎が新居に呼び出した工務店社長の竹本袈裟男は手抜き工事を認めようとせず、裁判を起こすという杉崎に対し、杉崎の過去の悪行を広めると脅してくる。杉崎は予定通り柔道技で竹本の頭をコンクリートに強打させて殺害し、内側からしか閉まらないドアを利用した密室を作り事故に見せかける。しかし、警察は事件性のあることを疑い榎本に協力を要請。その調査中に杉崎と彼の相談を受けた青砥がやって来る。そして榎本はあっけなくトリックを看破。家からの脱出は、家が歪んでいて普通には開かないキッチンの窓からジャッキを使って行ったことを証明し、内側からしか閉められないリビングとキッチンの間のドアは、エアコン用のダクト穴からピッチングマシンでテニスボールを何個も打ち込んで閉めたというトリックであった。
3作目の『歪んだ箱』の感想。1作目、2作目と話が進むにつれ、少しずつ警察がまともになっていくのは気のせいか。今回は珍しく最初から犯人は警察に疑われている。で、用いられているトリックは、あらすじに記したとおりなのだが、ジャッキの利用はあまりに凡庸。逆にピッチングマシンとダクト穴を利用してきちんと閉まらないドアを無理矢理閉めたというトリックはあまりにトリッキー。欠陥住宅を密室に仕立てるという発想は斬新だが、それ以外見るところはない。
4作目の『密室劇場』のあらすじと感想。未読の第2弾『狐火の家』に登場する劇団が舞台。その劇団の公演中に役者の1人、ロベルト十蘭がビール瓶で頭を殴られて死亡。真相は漫才の練習中に相方の富増半蔵が小道具の飴硝子の瓶と勘違いして本物のビール瓶で殴ってしまったというもの。逃走方法は舞台の切り出しのサボテンの影に隠れて観客も気が付かないくらいのゆっくりなスピードで公演中の舞台を横切って逃げたというもの。とにかく最初から最後までくだらない、いわゆる「バカミス」。
トリックに多少の新鮮味はあるものの、榎本と青砥の魅力が全く伝わってこない、シリーズ物のポイントを全く押さえていない残念な作品。最終話に至っては素人が読んでも手抜きが分かる。これがTVドラマ化されて人気だったというのが理解できない。キャスティング(見たことはないが主役の榎本は嵐の大野智)と監督が良かったからであろう。ドラマはともかく本作はお勧めはできない。
『オルファクトグラム(上/下)』(井上夢人/講談社)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2001年版(2000年作品)4位作品。今回から上下巻の作品を3作続けて読む予定なので、自分に合わない作品だったら辛いだろうと少々憂鬱な気持ちで本作も読み始めたのだが、これが予想以上に面白い。ミステリー小説らしく凄惨な殺人事件を扱っているのだが、とことん人間の「嗅覚」というものにこだわった作品なのだ。最初は主人公が警察犬みたいになる話か?といぶかしんだが、それはある意味正しかったものの、嗅覚についての言語面からのアプローチや、他の感覚との人間の捉え方の違いや、その分類の仕方についてまで実に真面目に考察していて本当に興味深い。これは「当たり」である。この年のベスト10は本作でやっと全て読了となったのだが、個人的には本作が1番と言っておこう。2番目が10位の『川の深さは』(福井晴敏)、3番目が6位の『虹の谷の五月』(船戸与一)となろうか。
