現代ステリー小説の読後評2016

※タイトル横に【ネタバレ注意】の表記がある作品はその旨ご注意を(太字があらすじ)

2016年月読了作品の感想

『王とサーカス』(米澤穂伸/東京創元社)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2016年版(2015年作品)1位作品。ついに2015年最後の読書作品として新年度ランキング作品に手をつけることに。しかも1位作品ということもあって非常に楽しみにして読み始めたが、息子に借りたゲームにはまってしまったこともあり時間が掛かってしまい、読み終えたのは年をまたいで1月2日だった。

 2001年、28歳の新聞記者の大刀洗万智(たちあらいまち)は、同僚の自殺をきっかけに新聞社を退社し新しい仕事を探していた。そこに雑誌編集者の知り合いから月刊深層でアジア旅行の特集を組むから手伝ってほしいと依頼があり引き受けた万智であったが、取材開始の8月まで待てなかった彼女は独自に事前取材を行うためネパールに渡り、6月1日トーキョーロッジにチェックインする。その202号室を拠点にカトマンズの取材を始めた彼女は、同じ安宿に宿泊する20歳のアメリカ人の大学生・ロバート、日本の家族を捨ててネパールで托鉢を行う59歳の僧侶・八津田、物売りの聡明な少年・サガルらと親しくなる。

 そんな中、彼女はBBCの流すニュースで、国を揺るがす王族殺害事件が王宮で発生したことを知る。ビレンドラ国王をはじめとする8人の王族がディペンドラ皇太子によって射殺され、皇太子も自殺を図ったというのである。ネパールの民主化を進めたことで国民に慕われていた国王の死と、重体のままディペンドラ皇太子を政府が次期国王に指名したことは、国民に大きな混乱をもたらした。国王が皇太子の結婚に反対していたため起こった事件だという話もあったが、当日王宮におらず事件後に摂政となった国王の弟・ギャネンドラと、王宮にいながら無傷だったギャネンドラの息子・パラスへの疑念が次第に国民の間に広まり始める。ギャネンドラが、事件は自動小銃の暴発によるものという不可解な発表を行ったことが事態の悪化にさらに拍車を掛けた。

 宿の女主人・チャメリの紹介で、事件当日王宮にいた夫の知人のラジェスワル准尉と会えることになった万智は、待ち合わせ場所の廃ビルの地下にあるクラブ・ジャスミンへと向かう。しかし、一大スクープを入手できるかもしれないと考えていた彼女の期待は見事に打ち砕かれる。彼は、チャメリの夫に義理があるため万智に会うことにしたが、彼女による取材は、彼女が日本語で書いた記事がこの国に何の利益ももたらさないからと拒絶したのだ。万智は自分の信念について語るが、「信念を持つ者は美しいが信念を持つこととそれが正しいことの間には関係がない」とラジェスワルに論破される。最後には「悲劇は楽しまれる」という宿命についてサーカスの比喩を用いて語り、彼女に反論の隙を与えなかった。万智はサーカスの座長であり、万智の書くものはサーカスの演し物であり、王の死はとっておきのメインイベントであり、自分はこの国をサーカスにするつもりは二度とないのだと…。

 6月4日の午前10時半、王宮前に集まってシュプレヒコールを繰り返す群衆に対し警官隊の反撃が始まった。万智は思うような写真が撮れないまま民衆と共に逃げ出すが、その途中、死体となったラジェスワルを発見する。彼の背中には「INFORMER(密告者)」と刻まれており、万智は外国人記者の自分と接触したせいで彼が殺されたのではないかと最初考えるが、真っ先に口封じをされるべき自分が襲われないことから彼の殺害動機は別にあると考え直す。

 無事宿に帰り着いた万智であったが、八津田と話し込んでいる時に警官に踏み込まれて連行されてしまう。予想通りラジェスワル殺害についての事情聴取であったが、万智の手から硝煙反応が出なかったことであっさりと解放される。外出禁止令が発令される4時ぎりぎりに宿に帰り着いた万智は、自分の部屋が何者かに調べられていることに気付く。隣のロバートの部屋がずっと彼によって立入禁止になっていることも彼女には気になっていた。日本の編集部の牧野から彼女の仕事の進捗状況を尋ねる電話が入るが、ラジェスワルの死と国王の死の関係が明らかになるまではこの件は記事にできないと彼女は告げ、翌日の5日夜までに2つの事件のつながりを見つけられなければ、ラジェスワルの死については記事から外し、6日朝にはファックスで原稿を送ることを約束する。翌朝から護衛に付いてくれた私服警官と共に取材を再会した万智は、ラジェスワルの上半身が裸だったことについて、背中に文字を刻むことが目的ではなく、その服に付いた汚れから殺害現場を特定されることを避けるためだったのではと考える。彼女が彼と会った埃まみれの廃ビルの地下に戻ってみると、そこにはラジェスワルのものと思われる血だまりと死体を引きずった跡と拳銃「チーフスペシャル」が残っていた。そこで彼女はこの事件の驚くべき全貌に気付いてしまう。

 宿に戻った万智は、まず部屋に籠もっていたロバートを呼び出し、ラジェスワル殺害現場に落ちていた拳銃の写真を見せて、それが彼のものであることを認めさせた。彼が常々「俺にはチーフがついている」と自慢していたことを万智は思い出したのだ。彼は何者かに部屋に隠してあった拳銃を盗まれたため、サガルを使って万智の部屋を含む宿の全ての部屋をピッキングで明けさせて捜していたのだ。彼を部屋からおびき出したのは客室係の少年・ゴビンであったことが判明するがゴビンは宿のレジの金を盗んで姿を消していた。彼女は午後1時から記事を書き始め、深夜に完成させて眠りについた。

 6日の早朝約束通り日本に原稿を送った万智は、宿の食堂で八津田と相対する。そしてゴビンの安否を唐突に尋ねた。万智は八津田が大麻の密売人であることを見抜き、ロバートの拳銃を盗むのに協力したゴビンを口封じのために殺害したのではないかと考えたのだ。幸いゴビンには大金を渡してこの地から去らせたと八津田から聞き安心する。万智に問い詰められた八津田は大麻密売の事実と、商売から手を引こうとした仲間のラジェスワルを射殺したことを認める。しかし、八津田の逃亡を防ぐ手立てもなく、彼女は宿を出て行く彼を見送るしかなかった。

 出国手続きをしたくとも早朝では旅行代理店は開いておらず路地に佇むしかなかった万智に近づいてきたサガルは、万智がラジェスワルのことを記事にしなかったことを聞いて残念がる。ラジェスワルの死体を発見現場まで運んで背中に文字を彫ったのはサガルであった。彼は、万智を儲けさせたかったと言うが彼女は彼の嘘を見抜く。サガルはネパールの現状を世界に広めた外国人記者を心から憎んでおり、彼女にラジェスワルの死が国王の死と関係しているという誤報を流させることで恥をかかせたかったのだ。報道によって子供の死亡率が下がり、劣悪な環境の絨毯工場がなくなったことは、一見ネパールを良くしたように見えて、実際には人口が増える一方で働く場所を奪ったことで国民に新たな苦しみを与えているとサガルは考えていた。

 日本に戻った万智は思う。「もしわたしに記者として誇れることがあるとすれば、それは何かを報じたことではなく、この写真を報じなかったこと。それを思い出すことで、おそらくかろうじてではあるけれど、誰かのかなしみをサーカスにすることから逃れられる」と…。

 もうすでに前年の「このミス」1位の『満願』で直木賞候補になっている筆者であるが、本作を読んで受賞は目前であることを確信できた。人は純粋に真実を知りたいと思う一方で、そこには人の悲劇を楽しみたいという欲求が含まれていることを本書は鋭く突いている。「楽しむ」とまでいかなくとも「自分より不幸な人を見て安心したい」「金持ちや権力者の不幸を知ってすっきりしたい」という気持ちが自分の中に全くゼロではないことを誰も否定できないはずだ。そして、本書はその問題を知りたい大衆の側のみならず、その情報を送り出す側に突きつける。記者である主人公は、そのことを今回の事件を通じて思い知らされ、今まで以上に仕事に真摯に向き合うようになるという展開が本書の柱であり、そこにミステリーの要素を加えてエンターテイメント作品としても高次元に仕上げられたのが本書である。これが先に述べた直木賞受賞近しの理由である。

 しかし、個人的評価として★3つを付けられるかというとそれはまた別問題である。本作の前半部に引き込まれるのは王族殺害事件というバックボーンによるものが大きいのだが、これは史実であり筆者の創作ではない。この事件以外は少々退屈である。そして後半、主人公の推理によって軍人殺害事件の真相が一気に明らかになるのだが、主人公の頭のキレ具合とそれによる急展開に読者の多くは付いていけない印象がある。その圧倒的推理力が魅力なのかもしれないが、場数もそれほど踏んでいない若い女ジャーナリストが、ここまで頭がキレて度胸の据わった行動力を発揮できるのかという疑問がどうしても浮かんでしまう。要するにそのあたりのリアリティがないのだ。逆に八津田も指摘していたように、ゴビンの安否の確認より原稿の執筆を優先した冷徹さは、悪い意味でリアルだ。その主人公に誤報を流させようとする現地の少年も、あまりにキャラとして「できすぎ」である。主人公が誤報をものともしない、スクープで儲けられればそれでよいという人間だったら、どうだっただろう。少年は主人公をあざ笑い、勝利したことを素直に喜べただろうか。主人公を、誤報を流したことに傷つく純朴な偽善者だと見極めたからこその策略だったのかもしれないが、ここも本作の今一つスッキリしない部分だ。登場する多くの犯罪者のほとんどが捕まらないまま物語が幕を下ろしてしまうこともすっきりしない理由の1つ。

 以上のような引っかかりがあって★2つとしたが傑作であることに間違いはない。特にマスコミを志す方は一読すべき作品だろう。

 

 

『猫間地獄のわらべ歌』(幡大介/講談社)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2013年版(2012年作品)13位作品。裏表紙のあらすじを読んで、普通に江戸時代を舞台としたミステリと捉えていたが、読み始めるととんでもない「バカミス」(ばかばかしいミステリー)のたぐいと判明。表記が急に脚本モードに切り替わり、登場人物が現代人になって現代用語を語り出したりするのだ。最後の解説でも触れられているように、いわゆる「メタフィクション」というやつである。漫画の中に作者が登場したり、登場人物が「これ漫画だから」とか発言するアレである。それはそれで面白そうでもあるのだが…。

 主人公は、御使番という閑職に就いている家柄だけが取り柄の内侍之佑(ないしのすけ)。藩主・苅谷備前守興重(かりやびぜんのかみおきしげ)の愛妾・和泉ノ方の住む江戸の下屋敷の奥御殿へ呼び出された内侍之佑は、彼女から難題を申しつけられる。御広敷番の組頭の禰津(ねず)が密室であった書物蔵で切腹自殺したことについて、家来から切腹者を出したという恥を隠したい和泉ノ方は、禰津が曲者と戦って名誉の討ち死にを遂げたということにすべく、内侍之佑にその証拠を見つけろと命じたのである。先君の御正室の豊寿院からも同様に命じられた内侍之佑は、彼の父と兄に仕える水島静馬とともに捜査という名の「でっちあげ」作りに乗り出す。猿を犯人に仕立てようとか、屋敷の外から書物蔵の下まで坑道を掘ろうとか奇想天外な案をひねり出す彼らだが、和泉ノ方を納得させられるようなものはなかなか浮かばない。ここまでが第1章。

 禰津の死の翌朝、国許の猫釜淵と呼ばれるあたりで、猟師が女の首無し死体を発見する。被害者は、冷害で食い詰め犬飼村の小作の太郎次(たろうじ)の妻・鶴で、彼女が銀山へ身売りしようとしたことに耐えられなかった太郎次が、思いあまって妻を殺害し頭部だけでも手元に置いて逃げようとしたことが後に判明。太郎次は介錯人と呼ばれる首切り役人の八木沢によって成敗されるが、その後、猫間の領地内で不気味なわらべ歌が流行り出す。これが、1番では蔵に閉じ込められた鼠が死に、2番では炊飯中の釜の中に猫が落ちて死に、3番では犬が死ぬという内容で、今回の変事を予言した歌だというのだ。この歌は何十年も前から領内で歌い継がれており、今回の変事に合わせて作られたわけではないことは明らかだった。しかもこの歌は9番まであり4番では侍が、5番では村の庄屋が、6番では寺の和尚、7番では山の知識(大寺院の高僧)、8番では姫、9番では殿が死ぬことになっているという話を同心の都築忠吉から聞いた郡奉行の奥村平九郎は目眩を覚える。そして、その2日後、首無し死体で発見されたのは、侍である都築忠吉その人であった。ここまでが第2章。

 そしてさらに、わらべ歌どおりに、犬飼村の庄屋・伝左衛門、珍念和尚の首無し死体が発見される。わらべ歌どおりなら次は山の知識(大寺院の高僧)が狙われるはずだが、世間では山の知識とは銀山奉行の三太夫のことではないかとささやかれていた。その不安におののく三太夫を深夜に小さな廃寺に呼び出した奥村は、彼に衝撃的な事実を告げる。4番目から6番目の首無し死体を作ったのは自分だと言うのだ。幕閣の誰かと謀って好き放題やっている三太夫を、呪いの歌に乗じて成敗するのが目的であったのだ。被害者と思われた3人は全員生きていて、死体はすべて斬首された罪人のものであり、都築はスパイとして銀山に潜り込み、あとの2人は湯治中と聞き、激怒する三太夫であったが、実は剣豪であった奥村にあっけなく討ち取られる。ここまでが第3章。

 第4章では、水島が江戸の御用商人・金太左衛門と銀二右衛門に接待を受けるが、国許の窮状をものともせずに贅沢三昧をしている様子に水島は心穏やかではない。そんな中、水島が屋形船で銀二右衛門からの接待を受け続けている最中、隅田川の上流の月照館にいた金太左衛門が銀二右衛門に刺殺されるという事件が発生。短時間だけ席を外した銀二右衛門がいかにして金太左衛門を殺害できたのか。銀二右衛門にアリバイの証人にさせられ困っている水島に対し、内侍之佑は、月に二度、新月と満月の時に江戸湾の水面が隅田川の水面よりも上がるため繋留を解かれた屋形船が月照館まで自然に遡っていたというトリックを一瞬で見抜き、半月後にそれを証明して銀二右衛門を捕らえたのであった。この2人の御用商人の処分も藩の重役による策であった。

 最終章では、内侍之佑が、火の見櫓と川船の帆柱を結んだ綱に人がつかまり、川船が川を移動することで書物蔵の屋根へ到達できることを証明し、禰津殺しの犯人を軽業師と断言する。これは勿論事実ではなかったが、江戸家老の福浦は禰津の日誌から和泉ノ方の芝居通いが尋常でなかったことを糾弾し、殿との間になかなか子ができなかった彼女が芝居者との逢い引きによって子をなそうとしようとしていたという罪で彼女を捕らえる。贅沢三昧で藩の財政を圧迫していた和泉ノ方の排除に手柄を立てた内侍之佑は、豊寿院から「婚姻」という褒美を与えられる。内侍之佑は22歳の女性であり、水島より嫁に欲しいと豊寿院に直訴があったというのである。その直前に水島はヤクザ者に襲われそうになった内侍之佑を見事に撃退していた。水島は内侍之佑の兄が送り込んだ彼女の優秀な警護役であり、彼女がその事実を知ってへそを曲げて彼を追い返さないよう、これまで間抜けを装っていたことを彼女は知っていた。内侍之佑は素直にその褒美を受け入れるのであった。

 わらべ歌による見立て殺人も、船を使った2つのトリックも、そうたいしたものではない。とどめの「主人公は女だった」という叙述トリックも、これまでの叙述トリック作品の例に漏れずアンフェア以外の何ものでもないので今さら怒りは感じないが、まあこんなものだろうという感じ。本作のポイントは、そんなところにあるのではなく、やはりメタフィクションを生かした軽快な内容と、ライトノベル的なほのぼのとしたオチにあるのだろう。結末にたどり着くまで苦痛でしょうがない数々の大作と比べれば、最後まで苦痛を感じることなく気軽に読める文庫書き下ろしの本作は嫌いではない。

 

『スキン・コレクター』(ジェフリー・ディーヴァー/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★★

 「このミス」2016年版(2015年作品)海外編1位作品。あまりに海外編ランキング作品のハズレ具合がひどいため、海外作品には長い間手を出していなかったのだが、最新版の1位があのジェフリー・ディーヴァーと知って久しぶりに読むことに。この安楽椅子探偵「リンカーン・ライム」シリーズは以前から大好きだったのだが、知らぬ間にか巻を重ねており、本作は第11弾とのこと(@『ボーン・コレクター』、A『コフィン・ダンサー』、B『エンプティ・チェアー』、C『石の猿』、D『魔術師(イリュージョニスト)』、E『12番目のカード』、F『ウオッチメイカー』、G『ソウル・コレクター』、H『バーニング・ワイヤー』、I『ゴースト・スナイパー』、J『スキン・コレクター』)。自分が読了しているのはシリーズ3作目までで、だいぶ間があいているせいで人間関係の変化など色々とありそうなのが少々不安ではあったが、読了してみれば全くの杞憂であった。嬉しいことに「どんでん返しの魔術師」は健在であった 。

 第1部…ニューヨークのブティック店員、クロエ・ムーアが、ビリー・ヘイブンという殺人鬼により地下道に連れ込まれ、インクではなく毒物によって刺青を入れられ殺害された。被害者の腹部には、特殊な字体で「the second」という謎の言葉が彫られていた。科学捜査官リンカーン・ライムは、パートナーのアメリア・サックスと共に早速捜査を開始する。サックスが現場から持ち帰った書籍の切れ端は、ライムが過去に解決した「ボーン・コレクター」事件に関するものであった。犯人の目的は何か、なぜライムの事件を調べていたのか、ライムとサックスはさらに興味を深める。

 第2部…何年も前から家族でのニューヨーク旅行を楽しみにしていた53歳の女性、ハリエット・スタントンは、夫が旅先で心筋梗塞に倒れ入院したため予定が狂ってしまった。その彼女が病院の地下を歩いている時、後方から迫ってくる影があった。ビリーである。しかし、科学捜査によってこの病院に殺人鬼が出入りしていることを予想していたサックスは偶然現場に居合わせ、彼をあと一歩のところで取り逃がすものの彼女を救うことに成功する。そしてビリーの第2の被害者となったのはIT通信企業IFONの女性社員、サマンサ・レヴィーン。レストランの地下のトイレから地下道に連れ込まれ、クロエ同様に「forty」という文字の毒入りの刺青を入れられ殺害されていた。

 第3部…地下道を探索していたビリーは、地下道に住み着いている男・ネイサンに襲われるが、自分は地下道を調査中の市の職員であると嘘をつき、趣味でやっている刺青を入れてやることを条件に窮地を脱する。彼は次にコンピューター・セキュリティの仕事をしているITエンジニアのブレイデン・アレクサンダーを地下の駐車場で襲うが、事前の聞き込みによって現場となるアパートの存在を突き止めていたアメリア達によって殺人は未然に防がれる。現場からは「17th」というインプラント刺青用の金属片が発見された。そこへ、かつてボーン・コレクター事件で犯人に誘拐されサックスが面倒をみてきた少女・パムのアパートに殺人鬼らしき人物が押し入ろうとしているという通報が入る。パムの部屋にはパムの交際相手のセスがいたが、ライムとの通話中に彼は襲われる。セスは鎮静剤で眠らされてはいたが刺青をされる前に警官が駆けつけたことで助かったようだった。そして今度はニューヨーク市警の刑事、ロン・セリットーがコーヒーに毒を盛られて倒れる。そしてさらについにライムが狙われる。ビリーは、ライム宅に侵入しライムの好きなウイスキーに毒物を注入したのだ。しかし、瓶の不自然な置き場所に気付いたライム自身によって危機は回避された。

 第4部…ライムのかつての宿敵であり、獄中で病死した犯罪者・ウオッチメイカーの遺灰を引き取ろうとしている遺族を探ろうと、スタン・ワレサという偽名でウオッチメイカーのかつての仕事仲間を装い潜入捜査をしていたニューヨーク市警の巡査ロナルド・プラスキーは、遺族との仲介をしている弁護士デイヴ・ウェラーに通報されニューヨーク州捜査局の捜査官に捕まってしまう。ライムによってプラスキーが釈放されたのも束の間、今度はライムに協力していた刺青師のTT・ゴードンのタトゥーパーラーが襲われる。ゴードンは留守で助かったものの、従業員のエディ・ボーフォートが毒入りの刺青で殺害されていた。残された文字は「the six hundredth」。そして、地下道の各現場で警察の初動チームが設置したと思われていたバッテリー付きのスポットライトが、犯人の持ち込んだ爆弾であることに気が付くライム。最初はインターネットの地下ケーブルの破壊が犯人の目的かと予想したが、刺青の文字が聖書の洪水を示した箇所のフレーズであることをつかんだライムは、犯人が水道管の破壊によってニューヨークの街に巨大ハリケーン以上の被害を及ぼそうとしていると推測する。急いでニューヨーク市内の給水を止めようとするライムであったが、ビリーの真の目的は給水が止められている間に、水道管内に猛毒のボツリヌス菌を混入することであった。しかもビリーはハリエットの家族とグルのテロリストであった。しかし、ビリーの真意に気付いたライムの機転によって給水は止められず、水道管にドリルで穴を開けていたビリーは吹き出した高圧の水に体を切断されて死亡し、ハリエット達も逮捕された。だが、事件は解決していなかった。高圧水で死亡した人物は、実はビリーが雇ったネイサンであり、パムの交際相手のセスの正体こそがビリーであった。ビリーはパムの前に現れ、彼が6歳の頃のパムと出会っていて彼女と結婚するつもりで、ずっと彼女の行方を追っていたことを彼女に告げる。パムはビリーに鎮静剤を打たれ不本意な刺青を入れられてしまうが、覚醒後にカッターナイフで反撃し、突入した警官によってビリーは射殺され彼女は救出される。

 第5部…ライムは、あるプレスリリースを警察を通して公表させる。それは死んだはずのウオッチメイカーの現在の似顔絵であった。ライムは、今回の事件の黒幕が彼であることに気が付いたのだ。彼は毒物によって仮死状態になり、救急隊員や刑務官を買収して脱獄していたのだった。プレスリリースを見たウオッチメイカーは旧友のようにライムに電話を掛けてくる。ライムは、骨だけで作られた有名な時計が現在ニューヨーク市内に展示されていて、時計のコレクターであるウオッチメイカーの狙いはそれだったと思ったと彼に語る。

 第6部…ウオッチメイカーは、ライムの撒いたエサに食いついた。彼はライムが特殊な発信器を仕掛けたその時計を盗み出したのだ。さてウオッチメイカーの居所が掴めるのはいつのことか。ライムは、関係がぎこちなくなっていたサックスとパムの間をさりげなく取り持ちつつ、次の事件の捜査に入るのであった。

 もう何も言うことはない。素晴らしいの一言に尽きる。読者を全く退屈させない息をつかせぬ展開。これでもかというほどのどんでん返し。途中で「あれ?」と思ったことも最後には全て伏線として回収される。なぜ日本の作家にはこういう作品が書けないのだろうか。あえて突っ込めば、サックスが警察の初動チームによって持ち込まれたと思い込んでいた爆弾入りのスポットライトを誰も不審がらなかったことくらいか。警察仕様の特殊なライトだったのなら理解できるがそういう記述はなかったような…。見落としたのかもしれないが、そんなことは些細なことである。読み飛ばした4作目から10作目もいつの日か読破したいものだ。1作品たりともハズレはなさそうだ。

 

『双頭のバビロン(上/下)』(皆川博子/東京創元社)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2013年版(2012年作品)12位作品。メインの舞台は1920年代のハリウッドと上海。19世紀末オーストリア・ウイーンに生まれた癒着双生児のゲオルクとユリアンの物語。登場人物ごとの視点(主人公のゲオルクは現在、その他の人物は過去)で物語が進行する。

 Tゲオルグ…有名映画監督となったゲオルク・フォン・グリースバッハは、自伝出版のためチーフ助監督のエーゴン・リーヴェンに口述筆記させている。4歳の時、体が癒着していた兄弟のユリアンとの切除手術を受けたゲオルクは、母方が貴族だったためにユダヤ人の父と共にグリースバッハを名乗っていたが、母の死去と、再婚によりグリースバッハを名乗れなくなった父と別れて本家の伯父の養子とな る。彼はユダヤ人排斥が広まる陸軍学校を無事卒業し陸軍大学に進学したが、彼に決闘を申し込み敗れ去った学生の父が皇帝の寵臣であり財閥の縁戚であったため、面目を潰された腹いせに 相手は義父に圧力を掛け、彼は大学を放逐される羽目になった。家からも追い出された彼は、2ヵ月かかってアメリカに渡り、さらに1年かけて西海岸へたどり着く。ハリウッドで映画監督のウォーレン・アンドリュースの目に止まった彼は、スタントマンから端役兼助監督となり、その多才ぶりからセットのデザインから脚本まで手がけるようになり、映画会社「プラネット」の制作部総支配人ケネス・ギルバートと、彼の愛人であり、やり手の脚本家兼フィルム編集者であったメイベル・ロウに認められて、監督を任されるようになる。低予算の映画「嵐」を成功させた彼は、次に大作「エレクトラ」の制作に入るが、その脚本を書くにあたって彼は無意識に自分の自伝 ともいうべき「双頭のバビロン」を書き綴ってしまうのであった。結局5時間半の長編として完成した「エレクトラ」は、メイベルによって2時間15分に編集され たが、皮肉にもそれは大成功を収めた。

 Tユリアン…ゲオルクと切り離されたユリアンは、両親から見捨てられ、世話係だったヴァルター・クッシュに引き取られる。成長するにつれ、自分の住んでいるところがチェコのボヘミアの瘨狂院「芸術家の家」であることを理解する。そこで彼はマン神父が上海から連れてきたツヴェンゲルという少年と仲良くなるのであった。

 Tパウル…3年前に旧大陸からアメリカに渡ってきた彼は、移民船の中で広まった伝染病によって家族を全て失い、東部でスリのエンリコにしばらく世話になっていたが、やがて西海岸にたどり着いた彼は、映画製作の仕事に興味を持つ。その日17歳になったばかりの彼は、グリースバッハ監督の新作「タイタニック」の衣裳を運ぶ途中に、ボヘミアから来たエキストラ志望の15歳の少女アデーラと偶然出会う。彼女も人形劇の一座だった家族を全て亡くし孤独な身であった。彼女に一目惚れしたパウルは、彼女をエキストラとして売り込むことを約束し、たまたま仲良くなった1つ年上のイタリア系スタジオスタッフのジャンニ・ランツィにそのことを話して、スタジオの中に案内してもらう。スタジオの中で偶然出会った「プラネット」のチーフ助監督エーゴン・リーヴェンにアデーラの売り込みを成功させた彼は、その夜ジャンニとアデーラの3人でお祝いをする。翌朝、彼とアデーラが教会へ行き結婚したことを知って驚いたたジャンニは、メイベルに掛け合って20ドルのお祝いのチップをもらい、仕事仲間と自分の家族を呼んで祝宴を開いてくれた。新米の雑用係と新顔のエキストラの結婚祝いに、エーゴンとメイベルまでが参列し参加者は驚く。「タイタニック」の大食堂のシーンの撮影には、アデーラが踊り子として出演するのみならず、パウルもボーイとして出演できることになったが、「プラネット」の評判を落とそうと画策しているらしいグリースバッハ監督をスパイしてほしいというメイベルの差し金であった。監督やスタッフから何の指示も出ない大食堂のシーンは、やがて破廉恥な大宴会に発展してしまい、パウルはこれこそが監督の狙いだったのかと思い至るも、彼自身も酒に溺れて意識を失ってしまうのであった。

 Uゲオルク…上海でのゲオルクの回想は続く。「エレクトラ」で大成功を収めた彼は次作の「二都物語」のシナリオを書き始めるが、やはり無意識に自伝的な「双頭のバビロン」のシナリオを書いてしまう。しかも今回は自分の記憶にない場面が頭に浮かび、死んだ(と彼が思い込んでいる)双子のユリアンが自分に書かせているのではないかと考える。何とか「二都物語」の台本を完成させ好評を博したあと大作を2本作った彼は次の大作「ゴールド」に取りかかる。しかし自分の思い通りの映画を作りたいあまりに大女優とトラブルを起こした彼は「プラネット」が押しつけてくる娯楽映画を立て続けに何本も撮らされる羽目になる。ハリウッドにおける彼の最後の作品となった「タイタニック」では、彼の初稿はメイビルによって一蹴され、彼女の用意した脚本を見た彼はやる気を失ってしまう。

 Uユリアン…ユリアンもゲオルク同様に自分の記憶の矛盾に気付いていた。そして、自分を引き取ってくれたヴァルター・クッシュが、瘨狂院「芸術家の家」の創始者の孫であり、グリースバッハ家の末娘と結婚してゲオルクの義兄となったブルーノがヴァルターの異母弟であり、このヴァルターとブルーノの兄弟は、ゲオルクとユリアンとの精神感応実験に興味があることを知る。一時は自分にはそんな能力はないと考えたユリアンであったが、ある日突然自動書記をやりたいという気持ちがわき起こり、幼いゲオルクの記憶を書き記して疲労困憊し眠りに落ちるのであった。そのことを知ったブルーノは、グリースバッハ家のゲオルクの留守中に彼の部屋に入れてもっと多くのことを感じさせようという提案をする。ヴァルターも賛成したことでその実験は実行に移されるが、決闘による怪我で入院中のゲオルグの記憶がユリアンの頭の中に見事に蘇った。さらに幼い頃のゲオルクの記憶を思い出した彼は錯乱し意識を失うが、覚醒後に瘨狂院に連れ戻される。しかし、帰り着いた彼を迎えたのは、ツヴェンゲルの「ヴァルター先生が亡くなった」という言葉であった。そして、確実にアリバイがあるユリアン自身も「僕が殺した!」と叫び続ける。

 ここまでが上巻のあらすじ。話の流れからするとゲオルクがヴァルター殺害の犯人なのだろうか。そしてゲオルクの最後の作品となった「タイタニック」の大食堂シーンの撮影の日に一体何が起こったのか。どうやら大きな火事が起こった様子なのだが…。このように興味深い部分がないわけではないのだが、正直退屈。決して駄作だとは思わないが好き嫌いが分かれる内容なのは確か。下巻に読み進むのも気が重い。

 Uユリアン(承前)…ヴァルターの死は病死と診断され、ブルーノが瘨狂院を継ぐことになる。ブルーノの提案で、ユリアンはアメリカで死亡したと思われるゲオルクとして軍に、志願することになる。ブルーノの息子が幼くして病死したためグリースバッハ家の跡取りがいなくなってしまったので、ユリアンがゲオルクとして戦場で手柄を挙げて帰国すれば再び跡取りとして迎え入れてもらえるだろうという考えである。ツヴェンゲルと共に死と隣り合わせの戦地を転戦し無事に帰還を果たした2人であったが、敗戦によってグリースバッハ家は破産していた。それでも快く2人を出迎えてくれた義父に対し、ツヴェンゲルはエーゴン・リーヴェンが自分の本名であると告げる。働かないわけにいかなくなった2人は仕事を探し、ユリアンは映画館の伴奏のピアノ弾きに、速記とタイピングができるツヴェンゲルはドイツのベルリンに移って映画の記録係となった。その職場でユリアンはゲオルクが製作し出演した映画「嵐」を観て、彼が今も生きていることを知る。

 Uパウル…映画「タイタニック」の大食堂シーンの撮影の際に発生した火災によって顔に火傷の跡が残ったアデーラは、病院で何度も自殺未遂を起こし、現在は州の施設に入れられていた。飲んだくれとなってしまったパウルは、火災の原因が燃えやすいセロファンを使った衣裳を身につけていたアデーラに高温の投光器が集中したせいだという噂を聞き、照明係のトビーに暴力を振るうが、そこに現れたメイビルによって止められる。彼女は戦争によって発達した形成外科手術でアデーラの顔が元に戻ると彼に告げる。そして、プラネットにとって大スキャンダルとなりかねない火災時のフィルムで脅迫してくる上海住まいのグリースバッハ監督の元に乗り込み、彼からフィルムを奪い返せばアデーラの高額な手術代を出してやるという彼女の提案をパウルは飲む。

 Vゲオルク…撮影中の火災事故でハリウッドでの全ての仕事を失ったゲオルクは、エーゴンと共に上海に渡り映画製作指導の仕事をすることになる。そこでユリアンの記憶を思い出したゲオルクは、ツヴェンゲルの役者姿の絵を描く。その絵を見たエーゴンは、その直前にツヴェンゲルと全く同じ持病を持っていることが明らかになるが、さらにツヴェンゲルと全く同じ自分の生い立ちをゲオルクに聞かせるのであった。新興の映画会社である芸華影戯公司の副支配人・呉から紹介された、その映画会社の社長であり陸海空軍少将参議の肩書きも持つ杜月笙(とげつしょう)は、秘密結社「青幇(ちんぱん)」のナンバー3である恐るべき人物であった。彼の目的は、彼が4番目の妻にしようとしていた女優を、ゲオルクの制作する映画の主演女優として有名にすることであった。ゲオルクは「香妃」という映画を成功させ杜月笙の望みを叶えるが、ゲオルクは要なしとなり会社も解散してしまう。会社の用意したアパートに住めなくなったゲオルクとエーゴンは、安宿に引っ越し再起をうかがうことになった。そしてある夜、ゲオルクはエーゴンとの最初の出会いについてエーゴンに語り始めるが、その出会いがゲオルクをグリースバッハ家から追い出すための策略であったことをエーゴンから聞かされた彼は驚愕する。ゲオルクが大学に通っていた頃、彼はカフェで出会ったフランスの戯曲に詳しい女性に興味を抱く。彼女を口説く邪魔をした学生ともめて彼は決闘をする羽目になり、結局それが原因でグリースバッハ家を追い出されることになったのだが、これは全てグリースバッハ家を手中に収めようとしていたブルーノの策略であり、それに協力していた女性こそ、19歳のツヴェンゲルつまりエーゴンの女装した姿だったのだヴァルターがブルーノの異母兄であったことも初めて知ったゲオルクは、ユリアンがウィーンで溺死体となって発見されたと聞き、さらに驚かされる。ユリアンの死を見届けたエーゴンは、「エレクトラ」を観て感動してアメリカに渡り、運良く速記者としてゲオルクに雇われたのであった。

 Vユリアン…エーゴンの見たユリアンの遺体は別人であった。ゲオルクがアメリカで生きていることを知ったユリアンは、ヴァルターの死の真相を問いただすためアメリカに渡るが、その船内でゲオルクの部屋から持ち出したアルバムに、ゲオルクと女装したツヴェンゲルが一緒に写った写真を発見し、ツヴェンゲルに裏切られたと感じる。ニューヨークに着いたユリアンは、過去にゲオルクとトラブルを起こした不良にゲオルクと間違われ絡まれるが、軍隊仕込みの技で不良をあっけなく殺してしまう。しかし、逃亡中に頭部に衝撃を受けて気が付くとエンリコによって縛られていた。エンリコは過去に助けたことのあるゲオルクだと思って気絶していたユリアンを連れてきたのだが、ユリアンが気絶したまま銃を放さないため仕方なく縛っておいたのだった。意識を取り戻したユリアンは、エンリコに自分はゲオルクと双子であることを告白する。

 Vパウル…上海のグリースバッハ監督の所にフィルムを奪い返しに行くことになっているパウルに、エンリコは彼に会いたがっているユリアンを一緒に連れて行くよう提案する。口実を設けて堂々と監督と会うべきだとメイベルに言われていたパウルは、ユリアンのおかげで良い口実ができたと彼を連れて行くことにする。
 Wゲオルク…京劇の「木蘭従軍」を映画として鴉片窟で撮影することを決めたゲオルク。エーゴンは、ゲオルクがこれまでに何度も無意識に書こうとしていた「双頭のバビロン」は「木蘭従軍」に含有されるのではないかと告げ、ゲオルクも納得する。映画を撮るには当然資金が必要であることに頭を悩ませるメイビルであったが、エーゴンはメイビルから資金を得ていることをゲオルクに告げる。メイビルを脅迫していたのは彼女の想像していたゲオルクではなくエーゴンであったのだ。彼らは映画にふさわしい最低の鴉片窟を見つけ汚物にまみれ死体が転がる鴉片窟の撮影を開始する。しかし資金は全く足らない。ゲオルクはあらゆる資金の調達方法をエーゴンに提案するのだが、その危険さ故にことごとく却下されるのであった。

 Wユリアン…上海に向かう船の中でパウルと打ち解けたユリアンであったが、エーゴンがゲオルクと行動を共にしているという話を聞き、最初に裏切りを感じた時以上の怒りを覚える。

 Wパウル…上海で面倒を見てくれることになっているアメリカ領事館書記官のドナルド・マクヒューに接触したパウルであったが、メイベルが指示したような放火や殺人といった乱暴な方法でフィルムを処分するのは危険であると彼に断じられる。
 一九二九上海…鴉片窟のある大観里の映像を映写していたゲオルクの元にアンドリュース監督が訪ねてくる。アンドリュースはゲオルクの映像を絶賛し、トーキー映画一色になったハリウッドにいられなくなった自分でも今だに無声映画が作られている上海でなら需要があるのではないかと考えて上海にやってきたことを告げる。

 ゲオルク…アンドリュースに「木蘭従軍」のシナリオを見せた後、「タイタニック」の乱痴気シーンのフィルムも見せるゲオルク。アンドリュースはドイツの映画会社「ウーファ」で「木蘭従軍」が撮れるように推薦状を書くことを約束する。

 ユリアン…まずはツヴェンゲルに会おうと、彼だけで留守番をしているゲオルクのアパートに入るユリアン。自分を裏切ったツヴェンゲルに対し、ゲオルクと勘違いさせて怯えさせようとしていたユリアンであったが、背後からツヴェンゲルの肩に乗せた手に触れただけで相手がユリアンであることに気が付き、振り向いて抱擁を交わすツヴェンゲルのすべてをユリアンは許す。ツヴェンゲルは、ヴァルターの死はブルーノによるもので、その報復に彼自身がブルーノを毒殺したことを告白する。

 パウル…ゲオルクから「タイタニック」の問題のフィルムを盗むため彼のアパートを監視していたパウルは、アンドリュースの突然の訪問に驚く。実はアンドリュースもハリウッドで映画を撮らせてもらう権利と引き替えに問題のフィルムを盗むためにメイベルから上海に送り込まれた1人だったのだ。アンドリュースは自分がゲオルクを引きつけている間にアパートからフィルムを盗み出すようパウルに指示をして部屋から出て行った。

 ゲオルク…カフェで打ち合わせをしているゲオルクとアンドリュース。アンドリュースは自分が上海に来た目的を正直に話し、「タイタニック」の問題のフィルムは切り貼りして差し出せばバレないからプラネットを脅迫し続けることは可能だとゲオルクに提案する。この話を盗み聞きした呉は、問題のフィルムを盗むべく部下を連れてゲオルクのアパートに向かう。呉の思惑に気が付いたゲオルクとアンドリュースは彼らを追い、なんとか彼らが盗み出したフィルムをすり替えることに成功するが、ゲオルクのアパートには呉の部下の死体があり、彼を殺したと思われるユリアンとツヴェンゲルは姿を消していた。身の危険を感じたゲオルク、アンドリュース、パウルの3人は、適当につないで作った「タイタニック」のフィルムをマクヒューの目前で焼き捨ててから上海を脱出する。ゲオルクはヨーロッパへ、アンドリュースとパウルはアメリカへ。

 伯林…念願が叶いドイツで「木蘭従軍」の撮影を始めたゲオルク。主演に据えた人気俳優のグスタフ・ミュラーは期待はずれだったが、何とか映画は「HUA MURAN」として完成した。そしてゲオルクはプレミアの会場で、送られてきた封書に書かれていた住所を頼りに、捜していた瘨狂院の場所をついに発見した時のことを回想する。唯一人が生活している気配を感じる部屋を見つけた彼に、久しぶりに自動書記の力が発動する。そして疲労困憊した彼は部屋の外にユリアンとツヴェンゲルの墓を発見する。ユリアンの激情に反応してゲオルクが無意識に突き飛ばしたことでヴァルターが死に、ユリアンを救うためにツヴェンゲルはブルーノを犯人に仕立て彼を殺したという、ヴァルターの死の真相をゲオルクは理解する。そして、ゲオルクはユリアンとツヴェンゲルの死も「見た」。ゲオルクは2人の死の様子を次のように想像し記録した。上海でユリアンは呉の部下に射殺され、負傷したツヴェンゲルはユリアンの死体を持って上海を脱出しヨーロッパに向かった。ユリアンの死体は船上から海に捨て、瘨狂院に帰り着いたツヴェンゲルはユリアンが子供の頃大事にしていた箱をユリアンの墓に埋めた。そして瀕死のツヴェンゲル自身は別の箱の中に身を横たえたのであった。ふと我に返ったゲオルクは、劇場の客席の最後方にユリアンの姿を見たような気がしたのであった。

 ユリアン…実はゲオルクが瘨狂院を訪れた時、ユリアンは生きており、聖具室からゲオルクの様子を見ていた。ユリアンとツヴェンゲルは負傷しながらも生きてウィーンに帰還しており、やがて志望したツヴェンゲルはユリアンによって埋葬される。そしてユリアンも自ら箱に入って死を迎えようとしている。ユリアンは、ゲオルクが自動書記能力によって真相を知ったならば、ここへ来て箱に土をかけてくれるよう願うのであった(この章は自動書記の部分に用いられる太字で書かれており、後にゲオルクが自らの能力によって真相を知ったことを暗示している)。

 上巻と比べると下巻はやたらと細かく場面が変わり、規則性のないサブタイトルの付け方もよく分からない。上海に至るまでの話は辛うじて付いていけるが、危険が差し迫っているユリアンとツヴェンゲルを放置してさっさと上海から逃げ出すゲオルクには大きな違和感を感じる。双子とは言え、ずっと交流のなかったユリアンはともかく、仕事で長い間苦楽を共にしたエーゴンをそんなに簡単にゲオルクが見捨ててしまう展開には大いに不自然さを感じる。ユリアンとツヴェンゲルが瀕死の重傷で帰国していてツヴェンゲルが間もなく死んでしまっていたという展開にはどうも付いていけず、なんとなくグダグタ感をぬぐい切れないラストシーンにモヤモヤしたものが残る。最近本当に多いゲイ設定には、いい加減食傷気味。ヴァルターの死の真相も分かったような分からないような…。本作の一番のポイントは双子の精神感応だろうが、そのモチーフをあまり生かし切れていないように思えるのは自分だけだろうか。幻想的な世界観を作り出そうとして、ただ話をややこしくしているだけのような気がする。ツヴェンゲルとエーゴンが同一人物であったという部分くらいしか、ミステリー的なインパクトはなかった。今回は久しぶりに疲れる読書だった。

2016年月読了作品の感想

『神の刺(T/U)』(早川書房/早川書房)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2011年版(2010年作品)13位作品。前回と似たような舞台設定の物語のようで、2冊に分かれた構成も同じ。前回に引き続き「疲れる読書」になりそうな予感があったが、読み始めると雰囲気は本当に似ている。1ページ目からヴァルター、その後ゲオルクやパウルなど前作と同名の登場人物が登場(当然全く無関係)。オーストリアやドイツにはありがちな名前なのだろうか。他に気になったのは今時珍しい誤字脱字。初版本とはいえT巻とU巻それぞれで5カ所ずつ計10カ所も見つけてしまった。読書をしているとたまに見つけることはあるが、あっても1、2カ所あるかないか。大丈夫か、早川書房…。

 序…ドイツ・リューベックの港湾局管轄の工場で働くヴァルターは、新任で要領の悪いヘルマンという男と親しくなる。彼は、ヴァルターにベルリンのドイツ共産党の生き残りである活動家であることがばれて動揺するが、ヴァルター自身がドイツ共産党の下部組織・闘争同盟の一員であることを明かし、ヘルマンを歓迎する。1936年5月、数々の働きで信用を得たヘルマンは、ついに闘争同盟の幹部と会うことになるが、実はヘルマンの正体はSD(ナチス親衛隊(=SS)保安情報部)の曹長、アルベルト・ラーセンであり、彼によって闘争同盟は壊滅する。アルベルトは、収容所に入れられ呪いの言葉を吐くヴァルターを冷たく突き放して去っていくのであった。

 第1章…1936年9月、SDとゲシュタポを含む保安警察を束ねる32歳の若き長、ラインハルト・ハイドリヒSS中将は、ナチスと対立する修道院の院長、ハインツ・フォン・ベールンゼンの失脚をアルベルトに命じる。ベールンゼンの弟子の1人、マティアス・シェルノがアルベルトの幼なじみであり、疑惑の交通事故死をした修道司祭がアルベルトの兄、テオドール・ラーセンだったからである。SSの一員であることを隠し、兄の死の真相を知りたいとあちこちを精力的に回っている姿に心打たれたマティアスは、院長に咎められることも覚悟でアルベルトの元を訪れ、テオドールがブルーダー・ゲオルクという修道士と同性愛の関係を持っていたらしいこと、テオドールが死の3日前に礼拝堂でマリアに延々と救いを求める言葉を繰り返していたこと、テオドールの死後1週間後にゲオルクが中国奥地に宣教に行かされたことを語る。ほぼ真相を掴んだアルベルトは、ローマに留学することになったテオドールの親友の修道司祭、ヨアヒム・フェルシャーが死亡したテオドールの代わりにその権利を得たと考え、彼ならより詳細な真相を知っているのではないかと接触を試みる。11月についにヨアヒムに面会できたアルベルトは自分の身分を明かし、ヨアヒムを脅迫して道徳裁判の証人に立たせることに成功する。その結果、修道院の閉鎖が決まり、ベールンゼンはアルベルト達に連行され、居場所を失ったマティアスはヴァルター同様にアルベルトに呪いの言葉を吐くのであった。

 第2章…アルベルトは、要注意人物との密告のあったベルリンの司教座聖堂付の助祭、コルネリウス・ロサイントの調査を開始する。当初は濡れ衣の予感もあったが、ロサイントが共産党員と結託し政府転覆を計画した証拠を掴んだアルベルトは、妻のイルゼの眼前で彼を連行するのであった。アルベルトは、それまでの功績が認められ、名誉あるドクロの指輪を授けられるが、イルゼの死産という不幸に見舞われる。やがてイルゼは回復するが、ユダヤ人への暴動を鎮圧して疲労困憊して帰宅した夜、イルゼが自宅にユダヤ人夫婦を無断で匿っていたことに愕然とする。強硬な態度を取るイルゼのために何とか2日間で彼らのビザを取得し、彼らを追い出すことに成功したアルベルトであったが、大きな疲労の中で独善的なイルゼへの不信感が芽生えつつあった。

 一方、マティアスは新しく移った修道院で祈りと労働に全てを捧げていたが、そこへヨアヒムが現れる。裏切り者の来訪に憤慨するマティアスであったが、ヨアヒムはローマ教皇が信徒に向けて公に発する最重要文書である回勅をマティスに託す。それはナチを批判する過激な内容のものであった。回勅は4日後に全国の教会で読み上げられるものであったが、ヨアヒムはより多くの信徒の手に渡るようにその印刷をマティアスに依頼したのだ。マティアスは不眠不休で印刷するが、カトリック系最大の印刷所の責任者であるホフマン神父が逮捕されたことでマティアスにも印刷中止の命が下り、司教団による回勅の支持声明も出ることなく、マティアスは失望するのであった。1939年2月、マティアスはローマに向かう国際列車でローマ教皇ピウス11世の弔問に紛れてユダヤ人の親子の亡命を図ったが、彼らが隠し持っていた宝石をSS隊員に発見され頭を抱える。しかし、万一のために隠し持っていたヴァチカンの大物の手紙を利用して、マティアスとユダヤ人親子は何とか難を逃れるのであった。

 第3章(前篇)…ユダヤ人の亡命を手引きする者達が次々に現れ始めていたが、密告に基づいてゲシュタポとSDが踏み込んでも獲物が消えているという事態が続いていた。上司のハルトルに内部から情報が漏れているのではないかと報告したアルベルトは、双頭官房直轄の極秘計画・E計画への参加を命じられる。それはまさにガス室を利用したユダヤ人 障害者の抹殺計画であった。現場を視察したアルベルトは食欲を失い、女優の仕事に復帰し忙しくなったイルゼの代わりに同僚のシュラーダーが通いの家政婦として紹介してくれた叔母のブラウン夫人の料理も喉を通らない。

 国防軍諜報部(アプヴェーア)の法務顧問にして反ナチ組織クライザウ・グループの統括者ヘルムート・ジェイムズ・フォン・モルトケの屋敷に招待されたマティアスは、あらゆる階層から集まった組織のメンバーに感動し熱い議論を戦わせるが、新政府樹立後の理想論ばかりで、現政権を倒す方法に一切触れないメンバーに失望しモルトケ邸を後にした。そして週に一度訪れる児童養護施設にやって来たマティアスは、反ナチ組織・連隊=レギメントの連絡員「スレイプニル」として、同じくレギメントの連絡員である「サズ」ことシュヴェスター・ヴェロニカ修道女と接触する。彼女から「公共患者輸送会社(ゲクラート)」に気をつけるよう忠告されたマティアスは、国家によるユダヤ人 障害者の虐殺が行われていることにすぐに気付き、かつて訪れたベルゲン療養院に駆けつけるが、26名もの患者が連れ去られた後であったことを知り絶望する。

 週末シュラーダーと映画館を訪れ食事をした後、帰宅したアルベルトを待っていたのは、ゲシュタポによる家宅捜索であった。責任者であるフーバーから、容疑が反政府組織に関わっていたイルゼへの情報提供と聞き呆然とするアルベルト。逮捕されたアルベルトはフーバーから拷問を受け、石の房で震えるしかなかった。

 ここまでがT巻のあらすじ。ナチのエリート士官と期待されながらも窮地に立たされるアルベルト、そしてただのいじめっ子崩れの修道士と思われていたマティアスが急速に物語の中で存在感を増し、アルベルトのライバルとして立ちはだかるという構図が確立して、やっとこの世界観になじめてきた。なんとかU巻を読む気力を維持できそうな感じ。とは言っても、あくまで辛うじてであり、ページを繰るワクワク感まではない。

 第3章(後篇)…突然釈放され唖然とするアルベルト。彼を迎えに来たシュラーダーは、彼にウラがとれたからだと説明する。イルゼに情報を洩らしていたのがフーバーの部下のビルケルであることが明らかになり、シュラーダーが半年前からアルベルト宅に送り込んだスパイのブラウン夫人を使って盗聴していた内容によって、アルベルトの無実が証明されたのである。そして、シュラーダーは彼に挽回のチャンスを与えるため、ある施設で行われている安楽死行為の告発文を彼に託し、SS大将のハイドリヒの元に向かわせる。ハイドリヒはアルベルトをポーランドへ飛ばそうとしていたが、その前に告発文の処理をしたいというアルベルトの直訴に彼は許可を与えたのだった。

 マティアスはゲクラートによって児童福祉施設から子どもたちが攫われないよう東奔西走するが、ゲクラートの横暴は続いていた。なんとか子どもたちを救おうと修道院に移し、さらに夜にバスで抜け出そうとしたが、結局ゲクラートに捕まる。責任者のフライは抵抗を続けるマティアスに自分の目で安全を確認すればよいと一緒に施設に着いてくることを提案する。しかし、案の定、施設に着くとマティアスは子どもたちから引き離され、子どもたちはシャワー室に押し込められた。激怒したマティアスは銃を奪って反撃するも、自分も肩と腹部に銃弾を受け重傷を負う。そこに現れ子どもたちの処刑を中止し、マティアスを救ったのはアルベルトだった。教会側の抵抗があまりに大きく、帝国官房から撤回命令が出たのであった。病院に入院したマティアスから、告発文を書いた犯人の名を聞き出そうとするアルベルトであったが、マティアス自身も知りたいくらいであった。そして、ついに教会のビラ攻勢に屈した帝国側はマティアスを解放し、彼はモルトケ伯によって手厚く待遇される。モルトケ伯を通して大司教ファウルハーバーからの司教になるべきという提案を聞くマティアスであったが、彼は返答を保留するのであった。

 第4章…武装SSロシアに送られたアルベルトはコミッサール(政治委員)の疑いのあるユダヤ人の虐殺に荷担していた。友人のシュラーダーが戦死し、その報復にパルチザンの親族32名を処刑することになったアルベルトは、わき上がる疑問を任務という言葉で押しつぶして実行に移した。

 マティアスは戦地から遠く離れた長閑な地にある修道院の神学校で司祭になるべく学んでいたが、その現状に疑問を抱いていた彼は学問の半ばで徴兵され衛生兵としてイタリアの最前線に送られていた。戦地で負傷し死を迎えようとする者達は聖体を授けられることを望んでいたが、教会の司祭は危険な最前線に近づくことを嫌がり、その現状にマティアスは苦しんでいた。マティアスは、モンテ・カッシーノ修道院のムンディヒ神父に聖体を授ける許可をもらおうと直訴するが、副助祭の資格しか持たない彼に許可は下りなかった。しかし、連合軍の砲撃を受けて崩壊したモンテ・カッシーノ修道院に呼び出されたマティアスは、ムンディヒからマティアスの話を聞いたディアマーレ司祭から、特別に聖体の秘蹟を行う許可を得て喜ぶ。モンテ・カッシーノ修道院から分けてもらった聖体を使い切ったマティアスが鄙びた村の教会で聖体を分けてもらおうとしている時、そこにアルベルトが現れる。アルベルトの依頼で彼の死にかけた部下に聖体の秘蹟を行う。そして、その1週間後、再びマティアスの前に現れたアルベルトは、マティアスを車に乗せ強引にローマに連れて行く。フェルシャーを通じてローマ教皇に会い、司祭になる許可をもらえと言うアルベルトに驚くマティアス。ついに教皇ピウス12世に謁見することが叶ったマティアスは、イタリアの司祭達にドイツ兵を救うよう伝えてほしいという希望を述べ、それが受け入れられた後、自分の叙階ではなく、ナチスに虐げられているユダヤ人を救うことを訴え周囲を慌てさせる。すぐに衛兵に謁見室から連れ出されてフェルシャーを呆れさせるが、彼を追って現れた教皇は彼の願いを聞き入れ、さらにフェルシャーが訴えたマティアスの叙階についても認めてくれるのであった。感激するマティアスを外に連れ出したフェルシャーは、自分もレギメントの一員であること、そしてアルベルトも協力者であることをマティアスに伝え、彼を驚かせる。

 終章…連合軍の捕虜となり、米軍の収容所に3か月、英軍の収容所に4か月入っていたマティアスは、ミュンヒェン北部の修道院で司祭として働いていたが、1947年7月、ロレンツ弁護士から生死不明だったアルベルトが見つかったという報告を受ける。彼は、米軍収容所の中でも最も酷いと言われているバート・クロイツナハ収容所にいるという。彼の弁護を希望しているというロレンツは、教誨師になれば囚人の彼と会えるとマティアスに勧める。そして、1947年9月に修道院にやってきたイルゼは、マティアスに驚くべき告白をする。自分が実はユダヤ人であり、そのことを夫のアルベルトも知っており、そのことを上司に知られたアルベルトが徹底的に教会を潰すという形でナチスに忠誠を誓わされたこと、そしてイルゼがレギメントのメンバーであり、マティアスが会ったことのあるメンバーの「サズ」がイルゼ自身であったことに驚きを隠せないマティアス。さらにイルゼをアメリカに亡命させることを条件に、レギメントにナチスの情報を提供するという要求をアルベルトが受け入れたという話にマティアスはさらに驚愕する。マティアスの仕業に見せかけて安楽死施設の内情を世間に告発したのもアルベルトであったのだ。

 1948年4月、アルベルトに死刑判決が下る。ナチスへの抵抗運動に関わっていたことを訴えれば判決に影響があったはずだったが、アルベルトはそれを拒否した。そして、南米へ旅立つことになったフェルシャーは、マティアスに告解を申し出る。フェルシャーは誰からも愛されるテオドールを憎んでいたため、テオドールがが同性愛者であること、そして彼がレギメントの一員であることを、彼に想いを寄せるゲオルグに教え唆したせいで、テオドールを追い込むことになったことを告白する。全てを知ったテオドールは、フェルシャーに「君は刺を切望しているのだね」と告げて3日後に死ぬ。ゲオルグが罪を犯したのも、テオドールが死んだのも、ベールゼン神父が全てを失ったのも、修道院が潰れたのも、アルベルトがあのような道を歩むことになったのも全て自分のせいだと言うフェルシャーを、マティアスは、告解のあとに思いきり殴りつけるのであった。1950年11月、教誨師となったマティアスはアルベルトの元を訪れる。死を受け入れているアルベルトと分かれる時、マティアスは涙が止まらなかった。年が明けて間もなくナチ戦犯の恩赦が行われたが、アルベルトの死刑は覆ることはなかった。死刑執行が行われる日に再びアルベルトの元に駆けつけたマティアスは、2人で静かにコーヒーを飲んで分かれた。アルベルトの最後の言葉は「たぶん、おれは君のようになりたかったんだと思う。さようなら、マティアス。元気で」というものだった。その顔は、マティアスがこれまでに見た人間の表情の中で最も美しいと思える笑顔であった。

 U巻は戦争描写の悲惨さに引かれてT巻よりは集中して読めたが、最後まで期待したほどの大きな感動はやはり得られなかった。アルベルトとマティアスの友情が主なテーマなのだが、どちらも直接的に相手を思いやって行動しているわけではないので泣けるような場面は全くない。アルベルトは何度も命令に背いて人助けをしているが、それ以上に人を殺しているので全く同情できないし、減刑されないのもやむを得ないことであろう。ミステリ小説的なサプライズは終盤にいくつか用意されていたが、いずれもびっくりするようなものではなく、特に安楽死施設の内情告発がアルベルトによるものであったことについては最初からバレバレな雰囲気であったし、サズの正体がイルゼだったというのは、彼女を目前にして気が付かなかったマティアスに問題ありだろう。こういう作品の価値が理解できないわけではないが、映画や漫画ならともかく、小説と言う形での需要は今後減っていくばかりのような気がする。

 

『天城一傑作集2 島崎警部のアリバイ事件簿』(天城一/日本評論社)【ネタバレ注意】★

 「このミス」2006年版(2005年作品)8位作品。4年ぶりに読む天城一作品。前回読んだのは、「このミス」2005年版3位作品で天城一傑作集1にあたる『天城一の密室犯罪学教程』である。前作を読んでみての結論は、「今まで資料の少なかった過去の寡作作家の業績がまとめられた本書は資料的価値があるということで、その手の方々の票を集めて上位にランクインしたというだけで、純粋に最先端のミステリ小説を楽しみたいと思っている読者を満足させるものではない」というもの。その続編であり、税抜き3,000円、600ページを越える本書を読了するには相当の覚悟が入りそうだ。本書は「PART1ダイヤグラム犯罪編」、要するに時刻表トリックの短編9編と「PART2不可能犯罪編」14編からなる短編集である。これはちょっと…という話を延々読まされるよりはダメージは少なそうであるが…。

 まずは「PART1ダイヤグラム犯罪編」だが、そもそも時刻表トリックの面白さが自分には分からない。時刻表から抜け道を見つけ出し犯罪を構築する作り手の方は楽しそうだが、読む方はそんなに楽しいだろうか。いちいち頭の中で筆者の言う分刻みのトリックを再構築するのも面倒で、トリック説明の部分はたいてい流し読みだ。今回は、それ以外の面白さを何とか見つけたい。

 @急行〈さんべ〉…銀行員の巌木が、横領に手を貸してくれた女子銀行員・米内沢ひろみを裏切って殺害し、社長令嬢と結婚しようとして失敗する話。

 巌木が運転手として雇った若者の車のトランクに死体を入れておき、その若者が死体に気付いて驚き、勝手にどこかに捨てれば事件の発覚は遅れるだろう、死体が見つかっても疑われるのは若者で自分には捜査の手は及ばないだろう、という巌木の発想がまず意味不明。また、自分の出世のために、元上司の五十川に、対立する派閥の横暴な監査の様子を告発するのは理解できるとしても、それにひろみの横領話を付け足したのは理解に苦しむ。共犯者にはリスクが大きすぎるだろう。五十川が、ひろみの死体が発見されたという事件記事を新聞でも週刊誌でも見るはずがないという巌木の考えも全く理解不能。エリアが違うとは言え、同じ銀行の銀行員の殺人事件の話など、どこから耳に入るか分からないではないか。

 A寝台急行〈月光〉…一流の「箱師」菅野は寝台急行で「仕事」をするが、被害者の宇津見が刺殺されていたため殺人容疑で逮捕される。彼の疑いが晴れ、宇津見のコンパートメントで商談していたという金浜という男も自ら名乗り出てアリバイが成立。秘密の情報提供者「Rルームの美女」から、宇津見の正体がベトナムの秘密情報機関の幹部であること、彼が桐原というブローカーと大口の取引をしようとしていたこと、その取引に金浜が割り込んできたことを知らされた島崎警部は、桐原の元を訪れるが無下に追い返される。島崎警部は部下と共にベトナム情報局のエージェントを演じて桐原を脅迫した結果、桐原は翌朝自決。ライバルの金浜は別件で逮捕され、桐原の犯行が結局無駄であったことを島崎警部に伝える「美女」であった…という話。

 桐原の宇津見殺害の動機は取引相手を金浜に鞍替えしたことに対する恨みなのか?「宇津見が死んであんたは助かった」という桐原に対する島崎警部の発言がそれにつながらなくて今一つ理解できないのだが。それ以外にも本筋に関係のない細々とした話がたくさんあってはっきり言って邪魔。詳細は割愛するが、島崎警部が「美女」に語る桐原に関するコーヒーや懐メロのエピソードなどは半分冗談なのだろうが全く面白くない。桐原を取調室で自白させたのならともかく、自決させて平然としている島崎警部の態度にも大きな違和感を感じる。

 B急行〈あがの〉…踏切での軽自動車との衝突事故で55分の遅れを出してしまった「あがの2号」。郡山での接続の特急「ひばり11号」には間に合わない。郡山駅で駅員に「上野駅に出迎えに来ている友人に遅れを知らせたい」と男が食い下がり、23時、上野駅で「八上久吉様」宛の電報が届いている旨のアナウンスが流れるが誰も現れない。そして6時少し前、上野駅近くのホテルで黒井産業調査所長の黒井が絞殺死体で発見される。発見者は黒井と会う予定があって喜多方からやって来た部下の浜堀で、「あがの2号」の事故で「ひばり11号」に乗れず「あづま2号」で上野に着いてすぐに駆けつけたが、喜多方での用事は企業秘密で言えないという。調査所の次長の八上は新宿で呑んでいたというアリバイがあり、第一容疑者の浜堀は評判の悪い男であったが、踏切事故によるアリバイがあった。真夜中に「美女」に呼び出された島崎警部は浜堀と呑んでいた木路原という男が飛び込み自殺をしたこと、彼には三河重工の調査部が尾行を付けていたこと、木路原は宮城工機が開発中の工作機器の情報を三河重工へ売り込もうとしていたこと、三河重工がそれを断ったこと、黒井に宮城工機の調査依頼をしていたのが三河重工であったこと、三河重工はすでに宮城工機の株集めに動き出しており秘密を盗む必要はなかったこと、木路原は過去に二重スパイをやって黒井に摘発され最近は誰にも相手にされていなかったことなどを教える。島崎警部は、木路原が欲と恨みによって浜堀を使って黒井を殺させたと考え、「美女」も同じ考えであったが、浜堀のアリバイトリックが分からない。しかし、郡山駅で1メートル62くらいの中年男が上野駅に電報を打ったという情報を掴んだ島崎は、すぐに浜堀の逮捕状を請求する。郡山駅から黒井のいるホテルへ電話をしたのは浜堀ということになっていたが、真相は電話を掛けたのは踏切事故を盗難車で故意に起こした木路原であり、その電話を受けたのが浜堀であった。浜堀は時刻表トリックで黒井の死亡推定時刻には上野に着いており、上野駅のアナウンスは、木路原から浜堀への殺人実行を指示するシグナルであったのだ。島崎警部に追及された浜堀は遂に観念し、すすり泣きを始めるのであった…という話。

 とにかく何もかもが分かりにくい。「1メートル62くらいの中年男」ってどんなに細かい情報なんだ、というところはすぐ突っ込めるとして、あとはどこを突っ込もうか探すのも面倒臭い。

 C準急〈たんご〉は、ホステスに協力を得て行ったオトリ捜査の話。D急行〈西海〉は、島崎警部の先輩から、彼の妹のたっての願いで友人の名門の娘の自殺を洗い直してほしいと頼まれる話。E準急〈皆生〉は、ファッションデザイナーの江迎登志子が絞殺され、かつて彼女を雇っていた船越昭三に容疑がかかる話。

 いずれも相変わらず話が分かりにくく展開もオチも面白くない。もう、あらすじをまとめる気力を失うくらい。作者自身のあとがきによれば、PART1では@の〈さんべ〉とEの〈皆生〉が代表作とのこと。短編だから辛うじて耐えられるが、本当に正直きつい。

 F急行〈白山〉…H県会議員の江平達治の東京での妾となったシングルマザーの別田定子は、江平に与えられたアパートの一室で彼の絞殺死体を発見する。彼が高速道路絡みで稼いでいたこと、経営の苦しい満潮商事の社長・渡川宏三が蛇窪代議士の所へ顔を出しては高速道路のことを口にしていたと「美女」から聞いた島崎警部は、さっそく渡川の会社を訪れるが、応対した社長秘書の道成寺は、島崎警部の神経を逆なでする何かを持っている男であった。渡川は事件当時はアルプス6号に乗っていたとアリバイを主張する。岩美部長刑事に道成寺を調べさせると、彼が8年前のホステス殺しの容疑者で結局立件できなかったことが判明する。その後の捜査で。道成寺が時刻表トリックで8年前に罪を逃れたことを知った 渡川が、同じトリックで今回の事件を起こしたものと考えられたが、真相は今回も道成寺によるもので、アクシデントによって起こった事件であることが明らかになるのであった。

