現代ミステリー小説の読後評2016
※タイトル横に【ネタバレ注意】の表記がある作品はその旨ご注意を(太字があらすじ)
2016年1月読了作品の感想
『王とサーカス』(米澤穂伸/東京創元社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)1位作品。ついに2015年最後の読書作品として新年度ランキング作品に手をつけることに。しかも1位作品ということもあって非常に楽しみにして読み始めたが、息子に借りたゲームにはまってしまったこともあり時間が掛かってしまい、読み終えたのは年をまたいで1月2日だった。 2001年、28歳の新聞記者の大刀洗万智(たちあらいまち)は、同僚の自殺をきっかけに新聞社を退社し新しい仕事を探していた。そこに雑誌編集者の知り合いから月刊深層でアジア旅行の特集を組むから手伝ってほしいと依頼があり引き受けた万智であったが、取材開始の8月まで待てなかった彼女は独自に事前取材を行うためネパールに渡り、6月1日トーキョーロッジにチェックインする。その202号室を拠点にカトマンズの取材を始めた彼女は、同じ安宿に宿泊する20歳のアメリカ人の大学生・ロバート、日本の家族を捨ててネパールで托鉢を行う59歳の僧侶・八津田、物売りの聡明な少年・サガルらと親しくなる。 そんな中、彼女はBBCの流すニュースで、国を揺るがす王族殺害事件が王宮で発生したことを知る。ビレンドラ国王をはじめとする8人の王族がディペンドラ皇太子によって射殺され、皇太子も自殺を図ったというのである。ネパールの民主化を進めたことで国民に慕われていた国王の死と、重体のままディペンドラ皇太子を政府が次期国王に指名したことは、国民に大きな混乱をもたらした。国王が皇太子の結婚に反対していたため起こった事件だという話もあったが、当日王宮におらず事件後に摂政となった国王の弟・ギャネンドラと、王宮にいながら無傷だったギャネンドラの息子・パラスへの疑念が次第に国民の間に広まり始める。ギャネンドラが、事件は自動小銃の暴発によるものという不可解な発表を行ったことが事態の悪化にさらに拍車を掛けた。 宿の女主人・チャメリの紹介で、事件当日王宮にいた夫の知人のラジェスワル准尉と会えることになった万智は、待ち合わせ場所の廃ビルの地下にあるクラブ・ジャスミンへと向かう。しかし、一大スクープを入手できるかもしれないと考えていた彼女の期待は見事に打ち砕かれる。彼は、チャメリの夫に義理があるため万智に会うことにしたが、彼女による取材は、彼女が日本語で書いた記事がこの国に何の利益ももたらさないからと拒絶したのだ。万智は自分の信念について語るが、「信念を持つ者は美しいが信念を持つこととそれが正しいことの間には関係がない」とラジェスワルに論破される。最後には「悲劇は楽しまれる」という宿命についてサーカスの比喩を用いて語り、彼女に反論の隙を与えなかった。万智はサーカスの座長であり、万智の書くものはサーカスの演し物であり、王の死はとっておきのメインイベントであり、自分はこの国をサーカスにするつもりは二度とないのだと…。 6月4日の午前10時半、王宮前に集まってシュプレヒコールを繰り返す群衆に対し警官隊の反撃が始まった。万智は思うような写真が撮れないまま民衆と共に逃げ出すが、その途中、死体となったラジェスワルを発見する。彼の背中には「INFORMER(密告者)」と刻まれており、万智は外国人記者の自分と接触したせいで彼が殺されたのではないかと最初考えるが、真っ先に口封じをされるべき自分が襲われないことから彼の殺害動機は別にあると考え直す。 無事宿に帰り着いた万智であったが、八津田と話し込んでいる時に警官に踏み込まれて連行されてしまう。予想通りラジェスワル殺害についての事情聴取であったが、万智の手から硝煙反応が出なかったことであっさりと解放される。外出禁止令が発令される4時ぎりぎりに宿に帰り着いた万智は、自分の部屋が何者かに調べられていることに気付く。隣のロバートの部屋がずっと彼によって立入禁止になっていることも彼女には気になっていた。日本の編集部の牧野から彼女の仕事の進捗状況を尋ねる電話が入るが、ラジェスワルの死と国王の死の関係が明らかになるまではこの件は記事にできないと彼女は告げ、翌日の5日夜までに2つの事件のつながりを見つけられなければ、ラジェスワルの死については記事から外し、6日朝にはファックスで原稿を送ることを約束する。翌朝から護衛に付いてくれた私服警官と共に取材を再会した万智は、ラジェスワルの上半身が裸だったことについて、背中に文字を刻むことが目的ではなく、その服に付いた汚れから殺害現場を特定されることを避けるためだったのではと考える。彼女が彼と会った埃まみれの廃ビルの地下に戻ってみると、そこにはラジェスワルのものと思われる血だまりと死体を引きずった跡と拳銃「チーフスペシャル」が残っていた。そこで彼女はこの事件の驚くべき全貌に気付いてしまう。 宿に戻った万智は、まず部屋に籠もっていたロバートを呼び出し、ラジェスワル殺害現場に落ちていた拳銃の写真を見せて、それが彼のものであることを認めさせた。彼が常々「俺にはチーフがついている」と自慢していたことを万智は思い出したのだ。彼は何者かに部屋に隠してあった拳銃を盗まれたため、サガルを使って万智の部屋を含む宿の全ての部屋をピッキングで明けさせて捜していたのだ。彼を部屋からおびき出したのは客室係の少年・ゴビンであったことが判明するがゴビンは宿のレジの金を盗んで姿を消していた。彼女は午後1時から記事を書き始め、深夜に完成させて眠りについた。 6日の早朝約束通り日本に原稿を送った万智は、宿の食堂で八津田と相対する。そしてゴビンの安否を唐突に尋ねた。万智は八津田が大麻の密売人であることを見抜き、ロバートの拳銃を盗むのに協力したゴビンを口封じのために殺害したのではないかと考えたのだ。幸いゴビンには大金を渡してこの地から去らせたと八津田から聞き安心する。万智に問い詰められた八津田は大麻密売の事実と、商売から手を引こうとした仲間のラジェスワルを射殺したことを認める。しかし、八津田の逃亡を防ぐ手立てもなく、彼女は宿を出て行く彼を見送るしかなかった。 出国手続きをしたくとも早朝では旅行代理店は開いておらず路地に佇むしかなかった万智に近づいてきたサガルは、万智がラジェスワルのことを記事にしなかったことを聞いて残念がる。ラジェスワルの死体を発見現場まで運んで背中に文字を彫ったのはサガルであった。彼は、万智を儲けさせたかったと言うが彼女は彼の嘘を見抜く。サガルはネパールの現状を世界に広めた外国人記者を心から憎んでおり、彼女にラジェスワルの死が国王の死と関係しているという誤報を流させることで恥をかかせたかったのだ。報道によって子供の死亡率が下がり、劣悪な環境の絨毯工場がなくなったことは、一見ネパールを良くしたように見えて、実際には人口が増える一方で働く場所を奪ったことで国民に新たな苦しみを与えているとサガルは考えていた。 日本に戻った万智は思う。「もしわたしに記者として誇れることがあるとすれば、それは何かを報じたことではなく、この写真を報じなかったこと。それを思い出すことで、おそらくかろうじてではあるけれど、誰かのかなしみをサーカスにすることから逃れられる」と…。 もうすでに前年の「このミス」1位の『満願』で直木賞候補になっている筆者であるが、本作を読んで受賞は目前であることを確信できた。人は純粋に真実を知りたいと思う一方で、そこには人の悲劇を楽しみたいという欲求が含まれていることを本書は鋭く突いている。「楽しむ」とまでいかなくとも「自分より不幸な人を見て安心したい」「金持ちや権力者の不幸を知ってすっきりしたい」という気持ちが自分の中に全くゼロではないことを誰も否定できないはずだ。そして、本書はその問題を知りたい大衆の側のみならず、その情報を送り出す側に突きつける。記者である主人公は、そのことを今回の事件を通じて思い知らされ、今まで以上に仕事に真摯に向き合うようになるという展開が本書の柱であり、そこにミステリーの要素を加えてエンターテイメント作品としても高次元に仕上げられたのが本書である。これが先に述べた直木賞受賞近しの理由である。 しかし、個人的評価として★3つを付けられるかというとそれはまた別問題である。本作の前半部に引き込まれるのは王族殺害事件というバックボーンによるものが大きいのだが、これは史実であり筆者の創作ではない。この事件以外は少々退屈である。そして後半、主人公の推理によって軍人殺害事件の真相が一気に明らかになるのだが、主人公の頭のキレ具合とそれによる急展開に読者の多くは付いていけない印象がある。その圧倒的推理力が魅力なのかもしれないが、場数もそれほど踏んでいない若い女ジャーナリストが、ここまで頭がキレて度胸の据わった行動力を発揮できるのかという疑問がどうしても浮かんでしまう。要するにそのあたりのリアリティがないのだ。逆に八津田も指摘していたように、ゴビンの安否の確認より原稿の執筆を優先した冷徹さは、悪い意味でリアルだ。その主人公に誤報を流させようとする現地の少年も、あまりにキャラとして「できすぎ」である。主人公が誤報をものともしない、スクープで儲けられればそれでよいという人間だったら、どうだっただろう。少年は主人公をあざ笑い、勝利したことを素直に喜べただろうか。主人公を、誤報を流したことに傷つく純朴な偽善者だと見極めたからこその策略だったのかもしれないが、ここも本作の今一つスッキリしない部分だ。登場する多くの犯罪者のほとんどが捕まらないまま物語が幕を下ろしてしまうこともすっきりしない理由の1つ。 以上のような引っかかりがあって★2つとしたが傑作であることに間違いはない。特にマスコミを志す方は一読すべき作品だろう。 |
『猫間地獄のわらべ歌』(幡大介/講談社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2013年版(2012年作品)13位作品。裏表紙のあらすじを読んで、普通に江戸時代を舞台としたミステリと捉えていたが、読み始めるととんでもない「バカミス」(ばかばかしいミステリー)のたぐいと判明。表記が急に脚本モードに切り替わり、登場人物が現代人になって現代用語を語り出したりするのだ。最後の解説でも触れられているように、いわゆる「メタフィクション」というやつである。漫画の中に作者が登場したり、登場人物が「これ漫画だから」とか発言するアレである。それはそれで面白そうでもあるのだが…。 主人公は、御使番という閑職に就いている家柄だけが取り柄の内侍之佑(ないしのすけ)。藩主・苅谷備前守興重(かりやびぜんのかみおきしげ)の愛妾・和泉ノ方の住む江戸の下屋敷の奥御殿へ呼び出された内侍之佑は、彼女から難題を申しつけられる。御広敷番の組頭の禰津(ねず)が密室であった書物蔵で切腹自殺したことについて、家来から切腹者を出したという恥を隠したい和泉ノ方は、禰津が曲者と戦って名誉の討ち死にを遂げたということにすべく、内侍之佑にその証拠を見つけろと命じたのである。先君の御正室の豊寿院からも同様に命じられた内侍之佑は、彼の父と兄に仕える水島静馬とともに捜査という名の「でっちあげ」作りに乗り出す。猿を犯人に仕立てようとか、屋敷の外から書物蔵の下まで坑道を掘ろうとか奇想天外な案をひねり出す彼らだが、和泉ノ方を納得させられるようなものはなかなか浮かばない。ここまでが第1章。 禰津の死の翌朝、国許の猫釜淵と呼ばれるあたりで、猟師が女の首無し死体を発見する。被害者は、冷害で食い詰め犬飼村の小作の太郎次(たろうじ)の妻・鶴で、彼女が銀山へ身売りしようとしたことに耐えられなかった太郎次が、思いあまって妻を殺害し頭部だけでも手元に置いて逃げようとしたことが後に判明。太郎次は介錯人と呼ばれる首切り役人の八木沢によって成敗されるが、その後、猫間の領地内で不気味なわらべ歌が流行り出す。これが、1番では蔵に閉じ込められた鼠が死に、2番では炊飯中の釜の中に猫が落ちて死に、3番では犬が死ぬという内容で、今回の変事を予言した歌だというのだ。この歌は何十年も前から領内で歌い継がれており、今回の変事に合わせて作られたわけではないことは明らかだった。しかもこの歌は9番まであり4番では侍が、5番では村の庄屋が、6番では寺の和尚、7番では山の知識(大寺院の高僧)、8番では姫、9番では殿が死ぬことになっているという話を同心の都築忠吉から聞いた郡奉行の奥村平九郎は目眩を覚える。そして、その2日後、首無し死体で発見されたのは、侍である都築忠吉その人であった。ここまでが第2章。 そしてさらに、わらべ歌どおりに、犬飼村の庄屋・伝左衛門、珍念和尚の首無し死体が発見される。わらべ歌どおりなら次は山の知識(大寺院の高僧)が狙われるはずだが、世間では山の知識とは銀山奉行の三太夫のことではないかとささやかれていた。その不安におののく三太夫を深夜に小さな廃寺に呼び出した奥村は、彼に衝撃的な事実を告げる。4番目から6番目の首無し死体を作ったのは自分だと言うのだ。幕閣の誰かと謀って好き放題やっている三太夫を、呪いの歌に乗じて成敗するのが目的であったのだ。被害者と思われた3人は全員生きていて、死体はすべて斬首された罪人のものであり、都築はスパイとして銀山に潜り込み、あとの2人は湯治中と聞き、激怒する三太夫であったが、実は剣豪であった奥村にあっけなく討ち取られる。ここまでが第3章。 第4章では、水島が江戸の御用商人・金太左衛門と銀二右衛門に接待を受けるが、国許の窮状をものともせずに贅沢三昧をしている様子に水島は心穏やかではない。そんな中、水島が屋形船で銀二右衛門からの接待を受け続けている最中、隅田川の上流の月照館にいた金太左衛門が銀二右衛門に刺殺されるという事件が発生。短時間だけ席を外した銀二右衛門がいかにして金太左衛門を殺害できたのか。銀二右衛門にアリバイの証人にさせられ困っている水島に対し、内侍之佑は、月に二度、新月と満月の時に江戸湾の水面が隅田川の水面よりも上がるため繋留を解かれた屋形船が月照館まで自然に遡っていたというトリックを一瞬で見抜き、半月後にそれを証明して銀二右衛門を捕らえたのであった。この2人の御用商人の処分も藩の重役による策であった。 最終章では、内侍之佑が、火の見櫓と川船の帆柱を結んだ綱に人がつかまり、川船が川を移動することで書物蔵の屋根へ到達できることを証明し、禰津殺しの犯人を軽業師と断言する。これは勿論事実ではなかったが、江戸家老の福浦は禰津の日誌から和泉ノ方の芝居通いが尋常でなかったことを糾弾し、殿との間になかなか子ができなかった彼女が芝居者との逢い引きによって子をなそうとしようとしていたという罪で彼女を捕らえる。贅沢三昧で藩の財政を圧迫していた和泉ノ方の排除に手柄を立てた内侍之佑は、豊寿院から「婚姻」という褒美を与えられる。内侍之佑は22歳の女性であり、水島より嫁に欲しいと豊寿院に直訴があったというのである。その直前に水島はヤクザ者に襲われそうになった内侍之佑を見事に撃退していた。水島は内侍之佑の兄が送り込んだ彼女の優秀な警護役であり、彼女がその事実を知ってへそを曲げて彼を追い返さないよう、これまで間抜けを装っていたことを彼女は知っていた。内侍之佑は素直にその褒美を受け入れるのであった。 わらべ歌による見立て殺人も、船を使った2つのトリックも、そうたいしたものではない。とどめの「主人公は女だった」という叙述トリックも、これまでの叙述トリック作品の例に漏れずアンフェア以外の何ものでもないので今さら怒りは感じないが、まあこんなものだろうという感じ。本作のポイントは、そんなところにあるのではなく、やはりメタフィクションを生かした軽快な内容と、ライトノベル的なほのぼのとしたオチにあるのだろう。結末にたどり着くまで苦痛でしょうがない数々の大作と比べれば、最後まで苦痛を感じることなく気軽に読める文庫書き下ろしの本作は嫌いではない。 |
『スキン・コレクター』(ジェフリー・ディーヴァー/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)海外編1位作品。あまりに海外編ランキング作品のハズレ具合がひどいため、海外作品には長い間手を出していなかったのだが、最新版の1位があのジェフリー・ディーヴァーと知って久しぶりに読むことに。この安楽椅子探偵「リンカーン・ライム」シリーズは以前から大好きだったのだが、知らぬ間にか巻を重ねており、本作は第11弾とのこと(@『ボーン・コレクター』、A『コフィン・ダンサー』、B『エンプティ・チェアー』、C『石の猿』、D『魔術師(イリュージョニスト)』、E『12番目のカード』、F『ウオッチメイカー』、G『ソウル・コレクター』、H『バーニング・ワイヤー』、I『ゴースト・スナイパー』、J『スキン・コレクター』)。自分が読了しているのはシリーズ3作目までで、だいぶ間があいているせいで人間関係の変化など色々とありそうなのが少々不安ではあったが、読了してみれば全くの杞憂であった。嬉しいことに「どんでん返しの魔術師」は健在であった 。 第1部…ニューヨークのブティック店員、クロエ・ムーアが、ビリー・ヘイブンという殺人鬼により地下道に連れ込まれ、インクではなく毒物によって刺青を入れられ殺害された。被害者の腹部には、特殊な字体で「the second」という謎の言葉が彫られていた。科学捜査官リンカーン・ライムは、パートナーのアメリア・サックスと共に早速捜査を開始する。サックスが現場から持ち帰った書籍の切れ端は、ライムが過去に解決した「ボーン・コレクター」事件に関するものであった。犯人の目的は何か、なぜライムの事件を調べていたのか、ライムとサックスはさらに興味を深める。 第2部…何年も前から家族でのニューヨーク旅行を楽しみにしていた53歳の女性、ハリエット・スタントンは、夫が旅先で心筋梗塞に倒れ入院したため予定が狂ってしまった。その彼女が病院の地下を歩いている時、後方から迫ってくる影があった。ビリーである。しかし、科学捜査によってこの病院に殺人鬼が出入りしていることを予想していたサックスは偶然現場に居合わせ、彼をあと一歩のところで取り逃がすものの彼女を救うことに成功する。そしてビリーの第2の被害者となったのはIT通信企業IFONの女性社員、サマンサ・レヴィーン。レストランの地下のトイレから地下道に連れ込まれ、クロエ同様に「forty」という文字の毒入りの刺青を入れられ殺害されていた。 第3部…地下道を探索していたビリーは、地下道に住み着いている男・ネイサンに襲われるが、自分は地下道を調査中の市の職員であると嘘をつき、趣味でやっている刺青を入れてやることを条件に窮地を脱する。彼は次にコンピューター・セキュリティの仕事をしているITエンジニアのブレイデン・アレクサンダーを地下の駐車場で襲うが、事前の聞き込みによって現場となるアパートの存在を突き止めていたアメリア達によって殺人は未然に防がれる。現場からは「17th」というインプラント刺青用の金属片が発見された。そこへ、かつてボーン・コレクター事件で犯人に誘拐されサックスが面倒をみてきた少女・パムのアパートに殺人鬼らしき人物が押し入ろうとしているという通報が入る。パムの部屋にはパムの交際相手のセスがいたが、ライムとの通話中に彼は襲われる。セスは鎮静剤で眠らされてはいたが刺青をされる前に警官が駆けつけたことで助かったようだった。そして今度はニューヨーク市警の刑事、ロン・セリットーがコーヒーに毒を盛られて倒れる。そしてさらについにライムが狙われる。ビリーは、ライム宅に侵入しライムの好きなウイスキーに毒物を注入したのだ。しかし、瓶の不自然な置き場所に気付いたライム自身によって危機は回避された。 第4部…ライムのかつての宿敵であり、獄中で病死した犯罪者・ウオッチメイカーの遺灰を引き取ろうとしている遺族を探ろうと、スタン・ワレサという偽名でウオッチメイカーのかつての仕事仲間を装い潜入捜査をしていたニューヨーク市警の巡査ロナルド・プラスキーは、遺族との仲介をしている弁護士デイヴ・ウェラーに通報されニューヨーク州捜査局の捜査官に捕まってしまう。ライムによってプラスキーが釈放されたのも束の間、今度はライムに協力していた刺青師のTT・ゴードンのタトゥーパーラーが襲われる。ゴードンは留守で助かったものの、従業員のエディ・ボーフォートが毒入りの刺青で殺害されていた。残された文字は「the six hundredth」。そして、地下道の各現場で警察の初動チームが設置したと思われていたバッテリー付きのスポットライトが、犯人の持ち込んだ爆弾であることに気が付くライム。最初はインターネットの地下ケーブルの破壊が犯人の目的かと予想したが、刺青の文字が聖書の洪水を示した箇所のフレーズであることをつかんだライムは、犯人が水道管の破壊によってニューヨークの街に巨大ハリケーン以上の被害を及ぼそうとしていると推測する。急いでニューヨーク市内の給水を止めようとするライムであったが、ビリーの真の目的は給水が止められている間に、水道管内に猛毒のボツリヌス菌を混入することであった。しかもビリーはハリエットの家族とグルのテロリストであった。しかし、ビリーの真意に気付いたライムの機転によって給水は止められず、水道管にドリルで穴を開けていたビリーは吹き出した高圧の水に体を切断されて死亡し、ハリエット達も逮捕された。だが、事件は解決していなかった。高圧水で死亡した人物は、実はビリーが雇ったネイサンであり、パムの交際相手のセスの正体こそがビリーであった。ビリーはパムの前に現れ、彼が6歳の頃のパムと出会っていて彼女と結婚するつもりで、ずっと彼女の行方を追っていたことを彼女に告げる。パムはビリーに鎮静剤を打たれ不本意な刺青を入れられてしまうが、覚醒後にカッターナイフで反撃し、突入した警官によってビリーは射殺され彼女は救出される。 第5部…ライムは、あるプレスリリースを警察を通して公表させる。それは死んだはずのウオッチメイカーの現在の似顔絵であった。ライムは、今回の事件の黒幕が彼であることに気が付いたのだ。彼は毒物によって仮死状態になり、救急隊員や刑務官を買収して脱獄していたのだった。プレスリリースを見たウオッチメイカーは旧友のようにライムに電話を掛けてくる。ライムは、骨だけで作られた有名な時計が現在ニューヨーク市内に展示されていて、時計のコレクターであるウオッチメイカーの狙いはそれだったと思ったと彼に語る。 第6部…ウオッチメイカーは、ライムの撒いたエサに食いついた。彼はライムが特殊な発信器を仕掛けたその時計を盗み出したのだ。さてウオッチメイカーの居所が掴めるのはいつのことか。ライムは、関係がぎこちなくなっていたサックスとパムの間をさりげなく取り持ちつつ、次の事件の捜査に入るのであった。 もう何も言うことはない。素晴らしいの一言に尽きる。読者を全く退屈させない息をつかせぬ展開。これでもかというほどのどんでん返し。途中で「あれ?」と思ったことも最後には全て伏線として回収される。なぜ日本の作家にはこういう作品が書けないのだろうか。あえて突っ込めば、サックスが警察の初動チームによって持ち込まれたと思い込んでいた爆弾入りのスポットライトを誰も不審がらなかったことくらいか。警察仕様の特殊なライトだったのなら理解できるがそういう記述はなかったような…。見落としたのかもしれないが、そんなことは些細なことである。読み飛ばした4作目から10作目もいつの日か読破したいものだ。1作品たりともハズレはなさそうだ。 |
『双頭のバビロン(上/下)』(皆川博子/東京創元社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2013年版(2012年作品)12位作品。メインの舞台は1920年代のハリウッドと上海。19世紀末オーストリア・ウイーンに生まれた癒着双生児のゲオルクとユリアンの物語。登場人物ごとの視点(主人公のゲオルクは現在、その他の人物は過去)で物語が進行する。 Tゲオルグ…有名映画監督となったゲオルク・フォン・グリースバッハは、自伝出版のためチーフ助監督のエーゴン・リーヴェンに口述筆記させている。4歳の時、体が癒着していた兄弟のユリアンとの切除手術を受けたゲオルクは、母方が貴族だったためにユダヤ人の父と共にグリースバッハを名乗っていたが、母の死去と、再婚によりグリースバッハを名乗れなくなった父と別れて本家の伯父の養子とな る。彼はユダヤ人排斥が広まる陸軍学校を無事卒業し陸軍大学に進学したが、彼に決闘を申し込み敗れ去った学生の父が皇帝の寵臣であり財閥の縁戚であったため、面目を潰された腹いせに 相手は義父に圧力を掛け、彼は大学を放逐される羽目になった。家からも追い出された彼は、2ヵ月かかってアメリカに渡り、さらに1年かけて西海岸へたどり着く。ハリウッドで映画監督のウォーレン・アンドリュースの目に止まった彼は、スタントマンから端役兼助監督となり、その多才ぶりからセットのデザインから脚本まで手がけるようになり、映画会社「プラネット」の制作部総支配人ケネス・ギルバートと、彼の愛人であり、やり手の脚本家兼フィルム編集者であったメイベル・ロウに認められて、監督を任されるようになる。低予算の映画「嵐」を成功させた彼は、次に大作「エレクトラ」の制作に入るが、その脚本を書くにあたって彼は無意識に自分の自伝 ともいうべき「双頭のバビロン」を書き綴ってしまうのであった。結局5時間半の長編として完成した「エレクトラ」は、メイベルによって2時間15分に編集され たが、皮肉にもそれは大成功を収めた。 Tユリアン…ゲオルクと切り離されたユリアンは、両親から見捨てられ、世話係だったヴァルター・クッシュに引き取られる。成長するにつれ、自分の住んでいるところがチェコのボヘミアの瘨狂院「芸術家の家」であることを理解する。そこで彼はマン神父が上海から連れてきたツヴェンゲルという少年と仲良くなるのであった。 Tパウル…3年前に旧大陸からアメリカに渡ってきた彼は、移民船の中で広まった伝染病によって家族を全て失い、東部でスリのエンリコにしばらく世話になっていたが、やがて西海岸にたどり着いた彼は、映画製作の仕事に興味を持つ。その日17歳になったばかりの彼は、グリースバッハ監督の新作「タイタニック」の衣裳を運ぶ途中に、ボヘミアから来たエキストラ志望の15歳の少女アデーラと偶然出会う。彼女も人形劇の一座だった家族を全て亡くし孤独な身であった。彼女に一目惚れしたパウルは、彼女をエキストラとして売り込むことを約束し、たまたま仲良くなった1つ年上のイタリア系スタジオスタッフのジャンニ・ランツィにそのことを話して、スタジオの中に案内してもらう。スタジオの中で偶然出会った「プラネット」のチーフ助監督エーゴン・リーヴェンにアデーラの売り込みを成功させた彼は、その夜ジャンニとアデーラの3人でお祝いをする。翌朝、彼とアデーラが教会へ行き結婚したことを知って驚いたたジャンニは、メイベルに掛け合って20ドルのお祝いのチップをもらい、仕事仲間と自分の家族を呼んで祝宴を開いてくれた。新米の雑用係と新顔のエキストラの結婚祝いに、エーゴンとメイベルまでが参列し参加者は驚く。「タイタニック」の大食堂のシーンの撮影には、アデーラが踊り子として出演するのみならず、パウルもボーイとして出演できることになったが、「プラネット」の評判を落とそうと画策しているらしいグリースバッハ監督をスパイしてほしいというメイベルの差し金であった。監督やスタッフから何の指示も出ない大食堂のシーンは、やがて破廉恥な大宴会に発展してしまい、パウルはこれこそが監督の狙いだったのかと思い至るも、彼自身も酒に溺れて意識を失ってしまうのであった。 Uゲオルク…上海でのゲオルクの回想は続く。「エレクトラ」で大成功を収めた彼は次作の「二都物語」のシナリオを書き始めるが、やはり無意識に自伝的な「双頭のバビロン」のシナリオを書いてしまう。しかも今回は自分の記憶にない場面が頭に浮かび、死んだ(と彼が思い込んでいる)双子のユリアンが自分に書かせているのではないかと考える。何とか「二都物語」の台本を完成させ好評を博したあと大作を2本作った彼は次の大作「ゴールド」に取りかかる。しかし自分の思い通りの映画を作りたいあまりに大女優とトラブルを起こした彼は「プラネット」が押しつけてくる娯楽映画を立て続けに何本も撮らされる羽目になる。ハリウッドにおける彼の最後の作品となった「タイタニック」では、彼の初稿はメイビルによって一蹴され、彼女の用意した脚本を見た彼はやる気を失ってしまう。 Uユリアン…ユリアンもゲオルク同様に自分の記憶の矛盾に気付いていた。そして、自分を引き取ってくれたヴァルター・クッシュが、瘨狂院「芸術家の家」の創始者の孫であり、グリースバッハ家の末娘と結婚してゲオルクの義兄となったブルーノがヴァルターの異母弟であり、このヴァルターとブルーノの兄弟は、ゲオルクとユリアンとの精神感応実験に興味があることを知る。一時は自分にはそんな能力はないと考えたユリアンであったが、ある日突然自動書記をやりたいという気持ちがわき起こり、幼いゲオルクの記憶を書き記して疲労困憊し眠りに落ちるのであった。そのことを知ったブルーノは、グリースバッハ家のゲオルクの留守中に彼の部屋に入れてもっと多くのことを感じさせようという提案をする。ヴァルターも賛成したことでその実験は実行に移されるが、決闘による怪我で入院中のゲオルグの記憶がユリアンの頭の中に見事に蘇った。さらに幼い頃のゲオルクの記憶を思い出した彼は錯乱し意識を失うが、覚醒後に瘨狂院に連れ戻される。しかし、帰り着いた彼を迎えたのは、ツヴェンゲルの「ヴァルター先生が亡くなった」という言葉であった。そして、確実にアリバイがあるユリアン自身も「僕が殺した!」と叫び続ける。 ここまでが上巻のあらすじ。話の流れからするとゲオルクがヴァルター殺害の犯人なのだろうか。そしてゲオルクの最後の作品となった「タイタニック」の大食堂シーンの撮影の日に一体何が起こったのか。どうやら大きな火事が起こった様子なのだが…。このように興味深い部分がないわけではないのだが、正直退屈。決して駄作だとは思わないが好き嫌いが分かれる内容なのは確か。下巻に読み進むのも気が重い。 Uユリアン(承前)…ヴァルターの死は病死と診断され、ブルーノが瘨狂院を継ぐことになる。ブルーノの提案で、ユリアンはアメリカで死亡したと思われるゲオルクとして軍に、志願することになる。ブルーノの息子が幼くして病死したためグリースバッハ家の跡取りがいなくなってしまったので、ユリアンがゲオルクとして戦場で手柄を挙げて帰国すれば再び跡取りとして迎え入れてもらえるだろうという考えである。ツヴェンゲルと共に死と隣り合わせの戦地を転戦し無事に帰還を果たした2人であったが、敗戦によってグリースバッハ家は破産していた。それでも快く2人を出迎えてくれた義父に対し、ツヴェンゲルはエーゴン・リーヴェンが自分の本名であると告げる。働かないわけにいかなくなった2人は仕事を探し、ユリアンは映画館の伴奏のピアノ弾きに、速記とタイピングができるツヴェンゲルはドイツのベルリンに移って映画の記録係となった。その職場でユリアンはゲオルクが製作し出演した映画「嵐」を観て、彼が今も生きていることを知る。 Uパウル…映画「タイタニック」の大食堂シーンの撮影の際に発生した火災によって顔に火傷の跡が残ったアデーラは、病院で何度も自殺未遂を起こし、現在は州の施設に入れられていた。飲んだくれとなってしまったパウルは、火災の原因が燃えやすいセロファンを使った衣裳を身につけていたアデーラに高温の投光器が集中したせいだという噂を聞き、照明係のトビーに暴力を振るうが、そこに現れたメイビルによって止められる。彼女は戦争によって発達した形成外科手術でアデーラの顔が元に戻ると彼に告げる。そして、プラネットにとって大スキャンダルとなりかねない火災時のフィルムで脅迫してくる上海住まいのグリースバッハ監督の元に乗り込み、彼からフィルムを奪い返せばアデーラの高額な手術代を出してやるという彼女の提案をパウルは飲む。 Vゲオルク…撮影中の火災事故でハリウッドでの全ての仕事を失ったゲオルクは、エーゴンと共に上海に渡り映画製作指導の仕事をすることになる。そこでユリアンの記憶を思い出したゲオルクは、ツヴェンゲルの役者姿の絵を描く。その絵を見たエーゴンは、その直前にツヴェンゲルと全く同じ持病を持っていることが明らかになるが、さらにツヴェンゲルと全く同じ自分の生い立ちをゲオルクに聞かせるのであった。新興の映画会社である芸華影戯公司の副支配人・呉から紹介された、その映画会社の社長であり陸海空軍少将参議の肩書きも持つ杜月笙(とげつしょう)は、秘密結社「青幇(ちんぱん)」のナンバー3である恐るべき人物であった。彼の目的は、彼が4番目の妻にしようとしていた女優を、ゲオルクの制作する映画の主演女優として有名にすることであった。ゲオルクは「香妃」という映画を成功させ杜月笙の望みを叶えるが、ゲオルクは要なしとなり会社も解散してしまう。会社の用意したアパートに住めなくなったゲオルクとエーゴンは、安宿に引っ越し再起をうかがうことになった。そしてある夜、ゲオルクはエーゴンとの最初の出会いについてエーゴンに語り始めるが、その出会いがゲオルクをグリースバッハ家から追い出すための策略であったことをエーゴンから聞かされた彼は驚愕する。ゲオルクが大学に通っていた頃、彼はカフェで出会ったフランスの戯曲に詳しい女性に興味を抱く。彼女を口説く邪魔をした学生ともめて彼は決闘をする羽目になり、結局それが原因でグリースバッハ家を追い出されることになったのだが、これは全てグリースバッハ家を手中に収めようとしていたブルーノの策略であり、それに協力していた女性こそ、19歳のツヴェンゲルつまりエーゴンの女装した姿だったのだヴァルターがブルーノの異母兄であったことも初めて知ったゲオルクは、ユリアンがウィーンで溺死体となって発見されたと聞き、さらに驚かされる。ユリアンの死を見届けたエーゴンは、「エレクトラ」を観て感動してアメリカに渡り、運良く速記者としてゲオルクに雇われたのであった。 Vユリアン…エーゴンの見たユリアンの遺体は別人であった。ゲオルクがアメリカで生きていることを知ったユリアンは、ヴァルターの死の真相を問いただすためアメリカに渡るが、その船内でゲオルクの部屋から持ち出したアルバムに、ゲオルクと女装したツヴェンゲルが一緒に写った写真を発見し、ツヴェンゲルに裏切られたと感じる。ニューヨークに着いたユリアンは、過去にゲオルクとトラブルを起こした不良にゲオルクと間違われ絡まれるが、軍隊仕込みの技で不良をあっけなく殺してしまう。しかし、逃亡中に頭部に衝撃を受けて気が付くとエンリコによって縛られていた。エンリコは過去に助けたことのあるゲオルクだと思って気絶していたユリアンを連れてきたのだが、ユリアンが気絶したまま銃を放さないため仕方なく縛っておいたのだった。意識を取り戻したユリアンは、エンリコに自分はゲオルクと双子であることを告白する。