主人公はボーカルのマミこと友田雅美、ドラムスのホーリューこと副島邦隆、ベースのミッキーこと橘三喜雄の3人と一緒にチャーリー・ブラウンというインディーズバンドでギターを担当している青年・片桐稔。彼ができたばかりの自主製作CDを姉の秋本千佳子に聞かせようと彼女の自宅を訪問すると、なぜか彼女は全裸で痣だらけになってベッドに縛りつけられていた。彼女を助けようと彼女の手足を縛っていたベルトに手を掛けたところで何者かに殴られた彼は、1か月間も病院で意識不明の状態に陥る。頭部で内出血を起こし、その出血によって脳の左側が半分に潰されるほどの大怪我であったが、頭部から血を抜く手術によって彼は回復し意識を取り戻す。そして目覚めた彼は自分の大きな変化に気が付く。嗅覚を失った代わりに、匂いが様々な色や形という視覚によって敏感に感知できるようになったのだ。彼は、幼い頃に白血病で亡くなっていた双子の兄の片桐徹が、入院中に同じ能力を身につけていたことに思い至る。姉は結局全身の血を抜かれるという異常な方法で殺害され、犯人は捕まっていないという話を聞くが、ミッキーが行方不明になっていることを知り、まずはマミとホーリューの協力を得て、自分が新たに身につけた能力でミッキーを捜すという活動を始める。3人の調査でミッキーが誰かと2人で車に乗ってどこかへ向かったことを突き止めたところで、稔は義兄の秋本泰博に呼び出される。姉の殺害現場となった寝室で犯人の匂いのサンプルを手に入れた後、彼は泰博から犯人が3件目の事件を起こしたらしいことを伝えられ、次に自分が店長をしている日本料理店・蓬亭でのアルバイトを提案される。それを受け入れ蓬亭で働き出した稔は、新しい匂いの世界に慣れるためにこれ以上の修行の場はないと懸命に仕事に励む。彼の超能力ぶりに周囲が気味悪がってわずか2週間で仕事を辞める羽目になってしまうが(このまま料理の世界で頭角を現していくというストーリーもありだったのではと真剣に思った)、嗅覚の面白さに目覚めた彼は、図書館で嗅覚についての専門知識を得るなど真剣に嗅覚の研究に没頭していく。
そんな稔にホーリューがある提案をする。稔の特殊能力をテレビ局に取材してもらい、それを利用してテレビでミッキーの情報提供を呼びかけようというものだ。ホーリューの兄がテレビ局に勤めており、彼の紹介で会うことになった副島ADはディレクターの松代を連れてきていた。稔の能力に驚愕した2人は、ライターの大淵敦子も呼んで番組製作に乗り気になる。稔がミッキー捜しに協力してほしいという条件を付けてきたことで松代は一瞬戸惑いを見せるものの、稔がその嗅覚でミッキー捜しを実際に行ったことを聞き、がぜん興味を示すようになる。松代は嗅覚研究の専門家である山梨県の竜王大学の秦野慎一郎教授のところへ稔を連れて行くが、秦野は稔の驚異的な能力にすっかり夢中になってしまう。そして松代達は、今度は4件目の事件が発生した現場へ稔を連れて行く。そこで稔は覚えている犯人の匂いに巡り会う。犯人が車を使っていたことで犯人の行方を追うことは不可能であったが、犯人の利用した車が停まっていた場所を突き止め、そのタイヤの匂いの位置から車種を絞り込むことに成功する。警察へ一刻も早く情報を伝えたい稔と情報を独り占めしておきたいという思惑のあるテレビ局関係者との対立が起こるが、稔の執念が勝ち、情報は警察の安達刑事と荘田刑事伝えられることになる。2人の刑事も稔の能力を目の当たりにし、稔の証言を信じざるを得なくなる。味方を増やしていく稔であったが、驚異的な嗅覚の習得と同時に視力が急激に衰えていることに気が付く。匂いで多くのものを知覚できるようになった彼には、匂いのない文字やモニターの画像が捉えにくくなっていたのである。