 別田は最初だけの登場で、蛇窪代議士も一瞬名前が出ただけで登場しないし、江平と渡川の関係もよく分からないし、結末の「プレーボーイは個人主義者」うんぬんの話も全く蛇足であるし、とにかく全く面白くない。

 G急行〈なにわ〉…目黒のアパートで28歳の主婦・大行司恵が絞殺死体で発見される。島崎警部の部下・若月刑事が夫の健を自供させるが、疑いを持った島崎警部が嘘発見器に掛けたところやはり自供は嘘であったことが判明。次に樫野刑事が、恵の死亡直前の旅行先を神戸の友人の枝光日出子と決めつけ神戸に向かう。恵が神戸で日出子に会っていたことは間違いなかったが、2人が別れた時間からは死亡推定時刻には目黒に帰れない。時刻表トリックで帰宅が可能なことが何とか証明されるが、その時刻には部屋で健が内鍵を掛けて熟睡していたはずであった。樫野は、健が夢遊病者であり、彼自身が無意識に鍵を開け彼女を殺害して再び眠ったと主張するが、その推理は医師によって否定されてしまう。今度は柳刑事が、島崎警部の命令で恵のいとこの本庄襟香をマークし続けた結果、彼女が自白して事件は解決する。恵の計画した健の殺害を止めようとして正当防衛で恵を殺害してしまったことが認められ襟香の量刑は軽いもので済んだ。しかし、15年後、襟香は事件はすべて自分が仕組んだものであることを告白するのであった。

 樫野のエピソードの途中で唐突に名前が登場し、柳刑事のエピソードまで登場しない襟香に違和感。犯人のアリバイ崩しに警察が必死になるのは分かるが、被害者が死亡時刻に間に合うようにどうやって自宅に帰ったかの証明に必死になる展開にも違和感。犯人の夢遊病者説に至っては完全に「バカミス」の世界。今回も突っ込みどころ満載。

 H特急〈あおば〉…仙台の五百島(いおしま)部長刑事は、上司の計らいで、出張ついでに、秋田の孫と、雫石にいる昔軍隊で世話になった中隊長の大和田に会いに向かう。「あおば」で仙台に着いた五百島は、兵隊時代に新任の少尉が自軍の地雷によって事故死したことをふと思い出す。月曜に仙台に帰ってきた五百島は、火曜朝に瑞鶴ビルの持ち主・竹松忠恕の射殺体の前にいた。被害者が東京の瑞鶴精工の専務・北興敬三と会っていたことが分かり、五百島は東京へ向かう。その頃東京では、岩美部長刑事が島崎警部に上野駅で5年前の殺人事件で使われたと思われる拳銃を発見したと報告していた。被害者は瑞鶴精工の田無工場総務係の鬼塚君栄。交際相手の大学講師の端崎が疑われたが、結局事件は未解決のままであった。竹松と北興は航空母艦「千早」で上官と部下の関係にあり、瑞鶴精工には元海軍関係者が多数いることが分かるが、拳銃はその北興のスーツケースの中から発見され、北興自身は寝台列車の「新星」から落下して死亡したとのことだった。岩美は北興犯人説を主張するが、島崎警部も五百島も納得しない。北興が戦中から苦楽を共にした竹松を射殺する動機が見当たらないのだ。困っている島崎警部に、いつものように「Rルームの美女」が情報を提供する。瑞鶴精工の社長を引退し会長職に収まっていた竹松が求名(ぐみょう)総務課長を仲介役にして三河重工に全ての持ち株を売ろうとしていたこと、竹松が進めていた三河重工の支援に矢倉新社長と吉成常務が突然反対したこと、矢倉社長達は瑞鶴精工の株価が三河重工のライバル会社によってつり上がったところで三河重工に高く売りつけようとしていることを知った島崎警部は、姿をくらましていた吉成常務を見つけ出し彼が竹松殺しの犯人ではないかと追及する。吉成右常務は竹松殺しを否定し、矢倉社長が自分の愛人だった勝子を北興の後妻に押しつけたことを知っているのが自分だけで、矢倉社長に脅されて彼に寝返ったことを白状する。そして、5年前、端崎が妻への離婚の慰謝料500万円を払えれば鬼塚君栄と結婚できると聞いた君栄が、矢倉社長の秘密の件で彼を脅迫し、秘書課長の大篠津に逆に殺されたのではないかという線が見えてくる。北興に化けた矢倉社長が北興の切符を使って「あおば」で仙台に行き、竹松を射殺して「新星」に乗った。そして矢倉社長は福島駅で「新星」を降り、「新星」の浴衣を着せた泥酔状態の北興を「津軽1号」に運び込んだ大篠津がデッキから彼を突き落として殺害したというのが事件の真相であった。あとは矢倉社長を逮捕するだけであったが、突然その幕は下ろされてしまう。矢倉社長を乗せた車が東京湾に飛び込んで死亡してしまったのだ。島崎警部は運転手が「千早」の乗組員の海老津であったことを思い出して悔しがるのであった。

 要するにオチは、事件の真相を知った海老津が上官の仇をとったということか。これでやっと「PART1ダイヤグラム犯罪編」を読了したことになるが、この話が一番まともだった気がする。それでも相変わらず登場人物は変な名前ばかりだし、話は分かりにくいし、読んでいて疲れるのはこれまで同様。最初の少尉の事故死が何かの伏線かと思いきや結局物語とは何の関係もなく、ラストシーンにも別人と思われる少尉についての思い出話が出てきて、全く意味不明。思わせぶりな本筋に関係のないエピソードを挟むのは本当に勘弁してほしい。

 I「われらのシンデレラ」…成金の竹橋金六のパーティに現れた謎の美女は、大時計の12回の鐘と共に姿を消す。ここまではなかなかにドラマチックで続きを期待させる。その後、屋敷町の焼け跡で深夜に穴を掘っていたらしい竹橋の毒殺死体が発見される。彼が掘っていたところをさらに掘ってみると防空壕の中から若い女性の遺体が発見され、例のシンデレラが自分の妹だと警察に訴えてくる。彼女は、行方不明になっている妹が竹橋に殺されたと考え、うり二つの妹のふりをしてパーティに参加し、竹橋の動揺を誘ったのである。彼女は竹橋が良心の呵責に耐えられなくなって服毒自殺したと考えたが、妹の死体を掘り当てる前に死ぬのはあまりに不自然。しかし、その不自然さに触れることなく、島崎警部は竹橋が何者かによって殺害されたと断言。毒を飲ませた犯人は竹橋の秘書の関山であった。毒は強壮剤と言って飲ませたもので、穴を掘らせたのも防空壕にダイヤが埋まっていると騙して掘らせたと証言する。さらに、竹橋が彼の死体が発見された場所とは別に必要以上に深い穴を掘っていることから、女性を殺して死体を埋めたのも竹橋ではなく関山であることを島崎警部に指摘され、観念する関山であった。

 序盤の期待を見事に裏切る平凡な展開と結末にがっかり。

 J「われらのアラビアン・ナイト」…殺人のトリックは、被害者に指につばを付けてページをめくる癖があることを知っていた犯人が、宝くじの当たりくじを挟んであるというページに毒を塗っておいたというもの。

 まとめるのも面倒なくらいわかりにくい話。この作者は本当に読者のことを全く考えていない。

 K「われらのローレライ」…「実験探偵劇」として書かれた劇の台本風の作品。旧家の娘のところに婿入りした男が連続して斧で惨殺されるが、娘には記憶がなかったため不起訴処分に。3人目の婿を救ったのは、島崎警部の部下の中で一番手先の器用な岩美刑事であった。犯人は、身体に障害のあり、執事と下男を兼ねて彼女に仕えていた従兄で、娘を他の男のものにしたくなかった彼は娘に薬を盛って眠らせた後、新郎を惨殺していたのだ。今回は岩美刑事に毒を盛った食べ物の皿をすり替えられて逮捕されたのであった。

 試みとしては面白いが内容は平凡。いくら強盗が頻発していた時代だったとはいえ、2度も続けて同じような殺人事件が起こったにもかかわらず容疑者が2度とも不起訴になるという話の展開にも無理がある。

 L「方程式」…わずか2ページの短編。被害者の書き残した方程式を解くと、その答えがT=Csinb(a+d)だったため、T.Shinbaのイニシャルを持つ新場定吉が逮捕されるという話。

 数学者の作者らしいが、それが面白いかというと…。

 M「失われたアリバイ」…前作よりさらに短い10行の短編。松志は積年の仇の立村を立村を殺害。倒れた妻が時計を確認すると12時15分。松志はその時間のアリバイを完璧に作って安心していたが、島崎警部は立村夫人の陳述で犯行時刻が9時だったことが明らかになったとして松志を逮捕するという話。

 時計の見間違いというトリックもくだらないが、いつも通り話が全く分からない。倒れた妻というのは立村の妻?彼女と共謀して立村を殺したということ?そうではなくて、後で立村夫人が正しい時間を陳述したということは、現場にいたのは松志の妻なのか?松志は夫婦で立村を襲って、松志の妻がもみ合いの末倒れて、彼女だけがその時、時計で犯行時刻を確認したということ?松志も現場いたのに?松志がアリバイを作らなくてはならなかったということはそういうことだと思うのだが?訳が分からない。

 N「ある晴れた日に」…安積寺(あんせきじ)健とさつき夫妻が羽田から在外公館へ旅発つところを見送りに来た島崎警部。数年前、島崎警部は、外交官の先輩から、外交官の卵として期待されている八鹿(ようか)健の危機を救うことを依頼される。彼は有能ながら出自も金も不足しており、外務省としては何としても彼を名家の養子婿にしたかったのだが、やっと結婚相手に決まった安積寺商会の令嬢・さつきの義母の安積寺静恵が殺害されるという事件が起こってしまったのだ。自動車の転落事故現場から発見された静恵と安積寺商会の役員の幸木の死体には銃で撃たれた形跡があった。島崎警部が突き止めた真相は、幸木に襲われそうになったさつきが幸木に発砲して気を失い、誤って弾丸が命中した静恵はさつきをかばうために、自分が幸木を射殺して八鹿に手伝わせて幸木の死体を車に乗せ、自動車転落事故を起こしたというものであった。

 話のあちこちに無理があるのはもちろんだが、さつきも八鹿も正当な理由があるとはいえ犯罪に荷担しているのにすんなり幸せを手に入れて良いものなのか。また、静恵の過去の生い立ちや、幸木の正体といったエピソードもあまり必要性を感じない。作者の短編を極めようとする努力は分かるが、肝心なところを削って話を分かりにくくし、どうでも良い話を付け足すのはやめてほしい。

 O「雪嵐/湖畔の宿」…冒頭から分かりにくさ全開。要は島崎警部が刑事2人共にスキーに出かけ、暴風雪のため雪山に閉じ込められ、近くの別荘で起こった密室殺人事件を解決するという話。別荘では、オーナーの金貸しの棚川が、金を貸した5人の人物を宿泊させ、部下の梶田を使って返済の催促を行っていたのだが、棚川が殺害されたことで当然5人の債務者が疑われる。債務者の1人であった炭本が別荘を抜け出し湖に転落死したらしいことが分かって彼が疑われたが、島崎警部は初めて別荘を訪れた炭本に借用証書のありかなど勝手は分からないだろうとその説を却下する。そのうち梶田が姿を消し雪崩に飲まれて死亡したと思われた彼が疑われるが、島崎警部の出した結論は、棚川と梶田は同一人物で、彼は闇商売から手を引くために自作自演で姿を消そうとしたというものであった。結局殺人事件は1つも起こっていなかったのである。

 まず何より引っかかるのは、棚川の死体を誰も確認していない点。梶田が自分の見つけた棚川の死体が消えたと訴えているというのならまだ分かるのだが、何度も読み返してみても、梶田は寝室から棚川の返事がないと通報しただけで、死体を見たとも見ていないとも言っていない。それなのに棚川が殺され、その死体がなくなったという前提で話がどんどん進んでいく。普通ならただの失踪事件ではないか。それ以前に、やはり話の分かりにくさの方が読んでいて腹立たしいのだが。

 P「朽木教授の幽霊」…名門女子大の朽木教授は夜中に朝倉工業社長令嬢で女子大4年生のなおみを呼び出す。社長から彼女の後を付けるよう命じられた秘書の板谷は、教授宅で教授の射殺体を発見する。その事件後、島崎警部は「Rルームの美女」から女子大に出る朽木教授の幽霊を逮捕してくれるように依頼してくる。そして、教授宅からさつきが飛び出してきた後に教授宅に入って同じように飛び出していった男が、教授が雇っていた元俳優の鳴子であることが判明する。島津警部達が女子大に出没する朽木教授の幽霊を捕らえようとしたところ、道路に飛び出した幽霊はトラックに轢かれて死亡。その正体は鳴子であった。事件の真相は、教授が鳴子に化けて女漁りの生活を送っていたが、鳴子が想いを寄せていた元女優の卵だった桜尾ミハルにまで教授が手を出したことを知った鳴子は激怒し、教授の死体を演じてなおみを驚かせた後、帰ってきた鳴子の扮装をした教授を鳴子が殺害したというもの。鳴子はなおみが犯人であるという印象を世間に与えるため女子大構内で幽霊を演じていたのだった。

 死体の入れ替わりトリックはまあまあ面白いとは思うが、話全体をもう少し面白くできないものか。この作者の作品にはありがちだが、冒頭に登場する重要そうな人物がその後ぱったりと登場しなくなるパターン。板谷はまだまだ使いようがあるだろう。教授が鳴子のふりをして女漁りを続けていたことに誰も気が付かないというのも不思議な話であるし、鳴子がミハルにそこまで想いを寄せていたということも前半の話からは全く読み取れないのもいただけない。一番納得がいかないのは、島崎警部が、俳優として恵まれなかった鳴子のために名弁護士と出所後の芸能界復帰のためのスポンサーまで見つけてきて、鳴子が事故死してしまったことでそれらが無駄になってしまったことを残念がるラストシーン。いくら同情の余地が多少あるとはいえ、殺人犯に警部がそこまで入れ込むのは異常ではないか。

 Q「春嵐」…国粋主義の飛鷹会の大幹部・櫨山の別荘に砲弾が撃ち込まれ櫨山が死亡。飛鷹会の内幕をGHQの少佐に打ち明けようとしたため飛鷹会に消されたと思われたが、湖の畔に建てられた別荘の湖向きの2階の書斎にどうやって撃ち込んだかが謎であった。真相は秘書の戸次(べっき)が、書斎の窓に短い迫撃砲のようなものを取り付けて撃ち込んだというもので、迫撃砲は反動で湖に落ちて沈んだという島崎警部の推理であった。

 あまりにもくだらなさすぎ。櫨山が部屋のスイッチを入れると同時に発射される細工がしてあったようだが、砲弾が命中した壁には深い傷が残らなかったらしいので、そんな仕掛けも残っていただろうし、何より窓に固定してあった迫撃砲の形跡はそれなりの傷になってしっかり残っていたはず。秘書の戸次が切腹自殺していたことも内部犯の根拠の1つとして挙げられたようだが、主人を守りきれなかったことを苦にして自決したとも考えられなくはないので、あまり説得力はないのではないか。

 R「ヴァンパイア」…父から事業を引き継いだ友鶴商事の上戸誠は、大番頭の鵜川が殺されて大打撃を被る。容疑者は新参の新興スォロー商会社長の今庄。自殺した友鶴商事の女事務員が今庄に唆され鵜川から情報を盗んでいたことを知った鵜川は、偽情報を流してスォロー商会に大損害を与えていたのだ。しかし、島崎警部の部下でありながら島崎警部よりキャリアの長い12歳年長の石垣刑事は、上戸誠を疑っていた。上戸は事件当日、名古屋駅近くの「ヴァンパイア」というバーで飲んだ後、列車「やまと」のうしろから3両目の一番後ろの座席に座ったとアリバイを主張するが、「ヴァンパイア」というバーは存在せず、車掌のその席には別人が座っていたという供述もあってアリバイが崩れる。だが、結局犯人は青倉という男だった。彼は逮捕される前に今庄に射殺され、今庄も自殺してしまうのだが、青倉は上戸を嵌めるため、売りに出ていたバーを利用して「ヴァンパイア」というバーを一晩限りでっち上げ、増結車両によって長くなった「やまと」の後ろから3両目の車両に乗って上戸のアリバイを消してしまったのだった。

 ありがちなトリックで、話も相変わらず面白くない。

 S「ニ単調のアリバイ」…教育機器の世界的企業WEIの日本支社準備室長の五井がバーボンに入れられたシアンで毒殺される。旧知の仲の教育ジャーナリスト・江見が疑われるが、彼がバーボン嫌いの日本酒党であることが分かり容疑が晴れる。次に疑われたのは大学教授の神保原。彼は不倫相手のヴァイオリニストの弓削艶子と心中するために、朝10時に日本に1本しかテープが存在しないブラーコフのヴァイオリンの演奏をラジオで聞きながら睡眠薬を飲んで自宅で寝ていたと主張する。真相は、WEIの威光で手に入れた第2のテープを艶子に聞かせて艶子が眠っているうちに列車に乗って五井を殺害、自宅に戻ってきて、目を冷ました艶子と別れ話をして彼女と別れた後、航空便でテープをWEIに返送したというもの。

 自分の演奏を録音させなかったヴァイオリニスト・ブラーコフを利用したトリックは面白いと思うが、「WEIの威光」とやらで神保原が簡単に第2のテープを手に入れていたというオチに失望。

 ㉑「収差」…落ち目の竜鳳光学の技術第2課長の源道寺は、自分のアイディアによってできた新製品の「パトリカ」に賭けていた。業界紙「アペラチオン」の編集長・花宗はパトリカのノウハウを100万円で売らないかと持ちかけ、「アペラチオンは収差だ。だが、色収差よ!」と、源道寺の不倫現場を撮った写真を突きつける。源道寺は取引をするふりをしてホテルの一室で花宗を射殺。しかし、逃亡の途中に「黒装束の麻薬の受取人」と間違われて、麻薬捜査班に取り押さえられてしまう。たれ込み情報の誤訳が原因で、「翻訳の二重レンズの収差の源は、黒染めの衣を着た男、つまり坊さん」だったというオチ。

 ウィキペディアによれば、収差とは「望遠鏡や写真機等のレンズの類による光学系において、被写体から像への変換の際、幾何的に理想的には変換されずに発生する、色づきやボケやゆがみのこと」だそうだ。意味が分かってもこの話にマッチした言葉とは思えない。こじつけっぽい。

 ㉒「死は賽を振る」…島崎警部は、20年前の宮城県での労働運動最後の人権ストが労働者側の勝利に終わったその日の朝、支部闘争委員会の中の若手の闘士、堂島啓太郎が殺された事件について語り出す。その日の午前6時30分頃、堂島はトレンチコートの男に騙され堂島の借りたレンタカーの助手席で後頭部を鉄棒で殴られ死亡し谷に捨てられるが、犯人にとっては運悪く死体が途中でひっかかり、2時間後に発見されてしまう。捜査の中で、会社側の人間で堂島と付き合いのあった郷戸武人の名前が浮上する。堂島と彼の美人妻の周子との間を取り持ったのも郷戸らしい。労組前面勝利のラジオ放送が午前6時に流されたのだが、ラジオの内容を受けた手紙を自宅のある目黒から7時頃投函しているため、アリバイがあると郷戸は主張したが、五百島刑事は納得できない。そして、岩美刑事の仕掛けた罠にまんまと嵌る郷戸。女性巡査が周子の友人を装って、郷戸と周子との仲を知っていると脅迫したところ、逆上して女性巡査に襲いかかり、反撃されたところに刑事達が飛び出してきたのを見て崖下に飛び降りて自害したのだ。手紙は一か八かで書いたもので、予想通りにいかなければ殺人を中止すれば良かったのだと結論づける島崎警部であった。

 郷戸を逆上させただけで、何の自白も得られないまま彼を死に追いやり事件に幕を下ろしてしまったオトリ捜査は明らかに失敗だろう。何より、手紙のトリックがただの博打だったというオチがどうしようもなく救いがない。

 ㉓「虚空の扉」…砂丘に偵察機が着陸する映画の1シーンを撮るため、ナチス・ドイツが作ったシュトリッヒ(一般的にはシュトルヒと呼ばれているらしい)を参考にオランダのヘルメス社が作ったコサックを、日本で唯一所有している大念寺義治から借りた雑用係の矢代田。矢代田は資産家の道楽息子であった大念寺を嫌っていたが、海鷹プロダクションの主催者であり映画監督である行野の意向には逆らえない。プロダクションには浜浦桂子という唯一のスターがいたが、彼女ですら本業はバーのマダムであった。矢代田は、寒風の中で風邪でもひかれると困る桂子の代役として脚本通り着陸するコサックに駆け寄るが、コサックは予定外の火災を引き起こしていた。矢代田は操縦していた大念寺を引きずり出し、行野は機材を詰めた大きなトランクを2つ担ぎ出すが、コサックは焼失し大念寺は死亡。さらに大念寺の死因が鋭利な刃物で心臓を突かれたものだと判明し、コサックには大念寺以外に誰も乗っていなかったため、事件は犯人消失という大きな謎を残す。しかし、島崎警部は行野の前で全ての謎を解明する。映画を完成させるために大念寺の資金は欲しい。かといって看板女優の桂子を差し出せという大念寺の要求には応えられない。行野の出した結論は、トランクに潜ませた桂子に大念寺を刺殺させ、再びトランクに隠れるというものであったのだ。

 いくら桂子も操縦をマスターしていたとはいえ、操縦中のパイロットを刺殺するというのはあまりに危険すぎる。しかも着陸と同時に撒いたガソリンに火を放ち、駆け寄ってくる矢代田に気付かれないようにトランクに戻るなんて無理だろう。作者によれば、PART2の中では「朽木教授の幽霊」と、この「虚空の扉」が自信作とのこと。確かに両者はPART2の中では比較的読めた作品ではあったが、「自信作」と言われると正直閉口してしまう。

 覚悟はしていたが、やはり結論は、素人には手出し無用の1冊ということだ。

 

『犬の掟』(佐々木譲/新潮社)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。ミステリ小説の中では警察小説を苦手としていることを自認している自分であるが、それ以上に苦手な海外を舞台にした作品を3作(1作目は傑作だったが)読んだ後に、続けて苦行とも言える問題作を読んだ直後だったため、本書がもの凄く読みやすく感じた。

 7年前、波多野涼巡査は、門司孝夫巡査長と共に、暴力団員を殺して指名手配されていた殺人犯を水産会社の倉庫に追い込むが、人質の女性を救出しようとして殴られ自らが人質になってしまう。女性を救出した門司に代わって、上司の能条の命令を無視して現場に突入した波多野の同期の松本章吾巡査は、犯人に発砲し波多野を救った。

 その後、蒲田署刑事課で巡査長に昇進していた波多野は、蒲田署に異動になったばかりの門司巡査部長と共に、小橋組の幹部・深沢隆光が自分の車の助手席でスタンガンを押し当てられ手錠をはめられた状態で射殺された事件を追うことになる。警察は、藪田という男をリーダーとする「ヤブイヌ」と呼ばれる半グレグループが過去に深沢と揉めたことがあるという噂から彼らを疑う。波多野と門司は、藪田と藪田の女、同じグループの石黒らに接触し事情を聞くが、彼らは事件への関与を否定し、事件当日、彼らが警察に知られたくないことをしていたらしいことぐらいしかつかめない。

 その頃、波多野と同様に警視庁捜査一課で巡査長に昇進していた松本章吾は、綿引壮一警部補と協力して品川駅で殺人犯を逮捕した後、管理官の伏島信治警視から呼び出されていた。伏島の話によれば、2年前に酔って運河に転落して溺死したと判断された暴力団員準構成員の室橋謙三という男の遺体に手錠とスタンガンの跡があり、深沢も同じ人物に殺害されたのではないかと言う。さらに、室橋には女医殺しの容疑が、深沢にもフィリピン人ホステスの容疑がかかっていながら立件できなかったという過去があり、そこには女医の所属していた外国人支援団体が関わっているという共通点があり、捜査指揮に反発を覚えた現職警察官による連続殺人事件の可能性を指摘し、綿引と松本に極秘の特命捜査を命じる。

 半グレ・グループを追う門司と波多野コンビと、現職警察官による連続殺人事件の可能性を捜査する綿引、松本コンビ。前者は、未成年を雇用しているという児童福祉法違反容疑で石黒の逮捕状を取って彼の店の強制捜査に踏み切り、さらに深沢の死体が発見された現場近くの倉庫で危険ドラッグが製造されていたことを掴み、半グレ・グループによる深沢殺しの容疑を深める。一方、後者は、6年前に何者かに射殺された暴力団員の吉武と、自宅の浴槽で溺死した鳴海という体育教師が、死亡直前にスタンガンが使用されていたことを突き止め、今回の事件とのつながりを洗い出していく。また、深沢と室橋の捜査上に浮上した内田絵美という女性警官が、深沢と室橋が法で裁かれなかったことに不満を持っていたことから、彼女の不倫相手であった、松本のかつての上司・能条への容疑を深める。

 石黒逮捕の現場で波多野と松本が再会した直後、波多野が門司に隠し事をしていることが発覚し、門司は波多野こそ、吉武、鳴海、室橋、深沢の4人を殺害した犯人であることに気付き、路上駐車した車内で波多野に拳銃を突きつける。しかし、警官は撃てないという門司を、波多野はためらいなく射殺する。事件を知った松本は、7年前の事件現場で波多野と対峙する。波多野は7年前殺人犯に銃を突きつけられたことで精神が壊れてしまっていたのだった。波多野を救ったつもりで救えていなかったことを知った松本は波多野に詫びるが、波多野に自分を撃ってくれと頼まれても撃つことができない。そんな波多野を綿引が射殺する。松本は、7年前にすでに波多野が精神的に死んでいたことを誰も理解できるはずがないと心で叫びながら、自分と波多野の死体を取り囲む警官達を見渡すのであった。

 蒲田署の門司・波多野、特命を受けた警視庁捜査一課の綿引・松本、という過去に因縁のある2組の先輩後輩コンビが、暴力団幹部射殺という1つの事件を別の線から追うという構図だが、この2組のコンビの雰囲気が似すぎていて、読み進めている間、ずっと分かりづらさを感じる。辛うじて門司には「暴力団絡みの事件好きで功を焦る刑事」という味付けができているが(それでも刑事としてデキる男なのか、そうでないのか最後まで判断できない中途半端なキャラではある)、綿引は門司ほどキャラが立っておらず、同期の波多野と松本にも明確な個性の違いが感じられず、もう少しキャラの差別化を図ってほしかったところ。

 また、帯には「迷わず撃て。お前が警官ならば−。急行する捜査車両、轟く銃声。過去の事件が次々と連鎖し、驚愕のクライマックスへ!比類なき疾走感で描く緊迫の40時間。衝撃の警察小説。」と銘打たれてはいるが、それほどハードなハリウッド映画的な内容の作品ではない。むしろかなり地味な作品で、ありがちな手法ではあるが明らかに煽りすぎ。「迷わず撃て」に該当する緊迫のシーンは最初と最後に1カ所ずつしかない(厳密には最後に2カ所あるといえばあるが)。中盤に綿引と松本が石黒の店に強制捜査に踏み込み、さらにドラッグ工場を発見するまでの展開は、地味な聞き込みばかりで結構退屈。後半も少しずつ真相に近づき緊張感が高まっていくという感じではなく、突然、波多野が怪しくなっていきなり門司を殺してしまうという急展開。これはこれで狙っているのだろうが、作者側が期待したほどの効果はなく、読者が主人公達に共感を得て感動を得られるはずのラストシーンも今一つ。波多野の悪を憎む心は理解できるのだが、彼の憎む悪事の数々があまりにさらりと書かれていて感情移入しづらいのも要因の1つであるし、彼が犯罪者処刑人になった過程が、長年自分で悩みに悩み抜いてそうなったわけでなく、殺人犯の人質となったことがきっかけで精神が壊れて突然そうなったというのも感情移入しづらい要因の1つだ。せめて、彼が真犯人だと明らかになった段階で、いかに世の中が不条理で、悪がのさばっているかを彼の視点から語らせて、彼を法的には許せなくても心情的には応援したくなるような人物として描くべきだったのではないか。

 「このミス」19位という順位は、警察小説の雄である作者の作品という点から考えると不当な評価にも見え、本書の発売時期がノミネート期間終盤の9月だったことに起因するのではないかと言えなくもないが、本書発売の1年以上も前から「週刊新潮」で連載されていたことを考えると、それだけが要因とは言えないだろう。決して面白くないとは言わないが、オススメするのもためらわれる作品である。

 

『流(りゅう)』(東山彰良/講談社)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2016年版(2015年作品)5位作品にして第153回直木賞受賞作。前回読んだ『ジョニー・ザ・ラビット』は散々だったため東山作品は二度と読まないと一時は心に誓ったが、それから7年後の作品であり、しかも直木賞受賞作ともなれば読んでみようかという気にもなる。

 第1章〜第5章…舞台は、1970年代から現代にかけての台湾。主人公・葉秋生(イエチョウシェン)の祖父、葉尊麟(イエヅゥンリン)は抗日戦争中に日本軍に自分の村を襲われた仕返しに、日本軍を自分の村に導いた王克強(ワンコウチャン)の村を襲い村人を虐殺し、その後、尊麟の所属する国民軍は共産軍に押され台湾に逃れた。その祖父が、1975年に祖父が営業していた布屋の浴槽の中で縛られて溺死させられているのを最初に発見したのが17歳の秋生であったが、犯人は分からずじまいだった。その後、秋生は幼馴染みの悪友・趙戦雄(ジャオジャンション)こと小戦(シャオジャン)に頼まれた替え玉受験が発覚して高校を退学になる。底辺校に転校した秋生は宝くじを当てて車を買った小戦とドライブに出かけるが、小戦の車を威嚇し追い抜いていった車が起こした山道の事故現場で女の幽霊を目撃する。その事件以降、秋生はあちこちに現れる彼女からの「助けて」というメッセージに悩まされるが、ついに秋生は明泉(ミンチュエン)叔父と共に最初の事故現場近くで幽霊の正体である女性・藍冬雪(ランドン)の白骨死体を発見する。冬雪は、秋生の幼馴染みの毛毛(マオマオ)の叔父・射胖子(シィエパンズ)と駆け落ちしようとしていて別の彼女に想いを寄せていた男に殺害されていたのだ。そしてその男こそ、先の交通事故で死亡した男であった。

 第6章〜第10章…植物園に朝の体操をしに来る年寄り達と祖父の間にトラブルがあったことを警官から聞きイライラしていた秋生は、事情を聞いた毛毛に背中を押されて植物園を訪れる。そこで、祖父のトラブルの相手が岳(ユエ)というバイオリン奏者であることを知るが、植物園に通い続けているうちに彼が犯人ではないことを確信する。そして、2歳年上の毛毛のことを1人の女性として意識し始めるのであった。大学受験に失敗した秋生は陸軍軍官学校に入学するが、後輩いびりに嫌気がさし半年で行かなくなり、再び大学受験を目指すようになる。そして、叔父の宇文(ユイウェン)からもらった日本製の下着を毛毛にプレゼントしたことがきっかけで彼女と交際するようになる。ある日、秋生は小戦にヤクザの高鷹翔(ガオインシャン)の所に連れて行かれる。高鷹翔に損害を与えた男を捕まえたところ、秋生の祖父の殺害事件の前に祖父の布屋から盗まれた革靴を、その男が持っていたというのだ。男は靴を盗んだことは認めたが祖父を殺したとは思えなかったため復讐を諦める。しかし、高鷹翔がその男を小戦に始末させようとしたため、秋生は暴れて小戦を連れてバイクで逃げ出した。数日の間小戦を匿った秋生であったが、高鷹翔の一味に攫われてしまう。秋生は祖父の形見の拳銃を持って小戦を奪い返しに行こうとするが、叔父の宇文が身代わりとなって小戦を救出する。しかし、高鷹翔を脅すために発砲した宇文はもちろん、その場にいた秋生、小戦、高鷹翔の一味も皆警察に逮捕されてしまう。宇文以外はすぐに釈放され、宇文は、秋生と小戦がヤクザに追われることがないよう、秋生には兵役に就くことを、小戦には自分の代わりに自分の会社の船乗りになることを勧めるのであった。兵役に就くために陸軍軍官学校へ退学の手続きに行った秋生は、上級生に拘束され独房に入れられ2週間苦しめられる。そして、9月に嘉義県の部隊に着任した秋生は、ある日、部隊の仲間達と「こっくりさん」で祖父殺害犯を占うことになり、「王という名字の義理堅く人情に厚い男」という結果を胸に刻むのであった。

 第11章…1979年に除隊した秋生は、毛毛の医師との結婚話に衝撃を受ける。その後、日本のファミリーレストラン産業に野菜を卸す仕事をするようになった秋生は、日本で取引先の通訳をしていた夏美玲(シャアメイリン)という女性と出会う。そして、その後、秋生は彼女と結婚するが、彼女は流産と死産を繰り返した挙げ句、結局秋生と離婚するという後日談が明らかになる。

 第12章〜第14章…秋生の祖父達が台湾へ脱出するのに手を貸してくれた中国大陸で暮らす馬大軍(マダアジュン)から、近所に住む李爺さんのところに送られてきた手紙によると、王克強の一族は秋生の祖父達によって皆殺しにされたはずだったのに、その息子が帰ってきたという。その写真を見て秋生は驚愕する。その人物は刑務所を出所後行方不明になっていた叔父の宇文だったのだ。宇文は祖父の本当の息子ではなく、身寄りを失った祖父の上官の息子だったのだが、祖父は本当の息子や娘以上に宇文を可愛がっていたことを知っていた秋生は困惑する。そして、自分の会社の社長から、毛毛が自分と血のつながった姉かもしれないという話を聞いてさらなる衝撃を受ける秋生。毛毛の母は結婚前に秋生の父と交際していた時期があり、毛毛はそれを知って秋生と別れて医師との結婚を選んだのだ。祖父の死の真相を確かめるために宇文に会いに行くことを決めた秋生は、仕事を辞め、中国から帰ってきたら結婚しようと夏美玲にプロポーズする。1984年ついに中国大陸に渡った秋生は宇文と対面する。予想通り、宇文の正体は王克強の息子・王覚(ワンジュエ)であり、祖父を殺したのも彼だった。本当の宇文は、祖父によって王覚が連れ出される直前に彼自身によって殺されていたのだ。なぜ祖父を殺した後、自分達にも復讐しなかったのか問う秋生に、王覚は、祖父が自分の罪に苦しみ、王覚の正体を知っていて育てていたことを知ったからだと答える。祖父の仇を取ろうと石で王覚を殴ろうとした時、王家の少年・魯魯(ルル)に撃たれて倒れる秋生。その銃は、まさに祖父の形見の拳銃であった。

 エピローグ…秋生は助かり台湾に帰って大学に入学、在学中に夏美玲と結婚する。魯魯の罪をかぶった王覚は裁判を受ける前に肺の病気で死亡。小戦は極道から足を洗い野菜販売の仕事を始め、乾物屋の娘と結婚。毛毛は医師と離婚し絵描きのアメリカ人と暮らしているという。空港で「ここからアメリカへ行けちゃうのね」という妻に、秋生は「いつかふたりで行けたらいいな」と答えるが、「じゃあ、子供は?」と返され、妻が妊娠三ヶ月であることを知らされた秋生は大喜びするのであった。

 一応、台湾という海外が舞台なのだが、一昔前の昭和の日本が重なって懐かしさを感じながら何の抵抗もなく読める作品である。そんなに事件が頻発するわけでもなく全体的にのどかで牧歌的な雰囲気が最後まで続くが、特に退屈を感じることもない。どちらかといえば広義のミステリ作品で、ミステリ的な部分と言えば、序盤の主人公の祖父殺害事件と幽霊話、終盤の主人公の叔父の正体が明らかになるところくらい。後はヤクザやチンピラとの小競り合いが少々ある程度のものだ。コミカルなシーンも多く、そういう部分を楽しめる読者も多かろう。それに主人公の幼馴染みの女性との別れ、妻との別れという切ないエピソードが加わって、他の作品ではあまりない方向から人生というものをしみじみと考えさせてくれる作品となっている。エピローグがハッピーエンドで終わっていながら、実はこの後にまた主人公にとって辛い出来事が待っているというのが読者に明らかになっているという設定は、「それが人生というもの」と言ってしまえばそれまでだが、それではあまりに救いがなくて、そこだけは好きになれない。

 自分にとっては論外だった「このミス」2010年度13位の『ジョニー・ザ・ラビット』や、あまり印象の良くなかった「このミス」2014年度3位の『ブラックライダー』と比べると概ね好印象。個人的に大絶賛には今一歩届かないものの、前回読了したばかりの『犬の掟』の★★とは違い、かなり★★★に近い★★である。東山作品を一度読んでみたいという方には、本書は間違いなく一押しの作品。

 

『一千兆円の身代金』(八木圭一/宝島社)【ネタバレ注意】★★

 読了したばかりの『流』で久しぶりに「こっくりさん」という言葉を聞いたが、まったく関連のない本作に「こっくりさん」が再び登場したのにちょっと驚き。さて、2013年第12回『このミステリーがすごい!大賞』大賞受賞作である。同時に大賞を受賞した『警視庁捜査二課・郷間彩香 特命指揮官』は2年前に読了済み。ちなみに、「歴代ランキング作品リスト」のページにも同じように「2013年」「第12回」と記載しているが、2013年というのは受賞した年である。実際には、出版社の方では、受賞した翌年の初めに出版されるため、本の帯には受賞年の次の年が記載される。本作品に関しても、帯には「2014年第12回『このミステリーがすごい!』大賞・大賞受賞作」と記載されている。

 あらすじは、汚職にまみれながら逮捕されることなく引退した国武元副総理の孫、小学5年生の篠田雄真が誘拐され、犯人から日本政府に日本の財政赤字と同額の1085兆円という途方もない身代金が要求されるというもの。犯人は、身代金の支払いが不可能な場合、日本政府は財政危機を招いた責任を反省した上で公式謝罪を行い、期日までに具体的な再建案を提示せよとも要求してくる。警視庁捜査一課特殊班の今村敦士刑事は、先輩刑事の片岡新太郎、同僚の女刑事・高田寛子とともに犯人を追う。

 犯人は章タイトルで「革命家N」と記されるが、本文中では平岡ナオトという日本の政治に不満を持ち「嘆願ブログ」というブログで意見を発信している若者であることが明らかになっている。ただし、イニシャルにNを含む人物が何人か登場し、どんでん返しが用意されている可能性も臭わせてはいる。

 本作は、全50章からなっており、章ごとに章タイトル名の人物の視点で語られるスタイルをとっているが、第9章には、革命家Nのブログ内で公開された文章と称して、平岡が9歳に戻れたら、親や教師に内緒で地元の北海道から上京してテレビ局に行き、総理大臣に向けて国の借金をなくすよう嘆願する作文を読み上げるという妄想小説が記されている。どうやら本作品が、この賞に応募された時には、この部分が冒頭にあり、タイトルも『ボクが9歳で革命家になった理由』だったようだ。

 平岡のブログに惹かれた保育士の中川遥、大学生の大谷哲平、保険会社に勤める中野涼介らは、大谷の提案で平岡との食事会に参加する(正確には大谷が平岡のみに持ちかけ、平岡があとの2人を誘った)が、大谷に侮辱された中野は真っ先に去ってしまう。中川も去った後に、やっと平岡と2人きりで議論を始めた大谷だったが、最後に意見が食い違い喧嘩別れしてしまい、その直後「嘆願ブログ」はネット上から消えてしまうのだった。事件発生後、中野の通報により、捜査線上に平岡が浮上し、北海道警への問い合わせで入手した高校の卒業アルバムを中野に見せ、平岡の本名が伊藤直哉であることが明らかになる。大谷や中川も聴取を受け、今村と片岡は、中川の不審な態度に臭うモノを感じ取る。そして、雄真の父で医師の篠田裕一が勤めている病院の看護師長から、看護師の橋本沙織が裕一の子供を妊娠して堕ろしトラブルになった後、病院を去ったことを聞き出す。

 その頃、雄真の小学校の担任で、かつて雄真らに財政破綻を批判する授業を行った早坂典雄が、任意同行で警察に連れて行かれ厳しい取り調べを受けていたが、彼はなかなか落ちない。そのような状況の中、今村は橋本の同僚から、ついに橋本に誘拐の動機があることを掴む。橋本は裕一の子供を産むつもりでいたが、裕一に堕胎薬を無理矢理飲まされ流産していたのだった。また、橋本は、雄真と面識があり、たまたま街で再会した雄真に「嘆願ブログ」を検索することを勧められていた。政治に興味のなかった橋本であったが、彼女は伊藤に惹かれてメールを送って彼に会い、彼と深い仲になる。そして、橋本は伊藤に会いたがっていた雄真を、伊藤に会わせてやっていたのだ。

 伊藤が末期癌の元WEBデザイナーであることが警察に明らかになり、読者には雄真と橋本との3人による狂言誘拐であることも明らかになる。そして運命の日、雄真は何事もなかったように登校し、葉山にある別荘で1人で試験勉強をしていたと主張する。その頃、日比谷公園の噴水内で、伊藤はナイフを振りかざして総理大臣との面会を要求していた。狙撃班の援護でついに今村は伊藤を取り押さえるが、伊藤は自らの腹部を刺した後であった。伊藤の所持していた総理大臣宛の嘆願書には、自分1人による単独の犯行であることが記されていたが、今村は事件の全ての真相を掴み、それを総理大臣、元副総理、警視総監らの前で報告し、その場を去るのであった。

 正直なところ、冒頭部分には失望。身代金の額が高ければ面白いというものではない。要求額と要求理由の馬鹿馬鹿しさに、警察でなくとも呆れてしまう。しかも、その後の「9歳に戻れたら〜」という主人公の書いた妄想小説の内容がイタすぎる。総理大臣に向けた作文を持って家出してきた小学生を、テレビ局がすぐに出演させてくれるという発想があり得ない。あらすじでも述べたように、本作がこの賞に応募された時には、この部分が第9章ではなく第1章だったようで、出版に当たってこの妄想小説の登場シーンを後退させたようだが、いっそのことなくしてしまった方が良かったのではないか。内容がイタいばかりでなく、本作のポイントの1つである「被害者の雄真が犯人の主役とグル」である可能性やイメージを強く臭わせてしまう内容だからだ。

 しかし、不満を感じるのはここまで。主人公の「日本の財政をなんとかしないと!」という真剣で熱い想いには、変に狂気じみたものや偏った思想的なものもなく、確実にまっすぐに読者に伝わってくる。2つ前に読了した『犬の掟』に不足していたものが本作にはあるのだ。『犬の掟』での犯人・波多野の主義主張は、あまりに淡泊に書かれているため読者がなかなか感情移入できない。しかし、本賞の審査員である書評家の茶木氏が「かつてこれほど、共感すべき誘拐犯がいただろうか」とコメントしている通り、多くの読者が、本作の主人公・平岡ナオトこと伊藤直哉には強い共感を覚えるはずだ。支給開始年齢がどんどん後退していく年金は、相当長生きしないと、まともな額はもらえそうにないし、国民年金を納めない者には将来支給すらないから不公平はないと言いながら、彼らには年金以上の生活保護費が支給され、それを平気でパチンコにつぎ込む馬鹿もいるのが現実だ。現在の年金制度や生活保護制度がおかしいのは間違いない。

 本作はキャラの立たせ方も見事。警察側のもう1人の主人公・今村と、彼が心から慕い、彼を厳しく教育する片岡とのコンビは、伊藤以上に生き生きと描かれている。片岡の妻子の設定もありがちだが良い味を出している。惜しいのは、存在感がほとんどない、今村の同僚の女刑事の高田寛子と、今村の大学の先輩である遊軍記者・森田晃一だ。特に前者は、結末で片岡の口から、彼女は今村に気があるということが伝えられることを考えたら、もっと活躍の場を与えられるべきだろう。

 最後にあと数点不満を挙げるとすれば、まずはやはり全体的にひねりが足りないところか。前述したように、「『革命家N』という表記は、もしかしたら伊藤直哉以外のNのイニシャルを持つ別の人物が真犯人というどんでん返しの伏線か」と思わせておきながら、結局そんなものは用意されていなかった。どんでん返しの多い作品に慣れてしまうと、まったくないのはさすがに物足りない。「誘拐された雄真が誘拐犯とグルだった」というのも、この話の流れではほとんど意外性がないし、もう1人の犯行グループの一員である橋本沙織は後出し感が強く、「中川遥の前振りは何だったの?」というモヤモヤ感がどうしても残る。そして、肝心の結末も正直物足りない。これだけの事件を起こしておきながら、最後は1人でナイフ振り回して取り押さえられて終わりというのは、あまりに拍子抜けではないか。

 しかし、「細かい話はどうでもいいから早く結論を見せてくれ」と、読んでいてイライラ感と退屈さを感じさせる作品が多い中、本作は最後まで退屈させずに読ませる力はあった。そこは評価したい。

2016年月読了作品の感想

『蛍』(麻耶雄嵩/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★★

 「このミス」2005年版(2004年作品)11位作品。典型的な「嵐の山荘」パターンの作品なのだが、何の前知識もないまま読み始めてみると、私の敬愛する綾辻行人氏の「館シリーズ」、しかも私がミステリーにハマるきっかけとなったシリーズ第1弾の「十角館の殺人」を彷彿とさせる設定に最初からテンションはマックス。「嵐の山荘パターン」なんて時代遅れだとか言う人もいるだろうし、「衣笠祥雄」とか「MD」とか「ボーダフォン」とか時代を感じさせる単語が登場したりもするが気にしない でおこう。ただし、「訝(いぶか)しい」という表現を登場人物がやたらと使うのは気になった。若い人はもちろん年配の人でもそう使う言葉ではないだろう。

 舞台は京都府中部の山深く、福井県との県境近くに建てられている洋館「ファイアフライ(=蛍)館」。そこでは、10年前に館の主であったヴァイオリニストの加賀蛍司が発狂し、滞在していた自らの組織した八重奏団のメンバー7名(金沢耕市、輪島若人、羽咋博、松任光延、珠洲清次朗、小松響子、七尾紀男)を次々にナイフで刺殺するという陰惨な殺人事件が起こっていた。被害者の1人で加賀の不倫相手であったと言われている小松響子は血痕を残したまま行方不明。事件から3日後に逮捕された加賀は、逮捕から間もなく衰弱死していた。長い間放置されていたその館を3年前に買い取ったのは、若くしてイギリスに本部を置くマルチ商法風会社の分家頭として一財産を築いたF大学アキリーズ・クラブOBの佐世保左内(25)であった。アキリーズ・クラブはオカルト好きの集まるF大学の肝試しサークルであり、昨年から事件の起きた日に合わせ、7月15日から18日にかけ、サークルの夏合宿をこの館で行うことになっていた。今年の参加者は、ホストである佐世保のほかに、F大学4回生で現サークルの会長の、横柄だが人望のある平戸久志(22)、3回生で平成のネズミ男というイメージでそそっかしく人望のない大村宰(21)、昨年の合宿に参加後に大阪で連続殺人鬼「ジョージ」に殺害された対馬つぐみの恋人でもあった、2回生の諫早郁夫(20)、同じく2回生で存在感の全くない肥満体の長崎直弥(19)、1回生で生意気な島原駿策(18)、島原とそりが合わず、紅一点で唯一S女子大から参加している松浦千鶴(20)の7名である。夕食の準備中に10年前の事件当時のように外は嵐となり、参加者は不安を感じ始める。ここまでが第2章までのあらすじ。

 まず気が付くのが登場人物の名前。物語の展開には全く関係はないのだろうが、過去の事件の被害者の名字が長崎県の地名、今回の合宿参加者の名前が石川県の地名になっている。予想される物語の展開だが、ここで連続殺人事件が起こるのは間違いないとして、さて被害者は誰か?マルチ商法に関わっているという佐世保、人望のない大村、お互いいがみ合っている島原と松浦あたりがまずありそうだ。松浦が「ボク」という一人称を使っているのも何かの伏線だろうか。全く存在感のない長崎も怪しすぎる。行方不明になっている小松響子の謎もあるし、彼女には夫との間に子供がいたというから、今回の参加者の中にその子供がいるというのもありそうな展開だ。そこまで頭を整理してから再び読み出す。

 第3章で肝試しと宴会のシーンが描かれ、第4章の7月16日の朝のシーンで佐世保の死が明らかになる。佐世保は、自分の書斎の安楽椅子で10年前の事件で使われたナイフと同じもので刺殺されており、そのナイフには血によって指紋が残されていた。館内に2つあった固定電話は何者かに奪われており、携帯電話もつながらない状態で、参加者達は外部から侵入したと思われる犯人を恐れつつ(なぜか内部犯説に誰も思い至っていないが、実は皆思い当たってはいたものの、口には出さなかったというフォローが後に記される)、平戸と島原が車でふもとへ助けを求めるため出発するが、蛍が群生しているという蛍橋が水没し、流木でふさがれているためすぐに引き返してくる。残された6人で昼食をとった後、佐世保の遺体のある書斎と、佐世保が誰も入れなかった寝室を調べる参加者達。そこには、女性ものの香水の残り香があり、前夜の肝試し中に松浦以外の女性の声を聞いたという大村の証言の信憑性が高まった。さらに平戸の提案で、佐世保の襟に残っていた犯人のものと思われる指紋と参加者全員の指紋の照合が行われ、誰のものとも一致しないことが確認されて、犯人は夜のうちに佐世保が車で連れてきた女性ではないかという可能性が高まる。遺体発見現場の血痕の少なさから他の部屋で殺害されたのではという疑問も生じるが、各人の客室のいずれでも血痕は発見されなかった。ここまでが第6章までのあらすじ。

 予想通り最初の被害者は佐世保。被害者自身を含めた全員の指紋を採取して参加者の中に犯人がいないことを確認するという展開は斬新だが、遺体から指紋を採ったり、遺体の鼻や耳にティッシュを詰めたりするのはさすがに現場保存の観点から駄目だろう。しかもティッシュを詰めるのは体温が下がった体内から蟲が這い出てくるのを防ぐためとさらりと書いているが、体液や死臭が漏れたり蠅が入ったりするのを防ぐためであろう。

 第7章では、いよいよ開かずの間であった蛍の間に、平戸ら3人が侵入する。廃屋巡りが活動内容のサークルだけあって会長の平戸にはピッキングという特技があったのだ。その部屋は、佐世保から聞いていたとおり世界中の蛍の標本を展示するスペースであったが、犯人が隠れていることもなく殺害現場をうかがわせるような血痕もなかった。そして、3人は部屋の奥に扉を発見する。島原は、その部屋に1階と行き来できる階段があって、佐世保は肝試しの時に厨房から2階に上がって大村を女性の声で脅かしていたのではないかと予想していたが、そこはただの倉庫だった。しかし、3人はそこに異様なものを発見する。10年前の被害者の蝋人形が5体仕舞われていたのだ。佐世保が合宿に間に合わなかったと言って悔しがっていたのは、彼らを驚かすために全員分の蝋人形の完成が間に合わなかったということだったのだろう。そこで諫早は、その5体の人形の中に、行方不明になって生死も明らかではない小松響子のものがあることに疑問を抱く。その意見を聞いた平戸は、佐世保が館の改装中に小松響子が殺害された何らかの証拠を発見し、それを知られたくない何者かによって佐世保が殺されたのではないかと推理する。そしてその夜、大村は廊下を歩く見知らぬ若い女性の後ろ姿を目撃して大騒ぎするが、館の中を捜索してもその女性を見つけることはできなかった。ここまでが第8章までのあらすじ。

 ついに謎の詰まった蛍の間が登場するが、天上の中央がガラス張りという仕様にまず違和感。昆虫標本を展示するような部屋に日光が常時降り注いだら問題だろう。光が弱々しいという表現から、天窓は小さいもので紫外線対策などもされているという設定なのだろうが気になった。そして何より違和感を感じるのは、参加者の緊張感のなさぶり。いくら指紋で参加者の中に犯人がいないと分かったからといって何らかのトリックが使われているのかもしれないし、外部から侵入した殺人犯が館のどこかに潜んでいる可能性も高いのに、安全のため複数で一緒に行動することもなく、食事のたびに凝った料理を作って食べて、夜は前夜に続いて酒宴を開くなんていくらなんでも異常すぎる。

 第9章では、7月16日の夜、松浦がこっそりと諫早を自室に呼び出すシーンから始まる。実は、松浦は殺された対馬の幼馴染みであり、連続殺人鬼「ジョージ」の正体をアキリーズ・クラブのメンバーだと疑い、これまで独自に調査をしていたとことを諫早に告白する。そして松浦は、長崎と佐世保の2人こそが「ジョージ」の正体であると断言する。対馬の部屋に盗聴器を仕掛ける機会があったのが長崎であり、「ジョージ」のこれまでの被害者は、対馬つぐみも含め、すべて佐世保の亡くなった姉と似ている人物ばかりだったというのが根拠であった。第10章では、翌朝のラウンジの様子が描かれる。外部犯説を唱える平戸と内部犯説を唱える島原の2人の探偵が議論しているところへやって来た諫早であったが、そこへ風呂に入ろうとした大村が全裸で飛び出してくる。なんと浴槽には大量の女の髪が浮いており、浴室内には例の香水の匂いが立ちこめ、ガラス窓には口紅で「ユルサナイ」と書かれていたのである。調べてみると、蛍の間の倉庫にあった小松響子の蝋人形の頭部が失われており、髪の毛はそこから取られたものと考えられた。ここまでが第10章までのあらすじ。

 第9章の結末、「『…先走っちゃダメだよ。千鶴。先走っちゃ』ベッドに横になり優しく囁きかけた。」の部分が意味不明。いきなり諫早と松浦がそういう関係になったのか?毎回謎の女性の影に怯えるのが大村ばかりで、大村の自作自演の可能性も高まってくるが、島原と松浦がそれぞれ蛍の間の倉庫に1人で行ったことが明らかになり、謎は深まるばかり。

 第11章では、平戸が、自分が書斎内で発見した加賀蛍治の未完成作品「弦楽八重奏曲第2番」のCDを島原らに聞かせる。館の中のどこかの隠し部屋にあった楽譜を発見した佐世保が海外の演奏家に演奏させたものではないかと考えられた。さらに合宿初日に佐世保が皆に途中まで聞かせた第1番のレコードを最後まで聴いてみると、レコード盤の傷のせいで最後のフレーズが延々とリフレインされ、平戸は、逮捕された加賀が死ぬまでつぶやき続けていた「蛍が止まらない」という言葉は、このことを指していたのではないかと言う。そして「このメロディの繰り返しに触発されて事件を起こしたのではないか」という島原の意見に同調する。そんな時、玄関から誰かが入ってきて2階に上っていく足音を聞く。靴箱には濡れた平戸の靴があり、ガレージではシャッターが開けっ放しになっており、佐世保のワゴンがなくなっていた。平戸の靴を使って外出した人物は戻ってきているのになぜ車がないのか。平戸らは蛍橋へ向かうが、流木によって橋は渡れない状態のままであり、その脇には佐世保のワゴンの前部が水没した状態で放置されていた。そして、運転席には大量の血痕と、車の近くには白いハイヒールが片方だけ落ちていた。平戸らは車とハイヒールのことは口外無用にしようと決めて館に戻るのであった。ここから第12章。諫早は再び松浦に呼び出される。松浦は蛍の間の奥の倉庫に、置き時計の針を動かすと1階への階段が現れる仕掛けを発見したことを諫早に報告する。降りたところには鍵の掛かった扉があり、そこから引き返してきたという。松浦は、鍵の掛かっていた隠し部屋の扉の所へ一緒に来てほしいと諫早に頼むが、諫早は嵐がやんで警察がやって来るまで待つべきだとなだめるのであった。ここまでが第12章までのあらすじ。

 レコード盤のリフレインで加賀が発狂したのではという推理と共に、こっそりと外出して2階へ上がっていった謎の人物の後を追わずにガレージを調べに行く3人に違和感。館にいるメンバーをすぐに集めれば、濡れ具合で誰が外出していたか確認できたはず。誰も濡れていなければ、やはりもう1人誰かが潜んでいることが確定するのだ。放置された車、運転席の血痕、落ちていたハイヒールについては、まったく推理不能で、どのような解決があるのか期待させる。第12章での諫早と松浦の様子を見る限り、深い関係になったようには見えない。むしろ、松浦は幼馴染みの対馬つぐみを心から愛していた同性愛者的な表現がされている。では、第9章の結末は一体何だったのか?「部屋に戻った諫早はベッドに横になり虚空に向かって優しく囁きかけた。」といった表現だったら理解できるのだが…。主人公の諫早が犯人の一味?という疑念がよぎる。

 第13章では、加賀には蛍という名の腹違いの妹がおり彼女が加賀の子供を流産したことがあること、加賀と駆け落ちして連れ戻された後に彼女が病死したこと、そして、このファイアフライ館が彼女の喪のために建てられたのではないかということが平戸の口から語られる。さらに平戸は、佐世保と自殺した彼の姉も同じような関係で、佐世保は加賀に自分を重ね合わせて、このファイアフライ館に深い思い入れを持ったのではと推理する。そして第14章では、17日の夜、またしても大村が襲われたことが語られる。トイレで停電が起こり、スカートをはいた女と格闘したという。平戸と島原は外の様子を見に出かけ、この日の昼間に見つけたワゴンの水没を今起こったかのように皆に語り、犯人は川に流されたのではないかと皆を安心させるのであった。第15章では、この機を逃すまいと、諫早が松浦の見つけた秘密の入り口のことと、ジョージの正体が佐世保ではないかということを皆の前で語る。皆でそこへ向かうと、秘密の階段は1階よりもさらに下に続いており、そこに幼虫の標本を展示する部屋を発見する。さらにその部屋の奥には2階の書斎とまったく同じ部屋があり、そこには加賀が飾ったらしい妹の加賀蛍の写真とともに、佐世保の姉の写真、そして、ジョージの被害者達の写真が飾られていた。そして、まだその被害が明らかになっていないフミエと呼ばれる女性の写真も。書斎の奥は、天然の鍾乳洞になっており、そこでジョージが被害者達を殺害したであろう空間を発見する。そして、第16章。もう1つの空間で女性の屍蝋化した古い死体を発見するが、その死体を前に島原が「お母さん!」と叫ぶ。その死体は、加賀の恋人で行方不明になっていた小松響子であり、島原は彼女の息子であり、彼はいつかこの館を訪れたいがためにアキリーズ・クラブに入会したのだったのだ。そして島原は、この屍蝋が佐世保を狂わせた謎を解明する。佐世保は、死んだ自分の姉と似た女性を殺害し屍蝋化させて永遠に残そうと考え、この鍾乳洞の空間に死体を置いたものの、小松響子のようにうまく屍蝋化しなかったため、死体が傷むたびに捨てて次々と同じような犯行を重ねていたのであった。ここまでが第16章までのあらすじ。

 乱歩顔負けのエログロ世界が繰り広げられ、ジョージこと佐世保の犯行の動機、小松響子の行方不明の謎も明らかになるクライマックス。小松響子の子供が合宿参加者の中にいるのではという予想は的中したが、ジョージが攫った女性を殺害後なぜ1か月もたってから遺棄していたのかという謎の真相はまったく予想できていなかったので、島原の推理には納得。しかし、本当の衝撃はこの後にやって来る。

 第17章では、蛍の間で島原が平戸に事件の真相について自分の推理を披露する。合宿初日の15日の夜に佐世保の共犯者が鍾乳洞を訪れた時、佐世保とフミエは差し違えて死亡していた。共犯者は自分の存在を知られないため、2人が痴情のもつれで争い、フミエが佐世保を刺殺後に逃亡したように見せかけるため、佐世保の死体を書斎に運び、フミエの死体を外に運び出そうとする。しかし、蛍橋が通行不能だったため死体と共に引き返さざるを得なくなり、後日原生林の中に埋めたと考えた。不注意で館の家財を壊しまくった松浦は何度も館を訪れているであろう共犯者像とはかけ離れており、共犯者が平戸のボーダフォンを盗み出して圏外かどうかを確かめたらしいことから、ボーダフォンユーザーの平戸と大村も共犯者候補から外れる。そして平戸と島原ら3人が最初に蛍の間を探索した時、置き時計の表示していた時刻から鍾乳洞内に共犯者がいたことが明らかであったことから、共犯者が誰であったかが確定し、2人の会話に聞き耳を立てていた人物は対馬を殺した真犯人の一味を正体を知ったことで体と心を震わせるのであった。第18章で洗面台の前に倒れていた松浦を発見した平戸。彼女はクロロホルムをかがされただけで怪我はなかったが、クロロホルムのにおいの充満する風呂場で諫早が手首を切って死亡していた。追い詰められて自ら手首を切った後、苦しみを和らげるためクロロホルムを吸引したと考えられた。諫早の死体を見下ろしながら、「これですべてが終わったんだよ…」とつぶやく平戸であった。ここまでが第18章までのあらすじ。

 ここでまさかの大どんでん返し。諫早が「ジョージ」の片割れで、佐世保の共犯者であったのだ。多くの読者は呆然自失か大混乱。作者はしてやったりであろう。諫早は主人公だったのでは?前例がないわけではないが、主人公が犯人だったという意外なトリック?いやいや、真犯人を知った諫早が真犯人に返り討ちにあっただけで実は真犯人はまだ健在?とりあえず先を読まねば納得できない。

 第19章。3夜連続の宴会の後、対馬つぐみの仇を討つべく、松浦が被害者を装って倒れる前に諫早を殺したのではないか。そういう疑念を持った人物が彼女を殺すべく松浦の部屋を1人で訪れる。しかし、「そこまでですよ」「意味のない殺人など止めて下さい」の声。その人物の行動は島原に見抜かれていた。第20章。明かりの付いた松浦の部屋の中、背後に立っていた島原の後ろから松浦が現れ、松浦のベッドの中から現れたのは平戸だった。ラウンジに連れて行かれた彼らを大村が待っていた。つまり、松浦を襲おうとしていたのは、そして、この物語の真の主人公は長崎だった。佐世保の共犯者だった諫早は、佐世保とフミエが差し違えて事件は完結したと考えており、長崎は長崎でジョージの正体は佐世保1人だと考えていた。フミエは佐世保によって殺され、その佐世保を殺したのは長崎だったのだ。諫早は長崎の犯行を知らなかったため、痴情のもつれを演出するために死体を動かしたが、そのせいで長崎に共犯者の存在を知られてしまう。そして、長崎は島原と平戸の会話から共犯者の名を知り、佐世保に続いて諫早を殺害し、密かに想いを寄せていた対馬つぐみの復讐を完全に果たしたのだった。そして、長崎は諫早の死が他殺と判断された場合に、すべての罪を松浦になすりつけるべく松浦を殺そうとしたのであった。長崎は殺意を否定するが、島原はそれをファイアフライ館のせいだと結論づけた。雨音さえも、狂気を呼び起こす蛍のメロディを奏でるよう加賀によって設計されていたというのである。

 殺人現場となった館で3夜連続の宴会を開く異常性への違和感はどこへやら。平戸と島原という2人の探偵役に常に付き添っていたワトソン役が諫早ではなく長崎であったこと、そして、佐世保と諫早に復讐した真犯人が長崎であったことに対する衝撃の大きさにはかなわない。物語冒頭の文庫版32ページでの登場シーンや33ページでの長崎の容姿の説明シーンには最初から違和感があったが、読み返してみれば、文庫版32ページで島原に話しかけられる前から、長崎は諫早の運転する車の助手席に乗っており、彼がこの物語の真の主人公として、語り手として、物語の最初からずっと存在していたことが確かに分かる(同時に、主人公が諫早であるように仕向ける仕掛けも随所に仕掛けられているのも再確認できる)。第7章で、平戸と島原と共に蛍の間に最初に入ったのも諫早ではなく長崎だったというわけだ。そして、ずっと引っかかっていた第9章の結末の謎も解ける。最後の2行のみが自室で諫早と松浦の会話の盗聴内容を聞いていた長崎のリアクションなのだ(これは分かりにくすぎ)。確かに諫早を主人公として捉えていると、物語の中に長崎が全く登場しないことにずっと違和感を感じていたのだが、そう来るとは思わなかった。
 ただし、登場人物紹介ページと文庫版33ページで、堂々とS女子大の松浦千鶴と記しておきながら、長崎以外の登場人物は全員彼女を男性(弟の松原将之のふりをしていたことが明らかになるのは結末直前の文庫版419ページ)だと思っていたという叙述トリックはひねりすぎではないか。「ボク」という1人称表記が何かの伏線になっているのではという想像は的中したが、「読者には知らされていることが登場人物に知らされていないということを読者が知らされていない」(ややこしい…)トリックが隠されているとは思っていなかった。確かに文庫版73ページに松浦が自分の大学の吹奏楽部の話題を出した時に、島原が「S大のオケ部は聞いたことがあるけど、吹奏楽部もあったんだ」と答えたのに対し、「S大に知り合いでもいるのだろうか」と不思議に思う主人公(諫早と思わせておいて実は長崎だったという…)の様子が描かれていたりするわけだが(S女子大とは記されていない)、そのトリック自体は面白いとしても、この叙述トリックを生かしている場面が問題。結末近くでトイレに行こうとした松浦が洗面所で長崎に襲われるシーンなのだが、かなり分かりにくい。松浦は女性なので個室を使うことは確実、だが、男性を装っているため男子トイレの個室に入ることになる、しかし、彼女が女性であることを盗聴器で知っていた長崎は咄嗟に男子トイレの方に隠れてしまう、そこで彼女が男子トイレの個室を使おうとしていることに気が付きドアの影に隠れるしかなくなり、結局クロロホルムを使う羽目になったという展開なのだが、本文から読者は一度で理解できるだろうか。他にも彼女が女性であることを隠していることが生かされている場面があるにはあるが、この叙述トリックはたいして必然性がないように思う。別の作品のメイントリックに残しておいた方が良かったのではないか。
 長崎が盗聴を疑われた理由の1つに、「先走っちゃダメだよ」という諫早が松浦にかけた言葉を長崎も使ったからという説明があったが、盗聴を疑われるほど特殊なセリフだとは思えないのだが。
 ファイアフライ館自体が狂気のメロディを奏でるように設計されているというのは、さすがに無茶すぎ。