Vパウル…上海のグリースバッハ監督の所にフィルムを奪い返しに行くことになっているパウルに、エンリコは彼に会いたがっているユリアンを一緒に連れて行くよう提案する。口実を設けて堂々と監督と会うべきだとメイベルに言われていたパウルは、ユリアンのおかげで良い口実ができたと彼を連れて行くことにする。 Wユリアン…上海に向かう船の中でパウルと打ち解けたユリアンであったが、エーゴンがゲオルクと行動を共にしているという話を聞き、最初に裏切りを感じた時以上の怒りを覚える。
Wパウル…上海で面倒を見てくれることになっているアメリカ領事館書記官のドナルド・マクヒューに接触したパウルであったが、メイベルが指示したような放火や殺人といった乱暴な方法でフィルムを処分するのは危険であると彼に断じられる。 ゲオルク…アンドリュースに「木蘭従軍」のシナリオを見せた後、「タイタニック」の乱痴気シーンのフィルムも見せるゲオルク。アンドリュースはドイツの映画会社「ウーファ」で「木蘭従軍」が撮れるように推薦状を書くことを約束する。 ユリアン…まずはツヴェンゲルに会おうと、彼だけで留守番をしているゲオルクのアパートに入るユリアン。自分を裏切ったツヴェンゲルに対し、ゲオルクと勘違いさせて怯えさせようとしていたユリアンであったが、背後からツヴェンゲルの肩に乗せた手に触れただけで相手がユリアンであることに気が付き、振り向いて抱擁を交わすツヴェンゲルのすべてをユリアンは許す。ツヴェンゲルは、ヴァルターの死はブルーノによるもので、その報復に彼自身がブルーノを毒殺したことを告白する。 パウル…ゲオルクから「タイタニック」の問題のフィルムを盗むため彼のアパートを監視していたパウルは、アンドリュースの突然の訪問に驚く。実はアンドリュースもハリウッドで映画を撮らせてもらう権利と引き替えに問題のフィルムを盗むためにメイベルから上海に送り込まれた1人だったのだ。アンドリュースは自分がゲオルクを引きつけている間にアパートからフィルムを盗み出すようパウルに指示をして部屋から出て行った。 ゲオルク…カフェで打ち合わせをしているゲオルクとアンドリュース。アンドリュースは自分が上海に来た目的を正直に話し、「タイタニック」の問題のフィルムは切り貼りして差し出せばバレないからプラネットを脅迫し続けることは可能だとゲオルクに提案する。この話を盗み聞きした呉は、問題のフィルムを盗むべく部下を連れてゲオルクのアパートに向かう。呉の思惑に気が付いたゲオルクとアンドリュースは彼らを追い、なんとか彼らが盗み出したフィルムをすり替えることに成功するが、ゲオルクのアパートには呉の部下の死体があり、彼を殺したと思われるユリアンとツヴェンゲルは姿を消していた。身の危険を感じたゲオルク、アンドリュース、パウルの3人は、適当につないで作った「タイタニック」のフィルムをマクヒューの目前で焼き捨ててから上海を脱出する。ゲオルクはヨーロッパへ、アンドリュースとパウルはアメリカへ。 伯林…念願が叶いドイツで「木蘭従軍」の撮影を始めたゲオルク。主演に据えた人気俳優のグスタフ・ミュラーは期待はずれだったが、何とか映画は「HUA MURAN」として完成した。そしてゲオルクはプレミアの会場で、送られてきた封書に書かれていた住所を頼りに、捜していた瘨狂院の場所をついに発見した時のことを回想する。唯一人が生活している気配を感じる部屋を見つけた彼に、久しぶりに自動書記の力が発動する。そして疲労困憊した彼は部屋の外にユリアンとツヴェンゲルの墓を発見する。ユリアンの激情に反応してゲオルクが無意識に突き飛ばしたことでヴァルターが死に、ユリアンを救うためにツヴェンゲルはブルーノを犯人に仕立て彼を殺したという、ヴァルターの死の真相をゲオルクは理解する。そして、ゲオルクはユリアンとツヴェンゲルの死も「見た」。ゲオルクは2人の死の様子を次のように想像し記録した。上海でユリアンは呉の部下に射殺され、負傷したツヴェンゲルはユリアンの死体を持って上海を脱出しヨーロッパに向かった。ユリアンの死体は船上から海に捨て、瘨狂院に帰り着いたツヴェンゲルはユリアンが子供の頃大事にしていた箱をユリアンの墓に埋めた。そして瀕死のツヴェンゲル自身は別の箱の中に身を横たえたのであった。ふと我に返ったゲオルクは、劇場の客席の最後方にユリアンの姿を見たような気がしたのであった。 ユリアン…実はゲオルクが瘨狂院を訪れた時、ユリアンは生きており、聖具室からゲオルクの様子を見ていた。ユリアンとツヴェンゲルは負傷しながらも生きてウィーンに帰還しており、やがて志望したツヴェンゲルはユリアンによって埋葬される。そしてユリアンも自ら箱に入って死を迎えようとしている。ユリアンは、ゲオルクが自動書記能力によって真相を知ったならば、ここへ来て箱に土をかけてくれるよう願うのであった(この章は自動書記の部分に用いられる太字で書かれており、後にゲオルクが自らの能力によって真相を知ったことを暗示している)。 上巻と比べると下巻はやたらと細かく場面が変わり、規則性のないサブタイトルの付け方もよく分からない。上海に至るまでの話は辛うじて付いていけるが、危険が差し迫っているユリアンとツヴェンゲルを放置してさっさと上海から逃げ出すゲオルクには大きな違和感を感じる。双子とは言え、ずっと交流のなかったユリアンはともかく、仕事で長い間苦楽を共にしたエーゴンをそんなに簡単にゲオルクが見捨ててしまう展開には大いに不自然さを感じる。ユリアンとツヴェンゲルが瀕死の重傷で帰国していてツヴェンゲルが間もなく死んでしまっていたという展開にはどうも付いていけず、なんとなくグダグタ感をぬぐい切れないラストシーンにモヤモヤしたものが残る。最近本当に多いゲイ設定には、いい加減食傷気味。ヴァルターの死の真相も分かったような分からないような…。本作の一番のポイントは双子の精神感応だろうが、そのモチーフをあまり生かし切れていないように思えるのは自分だけだろうか。幻想的な世界観を作り出そうとして、ただ話をややこしくしているだけのような気がする。ツヴェンゲルとエーゴンが同一人物であったという部分くらいしか、ミステリー的なインパクトはなかった。今回は久しぶりに疲れる読書だった。 |
2016年2月読了作品の感想
『神の刺(T/U)』(早川書房/早川書房)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2011年版(2010年作品)13位作品。前回と似たような舞台設定の物語のようで、2冊に分かれた構成も同じ。前回に引き続き「疲れる読書」になりそうな予感があったが、読み始めると雰囲気は本当に似ている。1ページ目からヴァルター、その後ゲオルクやパウルなど前作と同名の登場人物が登場(当然全く無関係)。オーストリアやドイツにはありがちな名前なのだろうか。他に気になったのは今時珍しい誤字脱字。初版本とはいえT巻とU巻それぞれで5カ所ずつ計10カ所も見つけてしまった。読書をしているとたまに見つけることはあるが、あっても1、2カ所あるかないか。大丈夫か、早川書房…。 序…ドイツ・リューベックの港湾局管轄の工場で働くヴァルターは、新任で要領の悪いヘルマンという男と親しくなる。彼は、ヴァルターにベルリンのドイツ共産党の生き残りである活動家であることがばれて動揺するが、ヴァルター自身がドイツ共産党の下部組織・闘争同盟の一員であることを明かし、ヘルマンを歓迎する。1936年5月、数々の働きで信用を得たヘルマンは、ついに闘争同盟の幹部と会うことになるが、実はヘルマンの正体はSD(ナチス親衛隊(=SS)保安情報部)の曹長、アルベルト・ラーセンであり、彼によって闘争同盟は壊滅する。アルベルトは、収容所に入れられ呪いの言葉を吐くヴァルターを冷たく突き放して去っていくのであった。 第1章…1936年9月、SDとゲシュタポを含む保安警察を束ねる32歳の若き長、ラインハルト・ハイドリヒSS中将は、ナチスと対立する修道院の院長、ハインツ・フォン・ベールンゼンの失脚をアルベルトに命じる。ベールンゼンの弟子の1人、マティアス・シェルノがアルベルトの幼なじみであり、疑惑の交通事故死をした修道司祭がアルベルトの兄、テオドール・ラーセンだったからである。SSの一員であることを隠し、兄の死の真相を知りたいとあちこちを精力的に回っている姿に心打たれたマティアスは、院長に咎められることも覚悟でアルベルトの元を訪れ、テオドールがブルーダー・ゲオルクという修道士と同性愛の関係を持っていたらしいこと、テオドールが死の3日前に礼拝堂でマリアに延々と救いを求める言葉を繰り返していたこと、テオドールの死後1週間後にゲオルクが中国奥地に宣教に行かされたことを語る。ほぼ真相を掴んだアルベルトは、ローマに留学することになったテオドールの親友の修道司祭、ヨアヒム・フェルシャーが死亡したテオドールの代わりにその権利を得たと考え、彼ならより詳細な真相を知っているのではないかと接触を試みる。11月についにヨアヒムに面会できたアルベルトは自分の身分を明かし、ヨアヒムを脅迫して道徳裁判の証人に立たせることに成功する。その結果、修道院の閉鎖が決まり、ベールンゼンはアルベルト達に連行され、居場所を失ったマティアスはヴァルター同様にアルベルトに呪いの言葉を吐くのであった。 第2章…アルベルトは、要注意人物との密告のあったベルリンの司教座聖堂付の助祭、コルネリウス・ロサイントの調査を開始する。当初は濡れ衣の予感もあったが、ロサイントが共産党員と結託し政府転覆を計画した証拠を掴んだアルベルトは、妻のイルゼの眼前で彼を連行するのであった。アルベルトは、それまでの功績が認められ、名誉あるドクロの指輪を授けられるが、イルゼの死産という不幸に見舞われる。やがてイルゼは回復するが、ユダヤ人への暴動を鎮圧して疲労困憊して帰宅した夜、イルゼが自宅にユダヤ人夫婦を無断で匿っていたことに愕然とする。強硬な態度を取るイルゼのために何とか2日間で彼らのビザを取得し、彼らを追い出すことに成功したアルベルトであったが、大きな疲労の中で独善的なイルゼへの不信感が芽生えつつあった。 一方、マティアスは新しく移った修道院で祈りと労働に全てを捧げていたが、そこへヨアヒムが現れる。裏切り者の来訪に憤慨するマティアスであったが、ヨアヒムはローマ教皇が信徒に向けて公に発する最重要文書である回勅をマティスに託す。それはナチを批判する過激な内容のものであった。回勅は4日後に全国の教会で読み上げられるものであったが、ヨアヒムはより多くの信徒の手に渡るようにその印刷をマティアスに依頼したのだ。マティアスは不眠不休で印刷するが、カトリック系最大の印刷所の責任者であるホフマン神父が逮捕されたことでマティアスにも印刷中止の命が下り、司教団による回勅の支持声明も出ることなく、マティアスは失望するのであった。1939年2月、マティアスはローマに向かう国際列車でローマ教皇ピウス11世の弔問に紛れてユダヤ人の親子の亡命を図ったが、彼らが隠し持っていた宝石をSS隊員に発見され頭を抱える。しかし、万一のために隠し持っていたヴァチカンの大物の手紙を利用して、マティアスとユダヤ人親子は何とか難を逃れるのであった。 第3章(前篇)…ユダヤ人の亡命を手引きする者達が次々に現れ始めていたが、密告に基づいてゲシュタポとSDが踏み込んでも獲物が消えているという事態が続いていた。上司のハルトルに内部から情報が漏れているのではないかと報告したアルベルトは、双頭官房直轄の極秘計画・E計画への参加を命じられる。それはまさにガス室を利用したユダヤ人 障害者の抹殺計画であった。現場を視察したアルベルトは食欲を失い、女優の仕事に復帰し忙しくなったイルゼの代わりに同僚のシュラーダーが通いの家政婦として紹介してくれた叔母のブラウン夫人の料理も喉を通らない。 国防軍諜報部(アプヴェーア)の法務顧問にして反ナチ組織クライザウ・グループの統括者ヘルムート・ジェイムズ・フォン・モルトケの屋敷に招待されたマティアスは、あらゆる階層から集まった組織のメンバーに感動し熱い議論を戦わせるが、新政府樹立後の理想論ばかりで、現政権を倒す方法に一切触れないメンバーに失望しモルトケ邸を後にした。そして週に一度訪れる児童養護施設にやって来たマティアスは、反ナチ組織・連隊=レギメントの連絡員「スレイプニル」として、同じくレギメントの連絡員である「サズ」ことシュヴェスター・ヴェロニカ修道女と接触する。彼女から「公共患者輸送会社(ゲクラート)」に気をつけるよう忠告されたマティアスは、国家によるユダヤ人 障害者の虐殺が行われていることにすぐに気付き、かつて訪れたベルゲン療養院に駆けつけるが、26名もの患者が連れ去られた後であったことを知り絶望する。 週末シュラーダーと映画館を訪れ食事をした後、帰宅したアルベルトを待っていたのは、ゲシュタポによる家宅捜索であった。責任者であるフーバーから、容疑が反政府組織に関わっていたイルゼへの情報提供と聞き呆然とするアルベルト。逮捕されたアルベルトはフーバーから拷問を受け、石の房で震えるしかなかった。 ここまでがT巻のあらすじ。ナチのエリート士官と期待されながらも窮地に立たされるアルベルト、そしてただのいじめっ子崩れの修道士と思われていたマティアスが急速に物語の中で存在感を増し、アルベルトのライバルとして立ちはだかるという構図が確立して、やっとこの世界観になじめてきた。なんとかU巻を読む気力を維持できそうな感じ。とは言っても、あくまで辛うじてであり、ページを繰るワクワク感まではない。 第3章(後篇)…突然釈放され唖然とするアルベルト。彼を迎えに来たシュラーダーは、彼にウラがとれたからだと説明する。イルゼに情報を洩らしていたのがフーバーの部下のビルケルであることが明らかになり、シュラーダーが半年前からアルベルト宅に送り込んだスパイのブラウン夫人を使って盗聴していた内容によって、アルベルトの無実が証明されたのである。そして、シュラーダーは彼に挽回のチャンスを与えるため、ある施設で行われている安楽死行為の告発文を彼に託し、SS大将のハイドリヒの元に向かわせる。ハイドリヒはアルベルトをポーランドへ飛ばそうとしていたが、その前に告発文の処理をしたいというアルベルトの直訴に彼は許可を与えたのだった。 マティアスはゲクラートによって児童福祉施設から子どもたちが攫われないよう東奔西走するが、ゲクラートの横暴は続いていた。なんとか子どもたちを救おうと修道院に移し、さらに夜にバスで抜け出そうとしたが、結局ゲクラートに捕まる。責任者のフライは抵抗を続けるマティアスに自分の目で安全を確認すればよいと一緒に施設に着いてくることを提案する。しかし、案の定、施設に着くとマティアスは子どもたちから引き離され、子どもたちはシャワー室に押し込められた。激怒したマティアスは銃を奪って反撃するも、自分も肩と腹部に銃弾を受け重傷を負う。そこに現れ子どもたちの処刑を中止し、マティアスを救ったのはアルベルトだった。教会側の抵抗があまりに大きく、帝国官房から撤回命令が出たのであった。病院に入院したマティアスから、告発文を書いた犯人の名を聞き出そうとするアルベルトであったが、マティアス自身も知りたいくらいであった。そして、ついに教会のビラ攻勢に屈した帝国側はマティアスを解放し、彼はモルトケ伯によって手厚く待遇される。モルトケ伯を通して大司教ファウルハーバーからの司教になるべきという提案を聞くマティアスであったが、彼は返答を保留するのであった。 第4章…武装SSロシアに送られたアルベルトはコミッサール(政治委員)の疑いのあるユダヤ人の虐殺に荷担していた。友人のシュラーダーが戦死し、その報復にパルチザンの親族32名を処刑することになったアルベルトは、わき上がる疑問を任務という言葉で押しつぶして実行に移した。 マティアスは戦地から遠く離れた長閑な地にある修道院の神学校で司祭になるべく学んでいたが、その現状に疑問を抱いていた彼は学問の半ばで徴兵され衛生兵としてイタリアの最前線に送られていた。戦地で負傷し死を迎えようとする者達は聖体を授けられることを望んでいたが、教会の司祭は危険な最前線に近づくことを嫌がり、その現状にマティアスは苦しんでいた。マティアスは、モンテ・カッシーノ修道院のムンディヒ神父に聖体を授ける許可をもらおうと直訴するが、副助祭の資格しか持たない彼に許可は下りなかった。しかし、連合軍の砲撃を受けて崩壊したモンテ・カッシーノ修道院に呼び出されたマティアスは、ムンディヒからマティアスの話を聞いたディアマーレ司祭から、特別に聖体の秘蹟を行う許可を得て喜ぶ。モンテ・カッシーノ修道院から分けてもらった聖体を使い切ったマティアスが鄙びた村の教会で聖体を分けてもらおうとしている時、そこにアルベルトが現れる。アルベルトの依頼で彼の死にかけた部下に聖体の秘蹟を行う。そして、その1週間後、再びマティアスの前に現れたアルベルトは、マティアスを車に乗せ強引にローマに連れて行く。フェルシャーを通じてローマ教皇に会い、司祭になる許可をもらえと言うアルベルトに驚くマティアス。ついに教皇ピウス12世に謁見することが叶ったマティアスは、イタリアの司祭達にドイツ兵を救うよう伝えてほしいという希望を述べ、それが受け入れられた後、自分の叙階ではなく、ナチスに虐げられているユダヤ人を救うことを訴え周囲を慌てさせる。すぐに衛兵に謁見室から連れ出されてフェルシャーを呆れさせるが、彼を追って現れた教皇は彼の願いを聞き入れ、さらにフェルシャーが訴えたマティアスの叙階についても認めてくれるのであった。感激するマティアスを外に連れ出したフェルシャーは、自分もレギメントの一員であること、そしてアルベルトも協力者であることをマティアスに伝え、彼を驚かせる。 終章…連合軍の捕虜となり、米軍の収容所に3か月、英軍の収容所に4か月入っていたマティアスは、ミュンヒェン北部の修道院で司祭として働いていたが、1947年7月、ロレンツ弁護士から生死不明だったアルベルトが見つかったという報告を受ける。彼は、米軍収容所の中でも最も酷いと言われているバート・クロイツナハ収容所にいるという。彼の弁護を希望しているというロレンツは、教誨師になれば囚人の彼と会えるとマティアスに勧める。そして、1947年9月に修道院にやってきたイルゼは、マティアスに驚くべき告白をする。自分が実はユダヤ人であり、そのことを夫のアルベルトも知っており、そのことを上司に知られたアルベルトが徹底的に教会を潰すという形でナチスに忠誠を誓わされたこと、そしてイルゼがレギメントのメンバーであり、マティアスが会ったことのあるメンバーの「サズ」がイルゼ自身であったことに驚きを隠せないマティアス。さらにイルゼをアメリカに亡命させることを条件に、レギメントにナチスの情報を提供するという要求をアルベルトが受け入れたという話にマティアスはさらに驚愕する。マティアスの仕業に見せかけて安楽死施設の内情を世間に告発したのもアルベルトであったのだ。 1948年4月、アルベルトに死刑判決が下る。ナチスへの抵抗運動に関わっていたことを訴えれば判決に影響があったはずだったが、アルベルトはそれを拒否した。そして、南米へ旅立つことになったフェルシャーは、マティアスに告解を申し出る。フェルシャーは誰からも愛されるテオドールを憎んでいたため、テオドールがが同性愛者であること、そして彼がレギメントの一員であることを、彼に想いを寄せるゲオルグに教え唆したせいで、テオドールを追い込むことになったことを告白する。全てを知ったテオドールは、フェルシャーに「君は刺を切望しているのだね」と告げて3日後に死ぬ。ゲオルグが罪を犯したのも、テオドールが死んだのも、ベールゼン神父が全てを失ったのも、修道院が潰れたのも、アルベルトがあのような道を歩むことになったのも全て自分のせいだと言うフェルシャーを、マティアスは、告解のあとに思いきり殴りつけるのであった。1950年11月、教誨師となったマティアスはアルベルトの元を訪れる。死を受け入れているアルベルトと分かれる時、マティアスは涙が止まらなかった。年が明けて間もなくナチ戦犯の恩赦が行われたが、アルベルトの死刑は覆ることはなかった。死刑執行が行われる日に再びアルベルトの元に駆けつけたマティアスは、2人で静かにコーヒーを飲んで分かれた。アルベルトの最後の言葉は「たぶん、おれは君のようになりたかったんだと思う。さようなら、マティアス。元気で」というものだった。その顔は、マティアスがこれまでに見た人間の表情の中で最も美しいと思える笑顔であった。 U巻は戦争描写の悲惨さに引かれてT巻よりは集中して読めたが、最後まで期待したほどの大きな感動はやはり得られなかった。アルベルトとマティアスの友情が主なテーマなのだが、どちらも直接的に相手を思いやって行動しているわけではないので泣けるような場面は全くない。アルベルトは何度も命令に背いて人助けをしているが、それ以上に人を殺しているので全く同情できないし、減刑されないのもやむを得ないことであろう。ミステリ小説的なサプライズは終盤にいくつか用意されていたが、いずれもびっくりするようなものではなく、特に安楽死施設の内情告発がアルベルトによるものであったことについては最初からバレバレな雰囲気であったし、サズの正体がイルゼだったというのは、彼女を目前にして気が付かなかったマティアスに問題ありだろう。こういう作品の価値が理解できないわけではないが、映画や漫画ならともかく、小説と言う形での需要は今後減っていくばかりのような気がする。 |
『天城一傑作集2 島崎警部のアリバイ事件簿』(天城一/日本評論社)【ネタバレ注意】★ 「このミス」2006年版(2005年作品)8位作品。4年ぶりに読む天城一作品。前回読んだのは、「このミス」2005年版3位作品で天城一傑作集1にあたる『天城一の密室犯罪学教程』である。前作を読んでみての結論は、「今まで資料の少なかった過去の寡作作家の業績がまとめられた本書は資料的価値があるということで、その手の方々の票を集めて上位にランクインしたというだけで、純粋に最先端のミステリ小説を楽しみたいと思っている読者を満足させるものではない」というもの。その続編であり、税抜き3,000円、600ページを越える本書を読了するには相当の覚悟が入りそうだ。本書は「PART1ダイヤグラム犯罪編」、要するに時刻表トリックの短編9編と「PART2不可能犯罪編」14編からなる短編集である。これはちょっと…という話を延々読まされるよりはダメージは少なそうであるが…。 まずは「PART1ダイヤグラム犯罪編」だが、そもそも時刻表トリックの面白さが自分には分からない。時刻表から抜け道を見つけ出し犯罪を構築する作り手の方は楽しそうだが、読む方はそんなに楽しいだろうか。いちいち頭の中で筆者の言う分刻みのトリックを再構築するのも面倒で、トリック説明の部分はたいてい流し読みだ。今回は、それ以外の面白さを何とか見つけたい。 @急行〈さんべ〉…銀行員の巌木が、横領に手を貸してくれた女子銀行員・米内沢ひろみを裏切って殺害し、社長令嬢と結婚しようとして失敗する話。 巌木が運転手として雇った若者の車のトランクに死体を入れておき、その若者が死体に気付いて驚き、勝手にどこかに捨てれば事件の発覚は遅れるだろう、死体が見つかっても疑われるのは若者で自分には捜査の手は及ばないだろう、という巌木の発想がまず意味不明。また、自分の出世のために、元上司の五十川に、対立する派閥の横暴な監査の様子を告発するのは理解できるとしても、それにひろみの横領話を付け足したのは理解に苦しむ。共犯者にはリスクが大きすぎるだろう。五十川が、ひろみの死体が発見されたという事件記事を新聞でも週刊誌でも見るはずがないという巌木の考えも全く理解不能。エリアが違うとは言え、同じ銀行の銀行員の殺人事件の話など、どこから耳に入るか分からないではないか。 A寝台急行〈月光〉…一流の「箱師」菅野は寝台急行で「仕事」をするが、被害者の宇津見が刺殺されていたため殺人容疑で逮捕される。彼の疑いが晴れ、宇津見のコンパートメントで商談していたという金浜という男も自ら名乗り出てアリバイが成立。秘密の情報提供者「Rルームの美女」から、宇津見の正体がベトナムの秘密情報機関の幹部であること、彼が桐原というブローカーと大口の取引をしようとしていたこと、その取引に金浜が割り込んできたことを知らされた島崎警部は、桐原の元を訪れるが無下に追い返される。島崎警部は部下と共にベトナム情報局のエージェントを演じて桐原を脅迫した結果、桐原は翌朝自決。ライバルの金浜は別件で逮捕され、桐原の犯行が結局無駄であったことを島崎警部に伝える「美女」であった…という話。 桐原の宇津見殺害の動機は取引相手を金浜に鞍替えしたことに対する恨みなのか?「宇津見が死んであんたは助かった」という桐原に対する島崎警部の発言がそれにつながらなくて今一つ理解できないのだが。それ以外にも本筋に関係のない細々とした話がたくさんあってはっきり言って邪魔。詳細は割愛するが、島崎警部が「美女」に語る桐原に関するコーヒーや懐メロのエピソードなどは半分冗談なのだろうが全く面白くない。桐原を取調室で自白させたのならともかく、自決させて平然としている島崎警部の態度にも大きな違和感を感じる。 B急行〈あがの〉…踏切での軽自動車との衝突事故で55分の遅れを出してしまった「あがの2号」。郡山での接続の特急「ひばり11号」には間に合わない。郡山駅で駅員に「上野駅に出迎えに来ている友人に遅れを知らせたい」と男が食い下がり、23時、上野駅で「八上久吉様」宛の電報が届いている旨のアナウンスが流れるが誰も現れない。そして6時少し前、上野駅近くのホテルで黒井産業調査所長の黒井が絞殺死体で発見される。発見者は黒井と会う予定があって喜多方からやって来た部下の浜堀で、「あがの2号」の事故で「ひばり11号」に乗れず「あづま2号」で上野に着いてすぐに駆けつけたが、喜多方での用事は企業秘密で言えないという。調査所の次長の八上は新宿で呑んでいたというアリバイがあり、第一容疑者の浜堀は評判の悪い男であったが、踏切事故によるアリバイがあった。真夜中に「美女」に呼び出された島崎警部は浜堀と呑んでいた木路原という男が飛び込み自殺をしたこと、彼には三河重工の調査部が尾行を付けていたこと、木路原は宮城工機が開発中の工作機器の情報を三河重工へ売り込もうとしていたこと、三河重工がそれを断ったこと、黒井に宮城工機の調査依頼をしていたのが三河重工であったこと、三河重工はすでに宮城工機の株集めに動き出しており秘密を盗む必要はなかったこと、木路原は過去に二重スパイをやって黒井に摘発され最近は誰にも相手にされていなかったことなどを教える。島崎警部は、木路原が欲と恨みによって浜堀を使って黒井を殺させたと考え、「美女」も同じ考えであったが、浜堀のアリバイトリックが分からない。しかし、郡山駅で1メートル62くらいの中年男が上野駅に電報を打ったという情報を掴んだ島崎は、すぐに浜堀の逮捕状を請求する。郡山駅から黒井のいるホテルへ電話をしたのは浜堀ということになっていたが、真相は電話を掛けたのは踏切事故を盗難車で故意に起こした木路原であり、その電話を受けたのが浜堀であった。浜堀は時刻表トリックで黒井の死亡推定時刻には上野に着いており、上野駅のアナウンスは、木路原から浜堀への殺人実行を指示するシグナルであったのだ。島崎警部に追及された浜堀は遂に観念し、すすり泣きを始めるのであった…という話。 とにかく何もかもが分かりにくい。「1メートル62くらいの中年男」ってどんなに細かい情報なんだ、というところはすぐ突っ込めるとして、あとはどこを突っ込もうか探すのも面倒臭い。 C準急〈たんご〉は、ホステスに協力を得て行ったオトリ捜査の話。D急行〈西海〉は、島崎警部の先輩から、彼の妹のたっての願いで友人の名門の娘の自殺を洗い直してほしいと頼まれる話。E準急〈皆生〉は、ファッションデザイナーの江迎登志子が絞殺され、かつて彼女を雇っていた船越昭三に容疑がかかる話。 いずれも相変わらず話が分かりにくく展開もオチも面白くない。もう、あらすじをまとめる気力を失うくらい。作者自身のあとがきによれば、PART1では@の〈さんべ〉とEの〈皆生〉が代表作とのこと。短編だから辛うじて耐えられるが、本当に正直きつい。 F急行〈白山〉…H県会議員の江平達治の東京での妾となったシングルマザーの別田定子は、江平に与えられたアパートの一室で彼の絞殺死体を発見する。彼が高速道路絡みで稼いでいたこと、経営の苦しい満潮商事の社長・渡川宏三が蛇窪代議士の所へ顔を出しては高速道路のことを口にしていたと「美女」から聞いた島崎警部は、さっそく渡川の会社を訪れるが、応対した社長秘書の道成寺は、島崎警部の神経を逆なでする何かを持っている男であった。渡川は事件当時はアルプス6号に乗っていたとアリバイを主張する。岩美部長刑事に道成寺を調べさせると、彼が8年前のホステス殺しの容疑者で結局立件できなかったことが判明する。その後の捜査で。道成寺が時刻表トリックで8年前に罪を逃れたことを知った 渡川が、同じトリックで今回の事件を起こしたものと考えられたが、真相は今回も道成寺によるもので、アクシデントによって起こった事件であることが明らかになるのであった。 別田は最初だけの登場で、蛇窪代議士も一瞬名前が出ただけで登場しないし、江平と渡川の関係もよく分からないし、結末の「プレーボーイは個人主義者」うんぬんの話も全く蛇足であるし、とにかく全く面白くない。 G急行〈なにわ〉…目黒のアパートで28歳の主婦・大行司恵が絞殺死体で発見される。島崎警部の部下・若月刑事が夫の健を自供させるが、疑いを持った島崎警部が嘘発見器に掛けたところやはり自供は嘘であったことが判明。次に樫野刑事が、恵の死亡直前の旅行先を神戸の友人の枝光日出子と決めつけ神戸に向かう。恵が神戸で日出子に会っていたことは間違いなかったが、2人が別れた時間からは死亡推定時刻には目黒に帰れない。時刻表トリックで帰宅が可能なことが何とか証明されるが、その時刻には部屋で健が内鍵を掛けて熟睡していたはずであった。樫野は、健が夢遊病者であり、彼自身が無意識に鍵を開け彼女を殺害して再び眠ったと主張するが、その推理は医師によって否定されてしまう。今度は柳刑事が、島崎警部の命令で恵のいとこの本庄襟香をマークし続けた結果、彼女が自白して事件は解決する。恵の計画した健の殺害を止めようとして正当防衛で恵を殺害してしまったことが認められ襟香の量刑は軽いもので済んだ。しかし、15年後、襟香は事件はすべて自分が仕組んだものであることを告白するのであった。 樫野のエピソードの途中で唐突に名前が登場し、柳刑事のエピソードまで登場しない襟香に違和感。犯人のアリバイ崩しに警察が必死になるのは分かるが、被害者が死亡時刻に間に合うようにどうやって自宅に帰ったかの証明に必死になる展開にも違和感。犯人の夢遊病者説に至っては完全に「バカミス」の世界。今回も突っ込みどころ満載。 H特急〈あおば〉…仙台の五百島(いおしま)部長刑事は、上司の計らいで、出張ついでに、秋田の孫と、雫石にいる昔軍隊で世話になった中隊長の大和田に会いに向かう。「あおば」で仙台に着いた五百島は、兵隊時代に新任の少尉が自軍の地雷によって事故死したことをふと思い出す。月曜に仙台に帰ってきた五百島は、火曜朝に瑞鶴ビルの持ち主・竹松忠恕の射殺体の前にいた。被害者が東京の瑞鶴精工の専務・北興敬三と会っていたことが分かり、五百島は東京へ向かう。その頃東京では、岩美部長刑事が島崎警部に上野駅で5年前の殺人事件で使われたと思われる拳銃を発見したと報告していた。被害者は瑞鶴精工の田無工場総務係の鬼塚君栄。交際相手の大学講師の端崎が疑われたが、結局事件は未解決のままであった。竹松と北興は航空母艦「千早」で上官と部下の関係にあり、瑞鶴精工には元海軍関係者が多数いることが分かるが、拳銃はその北興のスーツケースの中から発見され、北興自身は寝台列車の「新星」から落下して死亡したとのことだった。岩美は北興犯人説を主張するが、島崎警部も五百島も納得しない。北興が戦中から苦楽を共にした竹松を射殺する動機が見当たらないのだ。困っている島崎警部に、いつものように「Rルームの美女」が情報を提供する。瑞鶴精工の社長を引退し会長職に収まっていた竹松が求名(ぐみょう)総務課長を仲介役にして三河重工に全ての持ち株を売ろうとしていたこと、竹松が進めていた三河重工の支援に矢倉新社長と吉成常務が突然反対したこと、矢倉社長達は瑞鶴精工の株価が三河重工のライバル会社によってつり上がったところで三河重工に高く売りつけようとしていることを知った島崎警部は、姿をくらましていた吉成常務を見つけ出し彼が竹松殺しの犯人ではないかと追及する。吉成右常務は竹松殺しを否定し、矢倉社長が自分の愛人だった勝子を北興の後妻に押しつけたことを知っているのが自分だけで、矢倉社長に脅されて彼に寝返ったことを白状する。そして、5年前、端崎が妻への離婚の慰謝料500万円を払えれば鬼塚君栄と結婚できると聞いた君栄が、矢倉社長の秘密の件で彼を脅迫し、秘書課長の大篠津に逆に殺されたのではないかという線が見えてくる。北興に化けた矢倉社長が北興の切符を使って「あおば」で仙台に行き、竹松を射殺して「新星」に乗った。そして矢倉社長は福島駅で「新星」を降り、「新星」の浴衣を着せた泥酔状態の北興を「津軽1号」に運び込んだ大篠津がデッキから彼を突き落として殺害したというのが事件の真相であった。