その頃犯人の男は、勤め先の通信販売会社・コンフォートクラブで社長秘書課長の柴崎智子に呼び出されていた。何者かが顧客管理データを不正に利用しており、その何者かが連続殺人犯ではないかということに彼女が気が付き、顧客管理データを総括できる立場にいる彼に極秘に調査するよう依頼してきたのであった。彼は、彼女もこれまでの被害者同様に処分することを決める。この5件目の殺人現場に連れて行かれた稔は、間違いなくこれまでの事件と同一の犯人による犯行と断定するが、さらに彼はそこでミッキーの匂いにも遭遇する。ミッキーはコンフォートクラブと契約している運送屋でアルバイトをしていたが、配達の途中でコンフォートクラブのユニフォームを着た知らない人物が配達業務をしているのを目撃し、柴崎と共にその現場を確認に行っていたことが明らかになる。その偽の配達人こそ犯人であり、ミッキーは犯人によって危険な目撃者として殺害されていたのだった。刑事と共にコンフォートクラブの社内に乗り込んだ稔は、タイムカードから犯人が樋口武則という人物であることを突き止めるが、さすがに匂いに証拠能力はなく警察は犯人逮捕に踏み切れない。竜王大学にまで樋口の匂いを感じ取った稔は警戒心を高めるが、視力の検査のために訪れた世田谷の病院でついに樋口にマミを連れ去られてしまう。警察の協力もあって樋口の潜むスポーツ公園を突き止める稔。彼の能力を知らない樋口はなぜ自分がこれほど追い詰められているのか理解できないままマミを人質にして脱出を計画するが、稔がこっそりと大学から持ち出していた蜂の警戒フェロモンをかけられた樋口は大量のミツバチに襲われて瀕死の状態となって警察に逮捕され、稔は無事にマミを取り戻すことに成功する。
事件は解決したもののマスコミと世界中の研究者に追い回される状態になった稔は、文部大臣の計らいによって自由を手に入れ、マミと共に田舎に引っ越し平和な生活を取り戻す。マミは生まれてくる子供に稔と同じ能力を持っていてほしいと言う。不思議がる稔に、彼女はそうなれば稔が「ひとりぽっちじゃなくなるもんね」と答えるのであった。
自分は元々鼻はいい方なのだが、これを読んでいるとさらに匂いに敏感になったような気がするから不思議である。物語は所々で、本当にそっちに進んでしまっていいのか?という微妙な展開に陥るがギリギリ持ちこたえてくれるところが憎い。例えば、主人公が医師に自分の鼻の異常を隠しておきながら、バンド仲間のみならず、よりによって仲間捜しのためにテレビ局にその能力をさらす展開はさすがにおかしいと思わせる。しかし、そのありえない判断の危険性を十分に主人公が理解していることを読者に示し、またテレビ局の関係者も明らかに仲間捜しを絡めることは受け入れがたいという反応をすることを最初に示すことで、筆者に都合の良い展開を読者に押しつけて読者を突き放してしまうことのないように配慮していることがうかがえる。なぜ犯人は被害者から血を抜いて殺害したのかというところに全く触れないまま話が終わるところは少々ひっかかるが、そこはそれほど気にすべき点ではないだろう。テレビ局や大学教授はともかく、人を疑うのが仕事である警察までが主人公に全面協力してくれ、主人公の電話一本ですぐに駆けつけてくれるシーンが繰り返されるところに違和感を持たないではないが、主人公を応援したくなる読者の多くはストレスを感じずにすみ、むしろ気持ちが良く読み進められるのではないか。★3つを付けた作品の中には、それにふさわしい大変良くできた作品であると理解はできても、正直なところ読みながら早く終わってくれないかなと思えてしまう作品が多々ある。しかし本作は、読みながら「面白い」という気持ちをずっと最後まで持ち続けることのできた作品であった。文句なしのオススメの1冊と断言する。
『決壊(上/下)』(平野啓一郎/新潮社)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2009年版(2008年作品)13位作品。やたらと文学的な表現が頻出する一方で、あちこちで文の主体が突然変わるなど違和感の多い文章が目立つ作品。筆者の筆力が高いのか低いのかよく分からない。上巻の3分の2まではやや退屈で、友哉が「悪魔」と接触するところまできて、やっと物語が本格的に動き出す気配。さて、ここから面白くなってくれるかどうか…?