 エピローグ。土砂崩れによって損壊した山荘から、他殺体を含めた7名の遺体と、生存者1名が発見されたという20日の朝刊記事の紹介でエンド。

 まさにとどめの一撃。突っ込みどころが満載とまではいかなくても色々言いたいことがあった作品であったが、このオチには降参である。賛否両論あるだろうが、トータルで見てもこの作品は希有な存在。絶賛とは言わないがそれなりに高く評価したいので★★★の評価としたい。最後にどうしても気になるのは遺体の数が合宿参加者の数と合わないこと。原生林に埋められたのではと考えられていたフミエの遺体が、館のどこかに隠されていたということなのだろうか(さすがに土砂崩れでは地下の鍾乳洞に眠る小松響子の遺体を発見するのは困難であろう。「学生」に間違えられることもないだろうし。)。生存者が誰なのかという点については、登場人物の名前などからネット上では長崎説と松浦説に分かれているようだが、そういうのを別にして一番展開的に面白そうなのは長崎であろう。自分の罪を自白するのか、あるいはなかったこととして隠し通すのか、という余韻を読者に与えてくれるのは彼しかいないのだから。

 

『孤狼の血』(柚月裕子/角川書店)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2016年版(2015年作品)3位作品。第154回(2015年下半期)直木賞候補作品(受賞したのは青山文平『つまをめとらば』)。「本の雑誌が選ぶ2015年度ベスト10」2位作品。2008年『臨床心理』で「このミス大賞」を受賞してデビューした作家であるが、「このミス大賞」出身者が直木賞候補にまで上り詰めると、主催した宝島社としても感無量であろう(ちなみに2016年3月現在、「このミス大賞」出身者の中から芥川賞・直木賞ともに受賞者は輩出されていない)。

 第1章…主人公は、暴力団との癒着の噂のある広島県警呉原東署捜査二課暴力団係班長の大上章吾(「狼」に掛けているのだろう)と、その相棒として配属された新人刑事の日岡秀一の2人。昭和63年6月13日、神風会に属する五十子会の傘下にある加古村組のフロント企業の1つ、呉原金融の会計係・上早稲二郎が失踪した事件を捜査中の呉原東署に配属され、コンビを組むことになった大上と顔合わせをしたばかりの日岡は、いきなり加古村組の喧嘩の実力者・苗代に因縁を付けるよう命じられる。苗代と互角にやり合い、広島大卒ながらキャリアを目指さずヒラ警官になったという日岡を、大上は妙に気に入る。その後、神風会と対立する明石組に属する少数精鋭の尾谷組に連れて行かれた日岡は、若頭の一之瀬の大上に対する従順な態度を訝しく感じる。そして大上行きつけの小料理屋志乃に連れて行かれた日岡は、女将の晶子を紹介され、一之瀬とともに飲み明かすのであった。

 第2章…先輩刑事の唐津から、妻子持ちだと思っていた大上が16年前に交通事故で妻子を亡くしていることを知って衝撃を受けた日岡であったが、上早稲の妹から加古村組組員の久保の名前を聞き出した大上の、久保のバッグに覚醒剤をしのばせ現行犯逮捕するという荒技に唖然とさせられる。

 第3章…今度は神風会に属する瀧井組の事務所に連れて行かれた日岡は、組長の瀧井と大上との尋常ならざる仲の良さに不審なものを感じるが、瀧井が大上に、上早稲らしき男が旅館からチンピラに拉致されたという情報に加え、「今月分…」という意味深な言葉と共に封筒を渡すところを目撃し、大上に対する疑念をますます深めるのであった。旅館でビデオテープを確認すると、苗代を含めた4人組に拉致される上早稲の様子がしっかりと映っていた。

 第4章…6月27日深夜に、尾谷組組員と加古村組組員が乱闘の末、尾谷組の準構成員が刺殺される事件が発生。その1時間後、両組員による発砲事件があり、さらに加古村組事務所に報復と思われる銃弾が撃ち込まれる。加古村組の事務所で若頭の野崎に釘を刺す大上であったが、野崎は「同じこと、尾谷に言えるんの」と大上に言い返し、尾谷組幹部の自宅に銃弾が撃ち込まれたという情報にもしらばくれる。今度は尾谷組の事務所で、いきり立つ一之瀬を、尾谷組の恰好がつく形にするから3日待つようなだめる大上であった。

 第5章…日岡は大上と共に、唯一、一之瀬を抑える力を持つ鳥取刑務所に服役している尾谷組の組長・尾谷憲次を訪れ、大上の自分が絵図を描くまでちょっとだけ一之瀬を待たせてほしいという願いを尾谷は受け入れる。再び、尾谷組の事務所を訪れると、そこには引退した組員の野津が見舞金500万を一之瀬に渡そうとしているところであったが、一之瀬は堅気からは受け取れないと拒否する。膠着状態を解いたのは、大上の「わしに預けてくれんですか」という言葉であった。呆れる日岡や一之瀬を前に、大上は抗争を未然に防ぐ捜査費用として使うと宣言する。

 第6章…大上は、野崎の弟分で、上早稲失踪の真相を知っていそうな加古村組組員の吉田滋を追い込み、真相を全て吐いて加古村組が潰れるまで姿を隠せと野津から預かった500万を渡す。ついに屈服した吉田は、加古村組の組員達が呉原金融の金を使い込んだことを上早稲に押しつけるために殺したことを白状する。大上の無茶なやり方に激高する日岡に、「お前にも、いずれわかるときがくるよ」と言って立ち去る大上。晶子は、大上の事故死した息子の名が日岡と同じ秀一であったこと、自分の夫が尾谷組の若頭で五十子会の組員に殺されたこと、夫殺しを指示した五十子会若頭であった金村が何者かに刺殺され一之瀬が疑われた時、その無実を独自の捜査で証明したことなどを語って聞かせ、大上のことを嫌いにならないように日岡にお願いするのであった。

 第7章…上早稲の殺害現場が特定され、瀧井からの情報で、上早稲の遺体を運ぶのに協力した漁船も見当を付けることができたまでは良かったが、安芸新聞社の高坂が志乃にいた大上にからんでくる。14年前の金村殺しの犯人が大上だというタレコミがあったという高坂の話に、日岡と晶子は大きく動揺する。

 第8章…無人島から埋められた上早稲の遺体が発見され、急遽、大上の音頭で慰労会が開かれるが、喜びも束の間、大上は署長に呼び出される。

 第9章…何者かが高坂に500万の金を大上が野津から受け取った件を吹き込んだことが署長に伝わり大上は謹慎処分となる。謹慎中の大上の代わりに高坂から情報源を聞き出そうとする日岡であったが、高坂はつかまらない。そうしているうちに五十子会幹部の吉原が何者かに銃撃され重体となり、犯人が尾谷組の永川であることが判明。暴力団係の係長・友竹は、日岡に対し、内密に大上に抗争を阻止させることを命じる。日岡の言葉で、大上は五十子会会長の五十子に会いに行くことを決意する。

 第10章…苗代逮捕と永川出頭の朗報に湧く刑事部屋。五十子のところから無事戻ってきた大上は、手打ちのための尾谷組側の条件として、永川の出頭と五十子が提示した1000万の見舞金、尾谷組長の引退は呑んだものの、一之瀬の破門だけは受け入れられず、結論は後日になったという。しかし、五十子の弱みを握っている大上には勝算があるらしい。そして、五十子から今晩中に連絡があると日岡に伝えて志乃から出ていく大上。

 第11章…大上が志乃を出てから5日が過ぎたが、日岡は大上と連絡が取れない。友竹に相談するも、警察と暴力団との癒着をマスコミが嗅ぎ回っている現在、謹慎中の大上の捜索を公にはできないという。心配した瀧井が五十子に接触するが、五十子は大上には最近会っていないと嘘をつき、日岡は激怒する。

 第12章…大上が行方不明になってから1週間後、大上が水死体となって発見され、飲酒と睡眠薬によって海へ転落したことによる事故死として処理されてしまう。五十子による殺人であると確信していた日岡は激しく動揺するが、そんな日岡に晶子は、大上が隠していた多くの警察の不正を書き記したノートと、捜査費用にするために暴力団の上前をはねて貯めていた2000万の現金を託す。

 第13章…日岡は、金村殺しの犯人は高坂同様に大上だと考えていたが、晶子は夫の復讐のために自分がやったことだと判明する。大上はその後始末を手伝ったのだ。そして、日岡は昔の上司に呼び出される。日岡は大上失脚のために彼が送り込んだスパイだったのだ。元上司は、日誌を提出するように要求するが日岡は黒塗りだらけの日誌を彼に渡し彼を激怒させる。大上の血を引き継ぐことを決意した日岡は彼の過去のスキャンダルをちらつかせて、彼に背を向けて去っていくのだった。

 一番気になったのは、279ページ「大上の妻子の交通事故に、五十子会が絡んでいるらしき噂を、日岡は晶子から聞いている」という1文。297ページにも「五十子は大上の妻子の命を奪った敵かもしれない」とあるが、一体どこでそんなことが語られたのだと何度も読み直す羽目になったが、まったく見つからない。自分が読み飛ばしたのかと思ったが、どう見ても279ページが初出の情報のようだ。こんな重要な話をさらりと流していいのか。それなりに字数を割いて語るべき部分ではないのか。大上が五十子を憎む動機の一番大きな部分のはずなので、ここだけはどうしても納得がいかなかった(大上が五十子に感情をむき出しにしている描写はないので、大上自身あくまで噂ととらえているという読みもありだとは思うが)。

 主人公があっけなく殺されて、しかも腐乱死体で発見され、下手人の大悪党の五十子がどの後どうなったのか、まったく描かれていない結末も、何のカタルシスも得られず、かなり不満。

 あとは、322ページの永川出頭の顛末を語る日岡のセリフ、398ページからの日岡がスパイになるまでを説明した地の文など、やたらと説明が長い部分が目立つのが気になる。特に終盤に多いように思うが、筆者が技巧を凝らすのに力尽きてしまったのか。

 しかし、それら以外は非常に良くできた作品だと思う。悪徳警官を描いた作品はこれまでにもたくさん読んできたが、これほど親しみを感じる悪徳警官はいないだろう。煙草屋の老婆・吉田カツとのからみなど秀逸ではないか(葬儀でのシーンも)。日岡が監察のスパイではないかというのは何となく臭っていたので、元上司に背くラストシーンにそれほど感動はしなかったが、プロローグとエピローグで描かれているベテラン刑事が、実は大上ではなく、成長した日岡だったという仕掛けも見事。先に挙げたような問題点もあって★★としたが、限りなく★★★に近い★★である。後で、直木賞の審査の方々の寸評を見たが、納得できる批判もあったものの、なぜそこまでこきおろすのかと思えるくらい厳しいもので違和感を感じた。次回作への期待の表れかもしれないが、一般読者があれを見て本作を見限るのはやめてほしい。私にとっては十分にオススメの1作である。(続編も企画されているようだが、大上なしでこのシリーズを成立させるのは厳しそう。となると前日譚のような形になるのだろうか)。

 

『海は涸いていた』(白川道/新潮社)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」1997年版(1996年作品)5位作品。この年はベスト20作品中6作品しか読んでいないのだが、いずれも傑作揃いで豊作の年という印象が強い。案の定、第2章まで読んだだけで傑作の予感。ヤクザの世界を描いていながら、美しい文章で描かれるストイックな主人公の姿に強く引き込まれる。

 主人公は都内で高級クラブを経営している36歳の伊勢孝昭。本名の芳賀哲郎という名は上京する時に捨てた。伊勢が7歳の時に、暴力を振るう夫と離婚した母は船医であった継父と再婚し、それまで住んでいた神戸から瀬戸内の小さな町に引っ越した。我が子同然に愛情を注いでくれた継父に伊勢も懐いていたが、継父は船上で死亡し、母も後を追うように焼身自殺してしまう。

 「あじさい園」という養護施設に預けられた伊勢には、馬渕薫という父親違いの妹がいたが、伊勢が施設仲間の三宅慎二をいじめた不良高校生を過失で殺害してしまい少年院に入れられたことで、ヴァイオリニストとして将来を期待されていた彼女の迷惑にならぬよう、少年院を出てからは彼女に会わないようにしていた。天才ヴァイオリニストとして有名になった薫は、現在、西地グループの御曹司、西地圭介との結婚問題で世間を賑わせていた。

 少年院を出た伊勢は尼崎の旋盤工場で働いていたが、社長・長坂雄一郎の娘で短大生だった今日子と恋に落ちる。しかし、信じていた社長が、人殺しとの交際は許さないと今日子に話しているのを聞いてしまった伊勢は、ショックを受け工場を辞めてしまう。

 その後、焼津で植松という男が経営するクラブに勤めていたが、慎二を覚醒剤に誘い込んだ売人を、同僚だった布田昌志と2人でたたきのめしたことで筋者とトラブルになり、植松の幼馴染みで東友会・佐々木組の組長、佐々木邦弘に誘われ、布田と共に9年前に上京する。佐々木とは兄弟分にあたる和田組のダミー会社で、金融、地上げ、競売など、あらゆる仕事を仕込まれた後、佐々木の命で布田商会を興し、ダミー会社で覚えた仕事に片っ端から手を出す布田と伊勢。ダミー会社で仕事のイロハを教えてくれた茅野を呼び寄せ、布田商会はバブルの波にも乗って順調に仕事を拡大した。

 3年前に伊勢は独立して佐々木から伊勢商事を任されるが、佐々木と同じヤクザの道を進む布田に対し、佐々木は伊勢をヤクザに向いていないと断言し、あくまでも堅気としてバックアップしてくれていた。3年前に、突然伊勢の前に現れた今日子に、思わず部屋の鍵を渡してしまった伊勢であったが、1人で恵比寿に住み、渋谷の会計事務所で働きながら、週に1、2度掃除と簡単な食事を作るためにやってくる今日子は、それ以上の関係を求めず、伊勢もある事件をきっかけに人並みの幸せを求めることは諦めていたため、その状態がずっと現在まで続いていた。伊勢は、沖本という漁師から手に入れた拳銃で、母を苦しめた実の父を捜し出し射殺したという過去を誰にも言わず隠していたのだ。

 事件は迷宮入りしていたが、拳銃の処分を任された慎二は、その拳銃を今も大事に持っていた。伊勢は、中身を知らせず箱に入れた拳銃を海に捨てるよう慎二に頼んだのだが、慎二は、その箱を伊勢に無断で開けてしまったのだ。その慎二は、伊勢の支援によって目黒で小料理屋を開いていた。伊勢に借りた1千万円を慎二は毎月10万円ずつ返済していたが、伊勢はそれをすべて慎二名義の通帳に貯金し、慎二の結婚祝いに渡すつもりでいた。

 慎二同様に施設仲間だった藤城千佳子は、デザインの勉強をするため9年前に上京してきたが3年で挫折、それ以降はクラブに勤めていた。7年間付き合ってきた岡堀は、妻子がいる上に、目指していた物書きへの情熱を失い怪しい仕事に手を染めていたが、千佳子は彼と別れられぬままずるずると関係を続けていた。街で伊勢の姿を見かけた千佳子は、久しぶりに施設を訪れ、園長から慎二の店の住所を聞き出して慎二と久しぶりの再会を果たす。

 伊勢商事の事務を務める原田は、元は有能な看護師だったが、父親が経営する印刷会社が倒産、その債権整理のゴタゴタに絡んだ布田が面倒を見てやったところ、布田に恩を感じて布田のところで働かせてほしいと言ってきたのを伊勢が預かったのだった。25歳という若さながら、地味な服装で仕事に打ち込む原田に何かと世話を焼く伊勢であったが、彼は原田に薫の姿を重ね、そんな伊勢に原田も想いを寄せていた。

 植松のお膳立てで、焼津で今日子と会うことになった伊勢。今日子とのけじめをつけなくてはならないと考えていた伊勢を栄樹の丘という場所に誘う今日子。しかし、自分の血を残さず死ぬことをただ待つだけの人生を送ろうとしていることを宣言する伊勢を前に、今日子は「サカキがかわいそう…」とつぶやき、途中で引き返してしまう。

 佐々木の命令で、急遽3千万円の現金を用意することになった伊勢。後で分かったことだが、この金は、東友会の中でも古株の久原組の二代目のために用意する金であった。久原は不景気を乗り切るために東友会では御法度の覚醒剤の売買に手を出していた。佐々木は久原が覚醒剤から手を引くことを条件に、佐々木のしのぎに便乗させたり現金による支援をしたりしていたのだが、久原が覚醒剤の取引をやめなかったため、佐々木と関係はどんどん悪化していた。

 伊勢の乗る車を尾行する車に気が付いた茅野が、車の持ち主を調べてみると、久富茂という三流週刊誌の編集部に勤める男であった。10年前の父殺しか、香との関係を嗅ぎつけられたのではないかという思いがよぎった伊勢であったが、その可能性をすぐに打ち消す。しかし、その2か月後、伊勢と布田のことを嗅ぎ回っている男がいるという連絡が焼津の植松から入る。布田は久富を締め上げようと提案するが、下手なことをやって何か書かれるのは得策でないと考えた伊勢は放置することに決める。

 服を買ってもらった御礼に日曜に伊勢を誘い出した原田は、伊勢に馬渕薫のコンサートのチケットをプレゼントする。伊勢のデスクに薫の記事が載っている週刊誌とCDを見つけた原田は、彼女が伊勢の妹だとは思いもよらず、伊勢が彼女のファンだと思い込んだのだ。伊勢は、行けるかどうか分からないからと、とりあえずチケットを原田に預ける。

 千佳子の勤める店に、ツケではなく自腹で岡堀が頻繁にやってくるようになる。不思議と景気が良くなった彼が、ある日店に連れてきたのが久富であった。どうやら久富からの依頼で行う取材が大きな収入になっているらしい。そんな岡堀は、馬渕薫のコンサートに千佳子を誘うのであった。そんな時布田が関西なまりの若い3人組に刺され重傷を負う。伊勢は佐々木が指定した個人病院に担ぎ込んで、布田は一命を取り留める。

 薫のコンサートに行くか行くまいか迷ってアパート近くを歩いていた伊勢は、彼の部屋に行こうとしていた今日子と出会う。今日子は会社を辞めて焼津に帰ると決めたこと、伊勢と別れた後に結婚してすぐに離婚したという話は嘘だったこと、伊勢と別れた後に伊勢の子供を身ごもっていることが分かり産むつもりだったのに転んで流産し子供を産めない体になってしまったこと、その亡くなった子供に栄樹と名付けたことを告白する。強い衝撃を受けた伊勢は、原田に申し訳ないと思いつつ、彼女からチケットを2枚とも譲ってもらい、薫のコンサートに今日子を連れて行き、彼女が妹であることを今日子に教え、今日子と一緒に焼津に帰ることを約束する。ここまでが第2章までのあらすじ。

 第3章からは大きく場面が変わり警察視点が入ってくる。捜査一課の佐古警部は、覚醒剤常習者のホステスの勝俣清乃が射殺された事件を捜査していた。目撃者が現れず捜査は難航していたが、配下の大久保刑事が、彼女が一時、久原組の幹部の木部和夫の情婦であったことを突き止める。さらに調べを進めると、久原組とは同じ傘下の佐々木組の組員が彼女の動静を窺っていたこと、佐々木組の準幹部の布田が何者かに襲われ重傷を負ったということが分かる。覚醒剤を媒介とした久原組と佐々木組の抗争の前兆を感じ取る警察であったが、両者に全く無関係の桂木会の26歳の組員・小牧久次が拳銃を持って自首してきたことで、あっけなく事件の幕は下ろされる。納得のいかない佐古であったが、捜査一課長の志村は、彼に別の拳銃による射殺事件の捜査を命じる。被害者はフリーの記者の岡堀宏で、拳銃には前科があるという。10年前に同じ拳銃で射殺された被害者は池尻金融社長の池尻貞治56歳で、評判がすこぶる悪かったため捜査をいっそう難しくしていた。この池尻こそが伊勢の実父であり、伊勢がこの事件の犯人だったのであることがここで明らかになる。

 フリー記者の射殺事件に使用された凶器に前科があることが報道されたことにより、慎二の「頼まれていたものは海に捨てた」という言葉の嘘が明らかになり、伊勢は慎二を厳しく問い詰める。そして、ついに慎二は重い口を開き、「施設のみんなを食い物にしようとしたハイエナなようなやつだ」「死んで当然なんだ」と語り始める。岡堀は、薫の兄が暴力団関係者であることをネタに、薫の恋人の西地を強請っていた。それを知った千佳子は慎二に相談し、岡堀が薫のコンサートに千佳子を誘ったのを利用して、慎二は伊勢の拳銃で岡堀を射殺したのだ。千佳子の存在を警察が掴んでも彼女のアリバイは用意されており、慎二の存在までは警察は掴めないであろうという読みであった。しかし、佐古と大久保は地道な捜査によって、伊勢が恐れていたとおり、哲郎と千佳子と慎二が同じ施設にいたこと、岡堀が調べていた伊勢という男が池尻の息子の哲郎と同一人物であること、そして岡堀が西地を強請っていたことまでを突き止めてしまう。

 一度は今日子と一緒に焼津に帰ることを約束した伊勢であったが、慎二と千佳子に警察の手が伸びるのを防ぐため、岡堀殺害の罪をかぶることを決め、同じ拳銃でもう一度事件を起こし、自分が死ぬことで薫に迷惑が掛からないようにして、全てに幕を下ろそうと決意する。そんな時、布田が久原組の木部に殺され、伊勢の拳銃による第3の殺人のターゲットが決まる。

 西地にアポを取った佐古であったが、小橋警視監に呼び出されると、そこに西地と彼の弁護士が来ていた。西地は岡堀に強請られていたことを認め、薫のために、この件が公にならないようにすることを要望する。そして、小橋からも、薫をスキャンダルから守れという命令が上から来ていることを伝えられる。警察の威信にかけて犯人を挙げること、薫をスキャンダルから守ること、といった相反する問題を同時に解決する方法は、小橋が言葉にせずとも佐古に伝わった。それは、奇しくも伊勢が考えた方法と同じであった。つまり、もう一度同じ拳銃で事件を起こした伊勢に死んでもらうことであった。

 結局、佐古は伊勢が木部を射殺するのを黙認し、木部のボディガードに撃たれた伊勢はサカキの丘の近くで今日子に抱かれながら死んでいく。千佳子と慎二と共に彼の死を看取る佐古に対し、今日子は「一生あなたを恨む」と告げ、佐古は「一生恨まれてみよう」と答えるのであった。

  前半の読者の引き込み方は尋常ではないが、後半は意外と淡々と話が進み少々物足りない。少しずつ真相に近づく佐古の捜査があまりにも見事で、今一つドキドキハラハラ感がないのだ。前半で圧倒的な存在感を誇っていた伊勢も、後半の佐古の登場で、やや霞んでしまう。かといって、その佐古にそれほど強烈な魅力があるわけではない。刑事として優秀なのは分かるが、人間味があまり感じられない。第4章の最後で、本部長の柿沼と心を通わせるシーンにはちょっと感動を覚えたが、小橋警視監の冷酷な要請を何の迷いもなく受け入れ、木部と伊勢を何の葛藤もなく見殺しにするラストは不快感すら感じさせる。
 伊勢に想いを寄せる事務職員の原田、伊勢を息子のように見ている伊勢の部下の茅野という2人は、実に魅力的なキャラなのだが、ラストでもう少し目立った見せ場があるのかと思いきや、それがなかったのも残念であった。茅野はラストで、もう少し体を張った無茶を見せてくれるのかと思ったのだが…。原田に至っては、ヒロインの今日子や千佳子以上の魅力ある女性として描かれているにもかかわらず、最後まで何も報われることがなく、原田という姓のみで名が明らかにならないという扱いは可哀相としか言いようがない。
 先輩刑事の娘と若い部下の刑事との絡みという鉄板パターンを演じる佐古の部下の大久保の描き方も中途半端。佐古同様に有能な刑事であることは伝わるが、もっとキャラを立たせた方がいいのでは。
 結局、前半を読んでいる間は★★★を確信していたが、後半で失速して★★という結論に。文庫版の後書きとWikiで、著者がなかなかの豪快な人物であることを知って驚いたが、もう一つ驚いたのは、これだけの作品を残しながら文学賞を何もとらずに昨年亡くなってしまったということ。直木賞作家だと言われても違和感のない力量の持ち主だと思うのだが…(『天国の階段』で第14回山本周五郎賞(平成12年/2000年)候補にはなっている)。

 

『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)〈11〉不死鳥狩り』(福井晴敏/角川書店)【ネタバレ注意】★★★

 ミステリー作品ではないが、 作者の福井晴敏氏は「このミス」に何度もランキングされている有名作家であるし、本作品自体、ミステリー要素が全くないわけではないので、ここに記録しておく。1巻から10巻までも読了済みであるが、ミステリー作品ではないということで本サイトの読書記録一覧にはこれまで掲載していなかった。最終巻であった10巻から6年半の時を経て、今月 突然発売された『機動戦士ガンダムUC』の新刊である。2012年3月発売のPS3ソフト「機動戦士ガンダムUC特装版」に同梱された書き下ろし小説「戦後の戦争」と、2015年6月発売の「機動戦士ガンダムUC GREAT WORKS BOX III」に同梱された書き下ろし小説「不死鳥狩り」を収録している。

 「戦後の戦争」は、まさにミステリー仕立て。本編の前日譚で、ネオジオンのフル・フロンタルが、いかにして連邦軍のためにアナハイム・エレクトロニクス社が開発したMSシナンジュを手に入れたかというエピソードを描いた作品。
 1年戦争後、連邦軍では、予算確保のために適度な脅威が必要と判断され、ジオン残党軍へ物資の横流しが常態化していた。当然ながら世界各地での連邦軍とジオン残党軍との小競り合いはなくならず、そのための犠牲者も出ていた。連邦軍の中央情報局所属のベテラン士官であるカルロス・グレイグもその1人で、ジオン残党軍に妻子を殺されていた。彼は、上司のロッシオ・メッチと特殊部隊エコーズのダグザ・マックールの制止を振り切り、次なる不正行為を阻止するため姿を消す。シナンジュは、「強奪に見せかけた譲渡」という方法によってネオジオンに引き渡される手はずになっていたが、シナンジュの輸送任務を任されていた「ウンカイ」所属のMS隊隊長、ダゴタ・ウィンストンを説得し、彼のMSに同乗したカルロスの呼びかけによって、戦場は大混戦に陥る。取引を熟知していた輸送部隊の上層部は、MSのコンピュータのウイルスチェック中ということでMS部隊を出撃させないまま、シナンジュを奪わせるつもりであったが、カルロスの事前情報によってMSは出撃可能な状態にあり、ネオジオン軍側も予想していなかった戦闘が発生したのである。結局、奪ったシナンジュに搭乗したフル・フロンタルの圧倒的な戦闘力により、連邦軍のMS部隊は全滅、艦艇までも証拠隠滅のために沈められる。
 この事件の真相を掴むべく部下のキム・ゴヨと共に調査を始めたのが1年戦争の英雄の1人であるブライト・ノアであったが、ついに真相を掴みかけた時に、彼の前にダグザが現れる。そして、ブライト・ノアを名乗る人物の正体がロッシオであることが明らかになる。ロッシオは自分の死すら覚悟したが、ダグザはロッシオに今回の事件の戦闘記録のデータを渡して去っていく。そのデータのおかげで、ロッシオは、今回の事件の黒幕の1人である、アナハイムの重役アルベルト・ビストを脅迫し、ネオジオンの内通者として処理されようとしていたカルロスを、強奪を防ごうとした英雄として扱うという名誉回復に成功するのであった。

 何もかもが見事に計算され尽くした作品。シナンジュの「強奪に見せかけた譲渡」作戦にも、1年戦争後の社会情勢を背景にしたリアリティがある。本編の登場人物も巧みに配置するなど読者サービスも怠りない。自分はこちらを先に見たのだが、本作品が同梱されたPS3ソフト「機動戦士ガンダムUC特装版」のダウンロードコンテンツでは、フル・フロンタル視点での映像作品として見ることができるので、興味のある方は是非。ゲームを購入しなくてもネットで鑑賞可能。大混戦の戦闘の様子がリアルに伝わる。

 「不死鳥狩り」は、本編に登場しなかったガンダム3号機「フェネクス」にまつわるエピソードを描いている。養護施設出身のMSパイロット、ヨナ・バシュタは、同じ施設にいて13歳の時にティターンズ所属の養父母に引き取られていったリタ・ベルナルが、強化人間にされた挙げ句、3号機にパイロットとして搭乗させられ、2号機「バンシィ」との模擬戦闘中に暴走して行方不明になったことを知る。グリプス戦役後、連邦軍内で横暴を極めていたティターズの士官のほとんどは処分を免れなかったが、ヨナは、リタの養父だったエスコラ・ゲッダが、どこかに手を回して、今も連邦軍内で准将としてのうのうとしていることを知り彼を脅迫する。ヨナの要求は、エスコラがティターズであったことを隠す代わりに、自分をフェネクスの捜索部隊に加えろというものであった。フェネクスは、暴走によってリタの肉体を奪い、精神のみを宿す存在になっていた。そしてリタは、フェネクスを使ってヨナをある場所へ導く。そこには、ヤクト・ドーガをコアとするネオ・ジオングが建造されていた。ヨナはフェネクスに乗り込みネオ・ジオングを激戦の末に破壊。彼は宇宙に漂流しているところを仲間に救出され意識を取り戻す。フェネクスはリタの魂と共に、宇宙の彼方に消えていったのであった。

 ネオ・ジオングは、元々小説作品として存在していた「機動戦士ガンダムUC」のアニメ化に当たって設定が追加された、シナンジュをコアとする大型モビルアーマーである。この作品を読むと、この作品に登場するネオ・ジオングがアニメに登場した機体のプロトタイプのように読み取る方もおられると思うが、ネオ・ジオングが2機存在したわけではなく、小説版では「フェネクスによってネオ・ジオングが破壊されたため、フル・フロンタルに届けられることはなかった」という設定になっているようだ。小説版とアニメ版では設定が異なるというのはファーストガンダムからの伝統なので、往年のファンはたいして気にすることはないだろう。なんせファーストガンダムの小説版では、シャアの搭乗する「シャア専用リックドム」によって「アムロが撃墜され戦死する」という結末だったのだから。フェネクスの当初の暴走理由が今一つ曖昧であり(当初の暴走は自分を強化人間にした者達への復讐、その後の行動は、罪なき者まで巻き込んでしまったことに対する贖罪という説明が一般的にはなされているようだ)、少しでも多くの玩具を売りたいというスポンサー(バンダイ)の事情で設定されたと思われるフェネクスの存在理由にも疑問を感じないではないが、よくできた作品であることには間違いない。
 正直言って、ガンダムシリーズの生みの親である富野由悠季氏は、ファーストガンダム以降、成功作を生み出したとは言えない。ガンダムシリーズ以外では言うに及ばず、ガンダムシリーズにおいても、「Zガンダム」と「逆襲のシャア」はともかく、それ以外の「ガンダムZZ」「ガンダムF91」「Vガンダム」「∀ガンダム」「Gのレコンギスタ」はいずれもぱっとしなかった(というか酷かった)。富野氏はガンダムの名を使って他人に作品を作られることをあまり快く思っていないふしがあるが、多くのクリエイターが様々な作品で盛り上げてくれたからこそ、今のガンダムワールドがあるのは確実である。その今のガンダムワールドを支えている筆頭が福井氏であることは疑いようがない。元は「∀ガンダム」のノベライズを富野氏が福井氏に依頼したことが関わりの始まりだが(実際には富野氏のファンだった福井氏がデビュー作の「Twelve Y.O.」を富野氏に献本したことから始まり、その後福井氏の結婚式の仲人まで引き受けてもらっている)、ファンの期待を裏切らない 筆力では富野氏を完全に上回っている感がある。富野氏は現在の福井氏をどのように見ているのか、UCにどのような感想を抱いているのか大変気になる。業界的にはタブーなのかもしれないが…。

2016年月読了作品の感想

『キャプテンサンダーボルト』(阿部和重・伊坂幸太郎/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。

 東京大空襲の日に、アメリカのB29爆撃機3機がなぜか東北の蔵王連峰の不忘山に墜落したことを、その地方出身の広告業界の有名人である隅田から色仕掛けで聞き出す厚生労働省の桃沢瞳。戦後、蔵王の御釜に存在する細菌によって死に至る恐れのある村上病の発症が確認され、その病気を調べていた桃沢の父は「村上病はあるけど、ない」という謎の言葉を残し、村上病の発病によって隔離され死亡していたが、彼女はその死に疑問を持ち、独自に調査を続けていたのだった。
 その頃、中学時代の野球仲間だった相葉時之と井ノ原悠は、それぞれの事情で金に困っていたが、同じく野球仲間で、現在ホテルのドアマンとして働いている田中徹の勘違いによって、怪しい外国人の大男「銀髪の怪人」に追われる羽目になる。銀髪の怪人は、謎の髭面男から「ゴシキヌマ水」を手に入れる取引をしようとしていたのだが、相葉は田中の勘違いのせいで、自分が痛めつけようと思っていたインチキな天然水を売りさばいていたペテン師と勘違いして髭面男の持っていた水を捨ててしまう。やっと勘違いに気が付いた相葉であったが、髭面男から奪ったスマートフォンには立入禁止区域になっている五色沼こと御釜の詳細な地図が収められており、髭面男を殺してスマートフォンを執拗に奪おうとする銀髪の怪人の様子に、御釜に財宝が隠されているのではと思い至る。
 井ノ原を巻き込んで逃亡を続ける2人は、仲間となった桃沢を銀髪の怪人に人質に取られ窮地に陥る。その後彼らは、子供の頃に憧れていたもののスキャンダルで表舞台から姿を消したスーパー戦隊「サンダーボルト」のヒーロー、レッドの赤木駿と接触する。マニアの映画館の主人が見せてくれた、お蔵入りになったはずの「サンダーボルト」の劇場版に、御釜で魚が跳ねているシーンが映っていたのだ。死の細菌によって御釜には生物は住めなくなっていたはずであり、この映像を隠蔽するために赤木は濡れ衣を着せられたのではないかと2人は考える。その推理は見事に当たっていた。アメリカ軍が細菌を撒いたせいで村上病が発生したのではなく、元々御釜の地下で日本軍が細菌兵器を研究しており、アメリカはその施設の極秘破壊を実行し、一方で日本政府は、そのような施設があったことを隠蔽するために、あるはずのない村上病を作り出したのだった。赤木の知り合いだった桃沢の父は、東京大空襲すらその極秘作戦のカムフラージュと考えていたようだ。そのような秘密を知って、彼は消されたらしい。
 赤木と別れた2人は、御釜の施設跡にたどり着き、ついに御釜の水を手に入れる。銀髪の怪人は世界を浄化するため世界同時多発テロによって大量殺戮を行おうとする組織の一員で、単独では毒性のない御釜の水と、過去にアメリカ軍が御釜の研究施設で手に入れたデータによって作り出したバクテリオファージを組み合わせることによって猛毒のウイルスを作り散布しようとしていた。相葉と井ノ原は、絶妙なコンビプレーで銀髪の怪人を倒し、怪人が時限スイッチを入れてしまったウイルスの散布装置を、最初は御釜の施設内に捨てようとするが、最終的に銀行の地下金庫に投げ込むことによってテロを未然に防ぐ。さらに幸運なことに、たまたまそこに居合わせた銀行の顧客・筒井憲政は、貸金庫に国税の査察官が踏み込むことを直前で阻止してくれた2人に感謝し、2人の金の問題をさっぱりときれいにしてくれた。
 家族との平和な日々を取り戻した井ノ原、桃沢と付き合うようになった相葉、濡れ衣を払拭することを断った赤木が球場で再会するシーンで物語は幕を閉じる。

 太平洋戦争中の謎の米軍機の墜落事故、そしてその後その地に広まった謎の病気、そしてそれらに全く関係なさそうなスーパー戦隊の劇場版の上映中止と、なかなか面白そうな舞台設定であり、物語も最後までそこそこ読ませてはくれるのだが、飛び抜けたドキドキハラハラな展開もなく、特筆するようなサプライズが用意されているわけでもなく、何となく不完全燃焼のまま終わってしまう平凡なエンターテイメント作品といった印象。
 まず何よりキャラ作りが中途半端で、中心となる過去の中学生の野球仲間達は色々とエピソードが織り込まれてはいるが面白いものは一つもなく、何も印象に残らない。主人公の相葉がもう少し突き抜けていれば、まだ魅力があっただろうが、髭面男や銀髪の怪人の言動から「財宝」という昭和的発想しか湧かないような時代錯誤の普通の愚か者だし、サポート役の井ノ原にしても、なぜウイルス散布装置の捨て場として御釜の地下施設を選ぶのか理解に苦しむ。御釜にはマイクロファージと混ぜてはいけない大量の五色沼水があるのに、どう考えてもおかしい。結局地下金庫へ目的地を変更するのだが、その理由も「美しい滝のある五色沼を汚したくない」というもので、ずれまくっている。ヒロインの桃沢は、導入部分であれほど力を入れて描いていたのに後半は尻すぼみ。悪役の銀髪の怪人にしても、陸自出身の密田や、組織の反勢力メンバーを惨殺するシーンは迫力があったが、その後はなんの凄みも感じさせることがなく、相葉の金属バットと井ノ原の操作するピッチングマシンであっけなく倒されてしまうのは興醒め。赤木も全くヒーローらしい活躍がなく、一番期待はずれのキャラであった。もっと戦隊マニアを喜ばせるようなマニアックなシーンがたくさんあるのかと思っていたが本当にがっかり。本作のタイトルは一体なんだったんだ。最後に突然登場して一瞬の存在感を示す筒井憲政も唐突感が否めない。もっと最初の方から登場させておく方法もあっただろうに。登場人物が一堂に会するラストシーンは、ご都合主義全開。しかも無理した割に感動はないときているから始末が悪い。決して読みにくいわけではなく、物語の展開も「バカミス」とまでは言わないが、個人的には期待を大きく裏切られた作品であった。

 

『テンペスト(上/下)』(池上永一/角川書店)【ネタバレ注意】★★★

 「このミス」2009年版(2008年作品)11位作品。本を読む前にその評判を確認することはあまりないのだが、Amazonの書評を何気なく見てみるとあまりよろしくない。図書館にあるのは知っていたが、分厚い上下巻構成(文庫版は4巻構成)で、なおかつ19世紀の琉球王国が舞台であり、現代の日本を舞台にした作品以外は少々苦手としていることもあって、これまでずっとスルーしてきた。しかし、借りるものが次第になくなってきたためやむなく手を出すことに。

 第1章…主人公は、第一尚氏王朝の王族の末裔・孫真鶴。父の嗣志は孫氏復興のため男子の誕生を望んでいたが、産まれてきた女子に失望し、彼女に名前すら付けず、姉の三男・嗣勇を養子にし、科試に合格させ王宮に入れるために厳しく教育していた。しかし、父のスパルタ教育に耐えられなくなった嗣勇は失踪し、彼の追跡を阻止するため、3歳の時に自分に真鶴と名付け、密かに独学に励んで聡明な10歳の少女に育っていた彼女は、自分が兄の身代わりとなって科試を目指すと父に懇願する。清国の宦官を養子にしたということにして孫寧温と名乗るようになった彼女は、真和志塾の入塾試験に落ちる が、三代の王に仕えた麻真譲に認められたことを父は喜び、麻真譲が主宰する破天塾に通うようになる。
 真和志塾の2歳上の神童と呼ばれた天才少年・喜舎場朝薫と切磋琢磨し、2人は2年後に科試の模擬試験で見事首席の成績を収める。

 第2章…ついに科試を受験する時がやってきた。3000人の受験者から最初の初科で30人に絞られ、寧温は13歳という最年少記録で首席合格。次席は朝薫、3位は一時は科試を諦め親の力で留学して国学訓詁師となったことをコンプレックスにしていた儀間親雲上であった。2次試験の再科を終えた寧温であったが、禁制品であったオランダの本を自宅に隠し持っていたことで、その罪をかぶった父が斬首刑に処せられてしまう。さらに再科に不合格になるという不幸が追い打ちをかける。再科の合格者は、朝薫と儀間の2人だけであった。
 答案が王国の体制を揺るがす内容であったために落とされた寧温であったが、その大胆な答案が尚育王の目に止まり、彼女は3人目の合格者となった。しかも評定所筆者主取という課長職にあたる高位を与えられる。朝薫は彼女の部下となり、酒蔵の管理人となった儀間は己の運命を嘆くのであった。そんな時、清国の使者の一団が琉球にやってくる。その冊封使を見事に歓待した踊りの天才少年と呼ばれた踊童子こそ、失踪していた嗣勇であった。

 第3章…王宮は、寧温にとって彼女を妬む敵だらけの場所であったが、尚育王から王宮内の不正な金の流れを調べ、財政改革を行うよう命じられた寧温は、血統重視で選ばれる高官・表十五人衆や、宗教世界の女帝・聞得大君、御内原の番人女官大勢頭部らに、目の仇にされるが、冊封使の無理難題を見事に片付けたことで彼女へのイジメは減ることになった。
 財政構造改革を終えた寧温であったが、海運業者と結託した聞得大君のみが贅沢な暮らしを続けていた。財政が苦しいことに変わりない王宮は、いつものように借金を申し込むべく、寧温が薩摩藩の出先機関である御仮屋を訪れるが、彼女はそこで琉歌を見事に詠んだ浅倉雅博に恋をし、その様子を見てしまった朝薫も彼女への自分の恋心に気付いてしまうのであった。

 第4章…英国の船、インディアン・オーク号が暴風雨により座礁し、王宮内は様々な思惑が入り乱れて混乱するが、船員を皆殺しにしようとする清国派、彼らを奴隷にしようとする薩摩派を、寧温は巧みに抑え込み、船を新造して丁重に送り返すことに成功する。
 寧温は聞得大君の派手な暮らしぶりが続いていることに気付き追及するが、聞得大君は横領を否定し、さらに寧温に秘密の匂いをかぎ取ってしまうのであった。

 第5章…聞得大君は、正当な聞得大君が持つべき馬天ノロの勾玉を手に入れるため。お告げのあった辰年の女を次々に捕らえ拷問に掛けていた。寧温の亡き父が隠し持ち、寧温に引き継がれた勾玉が簡単に発見できるはずもなく、拷問による死者は30名を越え、罪状は切支丹ということで処理されていた。さらに聞得大君は、自分の権力を確固としたものにするため、思戸という少女を間者に仕立てて王妃を罠にはめ、ついには寧温を失脚させるため嗣勇を拷問して寧温が女であることを白状させようとする。そして、現場に駆けつけた寧温はとうとう自分の秘密を敵に明かしてしまうのであった。

 第6章…寧温の秘密をつかんだ聞得大君は、寧温を操って王妃の失墜を図る。聞得大君が、まんまと王宮での王妃と女官大勢頭部の権力を奪うことに成功した頃、儀間親雲上と多嘉良は、いつものように王宮の泡盛をくすねて飲んでいたが、同じようにくすねた西瓜に阿片が詰め込まれているのを発見し驚愕する。
 聞得大君に兄を人質に取られ、今度は削られていた聞得大君御殿の予算を元に戻すよう迫られていた寧温は、死を決意し珊瑚礁の海へ身投げするが、一緒に飛び込んだ雅博に救われる。救われた寧温は、切支丹事件に片を付けるべく、宣教師のベッテルハイムらの協力を仰ぎ、聞得大君を切支丹に仕立て上げ、平民・真牛として王宮から追放したのであった。

 第7章…阿片の密売に評定所の多くの者が関わっているのではないかと疑いだした寧温は、朝薫への協力を仰いだ翌日、評定所筆頭主取の役職を罷免され朝薫と共に雑草抜きの仕事に回されてしまう。しかし、2人は直後に尚育王から特命捜査官とも言うべき糺明奉行に任じられ、阿片密売組織壊滅を命じられる。入手国である清国と、売却先である薩摩との合同捜査をまとめた寧温であったが、薩摩側は旧知の雅博が務めることになったが、清国側の指名した捜査員・徐丁垓は恐ろしい宦官であった。ついに密売組織の全容を解明した寧温と朝薫は、それまで血統主義で決められていた表十五人衆に昇格する。そして、父の遺言を思い出した寧温は、自宅のガジュマルの樹の下から第一尚王朝末裔の証である馬天ノロの勾玉を掘り出し、「聞得大君になって琉球を救いなさい」という国土の声を聞くのであった。

 第8章…寧温は、彼女の正体を知った徐丁垓に脅迫されるが、評定所を辞任することで彼の支配を逃れようとする。真鶴に戻って身を隠して生きていくつもりだった寧温であったが、偶然出会った雅博に組踊の観劇に誘われた上に求婚される。しかし尚育王の薨去を知った彼女は、女としての幸せを捨て王宮に戻り、幼い尚泰王を補佐することを決意する。徐丁垓に再び狙われることになった寧温は、彼に襲われた上に、彼との関係を雅博に疑われて絶望するのであった。

 第9章…妹の敵を取ろうと徐丁垓に拳法で勝負を挑んだ嗣勇は返り討ちに遭い、徐丁垓は後宮の御内原を荒らし続けた。さらには、寧温が第一尚王朝の末裔であり、兄を王座に就けるために王宮に入ったのだと朝薫に吹き込み、朝薫までもが寧温に敵意を抱くようになる。さらに王印を盗んだ容疑までかけられた寧温は、徐丁垓を道連れに万座毛から飛び降りるが、馬天ノロの首飾りが引っかかったおかげで生還する。しかし、国相殺害の罪は重く、八重山に流刑になってしまうのであった。

 第10章…寧温の流刑先の八重山で、奴隷が乗っ取った米国商船ロバート・バウン号の座礁事故が発生。かつてインディアン・オーク号の座礁事故の時に多くの船員を救い、英国女王よりナイトの称号を賜っていた寧温は、あっという間に連合軍旗艦コンテスト号のスペンサー艦長の信頼を得て問題を解決してしまった。その功も報われぬまま、マラリアにかかり山奥に捨てられた寧温であったが、八重山の最高神職の老婆に助けられ、在番の前で琉舞を踊ったことをきっかけに王宮に戻ることになる。王の前で琉舞を踊るだけだと思っていた寧温であったが、連れて行かれたのは、あごむしられ(側室)の試験会場であった。摂政の孫娘・真美那とともに側室に選ばれた寧温は、ついに真鶴として王宮に帰ってきたのだ。

 第11章…朝薫が真美那の従兄であり、名家の向一族であったことに驚く真鶴。彼が寧温を心底敬愛していたことを知った真鶴は目頭を熱くする。真美那は寧温がいじめられないよう一流の茶道具を 彼女に貸し、王妃達を驚かすのであった。そして真鶴は、真美那の初恋の人が寧温だと知って驚かされる。
 王国一の日取りを読む「時」の郭泰洵を雇い、懐妊祈願の日取りを決めた真美那に対し、 真鶴の懐妊祈願ために女官が見つけたユタは、追放された元聞得大君の真牛であった。真牛は再び真鶴を脅迫するが、悩んでいる真鶴がユタに何らかの理由で脅されていることを知った真美那は、従兄の朝薫を利用して違法行為を行うユタ狩りを行わせ、真牛を再びお縄にするのであった。

 第12章…真牛は陳執事の策によって脱獄するが、各地を転々と逃げ回る生活に嫌気がさしていた。陳が真牛の神扇を買うために故郷の形見の翡翠を売ったことを知った真牛は、売却先の海運業者の所へ翡翠を取り戻しに行くが、その海運業者に莫大な借金があった真牛は遊郭に売られてしまう。
 宮中では、春の訪れと共に真美那の懐妊というめでたい知らせに沸き返っていた。御内原で破格の出世を果たしていた思戸は、模合の連鎖破綻を利用して真鶴を降格させようとしていた女官大勢頭部を失脚させ、寧温殿約束通り、自らが女官大勢頭部に就任する。真鶴は、思戸に祝いの絹の女官衣裳を贈ると共に、兄の嗣志を通して寧温からの贈り物として絣の着物を渡し、思戸は感無量であった。
 真牛は、浜で津波古と名乗る士族と出会う。貿易で大失敗し多くの財産を失ったという彼に、真牛は次の仕入れの知恵を授ける。男に恋をした真牛は、ミセゼル(祝詞)を謡うことができなくなっていた。
 そして、那覇港には、十数隻もの米国の艦隊が姿を現していた。

 第13章…米国艦隊のペリー提督の突きつける要求に朝薫はまともな対応ができずペリーは苛立つ。ついにペリーが王宮に強制入城を果たした翌日、尚泰王は寧温に恩赦を与える決断をし、真鶴と嗣勇は途方に暮れるのであった。

 第14章…寧温に戻った真鶴は、ペリーとの交渉を見事にまとめ上げ、琉球から追い払うことに成功する。そして真鶴の宮中での二重生活が始まった。
 真牛の言うとおりの商品を仕入れた津波古は、琉球に帰り着くなり一夜で成り上がった。すぐに手に入れた大金で遊郭の真牛を身受けしようとした津波古であったが、真牛の借金は成り上がった津波古ですら払いきれないほどの大金であり、しかも米兵に暴行を受けた真牛は廃人となっていた。やむなく津波古は手持ちの金がなくなるまで毎晩真牛の元に通って彼女の世話をした。
 二重生活を送っていた真鶴は、王妃主催の茶会に呼ばれると同時に、尚泰王からも寧温にお呼びがかかったとあって頭を抱えるのであった。

 第15章…ブッキングに悩んだ真鶴は、結局寧温として尚泰王の方へ駆けつける方を選び、王妃主催の茶会では真鶴の欠席裁判が開かれようとしていた。しかし、真美那は国宝級の茶碗を3つも割り、御内原を未曾有の大混乱に陥れることで、真鶴の危機を救った。
 その後、三司官の陰謀により朝薫を含む向一族がことごとく左遷される。すべては富国強兵を進める薩摩藩の差し金であった。寧温はフランスからの軍艦購入を計画する薩摩藩の雅博とも対立することになる。
 偶然寧温の姿を目撃した真牛は正気を取り戻す。遊女として一生を終えたくないという彼女の願いを叶えるため津波古は遊郭に火を放ち、真牛を自由の身にするが、放火犯として斬首されてしまう。
 茶会の不始末の責任を取らされた嗣志も朝薫らとともに左遷されてしまうが、その怒りから第一尚王朝復興の野心を心に抱くようになる。
 真鶴は寧温と同一人物であることを真美那に知られてしまうが、真美那は真鶴を尊敬し、一緒に男装を楽しむようになる。そんな真鶴は、自分が尚泰王の子を妊娠したことに気付き、混乱するのであった。

 第16章…妊娠したことに苦しむ真鶴に対し、真美那は、産まれてくる子供のために寧温を捨て真鶴として生きるべきだと説得する。そんな時、薩摩藩主が逝去したことにより朝薫ら向一族が復権し、宮中から薩摩派が一掃される。真美那は寧温も左遷することにより、真鶴として子供と共に生きることに集中させようと配慮し、真鶴も納得する。そして国許に帰ろうとしていた雅博と出会った真鶴は、最愛の彼に二重生活の秘密をついに明かす。驚愕しつつも薩摩へ彼女を連れて行こうとする雅博であったが、尚泰王の子を妊娠していることを知り、さすがに諦めるしかなかった。
 生き霊によって真鶴を苦しめようとしていた真牛であったが、真美那は聞得大君の祈禱によって真牛の実体を捉えることに成功する。何度逮捕されても懲りない真牛は、とうとう行脚乞食と呼ばれる最下層の身分に落とされることになった。
 そして、真鶴が男子を生んだことに沸き返る宮中であったが、すっかり落ちぶれた嗣志が祝宴会場に乗り込んできて、真鶴の秘密を尚泰王の前で暴露してしまう。

 第17章…長年宮中を騙してきた罪で真鶴は死罪を希望するが、身分も考慮され久米島への流刑と決まった。しかし、子供と離ればなれになることをよしとしなかった真美那は、子供を誘拐して真鶴を子供と共に逃がす。
 真鶴は、真美那の手配した首里郊外の遍照寺に、明と名付けた子供と共に身を寄せることになった。明は、腕白坊主ながら幼少の頃の真鶴に負けないくらいの神童であった。明は首里で偶然出会った
嗣志を真鶴の元に連れて行く。しかし、嗣志の同僚の通報で役人達に取り囲まれる。嗣志は、罪滅ぼしのため役人に斬りかかって真鶴たちを逃がし、斬首刑に処せられる。
 明は、飛び入りで受験した真和志塾の入塾試験に合格して周囲を驚かせるが、真鶴は入塾を許さず、代わりに寧温となって私塾を開き、明を鍛えるのであった。そして明治政府発足の知らせが琉球にも届く。琉球王国滅亡のカウントダウンがついに始まった。

   第18章…評定所に勤めたいという明に対し、それならば科試が再開されるのを待とうと言う真鶴。その明に接近した真牛は、寧温の正体や、明の出生の秘密を暴露し、馬天ノロの勾玉を探し出すように伝える。明と共に王宮へ戻り、聞得大君として復帰してやろうという魂胆である。しかし、真鶴から全てを聞かされた明は、中城王子としてではなく、実力でしか王宮へ行かないと真牛に宣言する。
 そして、明治12年3月、王宮に日本政府の兵士が送り込まれる。尚泰王は侯爵として東京行きを決意し、付き従っていた者達もそれぞれに王宮をあとにして去っていった。人気がなくなり、周囲を兵士が固める王宮内にこっそりと忍び込んだ真鶴と明は、2人だけで即位の儀を行おうとするが、そこへ真牛が現れる。真牛は尚明王のオナリ神となって尚明王を守ると約束し、真鶴から馬天ノロの勾玉を受け取り御託宣を下す。王宮の封印された龍を解放し大神キンマモンを召還した真牛は、尚明王に忠誠を誓い、晴れ晴れとした表情で去っていった。
 東京へ帰還することになった前夜、思い出の鳳凰木の元へやって来た雅博の前に真鶴が現れる。またしても愛の告白をする雅博に、真鶴は6月に迎えに来てほしいとお願いする。
雅博は琉球で真鶴と暮らすことを誓い、彼女を強く抱きしめるのであった。

 借りたのは上下巻のハードカバーの方で、Coccoとかいう女性のシンガーソングライターのメッセージが帯に記されていたのだが、その褒めているのか、けなしているのか分からないような軽いコメント が、まず不愉快極まりなかった。「男子ってこんなファンタジーに心を燃やすのか…大爆笑の女子Cocco」「捨てたもんじゃないね男子ワールド」。作品と男性読者を馬鹿にしているようにしか思えないし、それ以前に作品の内容を読む限り男性向けに特化したような作品とはとても思えないのだが。そういうマイナスな先入観があったからかもしれないが、読み始めると意外と普通に面白い。少なくとも読んでいて苦痛ではない。別紙付録となっている登場人物・用語一覧 も便利。ただ、そこまでして用意したならば、もっと内容を充実させてほしかった。掲載している人物が少なすぎなのが今一つ使えなくて惜しい。
 読み進めていくと、確かに少々漫画チックでベタな展開も目立つが、不思議と不平不満は感じない。やはりしっかりと肉付けされた表情豊かなキャラクター達の存在の賜物であろう。
極悪非道の徐丁垓はともかく、全編にわたって圧倒的な存在感を誇る悪役の真牛や、数々の失態を犯す嗣志が、決して憎めないキャラに仕上がっているのが本作の大きな魅力の1つであろう。真牛、徐丁垓、真牛と3度までも、自分の正体について暴露すると脅迫され簡単に屈してしまう場面にはさすがにいい加減にしろと思ったが、それを除けば主人公の真鶴の完成度は秀逸。知性、容姿、人柄の素晴らしさの全てが見事に描き切れていたと思う。彼女に想いを寄せる朝薫と雅博も最後まで存在感を失わなかった。彼らと同列に扱われそうだった儀間親雲上がいつの間にかフェードアウトしてしまったのはちょっともったいない気がした。思戸や多嘉良も良い味を出していたが、やはり一番人気は真美那であろう。彼女の天真爛漫なお嬢様キャラは、息の詰まりそうな真鶴の宮中生活を見事なまでに和らげていた。
 突っ込みどころはほとんどなく、前述の3度に渡る真鶴脅迫のしつこさのほか、あとは第7章で「聞得大君になって琉球を救いなさい」という国土の声を聞いたはずの真鶴が、結局全くそういう展開にはならなかった点と、最後の真牛の心変わりが気になったくらいである。
 これはNHK大河ドラマにそのまま使える話だと思ったら、NHKはしっかりBSプレミアムでドラマ化していた。主人公に仲間由紀恵を据えたキャスティングもお見事。フィクションとは言え、琉球王朝の最期を学ぶ教材としても生かせる作品であり、長編が苦手な方でなければ自信を持ってオススメしたい1作。

2016年月読了作品の感想

『戦場のコックたち』(深緑野分/東京創元社)【ネタバレ注意】★★

 「このミス」2016年版(2015年作品)2位作品。 「このミス」2016年版ランキング作品を読むのはこれが6作目。これまで全て★★だったので、2位作品なら★★★が期待できるかもと楽しみにしていたのだが結果はまたしても★★。というか、なぜこの作品が2位なのか正直言って理解できない。ミステリー小説としても、戦争小説としても、グルメ小説としても、ちょっとイイ話系の小説としても、全てにおいて中途半端。良心的な見方をすれば、それら全てのエッセンスが含まれていると言えなくもないが、どの視点から見ても感動できないのではどうしようもない。本屋大賞では、「このミス」1位の『王とサーカス』、同じく5位の『流』に挟まれての7位。昨年はミステリー不作の年と見てよいのかもしれない。

 第1章…第二次世界大戦時において軍隊に志願入隊した雑貨屋の若者は、料理の上手な祖母の影響と、同じ隊に配属された味音痴のコック、エドことエドワード・グリーンバーグからの誘いもあって、軍隊内での地位の低いコックにあえて志願する。米国陸軍空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第3大隊G中隊管理部付きコック、ティモシー・コール5等特技兵、通称キッド。彼がこの物語の主人公である。ノルマンディ降下作戦に参加し、仲間を失いながらもなんとかポイントにたどり着いた彼は、美男の機関銃兵・ライナスが予備のパラシュートを集めていることに疑問を持つ。エドの推理によって、野戦病院として米軍が借りた館の主が、娘にウエディングドレスを作ってやるためにパラシュートに使われている絹の布を欲しがっているという要望に応えたことが明らかになる。しかし、ライナスの奮闘むなしく、ドイツ軍の爆撃によって館の主と娘は死亡してしまうのであった。

 第2章…戦死したコックのマッコーリーの代わりにキッドの同僚として管理部に配属されたのは、戦闘で負傷しフランスの民家で匿われていたところをキッド達によって発見されたフィリップ・ダンヒルだったが、ろくに挨拶もしない彼をキッドは嫌っていた。そんな時、まずいと評判の粉末卵の大量紛失事件が起こる。憲兵は単なる数え間違いとして相手にしてくれず、中隊長の名誉挽回のために、キッド達は独自に調査を始める。そして謎を解いたのは、またしてもエドであった。補給物資の見張り役だった軍の広告塔でもあるロス大尉のあまりの怠慢のせいで苦労している彼の部下達が、彼を困らせようとして起こした事件だったのだ。首謀者は追放され、あとのメンバーも左遷されたが、ロス大尉への処分は軽かった。それでも彼の悪評はこの事件をきっかけに広まり、彼が軍の広告塔として表舞台に立つことはなくなったのであった。

 第3章…オランダでの作戦に従事していたキッド達は、フェーヘルという町の防衛任務を行っていた。玩具職人のヤンセン氏の家の2階から死守すべきハイウェイを見張っていたが、ドイツ軍の対戦車砲による攻撃で、同じ部屋にいた古参兵のヘンドリクセンが命を落とし、機関銃兵のアンディが負傷する。衛生兵を捜すキッドを踏み越えて小道に飛び出した丸坊主の人物がドイツ軍の狙撃兵に射殺され、あっけにとられるキッド。ヤンセン氏の家から飛び出してきた息子のテオを保護したキッドは、ヤンセン夫妻が地下室で自殺しているのを発見し困惑する。射殺された丸坊主の民間人が女性であったことから、エドは彼女がヤンセン氏の長女でドイツ軍への密告者であったと推理する。ヤンセン夫妻は彼女を匿った贖罪として自殺し、長女も狙撃されるために故意に道へ飛び出したというわけである。残された次女のロッテと、その弟のテオは、密告者の子供ということで町では誰も面倒を見てくれないことから、これからイギリスへ帰る予定の連合軍の輸送機の女性副操縦士テレーズ・ジャクスンに2人を託すキッドであった。

 第4章…キッド達は、冬のベルギーで5日間も自分たちで掘ったタコツボに2人ずつ入って敵と睨み合っていた。入隊時からキッドやエドと共に戦ってきたディエゴ・オルテガは、夜中に「ざく、ざく」という銃剣を刺す音が聞こえると訴える。彼が、戦争神経症と診断され以前の陽気さを失っていたことを知らなかったキッドは、彼の幽霊話を笑い話にしようとするが、彼に殴りかかられ、その後彼はタコツボから出てこなくなる。そして、続けて3人の兵士が次々に後ろからナイフで刺されて戦線離脱を余儀なくされるという事件が起こるが、敵が潜んでいる様子はない。この謎をまたしてもエドが解き明かす。前線から帰国し二度と復帰しなくてもいいように死なない程度に味方同士で傷つけ合っている兵がおり、その彼らがドイツ兵の死体を使って夜中にナイフで刺す練習をしている音をディエゴが聞いたというのが、幽霊事件の真相だったのだ。しかし、真相をディエゴに伝えようとした時、ドイツ軍の爆撃に遭い、仲間を助けようとしたエドは死亡。キッドは半月以上たってから病院で意識を取り戻す。

 第5章…戦線に復帰したキッドは、ドイツ軍の捕虜施設から逃げてきた従軍牧師と会話するダンヒルを見ていて、彼の秘密に気が付いてしまう。ダンヒルは連合軍の野戦病院で治療を受けていたドイツ兵で、瀕死のアメリカ兵と軍服を交換してアメリカ兵になりすました後に、フランスの民家で負傷兵として匿われていたのだ。ドイツ軍のスパイではないかと追及するキッドであったが、ダンヒルことゾマーの、ドイツに残してきた妻子を心配する様子に心動かされ、憲兵隊に捕まりそうになった彼をかばおうとするが、鎮静剤を打たれて地下室に閉じ込められてしまう。しかし彼は、見張りの兵を手なづけて部隊の仲間を集め、下剤を使った偽の集団食中毒を捕虜収容所で発生させ、ゾマーに衛生兵の恰好をさせて逃亡させるという作戦を成功させる。
 そして1989年、キッドと、衛生兵だったスパーク、ライナス、そしてゾマーが、ベルリンで再会を果たす。ゾマーはキッドから預かっていたエドの眼鏡を返す。しかし、机の引き出しにしまったはずの眼鏡は、なぜか翌日消えていたのであった。

 いずれの話も、戦場で発生した謎をエドが探偵役として解明するという展開で、最後はエドを失った主人公のキッドが自力で謎を解くというものなのだが、第1章、第2章のミステリー度があまりに低くて、読者がミステリー小説として受け止められない。ミステリー路線で行かないのならば、第1章など、もっと「ちょっとイイ話」にできる内容なのに、そっち方面へ持って行くことも十分にできず、前述したように非常に中途半端な印象を残す話になっている。第3章以降、やっとミステリー路線が明確になるが既に手遅れ。戦争描写も今一つで、一番本作の「売り」のはずの「コック」という設定も十分に生かし切れていない。そこそこ料理シーンはあるものの期待値を完全に下回っており、最後のゾマー救出作戦を無理なく描くために(この作戦も相当無理があるが)作った設定なのかと疑ってしまうほどである。直木賞や大藪春彦賞の候補になったものの受賞できなかった理由は、この全てにおいての中途半端さが大きいのではないかと思う。エピローグで、キッドがテオとロッテを預けた副操縦士と結婚し、この2人の子供を養子にしたという話もあまりにできすぎ。
 もうちょっと煮詰めれば相当な傑作になったのに非常に惜しいと思う。同じような感想を抱いた伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』をふと思い出した。

 

『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎/中央公論新社)★★

  もちろんミステリー小説ではなく、言わずと知れた日本を代表する文豪・谷崎潤一郎が、日本独特の美意識について著した随筆である。初出は1933年(昭和8年)。あまり読まないジャンルの名著に手を伸ばしてみようと、なんとなく借りてみたが、このタイトル以外に考えられないくらいピッタリな内容。建築のみならず、料理やそれを盛る器、さらにはトイレにまで話題を広げて、日本の陰翳を良しとする美意識について美しい文体で語られている。トイレの便器を木製にしたかったという部分には同意できないが、多くの部分に共感を覚え、日本人に生まれて良かったと思わせてくれる作品。
 この中央公論新社の文庫版には、「懶惰の説」「恋愛および色情」「客ぎらい」「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」といった随想も一緒に収められており、「懶惰の説」では、あくせく生き急ぐ現代人に疑問を呈している。「恋愛および色情」では、「陰翳礼讃」の内容にも通じる日本女性の美について述べており、「客ぎらい」では歳を経るごとに付き合いは広がっていくのに、逆に煩わしさが増えていくことがどんどん嫌になっていく作者の心情が面白い。「旅のいろいろ」では大阪人のマナーの悪さや日本旅館の不便があるが故の良さについて語っているところが興味深かった。(本作では語られていないが、個人的に日本旅館の共用スリッパが自分は大嫌いである。部屋に備え付けで、大浴場にも履いていくアレである。せっかくお風呂できれいになっても、誰が履いてきたか分からないスリッパを履いて部屋に帰らないと行けないのが許せないのだ。あとで分かるように入浴前に隅に寄せておいても誰かが勝手に履いていったり、旅館の人が余計なお世話で並べ直したりする。かなりの高級な旅館でもこのシステムは変わらない。たまに部屋ごとの印の付いたスリッパを用意している旅館や、大浴場の下駄箱に紫外線のライトを備え付けて殺菌をアピールしているところもあるが、菌は殺せても汗や汚れは消えまい。ホテルの使い捨ての室内限定スリッパのように、旅館でもマイスリッパを絶対用意すべきだと私は思う。)「厠のいろいろ」では、どれだけトイレが好きなんだというくらい「陰翳礼讃」に続くトイレの話を熱く語っていて、これまた面白い。
 若い人には退屈な内容も多いかも知れないが、『徒然草』が今だに読み継がれているように、現代人にも納得のいく意見が美しくも簡易な文章で書かれていて、興味のある人にはおすすめである。文章量も少ないのですぐに読める。