あとは矢倉社長を逮捕するだけであったが、突然その幕は下ろされてしまう。矢倉社長を乗せた車が東京湾に飛び込んで死亡してしまったのだ。島崎警部は運転手が「千早」の乗組員の海老津であったことを思い出して悔しがるのであった。 要するにオチは、事件の真相を知った海老津が上官の仇をとったということか。これでやっと「PART1ダイヤグラム犯罪編」を読了したことになるが、この話が一番まともだった気がする。それでも相変わらず登場人物は変な名前ばかりだし、話は分かりにくいし、読んでいて疲れるのはこれまで同様。最初の少尉の事故死が何かの伏線かと思いきや結局物語とは何の関係もなく、ラストシーンにも別人と思われる少尉についての思い出話が出てきて、全く意味不明。思わせぶりな本筋に関係のないエピソードを挟むのは本当に勘弁してほしい。 I「われらのシンデレラ」…成金の竹橋金六のパーティに現れた謎の美女は、大時計の12回の鐘と共に姿を消す。ここまではなかなかにドラマチックで続きを期待させる。その後、屋敷町の焼け跡で深夜に穴を掘っていたらしい竹橋の毒殺死体が発見される。彼が掘っていたところをさらに掘ってみると防空壕の中から若い女性の遺体が発見され、例のシンデレラが自分の妹だと警察に訴えてくる。彼女は、行方不明になっている妹が竹橋に殺されたと考え、うり二つの妹のふりをしてパーティに参加し、竹橋の動揺を誘ったのである。彼女は竹橋が良心の呵責に耐えられなくなって服毒自殺したと考えたが、妹の死体を掘り当てる前に死ぬのはあまりに不自然。しかし、その不自然さに触れることなく、島崎警部は竹橋が何者かによって殺害されたと断言。毒を飲ませた犯人は竹橋の秘書の関山であった。毒は強壮剤と言って飲ませたもので、穴を掘らせたのも防空壕にダイヤが埋まっていると騙して掘らせたと証言する。さらに、竹橋が彼の死体が発見された場所とは別に必要以上に深い穴を掘っていることから、女性を殺して死体を埋めたのも竹橋ではなく関山であることを島崎警部に指摘され、観念する関山であった。 序盤の期待を見事に裏切る平凡な展開と結末にがっかり。 J「われらのアラビアン・ナイト」…殺人のトリックは、被害者に指につばを付けてページをめくる癖があることを知っていた犯人が、宝くじの当たりくじを挟んであるというページに毒を塗っておいたというもの。 まとめるのも面倒なくらいわかりにくい話。この作者は本当に読者のことを全く考えていない。 K「われらのローレライ」…「実験探偵劇」として書かれた劇の台本風の作品。旧家の娘のところに婿入りした男が連続して斧で惨殺されるが、娘には記憶がなかったため不起訴処分に。3人目の婿を救ったのは、島崎警部の部下の中で一番手先の器用な岩美刑事であった。犯人は、身体に障害のあり、執事と下男を兼ねて彼女に仕えていた従兄で、娘を他の男のものにしたくなかった彼は娘に薬を盛って眠らせた後、新郎を惨殺していたのだ。今回は岩美刑事に毒を盛った食べ物の皿をすり替えられて逮捕されたのであった。 試みとしては面白いが内容は平凡。いくら強盗が頻発していた時代だったとはいえ、2度も続けて同じような殺人事件が起こったにもかかわらず容疑者が2度とも不起訴になるという話の展開にも無理がある。 L「方程式」…わずか2ページの短編。被害者の書き残した方程式を解くと、その答えがT=Csinb(a+d)だったため、T.Shinbaのイニシャルを持つ新場定吉が逮捕されるという話。 数学者の作者らしいが、それが面白いかというと…。 M「失われたアリバイ」…前作よりさらに短い10行の短編。松志は積年の仇の立村を立村を殺害。倒れた妻が時計を確認すると12時15分。松志はその時間のアリバイを完璧に作って安心していたが、島崎警部は立村夫人の陳述で犯行時刻が9時だったことが明らかになったとして松志を逮捕するという話。 時計の見間違いというトリックもくだらないが、いつも通り話が全く分からない。倒れた妻というのは立村の妻?彼女と共謀して立村を殺したということ?そうではなくて、後で立村夫人が正しい時間を陳述したということは、現場にいたのは松志の妻なのか?松志は夫婦で立村を襲って、松志の妻がもみ合いの末倒れて、彼女だけがその時、時計で犯行時刻を確認したということ?松志も現場いたのに?松志がアリバイを作らなくてはならなかったということはそういうことだと思うのだが?訳が分からない。 N「ある晴れた日に」…安積寺(あんせきじ)健とさつき夫妻が羽田から在外公館へ旅発つところを見送りに来た島崎警部。数年前、島崎警部は、外交官の先輩から、外交官の卵として期待されている八鹿(ようか)健の危機を救うことを依頼される。彼は有能ながら出自も金も不足しており、外務省としては何としても彼を名家の養子婿にしたかったのだが、やっと結婚相手に決まった安積寺商会の令嬢・さつきの義母の安積寺静恵が殺害されるという事件が起こってしまったのだ。自動車の転落事故現場から発見された静恵と安積寺商会の役員の幸木の死体には銃で撃たれた形跡があった。島崎警部が突き止めた真相は、幸木に襲われそうになったさつきが幸木に発砲して気を失い、誤って弾丸が命中した静恵はさつきをかばうために、自分が幸木を射殺して八鹿に手伝わせて幸木の死体を車に乗せ、自動車転落事故を起こしたというものであった。 話のあちこちに無理があるのはもちろんだが、さつきも八鹿も正当な理由があるとはいえ犯罪に荷担しているのにすんなり幸せを手に入れて良いものなのか。また、静恵の過去の生い立ちや、幸木の正体といったエピソードもあまり必要性を感じない。作者の短編を極めようとする努力は分かるが、肝心なところを削って話を分かりにくくし、どうでも良い話を付け足すのはやめてほしい。 O「雪嵐/湖畔の宿」…冒頭から分かりにくさ全開。要は島崎警部が刑事2人共にスキーに出かけ、暴風雪のため雪山に閉じ込められ、近くの別荘で起こった密室殺人事件を解決するという話。別荘では、オーナーの金貸しの棚川が、金を貸した5人の人物を宿泊させ、部下の梶田を使って返済の催促を行っていたのだが、棚川が殺害されたことで当然5人の債務者が疑われる。債務者の1人であった炭本が別荘を抜け出し湖に転落死したらしいことが分かって彼が疑われたが、島崎警部は初めて別荘を訪れた炭本に借用証書のありかなど勝手は分からないだろうとその説を却下する。そのうち梶田が姿を消し雪崩に飲まれて死亡したと思われた彼が疑われるが、島崎警部の出した結論は、棚川と梶田は同一人物で、彼は闇商売から手を引くために自作自演で姿を消そうとしたというものであった。結局殺人事件は1つも起こっていなかったのである。 まず何より引っかかるのは、棚川の死体を誰も確認していない点。梶田が自分の見つけた棚川の死体が消えたと訴えているというのならまだ分かるのだが、何度も読み返してみても、梶田は寝室から棚川の返事がないと通報しただけで、死体を見たとも見ていないとも言っていない。それなのに棚川が殺され、その死体がなくなったという前提で話がどんどん進んでいく。普通ならただの失踪事件ではないか。それ以前に、やはり話の分かりにくさの方が読んでいて腹立たしいのだが。 P「朽木教授の幽霊」…名門女子大の朽木教授は夜中に朝倉工業社長令嬢で女子大4年生のなおみを呼び出す。社長から彼女の後を付けるよう命じられた秘書の板谷は、教授宅で教授の射殺体を発見する。その事件後、島崎警部は「Rルームの美女」から女子大に出る朽木教授の幽霊を逮捕してくれるように依頼してくる。そして、教授宅からさつきが飛び出してきた後に教授宅に入って同じように飛び出していった男が、教授が雇っていた元俳優の鳴子であることが判明する。島津警部達が女子大に出没する朽木教授の幽霊を捕らえようとしたところ、道路に飛び出した幽霊はトラックに轢かれて死亡。その正体は鳴子であった。事件の真相は、教授が鳴子に化けて女漁りの生活を送っていたが、鳴子が想いを寄せていた元女優の卵だった桜尾ミハルにまで教授が手を出したことを知った鳴子は激怒し、教授の死体を演じてなおみを驚かせた後、帰ってきた鳴子の扮装をした教授を鳴子が殺害したというもの。鳴子はなおみが犯人であるという印象を世間に与えるため女子大構内で幽霊を演じていたのだった。 死体の入れ替わりトリックはまあまあ面白いとは思うが、話全体をもう少し面白くできないものか。この作者の作品にはありがちだが、冒頭に登場する重要そうな人物がその後ぱったりと登場しなくなるパターン。板谷はまだまだ使いようがあるだろう。教授が鳴子のふりをして女漁りを続けていたことに誰も気が付かないというのも不思議な話であるし、鳴子がミハルにそこまで想いを寄せていたということも前半の話からは全く読み取れないのもいただけない。一番納得がいかないのは、島崎警部が、俳優として恵まれなかった鳴子のために名弁護士と出所後の芸能界復帰のためのスポンサーまで見つけてきて、鳴子が事故死してしまったことでそれらが無駄になってしまったことを残念がるラストシーン。いくら同情の余地が多少あるとはいえ、殺人犯に警部がそこまで入れ込むのは異常ではないか。 Q「春嵐」…国粋主義の飛鷹会の大幹部・櫨山の別荘に砲弾が撃ち込まれ櫨山が死亡。飛鷹会の内幕をGHQの少佐に打ち明けようとしたため飛鷹会に消されたと思われたが、湖の畔に建てられた別荘の湖向きの2階の書斎にどうやって撃ち込んだかが謎であった。真相は秘書の戸次(べっき)が、書斎の窓に短い迫撃砲のようなものを取り付けて撃ち込んだというもので、迫撃砲は反動で湖に落ちて沈んだという島崎警部の推理であった。 あまりにもくだらなさすぎ。櫨山が部屋のスイッチを入れると同時に発射される細工がしてあったようだが、砲弾が命中した壁には深い傷が残らなかったらしいので、そんな仕掛けも残っていただろうし、何より窓に固定してあった迫撃砲の形跡はそれなりの傷になってしっかり残っていたはず。秘書の戸次が切腹自殺していたことも内部犯の根拠の1つとして挙げられたようだが、主人を守りきれなかったことを苦にして自決したとも考えられなくはないので、あまり説得力はないのではないか。 R「ヴァンパイア」…父から事業を引き継いだ友鶴商事の上戸誠は、大番頭の鵜川が殺されて大打撃を被る。容疑者は新参の新興スォロー商会社長の今庄。自殺した友鶴商事の女事務員が今庄に唆され鵜川から情報を盗んでいたことを知った鵜川は、偽情報を流してスォロー商会に大損害を与えていたのだ。しかし、島崎警部の部下でありながら島崎警部よりキャリアの長い12歳年長の石垣刑事は、上戸誠を疑っていた。上戸は事件当日、名古屋駅近くの「ヴァンパイア」というバーで飲んだ後、列車「やまと」のうしろから3両目の一番後ろの座席に座ったとアリバイを主張するが、「ヴァンパイア」というバーは存在せず、車掌のその席には別人が座っていたという供述もあってアリバイが崩れる。だが、結局犯人は青倉という男だった。彼は逮捕される前に今庄に射殺され、今庄も自殺してしまうのだが、青倉は上戸を嵌めるため、売りに出ていたバーを利用して「ヴァンパイア」というバーを一晩限りでっち上げ、増結車両によって長くなった「やまと」の後ろから3両目の車両に乗って上戸のアリバイを消してしまったのだった。 ありがちなトリックで、話も相変わらず面白くない。 S「ニ単調のアリバイ」…教育機器の世界的企業WEIの日本支社準備室長の五井がバーボンに入れられたシアンで毒殺される。旧知の仲の教育ジャーナリスト・江見が疑われるが、彼がバーボン嫌いの日本酒党であることが分かり容疑が晴れる。次に疑われたのは大学教授の神保原。彼は不倫相手のヴァイオリニストの弓削艶子と心中するために、朝10時に日本に1本しかテープが存在しないブラーコフのヴァイオリンの演奏をラジオで聞きながら睡眠薬を飲んで自宅で寝ていたと主張する。真相は、WEIの威光で手に入れた第2のテープを艶子に聞かせて艶子が眠っているうちに列車に乗って五井を殺害、自宅に戻ってきて、目を冷ました艶子と別れ話をして彼女と別れた後、航空便でテープをWEIに返送したというもの。 自分の演奏を録音させなかったヴァイオリニスト・ブラーコフを利用したトリックは面白いと思うが、「WEIの威光」とやらで神保原が簡単に第2のテープを手に入れていたというオチに失望。 ㉑「収差」…落ち目の竜鳳光学の技術第2課長の源道寺は、自分のアイディアによってできた新製品の「パトリカ」に賭けていた。業界紙「アペラチオン」の編集長・花宗はパトリカのノウハウを100万円で売らないかと持ちかけ、「アペラチオンは収差だ。だが、色収差よ!」と、源道寺の不倫現場を撮った写真を突きつける。源道寺は取引をするふりをしてホテルの一室で花宗を射殺。しかし、逃亡の途中に「黒装束の麻薬の受取人」と間違われて、麻薬捜査班に取り押さえられてしまう。たれ込み情報の誤訳が原因で、「翻訳の二重レンズの収差の源は、黒染めの衣を着た男、つまり坊さん」だったというオチ。 ウィキペディアによれば、収差とは「望遠鏡や写真機等のレンズの類による光学系において、被写体から像への変換の際、幾何的に理想的には変換されずに発生する、色づきやボケやゆがみのこと」だそうだ。意味が分かってもこの話にマッチした言葉とは思えない。こじつけっぽい。 ㉒「死は賽を振る」…島崎警部は、20年前の宮城県での労働運動最後の人権ストが労働者側の勝利に終わったその日の朝、支部闘争委員会の中の若手の闘士、堂島啓太郎が殺された事件について語り出す。その日の午前6時30分頃、堂島はトレンチコートの男に騙され堂島の借りたレンタカーの助手席で後頭部を鉄棒で殴られ死亡し谷に捨てられるが、犯人にとっては運悪く死体が途中でひっかかり、2時間後に発見されてしまう。捜査の中で、会社側の人間で堂島と付き合いのあった郷戸武人の名前が浮上する。堂島と彼の美人妻の周子との間を取り持ったのも郷戸らしい。労組前面勝利のラジオ放送が午前6時に流されたのだが、ラジオの内容を受けた手紙を自宅のある目黒から7時頃投函しているため、アリバイがあると郷戸は主張したが、五百島刑事は納得できない。そして、岩美刑事の仕掛けた罠にまんまと嵌る郷戸。女性巡査が周子の友人を装って、郷戸と周子との仲を知っていると脅迫したところ、逆上して女性巡査に襲いかかり、反撃されたところに刑事達が飛び出してきたのを見て崖下に飛び降りて自害したのだ。手紙は一か八かで書いたもので、予想通りにいかなければ殺人を中止すれば良かったのだと結論づける島崎警部であった。 郷戸を逆上させただけで、何の自白も得られないまま彼を死に追いやり事件に幕を下ろしてしまったオトリ捜査は明らかに失敗だろう。何より、手紙のトリックがただの博打だったというオチがどうしようもなく救いがない。 ㉓「虚空の扉」…砂丘に偵察機が着陸する映画の1シーンを撮るため、ナチス・ドイツが作ったシュトリッヒ(一般的にはシュトルヒと呼ばれているらしい)を参考にオランダのヘルメス社が作ったコサックを、日本で唯一所有している大念寺義治から借りた雑用係の矢代田。矢代田は資産家の道楽息子であった大念寺を嫌っていたが、海鷹プロダクションの主催者であり映画監督である行野の意向には逆らえない。プロダクションには浜浦桂子という唯一のスターがいたが、彼女ですら本業はバーのマダムであった。矢代田は、寒風の中で風邪でもひかれると困る桂子の代役として脚本通り着陸するコサックに駆け寄るが、コサックは予定外の火災を引き起こしていた。矢代田は操縦していた大念寺を引きずり出し、行野は機材を詰めた大きなトランクを2つ担ぎ出すが、コサックは焼失し大念寺は死亡。さらに大念寺の死因が鋭利な刃物で心臓を突かれたものだと判明し、コサックには大念寺以外に誰も乗っていなかったため、事件は犯人消失という大きな謎を残す。しかし、島崎警部は行野の前で全ての謎を解明する。映画を完成させるために大念寺の資金は欲しい。かといって看板女優の桂子を差し出せという大念寺の要求には応えられない。行野の出した結論は、トランクに潜ませた桂子に大念寺を刺殺させ、再びトランクに隠れるというものであったのだ。 いくら桂子も操縦をマスターしていたとはいえ、操縦中のパイロットを刺殺するというのはあまりに危険すぎる。しかも着陸と同時に撒いたガソリンに火を放ち、駆け寄ってくる矢代田に気付かれないようにトランクに戻るなんて無理だろう。作者によれば、PART2の中では「朽木教授の幽霊」と、この「虚空の扉」が自信作とのこと。確かに両者はPART2の中では比較的読めた作品ではあったが、「自信作」と言われると正直閉口してしまう。 覚悟はしていたが、やはり結論は、素人には手出し無用の1冊ということだ。 |
『犬の掟』(佐々木譲/新潮社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。ミステリ小説の中では警察小説を苦手としていることを自認している自分であるが、それ以上に苦手な海外を舞台にした作品を3作(1作目は傑作だったが)読んだ後に、続けて苦行とも言える問題作を読んだ直後だったため、本書がもの凄く読みやすく感じた。 7年前、波多野涼巡査は、門司孝夫巡査長と共に、暴力団員を殺して指名手配されていた殺人犯を水産会社の倉庫に追い込むが、人質の女性を救出しようとして殴られ自らが人質になってしまう。女性を救出した門司に代わって、上司の能条の命令を無視して現場に突入した波多野の同期の松本章吾巡査は、犯人に発砲し波多野を救った。 その後、蒲田署刑事課で巡査長に昇進していた波多野は、蒲田署に異動になったばかりの門司巡査部長と共に、小橋組の幹部・深沢隆光が自分の車の助手席でスタンガンを押し当てられ手錠をはめられた状態で射殺された事件を追うことになる。警察は、藪田という男をリーダーとする「ヤブイヌ」と呼ばれる半グレグループが過去に深沢と揉めたことがあるという噂から彼らを疑う。波多野と門司は、藪田と藪田の女、同じグループの石黒らに接触し事情を聞くが、彼らは事件への関与を否定し、事件当日、彼らが警察に知られたくないことをしていたらしいことぐらいしかつかめない。 その頃、波多野と同様に警視庁捜査一課で巡査長に昇進していた松本章吾は、綿引壮一警部補と協力して品川駅で殺人犯を逮捕した後、管理官の伏島信治警視から呼び出されていた。伏島の話によれば、2年前に酔って運河に転落して溺死したと判断された暴力団員準構成員の室橋謙三という男の遺体に手錠とスタンガンの跡があり、深沢も同じ人物に殺害されたのではないかと言う。さらに、室橋には女医殺しの容疑が、深沢にもフィリピン人ホステスの容疑がかかっていながら立件できなかったという過去があり、そこには女医の所属していた外国人支援団体が関わっているという共通点があり、捜査指揮に反発を覚えた現職警察官による連続殺人事件の可能性を指摘し、綿引と松本に極秘の特命捜査を命じる。 半グレ・グループを追う門司と波多野コンビと、現職警察官による連続殺人事件の可能性を捜査する綿引、松本コンビ。前者は、未成年を雇用しているという児童福祉法違反容疑で石黒の逮捕状を取って彼の店の強制捜査に踏み切り、さらに深沢の死体が発見された現場近くの倉庫で危険ドラッグが製造されていたことを掴み、半グレ・グループによる深沢殺しの容疑を深める。一方、後者は、6年前に何者かに射殺された暴力団員の吉武と、自宅の浴槽で溺死した鳴海という体育教師が、死亡直前にスタンガンが使用されていたことを突き止め、今回の事件とのつながりを洗い出していく。また、深沢と室橋の捜査上に浮上した内田絵美という女性警官が、深沢と室橋が法で裁かれなかったことに不満を持っていたことから、彼女の不倫相手であった、松本のかつての上司・能条への容疑を深める。 石黒逮捕の現場で波多野と松本が再会した直後、波多野が門司に隠し事をしていることが発覚し、門司は波多野こそ、吉武、鳴海、室橋、深沢の4人を殺害した犯人であることに気付き、路上駐車した車内で波多野に拳銃を突きつける。しかし、警官は撃てないという門司を、波多野はためらいなく射殺する。事件を知った松本は、7年前の事件現場で波多野と対峙する。波多野は7年前殺人犯に銃を突きつけられたことで精神が壊れてしまっていたのだった。波多野を救ったつもりで救えていなかったことを知った松本は波多野に詫びるが、波多野に自分を撃ってくれと頼まれても撃つことができない。そんな波多野を綿引が射殺する。松本は、7年前にすでに波多野が精神的に死んでいたことを誰も理解できるはずがないと心で叫びながら、自分と波多野の死体を取り囲む警官達を見渡すのであった。 蒲田署の門司・波多野、特命を受けた警視庁捜査一課の綿引・松本、という過去に因縁のある2組の先輩後輩コンビが、暴力団幹部射殺という1つの事件を別の線から追うという構図だが、この2組のコンビの雰囲気が似すぎていて、読み進めている間、ずっと分かりづらさを感じる。辛うじて門司には「暴力団絡みの事件好きで功を焦る刑事」という味付けができているが(それでも刑事としてデキる男なのか、そうでないのか最後まで判断できない中途半端なキャラではある)、綿引は門司ほどキャラが立っておらず、同期の波多野と松本にも明確な個性の違いが感じられず、もう少しキャラの差別化を図ってほしかったところ。 また、帯には「迷わず撃て。お前が警官ならば−。急行する捜査車両、轟く銃声。過去の事件が次々と連鎖し、驚愕のクライマックスへ!比類なき疾走感で描く緊迫の40時間。衝撃の警察小説。」と銘打たれてはいるが、それほどハードなハリウッド映画的な内容の作品ではない。むしろかなり地味な作品で、ありがちな手法ではあるが明らかに煽りすぎ。「迷わず撃て」に該当する緊迫のシーンは最初と最後に1カ所ずつしかない(厳密には最後に2カ所あるといえばあるが)。中盤に綿引と松本が石黒の店に強制捜査に踏み込み、さらにドラッグ工場を発見するまでの展開は、地味な聞き込みばかりで結構退屈。後半も少しずつ真相に近づき緊張感が高まっていくという感じではなく、突然、波多野が怪しくなっていきなり門司を殺してしまうという急展開。これはこれで狙っているのだろうが、作者側が期待したほどの効果はなく、読者が主人公達に共感を得て感動を得られるはずのラストシーンも今一つ。波多野の悪を憎む心は理解できるのだが、彼の憎む悪事の数々があまりにさらりと書かれていて感情移入しづらいのも要因の1つであるし、彼が犯罪者処刑人になった過程が、長年自分で悩みに悩み抜いてそうなったわけでなく、殺人犯の人質となったことがきっかけで精神が壊れて突然そうなったというのも感情移入しづらい要因の1つだ。せめて、彼が真犯人だと明らかになった段階で、いかに世の中が不条理で、悪がのさばっているかを彼の視点から語らせて、彼を法的には許せなくても心情的には応援したくなるような人物として描くべきだったのではないか。 「このミス」19位という順位は、警察小説の雄である作者の作品という点から考えると不当な評価にも見え、本書の発売時期がノミネート期間終盤の9月だったことに起因するのではないかと言えなくもないが、本書発売の1年以上も前から「週刊新潮」で連載されていたことを考えると、それだけが要因とは言えないだろう。決して面白くないとは言わないが、オススメするのもためらわれる作品である。 |
『流(りゅう)』(東山彰良/講談社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)5位作品にして第153回直木賞受賞作。前回読んだ『ジョニー・ザ・ラビット』は散々だったため東山作品は二度と読まないと一時は心に誓ったが、それから7年後の作品であり、しかも直木賞受賞作ともなれば読んでみようかという気にもなる。 第1章〜第5章…舞台は、1970年代から現代にかけての台湾。主人公・葉秋生(イエチョウシェン)の祖父、葉尊麟(イエヅゥンリン)は抗日戦争中に日本軍に自分の村を襲われた仕返しに、日本軍を自分の村に導いた王克強(ワンコウチャン)の村を襲い村人を虐殺し、その後、尊麟の所属する国民軍は共産軍に押され台湾に逃れた。その祖父が、1975年に祖父が営業していた布屋の浴槽の中で縛られて溺死させられているのを最初に発見したのが17歳の秋生であったが、犯人は分からずじまいだった。その後、秋生は幼馴染みの悪友・趙戦雄(ジャオジャンション)こと小戦(シャオジャン)に頼まれた替え玉受験が発覚して高校を退学になる。底辺校に転校した秋生は宝くじを当てて車を買った小戦とドライブに出かけるが、小戦の車を威嚇し追い抜いていった車が起こした山道の事故現場で女の幽霊を目撃する。その事件以降、秋生はあちこちに現れる彼女からの「助けて」というメッセージに悩まされるが、ついに秋生は明泉(ミンチュエン)叔父と共に最初の事故現場近くで幽霊の正体である女性・藍冬雪(ランドン)の白骨死体を発見する。冬雪は、秋生の幼馴染みの毛毛(マオマオ)の叔父・射胖子(シィエパンズ)と駆け落ちしようとしていて別の彼女に想いを寄せていた男に殺害されていたのだ。そしてその男こそ、先の交通事故で死亡した男であった。 第6章〜第10章…植物園に朝の体操をしに来る年寄り達と祖父の間にトラブルがあったことを警官から聞きイライラしていた秋生は、事情を聞いた毛毛に背中を押されて植物園を訪れる。そこで、祖父のトラブルの相手が岳(ユエ)というバイオリン奏者であることを知るが、植物園に通い続けているうちに彼が犯人ではないことを確信する。そして、2歳年上の毛毛のことを1人の女性として意識し始めるのであった。大学受験に失敗した秋生は陸軍軍官学校に入学するが、後輩いびりに嫌気がさし半年で行かなくなり、再び大学受験を目指すようになる。そして、叔父の宇文(ユイウェン)からもらった日本製の下着を毛毛にプレゼントしたことがきっかけで彼女と交際するようになる。ある日、秋生は小戦にヤクザの高鷹翔(ガオインシャン)の所に連れて行かれる。高鷹翔に損害を与えた男を捕まえたところ、秋生の祖父の殺害事件の前に祖父の布屋から盗まれた革靴を、その男が持っていたというのだ。男は靴を盗んだことは認めたが祖父を殺したとは思えなかったため復讐を諦める。しかし、高鷹翔がその男を小戦に始末させようとしたため、秋生は暴れて小戦を連れてバイクで逃げ出した。数日の間小戦を匿った秋生であったが、高鷹翔の一味に攫われてしまう。秋生は祖父の形見の拳銃を持って小戦を奪い返しに行こうとするが、叔父の宇文が身代わりとなって小戦を救出する。しかし、高鷹翔を脅すために発砲した宇文はもちろん、その場にいた秋生、小戦、高鷹翔の一味も皆警察に逮捕されてしまう。宇文以外はすぐに釈放され、宇文は、秋生と小戦がヤクザに追われることがないよう、秋生には兵役に就くことを、小戦には自分の代わりに自分の会社の船乗りになることを勧めるのであった。兵役に就くために陸軍軍官学校へ退学の手続きに行った秋生は、上級生に拘束され独房に入れられ2週間苦しめられる。そして、9月に嘉義県の部隊に着任した秋生は、ある日、部隊の仲間達と「こっくりさん」で祖父殺害犯を占うことになり、「王という名字の義理堅く人情に厚い男」という結果を胸に刻むのであった。 第11章…1979年に除隊した秋生は、毛毛の医師との結婚話に衝撃を受ける。その後、日本のファミリーレストラン産業に野菜を卸す仕事をするようになった秋生は、日本で取引先の通訳をしていた夏美玲(シャアメイリン)という女性と出会う。そして、その後、秋生は彼女と結婚するが、彼女は流産と死産を繰り返した挙げ句、結局秋生と離婚するという後日談が明らかになる。 第12章〜第14章…秋生の祖父達が台湾へ脱出するのに手を貸してくれた中国大陸で暮らす馬大軍(マダアジュン)から、近所に住む李爺さんのところに送られてきた手紙によると、王克強の一族は秋生の祖父達によって皆殺しにされたはずだったのに、その息子が帰ってきたという。その写真を見て秋生は驚愕する。その人物は刑務所を出所後行方不明になっていた叔父の宇文だったのだ。宇文は祖父の本当の息子ではなく、身寄りを失った祖父の上官の息子だったのだが、祖父は本当の息子や娘以上に宇文を可愛がっていたことを知っていた秋生は困惑する。そして、自分の会社の社長から、毛毛が自分と血のつながった姉かもしれないという話を聞いてさらなる衝撃を受ける秋生。毛毛の母は結婚前に秋生の父と交際していた時期があり、毛毛はそれを知って秋生と別れて医師との結婚を選んだのだ。祖父の死の真相を確かめるために宇文に会いに行くことを決めた秋生は、仕事を辞め、中国から帰ってきたら結婚しようと夏美玲にプロポーズする。1984年ついに中国大陸に渡った秋生は宇文と対面する。予想通り、宇文の正体は王克強の息子・王覚(ワンジュエ)であり、祖父を殺したのも彼だった。本当の宇文は、祖父によって王覚が連れ出される直前に彼自身によって殺されていたのだ。なぜ祖父を殺した後、自分達にも復讐しなかったのか問う秋生に、王覚は、祖父が自分の罪に苦しみ、王覚の正体を知っていて育てていたことを知ったからだと答える。祖父の仇を取ろうと石で王覚を殴ろうとした時、王家の少年・魯魯(ルル)に撃たれて倒れる秋生。その銃は、まさに祖父の形見の拳銃であった。 エピローグ…秋生は助かり台湾に帰って大学に入学、在学中に夏美玲と結婚する。魯魯の罪をかぶった王覚は裁判を受ける前に肺の病気で死亡。小戦は極道から足を洗い野菜販売の仕事を始め、乾物屋の娘と結婚。毛毛は医師と離婚し絵描きのアメリカ人と暮らしているという。空港で「ここからアメリカへ行けちゃうのね」という妻に、秋生は「いつかふたりで行けたらいいな」と答えるが、「じゃあ、子供は?」と返され、妻が妊娠三ヶ月であることを知らされた秋生は大喜びするのであった。 一応、台湾という海外が舞台なのだが、一昔前の昭和の日本が重なって懐かしさを感じながら何の抵抗もなく読める作品である。そんなに事件が頻発するわけでもなく全体的にのどかで牧歌的な雰囲気が最後まで続くが、特に退屈を感じることもない。どちらかといえば広義のミステリ作品で、ミステリ的な部分と言えば、序盤の主人公の祖父殺害事件と幽霊話、終盤の主人公の叔父の正体が明らかになるところくらい。後はヤクザやチンピラとの小競り合いが少々ある程度のものだ。コミカルなシーンも多く、そういう部分を楽しめる読者も多かろう。それに主人公の幼馴染みの女性との別れ、妻との別れという切ないエピソードが加わって、他の作品ではあまりない方向から人生というものをしみじみと考えさせてくれる作品となっている。エピローグがハッピーエンドで終わっていながら、実はこの後にまた主人公にとって辛い出来事が待っているというのが読者に明らかになっているという設定は、「それが人生というもの」と言ってしまえばそれまでだが、それではあまりに救いがなくて、そこだけは好きになれない。 自分にとっては論外だった「このミス」2010年度13位の『ジョニー・ザ・ラビット』や、あまり印象の良くなかった「このミス」2014年度3位の『ブラックライダー』と比べると概ね好印象。個人的に大絶賛には今一歩届かないものの、前回読了したばかりの『犬の掟』の★★とは違い、かなり★★★に近い★★である。東山作品を一度読んでみたいという方には、本書は間違いなく一押しの作品。 |