平凡なサラリーマンの沢野良介は、「なぜだろう?」という言葉をいつも無意識に反芻している。妻の佳枝と3歳になる息子の良太との3人家族で一見幸せそうに暮らしているが、実家の父は鬱病を発症し、化学薬品会社での
自分の仕事には不満があり、妻との関係もぎこちない。良介が「すぅ」というハンドルネームでブログに日々の愚痴を書き込んでいることを知った佳枝は、相談相手にしてもらえない寂しさを募らせている。エリート公務員である良介の兄の崇は、結婚もせず複数の女性と交際を続けているが何にも満たされない日々を送っており、良介のことを心配している。
息子に無関心な父と過保護で世間ずれした母を持つ鳥取の中学2年の北崎友哉は、学校でイジメの標的とされ、その鬱憤を「孤独な殺人者の夢想」という自ら立ち上げたホームページへの書き込みで晴らしていたが、そのホームページの掲示板には友哉の殺人衝動を支持する書き込みが「悪魔」という名の送信者から毎日のように続いていた。そして、ついに友哉は大阪で「悪魔」と接触を果たす。
大阪で出張のついでに良介と話し合おうとしていた崇に佳枝は期待していたが、良介は後日バラバラ死体となって発見される。崇は、最有力容疑者として警察は勿論、佳枝や母親の和子からも疑われるが、彼はひたすら黙秘を続ける。そんな中、不登校を続けていた友哉は、同じように不登校を続けていたクラスメイトの女子生徒を彼女の自宅に押しかけて刺殺。彼の部屋から良介の切り落とされた耳が発見されたことから事件は思わぬ方向に大きく動く。良介のブログをチェックし彼を誘い出して友哉と共に殺害した主犯は篠原勇治という異常者であった。篠原は自爆テロによって死亡し、崇は釈放されるが、精神を病んでしまった和子から責められ続け、友人の室田の励ましも冷たく突き放した彼は、電車に飛び込んでその一生を終えたのであった。
「悪魔」の正体が崇であると思わせておいて、実はそれまでに未登場の全く別人であったという展開に読者は肩すかしを食らう。最初は否認していた崇が急に黙秘に転じるという非常に思わせぶりな展開に、作中にも登場する「崇=黒幕説」が真相か?と臭わせつつそれもなし。結局、闇だらけで誰ともまともに心を通わすことのできない現代社会と、加害者に手厚く被害者に何の補償もしてくれない国家に対する問題提起のみを読者に示し、最後は何の救いもない中途半端な結末で、正直がっかり。色々と訴えようとしていることはうかがえるが、世間と次元の違いすぎる崇の思考には全く付いていけず(そんな彼と対等に会話している室田にも違和感を感じまくり)、ハードでグロい犯罪小説好きな人向けの作品で終わってしまっているような気がする。唯一テレビ番組の収録の場面で、コラムニストのKATSUZOが「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」という問いを発したスタジオの少年にナイフで襲いかかろうとするシーンに良介の殺害シーン以上に引き込まれた。本作品の真のクライマックスはここではなかったかと思えるくらいのインパクトがあった(実際にはボールペンで脅しただけだったというオチでこれにも拍子抜けしてしまったのだが)。もうちょっと内容を整理してメッセージの方向性をはっきりさせて、上下巻構成にならないようにまとめてほしかった。
『流れ星と遊んだころ』(連城三紀彦/双葉社)【ネタバレ注意】読書中
「このミス」2004年版(2003年作品)9位作品。上下巻ものを3作続けて読む予定だったのだが、前作でやや心が折れたため予定を変更して1冊完結の薄めの文庫本である本作を読むことに。
主人公は、大手電機メーカーの社員から華のある業界に憧れて大手のプロダクションに転職し、現在は落ち目の大スター「花ジン」こと花村陣四郎の事務所に移って彼のマネージャーを務めている北上梁一。43歳の誕生日に仕事にすっかり嫌気がさしていた彼は、新宿のバーで安いウイスキーをあおっていたが、そこで柴田鈴子という若い女性に出会う。彼女の投げやりな誘惑に負け横浜港の埠頭に連れて行かれた彼は、彼女の兄を名乗る男に襲われる。しかし梁一は、自分を脅してくる男との会話、横浜港までの車内での鈴子との会話を録音したテープレコーダーをネタに、逆に男を脅迫する。しかも梁一が望んだのは金ではなく、その男・秋場自身であった。梁一は秋場に役者としての魅力を感じ取り、彼の映画デビューをもくろんだのである。花村主演の映画『神々の逆襲』のクランクインが迫っていたが、それはいつの間にか刑事役の花村よりも、テロリスト役を演じる売れっ子の若手・小田真矢が中心の脚本になっていた。梁一は花村の役を秋場にやらせようと、まずは素人から選ぶことになっていた中年男のオーディションを秋場に受けさせるが、プロデューサーの目に止まったのは付き人として同伴していた鈴子の方であった。梁一が策を弄するまでもなく花村は麻薬使用の容疑で逮捕されるが、肝心の秋場と鈴子がいない。2人が行きたがっていたリスボンへ2日間の約束で梁一が給料を前借りして送り出したものの、そこを気に入った2人は1年間は日本に帰らないと言ってきたのだ。梁一はこの危機をどう乗り切るのか?
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