 

『人間失格』(太宰治/集英社)

 前回に引き続きミステリーを離れて「名著」と呼ばれるものを読んでみた。だいたいの話の内容は知っていたので、今まであえて読むことはなかったが、読み始めてまず思ったのは、思っていたより読みやすいということ。今だに夏目漱石の『こころ』と累計部数を争っているというのも頷ける。ただし、読み終えた読者が共感を覚えるのはどちらだろうか。正直なところ、どちらの主人公にも完全には共感できまい。おそらくほとんどの読者は、「不朽の名作」というものがどんなものか読んでみようと思って手にしているだけではないか。『こころ』や『人間失格』が自分の愛読書で、何度も繰り返し読んでいるというような読者などそうはおるまい。現代の若者には、悩んだ末に「自殺」という結論を導き出すどちらの主人公に対しても、「深く悩みすぎだろう」という程度にしか思えないだろう。
 『こころ』に関しては、親友を騙して親友が想いを寄せる女性を妻にしたこと、そのことによって親友を自殺に追い込んだことを悩んで死を選ぶわけだが、
芸能人の不倫のニュースが毎日のように飛び交い、身近でも恋人の奪い合いが日常茶飯事の現代では、たいした刺激でもあるまい。
 本作『人間失格』も、冒頭部分は結構共感を覚え、引き込まれる部分はある。経済的に裕福な環境に育ちながら、他人を欺き生きている周囲の人間や自分自身に気付き、人付き合いに悩み苦しむ主人公。そういった人間関係についての悩みは多かれ少なかれ誰にでも経験のあるものだ。引き籠もりなどは、当時よりむしろ現代の方が多いかもしれない。しかし、中盤から酒に溺れ、女に溺れ、自堕落な生活にどんどん落ちていき、自殺未遂を繰り返して、最後はモルヒネ中毒になって脳病院に送られた挙げ句、27歳の若さで老女中と共に故郷から離れた田舎の古い家に追いやられて廃人として生きる主人公から何が学べるというのか。人間こうはなりたくないという反面教師にしかならないのではないか。中盤以降は、ただただ主人公の駄目人間ぶりに嫌悪感しか抱かなかった。
 著者やその作品群については、膨大な研究分析や批評がこれまでに行われており、その中で、この作品にはもっと深い意味も見出されているのだろうが、それらにも興味を感じない。著者の娘で作家の太田治子の鑑賞文が巻末に掲載されていたが、彼女は父の作品を繰り返し読み、シズ子とシゲ子の母子が白兎と戯れ、それをのぞき込み彼女らの幸福を祈る主人公に、父の父性を感じ涙したと言う。しかし、自分からすれば、そこで改心するどころか逃げ出した主人公にはむしろ怒りしか覚えない。
 就職したての頃に、日本文学全集的なものを購入し片っ端から読んでみた時期もあったが、どうにも退屈でしょうがなかった。『こころ』と並んで多くの人に愛されていると言われる『坊っちゃん』を最後に、あまりの苦痛に読むのをやめた記憶がある。過去の名作と呼ばれるものを全否定するつもりはないが、強くおすすめすることはできない。

2016年月読了作品の感想

『羊と鋼の森』(宮下奈都/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)3位作品の柚月裕子『孤狼の血』を読んだ時に、第154回(2015年下半期)直木賞候補作品であることを記したが、「このミス」2016年版(2015年作品)2位作品の深緑野分『戦場のコックたち』、そして今回読了した「2016年本屋大賞」大賞受賞作も同時に直木賞候補作品になっていたことを最近知った。最終的に直木賞を受賞した青山文平の『つまをめとらば』と、もうひとつの候補作だった梶よう子の『ヨイ豊』は未読だが、『孤狼の血』、『戦場のコックたち』、『羊と鋼の森』の3作品の中では、今回の『羊と鋼の森』が圧倒的に気に入った。『孤狼の血』がこってりした野性味溢れる肉料理、『戦場のコックたち』が様々な趣向を凝らしたコース料理だとすると、3作品の中ではもっとも薄味であっさりした作品かも知れないが、超一流の料理人が作った極上のダシを使った京料理のようだ(食べたことはないが…)。
 作中で、一人前の調律師を目指して悩む主人公に、彼の師匠とも言うべき板鳥は、「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」という原民喜の文章の一節を贈るのだが、著者はまさにそのような文章を目指してきたのだろう。最後まで、その美しい文章に引き込まれ、読了後には「もう終わり!?もっと読んでいたいのに…」という気持ちになる。こんな気持ちになる作品はそうはない。ちなみに「羊と鋼」というのはピアノに用いられている素材からきており、「森」は主人公が生まれ育った世界、そして彼の心の中に、原風景として広がっている世界を象徴したものである。

 高校生だった外村は、ふとした偶然で担任からピアノの調律師の板鳥をピアノのある体育館まで案内することを頼まれる。なんとなく調律作業に立ち会った外村は、それまで何の夢も持っていなかったが、板鳥の作り出す音に感動し、これこそが自分の求めていたものであることに気付き弟子入りを申し出る。板鳥に紹介された専門学校で2年間学んだ外村は、板鳥の推薦もあって彼の勤める江藤楽器に就職。想像を超えた神業のような技術を持つ板鳥、結婚間近で面倒見の良い柳、口は悪いが仕事は一流の元ピアニストの秋野という3人のベテラン調律師に囲まれ、様々な客を相手にしていく中で、外村は悩み苦しみながらも調律師として着実に成長していく。
 そんな中で彼は、双子の女子高校生、和音と由仁に出会う。 自由で華やかな演奏をする由仁よりも、静かでありながらツヤがあって美しい和音の演奏に惹かれる外村。ある日、由仁がピアノを弾けなくなり、和音も弾かなくなってしまったことに外村は落ち込む。しかし、やがて和音は立ち直ってプロのピアニストを目指すことを決意し、由仁は和音のために調律師を目指すことを宣言する。外村は喜ぶと共に、自分が和音の調律師になりたかったのにと複雑な想いを抱く。

 柳の結婚が決まり、その披露宴会場でのピアノ演奏に柳は和音を指名する。そしてその調律をまかされた外村は和音のサポートに全力を注ぐ。和音の曲が流れる披露宴会場で、「外村くんみたいな人が、根気よく、一歩一歩、羊と鋼の森を歩き続けられる人なのかもしれない」
と語る社長に、鷹揚に頷く板鳥。外村は自分の選んだ道が間違っていなかったことを確信するのであった。

2016年月読了作品の感想

『さよならの手口』(若竹七海/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)4位作品。筆者・若竹七海(わかたけななみ)氏は、1963年生まれの女性作家でミステリ以外にも多数の作品を描かれておられるのだが、恥ずかしながら余り存じていなかった。過去の「このミス」を調べてみると、『ぼくのミステリな日常』で1992年版6位、『依頼人は死んだ』で2001年版16位となっているが、残念ながら2作共に未読。本作は1996年にスタートした葉村晶シリーズの第4弾にあたり(前述の『依頼人は死んだ』はシリーズ第2弾)、第3弾まではハードカバー本刊行の2、3年後に文庫化されていたが、本作は今時の流行か、いきなり文庫で刊行された。ちなみに、本作が売れたせいか2016年8月に早くも第5弾『静かな炎天』が刊行されており、来年度の「このミス」に顔を出すのかもしれない。あらすじは以下の通り。

 主人公の葉村晶(はむらあきら)は、数名の女性とシェアハウスに住んでいる、男に縁のない40代の女性探偵という、なかなか珍しい設定の人物である。大学卒業後フリーターで食いつなぎ、30歳以降の10数年間は長谷川探偵調査所と契約するフリーの優秀な調査員だったが、その調査所の店じまいにあわせて、出版社を定年退職した富山泰之が立ち上げたミステリ専門書店「マーダーベアーブックショップ」のバイト店員となる。ある日、富山からの依頼で、遺品整理人の真島進士が担当している、山田一郎という人物が住んでいた貸家に本の引き取りに向かうことになる。そこで押し入れの中の本をチェック中に押し入れの床が抜け、葉村は全身打撲に加え、肋骨2本にヒビが入るという怪我を負う。しかも、押し入れの床下から白骨死体が発見されるというオマケ付きだ。その家の大家の古浜永子の亭主・啓造が大昔に失踪していたと聞いていたので、その人物の骨かと思われたが、見つかった白骨は女性のもの。葉村は、古浜が白骨死体の存在を知っていて遺品整理人に仕事を依頼したのではと考えていることを調布東警察署の渋沢漣治に見抜かれる。啓造の失踪にこだわる渋沢に、葉村は女性ホルモンの話を引き合いに出し、「じいさんよりばあさんのほうが男らしい」と告げるが、その後、事件の衝撃の真相が判明する。死亡していたのは古浜永子であり、現在の大家の古浜永子だと思われていた人物が、実は古浜啓造だったのだ。古浜永子が男だと気付いていた葉村に渋沢は興味を持つ。
 そして、この事件の真相を見事に突き止めた葉村の力に目を付けたもう一人の人物が、葉村と同室に末期癌で入院していた往年の大女優・芦原吹雪(あしはらふぶき)であった。吹雪の姪・泉沙耶に、とにかく伯母に会ってほしいと言われ、会うことになった吹雪からの依頼は、20年前、24歳の時に家を出た娘・志緒利の安否を、自分が死ぬ前に知りたいというものであった。志緒利の失踪当時に調査を行った元警官の岩郷を吹雪は悪く言っていたが、葉村は彼の調査報告書を見て彼の優秀さに感心する。勝手に探偵業ができない葉村は、過去に一緒に仕事をしたことのある「東都総合リサーチ」の桜井肇に協力を依頼する。ついでに泉沙耶の調査も…。
 桜井の調査によって、吹雪が岩郷に調査を依頼した後、悪徳探偵社に勝手に志緒利の調査を依頼した吹雪の親戚が、吹雪の母方の従弟・石倉達也という人物であることが判明する。彼は、吹雪の財産目当てに、自分の娘の石倉花を吹雪の養女にしようと企んでいたらしい。結局その探偵社の調査があまりに杜撰だったため、吹雪は激怒して石倉と縁を切り、吹雪の支援がなくなった石倉は失踪、残された花は死亡。そして、吹雪が妊娠引退した当時、噂された相手として名前が挙がっていたのが、大物政治家・相馬大門、財界人・今津孝、大物俳優・安斎喬太郎、そして吹雪のマネージャー・山本博喜であったことを知った葉村は、まず岩郷に会いに行くことにする。しかし、岩郷は20年前、志緒利の調査を行った直後に行方不明になっていたこと、そして、彼が渋沢の先輩であったことを知る。
 住んでいるシェアハウスに帰った葉村は、同居人に入居希望者を名乗った女性が勝手に自分の部屋に忍び込んだ形跡を見つけ警戒する。そして、渋沢から岩郷の話を聞き、岩郷が吹雪によって彼女の悪い噂を広めた張本人とされていること、警察は彼の失踪を女絡みとして簡単に片付けてしまったことを知り憤る。
 泉沙耶の許可によって吹雪の屋敷を自由に調べられることになった葉村は、志緒利が失踪してから半年以上たってから彼女が吹雪にあてて出した絵はがきを見つけるが、志緒利自身ではなく、彼女の身内が出した可能性に思い至り、不愉快なものを感じる。偶然葉村と出会った、過去に屋敷に出入りしていた植木屋の谷川は、志緒利の父は相馬大門であると断言し、相馬大門と内緒の打ち合わせをしたい連中がこの屋敷を使っており、出入りする色々な人間を自分が見てしまったため、自分は仕事を切られたのではないかと語る。また、屋敷に出入りしていた花屋から、志緒利がリストランテ・オオクボのシェフの大久保と噂があったことを聞き出す。
 山本博喜が、吹雪のマネージャーから、相馬大門に気に入られて彼の金庫番と呼ばれる秘書となった経緯を大野元政治部記者から聞き出した葉村であったが、大野の口から相馬大門が志緒利の父親ではないこと、そして隠し子騒動を仕掛けたのが、相馬大門の第一秘書であったことに驚き、山本博喜が大野に言ったという「志緒利さんのことは忘れた方がいい」という言葉が気に掛かるのであった。
 大久保から、志緒利が失踪後も高円寺で生活していたことを聞き出した葉村は、関係者をたどり、志緒利がクラしていた場所がルイ・メゾン・グランデというアパートであったことを突き止めるが、警視庁の警部・当麻茂に、東都総合リサーチによる名義貸しという探偵業法違反という不法行為を指摘され、それを見逃す代わりに、ふとしたことで葉村と親しくなり、後にシェアハウスに一緒に住むようになった倉嶋舞美の監視を依頼される。
 相馬大門が志緒利の父親ではなく祖父、つまり相馬大門の息子・和明こそ志緒利の父親であるという葉村の推理を吹雪は認める。葉村の志緒利生存の報告に吹雪は喜び、元マネージャーの山本が関与しているのではという話に、吹雪は、山本が小田原のリゾートマンションを購入したことを伝える。
 志緒利の学生時代の友人だった江上ユカから、安斎喬太郎に暴行されたことで彼女の精神が壊れ始めたことを知る葉村。20年前に高円寺で絞殺死体で発見された身元不明の女性を志緒利ではないかと考えた葉村であったが、ついに発見した山本との会話から、彼女は恐ろしい結論にたどり着く。精神を病んだ志緒利が芦原家のばあやと家政婦を殺害したことを知った吹雪は、志緒利を絞殺しようとするも失敗、仮死状態だった志緒利を運び出した山本は、通り魔に殺害された自分の妹の身元が判明しなかったことを利用し、志緒利を自分の妹として療養所に入院させていたのだ。また、岩郷が志緒利の居場所を突き止めたことで、山本から600万円を受け取り捜査から手を引いたことも明らかになる。
 志緒利が吹雪殺害のために療養所を抜け出したことを知った山本と葉村は、吹雪の病院に駆けつけるが彼女は無事であった。しかし、倉嶋舞美に彼女の監視の件が知られた葉村は、倉嶋がシェアハウスの住人達を味方に付けたことでシェアハウスを追い出されることに。偶然倉嶋舞美の犯罪現場を押さえた葉村であったが、事故に巻き込まれてまたしても怪我を負い、吹雪と同じ病院に入院するはめになる。しかも、同じ病院に患者として潜伏していた志緒利に、深夜に襲われた吹雪は死亡してしまう。
 サイコパスと判明した倉嶋舞美の逮捕でシェアハウスに戻れることになった葉村。しかし、失踪していた岩郷が、マンションの頭金欲しさに息子に殺害されていたことが判明し、さらに山本が安斎喬太郎を刺した後に交通事故死して多くの事件が闇に葬られることになったことで葉村の心は沈む。
 暗い話題が続く中、富山から「マーダーベアーブックショップ」が実は以前に探偵業の届け出を出しており、これまでの葉村の行為が全て不法行為でなかったことが判明し、笑いが止まらなくなる葉村であった。
 

 『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズのヒット以来、古書店を舞台にした話が増えたような気がするのだが、著者の名誉のために断っておくと、主人公の葉村が古書店に勤めるのは今回が初めてではないらしい。古書店ネタが好きな自分としては導入は確かに面白そうで引き込まれる。ただし、最初の白骨事件のところで葉村が渋沢に語る例え話がいきなり分かりにくい。「ばあさんよりじいさんのほうが女らしい」という話をするのなら分かるが、その反対の言い方で真相を臭わすというのは、いくらなんでも遠まわしすぎではないのか。
 さて、本作のメインとなる大女優の娘失踪事件の方であるが、冒頭の白骨事件同様に葉村視点の自虐に満ちたユニークな文体は実に面白い。しかし、残念なことに事件の内容自体が余りにも面白くない。テレビの2時間サスペンスドラマを見ているようなただのドロドロ話。期待していた警察官の渋沢と当麻、古書店主の富山も登場機会が少なすぎてキャラが立ち切れていないし、それ以外の登場人物には全く魅力的な人物が見当たらない。主人公を散々苦しめながら、最後に逮捕されるだけで何の天誅も下らない倉嶋舞美など見ていて不愉快なだけ(逮捕直前に大怪我はするが)。彼女にたぶらかされたシェアハウスの住人達が主人公に謝らないのも気分が悪い。とにかく爽快な部分がなく読んでいて気が滅入るだけなのだ。犯罪小説に爽快感を求めるのはおかしいという人もいるかもしれないが、主人公はどう見てもコメディ路線だろう。最後に主人公の捜査は結局不法行為ではなかったという、ちょっと明るいオチが付くが、それだけではあんまりだ。不幸で不運な女探偵が主人公の物語がウリなのかもしれないが、それは笑いを取るための設定なのだろうから、ここまで救いのない話にされてしまうと不満を持つ読者も多いのでは。ベタかもしれないが、男っ気のない主人公に束の間のロマンスをといった演出があってもいいと思うのだが(過去のシリーズで使ってしまったネタなのかもしれないが「男はつらいよ」的な展開もありでは)?

 

『ミステリー・アリーナ』(深水黎一郎/原書房)【ネタバレ注意】★★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)6位作品。サークル仲間が悪天候の山荘に閉じ込められて…ってどんだけ古典なのよと思ったら、なんと犯人当てのテレビ番組を題材にした斬新な設定の作品。6月上旬に図書館で見つけてちょい読みした後、長い間続きを読む機会に恵まれず、7月上旬にやっと借りることができ、一気に読破。

 【問題】毎年行われているミス研OBの年次会に参加するため、鞠子の所有する4階建ての別荘に大雨の中やってきた「俺」に大きなバスタオルを差し出す「気配りのヒデ」。鞠子に相談事があった沙耶加は前日の夜から来ており、バイク狂の文太は本降りになる前の午前中に着いたためほとんど雨には濡れなかったらしい。それ以外のメンバーは丸茂を除き電車とタクシーを乗り継いで到着しているとのことだが、丸茂の用事とやらが本当に仕事かどうかを「俺」は疑っている。「俺」がラウンジに顔を出すと、そこには文太と「俺」が話をしたかった沙耶加、そして恭子の3人がおり、鞠子とたまはいなかった。「俺」の1時間の仮眠後、丸茂の黒塗りのボルボが屋敷に到着する。丸茂の話によれば、屋敷に来る途中の白髯橋が渡っている最中に冠水し、その後崩壊したことで完全通行止めになったらしい。そんな中、恭子とアキがバーゲンの話で盛り上がっているのをよそに、「俺」は鞠子のいる4階に向かい、部屋の床の上で血まみれになっている彼女を発見する。

 【スタジオ】問題の物語が第2章まで語られたところで、第10回を迎える国民的娯楽番組「推理闘技場(ミステリー・アリーナ)」のスタジオに場面が切り替わる。総合司会の樺山桃太郎とアシスタントのモンテレオーネ怜華が登場し、早くも解答ボタンを押した解答者の一ノ瀬が紹介される。彼は、プロのミステリー読みを自称し、自信満々に犯人が「俺」であり、彼が二重人格者であると断定して、邪道なトリックであると批判する。ちなみに正解者への賞金は、早い者勝ちでなんと20億円。正解かどうかは保留のまま、一ノ瀬は解答済みブースへ移動させられ、場面は再び問題へ戻る。

 【問題】「俺」の名前が平(たいら)三郎であること、鞠子がナイフで刺殺されたことが明らかになる。三郎に死体に触るなと言っておきながら、堂々と鞠子の脈を調べる丸茂に不満を訴える三郎に対し、丸茂は至極当然といった表情を浮かべ、「どう考えてもこの俺様が探偵役をつとめるのが自然な流れだろう」と宣言する。

 【スタジオ】ここで2人目の解答者が名乗りを上げる。最年少解答者の少女・二谷は、犯人は丸茂であると解答。性別誤認トリックが用いられていることを指摘する。丸茂だけ苗字で呼ばれている不自然さから、丸茂は男勝りの口のきき方をする女性であり、恭子とバーゲンの話で盛り上がっていた「アキ」こそが、丸茂の下の名前だと推理。しかも、 1人時間差トリックも用いられており、事前に屋敷を訪れて鞠子殺しを行った丸茂は、白髯橋が通行止めになった時刻が明らかになった時点で嘘がばれる展開になると予言する。しかも彼女の職業がレースクイーンであることまで。

 【問題】物語が突然丸茂視点に代わり、丸茂がレースクイーンではなく商事会社勤務であることが明らかに。丸茂は、鞠子の体温から、ここに着いたばかりの自分は論理的に犯人ではあり得ないから自分が探偵役にふさわしいのだと説明し、三郎への疑念を表明する。

 【スタジオ】3人目の解答者、銀縁眼鏡の三澤は、1人時間差トリックの無理を指摘し、丸茂犯人説を否定する。また、国民的人気番組が安易な多重人格トリックなどを使うはずがないと三郎犯人説も否定し、三郎が死体を見つけた場面にあった「手を動かし」という記述が、沙耶加の犯行と気が付いた三郎の証拠隠滅の描写であると推理して、沙耶加犯人説を唱えたのだ。

 【問題】今度は沙耶加視点に代わり、ヒデの表記が英に変化。三郎が上の階に上がって自分たちを呼ぶまで不自然な間があったことを丸茂は指摘し、三郎は納得の行く説明ができないでいる。沙耶加も、丸茂同様に三郎を疑い始めていた。

 【スタジオ】物語の視点が沙耶加に代わったことで、三澤の沙耶加犯人説が一瞬で崩れ去ったと思われたが、4番目の解答者、小太りの四日市二重人格者沙耶加犯人説を主張。プロデューサーから指摘した犯人が同じでも結論に至る道筋が異なることから、三澤とは別解答扱いになると判定された四日市は大喜び。しかしスタジオでは、何者かが命を狙われるような行動を起こそうとしていた。

 【問題】再び三郎視点に戻る物語。鞠子の体温が下がっていたことから自分がついさっき殺したわけはないと反論する三郎に対し、丸茂は、三郎があらかじめ鞠子を殺しており、第一発見者となるべく鞠子の部屋に再び入った時、自分の犯行が明らかとなるような、例えば鞠子のダイイングメッセージのようなものを見つけ、それを隠滅するためにみんなを呼ぶのに不自然な間ができたのではないかと三郎を責める。さらにとうに終わっていることなのに、鞠子にふられた腹いせに殺したのではないかと問い詰められ呆れてしまうが、興奮を鎮めようとする三郎は、鞠子の指の爪の間に沙耶加が愛用している口紅の破片が挟まっているのを発見し動揺する。三郎は沙耶加を疑っていたのだ。そこで沙耶加から三郎を最近ふったのは私だという言葉が飛び出し、突然泣き出したことで、三郎は、やはり沙耶加が犯人だったのかと慌てる。

 【スタジオ】5人目の解答者、ガテン系の五所川原は8つの根拠を示し、ヒデこそ犯人であり、謎の女性アキの正体であると主張。本名は英アキコみたいな名前で、三郎が「手を動かした」という描写は、三郎が鞠子の脈をはかったのを思わせぶりに描いただけであると解説する。

 【問題】沙耶加が自分をかばってくれていると勘違いしている三郎に呆れる丸茂。沙耶加の発言によって三郎の嫌疑が晴れたわけでもないのに。丸茂は証拠隠滅の疑いのある三郎の身体検査を要求するが、三郎は素直にそれを受け入れるのであった。

 【スタジオ】6人目の解答者、虫ピンのように細長い男、六畝割は、管理人の爺さん=ヒデこそ犯人であると答える。三郎がボトムの替えを借りようとしなかったことなどからヒデは女性ではないという主張を含め、9つの根拠を示して、労使関係のもつれでヒデが鞠子を殺害したのではと推理する。

 【問題】またしても沙耶加の視点となって語られる物語。三郎は鞠子を殺していないという女の勘で、思わず三郎の嫌疑を晴らすような発言をしてしまったが、男と女のプライドについて考えることに面倒臭くなった沙耶加はもう何も言うまいと心に決める。そしてあまりに不憫な鞠子に同情し、涙が止まらなくなるのであった。

 【スタジオ】四日市の多重人格者沙耶加犯人説が風前の灯火であることを笑う樺山を前に、浅黒い顔をした7人目の解答者、七尾六畝割のヒデ=使用人説のおかしさについて語り始める。彼は、運転免許がなくて交通の便が悪い別荘の管理人などできるはずがなく、しかも使用人が犯人では面白くないと主張した後、たま犯人説を唱える。たまは猫と思わせておいて実は人間で、しかもバレリーナであると断言。ちなみに彼には19億8000万円の借金があり、今回の賞金が手に入っても2000万円しか残らないことも明らかになる。

 【問題】実は三郎は鞠子の残したダイイングメッセージを発見していた。「S」というその血文字は明らかに沙耶加を示すものと思われた。彼は雑巾できれいに拭き取り、洗って絞って放置したその雑巾は後で処分するつもりだった。「ちょっと手を動かして」というのは、この行為を示していたのだ。皆がラウンジに移動した後、白い猫が現れ、ヒデが出したミルクを舐め始めた。そして1人の女が、猫をなでながら鞠子と最後に話したのは自分だと呟く。

 【スタジオ】三郎犯人説も沙耶加多重人格者説も否定され、共倒れの様相を呈してきたことに嬉しさを隠せない樺山。さらに、たまがただの猫であったことも明らかになったことで七尾に対する暴言を吐く樺山をたしなめる怜華。

 【問題】ヒデが夕方の4時から階段の2階と3階の間にワックスをかけており、そこには足跡が残っていなかったという新事実が示される。つまり2階からの螺旋階段からしか鞠子の部屋へは行けず、その姿を目撃されたのは三郎だけであった。そしてヒデがこの屋敷の使用人であり、買い物はネットスーパーの宅配に頼ることで車の免許がなくても仕事に支障がないことが明らかになる。

 【スタジオ】ヒデ犯人説の五所川原と六畝割の推理が外れたことに大喜びの樺山に対し、解答席のサングラスの男が、謎の途中追加にクレームを付ける。しかし樺山は、自分はどこで新事実が出るか分からないと必死で止めたと涼しい顔をし、文句のある者に対しては司会者の権限で解答権を剥奪することもできると脅す。

 【問題】白髯橋の崩壊の時間を丸茂に問い詰める恭子に疑問を抱く三郎。彼女は何かにつけて丸茂の肩を持つ丸茂シンパだったはず…。結局崩壊時間は5時10分くらいだったという結論に落ち着く。さらに100%アリバイのあった者は誰もいないことが明らかに。恭子はナイフを抜いてあげないのかと死体を調べることに妙に積極的で、丸茂は犯人の指紋を消してしまう恐れがあると、逆に消極的であった。鞠子の家族に連絡をするために、鞠子の部屋に携帯電話を探しに行こうとする丸茂は三郎を誘うが、のけ者にされたことに不満を訴えた文太も一緒に行くことになる。

 【スタジオ】丸茂犯人説をやたらとアピールする樺山であったが、8人目の解答者、錦糸町の元ナンバーワンホステスの八反果鞠子犯人説を唱える。なぜ被害者の鞠子が犯人になるのか戸惑う樺山に、八反果は、殺された鞠子は苗字が鞠子という男性であり、加害者の鞠子は謎の女性として何回か登場しているアキ、つまり秋山鞠子とか秋吉鞠子とかいう名の女性であると大胆な主張を展開。ワックスに足跡がなかったの犯行時刻の偽装であり、犯行はワックスをかける前に終わっており、ダイイングメッセージは女性の鞠子が残した偽の手がかりであると説明する。

 【問題】鞠子の部屋で文太が発見した携帯電話にはロックがかかっており、一応持って下りようという丸茂の提案で文太はライダースーツの胸ポケットにしまう。ラウンジに戻る途中で三郎と一緒にトイレに寄った丸茂は、鞠子の爪の中の口紅片に気付いており、三郎が犯人ではないことは分かっていると告げる。

 【スタジオ】丸茂のフルネームが丸茂大介であることが明らかになり、二谷の丸茂女性説のハズレが確定したところで、9人目の解答者、サングラスの男の九鬼が、文太犯人説を唱える。文太は元暴走族のヘッド、鞠子は元レディースで、2人は族仲間だったという大胆な主張に樺山は呆れるが、ダイイングメッセージが「S」ではなく積分の記号であり、関文太の渾名を示しているという九鬼の説には感心する。しかし、どうやって誰にも見られずに白い螺旋階段を上ったのかという謎については、白いライダースーツに、白いマスク、はみ出る部分はドーランか何かで白く塗って保護色としたという九鬼の説明に対し、「バカミスっぽい解答」と一蹴して解答済みブースへ厄介払いするのであった。

 【問題】女性陣にも鞠子の携帯電話のパスワードに心当たりはなく、鞠子と別れた後、沙耶加にアプローチをかけていたことを皆に知られた三郎は丸茂にからかわれ、「俺は常に真剣なんだよ!」と言い返す。

 【スタジオ】10人目の解答者、最年長の十和田は、本格ミステリーのコードを逸脱しているとクレームを付ける。犯人がわざと読者の目に映らないように描写されているところがあざといと言うのだ。タクシー代の描写から、駅からタクシーに乗ったのは、ヒデと恭子とたまの他にもう1人いるはずと推理。途中に登場した「英」はヒデと別人の「英(はなぶさ)アキ」という女性であり、彼女こそ犯人であると解答するが、たまは七尾の言うとおり人間のバレリーナであるという主張に樺山は脱力する。

 【問題】不自然なワックスがけが鞠子の指示であったことに丸茂は疑問を感じ、椅子に深く座り直し考え込んでいる時、ラウンジのガラス扉が開き、1人の女が入り口に立っていた。気分が悪くてずっと部屋で休んでいたという秋山鞠子の登場である。

 【スタジオ】十和田の唱えた英アキではなく、八反果の唱えた秋山鞠子の登場に樺山は興奮する。しかし、八反果の推理とは細かい点で異なっているという弱点を指摘。そして、解答席の解答者に対し、ギブアップの場合は他の人の答えに乗っかってもいいと言った後、正解だった場合は賞金は得られなくとも「執行は免除される」という、意味深な発言をする。

 【問題】丸茂は秋山鞠子のアリバイを聞き出そうとするが、彼女の主張に矛盾がなくても彼女を容疑者から外そうとはしなかった。

 【スタジオ】11人目の解答者、20代後半の精悍な女性、十一月(しもつき)雪菜は、不自然な登場をした秋山鞠子はダミーだと主張し、並木こそ犯人だと指摘する。第1章で三郎が見ていた「並木」は植物ではなく、そういう名前の人間だったのだというのだ。さらに三郎が並木を見ながら万年筆を触っていたのは、パイロット万年筆の前身が並木製作所であったことから、万年筆マニアの三郎は無意識にそのような行為を行っていたのだというとんでもない根拠を示す。

 【問題】翌朝自室で目を覚ました沙耶加はいつの間にか自分の口紅が盗まれていることに気付く。ラウンジに三郎と丸茂がいないことを不思議に思う沙耶加に、文太は、三郎は白髯橋の様子を見に行き、丸茂のことは知らないと答える。そこで恭子が、突然鞠子の死体が消失していたことを語り出す。驚くメンバーの中で、丸茂の様子を見に行った文太は、彼が冷たくなっていたこと、夜中に彼の部屋の前に平三郎が立っていたことを皆に告げる。そこへ帰ってきた三郎は、丸茂が屋敷に現れた時間よりかなり前に橋を渡っていたことを皆に報告する。

 【スタジオ】丸茂か三郎のどちらかが嘘をついていることになると指摘する樺山は、おもむろに「臓器くじチャレンジ法」について説明を始める。臓器移植が必要な人を助けるため、一定数の人間をくじで合法的に殺すという「臓器くじ法」という法律が定められたが、色々と問題が発生した。それを解決するための代案が「臓器くじチャレンジ法」であり、今回の番組のように高額の賞金にチャレンジして敗れた者が犠牲になることで、一般の人がくじで殺されることがなくなったというのである。

 【問題】文太は三郎に平家の末裔だというのは本当かという話を振る。なぜか2人は戦国武将談義に花を咲かせる。

 【スタジオ】12人目の解答者、これといって特徴のない十二月田(しわすだ)健二は、タクシーに同乗していたはずの並木が姿を消しているのに登場人物が誰も話題にしないのは不自然すぎると十一月の説を一蹴。視点人物の3人とヒデを除いた残り全員による犯行であると結論づける。

 【問題】文太は丸茂に代わって探偵役を買って出る。そして、皆が口々に言っていた「パスワードはかけてない」という鞠子の言葉から、鞠子の携帯電話のパスワードが「かけてない」であることに気が付く文太。三郎はロックが解除された鞠子の携帯電話の画面を見て、鞠子の背中に刺さっていたナイフの柄にあった紋様をどこで見たのかを思い出したのであった。

 【スタジオ】13人目の解答者、野球のホームベースのような顔をした十三十三(とみじゅうぞう)は、丸茂犯人説を唱える。二谷も丸茂犯人説であったが、あちらは丸茂=女性説で、こちらは丸茂=男性説のため別解答とみなされた。丸茂は冷たくなっていたとは書いてあったが死んでいたとは書かれていないことから、彼の死は狂言であり、文太とヒデを騙して協力させているのだと言う。しかも、三郎は両刀使いで、丸茂はゲイだというトンデモ説まで飛び出す。

 【問題】再び白髯橋の様子を見に行った三郎が何者かに絞殺されていた。そしてヒデと英が同一人物で、男性に間違いないことも確認される。

 【スタジオ】最後の解答者、十四日(とよか)定吉は、鞠子犯人説を唱えた。秋山鞠子ではなく、最初に殺されたと思われた鞠子である。毎年恒例の犯人当ての推理合戦を行うにあたり、今回の出題者となっていた鞠子が、三郎と丸茂を仲間に引き入れて狂言自殺をはかったというものだ。そこへ、とっくの昔に臓器移植の執刀部隊に殺害されていたと思われていた不正解の解答者達がぞろぞろと現れて樺山を驚かす。彼らは、この番組で不正が行われているというタレコミによって送り込まれた警察の特殊法規捜査チームのメンバーだったのである。樺山は3億のギャラで毎年シナリオ制作を担当し、解答者の数より1つ多い正解を用意し、解答者が正解を答えるたびにそれを不正解とするストーリーに分岐させていくという方法で、これまでこの番組で誰も正解者を出してこなかったのであった。今回も真犯人は鞠子の障がいを持った息子の平三郎(へいざぶろう)だったという最後のオチが用意されていた。樺山は関係者全員を道連れに毒ガス自殺をはかろうとするが、モンテレオーネ怜華のとっさの機転によって取り押さえられ、めでたしめでたしとなるのであった。
 
 よくぞここまで作り込んだと筆者には拍手を送りたい。あらすじにはとても書ききれないくらい「バカミス」要素が満載なのだが、ここまで緻密に作り込んであると許せてしまうから不思議だ。これがなぜ6位なのか非常に疑問。普通にミステリー作品として見ても、もう少し上でも良いように思うが、「このミス」基準で言えば、このぶっ飛び方は1位でも決しておかしくないと思う。この年度の
ベスト20の作品を読むのはこれで8作目だが、唯一★★★を与えたい作品である。

 

『その可能性はすでに考えた』(井上真偽/講談社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)14位作品。カバーの袖に記された「謎が真に解けないことを証明しようとする探偵が主人公」という著者のコメントにまず「?」。次に現れる「村の概略図」には「教祖」とか「ギロチン台」といった不穏な文字が躍る。さて、どのような物語が展開されているのか?

 主人公の上苙丞(うえおろじょう)は、腕利きだが色々と裏に込み入った条を持つ事情を持つ探偵である。殺人もいとわない裏稼業を生業にしているヤオ・フーリンから1億4231万円も借金をしているにもかかわらず、くだらない装置の購入に250万円も費やした彼は、また彼女に借金を申し込み彼女を呆れさせる。フーリンは彼が他からもしている莫大な借金を自分に一本化してやるが、そんな借金まみれの彼が助手を雇おうとしていることを知り、さらには完全歩合制という悪辣な募集をしていることを知って驚きを隠せない。しかもそこに応募者らしき女性が現れたため、彼女は白目をむいた。しかし、現れた女性・渡良瀬莉世(わたらせりぜ)は単なる客、依頼人であった。その依頼とは、自分が殺人を犯したかもしれないので、真相を推理してほしいという奇想天外なものであった。

 話によると、莉世は幼い頃に母と共に、ある新興宗教に入信し、山奥の閉鎖された村で暮らしていたが、ある日に起こった地震を世界の終末の予兆だと感じた教祖が拝殿に集めた信者を次々に殺害、彼女も殺されそうになる。危機一髪でドウニという少年が彼女を助け出し、教祖と信者が集まっていた拝殿に外から閂をかけるが、村中が火の海であることに2人は驚く。煙の中で彼女は意識を失うが、村の外れの祠の中で彼女が意識を取り戻した時、彼女はすぐ近くに首の切断されたドウニの遺体を発見する。彼女が警察に発見されたのは2週間後。彼女は事件当日の記憶を失った状態で、ドウニの腐臭を避けるため、橋の下で生き残った家畜を処理しながらかろうじて生きているところを救助された。幼い彼女には動かすことのできない家畜処理用のギロチン台にドウニの血痕が残っていたが、それは祠から遠い場所に設置されていた。彼女とドウニを除いた教祖を含む31名の信者の遺体はすべて拝殿の中で発見されており、ドウニを殺害できたのは彼女以外考えられなかったが、彼女には動機も首を切断する手段もないように思われた。誰がドウニを殺したか、どうやって遺体を凶器と離したか、なぜドウニは殺されたのか。

 上苙は、ある理由により「この世には奇蹟が存在する」という妄執に取り憑かれている探偵であった。彼は依頼から3週間後、莉世を前に「あらゆる可能性をすべて否定できれば、それはもう人知を超えた現象である」と述べ、これは「奇蹟」であると断言する。しかし、そこへ上苙の因縁の相手で検察を引退した老人・大門が現れ、上苙を詐欺師であると厳しく責め立てる。大門は3日の時間をくれと言い、上苙に勝負を挑む。

 3日後、有名な古刹を対決の場に指定した大門は、上苙、フーリン、莉世を前に、用意してきた推論を述べる。大門は、莉世のドウニ殺害動機を、ドウニが彼女の可愛がっていた子豚を食料にしようとしたせいだと推理。さらに大門は、彼女は川が涸れて回らなくなった鉄製の水車を火であぶり、別の豚をその中で強制的に歩かせて水車を回し、その力でロープを用いてギロチンの刃を移動させたという推理を披露する。フーリンの反論にも完璧に対応する大門に、上苙の敗北は確実と思われた。しかし上苙は、事件当日、水車を回せる豚はすべて信者によって食べられており、1頭も生存していなかったことを証明し、大門はあっさりと負けを認めるのであった。

 「君は勝利したわけではない…このままこの不毛な道を突き進み続ければ、確実に君は…」と言いかけた大門を、「余計な情報漏洩はあまり気分が良くないです」と遮る謎の女性が現れフーリンを驚かせる。 その女性リーシーは上苙から報告書を奪い、返してほしくば自分との勝負を受けるように告げて去って行った。

 リーシーはフーリンの元仕事仲間で、何とか彼女を連れ戻そうと上苙を水槽に閉じ込め水攻めにして、フーリンに推理勝負を仕掛ける。 リーシーの考えたトレビュシェット(投石機)を使ったトリックを言い当てたフーリンであったが、そこに脱出不可能と思われた水槽を脱出してきた上苙が現れリーシーは驚愕する。彼は超高出力レーザーポインターと超高硬度タクティカルペンを使ってアクリル板に穴を空けたのだった。そんな上苙にすっかり感心したリーシーは、大門の推理以上に残酷な水車トレビュシェットトリック仮説を自信満々に披露するが、上苙は鏡が設置されていた祭壇が事件当時に破壊されていなかったことを証明することでリーシーを見事に敗北させる。

 次に現れたのは長軀の大男アレクセイと上苙の元弟子の小学生・八ツ星聯(やつほしれん)。八ツ星は人物入れ替わりトリック説で、毒に倒れた上苙の代わりのフーリンに勝負を挑む。八ツ星は、教団には現実の人間の遺体を御神体としていたという仮説を立て、教祖はその御神体を焼くことで自分の身代わりとし、ドウニの遺体と莉世ともに拝殿を脱出したという推理を披露する。そしてこの教団が大麻を栽培することによって収入を得ている犯罪者集団であったという説得力のある仮説も語られフーリンは負けを認めようとする。しかし、タクティカルペンを太ももに突き刺し覚醒した上苙は、八ツ星の説さえもすでに検討済みで可能性がないことを報告書に記されていることを示し、あたりは静まりかえる。

 そこで、莉世が自分は事件の当事者ではなくドウニの妹であることを告白する。そして、莉世、リーシー、大門らの黒幕が明らかに。その名はカヴァリエーレ枢機卿。彼はバチカンの奇蹟認定を行う列聖省の委員の1人であり、彼が、病気を治す奇蹟を起こしていた上苙の母の奇蹟を認定しなかったことで、彼女はペテン師に貶められることになったのだった。復讐を企てた上苙に、枢機卿はまずは奇蹟の存在を証明して見せろと告げる。このことがきっかけで奇蹟の存在証明に没頭するようになった上苙を快く思わない枢機卿がちょっかいを出してきたというのが、今回の推理合戦の真相であった。

 そして、兄が死に、代わりに奇蹟を主張して現在幸せな暮らしをしている女を許すことができない莉世は、枢機卿が用意した説を語り出す。大門の仮説の反論では「禊入り」は「最後の晩餐」の後に起こったことになっており、リーシーの仮説の反論では「最後の晩餐」は「配達」の後に起こったことになっており、八ツ星の仮説の反論では「配達」は「禊入り」の後に起こったことになっているという矛盾を指摘したのだ。

 再び敗北を覚悟したフーリンであったが、上苙は諦めない。教祖による洞門の爆破は、信者を閉じ込めようとしたものではなく、信者を逃がすために地震でふさがってしまったものを吹き飛ばそうとした可能性を指摘したのだ。集団自殺への参加は自由意思であり、教祖はドウニを殺すつもりはなく、教祖がドウニに「禊入り」の前に食料を渡していたとすれば、「配達」「最後の晩餐」「禊入り」という順序が成立し、時間矛盾は解消する。そしてついに枢機卿は自分の敗北を認め、上苙の母・聖女ルチア・ラブリオーラの列聖式を盛大にやりたいと莉世のスマートフォンを通じて申し入れてくる。

 【幕間】「首無し聖人」となったドウニが、ドウニの頭を抱いた少女を運んでいる。急いで死なないでと訴える少女にできるだけ付き合うさと答えるドウニであったが、少女はすでに眠っていた。

 無免許医の診療所のベッドの上で、上苙はフーリンに語る。自分こそ敗者なのだと。実は奇蹟を否定する仮説を彼は枢機卿とのやりとりの中で思いついてしまったのであった。「少女に生きる希望を持たせる」という目的でドウニは自分の首を切断することを教祖に依頼したという仮説である。フーリンは、上苙が「人間に奇蹟が不可能なことを証明したい」のではなく、「人間に奇蹟が可能なことを証明したい」のだと思い至る。その祈りは必ずどこかに通じると、そこに救いは存在すると、神はまだ人間を見限ってはいないと。治療費とベッド代は自分の借金に付けておいてくれという上苙に、フーリンは「それくらいは奢ってやるね」と口を滑らせるのであった。

 「幕間」を読んだ時には、そんなトンデモ話だったのかと呆れかけたが、きちんと納得できるオチが用意されていて安心した。正直登場人物の複雑な証明合戦には付いていくのがやっとという感じなのだが、前回読了した『ミステリー・アリーナ』に負けないくらい実によく作り込まれている。キャラもしっかり立っているのだが、欲を言えばもっと立たせてもいいのではないかと思う。上苙の変人ぶりとか、フーリンの残虐性とか。おそらく本作では一番の人気キャラであろうフーリンは、最初こそ残虐な悪人ぶりを印象づけているが、それ以降はすっかりただの「いい人」になってしまっているのがツンデレキャラとしては実に惜しい。また、リーシーはフーリンを超える残虐な女性犯罪者という位置づけなのに、インパクトがあるのは最初だけですぐに存在感が薄くなるし、大門も最初の対決相手とはいえ、あまりにもあっさり負けを認めてしまい印象が薄い。
 まとめると、著者の頭がキレるのはよく分かるが、登場人物の複雑な証明合戦は読んでいて正直ちょっと疲れる。そういうことに頭を使うのが大好きな読者にはオススメ。そこそこキャラの立っている登場人物達はなかなか魅力的なので、そういう意味でも一読の価値はあると言える。

 

『新しい十五匹のネズミのフライ』(島田荘司/新潮社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)18位作品。元ネタはコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズの有名な短編の1つ『赤毛組合』。元ネタとなっている『赤毛組合』の話も丸々第2章に収録されているので、まずそこから紹介しよう。一から話をまとめるのは面倒なので、 第2章のみウィキペディアに掲載されていたあらすじを元に短くまとめてみた。

 第2章「赤毛組合」…ある金曜(原作は土曜)の午後、ベーカー街221Bに一緒に住んでいる私立探偵のシャーロック・ホームズと医師のジョン・H・ワトソンのところに、燃えるような赤毛の男性、ジャベズ・ウイルソンが訪ねてきて奇妙な体験について語り出す(原作ではホームズのところにワトソンが訪ねてきた時にホームズがウイルソンの相談に乗っていた)。
 ウイルソンは質屋の店主で、「通常の半額の給料で構わない」と言って雇った彼の店のたった1人の店員スポールディングは、よく働くが、趣味の写真を現像するため暗室代わりにしている店の地下室へ頻繁に飛び込むのが欠点だという。2か月前、そのスポールディングがウイルソンに新聞広告を見せた。その内容は、「赤毛組合」に欠員が出たので組合員を1名募集するというものであった。「赤毛組合」は億万長者だった赤毛のアメリカ人が創ったもので、自身の遺産を同じく赤毛の人々に分け与えるための組織であるという。組合員は簡単な仕事をするだけで高額の給料が得られ、ロンドンに住む健康な赤毛の成人男性であれば誰でも応募できるらしい。スポールディングから応募を勧められたウィルスンは、指定された日時にスポールディングに案内されて赤毛組合の事務所へ赴いた。そこには審査を受けるため、大勢の赤毛の男たちが集まっていたが、彼らはことごとく審査で不合格にされていた。しかし、審査を行っていた赤毛の小男、ダンカン・ロスはウイルソンを一目で気に入り、新たな組合員として認めたのである。
 組合員の仕事というのは、毎日午前10時から午後2時までの4時間、事務所にこもって『ブリタニカ大百科事典』を書写するというものであった。彼は翌日から質屋の留守をスポールディングに任せ、独りきりの事務所で書写の仕事を行った。給料は毎週約束通りにロスから支払われ8週間が過ぎていった。ところが今朝、ウイルソンが事務所を訪れると、ドアには鍵が掛かっていて「赤毛組合は解散した」という張り紙が貼ってあった。驚いたウイルソンはロスを探したが事務所の家主は赤毛組合のことを知らず、事務所を借りたの別名の弁護士は引っ越したという。ウイルソンは引っ越し先を訪ねてみたが、そこにも手がかりはなかった。そこで、ホームズのもとへ相談に訪れたのである。
 ウィルスンの話に興味を持って依頼を引き受けることにしたホームズは、スポールディングの正体に心当たりがあるらしい。ウイルソンの質屋に向かったホームズは、質屋の前の敷石を数回ステッキで叩いてから質屋のドアをノックし、応対に出たスポールディングに道を尋ね、その場を立ち去る。ホームズはワトスンに向かって「彼はロンドン中で4番目に切れる男だ。大胆不敵さにかけてなら3番目になるかもしらんな」と評して、質屋の裏の大通りへ向かう。タバコ商、新聞店、銀行の支店、レストラン、馬車製造会社の倉庫などが並んでいることを確認したホームズは、「今夜は是非手を貸して欲しい」「軍用拳銃を持っておいてくれないか」とワトスンに依頼する。
 ワトソンが再度ベーカー街221Bに戻ると、そこにはホームズの他に、知り合いのピーター・ジョーンズ警部と、銀行の頭取のメリーウェザーがいた。ホームズは、この4人でジョン・クレイという犯罪者を捕まえるつもりらしい。クレイはジョーンズが以前から追っている重罪犯で、ホームズも1〜2度関わりを持ったことがあるという。4人は銀行の地下室へと入った。メリーウェザーによると、この地下室には増資のためのフランスの銀行からの借入金であるナポレオン金貨3万枚が保管されているという。4人は暗闇の中、黙ってクレイを待ち伏せ続けた。
 やがて地下室の敷石の一つが持ち上げられ、中からスポールディングを名乗っていたクレイと、相棒らしきサディと呼ばれる小男が姿を現す。何者かの気配に気が付いたクレイはサディを逃がそうとするが、逃げる先にはジョーンズの指示であらかじめ3人の警察官が配置されていた。そして、残ったクレイの拳銃をホームズは鞭で叩き落とし、クレイは逮捕される。メリーウェザーはクレイ一味の犯行を事前に阻止したホームズに感謝の言葉を述べるのであった。
 ベーカー街に戻ったホームズは、ワトソンに事件の種明かしを説明した。クレイがウイルソンの店の店員を希望し、赤毛組合なる架空の団体を創りウイルソンに百科事典の書写をさせていたのは、彼らがウイルソンの留守中に店の地下室からどこかへ続くトンネルを掘っていたからに違いないと推理したホームズは、質屋の前の敷石をステッキで叩いて音を聴き、トンネルが店の前ではなく後ろの方に伸びていることを確認し、さらに道を尋ねる振りをしながらクレイの膝を見て、彼のズボンがひどく汚れ擦り切れていたことから、彼が間違いなくトンネル掘りの作業をしていたことを確信したのである。そして、質屋の裏の大通りに銀行の支店があるのを見付け、ここがクレイの目標だと知ったのだった。ワトソンが「なぜ昨夜決行すると解ったのだ?」と質問すると、ホームズは次のように答えた。一味が赤毛組合の事務所を閉めたのは、トンネルが完成してウイルソンを外出させる必要がなくなったためであり、金貨が移動させられる前にできるだけ早く計画を実行する必要があった彼らは、金曜の夜に金貨を盗み出せば逃げるのに2日の余裕があることから、彼らは必ず金曜の今夜銀行に現れると確信したのだという。「素晴らしい推理だ」と絶賛するワトソンに対し、「ひまつぶしにはなったね」と言いながら、ホームズはあくびをするのであった。

 プロローグ…本作の冒頭に、プロローグとして質屋の店主ジャベズ・ウイルソンと銀行頭取のメリーウェザーが密談しているシーンがある。トンネルを用いた金貨の強奪は、元々メリーウェザーがウイルソンに持ちかけた計画だったというオリジナルストーリーだ。私が捕まってしまうとなかなか計画に賛同しないウイルソンに向かって、「監獄送りになってもきちんと助けてやる」と言うメリーウェザー。「どうやってです?」と尋ねるウイルソンに、メリーウェザーは「新しい15匹のネズミのフライだ。そいつを食わせてやるよ」と謎の言葉を告げる。そして15箱の金貨のうち3箱盗めば上等で、トンネルはあくまでもホームズを騙すために掘るのだとウイルソンを説得する。

 第1章「インドからの帰還、そして出逢い」…そして続く第1章では、ロンドン大学で医学博士号を取得し、軍病院で軍医となる研修を受けたワトソンがホームズと出会うまでが描かれる。インドの戦場で負傷し兵站病院へ送られたワトソンは、サディアス・ショルトーという奇妙なイギリス人と出会う。彼は部下のシーク兵に王族の召使いが隠そうとしている宝石類を奪うことを持ちかけられ、何とか奪うことに成功しアグラの砦の壁に隠したものの、召使い殺しが軍にばれて島流しにされたことを告白し、軍医のワトソンが救護部隊を作って一緒にアグラ砦に掘り出しに行こうと申し出る。ワトソンは曖昧な返事で断るが、翌日からの高熱でサディアスとも顔を合わせることはなくなり、本国に送還されることになる。自暴自棄な生活でホテル暮らしが困難になったワトソンは、偶然出会ったスタンフォードという知り合いから、シャーロック・ホームズという病院の化学実験室で働いている男が同居人を捜しているという話を聞く。そしてヘモグロビンに反応する試薬を作り出したことに大喜びしているホームズに興味を持ったワトソンは、彼との同居を決めるのであった。
 彼の推理学を世に定着させようという熱意には感心したが、麻薬中毒であった点にワトソンは悩まされる。我慢ができなくなった彼はホームズをたしなめようとするが、彼の記した『緋色の研究』という題の小冊子をホームズに批判され、彼はますます腹を立てるのであった。ワトソンは、彼の腕時計をホームズに手渡し、彼をテストしようとする。ホームズの推理は元の持ち主であった兄の堕落した生活を明らかにしたもので、それは正しい推理ではなかったが、それはまさにワトソンの生活そのものであり、死んだ兄の妻・ヴァイオレットに想いを寄せて苦しみ続けている自分のことを思い起こすことになり、ワトソンの心を深く沈ませる結果となった。そんな時に彼らを訪ねてきたのがウイルソンであり、そこから第2章「赤毛組合」の物語が始まるのである。

 第3章「狂った探偵」…赤毛組合の事件が解決してのち2日ほどは平穏な生活が続いたが、ホームズは悪臭が漂う化学実験に没頭するようになり、日に三度の薬物注射の習慣も復活してしまう。そして2日目の深夜、ホームズは家の中で大暴れし、ワトソンとハドソン夫人が取り押さえるも3人とも入院するはめに。最初に退院したハドソン夫人に付き添われベーカー街の下宿に戻ってきたワトソンを待っていたのはピーター・ジョーンズ警部であった。ホームズの名誉を守るため、事の真相とホームズの入院先を曖昧に答えるワトソン。ジョーンズ警部の話から、ワトソンのことを知っているらしいジョン・クレイの相棒ジャック・ジョンソンの正体がサディアス・ショルトーであるとワトソンは気が付く。そして、メリーウェザーから15箱の金貨のうち3箱の中身が石ころとすり替えられていたと報告があったこと、しかしジョン・クレイ、ダンカン・ロス、サディアス・ショルトーの悪党3人は捕まっているのだからいつでも金貨の隠し場所を聞き出せること、サディアス・ショルトーが「新しい15匹のネズミのフライ」という謎の言葉をつぶやいたことをジョーンズ警部から聞かされるが、謎の言葉の意味は、ワトソンにもさっぱり分からなかった。

 第4章「這う人」…「スイフト・マガジン」編集者のサミュエル・ディッシャーから原稿の催促を厳しく迫られたワトソンは、やむなく暴れ狂うホームズをモチーフにした「這う人」という小説を書き上げる。しかし、若返りのためにコノハ猿の血清を注射し極端に前かがみの猿ふうの歩行をするようになった老教授の異変に気が付いた娘の婚約者がホームズを訪ねてくるというストーリーのこの作品をディッシャーは酷評し、ワトソンは深く落ち込む。
 拳銃自殺をすることを決めたワトソンであったが、つい眠り込んでしまって見た夢の中で「ぼくは君でないと駄目なんだよワトソン、ほかの誰でもなく」とホームズに語りかけられたワトソンは、目が覚めた後にホームズの入院している病院の院長からの、ホームズが会いたがってるという手紙を読んで涙を流す。
 駆け付けたワトソンを待っていたホームズは予想以上に元気でワトソンは喜ぶが、夜になって「まだらの紐だ」「蛇だ、まだら模様の毒蛇だ」と、病院でも薬物注射を続けたせいで幻覚を見て大騒ぎするホームズにすっかり失望してしまう。

 第5章「愛する人のために」…ヴァイオレットとその父親からの手紙で、ヴァイオレットがアンソニー・バウチャーという資産家と交際を始めたこと、そしてその人物が奴隷虐待の嗜好を持っていること、しかも彼には犯罪者の仲間が複数いることを知ったワトソンは、バウチャーと接触しているその犯罪者集団に、サディアス・ショルトー、ダンカン・ロス、ジョン・クレイの影を感じ取り、ヴァイオレットの実家のあるダートムアに向かう。そこでヴァイオレットと共に彼女の両親も攫われたことを知ったワトソンは、バウチャーの屋敷へ駆けつけるが、そこではジョン・クレイとヴァイオレットの父との銃による決闘が行われていた。ワトソンは、誰にも気が付かれずに劣勢なヴァイオレットの父に加勢し、ジョン・クレイを倒す。
 そして、屋敷の中を覗いたワトソンは、バウチャーの正体がメリーウェザーであり、ジャベズ・ウイルソンもグルであったことを知る。ダンカンとサディアスがメリーウェザーと仲間割れしてメリーウェザーの屋敷に火を放ち、危機に陥ったサイロ塔に閉じ込められているヴァイオレットを奴隷のジョーと協力して救い出したワトソンであったが、助け出したばかりのヴァイオレットはサディアスに捕まってしまう。
 ピーター・ジョーンズ警部率いるロンドン警視庁が現場に駆けつけたものの、ヴァイオレットを人質にしたサディアスとダンカンはあっさりと逃亡してしまう。メリーウェザーとジャベズの逮捕とヴァイオレットの両親の救出をジョーンズ警部に任せ、ワトソンは単独でサディアス達を追う。何とか追いついたワトソンはヴァイオレットを襲おうとしていたダンカンを倒すが、サディアスに銃を突きつけられまたしてもピンチに陥る。しかし、やっと追いついた警官隊に取り囲まれサディアスは今度こそ観念する。

 第6章「プリンスタウン」…再びプリンスタウンの刑務所に収監されることになったサディアス。しかし、そこを脱獄する方法を知っている彼を収監することに納得の行かないワトソン。そこへ、ホームズがプリンスタウンにやって来るという知らせが飛び込みワトソンは仰天する。
 やってきたホームズは15匹のネズミを捕獲するよう指示を出し、大騒ぎしながらも刑務官と囚人が協力して指示通りの捕獲を行う。さらにホームズはそのネズミをフライにして、指定した場所に吊すよう命じる。もちろん誰も食べようとする者はいなかったが、サディアスと、後から収監されたダンカンが、なぜかネズミを吊した網を元の場所から移動させる様子を興味深く見守るホームズ。
 不安を感じつつもホームズの策に期待するワトソンとジョーンズ警部であったが、二晩目の夜半にまたしてもホームズが錯乱、翌朝麻薬成分の入ったハーブティを飲んだせいでさらに症状が悪化したホームズを見て、ワトソンとジョーンズ警部は完全に失望する。
 その夜、ホームズを病院送りにしてプリンスタウンから引き上げようとする2人であったが、ワトソンはホームズが言っていた刑務所の北側の2本のブナの木と、かつらの話が気になり、その場所に馬車をとめ、ホームズの持っていたかつらをかぶってみたところ、なんとその馬車の中に脱獄してきたばかりのサディアスとダンカンが飛び込んできて緊急逮捕となった。彼らはまんまとホームズの仕掛けた罠に掛かったのである。
 「新しい15匹のネズミのフライ(New 15 Fried Rats)」とは「NorthEast Wall 15 from the Right」を表す暗号で、「北東の壁の右から15番目の石から壁を登ることができる」という意味であり、そこには確かに僅かに目立たないように盛り上がった石が埋め込まれていて、壁の上まで登れるようになっていたのだ。ホームズはそれに気が付いてその場所にネズミのフライを吊したのだが、その秘密の登り口を誰かに知られたくなくて、サディアス達は慌ててネズミのフライを移動させたのであった。そしてホームズは、ジャベスからの脱獄を促す偽の手紙をサディアスに届くように用意していたのだ。

 「エピローグ」…ベーカー街へ戻ってきたワトソンとホームズであったが、そこにはワトソンの新作原稿を催促すべくディッシャーが待ち構えていた。ホームズの幻覚、妄想をモチーフにした『まだらの紐』を強引に書き上げたワトソンであったが、それがまさかの大ヒットで、ワトソンは困惑する。さらにそこにヴァイオレットからの衝撃的な手紙が届く。自分の娘が死んだ夫の弟と再婚を望んでいることを、彼女の母が命を絶とうとするほど毛嫌いしていることを知ったヴァイオレットは修道院に入ることにしたという、ワトソンに別れを告げる手紙であった。放心したワトソンは手紙に火を付け、命懸けの成果が灰になっていくのを空しく見つめるのだった。

 第2章までは親しみのある内容でもあり、すらすら楽しく読めるのであるが第3章はさすがにいただけない。いきなり深夜に発狂するホームズ。それを取り押さえようと悪戦苦闘するワトソン。この延々と続くワトソンとホームズの格闘シーンが何の面白みもなく、ただただくだらない。第4章のワトソンの新作ストーリーもしかり (これは意図的に駄作として描かれているのではあるが)。第5章のワトソンによるヴァイオレットの救出劇もあまりにベタすぎで、そのしつこいほどの繰り返しに閉口。第6章では、そこまでホームズを貶めていいのかと読んでいて苦痛さえ感じたが、何とか最後にはホームズらしいオチで事件は無事解決し一安心。しかし、ラストまでさんざん引っぱった本編の一番の謎の言葉「新しい15匹のネズミのフライ(New 15 Fried Rats)」の意味が「NorthEast Wall 15 from the Right」だったというのは、あまりにも無理がありすぎではないか。アグラの砦の宝物の話も中途半端で終わってしまった。結局、本編に散りばめられたホームズの失態の数々は、すべてワトソンの作品のネタにするために配置されたものであり、ホームズシリーズの代表作の1つ『まだらの紐』の誕生エピソードとして面白く読める人もいるではあろうが、それにしてもホームズの扱いが酷すぎ。ホームズシリーズを全く知らない人には結構苦痛な作品に思われるし、本来著者が狙ったはずのホームズシリーズファンにしても、ニヤリとするより眉をひそめる回数の方がはるかに多い作品ではなかろうか。あとがきとあわせて読むと著者の狙いはよく分かるが、ホームズシリーズに泥を塗ったとまでは言わないまでも、絶賛できる内容とは言えない。

 