『一千兆円の身代金』(八木圭一/宝島社)【ネタバレ注意】★★ 読了したばかりの『流』で久しぶりに「こっくりさん」という言葉を聞いたが、まったく関連のない本作に「こっくりさん」が再び登場したのにちょっと驚き。さて、2013年第12回『このミステリーがすごい!大賞』大賞受賞作である。同時に大賞を受賞した『警視庁捜査二課・郷間彩香 特命指揮官』は2年前に読了済み。ちなみに、「歴代ランキング作品リスト」のページにも同じように「2013年」「第12回」と記載しているが、2013年というのは受賞した年である。実際には、出版社の方では、受賞した翌年の初めに出版されるため、本の帯には受賞年の次の年が記載される。本作品に関しても、帯には「2014年第12回『このミステリーがすごい!』大賞・大賞受賞作」と記載されている。あらすじは、汚職にまみれながら逮捕されることなく引退した国武元副総理の孫、小学5年生の篠田雄真が誘拐され、犯人から日本政府に日本の財政赤字と同額の1085兆円という途方もない身代金が要求されるというもの。犯人は、身代金の支払いが不可能な場合、日本政府は財政危機を招いた責任を反省した上で公式謝罪を行い、期日までに具体的な再建案を提示せよとも要求してくる。警視庁捜査一課特殊班の今村敦士刑事は、先輩刑事の片岡新太郎、同僚の女刑事・高田寛子とともに犯人を追う。 犯人は章タイトルで「革命家N」と記されるが、本文中では平岡ナオトという日本の政治に不満を持ち「嘆願ブログ」というブログで意見を発信している若者であることが明らかになっている。ただし、イニシャルにNを含む人物が何人か登場し、どんでん返しが用意されている可能性も臭わせてはいる。 本作は、全50章からなっており、章ごとに章タイトル名の人物の視点で語られるスタイルをとっているが、第9章には、革命家Nのブログ内で公開された文章と称して、平岡が9歳に戻れたら、親や教師に内緒で地元の北海道から上京してテレビ局に行き、総理大臣に向けて国の借金をなくすよう嘆願する作文を読み上げるという妄想小説が記されている。どうやら本作品が、この賞に応募された時には、この部分が冒頭にあり、タイトルも『ボクが9歳で革命家になった理由』だったようだ。 平岡のブログに惹かれた保育士の中川遥、大学生の大谷哲平、保険会社に勤める中野涼介らは、大谷の提案で平岡との食事会に参加する(正確には大谷が平岡のみに持ちかけ、平岡があとの2人を誘った)が、大谷に侮辱された中野は真っ先に去ってしまう。中川も去った後に、やっと平岡と2人きりで議論を始めた大谷だったが、最後に意見が食い違い喧嘩別れしてしまい、その直後「嘆願ブログ」はネット上から消えてしまうのだった。事件発生後、中野の通報により、捜査線上に平岡が浮上し、北海道警への問い合わせで入手した高校の卒業アルバムを中野に見せ、平岡の本名が伊藤直哉であることが明らかになる。大谷や中川も聴取を受け、今村と片岡は、中川の不審な態度に臭うモノを感じ取る。そして、雄真の父で医師の篠田裕一が勤めている病院の看護師長から、看護師の橋本沙織が裕一の子供を妊娠して堕ろしトラブルになった後、病院を去ったことを聞き出す。 その頃、雄真の小学校の担任で、かつて雄真らに財政破綻を批判する授業を行った早坂典雄が、任意同行で警察に連れて行かれ厳しい取り調べを受けていたが、彼はなかなか落ちない。そのような状況の中、今村は橋本の同僚から、ついに橋本に誘拐の動機があることを掴む。橋本は裕一の子供を産むつもりでいたが、裕一に堕胎薬を無理矢理飲まされ流産していたのだった。また、橋本は、雄真と面識があり、たまたま街で再会した雄真に「嘆願ブログ」を検索することを勧められていた。政治に興味のなかった橋本であったが、彼女は伊藤に惹かれてメールを送って彼に会い、彼と深い仲になる。そして、橋本は伊藤に会いたがっていた雄真を、伊藤に会わせてやっていたのだ。 伊藤が末期癌の元WEBデザイナーであることが警察に明らかになり、読者には雄真と橋本との3人による狂言誘拐であることも明らかになる。そして運命の日、雄真は何事もなかったように登校し、葉山にある別荘で1人で試験勉強をしていたと主張する。その頃、日比谷公園の噴水内で、伊藤はナイフを振りかざして総理大臣との面会を要求していた。狙撃班の援護でついに今村は伊藤を取り押さえるが、伊藤は自らの腹部を刺した後であった。伊藤の所持していた総理大臣宛の嘆願書には、自分1人による単独の犯行であることが記されていたが、今村は事件の全ての真相を掴み、それを総理大臣、元副総理、警視総監らの前で報告し、その場を去るのであった。 正直なところ、冒頭部分には失望。身代金の額が高ければ面白いというものではない。要求額と要求理由の馬鹿馬鹿しさに、警察でなくとも呆れてしまう。しかも、その後の「9歳に戻れたら〜」という主人公の書いた妄想小説の内容がイタすぎる。総理大臣に向けた作文を持って家出してきた小学生を、テレビ局がすぐに出演させてくれるという発想があり得ない。あらすじでも述べたように、本作がこの賞に応募された時には、この部分が第9章ではなく第1章だったようで、出版に当たってこの妄想小説の登場シーンを後退させたようだが、いっそのことなくしてしまった方が良かったのではないか。内容がイタいばかりでなく、本作のポイントの1つである「被害者の雄真が犯人の主役とグル」である可能性やイメージを強く臭わせてしまう内容だからだ。 しかし、不満を感じるのはここまで。主人公の「日本の財政をなんとかしないと!」という真剣で熱い想いには、変に狂気じみたものや偏った思想的なものもなく、確実にまっすぐに読者に伝わってくる。2つ前に読了した『犬の掟』に不足していたものが本作にはあるのだ。『犬の掟』での犯人・波多野の主義主張は、あまりに淡泊に書かれているため読者がなかなか感情移入できない。しかし、本賞の審査員である書評家の茶木氏が「かつてこれほど、共感すべき誘拐犯がいただろうか」とコメントしている通り、多くの読者が、本作の主人公・平岡ナオトこと伊藤直哉には強い共感を覚えるはずだ。支給開始年齢がどんどん後退していく年金は、相当長生きしないと、まともな額はもらえそうにないし、国民年金を納めない者には将来支給すらないから不公平はないと言いながら、彼らには年金以上の生活保護費が支給され、それを平気でパチンコにつぎ込む馬鹿もいるのが現実だ。現在の年金制度や生活保護制度がおかしいのは間違いない。 本作はキャラの立たせ方も見事。警察側のもう1人の主人公・今村と、彼が心から慕い、彼を厳しく教育する片岡とのコンビは、伊藤以上に生き生きと描かれている。片岡の妻子の設定もありがちだが良い味を出している。惜しいのは、存在感がほとんどない、今村の同僚の女刑事の高田寛子と、今村の大学の先輩である遊軍記者・森田晃一だ。特に前者は、結末で片岡の口から、彼女は今村に気があるということが伝えられることを考えたら、もっと活躍の場を与えられるべきだろう。 最後にあと数点不満を挙げるとすれば、まずはやはり全体的にひねりが足りないところか。前述したように、「『革命家N』という表記は、もしかしたら伊藤直哉以外のNのイニシャルを持つ別の人物が真犯人というどんでん返しの伏線か」と思わせておきながら、結局そんなものは用意されていなかった。どんでん返しの多い作品に慣れてしまうと、まったくないのはさすがに物足りない。「誘拐された雄真が誘拐犯とグルだった」というのも、この話の流れではほとんど意外性がないし、もう1人の犯行グループの一員である橋本沙織は後出し感が強く、「中川遥の前振りは何だったの?」というモヤモヤ感がどうしても残る。そして、肝心の結末も正直物足りない。これだけの事件を起こしておきながら、最後は1人でナイフ振り回して取り押さえられて終わりというのは、あまりに拍子抜けではないか。 しかし、「細かい話はどうでもいいから早く結論を見せてくれ」と、読んでいてイライラ感と退屈さを感じさせる作品が多い中、本作は最後まで退屈させずに読ませる力はあった。そこは評価したい。 |
2016年3月読了作品の感想
『蛍』(麻耶雄嵩/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2005年版(2004年作品)11位作品。典型的な「嵐の山荘」パターンの作品なのだが、何の前知識もないまま読み始めてみると、私の敬愛する綾辻行人氏の「館シリーズ」、しかも私がミステリーにハマるきっかけとなったシリーズ第1弾の「十角館の殺人」を彷彿とさせる設定に最初からテンションはマックス。「嵐の山荘パターン」なんて時代遅れだとか言う人もいるだろうし、「衣笠祥雄」とか「MD」とか「ボーダフォン」とか時代を感じさせる単語が登場したりもするが気にしない でおこう。ただし、「訝(いぶか)しい」という表現を登場人物がやたらと使うのは気になった。若い人はもちろん年配の人でもそう使う言葉ではないだろう。 舞台は京都府中部の山深く、福井県との県境近くに建てられている洋館「ファイアフライ(=蛍)館」。そこでは、10年前に館の主であったヴァイオリニストの加賀蛍司が発狂し、滞在していた自らの組織した八重奏団のメンバー7名(金沢耕市、輪島若人、羽咋博、松任光延、珠洲清次朗、小松響子、七尾紀男)を次々にナイフで刺殺するという陰惨な殺人事件が起こっていた。被害者の1人で加賀の不倫相手であったと言われている小松響子は血痕を残したまま行方不明。事件から3日後に逮捕された加賀は、逮捕から間もなく衰弱死していた。長い間放置されていたその館を3年前に買い取ったのは、若くしてイギリスに本部を置くマルチ商法風会社の分家頭として一財産を築いたF大学アキリーズ・クラブOBの佐世保左内(25)であった。アキリーズ・クラブはオカルト好きの集まるF大学の肝試しサークルであり、昨年から事件の起きた日に合わせ、7月15日から18日にかけ、サークルの夏合宿をこの館で行うことになっていた。今年の参加者は、ホストである佐世保のほかに、F大学4回生で現サークルの会長の、横柄だが人望のある平戸久志(22)、3回生で平成のネズミ男というイメージでそそっかしく人望のない大村宰(21)、昨年の合宿に参加後に大阪で連続殺人鬼「ジョージ」に殺害された対馬つぐみの恋人でもあった、2回生の諫早郁夫(20)、同じく2回生で存在感の全くない肥満体の長崎直弥(19)、1回生で生意気な島原駿策(18)、島原とそりが合わず、紅一点で唯一S女子大から参加している松浦千鶴(20)の7名である。夕食の準備中に10年前の事件当時のように外は嵐となり、参加者は不安を感じ始める。ここまでが第2章までのあらすじ。 まず気が付くのが登場人物の名前。物語の展開には全く関係はないのだろうが、過去の事件の被害者の名字が長崎県の地名、今回の合宿参加者の名前が石川県の地名になっている。予想される物語の展開だが、ここで連続殺人事件が起こるのは間違いないとして、さて被害者は誰か?マルチ商法に関わっているという佐世保、人望のない大村、お互いいがみ合っている島原と松浦あたりがまずありそうだ。松浦が「ボク」という一人称を使っているのも何かの伏線だろうか。全く存在感のない長崎も怪しすぎる。行方不明になっている小松響子の謎もあるし、彼女には夫との間に子供がいたというから、今回の参加者の中にその子供がいるというのもありそうな展開だ。そこまで頭を整理してから再び読み出す。 第3章で肝試しと宴会のシーンが描かれ、第4章の7月16日の朝のシーンで佐世保の死が明らかになる。佐世保は、自分の書斎の安楽椅子で10年前の事件で使われたナイフと同じもので刺殺されており、そのナイフには血によって指紋が残されていた。館内に2つあった固定電話は何者かに奪われており、携帯電話もつながらない状態で、参加者達は外部から侵入したと思われる犯人を恐れつつ(なぜか内部犯説に誰も思い至っていないが、実は皆思い当たってはいたものの、口には出さなかったというフォローが後に記される)、平戸と島原が車でふもとへ助けを求めるため出発するが、蛍が群生しているという蛍橋が水没し、流木でふさがれているためすぐに引き返してくる。残された6人で昼食をとった後、佐世保の遺体のある書斎と、佐世保が誰も入れなかった寝室を調べる参加者達。そこには、女性ものの香水の残り香があり、前夜の肝試し中に松浦以外の女性の声を聞いたという大村の証言の信憑性が高まった。さらに平戸の提案で、佐世保の襟に残っていた犯人のものと思われる指紋と参加者全員の指紋の照合が行われ、誰のものとも一致しないことが確認されて、犯人は夜のうちに佐世保が車で連れてきた女性ではないかという可能性が高まる。遺体発見現場の血痕の少なさから他の部屋で殺害されたのではという疑問も生じるが、各人の客室のいずれでも血痕は発見されなかった。ここまでが第6章までのあらすじ。 予想通り最初の被害者は佐世保。被害者自身を含めた全員の指紋を採取して参加者の中に犯人がいないことを確認するという展開は斬新だが、遺体から指紋を採ったり、遺体の鼻や耳にティッシュを詰めたりするのはさすがに現場保存の観点から駄目だろう。しかもティッシュを詰めるのは体温が下がった体内から蟲が這い出てくるのを防ぐためとさらりと書いているが、体液や死臭が漏れたり蠅が入ったりするのを防ぐためであろう。 第7章では、いよいよ開かずの間であった蛍の間に、平戸ら3人が侵入する。廃屋巡りが活動内容のサークルだけあって会長の平戸にはピッキングという特技があったのだ。その部屋は、佐世保から聞いていたとおり世界中の蛍の標本を展示するスペースであったが、犯人が隠れていることもなく殺害現場をうかがわせるような血痕もなかった。そして、3人は部屋の奥に扉を発見する。島原は、その部屋に1階と行き来できる階段があって、佐世保は肝試しの時に厨房から2階に上がって大村を女性の声で脅かしていたのではないかと予想していたが、そこはただの倉庫だった。しかし、3人はそこに異様なものを発見する。10年前の被害者の蝋人形が5体仕舞われていたのだ。佐世保が合宿に間に合わなかったと言って悔しがっていたのは、彼らを驚かすために全員分の蝋人形の完成が間に合わなかったということだったのだろう。そこで諫早は、その5体の人形の中に、行方不明になって生死も明らかではない小松響子のものがあることに疑問を抱く。その意見を聞いた平戸は、佐世保が館の改装中に小松響子が殺害された何らかの証拠を発見し、それを知られたくない何者かによって佐世保が殺されたのではないかと推理する。そしてその夜、大村は廊下を歩く見知らぬ若い女性の後ろ姿を目撃して大騒ぎするが、館の中を捜索してもその女性を見つけることはできなかった。ここまでが第8章までのあらすじ。 ついに謎の詰まった蛍の間が登場するが、天上の中央がガラス張りという仕様にまず違和感。昆虫標本を展示するような部屋に日光が常時降り注いだら問題だろう。光が弱々しいという表現から、天窓は小さいもので紫外線対策などもされているという設定なのだろうが気になった。そして何より違和感を感じるのは、参加者の緊張感のなさぶり。いくら指紋で参加者の中に犯人がいないと分かったからといって何らかのトリックが使われているのかもしれないし、外部から侵入した殺人犯が館のどこかに潜んでいる可能性も高いのに、安全のため複数で一緒に行動することもなく、食事のたびに凝った料理を作って食べて、夜は前夜に続いて酒宴を開くなんていくらなんでも異常すぎる。 第9章では、7月16日の夜、松浦がこっそりと諫早を自室に呼び出すシーンから始まる。実は、松浦は殺された対馬の幼馴染みであり、連続殺人鬼「ジョージ」の正体をアキリーズ・クラブのメンバーだと疑い、これまで独自に調査をしていたとことを諫早に告白する。そして松浦は、長崎と佐世保の2人こそが「ジョージ」の正体であると断言する。対馬の部屋に盗聴器を仕掛ける機会があったのが長崎であり、「ジョージ」のこれまでの被害者は、対馬つぐみも含め、すべて佐世保の亡くなった姉と似ている人物ばかりだったというのが根拠であった。第10章では、翌朝のラウンジの様子が描かれる。外部犯説を唱える平戸と内部犯説を唱える島原の2人の探偵が議論しているところへやって来た諫早であったが、そこへ風呂に入ろうとした大村が全裸で飛び出してくる。なんと浴槽には大量の女の髪が浮いており、浴室内には例の香水の匂いが立ちこめ、ガラス窓には口紅で「ユルサナイ」と書かれていたのである。調べてみると、蛍の間の倉庫にあった小松響子の蝋人形の頭部が失われており、髪の毛はそこから取られたものと考えられた。ここまでが第10章までのあらすじ。第9章の結末、「『…先走っちゃダメだよ。千鶴。先走っちゃ』ベッドに横になり優しく囁きかけた。」の部分が意味不明。いきなり諫早と松浦がそういう関係になったのか?毎回謎の女性の影に怯えるのが大村ばかりで、大村の自作自演の可能性も高まってくるが、島原と松浦がそれぞれ蛍の間の倉庫に1人で行ったことが明らかになり、謎は深まるばかり。 第11章では、平戸が、自分が書斎内で発見した加賀蛍治の未完成作品「弦楽八重奏曲第2番」のCDを島原らに聞かせる。館の中のどこかの隠し部屋にあった楽譜を発見した佐世保が海外の演奏家に演奏させたものではないかと考えられた。さらに合宿初日に佐世保が皆に途中まで聞かせた第1番のレコードを最後まで聴いてみると、レコード盤の傷のせいで最後のフレーズが延々とリフレインされ、平戸は、逮捕された加賀が死ぬまでつぶやき続けていた「蛍が止まらない」という言葉は、このことを指していたのではないかと言う。そして「このメロディの繰り返しに触発されて事件を起こしたのではないか」という島原の意見に同調する。そんな時、玄関から誰かが入ってきて2階に上っていく足音を聞く。靴箱には濡れた平戸の靴があり、ガレージではシャッターが開けっ放しになっており、佐世保のワゴンがなくなっていた。平戸の靴を使って外出した人物は戻ってきているのになぜ車がないのか。平戸らは蛍橋へ向かうが、流木によって橋は渡れない状態のままであり、その脇には佐世保のワゴンの前部が水没した状態で放置されていた。そして、運転席には大量の血痕と、車の近くには白いハイヒールが片方だけ落ちていた。平戸らは車とハイヒールのことは口外無用にしようと決めて館に戻るのであった。ここから第12章。諫早は再び松浦に呼び出される。松浦は蛍の間の奥の倉庫に、置き時計の針を動かすと1階への階段が現れる仕掛けを発見したことを諫早に報告する。降りたところには鍵の掛かった扉があり、そこから引き返してきたという。松浦は、鍵の掛かっていた隠し部屋の扉の所へ一緒に来てほしいと諫早に頼むが、諫早は嵐がやんで警察がやって来るまで待つべきだとなだめるのであった。ここまでが第12章までのあらすじ。 レコード盤のリフレインで加賀が発狂したのではという推理と共に、こっそりと外出して2階へ上がっていった謎の人物の後を追わずにガレージを調べに行く3人に違和感。館にいるメンバーをすぐに集めれば、濡れ具合で誰が外出していたか確認できたはず。誰も濡れていなければ、やはりもう1人誰かが潜んでいることが確定するのだ。放置された車、運転席の血痕、落ちていたハイヒールについては、まったく推理不能で、どのような解決があるのか期待させる。第12章での諫早と松浦の様子を見る限り、深い関係になったようには見えない。むしろ、松浦は幼馴染みの対馬つぐみを心から愛していた同性愛者的な表現がされている。では、第9章の結末は一体何だったのか?「部屋に戻った諫早はベッドに横になり虚空に向かって優しく囁きかけた。」といった表現だったら理解できるのだが…。主人公の諫早が犯人の一味?という疑念がよぎる。 第13章では、加賀には蛍という名の腹違いの妹がおり彼女が加賀の子供を流産したことがあること、加賀と駆け落ちして連れ戻された後に彼女が病死したこと、そして、このファイアフライ館が彼女の喪のために建てられたのではないかということが平戸の口から語られる。さらに平戸は、佐世保と自殺した彼の姉も同じような関係で、佐世保は加賀に自分を重ね合わせて、このファイアフライ館に深い思い入れを持ったのではと推理する。そして第14章では、17日の夜、またしても大村が襲われたことが語られる。トイレで停電が起こり、スカートをはいた女と格闘したという。平戸と島原は外の様子を見に出かけ、この日の昼間に見つけたワゴンの水没を今起こったかのように皆に語り、犯人は川に流されたのではないかと皆を安心させるのであった。第15章では、この機を逃すまいと、諫早が松浦の見つけた秘密の入り口のことと、ジョージの正体が佐世保ではないかということを皆の前で語る。皆でそこへ向かうと、秘密の階段は1階よりもさらに下に続いており、そこに幼虫の標本を展示する部屋を発見する。さらにその部屋の奥には2階の書斎とまったく同じ部屋があり、そこには加賀が飾ったらしい妹の加賀蛍の写真とともに、佐世保の姉の写真、そして、ジョージの被害者達の写真が飾られていた。そして、まだその被害が明らかになっていないフミエと呼ばれる女性の写真も。書斎の奥は、天然の鍾乳洞になっており、そこでジョージが被害者達を殺害したであろう空間を発見する。そして、第16章。もう1つの空間で女性の屍蝋化した古い死体を発見するが、その死体を前に島原が「お母さん!」と叫ぶ。その死体は、加賀の恋人で行方不明になっていた小松響子であり、島原は彼女の息子であり、彼はいつかこの館を訪れたいがためにアキリーズ・クラブに入会したのだったのだ。そして島原は、この屍蝋が佐世保を狂わせた謎を解明する。佐世保は、死んだ自分の姉と似た女性を殺害し屍蝋化させて永遠に残そうと考え、この鍾乳洞の空間に死体を置いたものの、小松響子のようにうまく屍蝋化しなかったため、死体が傷むたびに捨てて次々と同じような犯行を重ねていたのであった。ここまでが第16章までのあらすじ。 乱歩顔負けのエログロ世界が繰り広げられ、ジョージこと佐世保の犯行の動機、小松響子の行方不明の謎も明らかになるクライマックス。小松響子の子供が合宿参加者の中にいるのではという予想は的中したが、ジョージが攫った女性を殺害後なぜ1か月もたってから遺棄していたのかという謎の真相はまったく予想できていなかったので、島原の推理には納得。しかし、本当の衝撃はこの後にやって来る。 第17章では、蛍の間で島原が平戸に事件の真相について自分の推理を披露する。合宿初日の15日の夜に佐世保の共犯者が鍾乳洞を訪れた時、佐世保とフミエは差し違えて死亡していた。共犯者は自分の存在を知られないため、2人が痴情のもつれで争い、フミエが佐世保を刺殺後に逃亡したように見せかけるため、佐世保の死体を書斎に運び、フミエの死体を外に運び出そうとする。しかし、蛍橋が通行不能だったため死体と共に引き返さざるを得なくなり、後日原生林の中に埋めたと考えた。不注意で館の家財を壊しまくった松浦は何度も館を訪れているであろう共犯者像とはかけ離れており、共犯者が平戸のボーダフォンを盗み出して圏外かどうかを確かめたらしいことから、ボーダフォンユーザーの平戸と大村も共犯者候補から外れる。そして平戸と島原ら3人が最初に蛍の間を探索した時、置き時計の表示していた時刻から鍾乳洞内に共犯者がいたことが明らかであったことから、共犯者が誰であったかが確定し、2人の会話に聞き耳を立てていた人物は対馬を殺した真犯人の一味を正体を知ったことで体と心を震わせるのであった。第18章で洗面台の前に倒れていた松浦を発見した平戸。彼女はクロロホルムをかがされただけで怪我はなかったが、クロロホルムのにおいの充満する風呂場で諫早が手首を切って死亡していた。追い詰められて自ら手首を切った後、苦しみを和らげるためクロロホルムを吸引したと考えられた。諫早の死体を見下ろしながら、「これですべてが終わったんだよ…」とつぶやく平戸であった。ここまでが第18章までのあらすじ。 ここでまさかの大どんでん返し。諫早が「ジョージ」の片割れで、佐世保の共犯者であったのだ。多くの読者は呆然自失か大混乱。作者はしてやったりであろう。諫早は主人公だったのでは?前例がないわけではないが、主人公が犯人だったという意外なトリック?いやいや、真犯人を知った諫早が真犯人に返り討ちにあっただけで実は真犯人はまだ健在?とりあえず先を読まねば納得できない。 第19章。3夜連続の宴会の後、対馬つぐみの仇を討つべく、松浦が被害者を装って倒れる前に諫早を殺したのではないか。そういう疑念を持った人物が彼女を殺すべく松浦の部屋を1人で訪れる。しかし、「そこまでですよ」「意味のない殺人など止めて下さい」の声。その人物の行動は島原に見抜かれていた。第20章。明かりの付いた松浦の部屋の中、背後に立っていた島原の後ろから松浦が現れ、松浦のベッドの中から現れたのは平戸だった。ラウンジに連れて行かれた彼らを大村が待っていた。つまり、松浦を襲おうとしていたのは、そして、この物語の真の主人公は長崎だった。佐世保の共犯者だった諫早は、佐世保とフミエが差し違えて事件は完結したと考えており、長崎は長崎でジョージの正体は佐世保1人だと考えていた。フミエは佐世保によって殺され、その佐世保を殺したのは長崎だったのだ。諫早は長崎の犯行を知らなかったため、痴情のもつれを演出するために死体を動かしたが、そのせいで長崎に共犯者の存在を知られてしまう。そして、長崎は島原と平戸の会話から共犯者の名を知り、佐世保に続いて諫早を殺害し、密かに想いを寄せていた対馬つぐみの復讐を完全に果たしたのだった。そして、長崎は諫早の死が他殺と判断された場合に、すべての罪を松浦になすりつけるべく松浦を殺そうとしたのであった。長崎は殺意を否定するが、島原はそれをファイアフライ館のせいだと結論づけた。雨音さえも、狂気を呼び起こす蛍のメロディを奏でるよう加賀によって設計されていたというのである。
殺人現場となった館で3夜連続の宴会を開く異常性への違和感はどこへやら。平戸と島原という2人の探偵役に常に付き添っていたワトソン役が諫早ではなく長崎であったこと、そして、佐世保と諫早に復讐した真犯人が長崎であったことに対する衝撃の大きさにはかなわない。物語冒頭の文庫版32ページでの登場シーンや33ページでの長崎の容姿の説明シーンには最初から違和感があったが、読み返してみれば、文庫版32ページで島原に話しかけられる前から、長崎は諫早の運転する車の助手席に乗っており、彼がこの物語の真の主人公として、語り手として、物語の最初からずっと存在していたことが確かに分かる(同時に、主人公が諫早であるように仕向ける仕掛けも随所に仕掛けられているのも再確認できる)。第7章で、平戸と島原と共に蛍の間に最初に入ったのも諫早ではなく長崎だったというわけだ。そして、ずっと引っかかっていた第9章の結末の謎も解ける。最後の2行のみが自室で諫早と松浦の会話の盗聴内容を聞いていた長崎のリアクションなのだ(これは分かりにくすぎ)。確かに諫早を主人公として捉えていると、物語の中に長崎が全く登場しないことにずっと違和感を感じていたのだが、そう来るとは思わなかった。 エピローグ。土砂崩れによって損壊した山荘から、他殺体を含めた7名の遺体と、生存者1名が発見されたという20日の朝刊記事の紹介でエンド。 まさにとどめの一撃。突っ込みどころが満載とまではいかなくても色々言いたいことがあった作品であったが、このオチには降参である。賛否両論あるだろうが、トータルで見てもこの作品は希有な存在。絶賛とは言わないがそれなりに高く評価したいので★★★の評価としたい。最後にどうしても気になるのは遺体の数が合宿参加者の数と合わないこと。原生林に埋められたのではと考えられていたフミエの遺体が、館のどこかに隠されていたということなのだろうか(さすがに土砂崩れでは地下の鍾乳洞に眠る小松響子の遺体を発見するのは困難であろう。「学生」に間違えられることもないだろうし。)。生存者が誰なのかという点については、登場人物の名前などからネット上では長崎説と松浦説に分かれているようだが、そういうのを別にして一番展開的に面白そうなのは長崎であろう。自分の罪を自白するのか、あるいはなかったこととして隠し通すのか、という余韻を読者に与えてくれるのは彼しかいないのだから。 |
『孤狼の血』(柚月裕子/角川書店)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)3位作品。第154回(2015年下半期)直木賞候補作品(受賞したのは青山文平『つまをめとらば』)。「本の雑誌が選ぶ2015年度ベスト10」2位作品。2008年『臨床心理』で「このミス大賞」を受賞してデビューした作家であるが、「このミス大賞」出身者が直木賞候補にまで上り詰めると、主催した宝島社としても感無量であろう(ちなみに2016年3月現在、「このミス大賞」出身者の中から芥川賞・直木賞ともに受賞者は輩出されていない)。 第1章…主人公は、暴力団との癒着の噂のある広島県警呉原東署捜査二課暴力団係班長の大上章吾(「狼」に掛けているのだろう)と、その相棒として配属された新人刑事の日岡秀一の2人。昭和63年6月13日、神風会に属する五十子会の傘下にある加古村組のフロント企業の1つ、呉原金融の会計係・上早稲二郎が失踪した事件を捜査中の呉原東署に配属され、コンビを組むことになった大上と顔合わせをしたばかりの日岡は、いきなり加古村組の喧嘩の実力者・苗代に因縁を付けるよう命じられる。苗代と互角にやり合い、広島大卒ながらキャリアを目指さずヒラ警官になったという日岡を、大上は妙に気に入る。その後、神風会と対立する明石組に属する少数精鋭の尾谷組に連れて行かれた日岡は、若頭の一之瀬の大上に対する従順な態度を訝しく感じる。そして大上行きつけの小料理屋志乃に連れて行かれた日岡は、女将の晶子を紹介され、一之瀬とともに飲み明かすのであった。 第2章…先輩刑事の唐津から、妻子持ちだと思っていた大上が16年前に交通事故で妻子を亡くしていることを知って衝撃を受けた日岡であったが、上早稲の妹から加古村組組員の久保の名前を聞き出した大上の、久保のバッグに覚醒剤をしのばせ現行犯逮捕するという荒技に唖然とさせられる。 第3章…今度は神風会に属する瀧井組の事務所に連れて行かれた日岡は、組長の瀧井と大上との尋常ならざる仲の良さに不審なものを感じるが、瀧井が大上に、上早稲らしき男が旅館からチンピラに拉致されたという情報に加え、「今月分…」という意味深な言葉と共に封筒を渡すところを目撃し、大上に対する疑念をますます深めるのであった。旅館でビデオテープを確認すると、苗代を含めた4人組に拉致される上早稲の様子がしっかりと映っていた。 第4章…6月27日深夜に、尾谷組組員と加古村組組員が乱闘の末、尾谷組の準構成員が刺殺される事件が発生。その1時間後、両組員による発砲事件があり、さらに加古村組事務所に報復と思われる銃弾が撃ち込まれる。加古村組の事務所で若頭の野崎に釘を刺す大上であったが、野崎は「同じこと、尾谷に言えるんの」と大上に言い返し、尾谷組幹部の自宅に銃弾が撃ち込まれたという情報にもしらばくれる。今度は尾谷組の事務所で、いきり立つ一之瀬を、尾谷組の恰好がつく形にするから3日待つようなだめる大上であった。 第5章…日岡は大上と共に、唯一、一之瀬を抑える力を持つ鳥取刑務所に服役している尾谷組の組長・尾谷憲次を訪れ、大上の自分が絵図を描くまでちょっとだけ一之瀬を待たせてほしいという願いを尾谷は受け入れる。再び、尾谷組の事務所を訪れると、そこには引退した組員の野津が見舞金500万を一之瀬に渡そうとしているところであったが、一之瀬は堅気からは受け取れないと拒否する。膠着状態を解いたのは、大上の「わしに預けてくれんですか」という言葉であった。呆れる日岡や一之瀬を前に、大上は抗争を未然に防ぐ捜査費用として使うと宣言する。 第6章…大上は、野崎の弟分で、上早稲失踪の真相を知っていそうな加古村組組員の吉田滋を追い込み、真相を全て吐いて加古村組が潰れるまで姿を隠せと野津から預かった500万を渡す。ついに屈服した吉田は、加古村組の組員達が呉原金融の金を使い込んだことを上早稲に押しつけるために殺したことを白状する。大上の無茶なやり方に激高する日岡に、「お前にも、いずれわかるときがくるよ」と言って立ち去る大上。晶子は、大上の事故死した息子の名が日岡と同じ秀一であったこと、自分の夫が尾谷組の若頭で五十子会の組員に殺されたこと、夫殺しを指示した五十子会若頭であった金村が何者かに刺殺され一之瀬が疑われた時、その無実を独自の捜査で証明したことなどを語って聞かせ、大上のことを嫌いにならないように日岡にお願いするのであった。 第7章…上早稲の殺害現場が特定され、瀧井からの情報で、上早稲の遺体を運ぶのに協力した漁船も見当を付けることができたまでは良かったが、安芸新聞社の高坂が志乃にいた大上にからんでくる。14年前の金村殺しの犯人が大上だというタレコミがあったという高坂の話に、日岡と晶子は大きく動揺する。 第8章…無人島から埋められた上早稲の遺体が発見され、急遽、大上の音頭で慰労会が開かれるが、喜びも束の間、大上は署長に呼び出される。 第9章…何者かが高坂に500万の金を大上が野津から受け取った件を吹き込んだことが署長に伝わり大上は謹慎処分となる。謹慎中の大上の代わりに高坂から情報源を聞き出そうとする日岡であったが、高坂はつかまらない。そうしているうちに五十子会幹部の吉原が何者かに銃撃され重体となり、犯人が尾谷組の永川であることが判明。暴力団係の係長・友竹は、日岡に対し、内密に大上に抗争を阻止させることを命じる。日岡の言葉で、大上は五十子会会長の五十子に会いに行くことを決意する。 第10章…苗代逮捕と永川出頭の朗報に湧く刑事部屋。五十子のところから無事戻ってきた大上は、手打ちのための尾谷組側の条件として、永川の出頭と五十子が提示した1000万の見舞金、尾谷組長の引退は呑んだものの、一之瀬の破門だけは受け入れられず、結論は後日になったという。しかし、五十子の弱みを握っている大上には勝算があるらしい。そして、五十子から今晩中に連絡があると日岡に伝えて志乃から出ていく大上。 第11章…大上が志乃を出てから5日が過ぎたが、日岡は大上と連絡が取れない。友竹に相談するも、警察と暴力団との癒着をマスコミが嗅ぎ回っている現在、謹慎中の大上の捜索を公にはできないという。心配した瀧井が五十子に接触するが、五十子は大上には最近会っていないと嘘をつき、日岡は激怒する。 第12章…大上が行方不明になってから1週間後、大上が水死体となって発見され、飲酒と睡眠薬によって海へ転落したことによる事故死として処理されてしまう。五十子による殺人であると確信していた日岡は激しく動揺するが、そんな日岡に晶子は、大上が隠していた多くの警察の不正を書き記したノートと、捜査費用にするために暴力団の上前をはねて貯めていた2000万の現金を託す。 第13章…日岡は、金村殺しの犯人は高坂同様に大上だと考えていたが、晶子は夫の復讐のために自分がやったことだと判明する。大上はその後始末を手伝ったのだ。そして、日岡は昔の上司に呼び出される。日岡は大上失脚のために彼が送り込んだスパイだったのだ。元上司は、日誌を提出するように要求するが日岡は黒塗りだらけの日誌を彼に渡し彼を激怒させる。大上の血を引き継ぐことを決意した日岡は彼の過去のスキャンダルをちらつかせて、彼に背を向けて去っていくのだった。 一番気になったのは、279ページ「大上の妻子の交通事故に、五十子会が絡んでいるらしき噂を、日岡は晶子から聞いている」という1文。297ページにも「五十子は大上の妻子の命を奪った敵かもしれない」とあるが、一体どこでそんなことが語られたのだと何度も読み直す羽目になったが、まったく見つからない。自分が読み飛ばしたのかと思ったが、どう見ても279ページが初出の情報のようだ。こんな重要な話をさらりと流していいのか。それなりに字数を割いて語るべき部分ではないのか。大上が五十子を憎む動機の一番大きな部分のはずなので、ここだけはどうしても納得がいかなかった(大上が五十子に感情をむき出しにしている描写はないので、大上自身あくまで噂ととらえているという読みもありだとは思うが)。 主人公があっけなく殺されて、しかも腐乱死体で発見され、下手人の大悪党の五十子がどの後どうなったのか、まったく描かれていない結末も、何のカタルシスも得られず、かなり不満。 あとは、322ページの永川出頭の顛末を語る日岡のセリフ、398ページからの日岡がスパイになるまでを説明した地の文など、やたらと説明が長い部分が目立つのが気になる。特に終盤に多いように思うが、筆者が技巧を凝らすのに力尽きてしまったのか。 しかし、それら以外は非常に良くできた作品だと思う。悪徳警官を描いた作品はこれまでにもたくさん読んできたが、これほど親しみを感じる悪徳警官はいないだろう。煙草屋の老婆・吉田カツとのからみなど秀逸ではないか(葬儀でのシーンも)。日岡が監察のスパイではないかというのは何となく臭っていたので、元上司に背くラストシーンにそれほど感動はしなかったが、プロローグとエピローグで描かれているベテラン刑事が、実は大上ではなく、成長した日岡だったという仕掛けも見事。先に挙げたような問題点もあって★★としたが、限りなく★★★に近い★★である。後で、直木賞の審査の方々の寸評を見たが、納得できる批判もあったものの、なぜそこまでこきおろすのかと思えるくらい厳しいもので違和感を感じた。次回作への期待の表れかもしれないが、一般読者があれを見て本作を見限るのはやめてほしい。私にとっては十分にオススメの1作である。(続編も企画されているようだが、大上なしでこのシリーズを成立させるのは厳しそう。となると前日譚のような形になるのだろうか)。 |
『海は涸いていた』(白川道/新潮社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」1997年版(1996年作品)5位作品。この年はベスト20作品中6作品しか読んでいないのだが、いずれも傑作揃いで豊作の年という印象が強い。案の定、第2章まで読んだだけで傑作の予感。ヤクザの世界を描いていながら、美しい文章で描かれるストイックな主人公の姿に強く引き込まれる。 主人公は都内で高級クラブを経営している36歳の伊勢孝昭。本名の芳賀哲郎という名は上京する時に捨てた。伊勢が7歳の時に、暴力を振るう夫と離婚した母は船医であった継父と再婚し、それまで住んでいた神戸から瀬戸内の小さな町に引っ越した。我が子同然に愛情を注いでくれた継父に伊勢も懐いていたが、継父は船上で死亡し、母も後を追うように焼身自殺してしまう。「あじさい園」という養護施設に預けられた伊勢には、馬渕薫という父親違いの妹がいたが、伊勢が施設仲間の三宅慎二をいじめた不良高校生を過失で殺害してしまい少年院に入れられたことで、ヴァイオリニストとして将来を期待されていた彼女の迷惑にならぬよう、少年院を出てからは彼女に会わないようにしていた。天才ヴァイオリニストとして有名になった薫は、現在、西地グループの御曹司、西地圭介との結婚問題で世間を賑わせていた。 少年院を出た伊勢は尼崎の旋盤工場で働いていたが、社長・長坂雄一郎の娘で短大生だった今日子と恋に落ちる。しかし、信じていた社長が、人殺しとの交際は許さないと今日子に話しているのを聞いてしまった伊勢は、ショックを受け工場を辞めてしまう。 その後、焼津で植松という男が経営するクラブに勤めていたが、慎二を覚醒剤に誘い込んだ売人を、同僚だった布田昌志と2人でたたきのめしたことで筋者とトラブルになり、植松の幼馴染みで東友会・佐々木組の組長、佐々木邦弘に誘われ、布田と共に9年前に上京する。佐々木とは兄弟分にあたる和田組のダミー会社で、金融、地上げ、競売など、あらゆる仕事を仕込まれた後、佐々木の命で布田商会を興し、ダミー会社で覚えた仕事に片っ端から手を出す布田と伊勢。ダミー会社で仕事のイロハを教えてくれた茅野を呼び寄せ、布田商会はバブルの波にも乗って順調に仕事を拡大した。 3年前に伊勢は独立して佐々木から伊勢商事を任されるが、佐々木と同じヤクザの道を進む布田に対し、佐々木は伊勢をヤクザに向いていないと断言し、あくまでも堅気としてバックアップしてくれていた。3年前に、突然伊勢の前に現れた今日子に、思わず部屋の鍵を渡してしまった伊勢であったが、1人で恵比寿に住み、渋谷の会計事務所で働きながら、週に1、2度掃除と簡単な食事を作るためにやってくる今日子は、それ以上の関係を求めず、伊勢もある事件をきっかけに人並みの幸せを求めることは諦めていたため、その状態がずっと現在まで続いていた。伊勢は、沖本という漁師から手に入れた拳銃で、母を苦しめた実の父を捜し出し射殺したという過去を誰にも言わず隠していたのだ。 事件は迷宮入りしていたが、拳銃の処分を任された慎二は、その拳銃を今も大事に持っていた。伊勢は、中身を知らせず箱に入れた拳銃を海に捨てるよう慎二に頼んだのだが、慎二は、その箱を伊勢に無断で開けてしまったのだ。その慎二は、伊勢の支援によって目黒で小料理屋を開いていた。伊勢に借りた1千万円を慎二は毎月10万円ずつ返済していたが、伊勢はそれをすべて慎二名義の通帳に貯金し、慎二の結婚祝いに渡すつもりでいた。 慎二同様に施設仲間だった藤城千佳子は、デザインの勉強をするため9年前に上京してきたが3年で挫折、それ以降はクラブに勤めていた。7年間付き合ってきた岡堀は、妻子がいる上に、目指していた物書きへの情熱を失い怪しい仕事に手を染めていたが、千佳子は彼と別れられぬままずるずると関係を続けていた。街で伊勢の姿を見かけた千佳子は、久しぶりに施設を訪れ、園長から慎二の店の住所を聞き出して慎二と久しぶりの再会を果たす。 伊勢商事の事務を務める原田は、元は有能な看護師だったが、父親が経営する印刷会社が倒産、その債権整理のゴタゴタに絡んだ布田が面倒を見てやったところ、布田に恩を感じて布田のところで働かせてほしいと言ってきたのを伊勢が預かったのだった。25歳という若さながら、地味な服装で仕事に打ち込む原田に何かと世話を焼く伊勢であったが、彼は原田に薫の姿を重ね、そんな伊勢に原田も想いを寄せていた。 植松のお膳立てで、焼津で今日子と会うことになった伊勢。今日子とのけじめをつけなくてはならないと考えていた伊勢を栄樹の丘という場所に誘う今日子。しかし、自分の血を残さず死ぬことをただ待つだけの人生を送ろうとしていることを宣言する伊勢を前に、今日子は「サカキがかわいそう…」とつぶやき、途中で引き返してしまう。 佐々木の命令で、急遽3千万円の現金を用意することになった伊勢。後で分かったことだが、この金は、東友会の中でも古株の久原組の二代目のために用意する金であった。久原は不景気を乗り切るために東友会では御法度の覚醒剤の売買に手を出していた。佐々木は久原が覚醒剤から手を引くことを条件に、佐々木のしのぎに便乗させたり現金による支援をしたりしていたのだが、久原が覚醒剤の取引をやめなかったため、佐々木と関係はどんどん悪化していた。 伊勢の乗る車を尾行する車に気が付いた茅野が、車の持ち主を調べてみると、久富茂という三流週刊誌の編集部に勤める男であった。10年前の父殺しか、香との関係を嗅ぎつけられたのではないかという思いがよぎった伊勢であったが、その可能性をすぐに打ち消す。しかし、その2か月後、伊勢と布田のことを嗅ぎ回っている男がいるという連絡が焼津の植松から入る。布田は久富を締め上げようと提案するが、下手なことをやって何か書かれるのは得策でないと考えた伊勢は放置することに決める。
服を買ってもらった御礼に日曜に伊勢を誘い出した原田は、伊勢に馬渕薫のコンサートのチケットをプレゼントする。伊勢のデスクに薫の記事が載っている週刊誌とCDを見つけた原田は、彼女が伊勢の妹だとは思いもよらず、伊勢が彼女のファンだと思い込んだのだ。伊勢は、行けるかどうか分からないからと、とりあえずチケットを原田に預ける。
千佳子の勤める店に、ツケではなく自腹で岡堀が頻繁にやってくるようになる。不思議と景気が良くなった彼が、ある日店に連れてきたのが久富であった。どうやら久富からの依頼で行う取材が大きな収入になっているらしい。そんな岡堀は、馬渕薫のコンサートに千佳子を誘うのであった。そんな時布田が関西なまりの若い3人組に刺され重傷を負う。伊勢は佐々木が指定した個人病院に担ぎ込んで、布田は一命を取り留める。 薫のコンサートに行くか行くまいか迷ってアパート近くを歩いていた伊勢は、彼の部屋に行こうとしていた今日子と出会う。今日子は会社を辞めて焼津に帰ると決めたこと、伊勢と別れた後に結婚してすぐに離婚したという話は嘘だったこと、伊勢と別れた後に伊勢の子供を身ごもっていることが分かり産むつもりだったのに転んで流産し子供を産めない体になってしまったこと、その亡くなった子供に栄樹と名付けたことを告白する。強い衝撃を受けた伊勢は、原田に申し訳ないと思いつつ、彼女からチケットを2枚とも譲ってもらい、薫のコンサートに今日子を連れて行き、彼女が妹であることを今日子に教え、今日子と一緒に焼津に帰ることを約束する。ここまでが第2章までのあらすじ。 第3章からは大きく場面が変わり警察視点が入ってくる。捜査一課の佐古警部は、覚醒剤常習者のホステスの勝俣清乃が射殺された事件を捜査していた。目撃者が現れず捜査は難航していたが、配下の大久保刑事が、彼女が一時、久原組の幹部の木部和夫の情婦であったことを突き止める。さらに調べを進めると、久原組とは同じ傘下の佐々木組の組員が彼女の動静を窺っていたこと、佐々木組の準幹部の布田が何者かに襲われ重傷を負ったということが分かる。覚醒剤を媒介とした久原組と佐々木組の抗争の前兆を感じ取る警察であったが、両者に全く無関係の桂木会の26歳の組員・小牧久次が拳銃を持って自首してきたことで、あっけなく事件の幕は下ろされる。納得のいかない佐古であったが、捜査一課長の志村は、彼に別の拳銃による射殺事件の捜査を命じる。被害者はフリーの記者の岡堀宏で、拳銃には前科があるという。10年前に同じ拳銃で射殺された被害者は池尻金融社長の池尻貞治56歳で、評判がすこぶる悪かったため捜査をいっそう難しくしていた。この池尻こそが伊勢の実父であり、伊勢がこの事件の犯人だったのであることがここで明らかになる。 フリー記者の射殺事件に使用された凶器に前科があることが報道されたことにより、慎二の「頼まれていたものは海に捨てた」という言葉の嘘が明らかになり、伊勢は慎二を厳しく問い詰める。そして、ついに慎二は重い口を開き、「施設のみんなを食い物にしようとしたハイエナなようなやつだ」「死んで当然なんだ」と語り始める。岡堀は、薫の兄が暴力団関係者であることをネタに、薫の恋人の西地を強請っていた。それを知った千佳子は慎二に相談し、岡堀が薫のコンサートに千佳子を誘ったのを利用して、慎二は伊勢の拳銃で岡堀を射殺したのだ。千佳子の存在を警察が掴んでも彼女のアリバイは用意されており、慎二の存在までは警察は掴めないであろうという読みであった。しかし、佐古と大久保は地道な捜査によって、伊勢が恐れていたとおり、哲郎と千佳子と慎二が同じ施設にいたこと、岡堀が調べていた伊勢という男が池尻の息子の哲郎と同一人物であること、そして岡堀が西地を強請っていたことまでを突き止めてしまう。 一度は今日子と一緒に焼津に帰ることを約束した伊勢であったが、慎二と千佳子に警察の手が伸びるのを防ぐため、岡堀殺害の罪をかぶることを決め、同じ拳銃でもう一度事件を起こし、自分が死ぬことで薫に迷惑が掛からないようにして、全てに幕を下ろそうと決意する。そんな時、布田が久原組の木部に殺され、伊勢の拳銃による第3の殺人のターゲットが決まる。 西地にアポを取った佐古であったが、小橋警視監に呼び出されると、そこに西地と彼の弁護士が来ていた。西地は岡堀に強請られていたことを認め、薫のために、この件が公にならないようにすることを要望する。そして、小橋からも、薫をスキャンダルから守れという命令が上から来ていることを伝えられる。警察の威信にかけて犯人を挙げること、薫をスキャンダルから守ること、といった相反する問題を同時に解決する方法は、小橋が言葉にせずとも佐古に伝わった。それは、奇しくも伊勢が考えた方法と同じであった。つまり、もう一度同じ拳銃で事件を起こした伊勢に死んでもらうことであった。 結局、佐古は伊勢が木部を射殺するのを黙認し、木部のボディガードに撃たれた伊勢はサカキの丘の近くで今日子に抱かれながら死んでいく。千佳子と慎二と共に彼の死を看取る佐古に対し、今日子は「一生あなたを恨む」と告げ、佐古は「一生恨まれてみよう」と答えるのであった。
前半の読者の引き込み方は尋常ではないが、後半は意外と淡々と話が進み少々物足りない。少しずつ真相に近づく佐古の捜査があまりにも見事で、今一つドキドキハラハラ感がないのだ。前半で圧倒的な存在感を誇っていた伊勢も、後半の佐古の登場で、やや霞んでしまう。かといって、その佐古にそれほど強烈な魅力があるわけではない。刑事として優秀なのは分かるが、人間味があまり感じられない。第4章の最後で、本部長の柿沼と心を通わせるシーンにはちょっと感動を覚えたが、小橋警視監の冷酷な要請を何の迷いもなく受け入れ、木部と伊勢を何の葛藤もなく見殺しにするラストは不快感すら感じさせる。 |
『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)〈11〉不死鳥狩り』(福井晴敏/角川書店)【ネタバレ注意】★★★ ミステリー作品ではないが、 作者の福井晴敏氏は「このミス」に何度もランキングされている有名作家であるし、本作品自体、ミステリー要素が全くないわけではないので、ここに記録しておく。1巻から10巻までも読了済みであるが、ミステリー作品ではないということで本サイトの読書記録一覧にはこれまで掲載していなかった。最終巻であった10巻から6年半の時を経て、今月 突然発売された『機動戦士ガンダムUC』の新刊である。2012年3月発売のPS3ソフト「機動戦士ガンダムUC特装版」に同梱された書き下ろし小説「戦後の戦争」と、2015年6月発売の「機動戦士ガンダムUC GREAT WORKS BOX III」に同梱された書き下ろし小説「不死鳥狩り」を収録している。 「戦後の戦争」は、まさにミステリー仕立て。本編の前日譚で、ネオジオンのフル・フロンタルが、いかにして連邦軍のためにアナハイム・エレクトロニクス社が開発したMSシナンジュを手に入れたかというエピソードを描いた作品。 1年戦争後、連邦軍では、予算確保のために適度な脅威が必要と判断され、ジオン残党軍へ物資の横流しが常態化していた。当然ながら世界各地での連邦軍とジオン残党軍との小競り合いはなくならず、そのための犠牲者も出ていた。連邦軍の中央情報局所属のベテラン士官であるカルロス・グレイグもその1人で、ジオン残党軍に妻子を殺されていた。彼は、上司のロッシオ・メッチと特殊部隊エコーズのダグザ・マックールの制止を振り切り、次なる不正行為を阻止するため姿を消す。シナンジュは、「強奪に見せかけた譲渡」という方法によってネオジオンに引き渡される手はずになっていたが、シナンジュの輸送任務を任されていた「ウンカイ」所属のMS隊隊長、ダゴタ・ウィンストンを説得し、彼のMSに同乗したカルロスの呼びかけによって、戦場は大混戦に陥る。取引を熟知していた輸送部隊の上層部は、MSのコンピュータのウイルスチェック中ということでMS部隊を出撃させないまま、シナンジュを奪わせるつもりであったが、カルロスの事前情報によってMSは出撃可能な状態にあり、ネオジオン軍側も予想していなかった戦闘が発生したのである。結局、奪ったシナンジュに搭乗したフル・フロンタルの圧倒的な戦闘力により、連邦軍のMS部隊は全滅、艦艇までも証拠隠滅のために沈められる。 この事件の真相を掴むべく部下のキム・ゴヨと共に調査を始めたのが1年戦争の英雄の1人であるブライト・ノアであったが、ついに真相を掴みかけた時に、彼の前にダグザが現れる。そして、ブライト・ノアを名乗る人物の正体がロッシオであることが明らかになる。ロッシオは自分の死すら覚悟したが、ダグザはロッシオに今回の事件の戦闘記録のデータを渡して去っていく。そのデータのおかげで、ロッシオは、今回の事件の黒幕の1人である、アナハイムの重役アルベルト・ビストを脅迫し、ネオジオンの内通者として処理されようとしていたカルロスを、強奪を防ごうとした英雄として扱うという名誉回復に成功するのであった。 何もかもが見事に計算され尽くした作品。シナンジュの「強奪に見せかけた譲渡」作戦にも、1年戦争後の社会情勢を背景にしたリアリティがある。本編の登場人物も巧みに配置するなど読者サービスも怠りない。自分はこちらを先に見たのだが、本作品が同梱されたPS3ソフト「機動戦士ガンダムUC特装版」のダウンロードコンテンツでは、フル・フロンタル視点での映像作品として見ることができるので、興味のある方は是非。ゲームを購入しなくてもネットで鑑賞可能。大混戦の戦闘の様子がリアルに伝わる。 「不死鳥狩り」は、本編に登場しなかったガンダム3号機「フェネクス」にまつわるエピソードを描いている。養護施設出身のMSパイロット、ヨナ・バシュタは、同じ施設にいて13歳の時にティターンズ所属の養父母に引き取られていったリタ・ベルナルが、強化人間にされた挙げ句、3号機にパイロットとして搭乗させられ、2号機「バンシィ」との模擬戦闘中に暴走して行方不明になったことを知る。グリプス戦役後、連邦軍内で横暴を極めていたティターズの士官のほとんどは処分を免れなかったが、ヨナは、リタの養父だったエスコラ・ゲッダが、どこかに手を回して、今も連邦軍内で准将としてのうのうとしていることを知り彼を脅迫する。ヨナの要求は、エスコラがティターズであったことを隠す代わりに、自分をフェネクスの捜索部隊に加えろというものであった。フェネクスは、暴走によってリタの肉体を奪い、精神のみを宿す存在になっていた。そしてリタは、フェネクスを使ってヨナをある場所へ導く。そこには、ヤクト・ドーガをコアとするネオ・ジオングが建造されていた。ヨナはフェネクスに乗り込みネオ・ジオングを激戦の末に破壊。彼は宇宙に漂流しているところを仲間に救出され意識を取り戻す。フェネクスはリタの魂と共に、宇宙の彼方に消えていったのであった。
ネオ・ジオングは、元々小説作品として存在していた「機動戦士ガンダムUC」のアニメ化に当たって設定が追加された、シナンジュをコアとする大型モビルアーマーである。この作品を読むと、この作品に登場するネオ・ジオングがアニメに登場した機体のプロトタイプのように読み取る方もおられると思うが、ネオ・ジオングが2機存在したわけではなく、小説版では「フェネクスによってネオ・ジオングが破壊されたため、フル・フロンタルに届けられることはなかった」という設定になっているようだ。小説版とアニメ版では設定が異なるというのはファーストガンダムからの伝統なので、往年のファンはたいして気にすることはないだろう。なんせファーストガンダムの小説版では、シャアの搭乗する「シャア専用リックドム」によって「アムロが撃墜され戦死する」という結末だったのだから。フェネクスの当初の暴走理由が今一つ曖昧であり(当初の暴走は自分を強化人間にした者達への復讐、その後の行動は、罪なき者まで巻き込んでしまったことに対する贖罪という説明が一般的にはなされているようだ)、少しでも多くの玩具を売りたいというスポンサー(バンダイ)の事情で設定されたと思われるフェネクスの存在理由にも疑問を感じないではないが、よくできた作品であることには間違いない。 |
2016年4月読了作品の感想
『キャプテンサンダーボルト』(阿部和重・伊坂幸太郎/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。
東京大空襲の日に、アメリカのB29爆撃機3機がなぜか東北の蔵王連峰の不忘山に墜落したことを、その地方出身の広告業界の有名人である隅田から色仕掛けで聞き出す厚生労働省の桃沢瞳。戦後、蔵王の御釜に存在する細菌によって死に至る恐れのある村上病の発症が確認され、その病気を調べていた桃沢の父は「村上病はあるけど、ない」という謎の言葉を残し、村上病の発病によって隔離され死亡していたが、彼女はその死に疑問を持ち、独自に調査を続けていたのだった。
太平洋戦争中の謎の米軍機の墜落事故、そしてその後その地に広まった謎の病気、そしてそれらに全く関係なさそうなスーパー戦隊の劇場版の上映中止と、なかなか面白そうな舞台設定であり、物語も最後までそこそこ読ませてはくれるのだが、飛び抜けたドキドキハラハラな展開もなく、特筆するようなサプライズが用意されているわけでもなく、何となく不完全燃焼のまま終わってしまう平凡なエンターテイメント作品といった印象。 |
『テンペスト(上/下)』(池上永一/角川書店)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2009年版(2008年作品)11位作品。本を読む前にその評判を確認することはあまりないのだが、Amazonの書評を何気なく見てみるとあまりよろしくない。図書館にあるのは知っていたが、分厚い上下巻構成(文庫版は4巻構成)で、なおかつ19世紀の琉球王国が舞台であり、現代の日本を舞台にした作品以外は少々苦手としていることもあって、これまでずっとスルーしてきた。しかし、借りるものが次第になくなってきたためやむなく手を出すことに。 第1章…主人公は、第一尚氏王朝の王族の末裔・孫真鶴。父の嗣志は孫氏復興のため男子の誕生を望んでいたが、産まれてきた女子に失望し、彼女に名前すら付けず、姉の三男・嗣勇を養子にし、科試に合格させ王宮に入れるために厳しく教育していた。しかし、父のスパルタ教育に耐えられなくなった嗣勇は失踪し、彼の追跡を阻止するため、3歳の時に自分に真鶴と名付け、密かに独学に励んで聡明な10歳の少女に育っていた彼女は、自分が兄の身代わりとなって科試を目指すと父に懇願する。清国の宦官を養子にしたということにして孫寧温と名乗るようになった彼女は、真和志塾の入塾試験に落ちる が、三代の王に仕えた麻真譲に認められたことを父は喜び、麻真譲が主宰する破天塾に通うようになる。 真和志塾の2歳上の神童と呼ばれた天才少年・喜舎場朝薫と切磋琢磨し、2人は2年後に科試の模擬試験で見事首席の成績を収める。
第2章…ついに科試を受験する時がやってきた。3000人の受験者から最初の初科で30人に絞られ、寧温は13歳という最年少記録で首席合格。次席は朝薫、3位は一時は科試を諦め親の力で留学して国学訓詁師となったことをコンプレックスにしていた儀間親雲上であった。2次試験の再科を終えた寧温であったが、禁制品であったオランダの本を自宅に隠し持っていたことで、その罪をかぶった父が斬首刑に処せられてしまう。さらに再科に不合格になるという不幸が追い打ちをかける。再科の合格者は、朝薫と儀間の2人だけであった。
第3章…王宮は、寧温にとって彼女を妬む敵だらけの場所であったが、尚育王から王宮内の不正な金の流れを調べ、財政改革を行うよう命じられた寧温は、血統重視で選ばれる高官・表十五人衆や、宗教世界の女帝・聞得大君、御内原の番人女官大勢頭部らに、目の仇にされるが、冊封使の無理難題を見事に片付けたことで彼女へのイジメは減ることになった。
第4章…英国の船、インディアン・オーク号が暴風雨により座礁し、王宮内は様々な思惑が入り乱れて混乱するが、船員を皆殺しにしようとする清国派、彼らを奴隷にしようとする薩摩派を、寧温は巧みに抑え込み、船を新造して丁重に送り返すことに成功する。 第5章…聞得大君は、正当な聞得大君が持つべき馬天ノロの勾玉を手に入れるため。お告げのあった辰年の女を次々に捕らえ拷問に掛けていた。寧温の亡き父が隠し持ち、寧温に引き継がれた勾玉が簡単に発見できるはずもなく、拷問による死者は30名を越え、罪状は切支丹ということで処理されていた。さらに聞得大君は、自分の権力を確固としたものにするため、思戸という少女を間者に仕立てて王妃を罠にはめ、ついには寧温を失脚させるため嗣勇を拷問して寧温が女であることを白状させようとする。そして、現場に駆けつけた寧温はとうとう自分の秘密を敵に明かしてしまうのであった。
第6章…寧温の秘密をつかんだ聞得大君は、寧温を操って王妃の失墜を図る。聞得大君が、まんまと王宮での王妃と女官大勢頭部の権力を奪うことに成功した頃、儀間親雲上と多嘉良は、いつものように王宮の泡盛をくすねて飲んでいたが、同じようにくすねた西瓜に阿片が詰め込まれているのを発見し驚愕する。 第7章…阿片の密売に評定所の多くの者が関わっているのではないかと疑いだした寧温は、朝薫への協力を仰いだ翌日、評定所筆頭主取の役職を罷免され朝薫と共に雑草抜きの仕事に回されてしまう。しかし、2人は直後に尚育王から特命捜査官とも言うべき糺明奉行に任じられ、阿片密売組織壊滅を命じられる。入手国である清国と、売却先である薩摩との合同捜査をまとめた寧温であったが、薩摩側は旧知の雅博が務めることになったが、清国側の指名した捜査員・徐丁垓は恐ろしい宦官であった。ついに密売組織の全容を解明した寧温と朝薫は、それまで血統主義で決められていた表十五人衆に昇格する。そして、父の遺言を思い出した寧温は、自宅のガジュマルの樹の下から第一尚王朝末裔の証である馬天ノロの勾玉を掘り出し、「聞得大君になって琉球を救いなさい」という国土の声を聞くのであった。 第8章…寧温は、彼女の正体を知った徐丁垓に脅迫されるが、評定所を辞任することで彼の支配を逃れようとする。真鶴に戻って身を隠して生きていくつもりだった寧温であったが、偶然出会った雅博に組踊の観劇に誘われた上に求婚される。しかし尚育王の薨去を知った彼女は、女としての幸せを捨て王宮に戻り、幼い尚泰王を補佐することを決意する。徐丁垓に再び狙われることになった寧温は、彼に襲われた上に、彼との関係を雅博に疑われて絶望するのであった。 第9章…妹の敵を取ろうと徐丁垓に拳法で勝負を挑んだ嗣勇は返り討ちに遭い、徐丁垓は後宮の御内原を荒らし続けた。さらには、寧温が第一尚王朝の末裔であり、兄を王座に就けるために王宮に入ったのだと朝薫に吹き込み、朝薫までもが寧温に敵意を抱くようになる。さらに王印を盗んだ容疑までかけられた寧温は、徐丁垓を道連れに万座毛から飛び降りるが、馬天ノロの首飾りが引っかかったおかげで生還する。しかし、国相殺害の罪は重く、八重山に流刑になってしまうのであった。 第10章…寧温の流刑先の八重山で、奴隷が乗っ取った米国商船ロバート・バウン号の座礁事故が発生。かつてインディアン・オーク号の座礁事故の時に多くの船員を救い、英国女王よりナイトの称号を賜っていた寧温は、あっという間に連合軍旗艦コンテスト号のスペンサー艦長の信頼を得て問題を解決してしまった。その功も報われぬまま、マラリアにかかり山奥に捨てられた寧温であったが、八重山の最高神職の老婆に助けられ、在番の前で琉舞を踊ったことをきっかけに王宮に戻ることになる。王の前で琉舞を踊るだけだと思っていた寧温であったが、連れて行かれたのは、あごむしられ(側室)の試験会場であった。摂政の孫娘・真美那とともに側室に選ばれた寧温は、ついに真鶴として王宮に帰ってきたのだ。
第11章…朝薫が真美那の従兄であり、名家の向一族であったことに驚く真鶴。彼が寧温を心底敬愛していたことを知った真鶴は目頭を熱くする。真美那は寧温がいじめられないよう一流の茶道具を
彼女に貸し、王妃達を驚かすのであった。そして真鶴は、真美那の初恋の人が寧温だと知って驚かされる。
第12章…真牛は陳執事の策によって脱獄するが、各地を転々と逃げ回る生活に嫌気がさしていた。陳が真牛の神扇を買うために故郷の形見の翡翠を売ったことを知った真牛は、売却先の海運業者の所へ翡翠を取り戻しに行くが、その海運業者に莫大な借金があった真牛は遊郭に売られてしまう。 第13章…米国艦隊のペリー提督の突きつける要求に朝薫はまともな対応ができずペリーは苛立つ。ついにペリーが王宮に強制入城を果たした翌日、尚泰王は寧温に恩赦を与える決断をし、真鶴と嗣勇は途方に暮れるのであった。
第14章…寧温に戻った真鶴は、ペリーとの交渉を見事にまとめ上げ、琉球から追い払うことに成功する。そして真鶴の宮中での二重生活が始まった。
第15章…ブッキングに悩んだ真鶴は、結局寧温として尚泰王の方へ駆けつける方を選び、王妃主催の茶会では真鶴の欠席裁判が開かれようとしていた。しかし、真美那は国宝級の茶碗を3つも割り、御内原を未曾有の大混乱に陥れることで、真鶴の危機を救った。
第16章…妊娠したことに苦しむ真鶴に対し、真美那は、産まれてくる子供のために寧温を捨て真鶴として生きるべきだと説得する。そんな時、薩摩藩主が逝去したことにより朝薫ら向一族が復権し、宮中から薩摩派が一掃される。真美那は寧温も左遷することにより、真鶴として子供と共に生きることに集中させようと配慮し、真鶴も納得する。そして国許に帰ろうとしていた雅博と出会った真鶴は、最愛の彼に二重生活の秘密をついに明かす。驚愕しつつも薩摩へ彼女を連れて行こうとする雅博であったが、尚泰王の子を妊娠していることを知り、さすがに諦めるしかなかった。 第17章…長年宮中を騙してきた罪で真鶴は死罪を希望するが、身分も考慮され久米島への流刑と決まった。しかし、子供と離ればなれになることをよしとしなかった真美那は、子供を誘拐して真鶴を子供と共に逃がす。 真鶴は、真美那の手配した首里郊外の遍照寺に、明と名付けた子供と共に身を寄せることになった。明は、腕白坊主ながら幼少の頃の真鶴に負けないくらいの神童であった。明は首里で偶然出会った嗣志を真鶴の元に連れて行く。しかし、嗣志の同僚の通報で役人達に取り囲まれる。嗣志は、罪滅ぼしのため役人に斬りかかって真鶴たちを逃がし、斬首刑に処せられる。 明は、飛び入りで受験した真和志塾の入塾試験に合格して周囲を驚かせるが、真鶴は入塾を許さず、代わりに寧温となって私塾を開き、明を鍛えるのであった。そして明治政府発足の知らせが琉球にも届く。琉球王国滅亡のカウントダウンがついに始まった。
第18章…評定所に勤めたいという明に対し、それならば科試が再開されるのを待とうと言う真鶴。その明に接近した真牛は、寧温の正体や、明の出生の秘密を暴露し、馬天ノロの勾玉を探し出すように伝える。明と共に王宮へ戻り、聞得大君として復帰してやろうという魂胆である。しかし、真鶴から全てを聞かされた明は、中城王子としてではなく、実力でしか王宮へ行かないと真牛に宣言する。
借りたのは上下巻のハードカバーの方で、Coccoとかいう女性のシンガーソングライターのメッセージが帯に記されていたのだが、その褒めているのか、けなしているのか分からないような軽いコメント
が、まず不愉快極まりなかった。「男子ってこんなファンタジーに心を燃やすのか…大爆笑の女子Cocco」「捨てたもんじゃないね男子ワールド」。作品と男性読者を馬鹿にしているようにしか思えないし、それ以前に作品の内容を読む限り男性向けに特化したような作品とはとても思えないのだが。そういうマイナスな先入観があったからかもしれないが、読み始めると意外と普通に面白い。少なくとも読んでいて苦痛ではない。別紙付録となっている登場人物・用語一覧
も便利。ただ、そこまでして用意したならば、もっと内容を充実させてほしかった。掲載している人物が少なすぎなのが今一つ使えなくて惜しい。 |
2016年5月読了作品の感想
『戦場のコックたち』(深緑野分/東京創元社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)2位作品。 「このミス」2016年版ランキング作品を読むのはこれが6作目。これまで全て★★だったので、2位作品なら★★★が期待できるかもと楽しみにしていたのだが結果はまたしても★★。というか、なぜこの作品が2位なのか正直言って理解できない。ミステリー小説としても、戦争小説としても、グルメ小説としても、ちょっとイイ話系の小説としても、全てにおいて中途半端。良心的な見方をすれば、それら全てのエッセンスが含まれていると言えなくもないが、どの視点から見ても感動できないのではどうしようもない。本屋大賞では、「このミス」1位の『王とサーカス』、同じく5位の『流』に挟まれての7位。昨年はミステリー不作の年と見てよいのかもしれない。 第1章…第二次世界大戦時において軍隊に志願入隊した雑貨屋の若者は、料理の上手な祖母の影響と、同じ隊に配属された味音痴のコック、エドことエドワード・グリーンバーグからの誘いもあって、軍隊内での地位の低いコックにあえて志願する。米国陸軍空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第3大隊G中隊管理部付きコック、ティモシー・コール5等特技兵、通称キッド。彼がこの物語の主人公である。ノルマンディ降下作戦に参加し、仲間を失いながらもなんとかポイントにたどり着いた彼は、美男の機関銃兵・ライナスが予備のパラシュートを集めていることに疑問を持つ。エドの推理によって、野戦病院として米軍が借りた館の主が、娘にウエディングドレスを作ってやるためにパラシュートに使われている絹の布を欲しがっているという要望に応えたことが明らかになる。しかし、ライナスの奮闘むなしく、ドイツ軍の爆撃によって館の主と娘は死亡してしまうのであった。 第2章…戦死したコックのマッコーリーの代わりにキッドの同僚として管理部に配属されたのは、戦闘で負傷しフランスの民家で匿われていたところをキッド達によって発見されたフィリップ・ダンヒルだったが、ろくに挨拶もしない彼をキッドは嫌っていた。そんな時、まずいと評判の粉末卵の大量紛失事件が起こる。憲兵は単なる数え間違いとして相手にしてくれず、中隊長の名誉挽回のために、キッド達は独自に調査を始める。そして謎を解いたのは、またしてもエドであった。補給物資の見張り役だった軍の広告塔でもあるロス大尉のあまりの怠慢のせいで苦労している彼の部下達が、彼を困らせようとして起こした事件だったのだ。首謀者は追放され、あとのメンバーも左遷されたが、ロス大尉への処分は軽かった。それでも彼の悪評はこの事件をきっかけに広まり、彼が軍の広告塔として表舞台に立つことはなくなったのであった。 第3章…オランダでの作戦に従事していたキッド達は、フェーヘルという町の防衛任務を行っていた。玩具職人のヤンセン氏の家の2階から死守すべきハイウェイを見張っていたが、ドイツ軍の対戦車砲による攻撃で、同じ部屋にいた古参兵のヘンドリクセンが命を落とし、機関銃兵のアンディが負傷する。衛生兵を捜すキッドを踏み越えて小道に飛び出した丸坊主の人物がドイツ軍の狙撃兵に射殺され、あっけにとられるキッド。ヤンセン氏の家から飛び出してきた息子のテオを保護したキッドは、ヤンセン夫妻が地下室で自殺しているのを発見し困惑する。射殺された丸坊主の民間人が女性であったことから、エドは彼女がヤンセン氏の長女でドイツ軍への密告者であったと推理する。ヤンセン夫妻は彼女を匿った贖罪として自殺し、長女も狙撃されるために故意に道へ飛び出したというわけである。残された次女のロッテと、その弟のテオは、密告者の子供ということで町では誰も面倒を見てくれないことから、これからイギリスへ帰る予定の連合軍の輸送機の女性副操縦士テレーズ・ジャクスンに2人を託すキッドであった。 第4章…キッド達は、冬のベルギーで5日間も自分たちで掘ったタコツボに2人ずつ入って敵と睨み合っていた。入隊時からキッドやエドと共に戦ってきたディエゴ・オルテガは、夜中に「ざく、ざく」という銃剣を刺す音が聞こえると訴える。彼が、戦争神経症と診断され以前の陽気さを失っていたことを知らなかったキッドは、彼の幽霊話を笑い話にしようとするが、彼に殴りかかられ、その後彼はタコツボから出てこなくなる。そして、続けて3人の兵士が次々に後ろからナイフで刺されて戦線離脱を余儀なくされるという事件が起こるが、敵が潜んでいる様子はない。この謎をまたしてもエドが解き明かす。前線から帰国し二度と復帰しなくてもいいように死なない程度に味方同士で傷つけ合っている兵がおり、その彼らがドイツ兵の死体を使って夜中にナイフで刺す練習をしている音をディエゴが聞いたというのが、幽霊事件の真相だったのだ。しかし、真相をディエゴに伝えようとした時、ドイツ軍の爆撃に遭い、仲間を助けようとしたエドは死亡。キッドは半月以上たってから病院で意識を取り戻す。