『神の値段』(一色さゆり/宝島社)【ネタバレ注意】★★★

  「このミス大賞」2015年(第14回)大賞受賞作品。久々の美術ミステリーの登場である。

 現代美術家の川田無名は、墨を用いたアートで絶大な人気を誇っているが、メディアはもちろん美術関係者の前にすら姿を見せず、すでに死んでいるのではないかと噂されるほどの謎の人物であった。唯一、ギャラリーを経営する永井唯子を通じて少ないながらも作品を発表し続けており、唯子のギャラリーは無名の作品のみを扱っていた。ゲイでもある新人の松井と共に唯子のギャラリーにアシスタントとして3年間勤めていた田中佐和子は、薄給とハードワークに苦しみながらも威圧的な唯子には強く訴えることができないでいた。そんなある日、ギャラリーに無名が1959年に制作した大作が届く。ニューヨークで無名が旋風を巻き起こす前年の作品で、十数年前のオークションでは同じような条件の作品が6億円で落札されたこともあり、無名がメジャーになった今ならこの作品はその何倍もの価格が付く可能性があった。その作品に興味津々の佐和子と松井であったが、唯子はこの作品がここにあることは一切口外しないようきつく2人に命じる。
 ある高層ビルで行われた美術館のオープニングパーティに唯子と共に参加した佐和子は、唯子のギャラリーとは逆で経営難に陥っていると噂されるギャラリーの経営者真里子、なじみのコレクターの香月夫妻、シンガポール在住のチョウ夫妻、そして唯子の夫でファイナンシャルアドバイザーをしている佐伯章介らと顔を合わせる。気分が悪いから帰るという唯子は、別れ際、佐和子に誕生日プレゼントにネックレスを渡し、佐和子は考えていた転職を思いとどまるのであった。
 翌朝、アトリエを統括するディレクターの土門正男からの電話で駆け付けた病院で唯子の死を知らされ取り乱す佐和子。唯子は品川の倉庫で何者かに首を絞められ倒れていたところを発見され、病院で息を引き取ったらしい。アトリエに集められたスタッフに、土門から今後佐伯がギャラリーを相続すること同時に佐和子がとりあえず唯子の仕事を引き継ぐことが告げられ佐和子は驚く。そして、師戸をはじめとする4人の制作担当の職人達の、土門や佐和子に対する対応があまりに冷たいことに、佐和子はいぶかしさを感じずにはいられなかった。佐和子は松井に誘われて訪れた倉庫で、警察に依頼されて作品の在庫チェックをするが、増えているものも減っているものもなかったものの、なぜか作品の配置が変わっていた。
 ギャラリーに戻った佐和子は、丸橋警部補から事情聴取を受けるが、業界のことを理解できそうにない警察の聴取の後、すっかり消耗していた。ニューヨークの有名ギャラリストで、唯子と共に無名の作品を売り出していたジョシュアとアシスタントのカレンがやって来たが、ジョシュアは1959年の作品のことを知っていた。その作品の売り込みを佐和子に持ちかけるジョシュアであったが佐和子は断る。しかし、ギャラリーのバックヤードに置いたままのその作品のセキュリティと警備についてジョシュアに警告され不安になる佐和子。そして、ギャラリーの給湯室で覚えのない使用済みのコーヒーカップを発見した佐和子は恐怖を感じる。
 1959年の作品の存在の噂が広がりギャラリーには問い合わせが殺到する。佐伯は唯子と付き合いの長い上海のコレクター、ワン・ラディを優先することに決めていたが、やってきたラディの代理人の一団のディスカウント攻勢に佐和子は何もできないまま佐伯は一旦引き取ってもらうのであった。その後、唯子の行きつけのイタリアンで唯子が土門と言い争っていたことを知る佐和子と佐伯。そして、佐伯は土門に隠れて折り入って話をしたいと言ってきたベテラン職人の師戸と会う時に、佐和子に同席してほしいと声を掛ける。アトリエ内で土門と職人達がなぜ対立していたのか、またなぜギャラリーの佐和子達にまで職人達が反友好的なのか知りたかった佐和子は渋々了承する。
 アトリエを訪れると、無名らしき人物が2階で作品を制作している気配がする。しかし、それは1人きりで幻の無名と話しながら作品を制作する土門の姿だった。錯乱した土門は「無名はすでに死んだ」「唯子を殺したのは自分ではない」と言ってパニックになり階段から落ちて病院に運ばれる。師戸によれば毎月20日に無名から送られてくるメールの指示に従ってアトリエの職人によって作品が制作され、その画像を返信すると、次の月のメールでその作品の合否と、否でなかった場合の行き先が指定されるのだそうだ。そして、毎月25日に品川の倉庫で合格した作品にサインを入れるため無名が現れ、唯子が立ち会っていたらしいことが明らかになり、佐伯は無名こそ唯子殺害の犯人と考えるが、佐和子には動機が思いつかない。
 無名からのメールの中に「DREM A」という唯一師戸が理解できない暗号があったのだが、佐和子は「DREM」が1959年の作品を指すことを突き止め、「A」はオークションへの出品指示を指すものであると考える。香港でのオークションへの出品の手はずを整え、再び手付け金を持ってやって来たラディの代理人一団を何とか追い返した佐伯と佐和子であった。
 佐和子は美術館長でもある父から紹介された、昔から無名のことを知る弁護士の唐木田に会う。彼は無名が生きているとは考えていないようで、佐和子は彼から「されど死ぬのはいつも他人」という無名の口癖を教えられ、無名の残した写真やコピーのファイルを預かる。そこには「私は神になりたい」「永遠の芸術を作り出したい」「信仰を叶えるために私は姿を見せてはならない」といった言葉が残されていた。その後丸橋警部の部下の金谷と偶然出会った佐和子は、本部が捜査を打ち切ろうとしていることに納得が行かないという不満を打ち明けられ、美術品取引の裏に政治や経済のトップがかかわっている可能性があること、警察の力を持ってしても無名の行方がつかめないことを告げられる。
 香港に渡った佐和子は、トラブル続きのアートフェスを何とか乗り切り、そこでラディに食事に誘われ、無名との出逢いについての話を聞かされる。また、1959年の作品は自分が落札すると言ってくれたラディに安心するが、それと同時にアートはゲームであり、それをコントロールするのはアーティストでもなくキュレーターでもなくコレクターでもなく「組織」であるという話を聞き、そこに犯罪の匂いを感じた彼女は恐怖を覚える。
 佐和子はオークションのプレビュー会場に飾られた1959年の作品を見て、それが「花鳥画」であることを確信する。そしてついにオークションがスタート。次々に様々なアーティストの名作が落札されていく中、最後に1959年の作品が登場する。10億ドルまで価格が上がったところでラディが参戦し、韓国のマダムとの一騎打ちに。ラディが17億ドルで勝利したかと思われたその時、新たな入札者が現れる。何者かの代理人と思われる電話を手にした男は一歩も引くことなく、ついに27億ドルというアジアのオークション市場最高額の記録で落札してしまう。結局落札者の正体は不明であったが、「組織」の非合法な金によって落札されたのではないかと心配する佐和子。
 唯子の死によってギャラリーは閉廊され、残された無名の作品は全てジョシュアのギャラリーに一任されることになる。唯子の墓参りに訪れた佐和子は、墓地の管理人から「されど死ぬのはいつも他人」という言葉をつぶやくホームレスのような男が唯子の墓に花を供えていったことを聞き、無名の生存を確信する。そして、何者かによって落札されたはずの1959年の作品がギャラリーに送られてきたこと、自分宛に送られてきたCD-Rの内容によって、彼女は全ての真相に思い至る。
 東京のマンションを引き払って海外に旅立とうとする佐伯の前に立ちふさがった佐和子は、佐伯こそ唯子殺害の犯人であると指摘する。無名が佐和子に送りつけたCD-Rには佐伯がラディと結託して不正な金融取引を行っていた証拠が残されていた。それを調べ上げたのは唯子であり、正義感の強い彼女は佐伯を責め、彼の悪事を公開しようとしていた。ラディに泣きつくが彼にも見捨てられた佐伯は、唯子と無名が1959年の作品をマーケットに流して大勝負に出ようとしていることを知り、唯子を殺して1959年の作品を手に入れ、ラディに売ることで彼のご機嫌を取ることを思いついたのだった。
 唯子の殺害現場に残されていた無名の新作に入れられていた無名のサインはすべて佐伯の手によるものであることが筆跡鑑定で明らかになるが、事件後に佐和子が梱包し直した1点を除き、佐和子と一緒に佐伯が梱包し直した1点と、手をつけなかった残り5点の梱包の仕方が一致したことで、犯行当日サインを入れるために7つの梱包をし直したのが佐伯であることに佐和子が気が付いたのがきっかけであった。
 唯子と無名は、無名の大作を出品し自ら落札するという計画のために莫大な資金が必要だったため、佐和子達従業員の給料も異様に少なかったのである。無名はこれからの若い作家達のために、アートを世の中にもっと認知させマーケットの裾野を広げようと、大きな賭に挑んだのだ。金谷らに連行される佐伯を見送る佐和子のアイフォンが振動し電話に出ると相手は一言つぶやいた。「作品を大事にしてくれ」と…。

 本作品は、「このミス大賞」に」応募された時は突っ込みどころ満載だったらしい。巻末の選評を読むと、なるほど、無名のDNA試料が見つからないというくだりや、金谷の単独での登場シーンなどは後から付け足したのだろうという印象を受ける。しかし、それらの修正が十分に入っているおかげで、世に出た本作は美術ミステリーとして高い完成度を誇っていると思う。大好きな原田マハの『楽園のカンヴァス』ほどの圧倒的な密度には及ばないが、『ダヴィンチ・コード』や『写楽 閉じた国の幻』などの過去話題になった美術ミステリーに負けない魅力がある。個人的には、本筋からはずれるが、アートフェアのシーンで佐和子が苦労して作品達を絶妙な配置に収めたことで、その作品達が発光して見えたというシーンが特に印象的であった。今の仕事に疑問を抱きながらも唯子のために懸命に働く佐和子はもちろん、序盤で圧倒的な存在感を示す唯子、ミステリアスな謎の芸術家の無名、野心を抱きながらも表面上は誠実で紳士的な佐伯などのキャラ作りは見事。丸橋、金谷、真里子、唐木田などはもう少し出番があっても良かったのではと惜しまれる。
 あえて突っ込みどころを挙げると、まず1つ目は、オークションの売り上げは作家には1円も入らないと繰り返し述べられているが、作家のプライベートコレクションなら関係ないのではという点。1959年の作品は例外中の例外かも知れないが、仮に無名ではなく唯子の所有物だったとして、唯子の死により佐伯が相続したのであれば、オークションで値が吊り上がっていく様子に佐伯がもう少し興奮しても良いのではと違和感を感じた。真犯人を読者の目からそらそうとした結果か。2つ目に、佐伯の犯行の証拠が、佐伯が偽装したサインと梱包の結び目だったというのは、あまりにもお粗末。3つ目に、最後に突然登場するCD-Rに全ての真相が記されていたというのもアンフェアな印象。それまでの犯罪の証拠を補完する程度のものなら良いが、それ以上のウエイトがあるように思う。4つ目は、無名のラストのセリフが今一つなこと。もっと締めにふさわしい名言がなかったのか。5つ目は、本当に些細なことだが、探偵役の佐和子と犯人の佐伯の名前の漢字がかぶってしまっていること。
 重箱の隅をつつくようなクレームばかりで申し訳ないが、全体としては文句なしのオススメ度★★★。本作と同時に大賞を受賞した『ブラック・ヴィーナス』を本作と読み比べるのが今から楽しみである。

 

『片桐大三郎とXYZの悲劇』(倉知淳/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)7位作品。

 冬の章…主人公、野々瀬乃枝(ののせのえ)は、有名芸能プロダクション「片桐プロモーション」に入社して1年たったばかりの若手社員。彼女は、5つほど年上の先輩、三橋銀子に憧れている。乃枝の仕事は、元時代劇の大スターで現在は聴力を失ったことで役者を引退し社長業に専念している片桐大三郎の耳となることであった。常にノートパソコンを持ち歩き、大三郎への言葉を入力して彼の持つタブレットへ転送することによって会話を助けるのである。銀子は乃枝の前任者でもあった。その大三郎には社長業とは別にもう1つの顔があった。それは、警察が抱えている難事件の捜査に協力するという趣味であった。
 ある日、警視庁特殊捜査係の河原崎警部とイケメンの部下の野末が事務所にやってくると、捜査が楽しみな大三郎は上機嫌となったが、河原崎の口から、今回の事件には乃枝がかかわっているという話が出て乃枝は驚く。5日前に乃枝が満員電車を降りた時に目の前で倒れた男性がいたのだが、それが毒物注射による殺人事件だったのだ。この犯行が被害者の長道直也個人を狙ったものではなく、通り魔的な無差別殺人だった場合、誰も電車に乗らなくなり日本経済が麻痺してしまうと言う理由で事件は世間に伏せられていた。
 さっそく乃枝を引き連れて被害者の勤務先と自宅に押しかける大三郎。全く収穫がなかったため今度は満員電車に乗ると言い出した大三郎を何とか説得して、乃枝がカメラを持って被害者と同じルートで電車に乗り込む。そのビデオを見た大三郎は事件の真相が分かったと、河原崎と野末を呼びつける。まず乃枝を実験材料にして、注射痕の矛盾点を指摘する大三郎。吊革を握っていたら、コートは上にずり上がるはずで、コートと上着とシャツの同じ位置に注射痕があるのはおかしいというのである。つまり被害者は電車に乗る前に注射されたのだと結論づける。毒物のニコチンは効き目に個人差があるのである。結局、注射された時に被害者が振り返った場合、知り合いならば被害者に気が付かれる恐れがあるということで、奥さんの関係者ではないかと大三郎は推理し、実際に奥さんの通うスポーツジムのインストラクターが奥さんと共謀して保険金目的に殺害したことが判明する。大三郎は、その薄っぺらい筋書きにつまらなさそうにするのであった。

 よくもまあ、探偵役のネタはつきないものだとまずは感心。表紙のイラストで、大三郎のイメージはすぐにつかめるが、乃枝はどう見ても男性に見える。とびらのイラストを見ると分かるが、乃枝のイラストの原画ではスカートを履いているのに、表紙ではその下半身が大三郎に隠されてしまって見えないのだ。これは装丁者の レイアウトミスだろう。
 さて、この章を読み始めてまず気になるのは、毒殺事件を隠す警察の判断。これって第2の事件が起こった時に警察が批判を浴びて大問題になるような気がするのだが?
 次に気になるのは、大三郎の被害者殺害のタイミングについての推理。「実験結果からコートを着たまま注射されたことはあり得ない、被害者が電車に乗る前にコートを脱いでいた時注射されていたのであり、コートの注射痕は偽装だ」という主張はおかしくないか。吊革を握っていない時にコートを着た状態で注射されたという方が余程自然だと思うのだが。そのあたりの説明を大三郎は長々としているが、どうにも納得のできない論理なのである。しかも、真相は大三郎が認めているようにあまりに陳腐なもので、この態度がこの作品自体を陳腐なものに貶めているようで後味が良くない。シリーズ短編集の1発目の作品としては今一つなのではなかろうか。

 春の章…日本画家の秦洋次が自宅の物置部屋で車椅子に乗ったまま撲殺された状態で発見される。現場には凶器になりそうなものが多数あったのに、実際に使われたのは破壊力がなさそうなウクレレ。なぜ犯人はウクレレを使ったのか。外部からの侵入者がいないため犯人は身内にいると考えられたが一体誰が犯人なのか。困った河原崎と野末がいつものように大三郎からアドバイスを得るために訪ねてくるが、大三郎は被害者の屋敷を訪れ、関係者の事情聴取をしただけで犯人を言い当てる。
 犯人はお手伝いさんの久川里美であった。秦は物置部屋で見つけたウクレレにインスピレーションを得て、アトリエでその絵を描こうと、実は怪我が治っていた自分の足で歩いてアトリエに向かう。そこで出会った久川にウクレレを持たせてモデルにしようとした挙げ句、良からぬ行為に及ぼうとした秦を久川が殴り殺してしまったのだ。久川は小柄な秦を背負って物置部屋に運び、乗り捨てられていた車椅子に乗せ、壊れたウクレレも放置したのであった。

 前作同様に、大三郎がこれまでの芸能生活のエピソードの1つをまず語り、それに重ねた事件の種明かしをするというスタイルは面白い。しかし、前作以上に事件の真相が陳腐。障がいがあると思われた人に実はそんな障がいはなかったという話は、小説の世界のみならず現実にも溢れている話である。さらにウクレレが凶器に選ばれた理由の大前提が、被害者がたまたまその絵を描きたかったから、などというのは一体読者の誰が納得するのか。加害者の女性が被害者の男性を背負って運んだというのは、もうトリックですらない。これは駄作。

 夏の章…退屈を極めていた大三郎は、なんと河原崎警部のスマートフォンに内緒でGPSのトラッキングアプリをいつの間にかダウンロードしており、河原崎のいるであろう事件現場に乃枝を連れて押しかける。市長選真っ最中の鶴木市の目的地にたどり着くと、そこは貴島という裕福な若い会社経営者夫婦の豪邸で、ベビーシッターが殺害され乳児が誘拐されるという事件が起こっていた。犯人から身代金を持った貴島の妻(実際には女性警官)をあちこちに誘導する電話が貴島宅に入るが、なぜか3度に渡ってその受け渡しを指示する電話が途中で切れる。そして次の指示の電話が掛かってきた時、大三郎は予想外の行動に出る。いきなり受話器を奪うと、相手を田中と呼び自首するように叫んだのである。周囲は呆然とし、責任者の時枝警部が激怒するが、大三郎は夫婦に慰めの言葉を掛けると悠然と去っていく。そこへ田中光男と名乗る犯人が自首してきたという報告が。
 大三郎は、犯人の真の目的はベビーシッターの殺害であり、乳児は凶器として使われ、すでに死亡していると判断。犯人からの電話が何度も突然切れたのは、犯人と同姓の立候補者が自分と同じ名を叫ぶ選挙カーが近づいてきたため思わず切ってしまったと判断したのであった。

 今回はさすがに大三郎はやりすぎ。トラッキングアプリのダウンロードも誘拐被害者宅への押しかけもしゃれになっていない。犯人の名前が田中ではないかという推理も、犯人の真の狙いはベビーシッターの方で、使われた凶器は乳児ではないかという推理も、あまりに根拠が弱すぎ論理的ではない。春の章同様に、かなり苦しい作品。

 秋の章…映画での町興しを企画した品川区の区民文化新興会館で、大三郎が今は亡き偉大な名映画監督・小御角勲監督についての講演を行うことになる。開演直前にそこへ持ち込まれたのは、小御角研究家が発見した小御角の未発表シナリオ。大三郎をはじめ、居合わせた関係者が目を通し終えたところで開演時間が迫ってきたので、シナリオは古い鍵付きのキャビネットの中にとりあえず仕舞われることになったが、それがその後の僅かな時間で消えてしまう。語り手は、講演中の大三郎に代わって事件の真相を推理する。そして、シナリオの内容が駄作だと判断した犯人は、小御角監督の名に傷を付けまいとそれを処分することを決意し、キャビネット横のみかん大の穴から掃除機でそれを吸い出したと考えた。そして、犯人は公園前に流されたアナウンスにも灰皿が落ちて割れたことに気付いた様子もないことから、耳の聞こえない人物であると断言する。ここで読者は当然のように「乃枝が大三郎を犯人だと指摘した」と思い込むのだが、講演を終えた大三郎は「耳の聞こえない犯人など存在せず、そもそも前提が間違っている」と彼女の推理を一蹴する。実はこれは叙述トリックで、乃枝と思われていた女性は銀子であった。つまりこのエピソードは乃枝が就職する前の、しかも大三郎の耳が聞こえていた頃の話だったのだ。シナリオは単に大三郎が用心のため懐に入れて持ち歩いていただけであったのだ。

 章段の名称からしても、読者はこれが前段よりも過去の話だとは思わない。相当にアンフェアな叙述トリックものである。そもそもキャビネットに仕舞ったと思われたシナリオは、大三郎がキャビネットに仕舞うと見せかけて他の人に見えないようこっそりと懐に隠していたなんていうオチはあまりにも粗雑である。大三郎の講演内容などは面白いが、メイントリックがお粗末すぎて閉口。

 結局この作品について言えることは、設定やキャラクター自体は非常に面白く良くできているのに、それ以外のストーリーやトリックなどがあまりにも残念だということ。タイトルの「XYZの悲劇」の意味もよく分からない。大三郎と乃枝のキャラがここまで立っていなかったら、★1つレベルの作品。ちょっと変わった軽めのミステリを読んでみたいという人にならともかく、ちゃんとした推理を楽しむ本格ミステリを味わいたいという人にはオススメできない。

 

『ブラック・ヴィーナス 投資の女神』(城山真一/宝島社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス大賞」2015年(第14回)大賞受賞作品。先日読了したばかりの『神の値段』と審査員の意見が二分されて、結局両者とも大賞を受賞することになった本作であるが、読み始めてすぐに違和感が。依頼者の最も大切なものと引き替えに、依頼者が必要とする大金を株取引によって確実に用意することのできる黒女神と呼ばれる都市伝説化した女性を描いた物語なのだが、その大枠に全くリアリティがないことは置いておくとしても、株取引の魅力が伝わってくるわけでもなく、何より物語自体があまり面白くない。
 とらえどころのない黒女神こと二礼茜は確かにミステリアスな存在だが特に魅力を感じない。謎な部分を用意すれば魅力が出るわけではないだろう。なりゆきで彼女の助手をすることになった冴えない男、百瀬良太のキャラもぱっとしない。どのキャラも言動がぎこちなく、深みを感じない。特にセリフの1つ1つは稚拙にすら感じる。なぜこれが『神の値段』と大賞を争ったのか不思議である。
 かの手塚治虫の名作『ブラックジャック』に関する記述が各所に登場し、本作のモチーフになっているのが一目瞭然なのだが、『ブラックジャック』ほどのギリギリ感がないのも大きな問題点の1つだろう。『ブラックジャック』は人の命と大金を天秤に掛けることで命の尊さを問う作品なわけだが、本作の主人公が要求する報酬が微妙すぎて緊張感に欠けるのだ。その程度の報酬で目もくらむような大金を確実に用意してもらえるなら、誰も迷うことなく依頼者殺到だろうという感じなのである。主人公がもの凄く冷酷に依頼者に対応し、最後の最後で人情を見せるというパターンが徹底していれば感動も得られそうなものだが、そのギャップの幅が小さすぎる。10年ほど前に『女王の教室』という、とんでもなく冷酷非道と思われた女教師が実は誰よりも生徒想いの理想の先生だったという天海祐希主演のドラマがあったが、あれくらいのギャップを見せないと駄目だろう。

 序章…百瀬良太は、理想とかけ離れていた銀行員を辞め、石川県庁の組織の1つ、いしかわ金融調査部で臨時公務員として金融関係の苦情相談員となっていた。そんなある日、繊維会社社長を務める兄の正弘から、経営の行き詰まった会社を建て直すため、都市伝説となっている黒女神に助けを求めることになったので交渉の場に同席してほしいと頼まれる。黒女神こと二礼茜は、工場にある織機15台すべてを報酬に、正弘が必要とする3,500万円を用意することを約束、さらに株取引の種銭として別に300万円を要求する。旧式でほぼ価値がないとはいえ会社の命とも言える織機を奪われる上に、種銭まで要求されたことで良太は詐欺を疑うが、正弘はその提案を飲む。結局茜の買った正弘名義の株は4,000万円にもなり、詐欺でなかったことが証明される。価値のない織機だけが報酬では申し訳ないという正弘に対し、茜は良太を助手としてもらいうけることを提案するのであった。

 前述したように価値のない古い織機が報酬というのは微妙。300万円は種銭なので報酬ではなく、結局茜は何も儲かっておらず、完全なボランティアということになる。大金を用意したことに対する報酬として良太が奴隷のように扱われるのなら分かるが、自分の仕事が終わった後に手伝いに来てくれれば良いという何とも緊張感のない展開には脱力してしまう。つかみにこそ、もっとシビアな話を持ってくるべきではないのか。最初から「これはイイ人による善意のお話なんですよ」とアピールしてしまうのは損だろう。

 第1章「老舗和菓子屋」…老舗和菓子屋の社長・松中実は、景気の悪化で銀行からの融資の返済に行き詰まり、茜に5億円の用意を依頼する。それに対して茜が要求した報酬は、松中が辛うじて3人の娘達のために手元に残してあった3,000万円の現金。茜の言うとおり値を上げていく株価であったが、目標額に達する前に売却してしまおうとする松中に何度も釘を刺す茜。そして何とか目標額に達したにもかかわらず、和菓子屋は閉店し松中は家族を残して失踪してしまう。戸惑う良太に対して、借金を完済して和菓子屋の経営以外の人生を歩みたかった松中の心中を見越していた茜は平然としているのであった。

 依頼額が前回の3,500万円からいきなり5億に上がり、一気にリアリティが失われて興醒め。茜の要求する報酬は3,000万円の現金と言うが、これは前回で言うところの種銭になるわけで、明らかに報酬ではない。依頼者の要求額と引き替えとする「依頼者にとって最も大切なもの」という意味で、前回の織機にあたるものであり、そこは納得できるのだが。結局、彼女の報酬は株取引の利益の中から受け取るという話が途中に語られるが、最後まで金額が明らかになることもなく、茜がどうやって受け取ったかもはっきりしないまま物語が終わってしまう。依頼者の松中は和菓子屋経営から離れて自由の身になるという夢を叶えたというハッピーエンドの物語のように描かれているが、3人の娘を残して父親が失踪する話のどこがハッピーエンドなのか。なんともすっきりしないエピソード。

 第2章「歌姫の父」…今回の依頼人は、人気絶頂の中で病死したアーティスト、小ヶ田アキツの父・小ヶ田太地。心臓発作で死亡したアキツの死の真相は薬物中毒によるもので、その話がヤバイ連中に漏れ、彼らに脅迫されていることを茜はすぐに見抜くが、切迫感のないルーズそうな太地に良太は悪印象しか抱けない。当然断るかと思いきや、そのヤバイ連中に払い続ける金の用意を引き受ける茜。そして茜は太地の要求通りの金を供給し続けるが、ある日タブロイド紙にアキツの死の真相が掲載されたことで、良太は契約の終了を知る。太地は、末期癌だった自分の母に、自慢の孫の死の真相を知られないように時間稼ぎをしていたのだが、その母が死亡したことで脅迫相手に金を払うことをやめたのだ。茜は報酬として、非公開だったアキツの幻の曲を要求していたが、太地との思い出の詰まったその曲のCDは彼に返し、彼の口座に残った現金を代わりに要求するのであった。
 そして、良太の上司・秀島が、茜のことを調べていることだけでなく、良太と関係していることまで知っていることに良太は驚くのであった。

 太地の真意は、読んでいればすぐに分かるので結末を知っても特に感動も驚きもない。太地と茜がヤバイ連中に莫大な金を払い続け、結局その連中には何の天罰も下らない結末に気分が悪くなるだけ。もうちょっと読者がカタルシスを感じられるような工夫が欲しかった。

 第3章「元高級官僚」…女性起業家によるナンバーワン企業を目指す取り組み「なでしこプロジェクト」を進めようとしている新井冬彦は、元財務省の幹部職員であったが、事務次官室立てこもり事件を起こして辞職勧告され、次の国政選挙での出馬を狙っていた。彼には妻と愛人の両方に子供がおり、資金援助をしてくれるスポンサーもいない新井は、ただでさえ選挙には金が掛かるのに、従順だと思っていた愛人の麻衣子に海外への移住をねだられ、妻からは息子が小学生の女の子に声を掛けて相手から示談金を迫られていると聞かされ、経済的にますます追い込まれる。
 同じ頃、暴力団員の有働も経済的に苦しんでいた。銀行からは口座の解約を迫られ、組長の死による組の跡目争いではナンバー2だった自分を飛び越えてフジオという有能な組員が野心を燃やしており、有働はカタギになるための、けじめの金を必要としていたのだ。
 新井は黒女神・茜との接触に成功し、3,000万円を元手に1億円にしてくれるよう依頼し、茜はこれまでの彼の主義主張が全部嘘だったとメディアで発表することを要求する。そして、新井の取った行動は、茜に増やしてもらった金を手に入れつつ、茜と良太を暴力団の有働を使って拉致監禁し、メディアへの自分の嘘の発表という茜との約束を反故にするというものであった。そこで、茜は組を抜ける資金を作ってほしいという有働と契約を結ぶ。茜に有働の命を預けることを条件に。茜は有働の要求した金額を株取引で見事に用意すると同時に、見せ玉という不正な行為を頻繁に行うことによって内閣金融局の目を引き、監禁場所に警察に突入させる作戦を成功させるのであった。

 やっと金融ミステリーらしくなってきたものの、見せ玉というトリックは株取引を全く知らない人には新鮮かもしれないが、ある程度知識のある人には知られた技術。大昔のテレビドラマ『西武警察』で、人質を取った犯人に車を運転させられることになった主役の大門が、高速道路でわざとスピード違反をしてオービスに写真を撮らせて部下に位置を知らせるという技を使ったエピソードをふと思い出した。

 第4章「ブラック・ビーナス」…茜達を救出した集団の中に、内閣金融局での良太の上司、秀島がおり、茜とのただならぬ関係を感じていた良太であったが、実は茜も内閣金融局の一員であった。再び組織に戻された茜は、川崎市にある化学薬品メーカーに派遣され、株取引で会社を建て直す仕事に失敗する。気落ちする茜に、秀島は次の仕事を与える。それは、中国人に乗っ取られようとしている日本の製造業の根幹とも言える自動車のエンジン技術の機密をたくさん抱えた企業・サンナミ工業を救うこと、そしてある口座に入る10億円の金を1日で15億円に増やすという大仕事であった。その2つの仕事について、茜は秀島に2つの見返りを要求する。それは、再び彼女を東京勤務から外して自由の身にすること、そしてもう1つは良太の処遇に関することであった。
 元秀島の上司であった財政大臣の絹脇青一郎は、選挙で新井と戦うことになるが、中国人の企業乗っ取り計画阻止のため、選挙区の地元に帰ることもできない。そんな絹脇は、サンナミの三波社長を呼び出し、大株主の創業家の東出初江が中国人に株を売却するのを阻止するよう依頼する。そして茜は、その絹脇のところへやってきて驚くべき提案をする。メディアを使って、一般投資家にサンナミの株を購入することによって中国人の乗っ取りを阻止してほしいと訴えるよう伝えたのだ。あっさり承諾した絹脇の会見によって、サンナミには買い注文が殺到する。さらに茜は交渉の下手な三波に電話を入れ、「社長の命と会社の存続、どっちが大切だと思う?」と釘を刺すのも忘れない。
 初江との交渉に乗り気でなかった三波は、思い切って南砺市の初江の自宅に乗り込み頭を下げるが、「頼りないねえ」と顔をしかめる初江を衝動的に車に乗せて走り出してしまう。そこを銃を持った中国人の男達に襲われるが有働の助けによって窮地を脱する。有働は茜に金を作ってもらった借りを返したのだ。中国人にフロントガラスを割られた車で命からがら逃げ出した三波に「案外やるねえ」と笑い出す初江。初江は、ついに三波の要求を飲んだのであった。
 大株主の中国人への株売却がなくなったことで会社の乗っ取りは阻止され、それを知った市場は一気に逆方向へ動き出す。サンナミの株価と、それにつられて上がっていたライバル会社・ニューマシンファクトの株価も下がり始める。茜はそこに信用売りを仕掛け、見事に10億円を15億円に増やすことに成功するのであった。
 選挙戦では新井が愛人問題が世間に公表され失速、絹脇はギリギリの当選を果たす。その彼に茜は「当選おめでとう、兄さん」と声を掛ける。絹脇と茜は腹違いの兄妹だったのだ。そして、茜が秀島に要求した2つ目の成功報酬の内容が明らかに。それは、良太を茜の上司にしてほしいというものであった。2人は、雨の中1つの傘の下、歩き出すのだった。

 巻末の選評を見ると、応募時の本作の茜は、天賦の才能で勝ち続ける無敵の主人公だったようだ。しかし、その不自然さを選考委員に指摘され、出版時に弱い部分やピンチの場面を用意したようなのだが、いきなり弱くしすぎ。過去のアメリカでの失敗のエピソードはともかく、現在の場面で本来の仕事に復帰早々大負けして依頼主から痣ができるほど殴られる女主人公ってどうなのか。株の世界で勝ち続けることが現実にあり得ないとしても、これでは普通のトレーダーと変わりがない。しかも、負けが確定したと認めたとたんに、依頼主に「お金が減った分、気が済むまで殴ってくれていい」という無責任なセリフ。どんな依頼主でも殴るだろう。
 この物語のクライマックスでもあるサンナミ乗っ取り阻止の攻防戦だが、実は良太はもちろん茜もほとんど活躍していない。最後の最後の思いつきで一発逆転しただけの話。表向き活躍したのは三波社長になるのだが、前半のやる気のなさに加え、後半の初江拉致という行動にドン引き。せめて中国人に襲われそうになったから、車に初江を押し込んで逃走したという展開にしないと、「案外やるねえ」という初江のセリフが生きてこない。個人的に本作で一番酷いと思ったのはここである。
 そして、もう1つがっくり来たのは、さんざん引っぱった茜の2つ目の報酬内容。良太を上司にするという、その中身に全く感動できない。もちろん、良太の魅力が本編全体を通じて描き切れていないからだ。良太は口では理想論を何度も茜に語っているが、命を張ってそれを行動に移すようなシーンが全くない。
 繰り返すが、同時に「このミス大賞」を受賞した『神の値段』より、明らかに仕上がりは下。応募時のレベルは同等だったのかもしれないが、出版にあたっての改稿作業で差が付いたのかもしれない(どちらも相当に手を加えた感じがする)。選考委員は大賞受賞者の中から直木賞や本屋大賞受賞者が出るのを楽しみにしているようだが、私は一色氏の方が先に受賞すると予想しておく。 

2016年月読了作品の感想

『オルゴーリェンヌ』(北山猛邦/東京創元社)【ネタバレ注意】

  「このミス」2016年版(2015年作品)10位作品。著者の作品で唯一過去に読んだことのある短編集『私たちが星座を盗んだ理由』(「このミス12」15位作品)は微妙な評価であったが、印象的な作品もいくつかあったので期待して読み始めた。

 序奏「月光の渚で君を」…海に沈みつつあるスラムで生まれ育った「私」は、ゴミ拾いをしながら都市に憧れて暮らしている。ゴミの中から使えそうなものを見つけ、それを修理して都市で売ることで生計を立てていた彼は、ある日、なじみの楽器屋で壊れたオルゴールの修理を頼まれる。それはオーケストラ・オルゴールと呼ばれる大変複雑なオルゴールで壊れ方も酷かったが、彼は3か月がかりでそれを修理する。そして、それをきっかけにそのオルゴールを楽器店に持ち込んだカリヨン邸と呼ばれる屋敷の主人に雇われることになる。
 カリヨン邸は有名なオルゴール工房で、彼はそこでひたすらオルゴールを作り続けた。そこで彼は、そのオルゴールの元の持ち主である主人の娘に好意を持たれるが、工房の職人達は技術は彼よりも劣るのに、スラム出身の彼をさげすみ、娘の婚約者のリーダー格の男は、彼に彼女に近づくなと釘を刺す。彼女と生きる世界が違いすぎることを知っていた彼は、それ以来、盲目の彼女を避け続け、作っても倉庫にしまわれるだけのオルゴールの制作に疑問を持ち始める。その疑問を彼からぶつけられた主人は「失われていく世界に音楽を残すのだ」と毅然として答える。彼は、まだ人は救われるチャンスがあると気付き、盲目の娘のためにオルゴールを作り、彼女の部屋のバルコニーに届け続ける。
 ある日娘と言葉を交わすことになった彼は、彼女の婚約者の男が自分が届けているものだと彼女に嘘をついていたことを知るが、彼女自身は真相を知っていた。数か月後、彼女はその男と結婚し、彼はオルゴールを届けることをやめる。
 そんなある日、彼女がバルコニーから落ちて重傷を負う。カリヨン邸の後継者の地位を手に入れて、もはや彼女が不要になった夫となった男が突き落としたことを知った彼は、激怒して男とその仲間を惨殺する。「私をオルゴールにして下さい」という彼女の願いを叶えることができないまま、彼女は息を引き取る。彼は彼女の胸にオルゴールのシリンダーを埋め込み、彼女の希望通り高いところに連れて行く。彼は彼女の横に腰掛け、彼女がさえずる音楽に耳を澄ますのであった。

 ちょうど本書を読み始めた日に、ヤフーニュースで西アフリカ・リベリアの「海面上昇で沈みゆくスラム街」という動画つきの記事を読んだばかりだったので、あまりのタイムリーさに驚いた。世界に同じ状況のスラム街がどの程度あるのか分からないが、ここがモデルなのかもしれないと思いながら読み進めた。物語中に特に何かトリックがあるわけでもなく、ミステリーらしいミステリーでもないのだが、この「序奏」は、実に幻想的で味わい深い作品である。


▲西アフリカ・リベリアの首都モンロビア(Monrovia)にあるウエストポイント(West Point)地区

 第1章「僕たちの帰る場所」…「何人も書物の類を所有してはならない」時代。違反すれば検閲官によって隠し場所もろとも焼却される。特に「ミステリ」と呼ばれる種類の書物は焚書処分の代表格とされた。そして、ミステリ作家になることを夢見る主人公・クリスは検閲官たちが所有を禁止するガジェットを持っていた。ガジェットとは「ミステリ」の結晶のことを指す。それは様々な装飾品や道具に組み込まれるようにして偽装されており、過去のミステリ作品の様々な情報が詰め込まれており、例えば「密室」や「吹雪の山荘」といったガジェットが存在する。彼の所有するガジェットは「記述者」であった。ミステリ作家になるために何をすべきかも分からないクリスは、旅の途中、小さな宿で恩人のキリイ先生が自分を探していることを知る。
 キリイ先生の元へ急ぐクリスは、教会で言葉を話せない少女・ユユと出会う。彼は検閲官に追われていた彼女を助けようと一緒に逃げるが追い詰められてしまう。そこに現れたのは、友人の少年検閲官エノ。エノは車で2人を逃がしてくれるが、ユユだけは検閲局へ連れて行くという。ユユは「氷」のガジェットが隠されているという情報のあるカリヨン邸から今朝逃亡してきたらしい。動かなくなった車を乗り捨てたエノは、クリスの提案で車を借りるべくキリイ先生の居場所を目指す。
 ついにキリイ先生の元へたどり着いたクリスは町の若い娘が海へ消えていくという噂を病床の彼から聞かされる。そして、エノもカリヨン邸に行ったきり帰ってこない女性がこの町に数名いるという情報を語る。どうやらカリヨン邸のある海墟と本土は、月に2回歩行可能となる水没道路でつながっており、ユユはそこを歩いて逃げてきたらしい。しかも正確にはカリヨン邸の主人に追い出されたらしいのだ。カリヨン邸の主人がユユにガジェットを持たせて逃がしたと検閲局が疑っていることを知り、クリスはカリヨン邸に乗り込みガジェットを発見することでユユの無実を証明したいと主張する。エノも彼女をカリヨン邸に連れ戻すことは検閲官の責務であるとクリスに賛同し、3人でカリヨン邸を目指す。

 第2章「もう一人の少年検閲官」…昔船乗りだった老人に船を借りてカリヨン邸のある海墟にたどり着いた3人は、カリヨン邸のオルゴール職人、ミウとアリサトで出迎えられる。カリヨン邸には、カリヨン邸調査の責任者である、もう1人の少年検閲官・カルテがいた。エノの後輩のカルテは、クリスとユユを拘束しようとするが、エノの反対にあい渋々受け入れる。
 カリヨン邸の主人・クラウリはガジェットの存在を否定し、オルゴール職人の1人である大男のヤガミは検閲官を毛嫌いしていた。そして一番格上と思われるオルゴール職人のシグレがユユの持っていたオルゴールを破壊するのを見てクリスは怒りを覚える。そんな時、オルゴール職人の1人マキノの遺体が灯台の鉄骨に刺さった状態で発見される。

 第3章「少女自鳴琴(オルゴーリェンヌ)」…カルテは、何者かがマキノを気絶させるか殺害するかした後、首にロープを巻き、灯台にそのロープを引っかけて船で引っぱり上げ、鉄骨の上に落としたと推理する。
 そして、エノはユユの義手がオルゴールを組み込んだ特殊なものであり、そこにガジェットが埋め込まれていることを見抜く。彼女の義手は、クラウリがこの世で最も高貴なオルゴールを生み出すために作ったものだったが、埋め込まれていたガジェットは「氷」ではなく「犯人」の名を持つものであった。
 マキノの次に犠牲者となったのはヤガミであった。海墟のはずれにある、横倒しになって半分水没したビルの中で、禁止されている書物と共に遺体で発見される。ミウは、15年前にクラウリの娘を殺してオルゴールにしようとした男の幽霊が犯人であると主張するが、エノは隠し事があるのなら今のうちに打ち明けた方が身のためであるとカリヨン邸の住人達に宣告する。そして、ついに観念したアリサトが、シグレとヤガミが書物の密売をしていたことを告白する。シグレと話をしようとするクリスだったが、シグレは工房にしている塔に立てこもって出てこようとしない。諦めて部屋に戻ったクリスはいつの間にか眠ってしまうのであった。

 第4章「王国最後の密室」…翌日塔の中の暖炉の前で、鉄板を埋め込んだ大量のオルゴールに埋もれたシグレの遺体が発見される。この密室殺人の真相についてクリスは自分の推理を語るが、エノによって全否定されてしまう。そしてエノは暖炉の中から「氷」のガジェットらしき残骸を発見する。
 そんな中で、ユユがアリサトの人質となって攫われる。彼が逃げ込んだ風穴には行方不明になっていた女性達の氷漬けにされた遺体があった。アリサトは、シグレ、マキノ、ヤガミ達が、オルゴールの材料にするため、彼らの書物の密売を知った彼女達を殺して遺体を保存していたことを告白する。そしてその黒幕こそクラウリであることも。あえなくエノに取り押さえられるアリサト。
 屋敷に戻った一行は、カルテから3つの全てが殺人がクラウリによるものであるという推理を聞かされるがクリスは納得できない。そんなクリスにエノは、「行こうか、我々だけの真実を見つけに」と語りかけ、2人で失踪したクラウリを捜しに出かけるのであった。

 終奏「世界を変える物語」…クリスとエノに発見されたクラウリは、「世にも高貴な、犯罪という名の音楽を奏でるオルゴール。それこそが−オリゴーリェンヌだ」「私は育てたのだ。世界を変える『犯人』として」と語り、自分が育てたユユこそが3つの殺人の真犯人であると告げ、ビルから飛び降りて自ら命を絶つ。続けて飛び降りようとするユユを必死で引き留めるクリス。そんな彼にエノは、「彼女が犯人でないということを知っている」と告げる。エノの指し示した真犯人は、キリイ先生であった。しかし、クリス達がキリイ先生の元に戻った時には、彼はすでに亡くなっていた。そしてそこには1台のタイプライターと共に、「私が彼女を音楽にしたように、君が私を物語にしてくれ」というクリス宛のメッセージが残っていたのであった。

 さて、本章に入ると若干趣が変わってくる。一応序奏と物語がつながっていることは途中で明らかになるのだが、正直この話の何が面白いのか理解できない。大がかりな物理トリックが見ものという評価もあるようだが、どのトリックもレベルが低すぎないか。船でロープを引っぱって死体を持ち上げるとか、本を2冊重ねて鍵型ブロックを作って板を乗せ、人が乗ると落ちる罠を用意するとか、オルゴールのシリンダーでワイヤーを巻き取るストッパーとして暖炉の熱で溶ける蝋を使うとか、まるで名探偵コナンを見ているようだ。やたらと説明図が登場するが、はっきり言って必要ないものばかり。
 この話の根幹であるはずの、人間を使って究極のオルゴールを作ろうという話が何度も登場するが、結局具体的なシステムが最後まで見えてこないのも大いに不満。無理矢理に胸や義手にオルゴールを埋め込んだりしたところで、そんなものはオルゴール人間とは言わないだろう。生体パーツを利用した複数の極小オルゴールを体のあちこちに埋め込んで、自分の意思で好きな曲を流せるシステムでも作り出すくらいの話でないと読者は納得しないのではないか(それですら、どこが究極のオルゴールなのか分からないが…)。
 古典的漫画チックなクリスとユユという、なよなよした主人公とヒロインにもなじめないし、クリスを助けることと検閲官としての責務との間で葛藤することのない探偵役のエノにも魅力を感じない。エノのライバル・カルテの存在も中途半端。もっとエノを苦しめる役どころでないと。結局真犯人ということが明らかになるキリイ先生の犯行の動機もよく分からない。ただ読者を驚かせるための無理矢理な設定のように思える。
 ジャンルとしては、物理トリックや密室モノというよりは、多重解決モノ(カルテの推理→クラウリの推理→エノの推理)になるのだろうが、読んでいても「どんでん返し」というほどの爽快感もなく、『ミステリー・アリーナ』を読んだ後では、少々の多重解決では満足できない。
 書物が禁じられ、「ミステリ」の様々な要素がジャンルごとにガジェットに閉じ込められているという設定の世界観は、もの凄く面白そうなのに、全然生かされていないように思う。登場人物がガジェットから読み取ったものをヒントに事件を起こしたり解決したりする展開があって当然のように思うが、なぜそうしないのか理解に苦しむ。結局「序奏」で期待させておいて、最後まで報われなかった作品だった。

 

『鍵の掛かった男』(有栖川有栖幻冬舎【ネタバレ注意】★★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)8位作品。今回は久しぶりに登場人物紹介から(いきなりネタバレ要素全開なのでご注意を)。

有栖川有栖…数年前に珀友社の主催するある新人賞に佳作入選して作家デビューしたミステリ作家。大阪生まれ、大阪育ちの34歳。
火村英生…英都大学社会学部准教授。有栖とは大学生時代からの付き合い。警察から捜査協力の依頼も受ける有能な探偵。34歳。
影浦浪子…大物作家で、週刊明宝に大坂夏の陣をクライマックスに据えた歴史小説『淀殿』を昨秋まで連載していた。今回有栖に梨田の死の真相について火村と共に再調査してくれるように依頼する。
片桐光雄…有栖がデビュー以来ずっと世話になっており最も親しくしている
珀友社の編集者。
土井咲恵…明宝書房の編集者で、影浦の依頼を仲介して有栖に伝える。
梨田稔…銀星ホテルのスイートルームで5年間暮らし続け、謎の死を遂げた天涯孤独の老人。享年69歳。
船曳…大阪府警捜査一課の警部。火村と有栖がよく知っている人物で、2人は今回の再調査への協力を依頼する。
繁岡…天満署刑事課捜査一係巡査部長。梨田の死についての捜査を担当した捜査員。
桂木鷹史…銀星ホテルの若き支配人。有栖の第一印象は「若殿風」。最初は再捜査に協力的だったが、ホテルの評判のために本音は自殺で済ませたいと思っている。28歳。
桂木美菜絵…鷹史の妻。銀星ホテルの前オーナーの娘で現オーナー。28歳。影浦同様に梨田の自殺を疑っている。
丹波清章…銀星ホテルの副支配人兼レストラン長。銀星ホテルに20年以上務めるベテラン。
萬昌直…梨田の遺体発見時に外出していた銀星ホテル宿泊者の1人。証券会社に勤める40代。芦屋市在住。
萬貴和子…昌直の妻。昌直と共に銀星ホテルに宿泊していた。広告代理店に勤める40代。
鹿内茉莉香…鋸を使ったミュージカル・ソウの演奏者。梨田の遺体発見時に外出していた銀星ホテル宿泊者の1人。
日根野谷愛助…呉服店の主人。梨田の死の前日一緒に夕食を取っていた。夫婦喧嘩をするたびに銀星ホテルに逃げ込んでくる。
露口芳穂…美菜絵の高校時代からの友人。婚約破棄になったことを慰めるために美菜絵がホテルに呼んで以来時々宿泊するようになった。
水野由岐…銀星ホテル勤続5年目の女性フロント係。
高比良和機…銀星ホテル勤続7年目。梨田の死亡当時夜番にあたっていたビジネスライクな口調の冷たそうな男。
藤西福蔵…30年前に梨田が起こした轢き逃げ事件で死亡した身寄りのない老人。享年76歳。
根岸三郎…広島市在住の梨田の元ビジネスパートナー。銀星ホテルに電話を掛けてきて梨田の死を知り駆け付ける。
山田夏子…鷹史の母。梨田が逮捕時の交際相手。梨田の公判中に鷹史を妊娠出産。梨田の出所直前の平成5年9月に交通事故死。
小池(旧姓:山崎)信恵…夏子の友人。梨田が事件を起こした当時、夏子とハワイ旅行に行っていた。
竹久(旧姓:国見)里緒子…夏子の友人。産科医と結婚しレディースクリニックを経営していたが阪神大震災で死亡。
花房淳也…夏子の死後、鷹史を引き取って育てていた夏子の姉夫婦の長男。祖父の歯科医院を継いでいる。鷹史の兄的な存在。

 第1章「ある島民の死」…2015年1月30日、有栖は東京で開催されたある新人賞のパーティに参加していた。明宝書房の編集者の土井を通じて、大物作家の影浦浪子からある依頼があるという話を聞いたためである。その内容は、影浦がよく利用している大阪・中之島の銀星ホテルのスイートルームで5年間暮らし続けていた梨田稔という友人が、1月14日に客室で遺体で発見され自殺という判定が下ったことに納得がいかないので、名探偵として活躍している火村と共に再調査してほしいというものであった。
 1月31日、京都で有栖と落ち合って事情を聞いた火村は、引き受けることは引き受けるが、大学入試の仕事で忙しいため、まずは有栖だけで捜査を開始してくれるよう有栖に依頼する。
 2月1日、旧知の船曳警部の仲介によって、事件を捜査した繁岡巡査部長の話を聞くことができた有栖であったが、自分の捜査にケチを付けられた形の繁岡は愉快な様子ではない。繁岡は、2億2千万円以上の残高が記された通帳が盗まれずに現場に残っていたことを自殺説の根拠の1つとして挙げるが、梨田が常用していなかった特殊な睡眠薬が遺体から検出された上、その包みや容器が発見されなかったという気になる情報を有栖に伝える。梨田が悩み相談のボランティアをしていたことから、相談者から取り上げた物ではないかという見方もあったようだが納得できない有栖であった。

 第2章「その孤愁」…銀星ホテルを訪れた有栖は、常連の影浦の口利きもあって桂木支配人夫妻や丹羽副支配人らから手厚いもてなしを受ける。梨田が宿泊していた401号室を見せてもらうが、残されたアルバムの最後のページに写真が剥がされた跡があるのを気にする有栖。その後、梨田の死亡時にホテルに宿泊していた日根野谷と露口が運良くこの日も宿泊していたため早速話を聞く。2人と食事をした有栖は、当時宿泊していた客の1人、ミュージシャンの鹿内とも会うが、仕事で疲れているという彼女に冷たくあしらわれてこの日の捜査は終了する。

 第3章「その残影」…2月2日、梨田がボランティアをしていた総合病院と悩み相談室を訪問した有栖は、梨田が毎月16日に必ず休みを取っていたことを知る。美菜絵からの提案で翌日からホテルに住み込むことにした有栖は、フロント係の水野から、梨田が3.11の震災のニュースを見て泣いていたことを告げる。萬夫妻からは、梨田が過去の知人と珍しく電話で連絡を取っていたことを聞き出すが、相手が誰かまでは分からなかった。また、アリスからの報告を聞いた火村は16日の件について、誰かの命日で墓参りをしていたのではないかという意見を伝える。

 第4章「その原罪」…2月3日の午後、銀星ホテルにチェックインして402号室の住人となった有栖は、日根野谷と露口から、梨田の死は自殺ということでよいのではと忠告されるが、彼らが出ていった後、繁岡から入ってきた新しい情報に驚愕する。梨田は30年前に飲酒運転で轢き逃げ事件を起こして藤西福蔵という老人を死亡させており、さらに知人から車と金を奪った挙げ句、その知人に重傷を負わせ、過去に喧嘩の前科もあったため6年6か月の懲役刑に服していたのだ。
 2月4日、鹿内と共に梨田の出身地で捜査に回ることになった有栖は、そこで梨田の起こした事件の真相を知る。梨田とその交際相手の仲をやっかんだ梨田の同僚が、彼女の嘘の浮気情報を梨田に伝えたため、飲酒状態で家を飛び出した梨田は事故を起こしてしまったのであり、怪我をさせた相手もその同僚だったのである。しかし、その同僚はすでに病死しており、梨田の交際相手もその後ベビーカーに赤ん坊を乗せている姿を目撃されており別の男と結婚したと思われ、捜査の糸はそこで途切れるのであった。
 2月5日、桂木夫妻や従業員達にぶつける質問も尽き、梨田が死の直前に訪れていたという国立国際美術館を向かった有栖であったが、何も収穫は得られなかった。
 2月6日、鷹史に続いて丹羽からも捜査の打ち切りを勧められた有栖はチェックアウトすることを考え始めるが、梨田の元仕事仲間という男性からホテルに電話が入り、明日の午前中にはホテルに来るという話を聞いて、有栖はチェックアウトを思いとどまる。

 第5章「その秘密」…2月7日、広島からやって来た根岸は、萬夫妻が目撃した梨田が電話をしていた時の相手で、大阪のホテルに住んでいるという梨田の話から、大阪府内のホテルに1軒1軒電話をし続け、ついに梨田の居場所を掴んだのだが一歩遅かったことを嘆く。根岸は、元ビジネスパートナーの梨田と喧嘩別れしてしまったことを後悔しており、せめてものお詫びにと、梨田が会社の建て直しのために提供してくれた宝くじの当選金の倍額である2億6千万円を別れ際に梨田に渡していた。これが、梨田の持っていた大金の正体だったのだ。
 また高比良は、梨田が16日に墓参りに行った行き先を知っていることを有栖に告白する。現地を訪れた有栖は、その墓が予想していた藤西家のものでも梨田家のものでもなく、鷹史の死んだ母、山田夏子の墓であったことに驚く。梨田の交際相手の女性が、鷹史の母だったとはどういうことなのか。夏子の死後、鷹史は夏子の姉夫婦に育てられたが、その息子の花房淳也は、昔鷹史の父を名乗る男が家を訪ねてきたことがあり、母に追い返されていたことを有栖に語る。その男の正体は一体誰なのか。
 そしてついに火村が登場。火村は梨田が住んでいた401号室を調べ、絨毯と梨田の履いていたスラックスに付着していたチョコレート片の汚れと、指紋の拭き取られた腕時計から、梨田の死を他殺と断定し、どさくさにまぎれてDNA鑑定用に鷹史の毛髪も入手してしまう。

 第6章「その正体」…夏子の親友だった信恵の元を訪れた火村、有栖、鷹史は、梨田が轢き逃げ事件を起こした当時、信恵一緒にハワイに旅行に行っていた夏子の様子を聞くが、逃走中の梨田から連絡を受けた夏子が、もの凄い決断をしていた様子であったことを語る。そして、夏子のもう1人の友人、里緒子が産科医と結婚してレディースクリニックを経営していたが阪神大震災で死亡したという話を聞いた火村と有栖は、梨田の長期滞在の謎の真相にたどり着く。夏子は、逃亡中の梨田に対し、彼の出所を待っていたら彼の子供を産めなくなるので、逮捕される前に里緒子のクリニックに行き体外受精の準備をするように指示していたのだ。これによって、夏子は梨田の公判中に梨田の子供を妊娠出産することができ、梨田は消息を掴んだ自分の息子を身近で見守ることができるようになったのである。震災のニュースで彼が涙していたのは、体外受精の証人となる里緒子が死亡してしまったことを悲しんでいたためであった。

 第7章「その帰還」…2月12日、梨田のホテル長期滞在の謎は解けたが、梨田殺害の真犯人は不明のまま。有栖は関係者の様々な可能性に思いを巡らせる。そんな中で、露口の口から美菜絵の妊娠が発覚。梨田も知っていたという。孫の誕生を楽しみにしている梨田が自殺するはずもないと、火村と有栖は梨田の他殺を確信する。しかし、その一方で、孫の誕生に喜んだ梨田が、それが勘違いであり、鷹史が息子ですらなかったことを知った場合は、自殺の動機になり得ることに有栖は不安を覚えるのであった。
 2月13日、DNA鑑定の結果、梨田と鷹史の親子関係の可能性が高まる。より精度を高めるため、鷹史にその事実を伝え、夏子の血痕の付いた帽子を警察に提供してもらう有栖。そこへ、ホテルに真犯人が送りつけたと思われる梨田の遺言状が届く。そこには梨田と鷹史の親子関係の他、梨田の遺産は、鷹史と交通遺児支援団体へ二分するよう記されていた。

 終章…火村の推理によって真犯人は逮捕された。影浦は火村を前にして、いかにして真相にたどり着いたのかという推理に挑戦する。その真犯人は露口であった。梨田の遺言状をホテルに送りつけたのは、梨田と鷹史の親子関係が明らかになり、その遺産が全額桂木夫妻に相続されることを阻止するための嫌がらせであったが、その送りつけたタイミングによって、火村は彼女が真犯人であることを見抜いたのであった。
 彼女の梨田殺害の動機は3つ。1つ目は、昔電車内で彼女が梨田に暴力を振るった動画が拡散され婚約破棄になったことを逆恨みしたこと、2つ目は、不幸な自分と比べて幸福を見せつける美菜絵を憎んでいたこと、そして3つ目は、梨田が鷹史に親子関係を告白した時に鷹史を怒らせた場合のことを考えてそれを防ぎたかったというものであった。
 3月3日、ホテルの401号室で梨田の四十九日の法要が行われ、梨田の遺骨は山田家の墓に入ることになった。そして、桂木夫妻の生まれてくる子の名前が、梨田と同じ「稔」となることが公表されるのであった。

 著者の作品は、学生有栖シリーズの『双頭の悪魔』(1992年)、『女王国の城』(2007年)、作家有栖シリーズの『朱色の研究』(1997年)の3作品しか知らなかったのだが、後者の印象が余りに薄く、前者の若々しい有栖の記憶しか残っていないため、作家有栖シリーズ最新作である本作の有栖が、妙にオッサン臭く感じられたのが、読み始めの第一印象。そして次に印象深かったのが、軽快でコミカルかつ流麗な引き込まれる文体。過去の著作でここまで感心した記憶はないので、いつの間にかここまで進化したのであろう。内容もお見事の一言。多くの著作を持ちながらそのうちの4作品しか読んでいない自分が言うのも気がひけるが、本作は著者の代表作の1つに挙げられるレベルの作品ではないかと思われる。
 あえて突っ込みを入れるとしたら、ますは梨田と鷹史の親子関係についてであろう。どう考えても親子なのだろうという展開は正直ミエミエなのに、なかなかそこにたどり着かないのはどうなのかという話。夏子が赤ん坊を乗せたベビーカーを押していたという証言のある場面で読者はもうピンと来てしまう。梨田の公判中に夏子が梨田の子を妊娠できるはずがないという点があまり作中で強調されていないため、なおさら読者は「いつまで引っぱる気なんだ?」「どうせ親子なんだろ?」とイライラしていたのではないか。その妊娠トリックの真相が女性側から提案された人工授精というのもかなりドン引き。同じような獄中の夫の子を妻が妊娠という話が、国内外で一時期結構ニュースになっていたので著者は気軽にモチーフにしたのかもしれないが、簡単に読者をうならせるトリックとは言い難い。
 次はやはり、真犯人であった露口の梨田殺害の動機の問題。大きな動機は2つあったが、1つだけではかなり無理のあるもので、2つ揃ってもまだ厳しい気がする。梨田と鷹史の親子関係が明らかになった後は、相続額を減らすという嫌がらせのために露口は隠していた遺言状を送りつけるわけだが、果たしてこの行為が本当に桂木夫妻に対しての嫌がらせになっているのか疑問。遺産の半分は交通遺児に寄付したいという梨田の遺志がきちんと反映されることになったことで、どちらかといえば桂木夫妻にとっては良かったことなのではないか。この嫌がらせを生かすのならば、ホテルの経営がもっと切羽詰まっており、近日中に2億円を集めないとホテルが潰れるという設定にでもしておかないと駄目だろう。
 露口に関してもう1つだけ付け加えておくと、彼女が元看護師だったということで睡眠薬の入手が簡単そうだと思った読者は多いはず。その彼女の睡眠薬の入手経路が、バーですり寄ってきた男から奪った物というのはどうなのか。かなり無理があるように思うが。
 鷹史へのDNA鑑定への協力が、あれほど段階を踏んで慎重にいくという予定だったのに、梨田との親子の可能性が出てきた途端、あっさりとその事実を鷹史に告げてしまったのもちょっと疑問。捜査を急ぐ必要があったのと、夏子の試料をスムーズに提出してもらうという必要性があったのは分かるのだが。
 あとは、些細なことだが、355ページの「説得力のある」という意味で用いられている「説得的」という表現にはかなりの違和感。全くの誤用というわけではないようだが、ネット上の調査では「説得的」という表現について半数以上が「日本語としておかしい」と答えているというデータがあった。363ページの「カーナヴィ」という表現も同様に気になる。これもネット上で確かに見られる表現だが、「カーナビ」と比較すればその使用頻度は0.1%以下。作家の方の中には独特の表現をお持ちの方も多いので、とやかく言うことではないのだろうが。391ページの「ないけれと」は間違いなく誤字。自分が読んだのは初版本だが、そのうち直るだろう。
 最後に、桂木夫妻が生まれてくる子どもに「稔」と名付けるのはあまりにもベタ過ぎる展開なのだが、そこにぐっと来てしまったことは正直に白状しておこう。というわけで、個人的な評価は、5段階評価なら4。3段階評価なら2にするのはあまりに惜しいので★★★としたい。

 

『鳩の撃退法(上/下)』(佐藤正午/小学館)【ネタバレ注意】★★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)11位作品。直木賞作家の津田伸一が実際にあった事件を元に、事件の謎解きと並行しながら小説を書いているという体裁を取っている。

 津田は景気の良い時もあったが、現在はすっかり落ちぶれてデリヘルの運転手をし、居候させてくれる女を変えながら暮らしている。そんな津田は、2月28日の早朝、ドーナツショップで女性店員の沼本と言い争っている時に幸地秀吉という男と出会い、同じ読書趣味を持つ彼と、古本屋の房州書店で買ったピーターパンの話をしたりして別れた。幸地は妻の奈々美と幼稚園の年少組の娘・茜と暮らしていたが、幸地は奈々美とは彼女の妊娠中に出会って結婚しており、茜は彼の実の子ではない。、奈々美から2度目の妊娠を告げられるが、幸地にはそれも自分の子ではないことが分かっていた。幸地は、茜の同級生の母親で、実家の不動産屋で働いている慎改美弥子の好意に甘えて彼女の雇うベビーシッターに茜を預け、妻と自宅で2人きりで話し合おうとする。
 その夜、ハンバーガー店へ房州老人に呼び出された津田は借金の返済を迫られるが、仕事の呼び出しがある。30分後に借金を返済して、房州老人が立ち退きを命じられている店舗の代わりに部屋を貸してくれる不動産屋も紹介してやると約束して店を出る。しかし、待ち伏せしていたスーツ姿の男の2人組に暴行を受ける。
 その1年2か月後、津田に紹介された慎改美弥子の不動産屋で部屋を借りることのできた房州老人は病院のベッドで病死。そして、津田の勤める店の何人かのコンパニオンと幸地一家は行方不明となっていた。幸地一家は
2月28日の夜を境に忽然と姿を消し、全国紙や週刊誌の記事には「神隠し」の文字が踊ることになったのだ。
 房州老人の死の連絡が届いた5月7日、慎改から房州老人の遺言によって遺品であるキャリーバッグを受け取った幸地は、3日かけてバッグのロックを外すことに成功する。古本が詰まっていると予想していたその中には、数冊の古本と一緒に3400枚以上の1万円札が詰まっていた。
 月末までその大金に手をつけなかった津田であったが、コンパニオンに金を貸して手持ちの金がなくなった彼は、ついに床屋でその金を使ってしまい、これが大問題を引き起こす。なんとその札は偽札で、警察沙汰になったのである。床屋の主人が口が固かったため、出所はタクシーの運転手に1万円札で支払いをしようとして床屋が両替を引き受けた客ではないか、ということになってはいるが、デリヘルの社長は津田が怪しいことが分かっており、手元にまだ持っているのなら2度と使うなと釘を刺す。コンパニオンの失踪にも幸地一家の失踪にも「本通り裏のあの人」が絡んでおり、その人にばれたらただでは済まないというのだ。以前、津田が2人組に絡まれたのも、社長の「挨拶」によってそれが収まったのも「本通り裏のあの人」が関係していたのだった。駅の券売機でも例の1万円札が撥ねられたことを確認した津田は、やむなく沼本に借金をして食いつなぐ。
 ある夜、津田が沼本に電話すると、借金を返すためにある店に来るように指示される。沼本がバイト先のホステス仲間と飲んでいたそこは「スピン」という名の幸地が経営していた店だった。従業員の岩永は、新しい雇い主は倉田ケンジロウという名で、幸地とは親しい間柄であったことを津田に伝える。予想していなかった飲み会がお開きになり、岩永が車で津田や沼本を送ってくれることになったが、幸地から聞いていた話に関して、「幸地の一人娘が幸地の実子ではないことを知っていたか」、「幸地夫妻に2人目の子供ができる可能性はないといういう事実に思い当たる節はあるか」という2つの質問を、結局岩永にぶつけることはしなかった。
 物語は再び2月28日に遡り、房州老人を紹介するため慎改美弥子に連絡を取る津田。運転手の仕事をこなして、ドーナツショップに戻ってきた津田は、後に居候先になる慎改のベビーシッターの網谷と出会う。房州老人の新居を慎改が探してくれることになり安心する津田。そして、コンパニオンの1人、高峰秀子に内緒で友達を運んでくれるように頼まれた津田は、晴山という青年を車に乗せるが、最初に聞いていた場所とは別の無人駅を指定され不審に思う。そしてたどり着いた場所で津田が降ろした晴山を乗せた車は幸地の妻・奈々子らしき女性の運転するベンツのワゴンであった。その後、郵便局員の晴山は年上の恋人と失踪し、彼の帰りを待っている高峰は欠勤を続けているという噂をコンパニオンの浅丘ルリ子から聞く津田。そして、高峰秀子から返してもらった3万円をはさんであった津田のピーターパンの文庫本も2月28日の深夜以降行方不明になった。
 3月の2回目の土曜、高峰秀子から晴山の残した私物の処分を頼まれた津田は、ソニーのハンディカムだけを中身を見ることなく手元に残すが、その3か月後、ハンディカムに残っていた動画を再生した居候先のあるじの怒りを買い追い出される。ハンディカムを破壊されメモリーカードのみが手元に残った津田は、女子大生の網谷の部屋に居候先を移し、6月に沼本から借りたハンディカムでついにその中身を知る。
 そこには、晴山と奈々子の行為の様子が撮影されており、津田はその映像を元に2年前の出来事を小説に書き始める。2年前、スリにすられた財布を取り戻してくれた郵便局員の晴山に口説かれ、夫の幸地に隠れて交際するようになった奈々子は、晴山の子供を妊娠したことに気付く。彼女は夫を騙し、夫の子供として生むことを決意するが、彼女は夫の筋書きを見落としていた。そして、迎えた2月28日、夫に嘘を見抜かれた奈々子は晴山と共に姿を消し、そこに娘が乗っていたのかどうかも謎、幸地までもが失踪したことも謎として残ったが、彼らの失踪に津田が関係していたことは明らかになったのである。

 ここまでが上巻のあらすじ。著者は60歳を越えたベテラン作家なのだが、これまで賞らしい賞は獲っておらず、本作で山本風太郎賞を獲ったのが初めての大きな賞のようだ。しかしそんなことを感じさせないくらいに文章力は圧倒的。主人公の津田同様に直木賞作家だと言われても全く違和感はない。しかも、もっと若い人が書いているのではと思われるくらい文章がみずみずしく新しさを感じさせる。小説家である主人公の津田が脚色している部分と実際に起こったことの識別が難しいことと、時間軸がころころ変わることに多少戸惑いを覚えはするが、読ませる力は尋常ではない。下巻が非常に楽しみである。

 下巻の詳細なあらすじははしょって全体的な話をすると、神隠しにあった家族がどうなったかということが読者には気になるが、実際には事件の夜に主人公の手元からピーターパンの本と共に消えた3万円の謎の方にウエイトが移っていき、それが「本通り裏のあの人」の倉田が製造に関わっていたと見られる偽札(これが本作では「鳩」という符丁で呼ばれている)の行方にも絡んでくるというのが本作のポイントである。
 ちなみに、神隠しにあった幸地一家は、はっきりとは語られないものの、どこかでひっそりと暮らしているらしい。晴山は倉田達によって心中を装って殺害されている。
 さて、偽札についての物語であるが、物語の冒頭で、幸地が倉田に預かってほしいと電話で頼まれたものが偽1万円札3枚が入った封筒。それを幸地は自宅での妻の対応に気を取られて店の従業員の岩永に任せてしまう。岩永は幸地に指示されたとおりに店の金庫に仕舞うが、それを知らずに幸地から給料の前借りの承諾を得ていたバイトの若い女、佐野がそれを持ち出してしまう。事態に気付いた倉田は部下を使って捜索に当たらせるが、佐野は交際相手の大学生にそれを渡してしまい、倉田の部下は大学生を捕らえたものの、1万円札は行方不明に。それはコンパニオンの高峰秀子に渡っており、津田に借金をしていた高峰はその3万円を津田に返済し、彼が受け取った3万円はピーターパンの本に挟まれ、彼の運転するラパンの助手席に置かれることになる。実は早い段階で彼は偽札を手にしていたのだ。しかし、事件当日の深夜、津田がコンパニオン志望の奥平を自宅に送る際に、車に同乗することになった網谷は、奥平の娘の機嫌をとるためピーターパンの本を娘に渡してしまう。自宅で娘が1万円札の挟まったピーターパンを持っていることに気付いた奥平は、津田の知り合いであることを知っていた房州老人にその本を渡す。房州老人は、津田に3万2千円を貸していたため、その金を津田に黙って懐に収める。房州老人は、その1枚をホテルで使用し騒ぎになったことで偽札であることに気付き、妻の遺産の大金と共に仕舞ってしまう。房州老人の死後、彼の遺言によってその偽札の混じった大金は津田の手に渡るが、床屋で津田が使った1万円札が偽札と発覚したことで、津田はその大金全てが偽札であると思い込み、東京へ引っ越すに当たって倉田に全て渡してしまう。しかし、元々偽札は3枚しかなかったため、倉田はその大金の中にあった1枚の偽札を回収し、残りを津田の名前で慈善団体に寄付する。全ての事件の真相に気付いた時、それを小説に記しながら、自分がその事件に大きく関わっていながらそれに気付いていなかったことを再確認する津田であった。