第5章…戦線に復帰したキッドは、ドイツ軍の捕虜施設から逃げてきた従軍牧師と会話するダンヒルを見ていて、彼の秘密に気が付いてしまう。ダンヒルは連合軍の野戦病院で治療を受けていたドイツ兵で、瀕死のアメリカ兵と軍服を交換してアメリカ兵になりすました後に、フランスの民家で負傷兵として匿われていたのだ。ドイツ軍のスパイではないかと追及するキッドであったが、ダンヒルことゾマーの、ドイツに残してきた妻子を心配する様子に心動かされ、憲兵隊に捕まりそうになった彼をかばおうとするが、鎮静剤を打たれて地下室に閉じ込められてしまう。しかし彼は、見張りの兵を手なづけて部隊の仲間を集め、下剤を使った偽の集団食中毒を捕虜収容所で発生させ、ゾマーに衛生兵の恰好をさせて逃亡させるという作戦を成功させる。
いずれの話も、戦場で発生した謎をエドが探偵役として解明するという展開で、最後はエドを失った主人公のキッドが自力で謎を解くというものなのだが、第1章、第2章のミステリー度があまりに低くて、読者がミステリー小説として受け止められない。ミステリー路線で行かないのならば、第1章など、もっと「ちょっとイイ話」にできる内容なのに、そっち方面へ持って行くことも十分にできず、前述したように非常に中途半端な印象を残す話になっている。第3章以降、やっとミステリー路線が明確になるが既に手遅れ。戦争描写も今一つで、一番本作の「売り」のはずの「コック」という設定も十分に生かし切れていない。そこそこ料理シーンはあるものの期待値を完全に下回っており、最後のゾマー救出作戦を無理なく描くために(この作戦も相当無理があるが)作った設定なのかと疑ってしまうほどである。直木賞や大藪春彦賞の候補になったものの受賞できなかった理由は、この全てにおいての中途半端さが大きいのではないかと思う。エピローグで、キッドがテオとロッテを預けた副操縦士と結婚し、この2人の子供を養子にしたという話もあまりにできすぎ。 |
『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎/中央公論新社)★★ もちろんミステリー小説ではなく、言わずと知れた日本を代表する文豪・谷崎潤一郎が、日本独特の美意識について著した随筆である。初出は1933年(昭和8年)。あまり読まないジャンルの名著に手を伸ばしてみようと、なんとなく借りてみたが、このタイトル以外に考えられないくらいピッタリな内容。建築のみならず、料理やそれを盛る器、さらにはトイレにまで話題を広げて、日本の陰翳を良しとする美意識について美しい文体で語られている。トイレの便器を木製にしたかったという部分には同意できないが、多くの部分に共感を覚え、日本人に生まれて良かったと思わせてくれる作品。 この中央公論新社の文庫版には、「懶惰の説」「恋愛および色情」「客ぎらい」「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」といった随想も一緒に収められており、「懶惰の説」では、あくせく生き急ぐ現代人に疑問を呈している。「恋愛および色情」では、「陰翳礼讃」の内容にも通じる日本女性の美について述べており、「客ぎらい」では歳を経るごとに付き合いは広がっていくのに、逆に煩わしさが増えていくことがどんどん嫌になっていく作者の心情が面白い。「旅のいろいろ」では大阪人のマナーの悪さや日本旅館の不便があるが故の良さについて語っているところが興味深かった。(本作では語られていないが、個人的に日本旅館の共用スリッパが自分は大嫌いである。部屋に備え付けで、大浴場にも履いていくアレである。せっかくお風呂できれいになっても、誰が履いてきたか分からないスリッパを履いて部屋に帰らないと行けないのが許せないのだ。あとで分かるように入浴前に隅に寄せておいても誰かが勝手に履いていったり、旅館の人が余計なお世話で並べ直したりする。かなりの高級な旅館でもこのシステムは変わらない。たまに部屋ごとの印の付いたスリッパを用意している旅館や、大浴場の下駄箱に紫外線のライトを備え付けて殺菌をアピールしているところもあるが、菌は殺せても汗や汚れは消えまい。ホテルの使い捨ての室内限定スリッパのように、旅館でもマイスリッパを絶対用意すべきだと私は思う。)「厠のいろいろ」では、どれだけトイレが好きなんだというくらい「陰翳礼讃」に続くトイレの話を熱く語っていて、これまた面白い。 若い人には退屈な内容も多いかも知れないが、『徒然草』が今だに読み継がれているように、現代人にも納得のいく意見が美しくも簡易な文章で書かれていて、興味のある人にはおすすめである。文章量も少ないのですぐに読める。 |
『人間失格』(太宰治/集英社)★ 前回に引き続きミステリーを離れて「名著」と呼ばれるものを読んでみた。だいたいの話の内容は知っていたので、今まであえて読むことはなかったが、読み始めてまず思ったのは、思っていたより読みやすいということ。今だに夏目漱石の『こころ』と累計部数を争っているというのも頷ける。ただし、読み終えた読者が共感を覚えるのはどちらだろうか。正直なところ、どちらの主人公にも完全には共感できまい。おそらくほとんどの読者は、「不朽の名作」というものがどんなものか読んでみようと思って手にしているだけではないか。『こころ』や『人間失格』が自分の愛読書で、何度も繰り返し読んでいるというような読者などそうはおるまい。現代の若者には、悩んだ末に「自殺」という結論を導き出すどちらの主人公に対しても、「深く悩みすぎだろう」という程度にしか思えないだろう。 『こころ』に関しては、親友を騙して親友が想いを寄せる女性を妻にしたこと、そのことによって親友を自殺に追い込んだことを悩んで死を選ぶわけだが、芸能人の不倫のニュースが毎日のように飛び交い、身近でも恋人の奪い合いが日常茶飯事の現代では、たいした刺激でもあるまい。 本作『人間失格』も、冒頭部分は結構共感を覚え、引き込まれる部分はある。経済的に裕福な環境に育ちながら、他人を欺き生きている周囲の人間や自分自身に気付き、人付き合いに悩み苦しむ主人公。そういった人間関係についての悩みは多かれ少なかれ誰にでも経験のあるものだ。引き籠もりなどは、当時よりむしろ現代の方が多いかもしれない。しかし、中盤から酒に溺れ、女に溺れ、自堕落な生活にどんどん落ちていき、自殺未遂を繰り返して、最後はモルヒネ中毒になって脳病院に送られた挙げ句、27歳の若さで老女中と共に故郷から離れた田舎の古い家に追いやられて廃人として生きる主人公から何が学べるというのか。人間こうはなりたくないという反面教師にしかならないのではないか。中盤以降は、ただただ主人公の駄目人間ぶりに嫌悪感しか抱かなかった。 著者やその作品群については、膨大な研究分析や批評がこれまでに行われており、その中で、この作品にはもっと深い意味も見出されているのだろうが、それらにも興味を感じない。著者の娘で作家の太田治子の鑑賞文が巻末に掲載されていたが、彼女は父の作品を繰り返し読み、シズ子とシゲ子の母子が白兎と戯れ、それをのぞき込み彼女らの幸福を祈る主人公に、父の父性を感じ涙したと言う。しかし、自分からすれば、そこで改心するどころか逃げ出した主人公にはむしろ怒りしか覚えない。 就職したての頃に、日本文学全集的なものを購入し片っ端から読んでみた時期もあったが、どうにも退屈でしょうがなかった。『こころ』と並んで多くの人に愛されていると言われる『坊っちゃん』を最後に、あまりの苦痛に読むのをやめた記憶がある。過去の名作と呼ばれるものを全否定するつもりはないが、強くおすすめすることはできない。 |
2016年6月読了作品の感想
『羊と鋼の森』(宮下奈都/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★★
「このミス」2016年版(2015年作品)3位作品の柚月裕子『孤狼の血』を読んだ時に、第154回(2015年下半期)直木賞候補作品であることを記したが、「このミス」2016年版(2015年作品)2位作品の深緑野分『戦場のコックたち』、そして今回読了した「2016年本屋大賞」大賞受賞作も同時に直木賞候補作品になっていたことを最近知った。最終的に直木賞を受賞した青山文平の『つまをめとらば』と、もうひとつの候補作だった梶よう子の『ヨイ豊』は未読だが、『孤狼の血』、『戦場のコックたち』、『羊と鋼の森』の3作品の中では、今回の『羊と鋼の森』が圧倒的に気に入った。『孤狼の血』がこってりした野性味溢れる肉料理、『戦場のコックたち』が様々な趣向を凝らしたコース料理だとすると、3作品の中ではもっとも薄味であっさりした作品かも知れないが、超一流の料理人が作った極上のダシを使った京料理のようだ(食べたことはないが…)。 高校生だった外村は、ふとした偶然で担任からピアノの調律師の板鳥をピアノのある体育館まで案内することを頼まれる。なんとなく調律作業に立ち会った外村は、それまで何の夢も持っていなかったが、板鳥の作り出す音に感動し、これこそが自分の求めていたものであることに気付き弟子入りを申し出る。板鳥に紹介された専門学校で2年間学んだ外村は、板鳥の推薦もあって彼の勤める江藤楽器に就職。想像を超えた神業のような技術を持つ板鳥、結婚間近で面倒見の良い柳、口は悪いが仕事は一流の元ピアニストの秋野という3人のベテラン調律師に囲まれ、様々な客を相手にしていく中で、外村は悩み苦しみながらも調律師として着実に成長していく。 そんな中で彼は、双子の女子高校生、和音と由仁に出会う。 自由で華やかな演奏をする由仁よりも、静かでありながらツヤがあって美しい和音の演奏に惹かれる外村。ある日、由仁がピアノを弾けなくなり、和音も弾かなくなってしまったことに外村は落ち込む。しかし、やがて和音は立ち直ってプロのピアニストを目指すことを決意し、由仁は和音のために調律師を目指すことを宣言する。外村は喜ぶと共に、自分が和音の調律師になりたかったのにと複雑な想いを抱く。 柳の結婚が決まり、その披露宴会場でのピアノ演奏に柳は和音を指名する。そしてその調律をまかされた外村は和音のサポートに全力を注ぐ。和音の曲が流れる披露宴会場で、「外村くんみたいな人が、根気よく、一歩一歩、羊と鋼の森を歩き続けられる人なのかもしれない」と語る社長に、鷹揚に頷く板鳥。外村は自分の選んだ道が間違っていなかったことを確信するのであった。 |
2016年7月読了作品の感想
『さよならの手口』(若竹七海/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)4位作品。筆者・若竹七海(わかたけななみ)氏は、1963年生まれの女性作家でミステリ以外にも多数の作品を描かれておられるのだが、恥ずかしながら余り存じていなかった。過去の「このミス」を調べてみると、『ぼくのミステリな日常』で1992年版6位、『依頼人は死んだ』で2001年版16位となっているが、残念ながら2作共に未読。本作は1996年にスタートした葉村晶シリーズの第4弾にあたり(前述の『依頼人は死んだ』はシリーズ第2弾)、第3弾まではハードカバー本刊行の2、3年後に文庫化されていたが、本作は今時の流行か、いきなり文庫で刊行された。ちなみに、本作が売れたせいか2016年8月に早くも第5弾『静かな炎天』が刊行されており、来年度の「このミス」に顔を出すのかもしれない。あらすじは以下の通り。
主人公の葉村晶(はむらあきら)は、数名の女性とシェアハウスに住んでいる、男に縁のない40代の女性探偵という、なかなか珍しい設定の人物である。大学卒業後フリーターで食いつなぎ、30歳以降の10数年間は長谷川探偵調査所と契約するフリーの優秀な調査員だったが、その調査所の店じまいにあわせて、出版社を定年退職した富山泰之が立ち上げたミステリ専門書店「マーダーベアーブックショップ」のバイト店員となる。ある日、富山からの依頼で、遺品整理人の真島進士が担当している、山田一郎という人物が住んでいた貸家に本の引き取りに向かうことになる。そこで押し入れの中の本をチェック中に押し入れの床が抜け、葉村は全身打撲に加え、肋骨2本にヒビが入るという怪我を負う。しかも、押し入れの床下から白骨死体が発見されるというオマケ付きだ。その家の大家の古浜永子の亭主・啓造が大昔に失踪していたと聞いていたので、その人物の骨かと思われたが、見つかった白骨は女性のもの。葉村は、古浜が白骨死体の存在を知っていて遺品整理人に仕事を依頼したのではと考えていることを調布東警察署の渋沢漣治に見抜かれる。啓造の失踪にこだわる渋沢に、葉村は女性ホルモンの話を引き合いに出し、「じいさんよりばあさんのほうが男らしい」と告げるが、その後、事件の衝撃の真相が判明する。死亡していたのは古浜永子であり、現在の大家の古浜永子だと思われていた人物が、実は古浜啓造だったのだ。古浜永子が男だと気付いていた葉村に渋沢は興味を持つ。 『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズのヒット以来、古書店を舞台にした話が増えたような気がするのだが、著者の名誉のために断っておくと、主人公の葉村が古書店に勤めるのは今回が初めてではないらしい。古書店ネタが好きな自分としては導入は確かに面白そうで引き込まれる。ただし、最初の白骨事件のところで葉村が渋沢に語る例え話がいきなり分かりにくい。「ばあさんよりじいさんのほうが女らしい」という話をするのなら分かるが、その反対の言い方で真相を臭わすというのは、いくらなんでも遠まわしすぎではないのか。 さて、本作のメインとなる大女優の娘失踪事件の方であるが、冒頭の白骨事件同様に葉村視点の自虐に満ちたユニークな文体は実に面白い。しかし、残念なことに事件の内容自体が余りにも面白くない。テレビの2時間サスペンスドラマを見ているようなただのドロドロ話。期待していた警察官の渋沢と当麻、古書店主の富山も登場機会が少なすぎてキャラが立ち切れていないし、それ以外の登場人物には全く魅力的な人物が見当たらない。主人公を散々苦しめながら、最後に逮捕されるだけで何の天誅も下らない倉嶋舞美など見ていて不愉快なだけ(逮捕直前に大怪我はするが)。彼女にたぶらかされたシェアハウスの住人達が主人公に謝らないのも気分が悪い。とにかく爽快な部分がなく読んでいて気が滅入るだけなのだ。犯罪小説に爽快感を求めるのはおかしいという人もいるかもしれないが、主人公はどう見てもコメディ路線だろう。最後に主人公の捜査は結局不法行為ではなかったという、ちょっと明るいオチが付くが、それだけではあんまりだ。不幸で不運な女探偵が主人公の物語がウリなのかもしれないが、それは笑いを取るための設定なのだろうから、ここまで救いのない話にされてしまうと不満を持つ読者も多いのでは。ベタかもしれないが、男っ気のない主人公に束の間のロマンスをといった演出があってもいいと思うのだが(過去のシリーズで使ってしまったネタなのかもしれないが「男はつらいよ」的な展開もありでは)? |
『ミステリー・アリーナ』(深水黎一郎/原書房)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)6位作品。サークル仲間が悪天候の山荘に閉じ込められて…ってどんだけ古典なのよと思ったら、なんと犯人当てのテレビ番組を題材にした斬新な設定の作品。6月上旬に図書館で見つけてちょい読みした後、長い間続きを読む機会に恵まれず、7月上旬にやっと借りることができ、一気に読破。 【問題】毎年行われているミス研OBの年次会に参加するため、鞠子の所有する4階建ての別荘に大雨の中やってきた「俺」に大きなバスタオルを差し出す「気配りのヒデ」。鞠子に相談事があった沙耶加は前日の夜から来ており、バイク狂の文太は本降りになる前の午前中に着いたためほとんど雨には濡れなかったらしい。それ以外のメンバーは丸茂を除き電車とタクシーを乗り継いで到着しているとのことだが、丸茂の用事とやらが本当に仕事かどうかを「俺」は疑っている。「俺」がラウンジに顔を出すと、そこには文太と「俺」が話をしたかった沙耶加、そして恭子の3人がおり、鞠子とたまはいなかった。「俺」の1時間の仮眠後、丸茂の黒塗りのボルボが屋敷に到着する。丸茂の話によれば、屋敷に来る途中の白髯橋が渡っている最中に冠水し、その後崩壊したことで完全通行止めになったらしい。そんな中、恭子とアキがバーゲンの話で盛り上がっているのをよそに、「俺」は鞠子のいる4階に向かい、部屋の床の上で血まみれになっている彼女を発見する。 【スタジオ】問題の物語が第2章まで語られたところで、第10回を迎える国民的娯楽番組「推理闘技場(ミステリー・アリーナ)」のスタジオに場面が切り替わる。総合司会の樺山桃太郎とアシスタントのモンテレオーネ怜華が登場し、早くも解答ボタンを押した解答者の一ノ瀬が紹介される。彼は、プロのミステリー読みを自称し、自信満々に犯人が「俺」であり、彼が二重人格者であると断定して、邪道なトリックであると批判する。ちなみに正解者への賞金は、早い者勝ちでなんと20億円。正解かどうかは保留のまま、一ノ瀬は解答済みブースへ移動させられ、場面は再び問題へ戻る。 【問題】「俺」の名前が平(たいら)三郎であること、鞠子がナイフで刺殺されたことが明らかになる。三郎に死体に触るなと言っておきながら、堂々と鞠子の脈を調べる丸茂に不満を訴える三郎に対し、丸茂は至極当然といった表情を浮かべ、「どう考えてもこの俺様が探偵役をつとめるのが自然な流れだろう」と宣言する。 【スタジオ】ここで2人目の解答者が名乗りを上げる。最年少解答者の少女・二谷は、犯人は丸茂であると解答。性別誤認トリックが用いられていることを指摘する。丸茂だけ苗字で呼ばれている不自然さから、丸茂は男勝りの口のきき方をする女性であり、恭子とバーゲンの話で盛り上がっていた「アキ」こそが、丸茂の下の名前だと推理。しかも、 1人時間差トリックも用いられており、事前に屋敷を訪れて鞠子殺しを行った丸茂は、白髯橋が通行止めになった時刻が明らかになった時点で嘘がばれる展開になると予言する。しかも彼女の職業がレースクイーンであることまで。 【問題】物語が突然丸茂視点に代わり、丸茂がレースクイーンではなく商事会社勤務であることが明らかに。丸茂は、鞠子の体温から、ここに着いたばかりの自分は論理的に犯人ではあり得ないから自分が探偵役にふさわしいのだと説明し、三郎への疑念を表明する。 【スタジオ】3人目の解答者、銀縁眼鏡の三澤は、1人時間差トリックの無理を指摘し、丸茂犯人説を否定する。また、国民的人気番組が安易な多重人格トリックなどを使うはずがないと三郎犯人説も否定し、三郎が死体を見つけた場面にあった「手を動かし」という記述が、沙耶加の犯行と気が付いた三郎の証拠隠滅の描写であると推理して、沙耶加犯人説を唱えたのだ。 【問題】今度は沙耶加視点に代わり、ヒデの表記が英に変化。三郎が上の階に上がって自分たちを呼ぶまで不自然な間があったことを丸茂は指摘し、三郎は納得の行く説明ができないでいる。沙耶加も、丸茂同様に三郎を疑い始めていた。 【スタジオ】物語の視点が沙耶加に代わったことで、三澤の沙耶加犯人説が一瞬で崩れ去ったと思われたが、4番目の解答者、小太りの四日市は二重人格者沙耶加犯人説を主張。プロデューサーから指摘した犯人が同じでも結論に至る道筋が異なることから、三澤とは別解答扱いになると判定された四日市は大喜び。しかしスタジオでは、何者かが命を狙われるような行動を起こそうとしていた。 【問題】再び三郎視点に戻る物語。鞠子の体温が下がっていたことから自分がついさっき殺したわけはないと反論する三郎に対し、丸茂は、三郎があらかじめ鞠子を殺しており、第一発見者となるべく鞠子の部屋に再び入った時、自分の犯行が明らかとなるような、例えば鞠子のダイイングメッセージのようなものを見つけ、それを隠滅するためにみんなを呼ぶのに不自然な間ができたのではないかと三郎を責める。さらにとうに終わっていることなのに、鞠子にふられた腹いせに殺したのではないかと問い詰められ呆れてしまうが、興奮を鎮めようとする三郎は、鞠子の指の爪の間に沙耶加が愛用している口紅の破片が挟まっているのを発見し動揺する。三郎は沙耶加を疑っていたのだ。そこで沙耶加から三郎を最近ふったのは私だという言葉が飛び出し、突然泣き出したことで、三郎は、やはり沙耶加が犯人だったのかと慌てる。 【スタジオ】5人目の解答者、ガテン系の五所川原は8つの根拠を示し、ヒデこそ犯人であり、謎の女性アキの正体であると主張。本名は英アキコみたいな名前で、三郎が「手を動かした」という描写は、三郎が鞠子の脈をはかったのを思わせぶりに描いただけであると解説する。 【問題】沙耶加が自分をかばってくれていると勘違いしている三郎に呆れる丸茂。沙耶加の発言によって三郎の嫌疑が晴れたわけでもないのに。丸茂は証拠隠滅の疑いのある三郎の身体検査を要求するが、三郎は素直にそれを受け入れるのであった。 【スタジオ】6人目の解答者、虫ピンのように細長い男、六畝割は、管理人の爺さん=ヒデこそ犯人であると答える。三郎がボトムの替えを借りようとしなかったことなどからヒデは女性ではないという主張を含め、9つの根拠を示して、労使関係のもつれでヒデが鞠子を殺害したのではと推理する。 【問題】またしても沙耶加の視点となって語られる物語。三郎は鞠子を殺していないという女の勘で、思わず三郎の嫌疑を晴らすような発言をしてしまったが、男と女のプライドについて考えることに面倒臭くなった沙耶加はもう何も言うまいと心に決める。そしてあまりに不憫な鞠子に同情し、涙が止まらなくなるのであった。 【スタジオ】四日市の多重人格者沙耶加犯人説が風前の灯火であることを笑う樺山を前に、浅黒い顔をした7人目の解答者、七尾が六畝割のヒデ=使用人説のおかしさについて語り始める。彼は、運転免許がなくて交通の便が悪い別荘の管理人などできるはずがなく、しかも使用人が犯人では面白くないと主張した後、たま犯人説を唱える。たまは猫と思わせておいて実は人間で、しかもバレリーナであると断言。ちなみに彼には19億8000万円の借金があり、今回の賞金が手に入っても2000万円しか残らないことも明らかになる。 【問題】実は三郎は鞠子の残したダイイングメッセージを発見していた。「S」というその血文字は明らかに沙耶加を示すものと思われた。彼は雑巾できれいに拭き取り、洗って絞って放置したその雑巾は後で処分するつもりだった。「ちょっと手を動かして」というのは、この行為を示していたのだ。皆がラウンジに移動した後、白い猫が現れ、ヒデが出したミルクを舐め始めた。そして1人の女が、猫をなでながら鞠子と最後に話したのは自分だと呟く。 【スタジオ】三郎犯人説も沙耶加多重人格者説も否定され、共倒れの様相を呈してきたことに嬉しさを隠せない樺山。さらに、たまがただの猫であったことも明らかになったことで七尾に対する暴言を吐く樺山をたしなめる怜華。 【問題】ヒデが夕方の4時から階段の2階と3階の間にワックスをかけており、そこには足跡が残っていなかったという新事実が示される。つまり2階からの螺旋階段からしか鞠子の部屋へは行けず、その姿を目撃されたのは三郎だけであった。そしてヒデがこの屋敷の使用人であり、買い物はネットスーパーの宅配に頼ることで車の免許がなくても仕事に支障がないことが明らかになる。 【スタジオ】ヒデ犯人説の五所川原と六畝割の推理が外れたことに大喜びの樺山に対し、解答席のサングラスの男が、謎の途中追加にクレームを付ける。しかし樺山は、自分はどこで新事実が出るか分からないと必死で止めたと涼しい顔をし、文句のある者に対しては司会者の権限で解答権を剥奪することもできると脅す。 【問題】白髯橋の崩壊の時間を丸茂に問い詰める恭子に疑問を抱く三郎。彼女は何かにつけて丸茂の肩を持つ丸茂シンパだったはず…。結局崩壊時間は5時10分くらいだったという結論に落ち着く。さらに100%アリバイのあった者は誰もいないことが明らかに。恭子はナイフを抜いてあげないのかと死体を調べることに妙に積極的で、丸茂は犯人の指紋を消してしまう恐れがあると、逆に消極的であった。鞠子の家族に連絡をするために、鞠子の部屋に携帯電話を探しに行こうとする丸茂は三郎を誘うが、のけ者にされたことに不満を訴えた文太も一緒に行くことになる。 【スタジオ】丸茂犯人説をやたらとアピールする樺山であったが、8人目の解答者、錦糸町の元ナンバーワンホステスの八反果が鞠子犯人説を唱える。なぜ被害者の鞠子が犯人になるのか戸惑う樺山に、八反果は、殺された鞠子は苗字が鞠子という男性であり、加害者の鞠子は謎の女性として何回か登場しているアキ、つまり秋山鞠子とか秋吉鞠子とかいう名の女性であると大胆な主張を展開。ワックスに足跡がなかったの犯行時刻の偽装であり、犯行はワックスをかける前に終わっており、ダイイングメッセージは女性の鞠子が残した偽の手がかりであると説明する。 【問題】鞠子の部屋で文太が発見した携帯電話にはロックがかかっており、一応持って下りようという丸茂の提案で文太はライダースーツの胸ポケットにしまう。ラウンジに戻る途中で三郎と一緒にトイレに寄った丸茂は、鞠子の爪の中の口紅片に気付いており、三郎が犯人ではないことは分かっていると告げる。 【スタジオ】丸茂のフルネームが丸茂大介であることが明らかになり、二谷の丸茂女性説のハズレが確定したところで、9人目の解答者、サングラスの男の九鬼が、文太犯人説を唱える。文太は元暴走族のヘッド、鞠子は元レディースで、2人は族仲間だったという大胆な主張に樺山は呆れるが、ダイイングメッセージが「S」ではなく積分の記号であり、関文太の渾名を示しているという九鬼の説には感心する。しかし、どうやって誰にも見られずに白い螺旋階段を上ったのかという謎については、白いライダースーツに、白いマスク、はみ出る部分はドーランか何かで白く塗って保護色としたという九鬼の説明に対し、「バカミスっぽい解答」と一蹴して解答済みブースへ厄介払いするのであった。 【問題】女性陣にも鞠子の携帯電話のパスワードに心当たりはなく、鞠子と別れた後、沙耶加にアプローチをかけていたことを皆に知られた三郎は丸茂にからかわれ、「俺は常に真剣なんだよ!」と言い返す。 【スタジオ】10人目の解答者、最年長の十和田は、本格ミステリーのコードを逸脱しているとクレームを付ける。犯人がわざと読者の目に映らないように描写されているところがあざといと言うのだ。タクシー代の描写から、駅からタクシーに乗ったのは、ヒデと恭子とたまの他にもう1人いるはずと推理。途中に登場した「英」はヒデと別人の「英(はなぶさ)アキ」という女性であり、彼女こそ犯人であると解答するが、たまは七尾の言うとおり人間のバレリーナであるという主張に樺山は脱力する。 【問題】不自然なワックスがけが鞠子の指示であったことに丸茂は疑問を感じ、椅子に深く座り直し考え込んでいる時、ラウンジのガラス扉が開き、1人の女が入り口に立っていた。気分が悪くてずっと部屋で休んでいたという秋山鞠子の登場である。 【スタジオ】十和田の唱えた英アキではなく、八反果の唱えた秋山鞠子の登場に樺山は興奮する。しかし、八反果の推理とは細かい点で異なっているという弱点を指摘。そして、解答席の解答者に対し、ギブアップの場合は他の人の答えに乗っかってもいいと言った後、正解だった場合は賞金は得られなくとも「執行は免除される」という、意味深な発言をする。 【問題】丸茂は秋山鞠子のアリバイを聞き出そうとするが、彼女の主張に矛盾がなくても彼女を容疑者から外そうとはしなかった。 【スタジオ】11人目の解答者、20代後半の精悍な女性、十一月(しもつき)雪菜は、不自然な登場をした秋山鞠子はダミーだと主張し、並木こそ犯人だと指摘する。第1章で三郎が見ていた「並木」は植物ではなく、そういう名前の人間だったのだというのだ。さらに三郎が並木を見ながら万年筆を触っていたのは、パイロット万年筆の前身が並木製作所であったことから、万年筆マニアの三郎は無意識にそのような行為を行っていたのだというとんでもない根拠を示す。 【問題】翌朝自室で目を覚ました沙耶加はいつの間にか自分の口紅が盗まれていることに気付く。ラウンジに三郎と丸茂がいないことを不思議に思う沙耶加に、文太は、三郎は白髯橋の様子を見に行き、丸茂のことは知らないと答える。そこで恭子が、突然鞠子の死体が消失していたことを語り出す。驚くメンバーの中で、丸茂の様子を見に行った文太は、彼が冷たくなっていたこと、夜中に彼の部屋の前に平三郎が立っていたことを皆に告げる。そこへ帰ってきた三郎は、丸茂が屋敷に現れた時間よりかなり前に橋を渡っていたことを皆に報告する。 【スタジオ】丸茂か三郎のどちらかが嘘をついていることになると指摘する樺山は、おもむろに「臓器くじチャレンジ法」について説明を始める。臓器移植が必要な人を助けるため、一定数の人間をくじで合法的に殺すという「臓器くじ法」という法律が定められたが、色々と問題が発生した。それを解決するための代案が「臓器くじチャレンジ法」であり、今回の番組のように高額の賞金にチャレンジして敗れた者が犠牲になることで、一般の人がくじで殺されることがなくなったというのである。 【問題】文太は三郎に平家の末裔だというのは本当かという話を振る。なぜか2人は戦国武将談義に花を咲かせる。 【スタジオ】12人目の解答者、これといって特徴のない十二月田(しわすだ)健二は、タクシーに同乗していたはずの並木が姿を消しているのに登場人物が誰も話題にしないのは不自然すぎると十一月の説を一蹴。視点人物の3人とヒデを除いた残り全員による犯行であると結論づける。 【問題】文太は丸茂に代わって探偵役を買って出る。そして、皆が口々に言っていた「パスワードはかけてない」という鞠子の言葉から、鞠子の携帯電話のパスワードが「かけてない」であることに気が付く文太。三郎はロックが解除された鞠子の携帯電話の画面を見て、鞠子の背中に刺さっていたナイフの柄にあった紋様をどこで見たのかを思い出したのであった。 【スタジオ】13人目の解答者、野球のホームベースのような顔をした十三十三(とみじゅうぞう)は、丸茂犯人説を唱える。二谷も丸茂犯人説であったが、あちらは丸茂=女性説で、こちらは丸茂=男性説のため別解答とみなされた。丸茂は冷たくなっていたとは書いてあったが死んでいたとは書かれていないことから、彼の死は狂言であり、文太とヒデを騙して協力させているのだと言う。しかも、三郎は両刀使いで、丸茂はゲイだというトンデモ説まで飛び出す。 【問題】再び白髯橋の様子を見に行った三郎が何者かに絞殺されていた。そしてヒデと英が同一人物で、男性に間違いないことも確認される。 【スタジオ】最後の解答者、十四日(とよか)定吉は、鞠子犯人説を唱えた。秋山鞠子ではなく、最初に殺されたと思われた鞠子である。毎年恒例の犯人当ての推理合戦を行うにあたり、今回の出題者となっていた鞠子が、三郎と丸茂を仲間に引き入れて狂言自殺をはかったというものだ。そこへ、とっくの昔に臓器移植の執刀部隊に殺害されていたと思われていた不正解の解答者達がぞろぞろと現れて樺山を驚かす。彼らは、この番組で不正が行われているというタレコミによって送り込まれた警察の特殊法規捜査チームのメンバーだったのである。樺山は3億のギャラで毎年シナリオ制作を担当し、解答者の数より1つ多い正解を用意し、解答者が正解を答えるたびにそれを不正解とするストーリーに分岐させていくという方法で、これまでこの番組で誰も正解者を出してこなかったのであった。今回も真犯人は鞠子の障がいを持った息子の平三郎(へいざぶろう)だったという最後のオチが用意されていた。樺山は関係者全員を道連れに毒ガス自殺をはかろうとするが、モンテレオーネ怜華のとっさの機転によって取り押さえられ、めでたしめでたしとなるのであった。 |