 とにかく後半も読ませる。主人公を直木賞作家に設定するなど余程文章力に自信がないとできないことだが、本作では著者の並外れた力量によって問題なく成立している。前述したように、津田が事実を曲げて脚色して書いている(津田は主人公を幸せにするためにこの小説を書いていると述べている)部分と実際に起こったことの識別が難しいことが問題となるが、次々と明らかになる事実によって、彼の小説の内容はほぼ事実と考えて良さそうだ。時間軸がころころ変わることにも最後まで戸惑いを感じるが、そう気にするほどのことでもない。幸地一家の行方が明らかにならないまま、終盤に近づいてきてどうやって締めくくるのかと不安に思っていたら、偽札=鳩の流れが解明されて物語は幕を閉じる。
 幸地はとりあえず生きていることが明らかになるが、妻子がどのように暮らしているかは不明のままだ。しかし、津田は作中で何度も「TMI」=「too much information」と述べている。多くの作家が、読者からの突っ込みに反論したいことを、著者は主人公にさらりと代弁させている。このあたりも見事。この作中で津田が書いている小説が実際に出版されたかどうかも不明のままだが、登場人物は出版時に全て仮名にしないと危険極まりないだろう。作中ではまだ出版できる段階ではないため、あえて触れられてはいないのだろうが。

 登場人物と言えば、その生き生きとした描写は素晴らしいの一言に尽きる。主人公の津田は言うに及ばず、房州老人、幸地夫妻、倉田、慎改、沼本、デリヘルの社長、床屋のまえだ、居候主の銀行員の女、網谷、そして後半に登場する加奈子先輩、鳥飼、平原…すべてが魅力的で文句の付けようがない。
 上下巻スタイルの作品は、無駄に引き延ばしたところが目について余り好きではないのだが、本作については許せる。なぜ本作が「このミス」11位なのか。エントリー期間にギリギリ滑り込んだのかと思いきやその逆で、2014年末の作品だったことが響いたのかもしれない。「このミス」2016年度版のベスト10作品は、次に読むことになっている『血の弔旗』以外読了しているが、個人的には本作に匹敵するのは『ミステリー・アリーナ』と『鍵の掛かった男』だけだと思う。著者はいつか近い将来、津田のように直木賞を獲れると信じている。

2016年月読了作品の感想

『血の弔旗』(藤田宜永/講談社)【ネタバレ注意】★★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)9位作品。過去に読了している筆者の作品は、「このミス」1996年版2位の『鋼鉄の騎士』と同2015年版14位の『喝采』の2作品のみ。同郷の作家であり、定期購読している「ベストカー」誌でも最近連載が始まったので親近感はあるのだが、前者が高ランクにもかかわらず自己評価★、後者が★★というように、自分との相性はあまり良くない。しかし、本作は最初から引き込まれ、読みながら早く結末にたどり着かないものかとイライラする作品も少なくない中、最後まで感情移入しまくりで読むことができた。あらすじは以下の通り。

 主人公の根津謙治は、資産家で金貸しの原島勇平に運転手として雇われていたが、いつしか勇平が政治家にばらまくための大金を動かしていることを知り、その強奪を計画する。仲間にしたのは、簡単に警察にその繋がりを知られることのない、戦時中に疎開先で同級生だった岩武弥太郎、宮森菊夫、川久保宏の3人。川久保にはアリバイの証人になってもらい、岩武と宮森の2人に、勇平と、その息子の浩一郎を襲わせて縛り上げ、11億円の現金を奪うことに成功する。しかし、偶然勇平の屋敷に現れた浩一郎の愛人・迫水祐美子を、見張り役の根津は射殺することになる。
 奪った金は4年後に分配する約束で宮森の自宅の地下貯蔵庫に隠したが、予想通り根津は最有力容疑者として、警察は勿論、勇平、浩一郎、勇平の手下の佐伯らに疑われ、さらには奪った大金を狙うヤクザにまで狙われる。
 彼らの追及をかわしつつ、居酒屋チェーンを計画していた隅村に雇われ、居酒屋店長として手腕を発揮した根津は、やがて独立し、事件の4年後に手にした大金も使って、大きく事業を発展させる。疎開先の小学校の根津達の担任で、その後戦死した栄村修一の娘・鏡子と、彼女が隅村の親戚だった縁で結婚し、2人の間に長男も誕生し、根津は幸せに暮らしていた。
 しかし、岩武の娘の交際相手が、アメリカから日章旗を持ち帰ったことで事態は急変する。その日章旗は、
沖縄で戦死した栄村修一のもので、そこには根津、岩武、宮森、川久保の名も記されており、彼らの繋がりが警察に知られれば根津のアリバイは崩れてしまい、彼らがグルであったことが明らかになってしまうのだ。何とかその日章旗を奪おうと画策する根津であったが、一足先に軍隊酒場の店主・小柳礼司によって盗まれてしまう。さらに小柳は何者かに雇われた元暴力団員によって殺害され、日章旗は小柳の元からも消える。
 根津は会社の電話が盗聴されていることに気付き、相田という謎の人物から電話で日章旗の存在をちらつかされたことで、自分達が追い込まれていることを知る。そして、日章旗の写真が自宅に送り届けられ、鏡子に事件の真相を知られたことで家庭崩壊が始まる。犯人は、根津の店の元アルバイトで、その後根津の秘書にまで出世していた松信和彦であった。松信は、勇平が送り込んだスパイであり、根津が殺害した迫水祐美子の息子だったのだ。根津達は金で解決しようとするが、松信の通報によって全員逮捕され収監される。
 20年後、運送会社の運転手として働いていた根津は、水産加工会社社長と再婚した鏡子と偶然再会する。立派に成長した息子の姿を見た根津は、涙しながらその場を去るのであった。

 自分の記憶を維持するためとはいえ、あらすじのまとめには毎回苦労しているのだが、本作は上記のようにここまで短くまとめられるくらい骨格がシンプルな物語である。それでも十分な読み応えを感じるのだから、これは筆者の力量であろう。根津にはすっかり感情移入してしまい、なんとか無事に逃げ切ってほしいと思うまでになるのだが、やはり予想通り、「どんなに根が善人であろうと、その人の悪事は裁かれる運命にある」というテーマの物語であった。これには納得せざるを得ない。どんなに根津に感情移入しようとも、明らかに正義は松信の方にあるのだ。
 根津に感情移入していたせいもあろうが、日章旗が登場し、
正体の見えない敵に根津がどんどん追い込まれていく後半は読んでいて少々気分が悪かった。特に日章旗が2回に渡って何者かに奪われる展開は少々やりすぎ感がある。そしてバタバタ感がぬぐえないまま迎えてしまうあっけないエンディングに、何ともやりきれないエピローグ。大絶賛とは言わないが、トータルで見ればやはり★★★。 

 

『影の中の影』(月村了衛/新潮社)【ネタバレ注意】★★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)12位作品。

 仁科曜子はヤクザなどの裏社会に強いフリージャーナリストで、矢渡組執行部の菊原組組長・菊原哲治を定期的に取材していたが、彼女の最近の関心は中国で弾圧されているウイグル人に移っていた。在日のウイグル人コミュニティーの有力者やボランティアが次々に変死している中、ついにコミュニティの隠れた実力者テギン・ヤンタクに取材の約束を取り付けるが、彼は彼女の目の前で中国の工作員と思われる男達に殺害されてしまう。そして彼が死ぬ間際に残した言葉が「カーガーに助けを求めるのだ」というものであった。しかし、曜子にはカーガーの言葉の意味が分からない。唯一、菊原だけが「触ったらあかんで」と忠告を与えたのみであった。
 そんな時、曜子は日本に潜伏するウイグル人グループと接触する。彼らには大きな秘密があった。中国でウイグル人を使った大規模なウイルス実験が行われ数千人規模のウイグル人が死亡し、彼らはその生き残りだというのである。彼らの体内に残った不活性化したウイルスをカードに、アメリカとの取引に成功した彼らであったが、アメリカ側は議会での調整が済むまで彼らを保護できないという。翌朝まで中国の目から逃れなくてはならない彼らだったが、曜子と彼らが会談場所のホテルを出た瞬間に中国の工作員に拉致されてしまう。そんな彼女らを救おうと現れたのは、菊原の命を受けた新藤を筆頭とする菊原組の組員4名であった。工作員5名のうち2名は倒したものの、新藤以外の組員3人は射殺され、絶体絶命のピンチ。そこに黒いホンダアコードに乗った男が現れ、工作員2名をはね飛ばし、新藤と曜子、そしてウイグル人グループ3名を乗せて走り出す。新藤に名を尋ねられた男は「カーガー」と答えるのであった。
 新藤に問い詰められて過去を語り出すカーガー。カーガーこと景村瞬一は元エリートのキャリア警官で、28年前の沖縄でコカインをさばく糸数一家と争う本土のヤクザ・テツと意気投合する。地元の有力者でもある婚約者の大嶺琉美那の父や、友人のCIA職員のエインズワースには関わらないよう忠告を受けるが、景村をねたむ後輩の曾埜田警視に裏切られ、コカイン売買の黒幕である米軍少佐に捕まって
琉美那とともに海に沈められる。エインズワースによって救われた景村であったが、琉美那は死亡、景村自身も死亡扱いとしてCIAに保護される。そして、彼は特殊訓練を受け、弱者を救うためハードな任務をこなす特殊工作員となったのだ。
 この昔話によって新藤達は景村を信じる。新藤が集めた精鋭は12名、そして曜子と共に守るべきウイグル人グループは9名に増えた。そのグループが潜伏していた住宅には、すでに中国の工作員が潜入しており2名のヤクザが殺害される。何とか脱出した景村達は、景村の支援者の用意したタワーマンションに逃げ込むが、中国とつながっている警備局長の差し金で、あっという間に工作員に追いつかれてしまう。マンション内での激しい戦闘の中、ウイグル人を助けるため次々に倒れていくヤクザ達。市民からの通報があってもあえてマンションに突入せず、
中国工作員による景村達の全滅を待つことを選択した警備局長こそ、28年前に景村を裏切った曾埜田であった。しかし、CAI副長官の命により、予定よりも救出時間が早まり、ウイグル人グループは無事アメリカ大使館員に保護される。そして、景村は現場に現れた菊村と見つめ合い久闊を叙する。菊村こそ、かつて景村を兄貴と慕ったテツだったのだ。景村は負け惜しみを言おうとする曾埜田を恫喝し、堂々と現場を去っていくのであった。

 前回読了した藤田宜永『血の弔旗』同様、全く無駄のない、一息で読ませてしまう構成と文章力はさすが。どうでもいいエピソードでダラダラと話を引っぱる作家には本当に見習ってほしい。自分を信用してもらうために、これでもかというくらい自分の過酷な過去を語り続ける景村の様子に少々引いてしまったり、ただのキャリア警官だったにもかかわらず、わずか1か月で特殊技能を身につけ難易度の高い任務を成功させてしまう景村のエピソードに少々ご都合主義を感じてしまったりしないでもないが、極上のエンターテイメント作品として見逃してよい範囲だろう。ヤクザ賛美は許せないという、いかにもありそうな意見に対しても、主人公の曜子が話の途中から景村の影に隠れて霞んでしまうことに対しても、気にするほどのことではなかろう。悪役の曾埜田が結局組織に守られて生き残ってしまう点はスッキリしないが、シリーズ化を考えてのこととして、これも許そう。やはりシリーズ化はあると思う。本作をどう越えていくのか期待したい。

 

『死と砂時計』(鳥飼否宇/東京創元社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)13位作品。

 首長であるサリフ・アリ・ファヒールが絶大な権力を握っている中東のジャリーミスタン首長国では、涸渇しつつある石油資源に代わる外貨獲得のために、死刑制度に揺れる世界各国から死刑囚を有料でジャリーミスタン終末監獄に引き取って死刑を執行するというビジネスを行っていた。本作は、その架空の監獄を舞台に、この監獄ができた時から収監されている牢名主、トリスタン・シュルツ老人が、親殺しの罪で収監された日系アメリカ人の青年、アラン・イシダを助手に指名して、監獄内で起こった事件を次々と解決していくという物語で、6つの章で構成されている。

 第1章「魔王シャヴォ・ドルマヤンの密室」では、死刑を明日に控え、向かい合わせの独房に入れられていたシャヴォとスグル・ナンジョウの2人が何者かによって刺殺され、凶器も発見されないという密室殺人事件に挑む。事件の真相は、魔王と言われていた奇術師のシャヴォが、ナンジョウこそ自分の家族を殺害した傭兵であることに気付き、自分の足の人工骨の中に隠していたナイフに糸を付けてナンジョウに向けて投げて刺殺した後、自殺を図り、凶器は息絶える前に再び人工骨の中に仕舞ったというものであった。

 第2章「英雄チェン・ウェイツの失踪」では、かつて絶対に脱獄不可能と言われていた終末監獄からの脱獄に成功して行方をくらませている中国人医師のチェン・ウェイツの脱獄方法と現在の居場所をつきとめよという命令が、看守長のアリー・アフムード大佐からシュルツに下る。チェンが無事中国に戻られては困る中国政府から圧力が掛かったのだ。アランには全く見当が付かなかったが、この難題をシュルツはいとも簡単に解決してしまう。銀行に放火し大量殺人を犯して収監されたばかりのシャー・フーイーこそ、チェン・ウェイツであると言う。チェンは囚人の遺体をハジ医師のところへ運ぶ際に、囚人全員に埋め込まれている電流を流すチップの位置を調べて自分のチップを取り出し、囚人を拘束する革バンドをハジ医師のところから盗みだし、それをつないで監視員の首を絞めて殺し、彼を重石代わりにして監視台に上って脱出したのだった。彼がなぜ舞い戻ってきたのかというと、隠れていたスラム街で、ひっきりなしに湧いてきて苦情ばかり言う病人に嫌気がさしたからであった。シャー・フーイーに右目がなかったのは、そこにチップがあったからだったのだ。

 第3章「監察官ジェマイヤ・カーレッドの韜晦」では、定年間際の監察官が監察官控室で刺殺されるという事件が発生する。事件発生前、第2収容所のシュルツやアラン達はここでは問題はないと監察官に報告していたが、同じ第2収容所の囚人アダムソンが、第1収容所のムバラクの悪事を訴えていた。取り調べを受けたムバラクが監察官を半殺しにしてやると言っていたという証言に加え、監察官控室にムバラクが入る姿を獄卒のラシードが目撃しており、その後ムバラクが出ていくところを第1収容所の獄卒長アイマンが目撃していたため、ムバラクが犯人であることは間違いないように思われた。しかし、ムバラク自身は、監察官と話していて、後ろを振り向いた時に何者かに殴られて、気が付いたら監察官が死んでいたと主張する。そしてこの謎をまたしてもシュルツはあっさりと解決する。カーレッドの死は自殺であると言うのだ。癌を患っていたカーレッドは現場で死ぬことを望んでおり、ムバラクに罪を着せムバラクに厳罰を与えることを最後の仕事に選んだのであった。

 第4章「墓守ラクパ・ギャルポの誉れ」では、誰もが嫌がる墓掘りの仕事を一手に引き受けていたギャルポが死体を食っているという噂話から始まる。その後、ギャルポが、死刑となったソトホールの墓を暴き遺体を損壊したことが明らかになり、監獄内で重罪を犯せば死刑が確定するというルールに則って、彼の死刑執行日が決定する。執行の直前、囚人のオリベイラを挑発したギャルポは、オリベイラから投げつけられた煙草で、持っていた火薬入りの砂時計に火を付けて自爆する。周囲は呆然とするが、シュルツは全てを悟っていた。チベット仏教を信仰していたギャルポは、同じくチベット仏教に改宗したソトホールを鳥葬するために遺体を損壊したのであった。そして自らも五体投地というチベット仏教の最も丁寧な礼拝スタイルで死を迎えていたのだ。シュルツは彼を誉れ高き男と称え、黙祷を捧げたのだった。

 第5章「女囚マリア・スコフィールドの懐胎」では、男子禁制の居住区で収監2年目となった女囚マリアが突如身ごもるという事件から始まる。シュルツに呼ばれ、ハジ医師のところで事件のあらましを聞いたアランであったが、ぼちぼち探偵役を譲ろうと思っていたというシュルツに置き去りにされたアランは、女囚居住区の担当医ライラに無理矢理女囚居住区に連れて行かれる。そこで彼が出会ったマリアは、彼の幼馴染みであることが判明するが、彼女はアランに会うために殺人を犯してここに来たこと、そしてアランの子供を身ごもっているのだと熱く語る。明らかに精神が壊れている彼女の下半身に男性器を見つけ混乱する彼はそこを逃げ出すが、刑務官に捕まって後頭部に衝撃を食らって意識を失う。彼が意識を取り戻したのはなんと7か月後。マリアの下半身にあった男性器は性具であったことが判明し納得するアランであったが、彼女がすでに出産し、彼女の死刑が執行されていたことに衝撃を受ける。しかも、彼女の妊娠は嘘で、アランを捕まえてライラの協力でアランの子供を人工授精で妊娠することがマリアの目的であったことを知らされ、さらなる衝撃を受けるアラン。当初妊娠3か月目であると主張していたマリアが、その7か月後に出産したものとアランは最初考えていたが、マリアはアランの子供を身ごもった後、死刑執行直前の7か月目に帝王切開で超未熟児としてライラに取り出されていたのだった。

 第6章「確定囚アラン・イシダの真実」では、ついにアランの死刑執行が確定し、アランの口から彼の罪状が語られる。アランは実の父を知らず、母とその再婚相手のネイサン・レンロットと暮らしていた。やがて彼は独立するが足の骨折の療養のため実家に帰ってくる。そして、そこで実の父と思われる人物からの母宛に届いた手紙を勝手に開封してしまう。そこには、差出人のTが、研究対象にしていたTSウイルスによって恐ろしい感染症にかかって死にかけていること、母にも感染した可能性があることが記されていた。もしかしたら自分も感染しているかもしれないと考えたアランは、その真偽を母に問いただそうと家を飛び出す。ところが、家に置いてきたその手紙をレンロットが読んでしまい、体調不良が続いていたレンロットは、母が感染を隠して自分と再婚したと思い込んで激怒し、母を刺殺してしまう。アランは杖でレンロットを撲殺するが、母に刺さったナイフを抜こうとしたことがあだになり、両親を殺害した罪で逮捕され、死刑判決を受けてしまったのだ。シュルツに自分の過去を語り終えたアランは、囚人仲間のマルコとの会話の中で、あることに気付く。シュルツこそ、アランの実の父親だったのだ。彼は細菌兵器の研究をしていたテロリストであった。死刑執行の日、シュルツは命懸けでアランとその子供を脱獄させる。シュルツは、死を迎える直前まで我が子達が世界を舞台に暴れ回る夢を見ていたが、そのシュルツの最愛の「我が子達」というのは息子のアランと孫の2人ではなく、アランの体内に潜んでいるウイルスのことであったのだ。

 アランの親殺しの設定に何の意味もなさそうな第2章までは結構退屈。シュルツの助手と言いながら、何の活躍もしない、そして何の特徴もないただの普通の青年なのだ。
 第3章で、誰もが犯人だと考えている人物が犯人ではないという推理を披露し、わずかながらの成長を見せる。しかし、話としては被害者と思われた人物が実は自殺だったという、第1章とかぶるオチが少々いただけない。
 第4章では、またしてもシュルツに全てを解明されてしまい、立場のないアラン。鳥葬のための死体損壊というオチも微妙。
 そして衝撃の第5章。1つ間違えば「バカミス」決定の大技である。主人公が意識を失っているうちに、何の覚えもない自分の子供が生まれていて、その母は死亡しているなどという話は前代未聞。主人公が都合良く意識不明の重体から7か月目に意識を取り戻すというのもあまりにご都合主義ではなかろうか。
 そこから間髪入れずの第6章。感動の親子の再会と見せかけて、実は、実の父は根っからのマッドサイエンティストでありテロリストであったという救いようのないオチ。著者はこれが一番描きたかったのだろうが、あまりに後味悪すぎ。確かに親子の再会だけではインパクト不足なのは分かるが、何とも言えない虚しさを覚える。

 

『生還者』(下村敦史/講談社)【ネタバレ注意】★★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)15位作品。

 登山家の増田直志は、何年も山を離れていた兄の謙一が突然山に舞い戻り、ネパール東部のカンチェンジュンガ山域で雪崩に巻き込まれ、34歳の若さで命を落としたことに疑問を持つ。しかも、彼の遺品のザイルには何者かによってナイフで傷つけられた跡があった。兄は誰かに恨まれていたのか。
 そんな中、高瀬正輝という男性が
カンチェンジュンガでの雪崩事故から生還したというニュースが流れる。謙一と同じ登山隊の一員ではなくソロで登っていたという彼は、マスコミに衝撃的な証言をする。遭難しかかっていた彼は、謙一達の登山隊に救援を拒絶された後、その登山隊から離脱した加賀谷善弘という人物に助けられるが、加賀谷と共に雪崩に巻き込まれて自分だけが生還したというのだ。加賀谷は英雄として祭り上げられ、謙一達の登山隊のメンバーは世間からの激しいバッシングに晒される。増田は、死んだ兄が世間から責められることも辛かったが、彼にはさらに苦しむ理由があった。増田は、兄の婚約者であった清水美月に想いを寄せていたが、彼女は兄と一緒に参加した4年前の冬の白馬岳登山ツアーで遭難して死亡し、増田が生還した兄を執拗に責めた過去があったのだ。ガイドが道案内でミスを犯してツアー一行が遭難、参加した男性メンバーのみが救援を呼ぶために、女性メンバーと怪我をしていたガイドを置いて下山。男性メンバーは生還し、その後、ガイドの男性も生還したが、女性メンバーは雪崩によって全員死亡。ガイドは女性メンバーを見捨てたとして世間から非難を浴びたという事故だった。
 高瀬が毎日のようにメディアに登場している時、もう一人の生還者現るというニュースが流れる。謙一と同じ登山隊であった東恭一郎は、高瀬が嘘をついていると主張。加賀谷は英雄どころか、登山中にパニックを起こし登山隊の食料を奪って逃げた卑怯者だというのだ。そして高瀬などという登山者とは会ったこともないというのだ。どちらかが嘘をついていることは間違いなかったが、東の主張に対し高瀬が沈黙を守ったため、状況は高瀬に不利な方向に傾いていく。
 週刊誌の記者の八木澤恵利奈は、登山経験を買われて編集長からこの事件の取材を命じられる。東を取材した恵利奈は、カンチに挑んだ理由を彼に尋ねた時、彼の反応に躊躇や困惑を感じ取る。そして、彼女は増田に接触。2人は協力して事件の謎を追い始める。過去の映像から、カンチにふさわしくない装備でカンチに挑んだ高瀬が、加賀谷の装備を奪って生還したのではないかという疑惑をつかんだ2人であったが、高瀬が過去にレスキュー隊員として仲間が事故死する状況の中で臆病だったがために生還した過去があったことを知る。生還の罪でがんじがらめになっていた高瀬は、はたして他人の装備を奪ってまで生還しようとする悪人なのだろうか。謎は深まるばかりであった。
 しかし、2人は、高瀬が加賀谷の妻から人目を忍んで大金を受け取る場面を目撃し、さらには恵利奈が、高瀬が立ち去った後の東の自宅で東の自殺遺体を発見して、高瀬への疑念が大きく膨らむ。
 再びカンチに飛んだ高瀬を、増田と恵利奈は犯罪の証拠隠滅のためではないかと考えて追うが、現地で雪崩に巻き込まれた恵利奈を高瀬が救助したことで、増田と恵利奈は混乱する。そして、ついに彼ら3人は加賀谷の遺体を発見し、高瀬は真相を語り始める。
 謙一達の登山隊は、4年前の悪夢によって恋人を奪われた男達の集まりであった。加賀谷こそ当時女性メンバーを見捨てて助かったガイドであり、登山隊のメンバーは彼への復讐を計画していたのだ。加賀谷は罪の意識にずっとさいなまれ続けており、彼らの思惑を知りながら登山隊に参加。しかも、あえてカンチにふさわしくない装備でメンバー達に殺されようとしていたのだ。殺されるために、加賀谷が、はぐれた登山隊に再び合流しようとしていることを知った高瀬は、加賀谷が眠っているうちに自分の装備と加賀谷の不適切な装備を取り替えて下山する。加賀谷に自分の気持ちが伝われば死ぬことを諦めてくれると期待していたのだが、その下山途中に雪崩に襲われたのであった。加賀谷の妻が高瀬に渡した現金は、加賀谷の遺体捜索のための資金であった。そして東の死は、またしても仲間を失いつつも生還してしまったことに対する罪の意識によっての自殺と考えられた。さらに増田は、4年前の事故で、女性メンバーこそが、加賀谷を見捨てて下山しようとした可能性に思い至る。
謙一の切断されたザイルと同じものを加賀谷が身につけていたことで、増田は、謙一が加賀谷を殺そうとしていたのではなく、彼を信じて試そうとしていたのではないかということにも。ザイルにナイフで傷を付けたのが東だったことも彼の遺書を見た恵利奈の証言で明らかになる。
 真相を知った増田は恵利奈にプロポーズしそうになるが、恵利奈に下山してからも想いが変わらなければと止められる。
 そしてエピローグ。結婚式で恵利奈の隣にいたのは、増田ではなく高瀬であった。増田は、帰国して温かく迎えてくれた恋人の葉子と向き合い、これまで自分を支えてくれた彼女の大切さに気付き、カンチでプロポーズを止めてくれた恵利奈に感謝したのであった。

 「このミス」98年6位作品である夢枕獏の『神々の山嶺』に勝る山岳小説は、少なくとも自分の読了した作品の中にはないと確信している。本作は、その域にまで届いていなくとも、十分に引き込まれ楽しめる内容を持った傑作だった。恵利奈が自分の見た東の遺書の内容をずっと隠し続けていたことがミステリとしてはアンフェアな印象を与えるし、そこまで分かっていて高瀬を犯罪者扱いしてどこまでも追おうとする彼女の態度も少々理解に苦しむし、高瀬がたった1人で加賀谷の遺体を回収しようとしていたことには無理を感じるし、4年前の事故の真相として美月が加賀谷を見捨てて下山しようとしていたことには納得が行かないし…などと、引っかかる点はいくつか見られるのだが、それらを差し引いても満足できるオススメの1冊である。

 

『東京結合人間』(白井智之/角川書店)【ネタバレ注意】

  「このミス」2016年版(2015年作品)16位作品。タイトルから経験上何となく嫌な予感はしていたが、予想通り、いや予想を越えたエログロ全開のぶっとび系だった。最初の数ページでほとんどの読者は眉をしかめるであろう。舞台は現代の日本に違いないのだが、世界観が大きく異なっている。この世界での性交とは、男女のどちらかが相手の肛門に頭を突っ込むことで「結合」し、4つの目を持ち、女性側の人格を残した1人の巨大(身長2〜4m)な「結合人間」になる(この状態で妊娠・出産も行うらしい)。大人で「未結合」の人間は世間では白い目で見られる。ごくまれに「結合」によって男性側の人格を残した「オネストマン」が発生するが、嘘をつけないという特徴があり、これによって「ノーマルマン」との円滑なコミュニケーションが困難になるため「未結合」の人間以上に差別の対象となっていた。さらには羊歯病という不治の性感染症が、結合人間、未結合人間にかかわらず蔓延し問題になっている。このような世界観の中での、絶海の孤島での密室殺人事件を扱った作品である。

 「プロローグ」では、人気モデルの川崎千果と気鋭の映像作家ヒロキの「結合」シーンが描かれ、オネストマンとなってしまった彼(ら)が、2週間後に傷害容疑で指名手配されるというアナウンスで締めくくられる。

 前編の「少女を売る」では、寺田ハウスと呼ばれる、ネズミをリーダーとするオナコ、ビデオの「未結合」3人組の犯罪が描かれる。彼らはかつてAV作品の制作販売を行っていたが、現在では売春の斡旋を行っていた。彼らは、瀬川栞という女子中学生を監禁していたが、彼女が友達が欲しいと訴えたため、彼らは下村茶織という女子中学生を拉致してくる。結局栞は衰弱死し、同じ日に茶織も彼らによって殺害され、遺体は車ですり潰した上で山に撒いて処分された。
 彼らと繋がりが深かった異常性癖のある中村大史が逮捕されたことで、彼らは東北へ逃亡し、ほとぼりの冷めた1年後に東京に帰ってくる。中村の逮捕後、売春組織の摘発が進んだこともあって、ネズミは新しい仕事としてドキュメンタリー映画の制作を立案する。素人の出演者に建物を用意して好き勝手に生活させ、その様子を放送した「つぼみハウス」というテレビ番組がヒットしたことをヒントに、オネストマンを集めて、同じような作品を撮ろうというのである。ロケ地は八丈島の西に位置する呉多島をすぐに借りることができたが、肝心のオネストマンの出演者が集まらない。結局集まった5人に、ノーマルマンの2人をこっそりと加えたヤラセを画策する。出演者は、私立探偵の今井イクオクルミ、フリーライターの圷(あくつ)ミキオミサキ、元高校教師で圷の担任だった小奈川ヨウスケミイ、元内科医の浅海ミズキハルカ、23歳無職の丘野ヒロキチカ、マスクで顔を隠している身長4m以上のイラストレーターの双里ワタルカオル、元生命保険の外交員の神木トモチヨの7人。
 しかし、呉多島へ向かう船の中で事件が起こる。今井は3人組の犯罪を把握しており、それを知った3人が彼を襲おうとしたところ返り討ちに遭い、3人とも海へ転落してスクリューに巻き込まれ死亡してしまう。

 後編の「正直者の島」では、今井が他の出演者に嘘をつくことから始まる。操舵手が3人組を襲って海へ転落させ、操舵手自身も海へ転落したのではないかと伝えたのだ。操舵手を失った船は呉多島とは別の島に打ち上げられる。そこは画家の狩々(かりがり)ダイキチモヨコとその15歳の娘の麻美の2人だけが住む島・カリガリ島であった。定期船は1週間後に来るのでそれで帰れと言われ、それまでは狩々の館を建てる時に作業員を住まわせた宿舎を借りることのできた今井達であったが、翌朝またしても事件が起こる。
 丘野は、狩々が男女両方の意識を残した伝説の結合人間であるジョイントマンと信じ、証拠をつかむために早朝から狩々の屋敷の外に張り込んでいたのだが、圷が駆け付けた時、屋敷の中で狩々と娘の麻美の刺殺体が発見されたのだ。館は密室状態で、犯人が奪った鍵を使って施錠して逃亡したと考えられた。今村の2人を殺したかという問いに全員が殺していないと答える。7人とも嘘をつけないオネストマンであれば犯人は外部にいることになるのだが…。
 漂着4日目、双里が羊歯病を発症。羊歯病を発症すると虫が集まるくらい甘い体臭を放つようになり、全身が血豆だらけになり、やがて死亡するのだ。
 漂着5日目、行方不明になった双里を捜索中に圷は雪崩に巻き込まれ左脚骨折の重傷を負う。双里は崖から飛び降り自殺を図って内臓破裂の重態に陥り、さらに神木が殺害される。今井は、7人全員がオネストマンと思われた出演者の中に、2人のノーマルマンがいる可能性を指摘する。
 漂着6日目、今井は、犯人の正体と密室の真相にめどが付いたというが、もう少しだけ頭を整理したいといって口をつぐむ。そんな時雹が降り注ぎ、窓ガラスが割れ丘野が失神する。
 漂着7日目、双里の死亡が確認された朝、今井の提案で残った者はカリガリ館へ向かう。そこで今井は、狩々親子殺害の犯人が神木であったという推理を披露する。問題は神木を殺害したもう1人のノーマルマンは誰かということに絞られ、今井は丘野こそその犯人であると指摘し、彼を縛り上げる。丘野は、これまで隠していた、今井こそ映画クルー3人を襲った犯人であるという目撃体験を暴露し、今井がノーマルマンであることを主張して、狩々二重人格説と浅海の狩々親子殺害犯人説を唱えるが、今井にあっさりと矛盾点を論破されてしまう。そこへ2人の男女の未結者が現れる。定期船の船員かと思いきや、男は姪っ子を殺した寺田ハウスの3人に復讐するために今井を雇った人物であった。女は浅海を殺害するが、反撃に転じた圷は今井を、丘野は女を倒す。男は、丘野に追い詰められ崖下に転落死する。生き残った3人で事件の真相を検討するが、圷はエッシャーの堂々巡りの階段の絵画をヒントに、双里を含めた4人が全員オネストマンであることを証明し、今井と浅海が神木殺しの犯人であるという結論を導き出す。さらに睡眠薬を使った時間トリックで、今井が狩々親子殺害犯であると断言する。
 無事カリガリ島から生還した圷は、小学校の卒業式以来話したことのなかった娘からの電話を受け、喜んで再会の約束をする。

 「エピローグ」では、羊歯病を発症した人物が、かつて売春組織で雇っていたヒメコにマンションに誘われる。その人物は、死んだはずの寺田ハウスの1人、オナコこと丘野萌子であった。オナコは今井に船から落とされたものの、這い上がって丘野ヒロキチカと入れ替わっていたのだ。ヒメコは事件の真相を全て見抜いていた。時間トリックの矛盾を指摘し、さらに島にはこれまでのニュースには登場していない少年が存在していたという説を示す。狩々は娘と息子の結合をたくらんでおり、今井に結合人間スーツを着ていることを見抜かれることを恐れた未結者のオナコは、その少年と結合することによって、頭にだけそれまでの結合人間スーツをかぶって、出演者達の目をあざむいていたのであった。オナコは、少年と結合するため狩々親子を殺害し、入れ替わりに気付いた神木をも殺害していたのだ。オナコを挑発するヒメコに激高して暴行を働くオナコであったが、ヒメコは壊れたように笑い続ける。そしてオナコは、その部屋に縛られた結合人間が転がされたことに気が付く。それは圷だった。ヒメコこそ圷の娘だったのだ。オナコが、真相を知られた圷の顔面に向けてナイフを振りかぶったところで物語は幕を下ろす。

 カリガリ島上陸の時点で、ノーマルマンの1人が他のメンバーに嘘をついている今井であることは明らか。プロローグに登場した丘野がオネストマンであることは明らかなため、狩々親子殺害の犯人捜しは比較的容易かと思いきや、その犯人候補は二転三転する。しかし、正直その展開はあまり面白いものではない。オネストマンとノーマルマンという2種類の人間が存在することの設定は生かされているものの、事件自体はミステリの定番であり平凡。様々なトリックや推理合戦はあるものの、ごちゃごちゃした説明は理解しようとするのも面倒臭く、ほぼ流し読み。エピローグで、この世界観ならではの驚愕のどんでん返しが待っており、決して平凡な事件ではなかったことは明らかになるのだが、嫌悪感の方が勝って感動はなし。この前代未聞の結合トリックネタをエログロで描く必要は果たしてあったのか。一定の熱烈なファンは現れそうだが、自分は遠慮したい。

 

『フィルムノワール/黒色影片』(矢作俊彦/新潮社)【ネタバレ注意】

  「このミス」2016年版(2015年作品)17位作品。探偵が大女優に行方不明者の捜索を依頼されるというのはミステリの定番の1つなのか、本作の冒頭は、7月に読了した「このミス」2016年版4位作品の若竹七海『さよならの手口』同様の展開。序盤から、著者が相当の映画好きであることが伝わってくるのだが、表紙のイラストからも想像が付くように、往年の悪役俳優、宍戸錠が実名で登場する。映画好きにはニヤリとできるような描写が多々あるのだろうが、残念ながら私には何となくしか分からない。

 本作での探偵役となる主人公の二村永爾は、「このミス」2005年度版4位『THE WRONG GOODBYE』で起こした問題によって神奈川県警を辞めたものの、なぜか県警の嘱託となって復帰し、被害者支援対策室で被害者の対応をしているという設定。そんな彼に、映画女優の桐郷映子から依頼が舞い込む。映画監督だった父の幻の遺作が香港でオークションに出品されることが分かり、それを買い付けに行かせた彼女の運転手も務める若手俳優が行方不明になったため、彼を捜し出し、父の遺作を入手してほしいという依頼であった。その俳優の母親が続けて殺人事件に絡んでいたこともあり二村は香港へ飛ぶ…。

 このあたりまでは、まだいい。しかし、彼が香港に飛んで、怪しいビルに潜入してからが、だんだん読むのが辛くなってくる。作者独特のハードボイルドタッチの言葉遊びに加え、作者が趣味の映画関係のうんちくに全力を注ぎ込む余り、ただでさえ煩雑な状況説明がさらに分かりにくくなっており、読んでいて非常に疲れてくるのだ。二村が香港のよく分からない場所をうろついて、不審者を追いかけ殴られ気絶、また追いかけ殴られ気絶、そして死体を発見し…、何となくそういう感じの繰り返し。途中で突然クリケット選手になったりもするのだが、次々登場する現地の登場人物も男女ともにインパクトがなく、とにかく退屈。なんとか我慢して最後まで読んだが、オチもぱっとしない。Amazonのレビューを読むと絶賛の方が多く理解に苦しむのだが、元々作者のファンが購入して書き込んでいるからこういう結果になるのだろう。作者のファン、昭和の映画ファン以外にはオススメできない。

2016年10月読了作品の感想

 

『赤い博物館』(大山誠一郎/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。 警視庁付属犯罪資料博物館を舞台にした作品。ロンドン警視庁にある同様の施設を舞台にして人気を博した藤田和日郎の漫画『黒博物館』シリーズを最近読んだところだったので、少なからず影響を受けているように感じた。本作は、5つの短編からなり、TVドラマシリーズになりそうな話だと思って、調べてみるとすでに8月29日に単独のTVドラマとして松下由樹主演で放映されたらしい。反響次第でシリーズ化も考えているのだろう。
 捜査資料を容疑者宅に置き忘れ、SNS上に公開されてしまうという失態を犯して、警視庁捜査一課から犯罪資料博物館に左遷された寺田聡は、博物館の館長、雪女こと緋色冴子とともに、過去の犯罪資料のデータベース作成の仕事に明け暮れている。キャリアでありながら閑職と言える館長の座に8年もいる緋色は、事件発生から15年後に博物館に送られてくる捜査資料の見直しの過程で、次々に隠されていた事件の真相を明らかにし、実際の捜査を任されていた寺田を驚かせていくという物語である。

 「パンの身代金」…業界最大手の中島製パン社長が商品に針を入れ続ける犯人に身代金を渡すため向かった廃屋で、身代金を残して行方不明になり、30km離れた河川敷で死体となって発見されたという事件について、緋色は驚くべき推理を寺田に語る。廃屋で社長が失踪したように見えたのは、社長が現場を監視していた捜査員になったからだというのだ。社長のふりをして取引現場に向かったのは、実はその車両に同乗し監視する役だった鳥井警部補で、社長の失踪は自作自演だったというわけだ。針混入の捜査の過程で鳥井警部補が轢き逃げ事件を起こし、その車両に乗っていた社長と社員の安田が事件の隠蔽に同意したものの、安田が自首しようとしたため、身代金の受け渡しにまぎれて社長が安田を殺害に向かったが返り討ちにあったというのが事件の真相であった。この件で、寺田と緋色は、有能だった鳥井の同期の今尾に恨まれることになる。

 社長と捜査員の入れ替わりという設定があまりに突拍子すぎ。社長と鳥井警部補のこの作戦はあまりにリスキーではないのか。轢き逃げ事件の隠蔽のため、共謀して殺人まで計画するという動機の点でも無理を感じるのだが。

 「復讐日記」…元交際相手の是枝麻衣子から相談に乗ってほしいという電話を受けた大学生の高見恭一は、向かった彼女のマンションで転落死した彼女の変わり果てた姿を見て錯乱する。何者かによって自室のベランダから落とされたらしい。彼は、自分の指導教官の奥村が麻衣子の新しい交際相手で、奥村の子を妊娠した彼女を邪魔に思った奥村が彼女を殺害したのではと予想する。奥村を問い詰めるとその通りであり、逆上した高見は奥村を刺殺。ところが、事件を記録した高見の日記が空き巣によって盗まれ、それが警察に届けられたことで彼に捜査の手が伸びる。警察の手から逃れようとした高見は交通事故で死亡し事件は終結したように思われていた。
 しかし、緋色は寺田に再捜査を命じる。寺田は再捜査を通じて、奥村を殺害したのは麻衣子の母であり、高見が彼女をかばっているのではと考えるが、緋色は、高見がかばっているのは麻衣子であると断言する。奥村は麻衣子よりも先に麻衣子によって殺害され、麻衣子は自殺。そのことを知った高見は、架空の日記と、エアコンを使った死亡時刻攪乱のトリックで、麻衣子の罪を隠そうとしたのだった。

 エアコンを使ったトリックは陳腐ではあるものの、架空の日記と組み合わせることによって殺人の順序を入れ替え、加害者と被害者を入れ替えてしまうという展開はそれなりに目を引く。しかし、面白いかと言われると…。

 「死が共犯者を別つまで」…寺田は交通事故を目撃し、被害者の友部義男が25年前の9月に交換殺人を行ったことを彼に告白して死亡する。殺害した相手は聞き取れなかったが、友部の伯父が25年前に強盗に殺害されており、友部が遺産を引き継いで、事件は未解決になっていることが明らかになる。緋色は25年前の9月に起こった未解決事件を調べ、寺田は交換殺人のもう一方の事件に見当を付ける。しかし、緋色は彼の推理を否定。25年前の友部と、交通事故死した友部は別人であると言う。そして、同じ時期に駅のホームで突き落とされて殺害されていた斉藤千秋の夫、斉藤明彦が共犯者であると推理し、友部の伯父殺しの犯人は友部の妻、真紀子であると断言する。真紀子は千秋殺害後、夫の友部も殺害し、過去の共犯の明彦を友部に仕立てて一緒に暮らしていたのだった。

 過去の事件の中から、複数の交換殺人事件候補が並べられた時点で、寺田の予想する事件の組み合わせと、実際の組み合わせは違うのだろうという予想は付くが、犯人当てまではさすがに難しい。交換殺人トリックとしては、なかなか良くできていると思うが、やはり物語として面白味に欠ける。

 「炎」…本田英美里は、幼稚園の時、両親と叔母を一度に亡くした。叔母の元交際相手が3人を毒殺し、家に火を放って逃亡するという事件を起こしていたのだ。英美里の母は、その時妊娠中であり、彼女は一度に4人の家族を失ったのであった。その元交際相手は、逮捕されるどころか何者かも分からないままであった。
 いつものようにこの事件の再捜査を緋色から命じられた寺田は、当時5歳だった英美里や幼稚園の園長が犯人ではないかと大胆な推理をするが、緋色に一蹴される。緋色の導き出した真犯人は英美里の母の朋子であった。実は英美里は、父の章夫と叔母の晶子との間に、間違いの結果生まれた子で、再び晶子が章夫の子を妊娠したことで、一時は英美里同様に章夫と朋子の子として育てることに朋子は同意し、英美里にも自分が妊娠していると嘘をつき続けたが、結局我慢できなくなり2人を毒殺し、自分も服毒自殺を図って家に火を放ったというのが真相だというのだ。焼死体をDNA鑑定した警察は、妊娠していた女性の遺体をを朋子、そうでない姉妹と思われる遺体を晶子と判断したが、実際は逆だったのだ。

 これもなかなかにトリッキーな作品である。しかし、寺田の推理は元捜査一課とは思えないほど馬鹿馬鹿しいものであるし、警察が焼死体を取り違えるということもあり得ないと思われる。歯形などから姉妹のどちらかは確実に明らかになるはずで、妊娠していた女性が、世間での話とは違っていれば、当然事件の真相に警察は気付いたはずだ。

 「死に至る問い」…26年前に起きた殺人事件と全く状況が同じ殺人事件が起き、捜査一課の元同僚達が、寺田の所へ過去の捜査資料を取りに来る。複雑な気持ちになる寺田。警察は同一犯の犯行と見て捜査を開始するが、そのような状況の中、監察官の兵藤が博物館を訪ねてくる。兵藤は26年前の捜査関係者の中に真犯人がいるのではないかと考え、再捜査に実績のある緋色に極秘捜査を要請してきたのだ。両方の事件では、被害者のセーターの袖に、被害者とは別の血痕が付着していた点まで一致していたが、緋色は、その両方の事件の血痕に血縁関係はなかったのかという質問を記者会見の場で行った新聞記者・藤野純子こそ犯人であると断言する。藤野は、子供の頃父に虐待されていた。藤野は、ある日、自分を襲わせようと父が連れてきた福田富男という男を正当防衛で殺害してしまう。父はその死体を捨てるが、その死体に自分の血が付いていたことを後で知り、藤野に密告され自分が殺人犯とされてしまうことを恐れ藤野への虐待をやめたが、その後間もなく死亡。結婚し子供をもうけた藤野は、父と同じように子供を虐待してしまう自分が嫌になり、父との血縁関係がないことが判明すれば、自分は子供を虐待しなくて済むという妄想に取り憑かれる。そして彼女は、当時の福田富男と同じ年齢の何の罪もない渡辺亮を殺害し、自分の子供の血液を遺体に付着させて、警察に血縁関係を調べさせようとした。彼女は父と血縁関係がないことを聞かされ、安らかな笑顔で微笑んだのだった。

 なぜ事件の真相に気が付いたのかという寺田の問いに対し、「同じようなことを考えたことがあったから」と意味深な答えを返す緋色。今後の続編の伏線だろうが、次元が異なれば多かれ少なかれ似たようなことを考えたことは誰にでもあるのではなかろうか。例えば自宅前に不法投棄があっても、よほど悪質なものでないかぎり警察は捜査などしてくれないだろうが、そこに死体があったら警察は指紋採取やら何やら必死にやって、元の持ち主を見つけ出してくれるだろうにという想像は何度もしたことがある。
 さて、この話もよくできているとは思うが、一番気になるのは警察が同一犯の犯行と決めつけて捜査を開始するところ。なぜ同一犯なのか(実際はそうだったのだが)。何か警察への強いアピールがある模倣犯による犯行の方が明らかに可能性が高いのではないか。過去の事件にもう一度、関心を持ってしっかり調べ直してほしいとかいった動機だ。
 緋色が行った血縁関係を調べるために事件を起こしたのではないかという推理は、さすがに常人には思いつかない。これは感心するというよりは、そんなことを思いつくこと自体あり得ないという意味だ。

 突っ込みどころも多いが、どのエピソードも「犯人の意外性」という点では素晴らしいと思う。しかし、何より気になるのは、先に何度も述べたが、面白味に欠ける点だ。問題はキャラクターだと思う。メインの寺田と緋色の人間的魅力が全くないのだ。寺田は捜査資料を容疑者宅に放置するという致命的なミスを犯し、犯罪資料博物館に左遷されてくるわけだが、ここに全く同情の余地がない。もっとやむにやまれぬ事情、例えば事件の被害者の人権を守るために上司に楯突いたとかいうなら、そこに魅力が生まれるわけだが、彼の場合は誰の目から見てもやってはいけないミスだ。そして、左遷先の博物館でも、これといった情熱的な捜査をするでもなく、中途半端な推理で緋色にいいようにあしらわれるだけの存在である。かといってコミカルな味わいがあるわけでもない。そんな彼に引かれる読者などいるわけがない。緋色に至っては、頭がいいだけの、ただのつまらないクールビューティである。時折見せる人間味というものがなければ、そのキャラ設定は生きてこないだろう。 

 

『黒野葉月は鳥籠で眠らない』(織守きょうや/講談社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。 弁護士生活2年目に入ったばかりの木村龍一が、先輩弁護士の高塚のアドバイスを受けながら様々な事件に向き合う中で、隠されていた事件の真相に気付き困惑する様を描いた作品。

「黒野葉月は鳥籠で眠らない」…大学生の皆瀬理人は、自分が家庭教師をしていた教え子の高校生・黒野葉月に淫行をさせた罪で逮捕されるが、接見室に現れた皆瀬の他人事のような態度に対し、木村はいらだちを感じる。しかし、関係者に話を聞けば聞くほど木村は困惑する。さらに、弁護士事務所に現れた葉月自身の証言によって、葉月の方が皆瀬につきまとい、自室で皆瀬を押し倒したところを葉月の父親に見つかって通報されたことが明らかになる。葉月は皆瀬に前科が付かないように、彼が起訴されるまでに両親を説得すると言う。
 そして彼女は、結婚すれば未成年でも成人扱いになると言って婚姻届を用意し、彼にサインさせてしまう。両親のサインは明らかに偽造であったが、公文書偽造の罪で両親が娘を前科者にするはずはないという読みは当たり、無事皆瀬の不起訴が決まった。
 木村は、釈放された皆瀬と葉月が再会する場面に立ち会って、皆瀬の弟が、「兄貴は一度も嫌だと言ったことはなかった」と呟いたことを思い出すのであった。

 病的で極悪な女ストーカーの話かと思いきや、実は恋愛小説で、最後にはハッピーエンドを迎えるという何とも言えない作品。散々振り回された読者は「なんじゃそりゃ」と呆然とするしかないのだが、まあ、それが作者の狙いでもあるのだろう。 

「石田克志は暁に怯えない」…木村のロースクールでのクラスメイトだった石田は、夢より大事なものができたと言ってロースクールを辞め、結婚して働き出したのだが、その石田の妻から、彼が住居侵入の罪で捕まったと木村に連絡が入る。実はその家は、石田を彼の母親と共に捨てた、資産家でもある石田の父の家であった。難病で余命幾ばくもない息子の手術代を借りに行って断られたが、再び引き返したところを、事情を知らなかった家政婦に通報されたということで、彼はすぐに釈放される。しかし石田は木村に住居侵入は本当だと告白する。彼は息子のために本当に盗みを働く気でいたのだと。
 結局彼は、その後、父を殺害してしまう。それは、父を殺すことで、その資産を息子に相続させるためであり、友人のその捨て身の決意に木村は胸を痛めるのであった。

 前作に引き続き、色々と法律の知識は学べる。身内の家に泥棒に入っても罪に問われることはないとか、子が親を殺せば、その子は相続権を失うが、その子の子、つまり被害者の孫は相続権を得られるとか…。そういう法律ネタをちょこちょこ入れて、読者にへぇーと思わせて油断させておいて、何かを仕掛けてくるのがこの作者の常套手段らしい。弁護士を目指していた石田が、結婚のためにゴミの収集作業員になったという設定が極端にベタすぎてどうかと感じた以外は普通の話であった。ここまで読んでも、まだ作者のスタイルは完全に掴みきれず、戸惑いながら読み進めることになる…。 

「三橋春人は花束を捨てない」…行きつけの弁当屋の店員である深浦葵子に、後輩の三橋の離婚のことで相談に乗ってやってほしいと頼まれる木村。三橋は、妻が浮気しており、離婚を考えているが、お金はいらないから1歳の娘の親権だけは欲しいと訴える。木村の働きもあって、無事離婚が成立し、実は両想いであった葵子と三橋がいい雰囲気になるのを微笑ましく見守っていた木村であったが、木村は恐ろしい事実に気付いてしまう。三橋は、独身の時から葵子に迫っていたが、子供が産めないことを理由に彼の求婚を葵子は受け入れなかった。そこで、三橋が考えたのが、離婚を前提に結婚して子供を作るという策だったのだ。
 先輩の高塚から、「絶対に欲しいものが決まっている人間が、どれだけ強くて怖いものかを覚えておけばいい」と告げられ、木村は依頼人に対して抱いた「恐れ」という感情を自覚するのであった。

 誰かが死ぬような話ではないが、人間の恐ろしさをちょっと変わった方向から示してくれる話。バッドエンドのようで実はハッピーエンドだった第1話と逆で、ハッピーエンドのようで実はそうではなかった(悪人と思われていた三橋の妻が一番の被害者だった)という物語。高塚の言葉が全てを物語っている。

「小田切惣太は永遠を誓わない」…先輩の高塚は、木村が憧れている芸術家・小田切の顧問弁護士であった。高塚に連れられて、喜んで小田切の自宅を訪れた木村は小田切遙子という小田切の妻らしき美しい女性に引かれる。その後、彼女が実は小田切の娘であったことを知り驚く木村であったが、2人の異様に親密な様子と、遙子の泣いている姿を見てしまった木村は、小田切の性的虐待を疑う。
 しかし、小田切の病死によって真相が明らかになる。小田切は、縁を切っていた親兄弟に自分の資産が一切行かないように、妻であるべき遙子を、あえて養女としていたのであった。妻であればいくらかはどうしても親に相続権が与えられてしまうが、娘がいれば全額娘が相続することになるのだ。木村は、彼女にできることは何もないことを知り、それでもこれでいいのだと考えるのであった。

 これまでの話と同じように、法の力を利用して望む幸せを得よう必死になる人間の姿を描いているのだが、第2話や、第3話と異なるのは、その人間が決して罪を犯したり、人を傷つけたりはしていないことだ。確かに小田切の遺産を相続できない親兄弟は傷つくだろうが、小田切をそれまで傷つけてきた人々なのだから、これは致し方あるまい。本来得られるべき小田切の妻という座を得られない彼女こそ、一番の被害者とも言えるが、これは彼女が選んだ道である。彼女は、これで幸せなのだろう。
 
本書は、「法の力を利用して望む幸せを得よう必死になる人間の姿を描いている」と先に述べたが、もっとベタな言い方をすれば、「色々な愛の形を描いている」作品だとも言えるだろう。愛のために手段を選ばない人間の恐ろしさというのは、ミステリー小説のある意味根源のような気もする。
 これで「このミス」2016年版(2015年作品)の上位20作品は全て読了。

 

『ダブル』(深町秋生/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2011年版(2010年作品)14位作品。

 CJ(クールジュピター)というインド系製薬メーカーが開発した中枢神経刺激薬は、その興奮作用の強さから6年前に販売が禁止されたが、他の薬物に比べて圧倒的な安さのため日本国内で蔓延していた。神宮ェ孝会長とその部下である四天王(軍事担当の鏑木・物流担当の宋、弁護士の小林、買い付け担当の久我)の率いる新興組織・神宮ファミリーは、そのCJの密売で急成長しており、組織の一員であった刈田誠次は、弟の武彦とともにその勢力拡大に一役買っていた。しかし、組織を裏切った兄貴分の五木を処分する仕事をこなしたことをきっかけに、武彦は組織内で御法度だったCJを服用し、警察ともトラブルを起こしたため、組織に追われるハメになる。刈田は元恋人の関根美帆に武彦を一旦預け、偽造パスポートで海外へ逃がそうとするが、組織内でスパイ調査を専門にしている阪本克也によって刈田と武彦は拉致される。
 刈田は神宮の所有する高級クルーザーの上で意識を取り戻す。警察の内通者だったことが発覚した神宮の恋人の篠崎奈緒美を迷いもなく射殺した神宮は、その銃で刈田に武彦を射殺するよう命じるが刈田は拒否し、阪本と撃ち合いになる。神宮は刈田の銃を奪い返し武彦を射殺。阪本に肩と腹部を撃たれた刈田も海へ転落する。
 漁船に拾われ奇跡的に一命を取り留めた刈田の病室に、3週間後、警視庁組織対策五課の園部佳子が現れる。彼女の置いていった新聞の記事で奈緒美も絞殺されたことを知り激高する刈田。園部の父は警官で薬物中毒者によって殺害されていた。そして奈緒美は園部の友人であった。園部は薬物犯罪者を深く恨んでおり、神宮を恨む刈田と利害は一致していた。再び病室を訪れた園部は、整形手術を受け別人となって再び組織に潜り込み神宮に復讐することを刈田に提案し、刈田はそれに応じる。刈田は顔のみならず、全身の傷を整形し、さらに声も変えて、かつて勤めていたクラブの用心棒となり、かつて組織の同僚だった屋敷直道にスカウトされるよう仕向ける。
 その頃、木更津にある神宮ファミリーのダミー会社から大量のCJを奪うことに成功した
晃龍会会長の錦匡史は、鳴海という部下を使い、神宮ファミリーを潰すために、新潟に荷揚げされるCJを奪うという次の計画を立てていた。佐伯達雄という別人に生まれ変わった刈田は、新潟の荷揚げの防衛任務を任され、大量の催涙スプレーを使って見事に敵を撃退する。
 佐伯は園部から神宮ファミリーには麻取の捜査官が潜入させてあることを告げられ驚く。しかし、警察内部にも神宮ファミリーの内通者がおり、それは園部の同僚の山井であった。彼は、阪本に奈緒美と接触していた刑事として園部の名を伝える。
 川越の流通団地で、晃龍会は神宮ファミリーのCJを狙って2度目の襲撃をかけるが、佐伯や屋敷、屋敷の部下の円藤らの奮闘によって撃退。2度もしくじった錦は、兄貴分の城島に消される。
 屋敷から、阪本が園部を拉致したことを聞いた佐伯は、園部が監禁されている工場へ向かう。疑われないよう園部を執拗に殴った後トイレに向かった佐伯は、阪本の部下の梶が麻取の捜査官であることを知る。梶の通報で警察が工場を急襲し、そのどさくさに佐伯は阪本を射殺する。屋敷と逃亡中に佐伯の正体に気付いていた屋敷と撃ち合いになり、屋敷は佐伯の銃弾を胸に受ける。死ぬ間際に「お前でよかった」とつぶやいて屋敷は死亡する。
 小林の別荘に集結した四天王は、佐伯が晃龍会から受け取った錦の電話が録音されたUSBの内容を聞く。晃龍会と通じていたのが久我であることが明らかになるが、久我はセルビア警察の特殊部隊にいた部下を使って別荘を制圧してしまう。しかし、鏑木や小林は全く動揺を見せない。久我の部下は狙撃によって次々に倒れ、久我も鏑木に首を折られて死亡する。そして、その場に現れた狙撃手の円藤こそ、顔を変えた神宮会長であった。神宮の音頭で日本旅館で祝杯を挙げることになった神宮ファミリー。会場に神宮と2人で先に向かうことになった佐伯は、道の駅のトイレで神宮を撃とうとするが、神宮は全てお見通しであった。しかし、佐伯もぬかりなく警察へ連絡済みであった。警察の突然の襲撃に車を奪って逃走する神宮。そしてバイクでそれを追う佐伯。車に飛び移り神宮を狙うが、車から飛び降りた神宮も、車に乗ったままガードレールに衝突した佐伯も重傷を負うが、腹部を2発撃たれた佐伯は得意の頭突きでガソリンの漏れた車の方へ神宮を突き飛ばし、そこにライターで火を放って神宮を倒す。
 佐伯は一命を取り留め、園部から美帆との間に生まれた息子が生きていることを知らされ涙を流す。園部は事件のショックでまともに睡眠が取れない状態であったが、翌朝、佐伯が病院から姿を消したことに驚く。佐伯が残していった奈緒美の遺品のネックレスを見つけた園部は、今夜は少しだけ眠れそうな気がするのであった。

 決して面白くないわけではないが、選りすぐられた「このミス」ランキング上位作品の中にあっては、可もなく不可もなくといった感じ。主人公が2度も奇跡的な生還を遂げ、しかも息子の存在を知って元気が出たのか、瀕死の状態で病院を抜け出し姿をくらますラストは、感動するどころかヤリスギ感を感じてしまうが、それ以外は良くできているのではないかと思う。
 もう1点気になる点を挙げるとすると、それは『ダブル』というタイトル。これについては、文庫版巻末で杉江松恋氏が解説されており、「『
分身』の小説には『ドッペルゲンガー』と『ふたご』の2つの類型が存在し、この小説にはこの2つの『分身』の要素が並立している」「武彦、神宮は刈田にとって『ふたご』としての自分なのである」「手術によって『もう1人の自分』になりおおせた男の話と見せかけ、内に『自分を脅かす自分、外に『統御できない自分を抱えた主人公の自己崩壊の物語」と分析している。言っていることが分からないでもないが、本作を読んでいても、そこまで強く『分身』の要素について意識するようなことはない。この程度の構造は多かれ少なかれ他の作品にもあるのではないか。だから、この『ダブル』というタイトルが今一つピンと来ない。「姿を変えて物語の舞台に再登場したのは主人公だけではなかった」という意味くらいしか見いだせないのが正直なところ。

 

『落下する緑 永見緋太郎の事件簿』(田中敬文/東京創元社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2007年版(2006年作品)14位作品。ジャズバンド「唐島英治クインテット」のメンバーで、音楽以外に興味のないちょっと変わり者のテナーサックス奏者・永見緋太郎が華麗な推理で音楽に関する事件の謎を解く本格ミステリー。主人公は永見だが、語り手は唐島となっており、「落下する緑」「揺れる黄色」「反転する黒」「遊泳する青」「挑発する赤」「虚言するピンク」「砕け散る褐色」の7編を収録。作者は「落下する緑」でデビューしながら、その後なぜかミステリーの依頼がなく、ジュブナイルやSF、伝記ホラーといったジャンルの方面で仕事をし、10年もすぎてから続編のオファーが来たのだという。

 「落下する緑」…唐島に連れられて抽象画の第一人者・宮堀重吉の展覧会にやって来た永見は、一緒に飾られていた弟子の菊池修介の凡庸な風景画に興味を持つ。そんな時、宮堀の最新作が図版とは逆さまに展示されていることが発覚して宮堀は激怒し菊池に直させるが、そこで永見はあることに気が付く。実は、図版の方が逆さまであったのであり、正しい上下を知っていた菊池こそがこの作品の真の作者だったのだ。菊池は父親の弱みを握られやむなく代作を描かされていたのであった。

 ストーリーは普通だが、緑と金色の点の集まりにしか見えなかった絵の中に、金色のテナーサックスが浮かび上がって見えたというラストシーンが印象的。文庫版の表紙もこの絵がモチーフになっており、このアイディアはなかなか。ありえないくらいデリカシーのない美術館職員が登場するが、この人物のせいで永見の変人ぶりがかすんでしまっているのが少々惜しい。当初のプロットでは、職員のセリフも永見に割り振るつもりではなかったのだろうか。

 「揺れる黄色」…唐島氏に連れられて今度は国際的なクラリネット奏者である牧沢のステージにやって来た永見は感動して涙を流す。牧沢はキング・オブ・ジャズ・クラリネットと呼ばれたアニー・エドマンからクラリネットを譲られた正真正銘のキングの後継者であった。翌週再び彼の出演するコンサートに向かった唐島と永見。永見は牧沢の兄弟弟子の野々山の演奏を全然面白くないと酷評する。そんな中、楽屋に置いてあった唐島の財布から札が盗まれ、さらに牧沢のクラリネットからバネが消えていた。野々山が自分のクラリネットからバネを外して貸すことで、そのコンサートは無事終わったが、その後の別のコンサートで、野々山は自分こそがアニー・エドマンから彼のクラリネットを継承した真のキングであると宣言し周囲を驚かせる。アニー・エドマンの大親友であったデヴィッド・クラハシが、牧沢のクラリネットを自分が作った模造品であると断定し野々山は勝ち誇るが、永見は野々山が15年もかけて少しずつパーツをすり替えていったという推理を披露する。しかし、牧沢はそのクラリネットは野々山にやると言ってステージに上がる。牧沢のアニー・エドマンの魂のこもった牧沢の演奏に野々山は涙を流すのであった。

 少しずつパーツをすり替えて相手の楽器を盗むというトリックは斬新であるが、細かいパーツはともかく、さすがに大きなボディ部分は傷や手触りなどで気が付くのではないかと疑問を持った。15年もの間一度も見つからずに全てのパーツをすり替えたというのもかなり無理のある話。最後に自分が犯人でないことを示すためにバネの貸し借りを演出したことになっているが、このような騒ぎを起こさない方がすり替えを隠すには良かったのではないか。潔くクラリネットを譲ってしまって自分の演奏で何かを伝えようとする牧沢に対し、素直に野々山が敗北を認めるラストは気持ちが良い。

 「反転する黒」…バンドメンバーであるピアニストの中島千鶴の様子がおかしいことに気が付く唐島。彼女は、自分の尊敬するトランペット奏者で、失踪していた桜島祐介の最近の写真を入手し、演奏に集中できていなかったのだ。北野天満宮の半纏を着た男がエスカレーターの左側に写っており、半纏の文字が逆になった裏焼きされたらしい写真だったことから、エレベーターの右側に乗る習慣のある京都を捜索するが全く見つからない。そこで永見は、写っている男が半纏を裏表逆に着ているだけで写真が裏焼きではないことに気付く。男がエスカレーターの左側に乗っているのならば、東京の北野天満宮の近くで撮られた写真ではないかと考えられ、その後桜島は程なくして見つかる。しかし、彼はかつての力を失っていた。女優の椎崎ルミにふられた桜島はコンプレックスだった唇の疣を切除したが、そのせいで昔のように吹けなくなったのだ。千鶴はバンドを辞めて桜島と共に喫茶店を始め、いずれライブハウスにするという夢をもつのであった。