『その可能性はすでに考えた』(井上真偽/講談社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)14位作品。カバーの袖に記された「謎が真に解けないことを証明しようとする探偵が主人公」という著者のコメントにまず「?」。次に現れる「村の概略図」には「教祖」とか「ギロチン台」といった不穏な文字が躍る。さて、どのような物語が展開されているのか? 主人公の上苙丞(うえおろじょう)は、腕利きだが色々と裏に込み入った条を持つ事情を持つ探偵である。殺人もいとわない裏稼業を生業にしているヤオ・フーリンから1億4231万円も借金をしているにもかかわらず、くだらない装置の購入に250万円も費やした彼は、また彼女に借金を申し込み彼女を呆れさせる。フーリンは彼が他からもしている莫大な借金を自分に一本化してやるが、そんな借金まみれの彼が助手を雇おうとしていることを知り、さらには完全歩合制という悪辣な募集をしていることを知って驚きを隠せない。しかもそこに応募者らしき女性が現れたため、彼女は白目をむいた。しかし、現れた女性・渡良瀬莉世(わたらせりぜ)は単なる客、依頼人であった。その依頼とは、自分が殺人を犯したかもしれないので、真相を推理してほしいという奇想天外なものであった。 話によると、莉世は幼い頃に母と共に、ある新興宗教に入信し、山奥の閉鎖された村で暮らしていたが、ある日に起こった地震を世界の終末の予兆だと感じた教祖が拝殿に集めた信者を次々に殺害、彼女も殺されそうになる。危機一髪でドウニという少年が彼女を助け出し、教祖と信者が集まっていた拝殿に外から閂をかけるが、村中が火の海であることに2人は驚く。煙の中で彼女は意識を失うが、村の外れの祠の中で彼女が意識を取り戻した時、彼女はすぐ近くに首の切断されたドウニの遺体を発見する。彼女が警察に発見されたのは2週間後。彼女は事件当日の記憶を失った状態で、ドウニの腐臭を避けるため、橋の下で生き残った家畜を処理しながらかろうじて生きているところを救助された。幼い彼女には動かすことのできない家畜処理用のギロチン台にドウニの血痕が残っていたが、それは祠から遠い場所に設置されていた。彼女とドウニを除いた教祖を含む31名の信者の遺体はすべて拝殿の中で発見されており、ドウニを殺害できたのは彼女以外考えられなかったが、彼女には動機も首を切断する手段もないように思われた。誰がドウニを殺したか、どうやって遺体を凶器と離したか、なぜドウニは殺されたのか。 上苙は、ある理由により「この世には奇蹟が存在する」という妄執に取り憑かれている探偵であった。彼は依頼から3週間後、莉世を前に「あらゆる可能性をすべて否定できれば、それはもう人知を超えた現象である」と述べ、これは「奇蹟」であると断言する。しかし、そこへ上苙の因縁の相手で検察を引退した老人・大門が現れ、上苙を詐欺師であると厳しく責め立てる。大門は3日の時間をくれと言い、上苙に勝負を挑む。 3日後、有名な古刹を対決の場に指定した大門は、上苙、フーリン、莉世を前に、用意してきた推論を述べる。大門は、莉世のドウニ殺害動機を、ドウニが彼女の可愛がっていた子豚を食料にしようとしたせいだと推理。さらに大門は、彼女は川が涸れて回らなくなった鉄製の水車を火であぶり、別の豚をその中で強制的に歩かせて水車を回し、その力でロープを用いてギロチンの刃を移動させたという推理を披露する。フーリンの反論にも完璧に対応する大門に、上苙の敗北は確実と思われた。しかし上苙は、事件当日、水車を回せる豚はすべて信者によって食べられており、1頭も生存していなかったことを証明し、大門はあっさりと負けを認めるのであった。 「君は勝利したわけではない…このままこの不毛な道を突き進み続ければ、確実に君は…」と言いかけた大門を、「余計な情報漏洩はあまり気分が良くないです」と遮る謎の女性が現れフーリンを驚かせる。 その女性リーシーは上苙から報告書を奪い、返してほしくば自分との勝負を受けるように告げて去って行った。 リーシーはフーリンの元仕事仲間で、何とか彼女を連れ戻そうと上苙を水槽に閉じ込め水攻めにして、フーリンに推理勝負を仕掛ける。 リーシーの考えたトレビュシェット(投石機)を使ったトリックを言い当てたフーリンであったが、そこに脱出不可能と思われた水槽を脱出してきた上苙が現れリーシーは驚愕する。彼は超高出力レーザーポインターと超高硬度タクティカルペンを使ってアクリル板に穴を空けたのだった。そんな上苙にすっかり感心したリーシーは、大門の推理以上に残酷な水車トレビュシェットトリック仮説を自信満々に披露するが、上苙は鏡が設置されていた祭壇が事件当時に破壊されていなかったことを証明することでリーシーを見事に敗北させる。 次に現れたのは長軀の大男アレクセイと上苙の元弟子の小学生・八ツ星聯(やつほしれん)。八ツ星は人物入れ替わりトリック説で、毒に倒れた上苙の代わりのフーリンに勝負を挑む。八ツ星は、教団には現実の人間の遺体を御神体としていたという仮説を立て、教祖はその御神体を焼くことで自分の身代わりとし、ドウニの遺体と莉世ともに拝殿を脱出したという推理を披露する。そしてこの教団が大麻を栽培することによって収入を得ている犯罪者集団であったという説得力のある仮説も語られフーリンは負けを認めようとする。しかし、タクティカルペンを太ももに突き刺し覚醒した上苙は、八ツ星の説さえもすでに検討済みで可能性がないことを報告書に記されていることを示し、あたりは静まりかえる。 そこで、莉世が自分は事件の当事者ではなくドウニの妹であることを告白する。そして、莉世、リーシー、大門らの黒幕が明らかに。その名はカヴァリエーレ枢機卿。彼はバチカンの奇蹟認定を行う列聖省の委員の1人であり、彼が、病気を治す奇蹟を起こしていた上苙の母の奇蹟を認定しなかったことで、彼女はペテン師に貶められることになったのだった。復讐を企てた上苙に、枢機卿はまずは奇蹟の存在を証明して見せろと告げる。このことがきっかけで奇蹟の存在証明に没頭するようになった上苙を快く思わない枢機卿がちょっかいを出してきたというのが、今回の推理合戦の真相であった。 そして、兄が死に、代わりに奇蹟を主張して現在幸せな暮らしをしている女を許すことができない莉世は、枢機卿が用意した説を語り出す。大門の仮説の反論では「禊入り」は「最後の晩餐」の後に起こったことになっており、リーシーの仮説の反論では「最後の晩餐」は「配達」の後に起こったことになっており、八ツ星の仮説の反論では「配達」は「禊入り」の後に起こったことになっているという矛盾を指摘したのだ。 再び敗北を覚悟したフーリンであったが、上苙は諦めない。教祖による洞門の爆破は、信者を閉じ込めようとしたものではなく、信者を逃がすために地震でふさがってしまったものを吹き飛ばそうとした可能性を指摘したのだ。集団自殺への参加は自由意思であり、教祖はドウニを殺すつもりはなく、教祖がドウニに「禊入り」の前に食料を渡していたとすれば、「配達」「最後の晩餐」「禊入り」という順序が成立し、時間矛盾は解消する。そしてついに枢機卿は自分の敗北を認め、上苙の母・聖女ルチア・ラブリオーラの列聖式を盛大にやりたいと莉世のスマートフォンを通じて申し入れてくる。 【幕間】「首無し聖人」となったドウニが、ドウニの頭を抱いた少女を運んでいる。急いで死なないでと訴える少女にできるだけ付き合うさと答えるドウニであったが、少女はすでに眠っていた。 無免許医の診療所のベッドの上で、上苙はフーリンに語る。自分こそ敗者なのだと。実は奇蹟を否定する仮説を彼は枢機卿とのやりとりの中で思いついてしまったのであった。「少女に生きる希望を持たせる」という目的でドウニは自分の首を切断することを教祖に依頼したという仮説である。フーリンは、上苙が「人間に奇蹟が不可能なことを証明したい」のではなく、「人間に奇蹟が可能なことを証明したい」のだと思い至る。その祈りは必ずどこかに通じると、そこに救いは存在すると、神はまだ人間を見限ってはいないと。治療費とベッド代は自分の借金に付けておいてくれという上苙に、フーリンは「それくらいは奢ってやるね」と口を滑らせるのであった。
「幕間」を読んだ時には、そんなトンデモ話だったのかと呆れかけたが、きちんと納得できるオチが用意されていて安心した。正直登場人物の複雑な証明合戦には付いていくのがやっとという感じなのだが、前回読了した『ミステリー・アリーナ』に負けないくらい実によく作り込まれている。キャラもしっかり立っているのだが、欲を言えばもっと立たせてもいいのではないかと思う。上苙の変人ぶりとか、フーリンの残虐性とか。おそらく本作では一番の人気キャラであろうフーリンは、最初こそ残虐な悪人ぶりを印象づけているが、それ以降はすっかりただの「いい人」になってしまっているのがツンデレキャラとしては実に惜しい。また、リーシーはフーリンを超える残虐な女性犯罪者という位置づけなのに、インパクトがあるのは最初だけですぐに存在感が薄くなるし、大門も最初の対決相手とはいえ、あまりにもあっさり負けを認めてしまい印象が薄い。 |
『新しい十五匹のネズミのフライ』(島田荘司/新潮社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)18位作品。元ネタはコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズの有名な短編の1つ『赤毛組合』。元ネタとなっている『赤毛組合』の話も丸々第2章に収録されているので、まずそこから紹介しよう。一から話をまとめるのは面倒なので、 第2章のみウィキペディアに掲載されていたあらすじを元に短くまとめてみた。
第2章「赤毛組合」…ある金曜(原作は土曜)の午後、ベーカー街221Bに一緒に住んでいる私立探偵のシャーロック・ホームズと医師のジョン・H・ワトソンのところに、燃えるような赤毛の男性、ジャベズ・ウイルソンが訪ねてきて奇妙な体験について語り出す(原作ではホームズのところにワトソンが訪ねてきた時にホームズがウイルソンの相談に乗っていた)。 プロローグ…本作の冒頭に、プロローグとして質屋の店主ジャベズ・ウイルソンと銀行頭取のメリーウェザーが密談しているシーンがある。トンネルを用いた金貨の強奪は、元々メリーウェザーがウイルソンに持ちかけた計画だったというオリジナルストーリーだ。私が捕まってしまうとなかなか計画に賛同しないウイルソンに向かって、「監獄送りになってもきちんと助けてやる」と言うメリーウェザー。「どうやってです?」と尋ねるウイルソンに、メリーウェザーは「新しい15匹のネズミのフライだ。そいつを食わせてやるよ」と謎の言葉を告げる。そして15箱の金貨のうち3箱盗めば上等で、トンネルはあくまでもホームズを騙すために掘るのだとウイルソンを説得する。
第1章「インドからの帰還、そして出逢い」…そして続く第1章では、ロンドン大学で医学博士号を取得し、軍病院で軍医となる研修を受けたワトソンがホームズと出会うまでが描かれる。インドの戦場で負傷し兵站病院へ送られたワトソンは、サディアス・ショルトーという奇妙なイギリス人と出会う。彼は部下のシーク兵に王族の召使いが隠そうとしている宝石類を奪うことを持ちかけられ、何とか奪うことに成功しアグラの砦の壁に隠したものの、召使い殺しが軍にばれて島流しにされたことを告白し、軍医のワトソンが救護部隊を作って一緒にアグラ砦に掘り出しに行こうと申し出る。ワトソンは曖昧な返事で断るが、翌日からの高熱でサディアスとも顔を合わせることはなくなり、本国に送還されることになる。自暴自棄な生活でホテル暮らしが困難になったワトソンは、偶然出会ったスタンフォードという知り合いから、シャーロック・ホームズという病院の化学実験室で働いている男が同居人を捜しているという話を聞く。そしてヘモグロビンに反応する試薬を作り出したことに大喜びしているホームズに興味を持ったワトソンは、彼との同居を決めるのであった。 第3章「狂った探偵」…赤毛組合の事件が解決してのち2日ほどは平穏な生活が続いたが、ホームズは悪臭が漂う化学実験に没頭するようになり、日に三度の薬物注射の習慣も復活してしまう。そして2日目の深夜、ホームズは家の中で大暴れし、ワトソンとハドソン夫人が取り押さえるも3人とも入院するはめに。最初に退院したハドソン夫人に付き添われベーカー街の下宿に戻ってきたワトソンを待っていたのはピーター・ジョーンズ警部であった。ホームズの名誉を守るため、事の真相とホームズの入院先を曖昧に答えるワトソン。ジョーンズ警部の話から、ワトソンのことを知っているらしいジョン・クレイの相棒ジャック・ジョンソンの正体がサディアス・ショルトーであるとワトソンは気が付く。そして、メリーウェザーから15箱の金貨のうち3箱の中身が石ころとすり替えられていたと報告があったこと、しかしジョン・クレイ、ダンカン・ロス、サディアス・ショルトーの悪党3人は捕まっているのだからいつでも金貨の隠し場所を聞き出せること、サディアス・ショルトーが「新しい15匹のネズミのフライ」という謎の言葉をつぶやいたことをジョーンズ警部から聞かされるが、謎の言葉の意味は、ワトソンにもさっぱり分からなかった。
第4章「這う人」…「スイフト・マガジン」編集者のサミュエル・ディッシャーから原稿の催促を厳しく迫られたワトソンは、やむなく暴れ狂うホームズをモチーフにした「這う人」という小説を書き上げる。しかし、若返りのためにコノハ猿の血清を注射し極端に前かがみの猿ふうの歩行をするようになった老教授の異変に気が付いた娘の婚約者がホームズを訪ねてくるというストーリーのこの作品をディッシャーは酷評し、ワトソンは深く落ち込む。
第5章「愛する人のために」…ヴァイオレットとその父親からの手紙で、ヴァイオレットがアンソニー・バウチャーという資産家と交際を始めたこと、そしてその人物が奴隷虐待の嗜好を持っていること、しかも彼には犯罪者の仲間が複数いることを知ったワトソンは、バウチャーと接触しているその犯罪者集団に、サディアス・ショルトー、ダンカン・ロス、ジョン・クレイの影を感じ取り、ヴァイオレットの実家のあるダートムアに向かう。そこでヴァイオレットと共に彼女の両親も攫われたことを知ったワトソンは、バウチャーの屋敷へ駆けつけるが、そこではジョン・クレイとヴァイオレットの父との銃による決闘が行われていた。ワトソンは、誰にも気が付かれずに劣勢なヴァイオレットの父に加勢し、ジョン・クレイを倒す。
第6章「プリンスタウン」…再びプリンスタウンの刑務所に収監されることになったサディアス。しかし、そこを脱獄する方法を知っている彼を収監することに納得の行かないワトソン。そこへ、ホームズがプリンスタウンにやって来るという知らせが飛び込みワトソンは仰天する。 「エピローグ」…ベーカー街へ戻ってきたワトソンとホームズであったが、そこにはワトソンの新作原稿を催促すべくディッシャーが待ち構えていた。ホームズの幻覚、妄想をモチーフにした『まだらの紐』を強引に書き上げたワトソンであったが、それがまさかの大ヒットで、ワトソンは困惑する。さらにそこにヴァイオレットからの衝撃的な手紙が届く。自分の娘が死んだ夫の弟と再婚を望んでいることを、彼女の母が命を絶とうとするほど毛嫌いしていることを知ったヴァイオレットは修道院に入ることにしたという、ワトソンに別れを告げる手紙であった。放心したワトソンは手紙に火を付け、命懸けの成果が灰になっていくのを空しく見つめるのだった。 第2章までは親しみのある内容でもあり、すらすら楽しく読めるのであるが第3章はさすがにいただけない。いきなり深夜に発狂するホームズ。それを取り押さえようと悪戦苦闘するワトソン。この延々と続くワトソンとホームズの格闘シーンが何の面白みもなく、ただただくだらない。第4章のワトソンの新作ストーリーもしかり (これは意図的に駄作として描かれているのではあるが)。第5章のワトソンによるヴァイオレットの救出劇もあまりにベタすぎで、そのしつこいほどの繰り返しに閉口。第6章では、そこまでホームズを貶めていいのかと読んでいて苦痛さえ感じたが、何とか最後にはホームズらしいオチで事件は無事解決し一安心。しかし、ラストまでさんざん引っぱった本編の一番の謎の言葉「新しい15匹のネズミのフライ(New 15 Fried Rats)」の意味が「NorthEast Wall 15 from the Right」だったというのは、あまりにも無理がありすぎではないか。アグラの砦の宝物の話も中途半端で終わってしまった。結局、本編に散りばめられたホームズの失態の数々は、すべてワトソンの作品のネタにするために配置されたものであり、ホームズシリーズの代表作の1つ『まだらの紐』の誕生エピソードとして面白く読める人もいるではあろうが、それにしてもホームズの扱いが酷すぎ。ホームズシリーズを全く知らない人には結構苦痛な作品に思われるし、本来著者が狙ったはずのホームズシリーズファンにしても、ニヤリとするより眉をひそめる回数の方がはるかに多い作品ではなかろうか。あとがきとあわせて読むと著者の狙いはよく分かるが、ホームズシリーズに泥を塗ったとまでは言わないまでも、絶賛できる内容とは言えない。 |
『神の値段』(一色さゆり/宝島社)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス大賞」2015年(第14回)大賞受賞作品。久々の美術ミステリーの登場である。
現代美術家の川田無名は、墨を用いたアートで絶大な人気を誇っているが、メディアはもちろん美術関係者の前にすら姿を見せず、すでに死んでいるのではないかと噂されるほどの謎の人物であった。唯一、ギャラリーを経営する永井唯子を通じて少ないながらも作品を発表し続けており、唯子のギャラリーは無名の作品のみを扱っていた。ゲイでもある新人の松井と共に唯子のギャラリーにアシスタントとして3年間勤めていた田中佐和子は、薄給とハードワークに苦しみながらも威圧的な唯子には強く訴えることができないでいた。そんなある日、ギャラリーに無名が1959年に制作した大作が届く。ニューヨークで無名が旋風を巻き起こす前年の作品で、十数年前のオークションでは同じような条件の作品が6億円で落札されたこともあり、無名がメジャーになった今ならこの作品はその何倍もの価格が付く可能性があった。その作品に興味津々の佐和子と松井であったが、唯子はこの作品がここにあることは一切口外しないようきつく2人に命じる。
本作品は、「このミス大賞」に」応募された時は突っ込みどころ満載だったらしい。巻末の選評を読むと、なるほど、無名のDNA試料が見つからないというくだりや、金谷の単独での登場シーンなどは後から付け足したのだろうという印象を受ける。しかし、それらの修正が十分に入っているおかげで、世に出た本作は美術ミステリーとして高い完成度を誇っていると思う。大好きな原田マハの『楽園のカンヴァス』ほどの圧倒的な密度には及ばないが、『ダヴィンチ・コード』や『写楽 閉じた国の幻』などの過去話題になった美術ミステリーに負けない魅力がある。個人的には、本筋からはずれるが、アートフェアのシーンで佐和子が苦労して作品達を絶妙な配置に収めたことで、その作品達が発光して見えたというシーンが特に印象的であった。今の仕事に疑問を抱きながらも唯子のために懸命に働く佐和子はもちろん、序盤で圧倒的な存在感を示す唯子、ミステリアスな謎の芸術家の無名、野心を抱きながらも表面上は誠実で紳士的な佐伯などのキャラ作りは見事。丸橋、金谷、真里子、唐木田などはもう少し出番があっても良かったのではと惜しまれる。 |
『片桐大三郎とXYZの悲劇』(倉知淳/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)7位作品。 冬の章…主人公、野々瀬乃枝(ののせのえ)は、有名芸能プロダクション「片桐プロモーション」に入社して1年たったばかりの若手社員。彼女は、5つほど年上の先輩、三橋銀子に憧れている。乃枝の仕事は、元時代劇の大スターで現在は聴力を失ったことで役者を引退し社長業に専念している片桐大三郎の耳となることであった。常にノートパソコンを持ち歩き、大三郎への言葉を入力して彼の持つタブレットへ転送することによって会話を助けるのである。銀子は乃枝の前任者でもあった。その大三郎には社長業とは別にもう1つの顔があった。それは、警察が抱えている難事件の捜査に協力するという趣味であった。
よくもまあ、探偵役のネタはつきないものだとまずは感心。表紙のイラストで、大三郎のイメージはすぐにつかめるが、乃枝はどう見ても男性に見える。とびらのイラストを見ると分かるが、乃枝のイラストの原画ではスカートを履いているのに、表紙ではその下半身が大三郎に隠されてしまって見えないのだ。これは装丁者の
レイアウトミスだろう。
春の章…日本画家の秦洋次が自宅の物置部屋で車椅子に乗ったまま撲殺された状態で発見される。現場には凶器になりそうなものが多数あったのに、実際に使われたのは破壊力がなさそうなウクレレ。なぜ犯人はウクレレを使ったのか。外部からの侵入者がいないため犯人は身内にいると考えられたが一体誰が犯人なのか。困った河原崎と野末がいつものように大三郎からアドバイスを得るために訪ねてくるが、大三郎は被害者の屋敷を訪れ、関係者の事情聴取をしただけで犯人を言い当てる。 前作同様に、大三郎がこれまでの芸能生活のエピソードの1つをまず語り、それに重ねた事件の種明かしをするというスタイルは面白い。しかし、前作以上に事件の真相が陳腐。障がいがあると思われた人に実はそんな障がいはなかったという話は、小説の世界のみならず現実にも溢れている話である。さらにウクレレが凶器に選ばれた理由の大前提が、被害者がたまたまその絵を描きたかったから、などというのは一体読者の誰が納得するのか。加害者の女性が被害者の男性を背負って運んだというのは、もうトリックですらない。これは駄作。
夏の章…退屈を極めていた大三郎は、なんと河原崎警部のスマートフォンに内緒でGPSのトラッキングアプリをいつの間にかダウンロードしており、河原崎のいるであろう事件現場に乃枝を連れて押しかける。市長選真っ最中の鶴木市の目的地にたどり着くと、そこは貴島という裕福な若い会社経営者夫婦の豪邸で、ベビーシッターが殺害され乳児が誘拐されるという事件が起こっていた。犯人から身代金を持った貴島の妻(実際には女性警官)をあちこちに誘導する電話が貴島宅に入るが、なぜか3度に渡ってその受け渡しを指示する電話が途中で切れる。そして次の指示の電話が掛かってきた時、大三郎は予想外の行動に出る。いきなり受話器を奪うと、相手を田中と呼び自首するように叫んだのである。周囲は呆然とし、責任者の時枝警部が激怒するが、大三郎は夫婦に慰めの言葉を掛けると悠然と去っていく。そこへ田中光男と名乗る犯人が自首してきたという報告が。 今回はさすがに大三郎はやりすぎ。トラッキングアプリのダウンロードも誘拐被害者宅への押しかけもしゃれになっていない。犯人の名前が田中ではないかという推理も、犯人の真の狙いはベビーシッターの方で、使われた凶器は乳児ではないかという推理も、あまりに根拠が弱すぎ論理的ではない。春の章同様に、かなり苦しい作品。 秋の章…映画での町興しを企画した品川区の区民文化新興会館で、大三郎が今は亡き偉大な名映画監督・小御角勲監督についての講演を行うことになる。開演直前にそこへ持ち込まれたのは、小御角研究家が発見した小御角の未発表シナリオ。大三郎をはじめ、居合わせた関係者が目を通し終えたところで開演時間が迫ってきたので、シナリオは古い鍵付きのキャビネットの中にとりあえず仕舞われることになったが、それがその後の僅かな時間で消えてしまう。語り手は、講演中の大三郎に代わって事件の真相を推理する。そして、シナリオの内容が駄作だと判断した犯人は、小御角監督の名に傷を付けまいとそれを処分することを決意し、キャビネット横のみかん大の穴から掃除機でそれを吸い出したと考えた。そして、犯人は公園前に流されたアナウンスにも灰皿が落ちて割れたことに気付いた様子もないことから、耳の聞こえない人物であると断言する。ここで読者は当然のように「乃枝が大三郎を犯人だと指摘した」と思い込むのだが、講演を終えた大三郎は「耳の聞こえない犯人など存在せず、そもそも前提が間違っている」と彼女の推理を一蹴する。実はこれは叙述トリックで、乃枝と思われていた女性は銀子であった。つまりこのエピソードは乃枝が就職する前の、しかも大三郎の耳が聞こえていた頃の話だったのだ。シナリオは単に大三郎が用心のため懐に入れて持ち歩いていただけであったのだ。 章段の名称からしても、読者はこれが前段よりも過去の話だとは思わない。相当にアンフェアな叙述トリックものである。そもそもキャビネットに仕舞ったと思われたシナリオは、大三郎がキャビネットに仕舞うと見せかけて他の人に見えないようこっそりと懐に隠していたなんていうオチはあまりにも粗雑である。大三郎の講演内容などは面白いが、メイントリックがお粗末すぎて閉口。 結局この作品について言えることは、設定やキャラクター自体は非常に面白く良くできているのに、それ以外のストーリーやトリックなどがあまりにも残念だということ。タイトルの「XYZの悲劇」の意味もよく分からない。大三郎と乃枝のキャラがここまで立っていなかったら、★1つレベルの作品。ちょっと変わった軽めのミステリを読んでみたいという人にならともかく、ちゃんとした推理を楽しむ本格ミステリを味わいたいという人にはオススメできない。 |
『ブラック・ヴィーナス 投資の女神』(城山真一/宝島社)【ネタバレ注意】★★
「このミス大賞」2015年(第14回)大賞受賞作品。先日読了したばかりの『神の値段』と審査員の意見が二分されて、結局両者とも大賞を受賞することになった本作であるが、読み始めてすぐに違和感が。依頼者の最も大切なものと引き替えに、依頼者が必要とする大金を株取引によって確実に用意することのできる黒女神と呼ばれる都市伝説化した女性を描いた物語なのだが、その大枠に全くリアリティがないことは置いておくとしても、株取引の魅力が伝わってくるわけでもなく、何より物語自体があまり面白くない。 序章…百瀬良太は、理想とかけ離れていた銀行員を辞め、石川県庁の組織の1つ、いしかわ金融調査部で臨時公務員として金融関係の苦情相談員となっていた。そんなある日、繊維会社社長を務める兄の正弘から、経営の行き詰まった会社を建て直すため、都市伝説となっている黒女神に助けを求めることになったので交渉の場に同席してほしいと頼まれる。黒女神こと二礼茜は、工場にある織機15台すべてを報酬に、正弘が必要とする3,500万円を用意することを約束、さらに株取引の種銭として別に300万円を要求する。旧式でほぼ価値がないとはいえ会社の命とも言える織機を奪われる上に、種銭まで要求されたことで良太は詐欺を疑うが、正弘はその提案を飲む。結局茜の買った正弘名義の株は4,000万円にもなり、詐欺でなかったことが証明される。価値のない織機だけが報酬では申し訳ないという正弘に対し、茜は良太を助手としてもらいうけることを提案するのであった。 前述したように価値のない古い織機が報酬というのは微妙。300万円は種銭なので報酬ではなく、結局茜は何も儲かっておらず、完全なボランティアということになる。大金を用意したことに対する報酬として良太が奴隷のように扱われるのなら分かるが、自分の仕事が終わった後に手伝いに来てくれれば良いという何とも緊張感のない展開には脱力してしまう。つかみにこそ、もっとシビアな話を持ってくるべきではないのか。最初から「これはイイ人による善意のお話なんですよ」とアピールしてしまうのは損だろう。 第1章「老舗和菓子屋」…老舗和菓子屋の社長・松中実は、景気の悪化で銀行からの融資の返済に行き詰まり、茜に5億円の用意を依頼する。それに対して茜が要求した報酬は、松中が辛うじて3人の娘達のために手元に残してあった3,000万円の現金。茜の言うとおり値を上げていく株価であったが、目標額に達する前に売却してしまおうとする松中に何度も釘を刺す茜。そして何とか目標額に達したにもかかわらず、和菓子屋は閉店し松中は家族を残して失踪してしまう。戸惑う良太に対して、借金を完済して和菓子屋の経営以外の人生を歩みたかった松中の心中を見越していた茜は平然としているのであった。 依頼額が前回の3,500万円からいきなり5億に上がり、一気にリアリティが失われて興醒め。茜の要求する報酬は3,000万円の現金と言うが、これは前回で言うところの種銭になるわけで、明らかに報酬ではない。依頼者の要求額と引き替えとする「依頼者にとって最も大切なもの」という意味で、前回の織機にあたるものであり、そこは納得できるのだが。結局、彼女の報酬は株取引の利益の中から受け取るという話が途中に語られるが、最後まで金額が明らかになることもなく、茜がどうやって受け取ったかもはっきりしないまま物語が終わってしまう。依頼者の松中は和菓子屋経営から離れて自由の身になるという夢を叶えたというハッピーエンドの物語のように描かれているが、3人の娘を残して父親が失踪する話のどこがハッピーエンドなのか。なんともすっきりしないエピソード。 第2章「歌姫の父」…今回の依頼人は、人気絶頂の中で病死したアーティスト、小ヶ田アキツの父・小ヶ田太地。心臓発作で死亡したアキツの死の真相は薬物中毒によるもので、その話がヤバイ連中に漏れ、彼らに脅迫されていることを茜はすぐに見抜くが、切迫感のないルーズそうな太地に良太は悪印象しか抱けない。当然断るかと思いきや、そのヤバイ連中に払い続ける金の用意を引き受ける茜。そして茜は太地の要求通りの金を供給し続けるが、ある日タブロイド紙にアキツの死の真相が掲載されたことで、良太は契約の終了を知る。太地は、末期癌だった自分の母に、自慢の孫の死の真相を知られないように時間稼ぎをしていたのだが、その母が死亡したことで脅迫相手に金を払うことをやめたのだ。茜は報酬として、非公開だったアキツの幻の曲を要求していたが、太地との思い出の詰まったその曲のCDは彼に返し、彼の口座に残った現金を代わりに要求するのであった。 太地の真意は、読んでいればすぐに分かるので結末を知っても特に感動も驚きもない。太地と茜がヤバイ連中に莫大な金を払い続け、結局その連中には何の天罰も下らない結末に気分が悪くなるだけ。もうちょっと読者がカタルシスを感じられるような工夫が欲しかった。 第3章「元高級官僚」…女性起業家によるナンバーワン企業を目指す取り組み「なでしこプロジェクト」を進めようとしている新井冬彦は、元財務省の幹部職員であったが、事務次官室立てこもり事件を起こして辞職勧告され、次の国政選挙での出馬を狙っていた。彼には妻と愛人の両方に子供がおり、資金援助をしてくれるスポンサーもいない新井は、ただでさえ選挙には金が掛かるのに、従順だと思っていた愛人の麻衣子に海外への移住をねだられ、妻からは息子が小学生の女の子に声を掛けて相手から示談金を迫られていると聞かされ、経済的にますます追い込まれる。 やっと金融ミステリーらしくなってきたものの、見せ玉というトリックは株取引を全く知らない人には新鮮かもしれないが、ある程度知識のある人には知られた技術。大昔のテレビドラマ『西武警察』で、人質を取った犯人に車を運転させられることになった主役の大門が、高速道路でわざとスピード違反をしてオービスに写真を撮らせて部下に位置を知らせるという技を使ったエピソードをふと思い出した。
第4章「ブラック・ビーナス」…茜達を救出した集団の中に、内閣金融局での良太の上司、秀島がおり、茜とのただならぬ関係を感じていた良太であったが、実は茜も内閣金融局の一員であった。再び組織に戻された茜は、川崎市にある化学薬品メーカーに派遣され、株取引で会社を建て直す仕事に失敗する。気落ちする茜に、秀島は次の仕事を与える。それは、中国人に乗っ取られようとしている日本の製造業の根幹とも言える自動車のエンジン技術の機密をたくさん抱えた企業・サンナミ工業を救うこと、そしてある口座に入る10億円の金を1日で15億円に増やすという大仕事であった。その2つの仕事について、茜は秀島に2つの見返りを要求する。それは、再び彼女を東京勤務から外して自由の身にすること、そしてもう1つは良太の処遇に関することであった。
巻末の選評を見ると、応募時の本作の茜は、天賦の才能で勝ち続ける無敵の主人公だったようだ。しかし、その不自然さを選考委員に指摘され、出版時に弱い部分やピンチの場面を用意したようなのだが、いきなり弱くしすぎ。過去のアメリカでの失敗のエピソードはともかく、現在の場面で本来の仕事に復帰早々大負けして依頼主から痣ができるほど殴られる女主人公ってどうなのか。株の世界で勝ち続けることが現実にあり得ないとしても、これでは普通のトレーダーと変わりがない。しかも、負けが確定したと認めたとたんに、依頼主に「お金が減った分、気が済むまで殴ってくれていい」という無責任なセリフ。どんな依頼主でも殴るだろう。 |
2016年8月読了作品の感想
『オルゴーリェンヌ』(北山猛邦/東京創元社)【ネタバレ注意】★ 「このミス」2016年版(2015年作品)10位作品。著者の作品で唯一過去に読んだことのある短編集『私たちが星座を盗んだ理由』(「このミス12」15位作品)は微妙な評価であったが、印象的な作品もいくつかあったので期待して読み始めた。 序奏「月光の渚で君を」…海に沈みつつあるスラムで生まれ育った「私」は、ゴミ拾いをしながら都市に憧れて暮らしている。ゴミの中から使えそうなものを見つけ、それを修理して都市で売ることで生計を立てていた彼は、ある日、なじみの楽器屋で壊れたオルゴールの修理を頼まれる。それはオーケストラ・オルゴールと呼ばれる大変複雑なオルゴールで壊れ方も酷かったが、彼は3か月がかりでそれを修理する。そして、それをきっかけにそのオルゴールを楽器店に持ち込んだカリヨン邸と呼ばれる屋敷の主人に雇われることになる。 ちょうど本書を読み始めた日に、ヤフーニュースで西アフリカ・リベリアの「海面上昇で沈みゆくスラム街」という動画つきの記事を読んだばかりだったので、あまりのタイムリーさに驚いた。世界に同じ状況のスラム街がどの程度あるのか分からないが、ここがモデルなのかもしれないと思いながら読み進めた。物語中に特に何かトリックがあるわけでもなく、ミステリーらしいミステリーでもないのだが、この「序奏」は、実に幻想的で味わい深い作品である。