 写真の裏焼きトリックは子供向けの雑誌の付録についていた小冊子などで昔よく見たが、本当に久しぶりに見た。結局裏焼きではなかったわけだが、オチも含めて今一つの作品。

 「遊泳する青」…5年前になくなった大ベストセラー作家でジャズにも詳しい湖波性太郎の肉筆原稿の展覧会に唐島に連れて行かれた永見は、特徴のある下手な字に驚く。そこで大手出版社の編集者の加藤から、性太郎の未完の遺作『遊泳する青』のラストシーンまでの原稿が発見されたという話を聞く唐島。しかし、加藤は、その原稿が性太郎が使っていなかったワープロによる原稿であったことから、金に困っている性太郎の妻が捏造したものではないかという疑いを持っていた。その後肉筆の原稿を妻が提示し、鑑定に立ち会った永見は作者が書いた本物だと断定する。しかし、それは性太郎が書いたという意味ではなかった。真の作者は正太郎の年老いた母だったのだ。永見は性太郎の作品を読んだことはなかったが、絵本作家だった性太郎の母が書いた本は読んでいたため気が付いたのだった。

 最初に笑い話として永見がさりげなく紹介した絵本が実はこの物語の大きな伏線で、ラストシーンで生きてくる点は良かったが、ゴーストライターという『落下する緑』とモチーフが全く一緒なのはいただけない。このエピソードだけではさすがに物足りないと思ったのか、作者は例のワープロに入っていたフロッピーから性太郎自身が書いたと思われる味わいのある長文エッセイが発見され唐島を喜ばせたという後日談が付け加えられているのだが、性太郎は結局ワープロは使わなかったという結論で終わるところだったのに、また議論を再燃させるような話を追加したのはどうかと思う。『遊泳する青』というタイトルに深い意味がないのも気になる。

 「挑発する赤」…提灯記事ばかり書く嫌われ者のジャス評論家の石倉康宏は、大口を開けてシャウトする歌い方から「挑発する赤」との異名を持つ偉大なシンガー、ビッグ・アルの怒りを買う。アルのコンサートの後、彼の前で彼の歌を絶賛した石倉であったが、彼は声帯を手術した後歌えなくなり、ハープ奏者として活躍していたことを石倉は全く知らなかったのだ。石倉の見当違いの非難記事のせいで自殺したピアニスト・黒川長治の娘で音楽雑誌の編集者となっていた有明淑子は、アルの歌を絶賛した石倉の記事を雑誌に載せることで復讐を企んでいたが、石倉が編集長にかけた圧力により失敗。しかし、有明の上司の鉢辺の策略によって、大御所の大熊のレコ評に対し石倉がそれを酷評する記事を書いたことによって、石倉はジャズ界で死んだも同然になるのであった。

 『落下する緑』の宮堀にしろ、『揺れる黄色』の野々山にしろ、『遊泳する青』の湖波夫人にしろ、今回の石倉にしろ、作者はこれでもかというくらいの悪役を描くのが得意なようだ。悪役が強烈だからこそ勧善懲悪のストーリーが引き立つわけだが、シンプルな勧善懲悪ものが少なくなった現在では逆に新鮮な感じがする。勧善懲悪が当たり前だったアニメや特撮モノですら、現在は敵側のドラマも描くことが当たり前になっている時代だ。
 さて、本作の悪人へのとどめの刺し方であるが、正直ちょっと引っかかる。大御所の大熊のレコ評を批判する記事を石倉に書かせようと編集者が仕向けたというものだが、編集者が石倉に「うっかり」渡したのは大熊のレコ評とは別のモノ。石倉は別人のレコ評をけなしたわけで、これでは石倉に非はないのではないか。いくら依頼した記事がライブ版に対してのもので、「間違えて」渡したレコ評がスタジオ版であったことを石倉が見落としていたとしても、普通に考えたら石倉は編集者に激怒し、大御所には言い訳するだろう。かなりすっきりしない結末だ。

 「虚言するピンク」…尺八奏者の染田研一郎に弟子入りした元フルート奏者のデイブ・スプリングは、日本の家元制度に不満があり、それ以上に技術を教えてくれない師匠に大きな不満を持って荒れた生活を送っていた。ストレスのたまっていたデイブに永見はフルートを吹かせるが、それが師匠の耳に入り、師匠から「二枚舌」だと言われ破門されたと彼は落ち込む。エレベーターガールに暴行を働いたと言うことで警察に連れて行かれたデイブであったが、彼は彼女の「下に参ります」という言葉を「舌2枚あります」と聞き違えて憤慨しただけだった。師匠の言葉も「そんなことじゃあ破門にするぞ」と言ったのを勘違いしただけであった。そして、師匠はフルートで尺八の曲を演奏するようにデイブに指示し、見事な演奏を披露したデイブは、師匠が伝えたかった「自分の心を表現する」という極意を会得し満足するのであった。

 悪い話ではないが、メインはただの駄洒落で全く面白くはない。

 「砕け散る褐色」…片桐芳彦は国際的に活躍する素晴らしい技術を持ったベース奏者であったが、人間的に問題がありすぎて、誰もが共演を嫌がる存在であった。そんな片桐と、唐島や永見は「グレイト・ジャズ・バイ・ザ・シー」というイベントで共演することになる。案の定、そこで多くの出演者とトラブルになる片桐。そして事件は起こる。3,000万円もする片桐のベースに穴が開けられたのだ。永見は自分を共演させてくれれば犯人が分かると言って、片桐と同じステージに上がる。それは共演者の性格を知るための策であった。結局、楽器を壊せるような性格の人間は共演者の中にはおらず、金に困っていた片桐の自作自演を臭わす永見。片桐は必死に否定するが、実際に片桐は共演者の山岡に保険金目当てでベースを壊すように指示しており、山岡はそれを実行できなかっただけだった。そして、永見は真相を語る。ベースの中には300年前のベースの製作者がカミキリムシを仕込んでいて、何世代もベースの中で生き続けてきたカミキリムシがついに本体を食い破ったというのだ。このベースが毎年音を変えるのはカミキリムシのせいだったのだ。自然に壊れたベースに保険が下りることはなく、老人のようになった片桐はその場に膝をつくのであった。

 作者の描く強烈な悪役像は健在だが、ベースの中で300年世代を重ねて生き続けるカミキリムシのインパクトは絶大。生理的に気持ち悪くてしょうがないという読者もいるだろう。前代未聞のミステリのオチだが、賞賛に値するかどうかは…。

 各章の間に挟まるジャズアルバムの紹介コーナーも含め、ジャズの魅力をアピールしようとする作者の気持ちはひしひしと伝わってくる。ちょっと聴いてみようかなという気になったのも事実(実際にYouTubeで何曲か聴いてみた)。永見のキャラも面白い。あとはミステリとしての面白さがもう少しあれば…。

 

『ロンド(上/下)』(柄澤齊/東京創元社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2003年版(2002年作品)8位作品。

 実物を目にしたことのある人間が数えるほどしかいないという幻の絵画「ロンド」。作者の三ツ桐威は、20年前にその「ロンド」が絵画大賞に選出されたものの受賞を拒否し、その後間もなく交通事故で死亡、「ロンド」は行方不明になる。津牧寧紀は当時11歳であったが、三ツ桐威の作品の魅力に取り憑かれ、三ツ桐威の作品の35%を所蔵しているSHIPこと多薙市立美術館に学芸員として勤めるようになっていた。
 美術館では、三ツ桐威没後20年の節目に三ツ桐威回顧展の開催を計画し津牧も張り切っていたが、ある日、津牧はキャプテンこと館長の大桑より「ロンド」が高砂宏明の経営する矢筈画廊が保管していることを聞かされ興奮する。
 そんな時、美術評論家の江栗靖彦から、「ロンド」という展覧会名の、志村徹という謎の画家の初個展の案内状が津牧の元に届き、津牧が会場の江栗の自宅を訪れてみると、そこにはジャック=ルイ・ダヴィットの絵画「マラーの死」に見立てた江栗の刺殺体があった。その日、津牧は
美術館でアルバイトをしている彼の恋人・丹野みどりの師であり、三ツ桐威の親友でもあった銅版画家の深山顕一郎のところへカタログ作りのためのインタビューに向かう予定であったがキャンセルせざるを得なくなり、翌日は美術館で警察の事情聴取を受けることになる。
 津牧達が犯人像をあれこれ想像している時、津牧の元に志村徹の描いた「マラーの死」を写した写真が届けられる。そしてそこには
三ツ桐威の娘の渚が経営する渚画廊の鍵と「ロンドPart2」と書かれた紙片も入っていた。そして、渚画廊で津牧とみどりが見たものは、朽ち果てた渚の遺体と、されを題材にして書かれた9枚の絵の写真パネルであった。人の遺体が朽ち果てていく様子を描いた鎌倉時代の「九相詩絵巻」に見立てた作品であることは明らかであった。江栗の事件で津牧を取り調べた根地呂刑事に連絡した後、津牧はロンドが保管されているという矢筈画廊に向かうが、ロンドの入手方法に疑念を持つ津牧は高砂に冷たく追い返されてしまう。
 みどりと共に、渚の息子の衛から話を聞くために三ツ桐家を訪れた津牧であったが、臼場刑事が衛の事情聴取に現れたのと同時に衛は姿を消してしまう。そしてみどりの部屋で朝を迎えようとしていた津牧の元に、学芸課長の樟辺から収蔵庫で館長の大桑が殺されたという連絡が入る。「ロンドPart3」は、カラヴァッジョの「ホロフェルネスの斬首」をモチーフに大桑の首を切断するという形で行われた。部屋に残してきたみどりに連絡が付かない津牧は、警察によって厳重に警備されたSHIPから脱出するため同僚の岩咲に協力を頼む。無事SHIPを脱出し、みどりの部屋に駆け付けるとファックスから「ロンドPart4」と印字された紙が送り出されてきた。その後に出てきた数字の羅列が国道のナンバーを表していることに気付いた津牧は岩崎から借りた車を志村の指示通りに走らせる。
 そして山中でついに姿を現した志村の正体は、SHIPの元アルバイト堅島冬樹であった。津牧は堅島の乗ってきた車に乗せられ、三ツ桐がロンド制作のために極秘に作らせた山荘・ロンド荘に津牧を連れて行く。その途中で、これまでのことを語り続ける堅島。彼は学生時代に描いた作品を渚に認められ、渚にスカウトされていた。渚は、堅島に衛の家庭教師と三ツ桐
威の贋作の制作という仕事を与えた。渚は父の死後、いいように父の作品をSHIPに引き取ってしまった大桑に復讐しようとしていたのだ。しかし、ロンドを渚が隠していることを知った江栗によって渚は殺され、ロンドは奪われてしまう。それを知った衛と堅島は復讐を考え、堅島が江栗を刺殺してロンドを取り返し、その後、堅島は志村の名で江栗と渚の遺体をモデルにした作品を発表したのだった。次なる堅島の野望は、大桑をモデルにしたロンドPart3の完成と三ツ桐の描いたロンドに加筆して彼なりの完成品に仕上げることであった。彼への協力を拒んだ津牧とみどりは堅島に拘束され、津牧は「洗礼者聖ヨハネの斬首」をモチーフにした「ロンドPart4」のモデルとして殺されそうになる。しかし、危機一髪のところでみどりの噴射するスプレー缶の定着液のガスに津牧は偶然見つけたオイルライターで点火し、堅島は炎に包まれる。ロンド荘も火に包まれ、津牧とみどりはなんとか脱出する。ロンド荘と共に焼失したと思われたロンドと堅島の作品は堅島の車に積まれていた。津牧とみどりは堅島の作品を炎の中に投げ込み、ロンドはSHIPの収蔵庫の奥にしまい込む。
 そして津牧は、三ツ桐の作品目録の最後の空欄を、「ロンド2000年8月6日焼失」という文字で埋めるのであった。
 
 美術ミステリーとして印象に残っているのは、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」(2004年)、
島田荘司「写楽−閉じた国の幻」(2010年)、原田マハ「楽園のカンヴァス」(2012年)、それから絵画という枠から外れるものの法月綸太郎「生首に聞いてみろ」(2004年)も入ってくるが、先の3作品はいずれも傑作であった。ハズレの印象のない美術ミステリーに久々に触れる機会を得て楽しみに読み始めたが、期待に違わず上下巻の大作を途中退屈することなく一気に読み切ることができた。
 幻の作品の行方と、それに纏わって発生する、死をテーマにした名画見立て連続殺人事件の謎にキュレーターが挑むという内容。
巻末の解説にも書かれているが、「本当に描こうとしていたのは、人なんかじゃない。人の形をしてそこにいる『死』だった。人という皮衣に姿をやつして、けっして素顔を顕さない『死』の貌、そいつを紙の上に絞り出してやる。『死』の原液をこの手で抽出してみせる。それが三ツ桐の決意だった」(文庫版上巻P132)という深山の言葉が、この作品のテーマの1つを如実に表している。三ツ桐のみならず、堅島も、そして今回の事件のモチーフにされた数々の名画の作者達にも同じような気持ちがあったのだという著者の想いが表れた作品である。そのあたりの分析は解説者にはかなわないので置いておくとして、ミステリとして面白いかどうかと言うと、間違いなく優れた作品だとは思うのだが「うーん」というのが正直なところ。
 前述したように退屈せずに一気読みできる作品なのだが、一番気になるのは主人公の津牧にあまりにも人間味を感じないところか。ロンドへの執着やみどりへの強い思いはそれなりに伝わってくるが、誰に対しても話し口調がロボットのようにやたらと堅く、全く親しみを感じない。ヒロインのみどりにも今一つ魅力を感じない。樟辺や岩咲、みどりの母の梓絵あたりにちょっと温かみが感じられる程度で、あとの登場人物はいずれも冷たく暗い感じで何を考えているのかよく分からない人ばかり。もちろんあえて狙っているのだろうが、感情移入できるキャラがいない作品は、やはり心から楽しめないと感じた。下巻において、車の中で延々と堅島が事件の真相を津牧に説明するシーンも、それまでのじわじわと読者の不安を煽る物語の流れからすると違和感を感じる。

 

『チルドレン』(伊坂幸太郎/講談社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2005年版(2004年作品)16位作品。

  「バンク」…大学生の鴨居は、友人の陣内が営業終了間際の銀行に無理矢理バイト代の引き出しに行くのに付き合って銀行強盗事件に巻き込まれる。強盗が現れる前に銀行員にごねていた陣内は、強盗に対しても恐れることなく反抗的態度を取り、鴨居を呆れさせるが、泣き出した婦人に対し歌を歌うことで落ち着かせる心遣いに感心したりもする。人質の1人で盲目の青年の永瀬は、鴨居に銀行員全員が強盗とグルであることを見抜き、犯人はもちろん人質全員にお面をかぶせることで、少しずつ人質を逃がすついでに犯人も一緒に逃げるという計画であるという推理を語る。最初に解放された鴨居、永瀬らは警察にそのことを話すが信じてもらえない。結局事件は、犯人が2億円と共に姿を消すという結末を迎えた。銀行員が全員グルだったらこの銀行で定期預金を作ると豪語していた陣内は、本当に定期預金を作ろうとしていたが、預金する金があるのかとからかう鴨居に対し、強盗にあった時にカウンターにあった30万円を陣内は持ち出しており、それを自慢げに鴨居に見せびらかすのであった。

 犯人が解放される人質に紛れて逃亡するというトリックはありきたりで、陣内の行動はあまりにも無茶苦茶。銀行員に対しヤクザのようなごね方をしたり、銀行の金を強盗のどさくさに盗んだり…。描かれる警察もあまりに無能。この物語だけだったら本書は好きにはなれなかっただろうが、しっかりとこの後の続きがあるのだ。

「チルドレン」…「バンク」から時は流れ、陣内は家裁調査官になっており、主人公はその後輩の28歳独身の武藤。武藤が過去に担当していた高校生の木原志朗が誘拐事件に巻き込まれ、身代金を払って解放されていたことを陣内に知らされ驚く武藤は、当時のことを思い出す。
 志朗は漫画本の万引きで送致されてきたが、無愛想な父親らしき男が一緒に来ていた。陣内は芥川龍之介の『侏儒の言葉』を志朗に貸すようアドバイスをくれる。後日志朗の家を訪れた武藤は、父親がジャズ嫌いだと聞いていたのに、その家からジャズが流れていたことに疑問を覚える。武藤は陣内から、それは父親と息子が母親を殺して庭に埋めたのを隠しているのだと吹き込まれ動揺する。その後、偶然父親と呑みに行くことになった武藤は、父親がチンピラに借金で追われていることを知る。陣内がいじめられている少年を救うため、その少年をいじめっ子の前で殴るという奇想天外な方法をとったことを思い出した武藤は、チンピラの前で父親を殴るという方法でその危機を乗り切る。
 誘拐事件を知った武藤は志朗に会いに行き、「あの時面接に来たジャージの人は誰だったの?」と聞く。新聞に載っていた志朗の父親の顔は、自分が会っていた男とは全くの別人だったのだ。あの男は実は志朗の家に侵入した空き巣で、志朗が警察に自分のことを話さないか志朗を監視していたのだった。2人は陣内の貸した本がきっかけで意気投合し、志朗は不遇なこの男を救うため自作自演の誘拐事件を起こし、金に困っていた男に金を渡したのだった。
 ラストシーンでは、志朗が再び万引きを犯し、その本が武藤の薦めた小説だったため武藤は複雑な心境になる。

 陣内のイジメの解決方法とそれを思わず実践してしまう武藤、そして万引き少年に付き添って家裁にやって来た男が実は空き巣だったという話の展開は結構面白い。しかし、相変わらずの警察の無能な描き方と、笑えないオチに対しては素直に評価できない。

「レトリーバー」…今回は永瀬の恋人の優子が主人公。時間軸はまた少し戻り、「バンク」と「チルドレン」の間の物語となる。大学卒業を間近に控え、家裁調査官を目指して勉強中だった陣内は数時間前に失恋したばかりで、優子と永瀬の2人はその現場に立ち会わされたのだった。振られたことに納得の行かない陣内は、永瀬と優子に、カポーティが小説の中で「誰かが恋人と別れたら、世界は彼のために動くのをやめるべきだ」と語っているように、「このへん一帯の世界は、動くのをやめたようにしか思えない」と言い出す。ベンチに座っている男女は2時間以上も難しい顔をして話をしているし、その右側のベンチでは怒った顔をした男が鞄を抱えて2時間以上も何かを睨んでいるし、さっきの男女の手前では20代後半の男が駅の階段の手すりに寄りかかって2時間以上音楽を聴いているし、植え込みの花壇の端に座っている女性は文庫本を2時間以上読み続けているのに最初の数ページから読み進んでいないと言うのだ。この現象が気になってしょうがない陣内は文庫本の女の所に自らアンケートを装って聞き込みに行き、さらに鞄を持った男の所へ永瀬を行かせようとする。そして、鞄を持った男に「おまえか」と聞かれた永瀬はこの現象の正体に気が付く。
 有名企業の経営者が売春グループに脅迫され、そのお金の受け渡し現場に警察が張り込んでいたのであった。この現象に彼らが気付く前に、陣内が駅前のベンチでビデオカメラをいじくっていた女子高生数人に説教をしていたのだが、彼女達の写真を撮っておいたおかげで、彼らが売春グループの一味ではないかという疑いを晴らすことができたのであった。

 物語の世界観がどんどん広がっていくのは面白い。しかし、この物語自体は可もなく不可もなくといった印象。 

「チルドレンU」…陣内に誘われて呑みに行く武藤。以前「俺たちは奇跡を起こすんだ」と頼もしいことを言っていた陣内が、「奇跡?そんなの起こるわけないだろうが」と言うのを聞いた武藤であったが、陣内が自分の発言に責任を持たないことは日常茶飯事だったので、彼は幻滅することも驚くこともなかった。その店は、陣内が過去に関わった丸川明という青年がアルバイトをしている店だった。明には嫌がられるが、陣内はたまたま来ただけだと主張する。駄目親父に反発した明は前のアルバイト先で暴力事件を起こし高校を退学になっていたのだが、そんな明に陣内は自分のバンドの曲の入ったミニディスクを渡す。
 そんな時、武藤は大学教授の大和修次と妻の三代子の離婚調停に関わる。次々に新しい女を作って離婚と再婚を繰り返してきた修次が、3人目の妻と別れるにあたって、過去の妻には譲っていた子供の親権を今回は譲ろうとしないことで夫婦はもめていた。修次は、これまでの2人の妻とは違い社会経験のない三代子には子供が育てられないと主張していた。
 再び明のいる居酒屋を訪れる陣内と武藤。明は迷惑そうながらも、ミニディスクに入っていた陣内のバンドの曲は意外と悪くないと言う。喜んだ陣内は明にライブのチケットを渡し、さらに武藤にも渡して武藤を驚かせるが、大和夫婦も一緒に連れてこいという陣内の発言にさらに驚かされる。それで夫婦問題は即座に解決するという。
 明はライブに来ることになったが、目的は修次に会うことであった。実は修次の浮気相手の女性は明の母親であり、それを知った明が三代子に教えて浮気が発覚したのだった。武藤は、演奏が始まる瞬間に飛び跳ねた若者から自分の娘を守ろうとする修次の姿に感動し、親権を彼に渡してもいいのではないかと考える。そして明はバンドの演奏に感動する中で、ボーカルが自分の父親であることに気が付き、照れくさそうに爆笑する。陣内は1人の少年を更生させるために「奇跡」の「とっかかり」を起こしたのであった。

 オチを筆頭になかなかいい話だとは思うが、やはり色々と気になる点が。まず、武藤が修次を信じてみようと思うきっかけがちょっと単純すぎる。ほんの一瞬の娘を守ろうとする態度から、それまで浮気を繰り返す男という悪印象を持っていた武藤の修次への意識がそこまで変わるのはどうか。また、その修次を観察するのが目的でライブ会場にやってきた明が、最初から最後まで修次にまったく無関心なのもどうなのだろう。明が父親との関係を修復できたところで、明の母が離婚を考えていることには変わりなく、決してハッピーエンドとは言い切れないこの話。結局、明の両親も、大和夫婦も完全に問題は解決していないわけで、モヤモヤ感が残る。もう少しスッキリした終わり方にしてほしかったところ。

「イン」…銀行強盗事件の1年後の物語。駅前のデパートの屋上のステージ前のベンチに座っている永瀬と優子と鴨居。ここで陣内が一昨日からバイトをしていると聞いてやって来たのだ。
 永瀬が一人きりになった時、彼に近づいてきた女性は、自分が部活動で演奏しに来た学生で、個人タクシーの運転手をしている父親が見に来るのが嫌だという話をして立ち去ろうとするが、彼は彼女が優子のブランド物のバッグを持ち去ろうとしていることに気が付く。彼女はすぐに謝り、父親を発見したことを永瀬に告げて去っていく。
 その後、陣内らしき人物が永瀬の傍にやってくるが、気配がいつもと違う。観客が自分たちに注目している気配がして、盲目の自分に注目が集まっていると考える永瀬であったが、陣内は注目されているのは自分だと言って譲らない。陣内は優子に会ったが彼女に気付かれなかったというし、盲導犬のベスの態度もいつもと違う。永瀬は、陣内が陣内でないような気がして急に不安に襲われる。子供たちがベスではなく、陣内を犬と呼んでいたり、子供の父親らしき男性に「こんなところで休憩していていいんですか」と聞かれたりする陣内に戸惑う永瀬であったが、優子が戻ってきて、陣内が熊の着ぐるみを着るバイトをしていることが判明する。
 そして陣内は、女癖の悪い自分の父親が女子高生を連れているのを発見し、着ぐるみを着たまま殴りに行くと言って去っていく。様子を見に行く?と尋ねる優子にやめておくと答えた永瀬は、アイスコーヒーと言って優子に渡されたコーラにむせるが、優子のしてやったりという空気を感じ、この特別な時間ができるだけ長く続けばいいなと思うのであった。

 武藤とのエピソードの中で、陣内が自分の父親を自分が殴ったと気付かれないように殴ったという話の真相がここで初めて明かされる。着ぐるみにいきなり殴られた父親は当然怒ってデパート側を訴えて問題にするはずなので、陣内が殴ったことが分からないままコトが済むわけはないと思うのだが、そこは伊坂ワールドのことなので気にしてはいけない部分なのだろう。
 そう、伊坂作品は細かいことにイチイチこだわっていては楽しめないものなのである。伊坂作品は読み始めると、その独特の文体と世界観に、すぐに伊坂作品であることに気が付く。そして、突っ込みどころが多々ありながらも、決してその世界観が嫌いでない自分にも気が付くのだ。今回も★★★を付ける気にはなれないながらも、何となくこの作品に癒されて、そこそこ満足している自分に気が付かされたのであった。

 

『殺人の門』(東野圭吾/角川書店)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2004年版(2003年作品)18位作品。

 小学校の同級生の倉持修に連れて行かれたインチキの賭け五目並べで散財した田島和幸は、祖母の遺体からお金を盗む羽目になり、それ以来倉持を恨むようになる。和幸の父の健介は腕のいい歯科医で、家は比較的裕福であったが、老衰で死んだと聞いていた祖母が、実は母の峰子によってヒ素を使って毒殺されたという噂が広まり、家庭の崩壊が始まる。しかし、和幸はそのことをきっかけに人の死に異様な関心を持つようになる。和幸は、家政婦のトミが家に出入りしている税理士のみならず父とも関係を持っていることを知り、父に嫌悪感を抱くが、両親が離婚することになると、堅実な生き方ができそうにない母よりも父に付いていくことを選ぶ。父は志摩子という愛人を和幸に会わせるが、彼女の目的は父の金であった。しかも彼女の本当の恋人の男が嫉妬に狂って父を襲い、父はその後遺症で歯科医を続けられなくなる。やむなく土地家屋を手放してアパート経営を始める父であったが、勤労意欲のない父には無理な話であった。
 転校先で酷いイジメに遭った和幸は、父の診療所から持ち出した昇汞(塩化第二水銀)で、クラス全員をいつか殺すことを心に決める。倉持を実験台にして毒入りの鯛焼きで殺害しようと計画した和幸であったが、不幸の手紙を和幸に送り付けたことを謝る倉持を見て、実行を思いとどまってしまう。その帰りに毒入り鯛焼きをイジメっ子グループに奪われた和幸であったが、その鯛焼きが和幸の忠告通りの毒入りだったことを確認したイジメっ子達は、和幸を恐れ、彼をいじめなくなったのであった。
 工業高校に進学した和幸は、アルバイト先で江尻陽子という商業高校に通う女性と仲良くなるが、たまたまアルバイト先に現れた倉持が陽子を口説き落としてしまう。しかも彼女は妊娠して飛び降り自殺し、和幸は倉持への恨みを募らせる。父は父で、行方不明になっていた志摩子を見つけ復讐しようとする。和幸は父が彼女を殺してくれることを期待したが、父は志摩子にうまく丸め込まれてしまい、再び彼女に貢ぎ始めたことで失望する。金を使い果たして志摩子に逃げられた父を一度は殺そうとした和幸であったが、父の涙を見てその気力を失う。結局父は失踪してアパートは人手に渡り、和幸は松戸の叔母の家に引き取られる。
 高校卒業後、重機の製造をしている会社に就職し、府中にある独身寮で暮らすことになった和幸は、3歳年上の藤田という同僚に陰湿な嫌がらせを受ける。小杉というツッパリ上がりの男と同室になった和幸は、彼の連れ込んだナオコという女が、自殺した陽子と同級生で、彼女から陽子が妊娠して苦しんでいたことを知り、倉持への殺意を募らせ、職場の倉庫から青酸カリを盗み出す。
 そんな時、倉持の方から会いたいという連絡が入る。彼はホズミ・インターナショナルという宝石売買のネズミ講のグループに所属しており、会員勧誘のためのサクラの仕事に和幸を誘い入れる。まんまと藤田を会員にすることに成功し満足する和幸であったが、職を失った藤田に刺される羽目になる。藤田は逃走時に車にはねられ死亡、和幸もサクラの仕事が会社にバレ、職と恋人の香苗を同時に失うこととなる。
 寮を追い出されることになった和幸は、倉持に対する様々な疑問を解決するために思い切って倉持と一緒に住むことにする。そして、彼と一緒に東西商事のセールスマンとして金を売り歩く仕事を始めるが、それは代金を受け取っても現物を渡さないという、またしても怪しいビジネスであった。次々と高齢者を騙して大金を巻き上げる仕事に疑問を感じながらも辞めることができない和幸。そんな時、知人の牧場老人の出資金を取り返しに会社に現れた上原由希子という美しい女性に和幸は惹かれる。会社が危機的状況に陥った時、和幸は今度こそ真面目に働こうと会社を辞め、倉持のアパートを出て家具屋に転職する。
 和幸は何とか由希子の力になろうとするが、由希子は何と倉持と婚約していた。倉持は、和幸も知る東西商事の客の老婆から、彼女を自殺に追い込むほどの出資金をさらに巻き上げ、和幸の印鑑を使って会社へ入るはずの金をネコババし、それを牧場老人への返金に流用することで由希子の信用を勝ち取っていたのだ。投資コンサルタントの会社に転職していた倉持は大変羽振りが良く、そんな彼と由希子の結婚式で友人代表としてスピーチまでさせられた和幸は、彼への憎しみが極限まで達していた。
 しかし、彼を殺害する機会をうかがっているうちに、関口美晴という女性と出会い、彼女に夢中になる余り、倉持殺害計画のことを忘れてしまう和幸。和幸は結局彼女と結婚することになるが、彼女はとんでもない浪費家であった。しかも知人の女性を利用して和幸に浮気させることによって離婚の材料を作り、月々の慰謝料まで和幸に請求してきた。すべてを失った和幸は、独立した倉持の元で再び怪しい仕事に携わることになる。
 美晴による和幸の浮気誘導計画の真相を知った和幸は激高して美晴を絞め殺そうとするが、美晴から、美晴が元倉持の恋人であったこと、倉持が和幸を不幸にするために和幸にあてがった女であったことを聞かされ、彼の憎しみの矛先は再び倉持へと移動する。行方をくらましていた倉持が姿を現した時、衝動的に彼を刺し殺そうとした和幸であったが、一瞬の差で別の男に刺され、倉持は植物人間になってしまう。
 倉持が刺されて一か月後、佐倉という男が現れる。それは、かつて賭け五目並べを仕切っていた倉持の師匠と言うべき男であった。そして、彼の口から、倉持が金持ちだった和幸を恨んでいたことを聞かされる。母親の祖母毒殺疑惑を世間に広め、和幸の家族崩壊の原因を作ったのも倉持の仕業であることを知った和幸は、病室で倉持の首を締め上げながら、「俺は殺人の門を越えたのだろうか」と考えるのであった。

 一言で言えば「現代版・人間失格」。昭和の時代に頻発した様々な詐欺事件をモチーフにして、なんとも救いようのない馬鹿な男を描いた作品。もちろん一番悪いのは悪党の倉持なのだが、何度も彼を殺害する計画を立てながら、彼の時折見せる人間的魅力や、時には財力に惹かれて先延ばしにしてしまい、どんどん人生のどん底に落ちていく和幸は、とにかく愚かとしか言いようがない。彼が考えていたように彼の父も愚かであったが、彼自身も彼が気が付いているように相当の愚か者だ。これだけの厚さの作品を最後まで一気に読ませるのは、さすが東野圭吾作品だが、「いい加減気づけよ!」と読者はイライラしっぱなしで、読んでいて気分が悪くなること必至の1冊である。
 死に異常な関心を持つ主人公という設定の割に、様々な毒物を手にしながらも、ろくに実験すら行わない小心者で、そのくせ倉持の悪事の片棒を何度も担いでしまう馬鹿でお人好しの主人公には全く感情移入できない。むしろ、倉持殺害の予行練習として無関係な人々を次々に殺してしまうような主人公の方が余程すっきりするかもしれない。しかし、多くの人間は実際に彼のように小心者であり、そんな多くの読者に、ふとした拍子に誰かに殺意を抱く自分を意識させつつ、それでも「自分はこいつとは違う!」と必死に否定させようとするのも筆者の想定通りなのかもしれない。そこまで理解していても、やはり個人的にはこの作品は好きになれない。それが自分を含めた人間の弱い部分を見せつけられているからだと指摘されても、それが真実だとしても…。

2016年1 1月読了作品の感想

『片想い』(東野圭吾/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2002年版(2001年作品)15位作品。

  第1章…主人公の西脇哲朗ら帝都大学のアメリカンフットボール部のOBで東京に住んでいる者だけが、年に1度、新宿の鍋料理店に集まるようになって今回で13回目。スポーツライターとなった哲朗は、マネージャーだった理沙子と結婚して8年以上たつが、理沙子と、彼女と一緒にマネージャーをしていた日浦美月、そして当時美月と交際していた中尾だけが不参加であった。そしてメンバーの須貝と共に帰途についた哲朗は美月と出会う。筆談を行う彼女の要望で哲朗は須貝と共に自宅へ彼女を連れて行くが、彼女は予想していた喉の病気などではなく、男の声を発して哲朗らを驚かせる。彼女は生まれつき性同一性障害で、金串で声帯を傷つけることによって男の声を手に入れ、現在はホルモン注射をしているという。
 そして彼女は、哲朗と須貝、そして理沙子に、さらに衝撃的な告白をする。夫と子供を捨てて家出し、バーテンとして勤めていた「猫目」という店で、一緒に働いていた香里という女につきまとうストーカーの戸倉という男を勢い余って絞め殺してしまったというのだ。警察に自首すると言う美月であったが、理沙子は美月を警察に行かせないと宣言する。

 第2章…刑務所に入って男になる夢を捨てることは美月にとって絶対に良くないことだと言って譲らない理沙子に渋々ながら同意する哲朗と須貝。帰って行った須貝の代わりに、今度は中尾が現れる。須貝の妻から話を聞き、哲朗の家に美月がいるとピンと来て会いに来た らしいのだ。中尾は大きなショックを受けることもなく、彼女を警察から守ることに賛成する。理沙子は、警察の目から逃れるため、美月に女の姿に戻った方が良いという前言と矛盾した提案をするが、美月は納得しない。
 そんな時、須貝から、新聞記者の早田に連絡を取って事件の捜査状況に探りを入れたという連絡がある。捜査が進んでいないことを聞き出したことを自慢げに話す須貝に怒りを覚える哲朗。早田は昔から恐ろしく勘の鋭い男だったのだ。

 第3章…哲朗は、美月と会ってから、半陰陽という性の分化がうまくいっていない病気を持つ高校の陸上選手である末永睦美に興味を持つ。彼女と話ができるよう関係者にお願いした哲朗のところへ、恐れていた連絡が来る。早田が取材場所へ一緒に来てほしいというのだ。そこはまさに美月に殺害されたストーカー男の自宅であった。男の母親と元妻を取材した後、「猫目」の 香里の所にまで連れて行かれ当惑する哲朗。そこには警察の捜査の手も伸びていた。早田は、哲朗に対し、お前達は何かを知っていて隠しているが、お前のことはターゲットにせず、別のルートから事件を暴くと宣言するのだった。
 自宅に帰ると、無理に女装させようとする理沙子に逆らって美月が飛び出すところであった。そして、美月は「自分の心が男であったこと」「殺人を犯したこと」に次いで3つ目の重大な告白を哲朗にする。美月が女装したくない大きな理由の1つとして、自分が男として愛情を抱いている理沙子の前では男でいたいという気持ちがあるからだというのだ。美月は学生時代からずっと理沙子のことが好きだったのだ。永遠の片想い−その気持ちは何となく哲朗にも理解できた。何とか落ち着いて再び哲朗の家に戻った美月であったが、 ホルモン注射の効果が切れ、復活した生理に取り乱す美月を、やって来た中尾がなだめる。中尾がどう説得したのか、美月は女装を受け入れると言う。とりあえず一安心した哲朗であったが、帰り際に腰を押さえて激痛に苦しむ中尾に大きな不安を抱くのであった。

 第4章…男中心のビリヤードの世界で50歳を越えて活躍している田倉昌子を取材する哲朗。田倉は、「男だとか女だとかいいだすから話が面倒くさいんだよね。あたしは早くそういうものから解放されたいよ」と笑い飛ばす。睦美の話を聞いた美月は、哲朗による睦美の取材に同行したいと言い出す。取材を受けた睦美は美月に興味を示し、取材に協力的であったが、取材後、俺たちは来るべきではなかったと言う美月。
 哲朗の家に帰ってきた美月は、哲朗の受けた電話にさらに動揺する。それは美月の夫、広川からの電話であった。美月が理沙子と仲が良かったことを知って、何か知らないか連絡してきたのだ。そして、哲朗はアポなしで広川の自宅を訪れる。警察からある事件現場で発見されたという美月の戸籍謄本のコピーを見せられ、戸倉という人物を知らないかと訊かれたらしい広川は、美月については妻や母親としてよくやっていたと言う。そのことを帰って美月に報告した哲朗は久しぶりに美月と飲み明かすが、眠ってしまった哲朗は理沙子に起こされて美月が出て行ってしまったことを知るのであった。

 第5章…美月の件を相談するため中尾の自宅を訪れる哲朗であったが、中尾は自分が離婚することになっており、妻の父親が用意したこの家から出て行かなくてはいけないことを哲朗に告げる。次に哲朗は香里のアパートを訪れるがそこはすでに人が住んでいる気配はなかった。翌日の夜、「猫目」を訪れた哲朗は、香里がそこを辞めていたことを知る。今度は美月の実家を訪れる哲朗。美月の両親は、早くから美月の以上に気が付いており、長い間苦しんでいたことを聞かされるが、美月の行方は掴めなかった。
 以前香里が住んでいたアパートを突き止めた哲朗は、そこに住んでいたのが佐伯香里という女性ではなく、佐伯カオルという男性だったという話を隣人から聞いて衝撃を受ける。香里の実家を訪れた哲朗と理沙子は、香里の父親に追い返されるが、母親から香里が性同一性障害であることを打ち明けられ、「猫目」で働いていた香里の写真を見て全く別人であると断言する。過去に香里が女性の親友と心中未遂事件を起こした教会を訪れた2人は、そこで、当時の香里と、香里の作ったクリスマスツリーが一緒に写った写真を手に入れる。

 第6章…須貝に紹介された「BLOO」というおなべの店を訪れた哲朗は、そこの主人の相川に美月と香里の写真を見せるが見覚えはないという。しかし、従業員の青年が、香里と一緒に写っていたクリスマスツリーを劇団金童の芝居の中で見たと言う。相川に主宰者の嵯峨正道の自宅を教えてもらい、彼の元を訪れた哲朗であったが、劇団の小冊子をもらえただけで、嵯峨からは何の情報も得られなかった。須貝から中尾と連絡が取れないという電話を受けた哲朗は再び中尾の自宅へ赴くが、中尾の妻の律子から離婚が成立したことと彼が出ていったこと、そして彼の連絡先も知らないことを告げられる。そして早田に呼び出された哲朗は、警察にこの事件を解決することはできないと断言する早田から、この事件にこれ以上タッチするなと忠告される。
 取材先で偶然睦美と再会した哲朗は、「猫目」で働いていた方の香里の写真を見て見覚えがあるという彼女の言葉に驚く。そしてジェンダーを考える会に来ていた香里が、実は男性であると聞かされ、さらに驚かされる。そして、「猫目」のママの野末真希子から、香里が立石卓という男性であったこと、そして香里が自分も美月も戸倉を殺していないと言っていたことを聞かされるのであった。

 第7章…佐伯香里と立石卓の入れ替わりを確信した哲朗。理沙子は戸倉が香里の出したゴミから入手したと思われる美月の戸籍謄本の件を気にするが、それは美月も誰かとの入れ替わりを計画していたことを示していると考えられた。翌日、再び嵯峨のマンションを訪れた哲朗は、「猫目」で会った望月刑事が出ていくところを目撃する。捜査の手はこんな所にまで伸びていたのだ。哲朗が、クリスマスツリーを持ち込んだ人物の連絡先を教えないと、警察が捜している佐伯香里の正体が立石卓という男性であることを警察にばらすと嵯峨を脅すと、嵯峨は哲朗に勝手にパソコンのデータを調べさせるために部屋を出て行く。立石卓の連絡先を見つけた哲朗であったが、前回入手した小冊子の原稿データに目を通している内に、ある芝居の主人公のモデルが自分自身であることに気が付く。そして小冊子を先に読んでいた理沙子はそのことにすでに気付いていた。そして2人はその芝居の脚本を作ったのは中尾であるという結論にたどり着く。
 立石卓として生きている本物の佐伯香里の自宅を訪れ、同居していた女性から彼の職場を聞き出した哲朗は、なんとか立石に会うことができるが、彼が後で行くからと指定した喫茶店に彼は現れず、代わりに美月から電話が掛かってくる。どうやら対応に困った立石が美月に連絡したらしい。美月にお台場の観覧車に来るように指示された哲朗は、そこで再び美月からの電話を受け、美月らが戸籍交換グループの一員であること、中尾が劇団創設の一員であったことを知らされる。哲朗は観覧車の中から、駐車場にいる美月と香里らしき人物の姿を確認するが、彼がそこに駆け付けた時にはすでに美月らは姿を消した後だった。

 第8章…三たび嵯峨と接触した哲朗は、嵯峨と中尾の出逢いがゴルフ練習場であったこと、そして中尾には、男の心を持った女、女の心を持った男、男に化けた女、女に化けた男を見抜く超能力があったことを聞かされる。さらに、失踪した中尾の母が、男の心を持った女、つまり性同一性障害を持った人物であり、そのことが中尾の超能力に関係しているのではないかという話を聞いて驚く。そうして戸籍交換のシステム作りに手を貸すようになった中尾と連絡が取れなくなり困っていること、中尾が「自分たちのしていることは、単に物事を鏡に映して逆さまにしているだけで、内容は少しもよくなっていないんじゃないか」とこぼしていたことを嵯峨は哲朗に語る。
 自宅に帰ると、理沙子から別居を提案されるが反論できない哲朗。再び戸倉の自宅を訪れ、次に戸倉の元妻のアパートを訪れた哲朗は、そこに残されていた電話の履歴に意外な人物のものを見つける。それは中尾の番号であった。そして早田はすべてを掴んでいた。戸倉の母と元妻は、戸倉を殺した真犯人の中尾を強請っていたのだ。中尾がマンションを用意してやった、現在戸倉殺しの容疑が掛けられているバーテンの正体が美月であることを哲朗から聞かされた早田は驚く。早田に事件を追うことはやめてほしいと懇願する哲朗であったが、早田は「とっくにタイムオーバーなんだよ」と言って立ち去る。なんとかして中尾に会いたい哲朗は立石を脅して佐伯香里を呼び出す。

 第9章…佐伯香里の代わりに哲朗の前に現れたのは美月だった。美月は、中尾が死ぬ気だという。戸倉が、自分が追い回していた佐伯香里が男であることを知り、さらにそれを邪魔していた美月が女であることを知って、復讐のため美月を襲う計画を立て、その美月を救うために中尾が戸倉を殺したことを語る。中尾は自殺することで事件を終結させ、戸籍交換システムに関わる人々に警察の手が伸びないようにしようとしているというのだ。その根拠として、離婚に加えガンの再発の可能性を知った哲朗は、理沙子と合流し、早田の情報提供によって、ついに中尾を見つけ出す。中尾は、哲朗達に自首とガンの治療を約束して去っていくが、結局ガソリンをかぶって火を付け車ごと崖下へ転落して壮絶な死を遂げる。
 結局、警察には自殺した戸倉殺しの犯人が中尾であることは突き止めることができず、哲朗は、アメフト仲間には、中尾と美月は離婚した者同士で世界を旅していると語る。そして理沙子からはアフリカからのメールが届き、彼は草原を走る彼女の姿を想像するのであった。

 第1章では、親友とは言え、殺人を犯し自首しようとしている友人を、全責任を持つと言って引き留める理沙子に引いてしまう。他にも本作を読んでいて色々なところで彼女に嫌悪感を抱く。仕事に情熱を持っているのは分かるが、こんな女性と結婚生活を続けている哲朗が不憫でならない。彼女が結婚に向いていない女性であることは確かだ。第2章は、理沙子に続いて、勘の鋭い新聞記者の早田から情報を得ようとして主人公達を危機に陥れる須貝にいらっとする。こういうキャラはどんな作品にもありがちだが実に愚かすぎる。第3章では、早田の勘がいくら鋭いからと言って、ここまで哲朗を疑って彼につきまとう早田に強烈な違和感を感じる。そんなに須貝の交友関係は狭く、須貝と哲朗の中が良いのか?ここはかなり無理を感じる場面だが、この件については、後に戸倉の自宅から美月の戸籍謄本が発見された事実を早田が掴んだらしいことが語られる。しかし、それにしても須貝と美月の2人が事件に関係していることから、哲朗へ早田の関心が向くことについてはやはり納得が行かない。そのくせ哲朗とは別ルートで事件の真相を暴くと言っている早田の真意がよく分からない。
 ここから物語はどんどん加速していく。哲朗は事件の真相を掴むため奔走する。そして浮かび上がってくるジェンダー問題解決のために戸籍交換を行う組織の存在。この組織に中尾が関わっていて、しかも中尾が戸倉殺しの真犯人という展開には、驚きというよりも戸惑いを感じる。彼が組織に関わるようになった理由は理解できないではないが、意外な人物を犯人にするために無理矢理作った設定のような気がする。この作品には極端なキャラが多いが、中尾は中でも特に浮いている。特殊な生い立ちにより、特殊な能力を身につけ、そのせいで特殊な組織の立ち上げに関わり、仲間を救うため殺人を犯してしまったことと、ガンが再発したことで、愛する家族を捨て、組織の秘密を守るために非業の最期を選択するという、なんとも悲惨な人物なのである。それまで美月を助けようと必死だった哲朗は、今度は中尾を救おうと必死になるが、その多くの努力もむなしく中尾は死んでいく。ほとんど全てが予想通りの展開で、しかもそれが救いようのない展開だから始末がなお悪い。
 巻末の解説にもあるように、本作がどこよりも早くこれだけ深くジェンダーの問題に切り込んだことは賞賛に値する。しかも、性同一性障害は、単純に身体と反対の心を持っているとは限らず、男女両方の心を持っている場合もあるという話は非常に新鮮であった。この話のおかげで、本作に登場する戸籍交換システムが、法的な部分以外でも大きな問題があることを読者に納得させている。「片想い」というタイトルは狙いすぎの感はあるが、見方によっては「深い」と思わせないでもない。このようにジェンダー問題の教材として見る分には見所は多いのだが、1つの物語としての見た場合、どうにも好きになれない。やはり、どのキャラにも感情移入できない(共感できない)のが大きい気がする。

 

『疾走(上/下)』(重松清/角川書店)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2004年版(2003年作品)14位作品。

  第1章…舞台は筆者の故郷の岡山県あたりであろうか。主人公のシュウジはごく普通の家庭に生まれた素朴な少年であった。昔ながらの「浜」に住む者は、干拓によってできた「沖」に住む者を見下していた。「浜」に住んでいたシュウジは、小学3年生の頃のある日、自転車が壊れて困っているところを、「沖」に住む流れ者で名の知れたならず者だった「鬼ケン」とその恋人のアカネの軽トラに助けられ、強烈な印象を植え付けられる。その「鬼ケン」はやがて何者かに殺され、アカネは町から姿を消した。

 第2章…小学6年生になったシュウジ。「沖」にできた教会の神父はムショ帰りだという噂が流れていたが、友人でいじめられっ子の徹夫に誘われシュウジは会いに行く。優等生だった兄のシュウイチは、神父の正体は6年前にK市で起こった一家4人惨殺事件の犯人で仮出所しているに違いないと主張するが、徹夫に教会でのクリスマス会に誘われたシュウジは再び教会を訪れることにする。

 第3章…予想に反して参加者は自分達の他にエリという同じ歳の女の子しかおらず、聖書もケーキも断って逃げ出してしまう2人。
 中学生になった2人は、同じ1年2組になったが、そこには「沖」に住むエリもおり、校則に従わない髪型のエリはクラスで浮いた存在だった。兄のシュウイチは高校での成績が下がりシュウジに暴力を振るうようになっていた。シュウジを学級委員に推薦する担任に、1人だけ「嫌いだから」という理由で反対するエリにシュウジは傷つくが、担任がクラスメイトの前でエリの髪を切ろうとするのを止めようとする。しかし、エリは自ら髪を切り落とす。そしてエリが一家心中の生き残りであることをシュウジは知る。

 第4章…シュウイチの成績が回復し、喜ぶ両親。シュウジはシュウイチが好きで、シュウイチのことで笑う両親のことも好きだった。陸上部にエリと共に入部したシュウジは、ある日、アカネの姿を町で見かける。バブル末期のリゾート開発の波がこの片田舎にも押し寄せ、「沖」に住む者は大金を手にしてここを去っていくという流れができつつあった。そんな時、シュウイチの期末試験でのカンニングが明らかになり、この事件を境に一家から笑顔が消えた。

 第5章…「沖」の立ち退きを仕切っている青稜会の連中が出入りするようになった徹夫の母の店「みよし」は景気が良くなり、徹夫はいじめられなくなった。2学期も学級委員に選ばれたシュウジであったが、中学時代連続9回学級委員選挙でトップという記録を持つシュウイチが壊れてしまったことは学校の誰もが知らなかった。シュウイチを教会へ連れて行ったシュウジであったが、神父を人殺し呼ばわりするシュウイチに、それは弟のことであると神父は告白する。神父は弟の恋人を奪い、その結果、兄を殺せなかった弟は恋人一家を皆殺しにしてしまったのだった。
 そしてシュウジは教会へやって来たアカネと出会う。アカネは「沖」の住人に立ち退きを迫る組織の一員であったのだ。そんな時、開発のため干拓地を暴走するダンプカーの1台が落とした落下物によって用水路に転落したエリは重傷を負う。

 第6章…エリは松葉杖の生活となり、二度と走れなくなった。青稜会の若頭の篠原と、徹夫の母親が深い仲になったことで、徹夫は変わった。いじめっ子達は徹夫を避けるようになり、徹夫はシュウジを呼び捨てにするようになる。シュウイチまで侮辱する徹夫の首を締め上げるシュウジを神父が止める。
 クリスマス前から「沖」で連続放火事件が発生し、立ち退きを進めるために青稜会がやっているのではという噂になるが、犯人の地理の詳しさから徹夫の仕業ではないかという疑いが広まる。しかし、シュウジは兄のシュウイチを疑っていた。

 第7章…ついにシュウイチが放火犯として捕まった。父は大工の仕事を次々に失い、シュウジは学校でイジメの標的となり、エリは「沖」から叔母夫婦とともに引っ越していった。

 第8章…「沖」で立ち退きを済ませていないのは教会を含めて数軒となったが、教会にだけは嫌がらせや脅しがなかった。実は教会の立ち退きの担当のアカネが教会を守ろうとしていたのであった。立ち退きを神父に承諾させられないことを理由に殴られた跡を残した顔で教会に現れたアカネはシュウジを鬼ケンの墓参りに誘う。そんな時、父に隣の県から仕事が入る。急な仕事だからと言って出かける前にシュウジと外食した父は、その後二度と帰ってこなかった。父は家の貯金を全て持って逃げ出したのだ。

 第9章…シュウジは学校でのイジメが続き、母親は化粧品の訪問販売を始めたがうまくいかず、得意客を見つけたと思ったらお金を貸した状態で逃げられる。今日死のうと決意したシュウジであったが、結局彼は死にきれない。

 第10章…神父に大阪へ連れて行かれるシュウジ。神父は刑務所にいる死刑囚の弟・宮原雄二に会わせようとしていた。「俺たちは同じだ」という雄二の言葉と、穴ぼこのような彼の視線に吸い込まれそうになるシュウジに、神父は激しく後悔するのであった。

 第11章…長距離での好成績を出しながら陸上部に顔を出さず、ロードレースにエントリーしようともしないシュウジに苛立つ顧問。エリのことを忘れていた顧問に怒りを覚え、自分にこれ以上話しかけると死ぬと脅すシュウジ。「沖」にできるはずだったリゾート地『ゆめみらい』はバブルの崩壊と地盤沈下の発覚により終わりを告げていた。ギャンブルに狂う母を横目に、シュウジはあと3か月後に迫った中学卒業後、この地を去ることを心に決めていた。ロードレースを中止するよう主催者に脅迫電話を掛けるシュウジの目が、雄二と同じような穴ぼこのように暗くなっていることに彼自身気が付いていなかった。

 第12章…三者面談を休んで大阪のアカネに会いに行くシュウジ。そしてシュウジはアカネと関係を持ってしまう。

 第13章…伯父からの借金を踏み倒し姿をくらましたシュウジの母に激怒する伯父。伯父はシュウジの面倒は見ないと断言し、シュウジはその日のうちに町を出ることを決意する。徹夫がシュウジをいじめていたことを知ったアカネが篠原に圧力を掛けたせいで、篠原に殴られシュウジに謝りに来る徹夫。シュウジは徹夫から2万円を借り、教会に寄って、神父からエリの連絡先のメモを受け取って町を出た。

 第14章…東京へ向かう途中、大阪のアカネに会いに行くシュウジ。一緒に食事をしているところにアカネの内縁の夫であり、ヤクザの幹部である新田が姿を現す。新田は泥酔していたシュウジをトイレに連れて行き激しい暴行を加える。

 第15章…ホテルのスイートルームで、14歳の家出少女のみゆきと共に新田から激しい暴力を受けるシュウジ。みゆきから新田を殺すことを提案されたシュウジは新田を絞殺しようとする。そして新田にとどめを刺したのがアカネの振り下ろしたボトルであった。

 第16章…アカネは自首することを決め、シュウジとみゆきを逃がそうとするが、新田の部下の三島から朝7時に迎えに行くというメッセージが携帯に入る。7時前では中学生の2人組はあまりに目立ちすぎるため、ロビーが混み合う時間帯に2人を逃がしたいと考えたアカネは、三島を少し待たせて7時20分に警察に電話を入れようとするが、三島から繰り返し入るメッセージからは今にも部屋を訪問しそうな勢いが感じられた。アカネは慌てて警察に電話し、2人は部屋を出るが、運悪くみゆきは三島に見つかってしまう。申し合わせ通りに振り向かずにホテルを出たシュウジは、みゆきとの待ち合わせ場所で待ち続けるが彼女が現れることはなかった。

 第17章…東京駅に着いたシュウジはさっそくエリに電話を入れる。かみ合わない電話を終えて、シュウジは住み込みでの新聞配達の仕事を探す。やっと身元を追及されない専売所を見つけたシュウジであったが、悪徳な所長はプレハブの家賃や自転車のレンタル代などを次々に天引きしていき、求人誌に載っていた当初の月給10万円は4万円にまで減らされる。しかも翌月分を先払いさせられることになり実質はマイナスとなって、結局貸しということで3万円のみが最初の給料としてシュウジに手渡される。

 第18章…同室となった老人のトクさんに初任給の祝いに飲みに連れて行ってもらったシュウジは、久しぶりに触れた人の温かみに感動するが、翌朝トクさんはシュウジの給料袋から3万円を抜いて姿を消していた。

 第19章…絶望したシュウジは再びエリに電話を掛ける。新宿で2年ぶりの再会を果たした2人。神父がエリに送り続けていた手紙には、シュウジにひとりぼっちじゃないことを伝えてほしいということがいつも書き連ねられていたことをシュウジは知らない。

 第20章…今までのことを話ながら歩き続ける2人。そしてエリは唐突にシュウジをラブホテルへ誘う。しかし、部屋に入った瞬間、シュウジの目には新田の死に顔がフラッシュバックし、恐怖の余り床を転げ回る。人を殺したことをエリに告白し、やっと落ち着いたシュウジに向かってエリはナイフを差し出す。「あんたの気が向いた時でいいから殺してよ」という言葉と共に。心中を図った両親と、エリを引き取り自分の身体を求めてくる叔父の話をシュウジに語ったエリは、シュウジに身体を触らせないまま、「でも、そばにいて」と涙を流す。

 第21章…エリと別れた後、シュウジの携帯にエリからの電話が掛かってくる。それは、エリが叔父をホテルに誘惑している様子を、叔父に知られないように実況するものであった。時間と場所をさりげなく会話に盛り込み、エリはシュウジに自分を殺しに来てくれと伝えているのだ。叔父がシャワーを浴びている間にホテルの部屋に入るシュウジ。エリを連れて帰ろうとするシュウジに、エリは自分を殺してくれないなら叔父を殺してと頼むが、シュウジは誰も殺さないと言って引かない。そこへシャワーを終えて現れる叔父。シュウジは叔父をその場にとどまらせ、エリを連れて逃げだそうとするが、エリのこともかまわず自分だけ助かろうと逃げ出す叔父をシュウジは反射的に刺してしまう。

 第22章…必死で一緒に逃げようというエリに対し、今度はシュウジが疲れたと言って動かない。しかし、エリの「わたしたち、帰らなきゃ!」という言葉にシュウジの心は動く。ついにふるさとに舞い戻った2人。シュウジは荒れ果てた自分の家に火を放つが、その直後警察に取り囲まれる。警官はシュウジの足を撃つつもりであったが、バランスを崩したシュウジの背中を撃ってしまいシュウジは死亡する。
 教会には今年もヒマワリが咲いた。明日、このふるさとに、アカネと共に、望と名付けられたシュウジの子供が帰ってくる。そして、松葉杖をつくもう1人の足音が聞こえないかと神父はシュウジに問いかけるのであった。

 景気の良い時には不幸な主人公のドラマが流行り、景気の悪い時はその逆だという話を聞いたことがある。人々がその時代にないものを求めることは理解できる。この物語の書かれた2003年がどんな年だったか特に印象にもなく調べようという気も起きないが、本作の主人公は間違いなく救いようもなく不幸だ。一体どういう読者を狙って描かれたのか分からないくらい不幸である。幸福な人も、ここまで不幸な話を読めば不愉快になるだろうし、不幸な人にとっては、幸福な生活を目指す気力も失せるのではなかろうか。それくらい不幸で救いようのない話だ。それとも、下には下がいるという安心感を得るのであろうか。筆者に言わせれば書きたいものを描いただけと言うことだろう。一言で言えば、孤独を深める現代人の「人とつながりたい」という切実な願いを形にした作品と言えようが、余りにも暗すぎ、あまりにも光が小さすぎる。
 本作は、主人公が「おまえは」という2人称で語られる珍しい小説である。神視点で語られているのかと思いきや、終盤で教会の神父視点であることが明らかになる。この点については、主人公の行動には神父が知り得ないことの方が多く違和感を感じ、神視点のまま終わった方が良かったのではと思った。
 どきどきするスリルを味わえるのは、ヤクザから無事逃げられるかどうかを描いた第16章。あとはどこを読んでもどんよりと暗く重い。悪く言えば不愉快になるだけの話ばかりである。現代人には共感できる部分も多いだろうが、正直なところ、こんな形で現実を突きつけられたくはない。
先ほど「孤独を深める現代人の『人とつながりたい』という切実な願いを形にした作品」と述べたが、決してそんな現代人へエールを贈る作品ではない。とにかく示される希望の光が小さすぎて、絶望の淵にいる人を、より深いところへ沈めてしまうのではないかと危惧してしまう。精神が不安定な人は読むべきではない。

 

『トキオ』(東野圭吾/講談社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2003年版(2002年作品)18位作品。ハードカバーでのタイトルは『トキオ』だが、文庫版では『時生トキオ』に変更されている。「トキオ」では検索をかけたときに該当物が多すぎて本作になかなかたどり着けないことに対する配慮か、あるいは何かの商標に引っかかったのかもしれないが、確かに「時生」の方が本作にはふさわしい。

 宮本拓実と麗子の夫婦は、難病のために病院のベッドで命が尽きようとしている息子の時生をただ見守るしかなかった。意識が戻ったとしてもそれが最後になると医師に告げられた拓実は、麗子に今まで話していなかった秘密を語り出す。

 1979年当時23歳だった拓実は、こらえ性がなく仕事を転々としていた。拓実は生まれてから1年間は母の麻岡須美子と祖母に育てられたものの、彼女達は貧しさの余り彼を宮本家に養子に出す。宮本家で大事に育てられた拓実であったが、拓実が高校2年生の時、養父の浮気と交通事故がきっかけで宮本家は崩壊してしまう。宮本家を出て天涯孤独となった拓実は、その元凶である自分を捨てた須美子を恨みながら生きてきたのだった。

 悪徳キャッチセールスの仕事中に上司の余りの悪質さに嫌気がさして彼を殴ってしまい、またしても職を失った拓実は、花やしきでトキオと名乗る青年と出会う。復讐のため元上司達から襲われた拓実に加勢するトキオも一緒に暴行を受けるが、彼はなぜか嬉しそうにしている。なぜか拓実のことに詳しいトキオに拓実は興味を持つが、その正体には全く思い至らない。恋人の千鶴に紹介された警備員の仕事の面接に、遅刻した上に悪態をついて立ち去ってしまう拓実。そんな彼に愛想を尽かした千鶴は姿を消してしまう。

 人にたかることしか考えていない拓実に怒りを覚え、須美子の嫁ぎ先である愛知の東條家へ拓実を連れて行こうとするトキオであったが、それを拒む拓実と共に拓実のアパートに戻ると、イシハラという男に捕まってしまう。イシハラは千鶴の行方を捜しており、千鶴よりも一緒に逃げている岡部という男に用があるらしい。イシハラ達にお金を渡され千鶴を捜すように言われた拓実とトキオは、同じく岡部を捜すタカクラという男に出会う。タカクラはイシハラ達に関わるなと忠告し、自分の連絡先を伝えるのであった。

 千鶴に大阪の友人がいることを覚えていた拓実は大阪に向かおうとするが、トキオの説得に負けて愛知の東條家に立ち寄ることに。老舗の和菓子屋である東條家に着くと、前妻の娘の淳子から、病に伏している須美子がいつ逝ってもおかしくない病状であること、その須美子は決して贅沢な暮らしをしてきたわけではなく、破産寸前だった東條家を苦労して立て直した立役者であることを語る。それでも拓実は意識のはっきりしていない須美子を一目見ただけで、「俺は…許していない」という捨て台詞と共に東條家を出て行ってしまう。

 大阪に着いて、千鶴の友人・坂田竹美が勤めるボンバという店を見つけた2人。千鶴と岡部が高級なブランド品を質屋で現金化していることを知った彼らは質屋に向かうが、千鶴の情報を手に入れるため、淳子から託されていた爪塚夢作男という漫画家の描いた『空中教室』という漫画本を、拓実はトキオが止めるのも聞かずに質屋に売ってしまう。そして、質屋に再び来る可能性を聞き出した拓実であったが、張り込みもむなしく千鶴がイシハラ達に連れ去られるのを目撃する。

 千鶴達が潜伏していたらしきホテルを突き止めた拓実は、そこで岡部を発見する。イシハラに電話をし、岡部と千鶴を交換する取引を持ちかける拓実。しかし、トキオが岡部を連れて姿を消したせいで取引は成立せず、拓実はイシハラに捕まってしまう。拓実は、トキオが漫画本『空中教室』をヒントに、ある場所を突き止めたと言っていたことを思い出す。イシハラの部下の日吉と共にそこを訪れてみると、そこは麻岡須美子の生家であった。押し入れに隠れていたトキオと岡部を発見した日吉は、岡部と千鶴と交換するという約束を無視して岡部を連れ去ろうとするが、竹美の恋人の黒人・ジェシーが日吉をノックアウトし、それを阻止する。そしてその直後に、タカクラが現れる。

 タカクラは拓実達に今回の事件の事情を説明する。政府系特殊法人の国際通信会社の社員であるタカクラは、その会社の2人いる副社長の内の1人が、社長の音頭で高価な美術品や装身具を密輸して政治家に賄賂として贈っていることを知り、もう1人の副社長側について、会社の自浄を図ろうとしていた。密輸品の管理をしていた男は自殺し、その男の補佐をしていたのが岡部であり、タカクラ達は岡部の身柄を確保し、タイミングを見計らって警察に出頭させるつもりだという。

 そこでトキオは、須美子の年老いた母から渡された拓実宛の須美子の手紙を拓実に読ませる。そこには、身体が不自由で売れない漫画家だった爪塚夢作男こと柿沢巧が須美子の目の前で火事で焼け死んだこと、『空中教室』はその時に須美子に託されたものであったこと、柿沢との間にできた子供の拓実を須美子は何とか育てたかったが経済的にそれが不可能で泣く泣く拓実を養子に出したことが綴られていた。この手紙を読んでも心を改めず「俺には関係のないことだ」と言う拓実をトキオは殴り倒す。

 老婆の家に戻った拓実は、千鶴を取り戻すため、縛ってあった日吉を解放し、岡部を連れてイシハラのアジトに戻り、もう一度取引をする決断をする。千鶴も岡部も両方逃がす作戦であったが、結局捕まって絶体絶命の拓実。しかし、そこにタカクラが現れ、イシハラの雇い主と、岡部を渡す代わりに拓実と千鶴は解放するということで話を付けたと告げる。

 千鶴の入院する病院で彼女と話し合って別れを受け入れた拓実は、須美子に再び会いに行き、彼女に謝罪する。その後、タカクラから事件の顛末を聞いた拓実は、トキオから聞いていたインターネット社会の到来についてタカクラに語り、彼に気に入られて一緒に働くことになる。

 須美子の通夜に向かうため高速バスに乗った拓実とトキオであったが、途中でバスを降りたトキオは盗んだバイクで、ある女性を追って行方不明になる。その後、大規模なトンネル事故が起こり、トキオがその被害を最小限に食い止めようとしていたことを知る拓実。助かった女性の1人が後に結婚することになる麗子であった。後日、拓実はトキオとそっくりな人物が水死体となって発見されたというニュースを見る。川辺玲二というその大学生は、一度水死体が発見された後、トキオが現れたタイミングで行方不明となり、トキオがいなくなった後、再び水死体で発見されたのだ。

 過去を語り終えた拓実に、麗子は、ある青年にトンネル事故の時に助けられたことを話す。今にも息を引き取ろうとする時生の耳元で、「花やしきで待ってるぞ」と叫ぶ拓実であった。

 本作の一番の問題点は、過去の拓実があまりにもクズ過ぎて不愉快すら感じること。もう少し憎めない人物に描けなかったものか。不器用で直情的ながらも、実はその根は情にもろく心優しい部分が見られる人物に描いてくれたら良かったのに、そういう部分が余りに少なすぎて憎しみさえ覚える。現在の拓実とのギャップを強調するためと思われるが、あまりにも人でなしに描きすぎ。

 ミステリ作品によく登場するトリックの1つのアナグラム(文字の並べ替え遊び)だが、正直言ってあれのどこが面白くてミステリ作家達が多用するのか理解できない。ドヤ顔で説明されても「だから何?」という感じである。今回も、トキオが「ボンバ」という店の名前の由来が爆撃機のボンバーのことではなくて、アルファベットを並べ替えて「o」を追加して「竹」のバンブーのことだと見破ったエピソードが登場するが、「o」を追加する時点でさらに価値なしではないか。

 また、千鶴が岡部と一緒に逃げた理由が今一つ分からない。岡部が千鶴を熱心にくどいたことや、拓実よりもまともなサラリーマンであったという説明は一応あったが、彼の人間的な魅力が全く伝わってこない。これは明らかに本作の欠点の1つであろう。岡部の扱いについては、終盤でも特に気になった点がある。拓実がせっかく拘束した日吉を解放し、岡部を連れて千鶴との交換取引を再度行おうとするところだ。タカクラの話によれば、岡部はイシハラ側に殺される可能性が非常に高いにもかかわらずである。拓実の頭の悪さはここまで読んで十分に分かっているので今さら驚かないが、岡部ではなく拓実の身を心配するトキオの反応や、あれほど岡部の身柄の確保にこだわっていたタカクラが渋々ながらそれを認めてしまう点に大きな違和感を感じる。結末でどうやら岡部は生きたまま逮捕されたらしいことがうかがえるが、ここは本当に気になった。

 冒頭で、ものすごく「いい話」を期待させておきながら、過去のエピソードで拓実の駄目人間ぶりに幻滅させられてテンションがだだ下がりだったが、結末を見事に感動的にまとめ上げたのは、さすが東野圭吾と言えよう。一瞬★★★を付けそうになったが、やはりそれまでの不満のすべてを払拭するまでには至らず、★★ということで。

 

『ドミノ』(恩田陸/角川書店)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2002年版(2001年作品)12位作品。冒頭に登場人物リストがある作品は久しぶり。それもただ紹介されているのではなく、登場人物より一言という趣向が斬新。読み始めると、リストにあった大勢の登場人物が一気に登場するのみならず、さらにはリストになかった人物まで何人も登場して結構混乱するが、ノリは軽めで楽しく読める。境遇も年齢も全く違う多数の人々が、今後どのようにこの後絡んでくるのか、非常に期待させてくれるのだが…。

 関東生命八重洲支社では、中堅社員の北条和美が、社員用に後輩の田上優子に冷たいお菓子でも買ってきてとお金を渡し、田上は大喜びで東京駅へ買い物に出かける。しかし、額賀義人営業部長に遅くとも3時までには契約書を持ってきてもらい何とか本社への便に乗せなくてはならないという状況の中、架線事故と悪天候で額賀の乗った電車が止まり、額賀からの連絡の入った支社では一気に緊張が高まる。タクシーも捕まらず、万事休すと思われたその時、入社3年目の和風美人の加藤えり子が知り合いのバイク乗りに額賀の移送を頼むと言い出す。実はえり子は元暴走族の幹部で、族時代の後輩で、ピザ屋の店長をしている市橋健児に電話をすると、市橋は愛車の8000ccのバッファロー号でさっそく額賀のところへ向かう。

 鮎川麻里花は関東生命がスポンサーをしている子供ミュージカル「エミー」のオーディションに臨んでいる。主人公の友人サリー役の子が急病になってチャンスが回ってきたのだ。しかし、オーディションに強敵の都築玲菜が現れ、さらに玲菜の母に下剤入りのカルピスを飲まされて窮地に陥る麻里花。しかし、腹痛の苦しみが奇跡的な演技を弾き出し、オーディションを担当していた舞台監督、プロデューサー、演出家の3人をうならせることになる。

 浅田佳代子は、別れ話をしに来る交際相手をポケットの中に何かを潜ませて東京ステーションホテル内の喫茶店で待ち構えている。彼女と別れようとしている男は、青年実業家の結城正博。いつものように、いとこで画廊に勤務している美人の落合美江を連れて行き新しい彼女ができたと紹介して別れようという魂胆である。

 筑波山麓で農業を営む吾妻俊策は、東京で開かれる俳句仲間とのオフ会を楽しみにして上京してきたが、東京駅で道に迷った上に、土産の入っていたどらや紙袋が、目の前で転倒した過激派メンバーの川添健太郎の持っていた爆弾入りの紙袋と入れ替わってしまう。そんなことも知らずに、吾妻を待っていた俳句仲間の雫石貫三、山本豊彦、養老秀朝の3人は、時間になっても現れない吾妻を捜すため東京駅に散っていく。実は3人は皆、元刑事であった。

 東日本ミステリ連合会の次期幹事長を決めるため、現幹事長の蒲谷真一は、K大学2年の江崎春奈とW大学2年の森永忠司をテストする。その1回戦としてフィリップ・クレイヴン監督作の人気映画「ナイトメア4」の犯人当てを行うが、2人ともに外して引き分け、次に2回戦として東京ステーションホテルで人物観察テストを行うことになる。喫茶店に入ってきた最初の人物の年齢や職業、今までどこにいて、これからどこへ行くのかを当てるというものだ。3人がやって来た喫茶店には佳代子がおり、3人は佳代子の観察を始める。佳代子は若者達の視線を感じて動揺する。江崎と森永の推理の後、蒲谷はアンケートを装って佳代子に話しかけるが、佳代子の目には、結城正博と落合美江の姿しか映っていなかった。美江は、なぜかいつものような下品な女役の演技をせずに、佳代子に正博のいとこであることを正直に打ち明け、正博を慌てさせる。結局、人物観察テストが失敗に終わってしまった3人であったが、江崎は視界の隅を何か黒い物(ダリオ)が横切るのを目撃する。

 千葉県佐原市(現在の香取市)に住む主婦の宮本洋子(登場人物リストには載っていない)は季節外れの風邪に悩まされていた。病院の帰りに突然の雨に遭い、コンビニに放置してあったビニール傘を持ち帰る。自宅に帰り着いて、ポーチに広げたまま置かれた傘は強風に煽られて高架線に向かって飛んでいた。

 来日していたフィリップ・クレイヴン監督が宿泊するホテルの部屋では、ペットのダリオが、主人のいない隙に開いていたドアから廊下へ出て行ってしまい、部屋に帰ってきたフィリップを慌てさせる。

 吾妻俊策は、自分の紙袋が川添健太郎の紙袋と入れ替わってしまったことに気が付いていない。川添は散々迷った末、吾妻から紙袋をひったくって逃げることを決意する。もみ合いの末、なんとか自分の紙袋を取り戻した川添であったが、逃げようとする川添の前に立ちはだかったのは、買い物を終えた田上優子であった。彼女は柔道の有段者だったのだ。川添を投げ飛ばしたまでは良かったが、結局逃げられてしまい、しかも彼女の持っていたお菓子の入ったどらやの紙袋は、吾妻と合流できた雫石の手に。そして吾妻の持っていた爆弾入りのどらやの紙袋は優子の手に移ってしまう。元刑事の雫石は逃げた川添の正体に気が付き通報し、お菓子を置いてきたことに気が付いた優子は、吾妻の名前を覚えていたため放送で呼び出してもらうことを思いつく。

 額賀を乗せた市橋のバイクが警察署の前を爆走して通過したことで、市橋を関東連合時代から追っていた警官の東山勝彦達は、多数のパトカーを動員して彼らを追う。

 エミーのオーディション会場では麻里花の合格が発表され大喜びする母子。一方、母親の不正行為に気が付いていた玲菜は号泣しながら母親を責める。

 今回は演技をしないと決めた美江は、正博がいかにいかに駄目な男かを佳代子に言って聞かせるが、その美江の態度すらも、佳代子を騙して正博と別れさせようとする演技だと思い込んだ佳代子は、死んでやるとつぶやき、用意してきた毒のカプセルを飲み込んでしまう。佳代子にカプセルを吐き出させようとする正博と森永ら大学生達とのもみ合いで、静かな午後のホテルは阿鼻叫喚に投げ込まれる。佳代子は周囲の人間をふりほどき飛び出していくが、胃の中で数時間で溶け出す毒のカプセルを心配して、正博、美江、森永、江崎、蒲谷はその後を追う。その場に居合わせたフィリップと、彼の通訳兼世話役のクミコもつられて追いかける。佳代子が忘れていったどらやの紙袋の中に潜り込んでいたダリオは、外の喧噪をよそに、過去の経験から出ていかないことを決めていた。やがて駅の構内の交番にたどり着いた正博と、優子は、同じどらやの紙袋を持って隣り合わせに並んでいた。

 東京駅内の動輪の広場で話し込んでいる過激派グループの川添、妹尾、水沼の3人は、爆弾入りの紙袋を何とか取り戻すことで意見が一致。東京駅の中でお互い母親に待たされていた麻里花と玲菜は一緒に駅の中をうろつき始めていたが、そこで過激派の3人グループの1人がライターを落としたのを目撃した彼女達は、ライターを返そうと彼らの後を追いかける。

 交番で、吾妻の呼び出しは駅員に頼むように言われた優子は、パトカーの大群を振り切り額賀と契約書を届けるため駅の通路を通って八重洲に向かった市橋のバイクに驚いて紙袋を投げ出してしまい、そこで正博の持っていたダリオ入りの紙袋と入れ替わってしまう。そして八重洲南口で額賀を降ろした市橋はあっという間に去っていくが、市橋を追って東京駅を取り囲んでいた大量のパトカーを見た雫石達は、通報で駆け付けてくれた応援の警官隊と思い込み、過激派グループ達も自分達を包囲するために集まったものと信じてしまう。バイク便のバイクを奪ったえり子は市橋に代金を払いに行き、その受け渡し現場で宿敵の1人であったえり子の姿を見た東山は興奮の余り倒れてしまう。

 追い詰められたと思い込んだ過激派の3人は、麻里花と玲菜の2人を人質にして喫茶店に立てこもる。駅の放送で、吾妻の呼び出しに続いて、佳代子の呼び出しが流れ始めるが、興奮した正博は駅員からマイクを奪って直接佳代子に語り始める。呆れる駅の構内の人々の中で、佳代子だけがその言葉に感動していた。やっと吾妻と再会できた優子であったが、優子の紙袋の中には爆弾ではなくダリオがいることをまだ誰も気が付いていない。人質となった麻里花と玲菜は芝居を打って、水沼に下剤のカルピスを飲ませるよう誘導することに成功。川添はテレビ中継の画像から吾妻の姿を見つけ、目的の紙袋を取り戻すことに成功するが、その中には自分の作った爆弾ではなく、ダリオという名のイグアナが入っていた。大のハ虫類嫌いである妹尾は袋から飛び出したダリオが顔に張り付いたことでパニックになる。トイレに駆け込んだ水沼と、イグアナが顔に張り付いたままの妹尾は逮捕される。残った川添は、爆弾のスイッチを見せて警察を脅そうとするが、持っていたはずのライター型のスイッチがないことに気が付き焦る。その頃、佳代子は不自然な変装と挙動の不審さから、警察に過激派の仲間と疑われ、パニックになって職務質問の警官から逃げたことで、大勢の警官から追われることになる。

 交通規制のため契約書が本社に向かっていないことを知った北条和美は再びえり子を頼る。彼女は再びバイク便のバイクを奪って、規制の掛かっていないルートを走る本社行きのバスに向かう。美江が持っていた爆弾入りの紙袋が、そのバイクにぶつかりそうになり、バイクに引っかかってしまう。無事契約書をバスに渡すことに成功したりえ子が減速したことで、紙袋はバイクから落下。無事パトカーが回収し、川添と佳代子も警官に取り押さえられる。麻里花が放り投げたライター型の爆弾スイッチは、様々なものにぶつかって空中を舞い、行方不明となっていたが、結局ポストの中に落ちていた。それを見つけた郵便局員がそれを押してしまうのが先か、都内各地に仕掛けられた爆弾を警察が見つけるのが先か、それはまた別のドミノの話である。

 冒頭の関東生命の契約関連の事情説明がいきなり分かりにくい。読者を引き込まなくてはいけない大事な導入部にこれはどうなのか。
 次の麻里花のオーディションのエピソードでは、ライバルの母が下剤入りカルピスを他のオーディション参加者の子供たちに飲ませているというとんでもない設定だが、こんな噂はあっという間に広まるはず。広まったら玲菜母子は終わりだろう。絶対にありえない。
 佳代子と江崎、森永らとの出逢いにも違和感。江崎、森永らは、喫茶店に最初に入ってきた客を観察すると言っていたのに、佳代子は先に喫茶店にいた。すでに客がいた場合は、それも「最初に入ってきた客」に含まれるという説明はなかったはずなのだが…。
 登場人物リストに載っていなかった宮本洋子。飛ばした傘が高架線に向かっていったというエピソードが序盤に出てきたが、この伏線はいつ回収されたのか。その傘が高架線に引っかかって大停電でも起きるのかと思ったが、結局その後何もなかったような…?
 川添の吾妻からの紙袋の取り戻し方も愚かすぎ。自分から交換を申し出るという方法を一度は検討しながらも、吾妻が持っている自分の紙袋の中身を確認されるのではないか、顔を覚えられるのではないかといった不安から、その案を却下しているが、吾妻の袋を自分が持っているのだから、それを先に見せて、さっさと交換して立ち去れば済むことではないのか。ひったくる方が明らかに周囲の目を引くではないか。理解できない。
 吾妻が、俳句仲間達を元刑事と気が付かないところは面白いが、元教員と勘違いするというのはわざとらしすぎ。
 麻里花と玲菜が芝居によって過激派グループに下剤入りのカルピスを飲ませようとするエピソードにも無理がありすぎ。なぜ、あの演技によって、なぜ犯人がカルピスを飲む気になるのか理解できない。全員に飲ませることができればその効果は絶大かもしれないが、結局3人のうち1人に飲ませることに成功しただけで、それでは大きな効果は見込めないと思うのだが。
 フィリップのペットのダリオがイグアナであることが後ほど明らかになるが、大きなイグアナがホテルの部屋からホテル内の喫茶店まで誰にも見つからずに移動したというのも無理がある話。ちなみに文庫版の解説者・米原万里氏はダリオのことを「飼い犬」と書いているが、本作をきちんと読んだのだろうか。
 終盤は本当にグダグダ。都合良く紙袋はバイクに引っかかり、都合良くスイッチは行方不明に。結末は読者のご想像にお任せしますというラストに、どっと疲れが出た。

 良く言えば東京駅を舞台にしたジェットコースター的カオス・コメディ。悪く言えばグダグダ・ドタバタ・ライトノベル。27人と1匹が主人公ということだが、何人かのキャラはなかなか面白いものの、全く印象に残っていないキャラも多い。登場人物リストで言えば、森川、阿倍、山本、養老、白鳥あたり。東山、妹尾、水沼も、もう少し目立たせることができたのでは。前述した宮本洋子に至っては全く意味不明。読了後にamazonの書評を見たら意外と評価が高いことに驚いたが、「○○に爆笑」「公共の場では読まない方がいい」といったコメントには首をかしげざるを得ない。文庫版の裏表紙にも「抱腹絶倒、スピード感溢れるパニック・コメディの大傑作!」とあるが、どこがそんなに笑えるのだろうか。決して嫌いな作品ではないし、そこそこ面白いと思うが、楽しさよりも疲れの方が残った。

 

『ZOO(上/下)』(乙一/集英社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2004年版(2003年作品)20位作品。上下巻に合わせて11編を収めた短編集。

@「カザリとヨーコ」…エンドウヨーコはカザリと一卵性双生児であり、母と3人で暮らしている。しかし、姉のヨーコだけがなぜか母から虐待を受け、ヨーコは台所で寝起きしているが、妹のカザリは大事にされている。食事は妹の残り物、衣服も妹のお下がりという具合である。学校でもクラスメイトは勿論教員からも冷たく扱われていた。そんな苦しく辛い日々を送っていたヨーコは、ある日、アソという名のメスのテリアの迷い犬を飼い主のスズキさんという老婆の元へ届ける。その老婆は大喜びし、彼女を孫のように可愛がり、ヨーコも毎日のように老婆の家に通うようになる。
 そのことに気付いたカザリは、母に言いつけ、ヨーコは老婆から借りていた小説を盗んできた物と決めつけられて取り上げられる。小説に挟んであった老婆の家の鍵だけでも取り戻そうと母親の部屋に忍び込んだヨーコは、カザリが母の部屋に忍び込んでCDを持ち出す時に花瓶をパソコンの上に倒し、さらにそれをヨーコのせいにすべくヨーコが取り上げられた小説を部屋から持ち出すのを目撃する。今度こそ母に殺されると考えたヨーコは、老婆の家に逃げ込もうとするが、老婆は死亡し、彼女の孫が迷惑そうにしているのを目の当たりにする。
 ヨーコはカザリに母がカザリの仕業であることを知って激怒していると嘘をつき、衣服を取り替えてくれたら代わりに謝ってあげると提案する。その提案を受け入れてヨーコの服に着替えて先に帰宅したカザリは母によってベランダから突き落とされて殺され、ヨーコは偽の遺書を書かされることになる。遺書を書き上げたヨーコは荷物をまとめて家出し、老婆の家で保健所に連れて行かれることになっていたアソを誘拐し、ひとまず駅のある方向へ向かうのであった。

 なぜ、ヨーコだけが虐待されるのか?叙述トリックのミステリなのか?と神経を研ぎ澄ませて読み進めたが、何のひねりもない単純な理不尽極まりない理解不能な虐待ドラマだった。虐待に次ぐ虐待で追い詰められた姉の嘘にまんまと騙されて、姉と入れ替わったことで母親にあっさりと殺される妹と、せっかく入れ替わりを成功させたのに、何のあてもなく家を出て行く姉の姿を描いて、あっけなく幕を下ろす物語。自分を苦しめた妹の命を奪い、母親には殺人という罪を背負わせたことで、主人公の復讐が成就したことになるのか?読者にも主人公にも何の爽快感もないのだが…。実はお金持ちだった老婆の養子になって幸せに暮らすとかいう話ならまだ理解できるが、なんだこれは?★1つ確定。

A「SEVEN ROOMS」…仲の良くない小学生の「ぼく」と中学3年生の姉は、ある日路上で何者かに拉致されてコンクリートの部屋に閉じ込められる。その部屋の中央には幅50センチ位の下水が流れる溝があり、部屋の両側の壁の溝の出入り口を身体の小さい「ぼく」だけが通り抜けることができた。移動してみて分かったことは、同じような部屋が直列に7つ並んでいて、そのうちの下水の上流から4番目の部屋に自分たちが閉じ込められていること、他の部屋にも若い女性が閉じ込められていること、1番目の部屋と7番目の部屋の向こう側には鉄格子がはまっていて移動できないことであった。そして、毎日午後6時になると、何者かによって閉じ込められた日が長い部屋の住人から順番に電動のこぎりによって殺害され、死体の残骸が下水に流されることが判明する。
 6番目の部屋、7番目の部屋、1番目の部屋という順に住人は殺害され、また新しい住人がそこへ閉じ込められていた。
 ついに、自分達のいる4番目の部屋の順番が来た時、姉は部屋の隅で弟の服を背中に隠し、弟をかばうふりをして犯人を引きつけ、下水に隠れていた「ぼく」はその隙に開いていた鉄の扉から外へ出て閂をかけた。「僕」は他の部屋の女性達を救い出したが、姉に事前に言われていたこともあって、姉を救い出す危険を冒すことはできなかった。「ぼく」達は一度は閂をかけた4番目の部屋の前に集まったが、結局そこを立ち去ることになり、地下道を通って、地上へ登る階段を目指すのであった。

 ありがちな殺人鬼ホラー小説だが、オチがひっかかる。姉と共に殺人鬼を部屋に閉じ込め、主人公だけが脱出したところまでは良いとして、その後の展開が問題。閉じ込められた殺人鬼は電動のこぎりで鉄の扉を内側から壊そうとしていて、一緒に閉じ込められた姉は笑い声が聞こえることから無傷で生きていることがうかがえる。ならば、主人公たちは一刻も早く外の世界に助けを呼びに行き、姉を救い出せる可能性を少しでも大きくするべきではないのか。「姉の悲鳴と共に姉の笑い声は途絶えた」という描写でもあれば別だが、いくら心身共に消耗しているとは言え、生きている姉を置いて、やたらのんびりと出口へ向かう主人公の姿には、まったく納得が行かない。★★。

B「SO-far そ・ふぁー」…もうすぐ中学生になる「ぼく」は、アパートで両親と3人で幸せに暮らしていた。居間にあったソファは、我が家で一番重要な物で3人が座る場所も決まっていたが、ある日を境に、父と母がお互いに相手が見えていないような振る舞いをするようになったことに「ぼく」は不思議な感覚を覚える。列車事故で父と母のどちらかが死んで、死んだことに気付かない死人が幽霊となってそのまま一緒に暮らしていると考えられたが、2人ともとなると説明が付かない。
 「ぼく」は父と母の伝言役になることによって、かつての幸せを取り戻しつつあったが、やがて父と母を同時に見ることができなくなってくる。「父の世界」か「母の世界」かのどちらかを選ばなくてはいけない時が近づいていると感じ取った「ぼく」は、ある日、父に厳しく叱られたことをきっかけに、「母の世界」を選ぶことに決める。それ以来父の姿がまったく見えなくなった「ぼく」であったが、母にそのことにを伝えると母は不審そうな態度を見せる。
 実は、両親は共に事故死などしておらず、夫婦喧嘩の末、相手が死んだように装っていたのである。「ぼく」はそれを真に受けて精神的に病んでしまい、本当に父の姿が見えなくなってしまったのであった。

 実は両親共に死んでいた、家族全員が死んでいた、「ぼく」だけが死んでいた、というように様々なパターンを考えながら読んでいたが、真相は何と、最も現実的な誰も死んではいなかったというもので、まんまと作者に一杯食わされた。この話はちょっと深いかも。★★★。

C「陽だまりの詩」…ある時、突然病原菌が空を覆い、感染した人間は例外なく2か月で死亡してしまった世界。たまたま感染をまぬがれ、森の中の家で1人で暮らしていた彼もついに感染し、身の回りの世話をするために、私=かつて地球上で広く普及していた女性のアンドロイドを作り上げる。
 家事をすることと彼の身の回りの世話をすることのみを仕事として与えられた彼女は、死の意味、生の意味を理解していなかったが、彼と森の中で生活するうちに自然と様々なことを学んでいく。そして自分も人間だったら良かったのにと考えるようになる。
 彼女は彼が正確に自分の死期を把握していることから、彼も人間によって作られたアンドロイドであることに気が付く。彼は、自分を作った人間が死んでから200年もの間、人間になりきってその家を守り続けていたのだった。彼女は、今まさに静止しようとしている彼の耳元で、恨みの言葉と共に感謝の言葉を呟く。彼の体内のモーター音が聞こえなくなると、彼女はおやすみなさいと心の中で呟くのであった。

 単なるSFかと思いきや、人間の生と死について、人間以外の者によって考えさせ語らせるという、実に味わい深い哲学的な傑作。文句なしの★★★。

D「ZOO」…主人公の郵便受けには毎日、過去に交際していた女性の死体が腐敗していく様子を撮った写真が投函されている。主人公はそれをスキャナでパソコンに取り込み、警察には通報していない。警察は彼女を単なる家出と見て真剣に捜査する様子がなく、彼は真犯人を見つけるべく、勤めていた会社を辞めて彼女の知人に聞き込みを続けている。
 ガソリンスタンドのレシートを見つけ、車でそのスタンドへ向かい、スタンドの経営者に聞き込みをすると、彼は「ずっと前に来たよ」「もちろん乗っていたのはあんたが運転しているその車さ」「運転していたのもあんただよ」「さあ、これでいいのかい」と呆れたように答える。そう、主人公こそが真犯人であり、彼は毎日のように、自分が投函した写真を自分で回収し、彼女の知人のところへ聞き込みに回り、レシートを初めて見つけたように同じガソリンスタンドを毎日訪れ、そして山小屋の中で朽ち果てていく彼女の写真を撮り、彼女と過去に訪れた動物園に寄ってから、自宅に帰り写真を投函するという日々を何か月もの間ずっと送ってきたのだった。
 彼は自首する勇気が出ないまま一人芝居を続けていたが、ある日動物園が閉鎖されたのをきっかけに、ついに自首する決意し、心にやすらぎを感じるのであった。

 衝動的に彼女を殺してしまい、頭がおかしくなった男の物語。ただただ痛々しいだけ。全く同情する気にもなれないし、感動するポイントもない。なぜ動物園の閉鎖が、あれほど強く彼を縛り付けていたルーチンを断ち、彼に自首を決意させたのかも理解できない。死体の変化を記録するという趣向は、先日読了したばかりの柄澤齊の『ロンド(上/下)』(このミス2003年版8位作品)を思い起こさせたが、恋人の死体の写真をスキャナで取り込んでパソコンで動画にして見ている、というその異常行動を行っている時点で、この主人公を恋人を突然失った可哀相な被害者として見ることは誰もできないのでは?つまり、実は彼こそが真犯人だったという事実を読者に明らかにしても、そこにたいしたインパクトはすでにないのである。表題の作品ということで期待していただけに、裏切られた感も大きく★1つ。

 ここまでが上巻だが、ネットのレビューを見てみると、予想通り、賛否両論、好き嫌いの分かれる作品のようだ。「SEVEN ROOMS」を、怖かったという意味で一番印象に残った作品に挙げる読者が多いようだが、この程度のホラーは探せばいくらでもあるように思うのだが…。「カザリとヨーコ」を絶賛し、これを表題作にすべきだったとか、ラストで爽快感を感じたなどというコメントには全く同意できない。個人的にはイチオシの「陽だまりの詩」にも高評価のコメントが多くて安心したが、「SO-far」に対するコメントが妙に少ないのは意外。確かに他の作品と比べるとインパクトは薄いのかも。上巻トータルの評価は★★といったところ。

E「血液を探せ!」…会社を経営しているワシ(64歳)は朝目覚めて自分が血まみれになっていることに驚く。頼りない次男のツグヲ(27歳)に調べてもらうと右脇腹に包丁が刺さっているらしい。ワシは10年前に妻を失った交通事故で痛覚を失っていたのだった。
 遺産を狙っている後妻のツマ子(25歳)と長男のナガヲ(34歳)はワシが死ぬのを楽しみにしている様子であったが、主治医のオモジ先生(95歳)がワシから採取して保管してある輸血用の血液の入ったパックを見つけ出さないと遺産は譲らないと言ったら必死に探し始める。
 ついにパックの入った鞄が発見されるが血液はなくなっていた。そしてワシは気が付いた。ツグヲが、ワシが寝ている間に血液を自分にかけ、起きて驚いているワシに、傷口を探すふりをして包丁を突き刺したのだと。ワシはツグヲに自分を殺す度胸があることに安心して息を引き取るのであった。

 ナガヲとツグヲとツマ子の3人には、同じ分だけの遺産が渡るように遺言書を書いてあるのことから、ツグヲだけに特に期待をかけているわけではないようなのだが、ツグヲの自分を殺そうとする度胸に満足し、これで会社は安泰だと安心して死んでいくワシの心理が理解できない。トリック自体も全く見るべきものはなく、★1つ確定。

F「冷たい森の白い家」…主人公は両親を事故で失い伯母夫婦に引き取られて馬小屋で生活させられていた。伯母の娘だけが親切にしてくれたが、やがて彼はその馬小屋も追い出され森の中で暮らすようになる。
 彼は次々に人を殺し、その死体で家を作って住んでいた。ある日少女が行方不明になった弟を探して主人公の所へやって来る。自分が身代わりになるから弟の死体を親の所へ返してほしいと訴える少女。主人公は壁に埋め込まれた彼女の弟の死体と彼女を入れ替える。彼女は主人公の話し相手となってくれたが、やがて衰弱して死んでしまう。
 主人公は彼女との約束を果たそうと、放置してあった彼女の弟の死体を木箱に詰め、家が潰れるのもかまわずに彼女の遺体も壁から抜き取り同じ木箱につめ、彼女の家に向かった。その家の前で、外国から帰ってきたばかりの、少女と弟の母親と出会う。その母親は、かつて自分に親切にしてくれた伯母の娘であった。彼女は主人公との再会を喜ぶが、腐った匂いのする木箱の中身を肥料の山の中に捨てておいてと彼に頼む。主人公は、肥料の山の中に2人の死体を埋め、馬小屋で眠りにつくのであった。

 このような作品にどんな価値があるのか全く理解できない。無理をすれば色々とテーマをひねり出せないことはないが、普通に考えて、人が書かないような残虐でグロいことを書けば、そういう嗜好のある読者は喜ぶだろうという程度の意味しか見いだせない。★1つ確定。

G「Closet」…ミキは夫で画家のイチロウの実家を訪れるが、離れに住むイチロウの弟で小説家のリュウジに呼ばれて、母屋を訪れる前にそこに立ち寄っていた。リュウジは、彼女の友人から聞き出した、ミキの犯した轢き逃げ事件について語る。しばらくの後、リュウジの死体の前でミキは灰皿を床に落としていた。ミキは死体を隠そうと離れにあった古いクローゼットに鍵を差し込む。
 リュウジの死体を隠し、母屋でイチロウとともに宿泊したミキは、翌日の正午頃、イチロウとリュウジの妹のフユミが郵便受けで見つけた手紙に恐怖する。そこにはリュウジが殴られて殺されたことが記されていた。フユミにリュウジの部屋で何をしていたか問い詰められたミキはイチロウのために離れの奥にある物置から本を借りたのだと言って、証拠の本を見せるためイチロウの部屋にあるリュウジとおそろいの古いクローゼットに鍵を差し込むが、なぜか鍵は回らない。リュウジが灰皿で殺されたという新たな手紙が見つかり、フユミは、おそらく兄弟の鍵を間違えて使おうとしたミキこそが犯人ではないかと疑う。
 その後引っ越し屋のバイトをしているフユミの後輩が、フユミの指示でリュウジの住んでいた離れからクローゼットを運び出す。人が入っているような重さがあるという話を聞いて焦るミキに、このクローゼットを警察の前に放置するとミキを脅すフユミ。
 そこで、ミキはついに真相を語り出す。リュウジは、ミキが物置に入っている隙に何者かに殺害され、疑われそうだった自分はやむなく自分のスーツケースに死体を隠したのだと言うのだ。死体をクローゼットに隠そうとしたが、そのクローゼットはなぜか開かず、考えられるのは、その中に事件当時犯人が潜んでいて、その犯人は今再び舞い戻って中にいるのでは、という結論だった。
 フユミがそろそろとクローゼットの扉を開けると、僕は、死んだような顔色の妹と妻と目を合わせることになった。

 叙述トリックによって、読者はミキこそがリュウジを殺した犯人で、リュウジの死体はクローゼットに隠されていると思い込まされるが、最後の1行で、犯人がミキの夫のイチロウであったことが明らかになるというオチ。叙述トリックは、まあ、ありがちだが、結末の描写は、そこそこインパクトがあるかも。
 ただし、フユミがクローゼットの扉を開ける前に、フユミとミキがいくつかの質問をクローゼットの中の人物に投げかけ、ノックの回数で肯定か否定かを答えてもらうシーンがあるのだが、ミキを犯人に仕立て上げようとしたのかという問いには否定の答えを示し、ミキに罰を与えようとしたのかという問いには肯定の答えを示している点が理解しがたい。要するにミキを脅迫したリュウジは許せなかったが、犯罪を犯したミキをかばう気はなく、ミキを追い込むことで轢き逃げの罪の重さを味わわせようとしたということか。イチロウの行動に一貫性がないように思えるのだが。このように読者を戸惑わせるのが、作者の狙いだったのだろうか。しかし、どうせ戸惑わせるなら、犯人がイチロウだと明らかにしないという終わり方もあったのでは。結局フユミとミキが顔を合わせたこの犯人は一体誰だったのか、という余韻を残すエンディングである。もっと批判が高まるかもしれないが…。★に近い★★。

H「神の言葉」…人前で良い子ぶらずにはいられない僕には、小学1年生の頃から恐ろしい能力があった。生物に対して自分の発した呪いの言葉が現実化するという能力である。この力によって厳格な父は手の指を失い、聡明な母はサボテンと猫の区別が付かなくなってしまった。そして、一度発現した現象は二度と元には戻らなかった。
 本心に反して良い子ぶらずにはいられない自分の本性を見抜いてあざ笑っているようにしか見えない弟のカズヤを憎んでいた僕は、ついにカズヤを殺すことを決意し、ある夜、「お前はアアア、死ぬんだアアアア!」とカズヤに向かって呪いの言葉を発するが、なぜか何も起こらず、カズヤは眠ってしまう。
 そして、僕は僕自身の言葉によって操られていたことを、自分の録音したカセットテープを再生することで知る。世界中の人々のほとんどが、僕の能力によってすでに死に絶えており、自分は幻覚の中で普段と変わらぬ日常生活を送っていたのだった。彼はそれを知って涙を流すが、幻覚の母の姿を前にして、泣いているのは身体の調子が悪いからではなく、かつて望んだ1人きりの世界にこられて安堵しているからだと心の中で呟くのであった。

 超能力を発揮すると鼻血が出るというのは漫画「GANTZ」(2000〜2013年)にもあったが、どっちが先なのか。もしかすると別に出典があるのか、ちょっと気になった。それ以上に漫画「デスノート」(2003〜2006年)の要素もかなり入っている気がするが。
 「1時間後、お前らの首から上が落ちる」「地面に転がったお前らの首は、それを目にしたすべての人間に対して、お前らに与えられていた『言葉』をすっかり感染させる」という主人公の呪いのかけ方のインパクトは確かに凄いが、主人公が何もかもを忘れて日常生活を送れるように自分の能力で自分を欺こうとしたのに、結局安らかな生活を送れずに弟を殺そうとし、それが引き金になって過去の恐ろしい大量虐殺の罪を思い出すよう自分に仕向けられた通りになるという展開が本作のキモなのだろう。人を拒絶しながらも、幻想の中での人との関わりを求め、それに再び失望して、結局1人の世界に行き着く(戻ってくる)という展開が、何とも言えない虚無感を感じさせる。最後に彼が流した涙を彼自身は安堵の涙だと言うが、果たして本当にそうなのか。そういうことを考えさせる作品。★★。

I「落ちる飛行機の中で」…主人公の女性は、飛行機の中で隣に座る男性から「あなたはノストラダムスの予言を信じていましたか」と突然語りかけられる。その飛行機は東京大学の受験に5回失敗した青年にハイジャックされ、東大へ向けて落とされようとしていた。頼りなさそうな青年を取り押さえようと乗客が次々に彼に挑戦するが、なぜか乗客達は運悪く空き缶に躓き、彼に射殺されてしまう。
 主人公は、過去に自分に酷い仕打ちをした男性を殺すために飛行機に乗っていたが、墜落死する苦痛を味わいたくないと訴えたところ、セールスマンだった隣の席の男性は、実はセールスマンで、自殺するために医者から手に入れた安楽死の薬を彼女に売りつけようとする。墜落までに青年が取り押さえられて墜落を免れる可能性もあったが、彼女は墜落する方に賭けて薬を購入し自らに注射して眠りにつく。
 しかし、薬は偽物で彼女は目覚める。彼女は死んだものと油断していた青年は彼女に拳銃を奪われ、彼がもう1丁の拳銃を取り出そうとしたため、彼女は発砲。青年は死亡し、飛行機は墜落を免れる。青年が拳銃だと言って取り出そうとしていたのは、ただの万年筆だった。
 病院に収容された女性は、そこを抜け出し復讐相手の自宅を訪れ、彼の娘の首筋に包丁を突きつける。しかし、青年が話してくれた霜に覆われた綺麗な朝の話を思い出した彼女は、「1日のうちに2人も殺せないわ…」と呟き、どこというあてもなく走り続けるのであった。

 シチュエーションは勿論、主人公の女性も、隣の席の男性も、ハイジャック犯の青年もキャラが立っていてそれなりに面白い。ただし、なぜか犯人の取り押さえにことごとく失敗する乗客達のその原因が空き缶に躓いただけとか、青年が東大に入れなかった理由は単に学力がなかっただけとか、青年が拳銃を飛行機に持ち込んだ方法が警備員を札束でぶっただけとか、馬鹿馬鹿しい展開は好き嫌いが分かれそう。個人的にはかなり微妙。つかみどころのないオチは、乙一らしいと言えば乙一らしいのだが、これを面白いと評価すべきかどうかやはり悩むところ。★★。

J「むかし夕日の公園で」…小学生の時、近所にあったこじんまりとした公園に砂場があり、そこは肩まで腕が入ってしまうくらい砂が深かったのだが、その話を父は信じてくれなかった。
 ある日、同じように腕を突っ込んでいると、僕は長い髪の毛を掴んでいた。その直後、僕は砂の中で何者かに腕を掴まれ、手のひらに「ここからだして」と指で文字を書かれた。「だめ」と、相手の手の甲に指で書いて返事をすると、その手は残念そうに僕の手を離した。公園が壊されてマンションになる時、久しぶりに砂場に行ってみたが、何かが埋まるような深さはなかった。

 わずか4ページの超短編。小中学生向けの怪談話という感じ。

 巻末の解説を読むと、やはり「SEVEN ROOMS」が絶賛されており意外な気がした。前述したようにこのレベルのホラーは他にいくらでもあるような気がする。私が敬愛する綾辻行人のホラーの方が余程インパクトがあったように思うのだが(ちなみに彼のそっち系の作品はあまり好みではない)。シンプルな中に恐怖が凝縮されている点がホラー短編作品として魅力なのは分からないではないが、どうしてもそこまでの傑作とは思えない。上下巻のトータル評価としては★★。

2016年12月読了作品の感想

 

『レベル7』(宮部みゆき/新潮社)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」1991年版(1990年作品)14位作品。

 第1日(8月12日 日曜日)…主人公の男は目覚めると知らないマンションの一室のベッドの上で記憶を失っていた。一緒に眠っていた女も同様に記憶を失っており困惑する2人。男の左の二の腕には見覚えのない「Level7 M-175-a」という刺青があり、女にも同様に「Level7 F-112-a」という刺青があった。
 体調の悪い彼女のためにも病院へ行こうとする彼であったが、電話線の切られた部屋には1万円札の詰まったスーツケースが置かれており、犯罪が絡んでいると考えた彼女は怯える。部屋を出て部屋に鍵をかけるために鍵を探した2人は無事それを見つけるが、一緒に拳銃と血の付いたタオルを見つけ、病院にも警察にも行けそうにないと悟るのであった。

 真行寺悦子(しんぎょうじえつこ)は、結婚後、教師の仕事を辞めて専業主婦をしていたが、夫の過労死を機に生命保険会社が経営しているネバーランドという悩み相談ダイヤルのスタッフとなっていた。そこで貝原みさおという女子高生と友人になったが、彼女は失踪し、その母親の好子が娘の情報を得るため悦子の元を訪れる。高圧的でヒステリックな好子が持参したみさおの日記の最後には、「明日 レベル7まで行ってみる 戻れない?」という謎の言葉が記されていた。

 記憶を失った男が、女を部屋で寝かせて外に出てみると、管理人室に管理人は不在で、近くの路上で洗車をしている男から偶然声を掛けられて言葉を交わすことになる。その洗車をしていた男が、自分が出てきた部屋の入り口にあった表札に記された706号室の三枝であることが分かり、記憶を失った男は驚くが、表札の位置がおかしかっただけで、自分が出てきた部屋は、その隣の707号室であったことが明らかになる。洗車を終えた三枝に商店街の場所を教えられた記憶を失った男は、商店街で買い物をして部屋に戻り、女と食事と入浴を済ませて眠りにつく。

 娘のゆかりと共に父の義夫と外食した悦子は、義夫にみさおのことを打ち明けるが、悦子にできることは何もないだろうと言われる。帰宅後の深夜、悦子に掛かってきた電話は、「真行寺さん、たす…」という言葉で切れてしまうが、それはみさおが助けを求めるメッセージであると確信する悦子であった。

 記憶を失った男は、深夜に女の悲鳴で目を覚ます。女は視力を失ってパニックに陥っていたのだ。そこへ隣に住む三枝がやって来る。ドアを開けないと警察に通報するというのでやむなく彼を受け入れた彼であったが、不覚にも隠していた拳銃を発見されてしまい、女がお金のことを口走ったせいで、三枝に拳銃を突きつけられた彼は、三枝に促されて全てを話すことになる。三枝は話を聞き終えると、自分には前科があるから警察へは訴えないことを告げた後、自分を雇わないかと男に提案する。身動きの取れない記憶を失った2人に代わり、2人が何者で、なぜそうのような状況に陥ったのかを、スーツケースの中の大金を担保に調べてやろうというのだ。男はその提案をのみ、三枝と契約を交わすのであった。

 第2日(8月13日 月曜日)…みさおのことを心配した悦子は好子の元を訪れるが、友人の家にいるというみさおからの電話があったから問題ないと追い返されてしまう。みさおの行きつけの美容室をつかんだ悦子は、担当の美容師、網野桐子からみさおのことを色々聞き出すが、「レベル7」という言葉には聞き覚えがないという。みさおの友人の久野桃子から、彼女がパーラー小松という店でアルバイトをしていたことを聞き出した悦子は、桃子から悦子には交際相手がいるのかと聞かれて不思議に思うのであった。

 三枝は男女のいた部屋の中から見つけた地図のコピーに残っていた発信先のFAX番号から、榊クリニックが事件に関係していると考える三枝は、さっそく2人を連れてそこへ向かう。アルコール依存症の父を入信させようとしている男女を演じて榊クリニックの事務員の太田明美に接触した2人は、榊先生の奥さんの父親の大先生が経営している病院の方を勧められ、さらにその大先生の息子が幸山荘事件という4人が殺害された事件の犯人であったことを教えられる。

 三枝は、大先生こと潟戸友愛病院の院長・村下猛蔵という潟戸町の実力者が2回再婚しており、最初の妻との間に、みどり、一樹、えりかという3人の子供がいて、榊はみどりの夫であること、2人目の妻の連れ子であった孝が事件を起こしたことを調べ上げる。そして孝によって殺されたのは猛蔵の同郷の幼馴染みの三好和夫と緒方秀満、三好の娘と緒方の妻の4人で、緒方の息子と三好のもう1人の娘が遺体の第一発見者だったことを告げる。記憶を失った男は、自分こそがその犯人の孝ではないかと怯えるが、記憶を失った2人の正体は、緒方の息子と三好のもう1人の娘であった。

 「ラ・パンサ」店長の村下一樹に「レベル7」まで行かせてもらう約束だったが、戻れないはずのところから戻れたみさおは、一樹を問い詰める。本当にレベル7まで行ったら廃人になるだけだと諭されたみさおは、ふらふらだったため「ラ・パンサ」の奥の部屋で眠るが、目覚めた時に部屋に入ってきた男と一樹がもみ合いになり、気が付いたらみさおは、病院の病室らしき部屋に隔離されていた。その部屋に現れた榊と名乗る医師は、一樹は嘘つきだと断言し、榊にこっそりと部屋の鍵を渡される。猛蔵にファンビタンという鎮静剤を注射され眠らされそうになった彼女は、1人になった後、部屋を抜け出し、事務室から悦子に助けを呼ぶ電話を掛けようとするが、看護婦に捕まって再び閉じ込められてしまうのであった。

 第3日(8月14日 火曜日)…緒方祐司と三好明恵。それが、記憶を失った男女の本名であった。三枝は、2人を出身地の仙台へ連れて行く。緒方秀満の経営していた会社の番頭役を勤めている広瀬耕吉から、祐司と明恵が婚約していたことを聞かされ驚く2人。そして広瀬は、2人の腕の刺青を見て青ざめる。潟戸友愛病院の入院患者の腕には同じような番号を付けられているという話を秀満から聞いていたというのだ。幸山荘を共同購入した緒方秀満と三好和夫が殺された後、祐司は、警察が崖下に転落して死亡したと考えている孝が生きていると言って、仕事を辞めて独自に調査をしていたという。三枝は、猛蔵が人の記憶を消す電気ショック療法を潟戸友愛病院で行っていることを告げ、2人の記憶を消したのも彼だと断言する。

 パーラー小松で美佐緒と一緒にアルバイトをしていた、みさおに好意を寄せていた安藤光男という大学生と接触した悦子は、悦子を尾行していた男の存在と、足が不自由だったその男が榊クリニックと「ラ・パンサ」というパブに出入りしていたことを知る。そして彼女が「レベル7」という面白いゲームに挑戦すると言っていたことも。悦子と娘のゆかりは、榊クリニックに出向き、芝居を打って4階にみさおらしき人物が閉じ込められていることを確認し、元新聞社の自動車部員で張り込みのプロだった父の義夫にクリニックの張り込みを頼む。そして義夫は、足の不自由な男を取り押さえるが、その男は三枝という義夫の古い知り合いだった。「なにをしようとしているんだ」という義夫に、「仇討ちですよ」と答える三枝であった。

 第4日(8月15日 水曜日)…祐司が事件の調査のため住んでいたらしい高田馬場のアパートへ向かう、祐司、明恵、三枝の3人。そこにあった不在配達票を持って郵便局へ荷物を回収に行くと、それは明恵に宛てた祐司の調査結果の書類であった。そこには孝の遺体が浮いていたのを崖下で見たという目撃証言は嘘で、猛蔵が警察に圧力を掛けて孝の捜査を打ち切らせ、孝は猛蔵が匿っているという祐司の考えが記されていた。さらに猛蔵は、火災を起こし多数の死者を出した防火設備に不備があった東京の新日本ホテルのオーナーで、その出火原因が一樹の火遊びであったことを隠蔽したこと、潟戸友愛病院が非人道的な運営を行っていることも記されていた。

 悦子は三枝に言われたとおり、潟戸友愛病院の裏手の雑木林の中に隠れていた。榊クリニックから移されたみさおが無事脱出したら、すぐに東京へ向かうようにという指示であったが、そこで悦子は義夫から衝撃的な事実を知らされる。三枝は悦子の母の浮気相手であり、新日本ホテルに一緒に宿泊している時に火災に遭い、三枝は悦子の母を救うために大怪我をして、それ以来足が不自由になったというのだ。三枝は被災者として賠償金を受け取っていなかった。彼は、当時世間で知られていなかった真の事件の責任者が猛蔵であることを知っていたからだ。

 病院に侵入した三枝と祐司は、榊に銃を突きつけて猛蔵の部屋へ案内させる。猛蔵は孝が生きていることをあっさり認め、この病院で「パキシントン」という記憶を封じ込める薬の開発に成功したこと、電気ショック療法との組み合わせでより高い効果が望めることを語る。そして「レベル7」というのは表向き「パキシントン」の効果が7日間切れないという意味であり、実際には院長である猛蔵が直に扱う患者を表すことが明らかになる。猛蔵は地下の特別保護室にいる孝の所へ祐司達を案内する途中にスプリンクラーを稼働させて逃亡。みさおを助け出した榊は、義夫と悦子に合流した。

 幸山荘の前でついに猛蔵を取り押さえた三枝、祐司、明恵。猛蔵に孝が山荘の中にいると聞き、三枝と祐司が孝のいる部屋に向かうが、反撃してきた孝を祐司は射殺してしまう。しかし、急に目が見えるようになった明恵が猛蔵の笑顔を目撃したことで、全てが仕組まれていたことが明らかになる。幸山荘事件の真犯人は猛蔵であり、猛蔵は自分の罪をなすりつけた孝を祐司に殺害させようと計画していたのだった。そしてそれに協力していたのが三枝であったことも。三枝は、漂着した孝を保護して猛蔵を脅迫していたのだった。

 しかし、猛蔵が事件の真相を全て語った後、立ち上がった孝の姿に祐司は驚愕する。三枝と孝は猛蔵を陥れるために協力していたのだ。すべてをビデオで撮影され銃を突きつけられた猛蔵は、逃亡しようとしてベランダのハッチから転落死する。孝は特殊撮影技術で射殺されたふりをしていただけで、しかも相馬修二というホテル火災の被害者の1人だった。孝は本当に崖から転落して死亡していたのだ。

 エピローグ…幸山荘事件で猛蔵に雇われて4人を殺害した犯人の暴力団員は逮捕された。三枝は悦子に「あなたはお母さんにそっくりだ」という言葉を残して彼女に別れを告げる。祐司は榊から送られてきた明恵の婚約指輪を彼女の指にはめる。その時、封じ込められていた時間が、最後の一秒まできっちりと巻き戻される音を、祐司はたしかに耳にしたのであった。

 比較的好きな作家である宮部みゆき氏の、かなり昔の作品に興味津々であったが、出だしからSFのような展開に大いに引きつけられた。どんでん返しが何度もあるのもこの作品の売りの1つで、それらもそれなりに面白いのだが、読み進めるにつれて、今一つなところが色々と目につき始める。
 そもそも、祐司と明恵の動きを封じるため、大金と拳銃と血の付いたタオルを残したマンションの一室に2人を記憶喪失にして放置するという猛蔵の行為は理解に苦しむ。自分たちは犯罪者ではないかと思い込んでそこで死ぬまで静かに暮らすだろうとの考えでやったことのようだが、見通しが甘過ぎやしないか。ただでさえパキシントンと電気ショックの効果がいつまで続くのかも不確定なのに。強力な記憶喪失処置は廃人一直線みたいな感じで書かれていたのに、彼らだけ大した副作用もなく綺麗に記憶喪失状態が続いているのも不自然。
 一番残念だったのは、斬新な設定のSFかと思っていたのに、単純な薬物がらみの事件を描いただけだったこと。タイトルにまでなっている「レベル7」という言葉が、
「表向きはパキシントンという記憶喪失作用のある薬物の効果が7日間切れないという意味であり、実際には猛蔵といういかれた病院長が直に扱う患者を表す」という種明かしには、正直失望した。「レベル7まで行ったら戻れない」という意味深なキャッチコピーに引きつけられた読者にとっては、かなりの肩すかしではなかろうか。
 2つのストーリーが1つに収束していくという展開も面白いのだが、祐司側のストーリーの方が最初からインパクトがあり、最後までその存在感が維持されるのに対し、もう1つの悦子側のストーリーがどんどん霞んでいくのも気になる。最後に突然現れる新キャラの相馬修二の扱いも疑問(実はプロローグに登場してはいるのだが)。
 良くできている作品だけに、惜しい感じが非常に強く感じされる作品。

 

 

『希望荘』(宮部みゆき/小学館)【ネタバレ注意】★★

  「このミス」2017年版(2016年作品)9位作品。古い宮部みゆき作品の後は、最新の宮部みゆき作品。単なる偶然なのだが楽しみ に読み始めた。読み始めてみると、これは杉村三郎シリーズというシリーズの1つで、『誰かSomebody』『名もなき毒』『ペテロの葬列』『負の方程式』に続く5作目にして初の短編集らしい。『誰かSomebody』は「このミス」ランク外ということもあって未読、『名もなき毒』(「このミス」2007年版6位)と『ペテロの葬列』(「このミス」2015年版7位)は読了しているが、「人の悪意」がテーマだけあって読後感が悪く微妙な感想だった記憶がある。『負の方程式』は『ソロモンの偽証』(「このミス」2013年版2位)の最終巻に収録された短編で、読了しているはずだが記録も記憶もない。

 主人公は、児童書専門の出版社「あおぞら書房」に勤めていたが、大グループ企業の今多コンツェルン会長の娘婿となり、そこの広報室に転職した杉村三郎。なぜか事件を引き寄せてしまう体質で、事件の探偵役を務めるものの積極的に解決に努める感じではなく、淡々とした雰囲気の中、事件を傍観し人の心に潜む悪意に気付いていく人物として描かれている。妻の浮気に気付いて離婚し、2作目からずっと臭わせていた私立探偵に、シリーズ5作目にしてついになった。

@「聖域」…離婚後、東京都北区に探偵事務所を開いた杉村は、自分と同じ地主の竹中の店子の1人である盛田から仕事の依頼を受ける。それは、盛田と同じ単身用アパートにかつて住んでいた、すでに亡くなったはずの三雲勝枝という老婆を目撃したので真相を調べてほしいというものであった。勝枝は普段はしていなかったおしゃれをして、フライトジャケットを来た若い女性と一緒に上野駅にいたという。よくよく聞いてみると、勝枝は電話であちこちに死ぬと言い残して、部屋をそのままにして失踪しており、彼女の死亡が確認されているわけではなく、幽霊話ではないらしい。彼女の娘の早苗は宗教団体にはまっており、布施をたかってくる早苗から逃げて盛田の住むアパートに逃げてきたようで、また早苗に見つかったから姿を消したのではとも考えられたが、早苗の住所を調べてみると何と彼女も失踪していた。真相は、勝枝が宝くじで大金を得て、不安になった勝枝が結局娘の早苗を頼り、2人で過去を捨ててまったく新しい生活を始めていたというものであった。勝枝と一緒にいた女性は、早苗が常連となっていた高級インテリア店の従業員であり、そこから杉村は真相にたどり着いたのであった。早苗が高級インテリア店の常連になっていたのは、宗教団体の仲間で早苗と仲の良くなかったベルという女性が、かつてそこの若夫婦を車で撥ねて殺してしまったことへ対するあてつけであった。

 探偵役の主人公が淡々と町中で調査を進めて真相にたどり着くというスタイルは、東野圭吾の『新参者』に通じるものがあるが、あちらが人の善意をテーマにしていて心温まるのに対し、こちらは人の悪意をテーマにしているため、とにかく後味が悪い。後味どころか、読書中ずっと気分が悪い。主人公と、その周辺の人々が善意の塊であることだけが救いの作品。早苗が最も不愉快なキャラだが、彼女から逃げつつも結局そこへ戻ってしまう母親の勝枝も残念。ベルの過去のエピソードは、早苗の悪意を強調するために無理矢理絡めてある感じがして今一つ。

A「希望荘」…老人ホームへやって来た杉村。今回は、老人ホームで亡くなった武藤寛二という老人が生前の殺人をほのめかしていたことの真相を突き止めてほしいという、息子の相沢幸司からの依頼であった。ワイドショーで若い女性が殺された事件について流している時に、寛二が「憑きものにつかれてるんだ。ほんにんもどうしようもないんだよ」「つい頭に血がのぼって、手を出しちまった」とつぶやいていたというのだ。
 実は、武藤は勤めていた工場を経営していた社長の娘と結婚したものの、その娘が銀行員と浮気して武藤の方が追い出され、娘はその銀行員と再婚。武藤と社長の娘の間に生まれた相沢は居候状態で冷たく扱われ、成人後は生家と絶縁状態だったという。ところが偶然テレビで相沢の店がテレビで紹介されたのを見た武藤が相沢を訪ねてきて、相沢の説得で老人ホームに入るまで同居していたのだった。
 武藤は昭和50年8月に起こったらしい未解決事件の犯人ではないかという疑惑が持ち上がるが、杉村が世話になっているオフィス蛎殻のリサーチ要員の木田に調べてもらうと、その年の夏に東京で未解決の殺人事件はなく、解決した事件が2つあるという。その2つの事件の内の1つの犯人・茅野と武藤が、同じ希望荘というアパートに住んでいたことを突き止めた杉村は、武藤の罪を茅野がかぶった可能性、茅野の事件を武藤が詳しく知っており、何らかの理由で自分が犯人であったかのように語った可能性を考える。そして、そこであるもう1つの可能性に思い至る。作り上げた告白を若い女性を殺害した事件の犯人に聞かせることによって自首を促しているのではないかという可能性である。武藤は老人ホームのクリーニングスタッフである羽崎新太郎を疑っていたのだ。
 杉村の調査報告書が相沢を通じて警察に提出されたことで羽崎は逮捕される。相沢の息子の幹生が、祖父の武藤と十分に交流しなかったことを後悔しているのを見た杉村は、「君はこれから60年ばかりかけて、寛二さんみたいなおじいちゃんになればいい」となぐさめるが、幹生は「じいちゃんは、じいちゃん1人だけだ」とつぶやく。
 その夜、杉村の所に、茅野に姉を殺害された田中弓子から茅野の消息を調べてほしいという電話が掛かってくる。弓子が酔っていることが分かった杉村は、ゆっくり相談してからにしましょうと提案するが、弓子は、姉が茅野に殺された現場の会社へ、姉を自転車で連れて行ったのが自分であることを苦しげに告白して電話は切れてしまうのであった。

 過去の殺人を告白して死亡した武藤という老人の謎で読者を引きつけ、実は彼は演技をしていただけで、ある殺人事件の犯人に自首をうながしていたのだったというどんでん返しや、武藤の孫や過去の殺人事件の遺族と杉村との関わりなど見所は多いのだが、あまりにも展開が淡々としていて、どうにも退屈。正直読んでいて眠くなってしまった。
 また、この短編のタイトルが本書のタイトルに採用されるのも疑問だが(まだ次の『砂男』の方が印象的)、この短編のタイトルが「希望荘」であることにも大いに疑問を感じる。厳しい時代の中を夢と希望にあふれた若者達が集っていた安アパートが舞台の物語なら理解できるが、アパートの話は本作の中にほとんど登場しないので全くピンと来ないのだ。何となく本が売れそうだからと出版社の担当者が選んだように思えてならない。

B「砂男」…離婚後、一度故郷へ帰ることになった杉村が、再び東京に戻って私立探偵事務所を開業するに至るエピソード。故郷で姉の家に住みながらフリーペーパーを契約店舗に配る仕事を始めた杉村であったが、やがて「なつめ市場」のバイトの誘いを受けて働き出す。杉村が、その仕事を心から楽しんでいる時に事件は起こった。
 なつめ市場の取引先の1つである巻田夫妻が経営する「伊織」というほうとうの店と連絡がつかなくなり、杉村が訪ねていくと、困憊した巻田夫人の典子が現れ、夫の広樹が不倫して出て行ってしまったと言って意識を失ってしまったのだ。
 調査会社のオフィス蛎殻を経営する蛎殻昴から、この広樹の失踪には事件性がありそうなので協力してほしいという要請を引き受けた杉村は、広樹の不倫相手と思われる井上喬美をまず調べることに。彼女は人員整理で不動産会社を首になり、看護師の資格を取って再就職すると母親に言っていたのに、無断外出が増えて、5月ごろからそわそわし始め7月末に姿を消したのだという。喬美はメールで母親に不倫を告白するが、その文面が娘らしくないと母親は訴えているらしい。
 やがて、東京にいた頃から広樹と典子と喬美の3人は関係があったこと、広樹は中学2年の時に自宅に放火して母と妹を殺した疑いがかけられていたことが分かる。そこで、お金に困っていた喬美が、商売が繁盛していた巻田夫妻を脅迫してお金を巻き上げようとし、それを防ごうとした巻田夫妻が喬美を殺害し、それを隠すために不倫騒動を演じているのではないかという疑惑が持ち上がる。
 蛎殻から喬美発見の報告を聞いて、それが遺体ではないかとぞくりとした杉村であったが、彼女は生きてぴんぴんしていた。彼女は広樹が用意したウィークリーマンションに住み、専門学校に通っていたのだという。典子と離婚したいが彼女がしてくれないから逃げたのだと思わせたい、ただ逃げたのでは典子が責められるから典子のせいにならないように愛人を作って逃げたことにしてほしい、2ヵ月たったら家に帰ればいいと、100万円の報酬で駆け落ちの演技を広樹に頼まれたのだというのだ。
 そして、喬美から話を聞いた典子から蛎殻と杉村のところへ連絡が入り、今回のことはすべて巻田夫妻の仕組んだお芝居だったと彼女は告白する。典子が妊娠したことを知った広樹は、俺は人殺しだから子育てなんかできないと言って離婚を決めたというのだ。広樹の過去の母と妹殺しが真実だったのかとも思わせる証言であったが、蛎殻と杉村は別の考えを持っていた。それは、現在の広樹が本当の広樹に戸籍を売り、2人が入れ替わっていたという可能性だった。それは広樹の過去の写真から確実なものとなり、現在の広樹が殺したのは母や妹ではなく、現在の広樹の母や妹を不幸にしようとした本物の広樹であったのだ。そして、蛎殻と杉村は、現在の広樹もすでに死んでいるだろうと考える

 そして、この事件で蛎殻と出会った杉村は、その能力を買われて市立探偵事務所開業に踏み切ったのであった。

 杉村が、これまでのシリーズ内で散々臭わせてきた私立探偵開業というステップにやっと踏み出させた重要人物である蛎殻昴との出逢いについて描かれているのだが、主人公の杉村が38歳にして頭も切れ異様に落ち着いた人物なのに、そんな何の支えもいらないような人物を陰で支える大物が、24、5歳の調査会社を経営している青年実業家という設定にどうしてもなじめない。この蛎殻昴という人物は、杉村の過去を徹底的に調べ上げ、今回の事件の調査依頼をするのだが、もっと年配の、少なくとも杉村より年上の人物を配するべきだったのではないか。身体障害者という設定も果たして必要だったのか疑問。
 この物語についてだが、『希望荘』よりもこちらの方がインパクトはあり、個人的にはこちらのほうが本書のタイトルにするにふさわしいと思う。だが突っ込みどころは多々ある。まず、広樹が喬美に話した駆け落ちを偽装する論理がよく分からない。同じように疑問を感じた杉村に対し、喬美は、ただ逃げるよりも駆け落ちの方が典子が責められないからと広樹の受け売りで説明しているが、夫に愛人を作られて逃げられることの方が、一般常識的には、ただ逃げられること以上に恥ずかしいのではないか。
 また、典子が妊娠していることを知って喬美が取り乱すシーンも理解できない。本当は広樹は典子にまだ愛情を持っているのに、何か複雑な事情があることにも気が付かず別れることに手を貸してしまったことを後悔しているというのか、生まれてくる子どもが可哀相だというのか。知っていたら協力しなかったと言いたいようだが、典子が妊娠していることと、広樹が典子に愛情を持っているかいないかはまったく別の話であり、そんなに後悔する理由にはならないのではないかと思うのだが。
 いくつかのどんでん返しの末、最後にやっと真相が明らかになるが、人殺しには子育てができないから離婚する、そして自殺するという現在の広樹の論理もかなり理解しがたい。真面目な性格の彼が、実家の家族を守るためとはいえ殺人を犯してしまったことをずっと悔やみ続けていて、妻の妊娠をきっかけにとうとう精神が壊れてしまったという話の筋も理解できないではないが、あまりに身勝手ではないか。普通は生まれてくる子どものために自分がしっかりせねばと心を新たにするものではないか。こういうどんでん返しの話を作りたいがために無理矢理作られたキャラのような感じがする。
 このシリーズ定番の「悪意」を感じさせるキャラは、『聖域』に登場した三雲早苗にも匹敵する井上喬美、そして現在の広樹と戸籍から戸籍を買い取ったサイコパスと思われる本当の広樹の2人である。後者は表だって登場はしないが、どちらも読者を十分に不愉快にしてくれる。こういう作品を心から楽しめる読者が本当にいるのだろうか。

C「二重身(ドッペルゲンガー)」…311の大地震によって事務所が傾いてしまって困った杉村は、結局大家である竹中家の屋敷の1室を借りて居候することになる。
 そんな時、相沢幹生に紹介された伊知明日菜という女子高生が杉村の前に現れる。母親が付き合っていたアンティークショップを経営する昭見豊という人物が東北に出かけて災害に巻き込まれたらしく、それ以来行方不明になっているから探してほしいという依頼であった。
 豊のショップを手伝っていたアルバイトの松永に引き続き、明日菜の母の千鶴子、豊の兄で会社社長の寿のもとへ聞き込みに回る杉村。寿からは、父親が死ぬ直前にドッペルゲンガーを見たと言っていたので、もしかしたら豊も同じようなものを見たかもしれないという話を聞かされる。
 竹中家の三男坊・トニーこと冬馬から高校生に監視されていると告げられ驚く杉村。捕まえてみると、ナオトとカリナと呼び合うこの高校生カップルは自分たちのことを依頼人と言うのであった。2人が明日菜をいじめていたグループの一員であることを確認しつつ、彼らの話を聞くとブランド物のアクセサリーを売るのに男1人では怪しまれるから一緒に行ってほしいというしつこい男を追い払ってほしいらしい。彼らの証言によってトニーに似顔絵を描いてもらうと、それは松永であった。明日菜が持ち歩いていたICレコーダーには、松永に対し常連客が店内が臭いと訴えている会話が録音されており、それで杉村は店内に豊の死体が一時隠してあったことを確信する。松永は帰郷してしまう豊に店を譲ってくれるようお願いしたところを笑われてかっとなり豊を撲殺、豊を被災地で行方不明になったことにして、彼が持ち歩いていた千鶴子に渡すためのダイヤの指輪を奪って売り払おうとしていたのだ。
 松永は、高校生と待ち合わせした場所に現れた杉村と寿を前にして全てを自供する。杉村は、豊がドッペルゲンガーを見たかどうかは分からないが、松永のドッペルゲンガーはいたのではないかと考えるのであった。
全てのものに飢え、生身の彼から離れて罪を犯したもう1人の彼がいたのではないかと。

 依頼人の明日菜という女子高生がいきなり口が悪くて閉口。今時の高校生はこんなものかとも思うが、ちょっと脚色しすぎでは。続けてショップのブログを荒らす連中や、明日菜に万引きをさせるクラスメイトなど、とにかく事件と関係なく不愉快になる人物を次々登場させるのは本当に勘弁してほしい。犯罪者でもないのに不愉快さを感じさせる人物がたくさん登場するところにこの作品のリアリティがあるのかもしれないが、とにかく読んでいて辛いだけ。
 そして、一番気になるのはタイトル。本書のどの作品にも言えるが、本作が一番違和感がある。「ドッペルゲンガー」はあまりにも本作に関係なさ過ぎではないかということ。松永は死んだわけではないし。普段の松永がもう少し善人に描かれていれば、一時の感情に流されて、不幸な過去もあって別人のような悪人になったという話も効果的かもしれないが。でもそれは、たとえとしては「ドッペルゲンガー」というより「ジキル博士とハイド氏」に近いような気もする。

 いずれも良くできた話ばかりなのだが、あまりにも突っ込みたくなる場所が多すぎてトータル評価は★★。

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