第1章「僕たちの帰る場所」…「何人も書物の類を所有してはならない」時代。違反すれば検閲官によって隠し場所もろとも焼却される。特に「ミステリ」と呼ばれる種類の書物は焚書処分の代表格とされた。そして、ミステリ作家になることを夢見る主人公・クリスは検閲官たちが所有を禁止するガジェットを持っていた。ガジェットとは「ミステリ」の結晶のことを指す。それは様々な装飾品や道具に組み込まれるようにして偽装されており、過去のミステリ作品の様々な情報が詰め込まれており、例えば「密室」や「吹雪の山荘」といったガジェットが存在する。彼の所有するガジェットは「記述者」であった。ミステリ作家になるために何をすべきかも分からないクリスは、旅の途中、小さな宿で恩人のキリイ先生が自分を探していることを知る。
第2章「もう一人の少年検閲官」…昔船乗りだった老人に船を借りてカリヨン邸のある海墟にたどり着いた3人は、カリヨン邸のオルゴール職人、ミウとアリサトで出迎えられる。カリヨン邸には、カリヨン邸調査の責任者である、もう1人の少年検閲官・カルテがいた。エノの後輩のカルテは、クリスとユユを拘束しようとするが、エノの反対にあい渋々受け入れる。
第3章「少女自鳴琴(オルゴーリェンヌ)」…カルテは、何者かがマキノを気絶させるか殺害するかした後、首にロープを巻き、灯台にそのロープを引っかけて船で引っぱり上げ、鉄骨の上に落としたと推理する。
第4章「王国最後の密室」…翌日塔の中の暖炉の前で、鉄板を埋め込んだ大量のオルゴールに埋もれたシグレの遺体が発見される。この密室殺人の真相についてクリスは自分の推理を語るが、エノによって全否定されてしまう。そしてエノは暖炉の中から「氷」のガジェットらしき残骸を発見する。 終奏「世界を変える物語」…クリスとエノに発見されたクラウリは、「世にも高貴な、犯罪という名の音楽を奏でるオルゴール。それこそが−オリゴーリェンヌだ」「私は育てたのだ。世界を変える『犯人』として」と語り、自分が育てたユユこそが3つの殺人の真犯人であると告げ、ビルから飛び降りて自ら命を絶つ。続けて飛び降りようとするユユを必死で引き留めるクリス。そんな彼にエノは、「彼女が犯人でないということを知っている」と告げる。エノの指し示した真犯人は、キリイ先生であった。しかし、クリス達がキリイ先生の元に戻った時には、彼はすでに亡くなっていた。そしてそこには1台のタイプライターと共に、「私が彼女を音楽にしたように、君が私を物語にしてくれ」というクリス宛のメッセージが残っていたのであった。
さて、本章に入ると若干趣が変わってくる。一応序奏と物語がつながっていることは途中で明らかになるのだが、正直この話の何が面白いのか理解できない。大がかりな物理トリックが見ものという評価もあるようだが、どのトリックもレベルが低すぎないか。船でロープを引っぱって死体を持ち上げるとか、本を2冊重ねて鍵型ブロックを作って板を乗せ、人が乗ると落ちる罠を用意するとか、オルゴールのシリンダーでワイヤーを巻き取るストッパーとして暖炉の熱で溶ける蝋を使うとか、まるで名探偵コナンを見ているようだ。やたらと説明図が登場するが、はっきり言って必要ないものばかり。 |
『鍵の掛かった男』(有栖川有栖/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)8位作品。今回は久しぶりに登場人物紹介から(いきなりネタバレ要素全開なのでご注意を)。
有栖川有栖…数年前に珀友社の主催するある新人賞に佳作入選して作家デビューしたミステリ作家。大阪生まれ、大阪育ちの34歳。
第1章「ある島民の死」…2015年1月30日、有栖は東京で開催されたある新人賞のパーティに参加していた。明宝書房の編集者の土井を通じて、大物作家の影浦浪子からある依頼があるという話を聞いたためである。その内容は、影浦がよく利用している大阪・中之島の銀星ホテルのスイートルームで5年間暮らし続けていた梨田稔という友人が、1月14日に客室で遺体で発見され自殺という判定が下ったことに納得がいかないので、名探偵として活躍している火村と共に再調査してほしいというものであった。 第2章「その孤愁」…銀星ホテルを訪れた有栖は、常連の影浦の口利きもあって桂木支配人夫妻や丹羽副支配人らから手厚いもてなしを受ける。梨田が宿泊していた401号室を見せてもらうが、残されたアルバムの最後のページに写真が剥がされた跡があるのを気にする有栖。その後、梨田の死亡時にホテルに宿泊していた日根野谷と露口が運良くこの日も宿泊していたため早速話を聞く。2人と食事をした有栖は、当時宿泊していた客の1人、ミュージシャンの鹿内とも会うが、仕事で疲れているという彼女に冷たくあしらわれてこの日の捜査は終了する。 第3章「その残影」…2月2日、梨田がボランティアをしていた総合病院と悩み相談室を訪問した有栖は、梨田が毎月16日に必ず休みを取っていたことを知る。美菜絵からの提案で翌日からホテルに住み込むことにした有栖は、フロント係の水野から、梨田が3.11の震災のニュースを見て泣いていたことを告げる。萬夫妻からは、梨田が過去の知人と珍しく電話で連絡を取っていたことを聞き出すが、相手が誰かまでは分からなかった。また、アリスからの報告を聞いた火村は16日の件について、誰かの命日で墓参りをしていたのではないかという意見を伝える。
第4章「その原罪」…2月3日の午後、銀星ホテルにチェックインして402号室の住人となった有栖は、日根野谷と露口から、梨田の死は自殺ということでよいのではと忠告されるが、彼らが出ていった後、繁岡から入ってきた新しい情報に驚愕する。梨田は30年前に飲酒運転で轢き逃げ事件を起こして藤西福蔵という老人を死亡させており、さらに知人から車と金を奪った挙げ句、その知人に重傷を負わせ、過去に喧嘩の前科もあったため6年6か月の懲役刑に服していたのだ。
第5章「その秘密」…2月7日、広島からやって来た根岸は、萬夫妻が目撃した梨田が電話をしていた時の相手で、大阪のホテルに住んでいるという梨田の話から、大阪府内のホテルに1軒1軒電話をし続け、ついに梨田の居場所を掴んだのだが一歩遅かったことを嘆く。根岸は、元ビジネスパートナーの梨田と喧嘩別れしてしまったことを後悔しており、せめてものお詫びにと、梨田が会社の建て直しのために提供してくれた宝くじの当選金の倍額である2億6千万円を別れ際に梨田に渡していた。これが、梨田の持っていた大金の正体だったのだ。 第6章「その正体」…夏子の親友だった信恵の元を訪れた火村、有栖、鷹史は、梨田が轢き逃げ事件を起こした当時、信恵一緒にハワイに旅行に行っていた夏子の様子を聞くが、逃走中の梨田から連絡を受けた夏子が、もの凄い決断をしていた様子であったことを語る。そして、夏子のもう1人の友人、里緒子が産科医と結婚してレディースクリニックを経営していたが阪神大震災で死亡したという話を聞いた火村と有栖は、梨田の長期滞在の謎の真相にたどり着く。夏子は、逃亡中の梨田に対し、彼の出所を待っていたら彼の子供を産めなくなるので、逮捕される前に里緒子のクリニックに行き体外受精の準備をするように指示していたのだ。これによって、夏子は梨田の公判中に梨田の子供を妊娠出産することができ、梨田は消息を掴んだ自分の息子を身近で見守ることができるようになったのである。震災のニュースで彼が涙していたのは、体外受精の証人となる里緒子が死亡してしまったことを悲しんでいたためであった。
第7章「その帰還」…2月12日、梨田のホテル長期滞在の謎は解けたが、梨田殺害の真犯人は不明のまま。有栖は関係者の様々な可能性に思いを巡らせる。そんな中で、露口の口から美菜絵の妊娠が発覚。梨田も知っていたという。孫の誕生を楽しみにしている梨田が自殺するはずもないと、火村と有栖は梨田の他殺を確信する。しかし、その一方で、孫の誕生に喜んだ梨田が、それが勘違いであり、鷹史が息子ですらなかったことを知った場合は、自殺の動機になり得ることに有栖は不安を覚えるのであった。
終章…火村の推理によって真犯人は逮捕された。影浦は火村を前にして、いかにして真相にたどり着いたのかという推理に挑戦する。その真犯人は露口であった。梨田の遺言状をホテルに送りつけたのは、梨田と鷹史の親子関係が明らかになり、その遺産が全額桂木夫妻に相続されることを阻止するための嫌がらせであったが、その送りつけたタイミングによって、火村は彼女が真犯人であることを見抜いたのであった。
著者の作品は、学生有栖シリーズの『双頭の悪魔』(1992年)、『女王国の城』(2007年)、作家有栖シリーズの『朱色の研究』(1997年)の3作品しか知らなかったのだが、後者の印象が余りに薄く、前者の若々しい有栖の記憶しか残っていないため、作家有栖シリーズ最新作である本作の有栖が、妙にオッサン臭く感じられたのが、読み始めの第一印象。そして次に印象深かったのが、軽快でコミカルかつ流麗な引き込まれる文体。過去の著作でここまで感心した記憶はないので、いつの間にかここまで進化したのであろう。内容もお見事の一言。多くの著作を持ちながらそのうちの4作品しか読んでいない自分が言うのも気がひけるが、本作は著者の代表作の1つに挙げられるレベルの作品ではないかと思われる。 |
『鳩の撃退法(上/下)』(佐藤正午/小学館)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)11位作品。直木賞作家の津田伸一が実際にあった事件を元に、事件の謎解きと並行しながら小説を書いているという体裁を取っている。 津田は景気の良い時もあったが、現在はすっかり落ちぶれてデリヘルの運転手をし、居候させてくれる女を変えながら暮らしている。そんな津田は、2月28日の早朝、ドーナツショップで女性店員の沼本と言い争っている時に幸地秀吉という男と出会い、同じ読書趣味を持つ彼と、古本屋の房州書店で買ったピーターパンの話をしたりして別れた。幸地は妻の奈々美と幼稚園の年少組の娘・茜と暮らしていたが、幸地は奈々美とは彼女の妊娠中に出会って結婚しており、茜は彼の実の子ではない。、奈々美から2度目の妊娠を告げられるが、幸地にはそれも自分の子ではないことが分かっていた。幸地は、茜の同級生の母親で、実家の不動産屋で働いている慎改美弥子の好意に甘えて彼女の雇うベビーシッターに茜を預け、妻と自宅で2人きりで話し合おうとする。 ここまでが上巻のあらすじ。著者は60歳を越えたベテラン作家なのだが、これまで賞らしい賞は獲っておらず、本作で山本風太郎賞を獲ったのが初めての大きな賞のようだ。しかしそんなことを感じさせないくらいに文章力は圧倒的。主人公の津田同様に直木賞作家だと言われても全く違和感はない。しかも、もっと若い人が書いているのではと思われるくらい文章がみずみずしく新しさを感じさせる。小説家である主人公の津田が脚色している部分と実際に起こったことの識別が難しいことと、時間軸がころころ変わることに多少戸惑いを覚えはするが、読ませる力は尋常ではない。下巻が非常に楽しみである。 下巻の詳細なあらすじははしょって全体的な話をすると、神隠しにあった家族がどうなったかということが読者には気になるが、実際には事件の夜に主人公の手元からピーターパンの本と共に消えた3万円の謎の方にウエイトが移っていき、それが「本通り裏のあの人」の倉田が製造に関わっていたと見られる偽札(これが本作では「鳩」という符丁で呼ばれている)の行方にも絡んでくるというのが本作のポイントである。
とにかく後半も読ませる。主人公を直木賞作家に設定するなど余程文章力に自信がないとできないことだが、本作では著者の並外れた力量によって問題なく成立している。前述したように、津田が事実を曲げて脚色して書いている(津田は主人公を幸せにするためにこの小説を書いていると述べている)部分と実際に起こったことの識別が難しいことが問題となるが、次々と明らかになる事実によって、彼の小説の内容はほぼ事実と考えて良さそうだ。時間軸がころころ変わることにも最後まで戸惑いを感じるが、そう気にするほどのことでもない。幸地一家の行方が明らかにならないまま、終盤に近づいてきてどうやって締めくくるのかと不安に思っていたら、偽札=鳩の流れが解明されて物語は幕を閉じる。 |
2016年9月読了作品の感想
『血の弔旗』(藤田宜永/講談社)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)9位作品。過去に読了している筆者の作品は、「このミス」1996年版2位の『鋼鉄の騎士』と同2015年版14位の『喝采』の2作品のみ。同郷の作家であり、定期購読している「ベストカー」誌でも最近連載が始まったので親近感はあるのだが、前者が高ランクにもかかわらず自己評価★、後者が★★というように、自分との相性はあまり良くない。しかし、本作は最初から引き込まれ、読みながら早く結末にたどり着かないものかとイライラする作品も少なくない中、最後まで感情移入しまくりで読むことができた。あらすじは以下の通り。
主人公の根津謙治は、資産家で金貸しの原島勇平に運転手として雇われていたが、いつしか勇平が政治家にばらまくための大金を動かしていることを知り、その強奪を計画する。仲間にしたのは、簡単に警察にその繋がりを知られることのない、戦時中に疎開先で同級生だった岩武弥太郎、宮森菊夫、川久保宏の3人。川久保にはアリバイの証人になってもらい、岩武と宮森の2人に、勇平と、その息子の浩一郎を襲わせて縛り上げ、11億円の現金を奪うことに成功する。しかし、偶然勇平の屋敷に現れた浩一郎の愛人・迫水祐美子を、見張り役の根津は射殺することになる。
自分の記憶を維持するためとはいえ、あらすじのまとめには毎回苦労しているのだが、本作は上記のようにここまで短くまとめられるくらい骨格がシンプルな物語である。それでも十分な読み応えを感じるのだから、これは筆者の力量であろう。根津にはすっかり感情移入してしまい、なんとか無事に逃げ切ってほしいと思うまでになるのだが、やはり予想通り、「どんなに根が善人であろうと、その人の悪事は裁かれる運命にある」というテーマの物語であった。これには納得せざるを得ない。どんなに根津に感情移入しようとも、明らかに正義は松信の方にあるのだ。 |
『影の中の影』(月村了衛/新潮社)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)12位作品。 仁科曜子はヤクザなどの裏社会に強いフリージャーナリストで、矢渡組執行部の菊原組組長・菊原哲治を定期的に取材していたが、彼女の最近の関心は中国で弾圧されているウイグル人に移っていた。在日のウイグル人コミュニティーの有力者やボランティアが次々に変死している中、ついにコミュニティの隠れた実力者テギン・ヤンタクに取材の約束を取り付けるが、彼は彼女の目の前で中国の工作員と思われる男達に殺害されてしまう。そして彼が死ぬ間際に残した言葉が「カーガーに助けを求めるのだ」というものであった。しかし、曜子にはカーガーの言葉の意味が分からない。唯一、菊原だけが「触ったらあかんで」と忠告を与えたのみであった。 前回読了した藤田宜永『血の弔旗』同様、全く無駄のない、一息で読ませてしまう構成と文章力はさすが。どうでもいいエピソードでダラダラと話を引っぱる作家には本当に見習ってほしい。自分を信用してもらうために、これでもかというくらい自分の過酷な過去を語り続ける景村の様子に少々引いてしまったり、ただのキャリア警官だったにもかかわらず、わずか1か月で特殊技能を身につけ難易度の高い任務を成功させてしまう景村のエピソードに少々ご都合主義を感じてしまったりしないでもないが、極上のエンターテイメント作品として見逃してよい範囲だろう。ヤクザ賛美は許せないという、いかにもありそうな意見に対しても、主人公の曜子が話の途中から景村の影に隠れて霞んでしまうことに対しても、気にするほどのことではなかろう。悪役の曾埜田が結局組織に守られて生き残ってしまう点はスッキリしないが、シリーズ化を考えてのこととして、これも許そう。やはりシリーズ化はあると思う。本作をどう越えていくのか期待したい。 |
『死と砂時計』(鳥飼否宇/東京創元社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)13位作品。 首長であるサリフ・アリ・ファヒールが絶大な権力を握っている中東のジャリーミスタン首長国では、涸渇しつつある石油資源に代わる外貨獲得のために、死刑制度に揺れる世界各国から死刑囚を有料でジャリーミスタン終末監獄に引き取って死刑を執行するというビジネスを行っていた。本作は、その架空の監獄を舞台に、この監獄ができた時から収監されている牢名主、トリスタン・シュルツ老人が、親殺しの罪で収監された日系アメリカ人の青年、アラン・イシダを助手に指名して、監獄内で起こった事件を次々と解決していくという物語で、6つの章で構成されている。 第1章「魔王シャヴォ・ドルマヤンの密室」では、死刑を明日に控え、向かい合わせの独房に入れられていたシャヴォとスグル・ナンジョウの2人が何者かによって刺殺され、凶器も発見されないという密室殺人事件に挑む。事件の真相は、魔王と言われていた奇術師のシャヴォが、ナンジョウこそ自分の家族を殺害した傭兵であることに気付き、自分の足の人工骨の中に隠していたナイフに糸を付けてナンジョウに向けて投げて刺殺した後、自殺を図り、凶器は息絶える前に再び人工骨の中に仕舞ったというものであった。 第2章「英雄チェン・ウェイツの失踪」では、かつて絶対に脱獄不可能と言われていた終末監獄からの脱獄に成功して行方をくらませている中国人医師のチェン・ウェイツの脱獄方法と現在の居場所をつきとめよという命令が、看守長のアリー・アフムード大佐からシュルツに下る。チェンが無事中国に戻られては困る中国政府から圧力が掛かったのだ。アランには全く見当が付かなかったが、この難題をシュルツはいとも簡単に解決してしまう。銀行に放火し大量殺人を犯して収監されたばかりのシャー・フーイーこそ、チェン・ウェイツであると言う。チェンは囚人の遺体をハジ医師のところへ運ぶ際に、囚人全員に埋め込まれている電流を流すチップの位置を調べて自分のチップを取り出し、囚人を拘束する革バンドをハジ医師のところから盗みだし、それをつないで監視員の首を絞めて殺し、彼を重石代わりにして監視台に上って脱出したのだった。彼がなぜ舞い戻ってきたのかというと、隠れていたスラム街で、ひっきりなしに湧いてきて苦情ばかり言う病人に嫌気がさしたからであった。シャー・フーイーに右目がなかったのは、そこにチップがあったからだったのだ。 第3章「監察官ジェマイヤ・カーレッドの韜晦」では、定年間際の監察官が監察官控室で刺殺されるという事件が発生する。事件発生前、第2収容所のシュルツやアラン達はここでは問題はないと監察官に報告していたが、同じ第2収容所の囚人アダムソンが、第1収容所のムバラクの悪事を訴えていた。取り調べを受けたムバラクが監察官を半殺しにしてやると言っていたという証言に加え、監察官控室にムバラクが入る姿を獄卒のラシードが目撃しており、その後ムバラクが出ていくところを第1収容所の獄卒長アイマンが目撃していたため、ムバラクが犯人であることは間違いないように思われた。しかし、ムバラク自身は、監察官と話していて、後ろを振り向いた時に何者かに殴られて、気が付いたら監察官が死んでいたと主張する。そしてこの謎をまたしてもシュルツはあっさりと解決する。カーレッドの死は自殺であると言うのだ。癌を患っていたカーレッドは現場で死ぬことを望んでおり、ムバラクに罪を着せムバラクに厳罰を与えることを最後の仕事に選んだのであった。 第4章「墓守ラクパ・ギャルポの誉れ」では、誰もが嫌がる墓掘りの仕事を一手に引き受けていたギャルポが死体を食っているという噂話から始まる。その後、ギャルポが、死刑となったソトホールの墓を暴き遺体を損壊したことが明らかになり、監獄内で重罪を犯せば死刑が確定するというルールに則って、彼の死刑執行日が決定する。執行の直前、囚人のオリベイラを挑発したギャルポは、オリベイラから投げつけられた煙草で、持っていた火薬入りの砂時計に火を付けて自爆する。周囲は呆然とするが、シュルツは全てを悟っていた。チベット仏教を信仰していたギャルポは、同じくチベット仏教に改宗したソトホールを鳥葬するために遺体を損壊したのであった。そして自らも五体投地というチベット仏教の最も丁寧な礼拝スタイルで死を迎えていたのだ。シュルツは彼を誉れ高き男と称え、黙祷を捧げたのだった。 第5章「女囚マリア・スコフィールドの懐胎」では、男子禁制の居住区で収監2年目となった女囚マリアが突如身ごもるという事件から始まる。シュルツに呼ばれ、ハジ医師のところで事件のあらましを聞いたアランであったが、ぼちぼち探偵役を譲ろうと思っていたというシュルツに置き去りにされたアランは、女囚居住区の担当医ライラに無理矢理女囚居住区に連れて行かれる。そこで彼が出会ったマリアは、彼の幼馴染みであることが判明するが、彼女はアランに会うために殺人を犯してここに来たこと、そしてアランの子供を身ごもっているのだと熱く語る。明らかに精神が壊れている彼女の下半身に男性器を見つけ混乱する彼はそこを逃げ出すが、刑務官に捕まって後頭部に衝撃を食らって意識を失う。彼が意識を取り戻したのはなんと7か月後。マリアの下半身にあった男性器は性具であったことが判明し納得するアランであったが、彼女がすでに出産し、彼女の死刑が執行されていたことに衝撃を受ける。しかも、彼女の妊娠は嘘で、アランを捕まえてライラの協力でアランの子供を人工授精で妊娠することがマリアの目的であったことを知らされ、さらなる衝撃を受けるアラン。当初妊娠3か月目であると主張していたマリアが、その7か月後に出産したものとアランは最初考えていたが、マリアはアランの子供を身ごもった後、死刑執行直前の7か月目に帝王切開で超未熟児としてライラに取り出されていたのだった。 第6章「確定囚アラン・イシダの真実」では、ついにアランの死刑執行が確定し、アランの口から彼の罪状が語られる。アランは実の父を知らず、母とその再婚相手のネイサン・レンロットと暮らしていた。やがて彼は独立するが足の骨折の療養のため実家に帰ってくる。そして、そこで実の父と思われる人物からの母宛に届いた手紙を勝手に開封してしまう。そこには、差出人のTが、研究対象にしていたTSウイルスによって恐ろしい感染症にかかって死にかけていること、母にも感染した可能性があることが記されていた。もしかしたら自分も感染しているかもしれないと考えたアランは、その真偽を母に問いただそうと家を飛び出す。ところが、家に置いてきたその手紙をレンロットが読んでしまい、体調不良が続いていたレンロットは、母が感染を隠して自分と再婚したと思い込んで激怒し、母を刺殺してしまう。アランは杖でレンロットを撲殺するが、母に刺さったナイフを抜こうとしたことがあだになり、両親を殺害した罪で逮捕され、死刑判決を受けてしまったのだ。シュルツに自分の過去を語り終えたアランは、囚人仲間のマルコとの会話の中で、あることに気付く。シュルツこそ、アランの実の父親だったのだ。彼は細菌兵器の研究をしていたテロリストであった。死刑執行の日、シュルツは命懸けでアランとその子供を脱獄させる。シュルツは、死を迎える直前まで我が子達が世界を舞台に暴れ回る夢を見ていたが、そのシュルツの最愛の「我が子達」というのは息子のアランと孫の2人ではなく、アランの体内に潜んでいるウイルスのことであったのだ。
アランの親殺しの設定に何の意味もなさそうな第2章までは結構退屈。シュルツの助手と言いながら、何の活躍もしない、そして何の特徴もないただの普通の青年なのだ。 |
『生還者』(下村敦史/講談社)【ネタバレ注意】★★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)15位作品。 登山家の増田直志は、何年も山を離れていた兄の謙一が突然山に舞い戻り、ネパール東部のカンチェンジュンガ山域で雪崩に巻き込まれ、34歳の若さで命を落としたことに疑問を持つ。しかも、彼の遺品のザイルには何者かによってナイフで傷つけられた跡があった。兄は誰かに恨まれていたのか。 「このミス」98年6位作品である夢枕獏の『神々の山嶺』に勝る山岳小説は、少なくとも自分の読了した作品の中にはないと確信している。本作は、その域にまで届いていなくとも、十分に引き込まれ楽しめる内容を持った傑作だった。恵利奈が自分の見た東の遺書の内容をずっと隠し続けていたことがミステリとしてはアンフェアな印象を与えるし、そこまで分かっていて高瀬を犯罪者扱いしてどこまでも追おうとする彼女の態度も少々理解に苦しむし、高瀬がたった1人で加賀谷の遺体を回収しようとしていたことには無理を感じるし、4年前の事故の真相として美月が加賀谷を見捨てて下山しようとしていたことには納得が行かないし…などと、引っかかる点はいくつか見られるのだが、それらを差し引いても満足できるオススメの1冊である。 |
『東京結合人間』(白井智之/角川書店)【ネタバレ注意】★ 「このミス」2016年版(2015年作品)16位作品。タイトルから経験上何となく嫌な予感はしていたが、予想通り、いや予想を越えたエログロ全開のぶっとび系だった。最初の数ページでほとんどの読者は眉をしかめるであろう。舞台は現代の日本に違いないのだが、世界観が大きく異なっている。この世界での性交とは、男女のどちらかが相手の肛門に頭を突っ込むことで「結合」し、4つの目を持ち、女性側の人格を残した1人の巨大(身長2〜4m)な「結合人間」になる(この状態で妊娠・出産も行うらしい)。大人で「未結合」の人間は世間では白い目で見られる。ごくまれに「結合」によって男性側の人格を残した「オネストマン」が発生するが、嘘をつけないという特徴があり、これによって「ノーマルマン」との円滑なコミュニケーションが困難になるため「未結合」の人間以上に差別の対象となっていた。さらには羊歯病という不治の性感染症が、結合人間、未結合人間にかかわらず蔓延し問題になっている。このような世界観の中での、絶海の孤島での密室殺人事件を扱った作品である。 「プロローグ」では、人気モデルの川崎千果と気鋭の映像作家ヒロキの「結合」シーンが描かれ、オネストマンとなってしまった彼(ら)が、2週間後に傷害容疑で指名手配されるというアナウンスで締めくくられる。
前編の「少女を売る」では、寺田ハウスと呼ばれる、ネズミをリーダーとするオナコ、ビデオの「未結合」3人組の犯罪が描かれる。彼らはかつてAV作品の制作販売を行っていたが、現在では売春の斡旋を行っていた。彼らは、瀬川栞という女子中学生を監禁していたが、彼女が友達が欲しいと訴えたため、彼らは下村茶織という女子中学生を拉致してくる。結局栞は衰弱死し、同じ日に茶織も彼らによって殺害され、遺体は車ですり潰した上で山に撒いて処分された。
後編の「正直者の島」では、今井が他の出演者に嘘をつくことから始まる。操舵手が3人組を襲って海へ転落させ、操舵手自身も海へ転落したのではないかと伝えたのだ。操舵手を失った船は呉多島とは別の島に打ち上げられる。そこは画家の狩々(かりがり)ダイキチモヨコとその15歳の娘の麻美の2人だけが住む島・カリガリ島であった。定期船は1週間後に来るのでそれで帰れと言われ、それまでは狩々の館を建てる時に作業員を住まわせた宿舎を借りることのできた今井達であったが、翌朝またしても事件が起こる。 「エピローグ」では、羊歯病を発症した人物が、かつて売春組織で雇っていたヒメコにマンションに誘われる。その人物は、死んだはずの寺田ハウスの1人、オナコこと丘野萌子であった。オナコは今井に船から落とされたものの、這い上がって丘野ヒロキチカと入れ替わっていたのだ。ヒメコは事件の真相を全て見抜いていた。時間トリックの矛盾を指摘し、さらに島にはこれまでのニュースには登場していない少年が存在していたという説を示す。狩々は娘と息子の結合をたくらんでおり、今井に結合人間スーツを着ていることを見抜かれることを恐れた未結者のオナコは、その少年と結合することによって、頭にだけそれまでの結合人間スーツをかぶって、出演者達の目をあざむいていたのであった。オナコは、少年と結合するため狩々親子を殺害し、入れ替わりに気付いた神木をも殺害していたのだ。オナコを挑発するヒメコに激高して暴行を働くオナコであったが、ヒメコは壊れたように笑い続ける。そしてオナコは、その部屋に縛られた結合人間が転がされたことに気が付く。それは圷だった。ヒメコこそ圷の娘だったのだ。オナコが、真相を知られた圷の顔面に向けてナイフを振りかぶったところで物語は幕を下ろす。 カリガリ島上陸の時点で、ノーマルマンの1人が他のメンバーに嘘をついている今井であることは明らか。プロローグに登場した丘野がオネストマンであることは明らかなため、狩々親子殺害の犯人捜しは比較的容易かと思いきや、その犯人候補は二転三転する。しかし、正直その展開はあまり面白いものではない。オネストマンとノーマルマンという2種類の人間が存在することの設定は生かされているものの、事件自体はミステリの定番であり平凡。様々なトリックや推理合戦はあるものの、ごちゃごちゃした説明は理解しようとするのも面倒臭く、ほぼ流し読み。エピローグで、この世界観ならではの驚愕のどんでん返しが待っており、決して平凡な事件ではなかったことは明らかになるのだが、嫌悪感の方が勝って感動はなし。この前代未聞の結合トリックネタをエログロで描く必要は果たしてあったのか。一定の熱烈なファンは現れそうだが、自分は遠慮したい。 |
『フィルムノワール/黒色影片』(矢作俊彦/新潮社)【ネタバレ注意】★ 「このミス」2016年版(2015年作品)17位作品。探偵が大女優に行方不明者の捜索を依頼されるというのはミステリの定番の1つなのか、本作の冒頭は、7月に読了した「このミス」2016年版4位作品の若竹七海『さよならの手口』同様の展開。序盤から、著者が相当の映画好きであることが伝わってくるのだが、表紙のイラストからも想像が付くように、往年の悪役俳優、宍戸錠が実名で登場する。映画好きにはニヤリとできるような描写が多々あるのだろうが、残念ながら私には何となくしか分からない。 本作での探偵役となる主人公の二村永爾は、「このミス」2005年度版4位『THE WRONG GOODBYE』で起こした問題によって神奈川県警を辞めたものの、なぜか県警の嘱託となって復帰し、被害者支援対策室で被害者の対応をしているという設定。そんな彼に、映画女優の桐郷映子から依頼が舞い込む。映画監督だった父の幻の遺作が香港でオークションに出品されることが分かり、それを買い付けに行かせた彼女の運転手も務める若手俳優が行方不明になったため、彼を捜し出し、父の遺作を入手してほしいという依頼であった。その俳優の母親が続けて殺人事件に絡んでいたこともあり二村は香港へ飛ぶ…。 このあたりまでは、まだいい。しかし、彼が香港に飛んで、怪しいビルに潜入してからが、だんだん読むのが辛くなってくる。作者独特のハードボイルドタッチの言葉遊びに加え、作者が趣味の映画関係のうんちくに全力を注ぎ込む余り、ただでさえ煩雑な状況説明がさらに分かりにくくなっており、読んでいて非常に疲れてくるのだ。二村が香港のよく分からない場所をうろついて、不審者を追いかけ殴られ気絶、また追いかけ殴られ気絶、そして死体を発見し…、何となくそういう感じの繰り返し。途中で突然クリケット選手になったりもするのだが、次々登場する現地の登場人物も男女ともにインパクトがなく、とにかく退屈。なんとか我慢して最後まで読んだが、オチもぱっとしない。Amazonのレビューを読むと絶賛の方が多く理解に苦しむのだが、元々作者のファンが購入して書き込んでいるからこういう結果になるのだろう。作者のファン、昭和の映画ファン以外にはオススメできない。 |
2016年10月読了作品の感想
『赤い博物館』(大山誠一郎/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★
「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。
警視庁付属犯罪資料博物館を舞台にした作品。ロンドン警視庁にある同様の施設を舞台にして人気を博した藤田和日郎の漫画『黒博物館』シリーズを最近読んだところだったので、少なからず影響を受けているように感じた。本作は、5つの短編からなり、TVドラマシリーズになりそうな話だと思って、調べてみるとすでに8月29日に単独のTVドラマとして松下由樹主演で放映されたらしい。反響次第でシリーズ化も考えているのだろう。 「パンの身代金」…業界最大手の中島製パン社長が商品に針を入れ続ける犯人に身代金を渡すため向かった廃屋で、身代金を残して行方不明になり、30km離れた河川敷で死体となって発見されたという事件について、緋色は驚くべき推理を寺田に語る。廃屋で社長が失踪したように見えたのは、社長が現場を監視していた捜査員になったからだというのだ。社長のふりをして取引現場に向かったのは、実はその車両に同乗し監視する役だった鳥井警部補で、社長の失踪は自作自演だったというわけだ。針混入の捜査の過程で鳥井警部補が轢き逃げ事件を起こし、その車両に乗っていた社長と社員の安田が事件の隠蔽に同意したものの、安田が自首しようとしたため、身代金の受け渡しにまぎれて社長が安田を殺害に向かったが返り討ちにあったというのが事件の真相であった。この件で、寺田と緋色は、有能だった鳥井の同期の今尾に恨まれることになる。 社長と捜査員の入れ替わりという設定があまりに突拍子すぎ。社長と鳥井警部補のこの作戦はあまりにリスキーではないのか。轢き逃げ事件の隠蔽のため、共謀して殺人まで計画するという動機の点でも無理を感じるのだが。
「復讐日記」…元交際相手の是枝麻衣子から相談に乗ってほしいという電話を受けた大学生の高見恭一は、向かった彼女のマンションで転落死した彼女の変わり果てた姿を見て錯乱する。何者かによって自室のベランダから落とされたらしい。彼は、自分の指導教官の奥村が麻衣子の新しい交際相手で、奥村の子を妊娠した彼女を邪魔に思った奥村が彼女を殺害したのではと予想する。奥村を問い詰めるとその通りであり、逆上した高見は奥村を刺殺。ところが、事件を記録した高見の日記が空き巣によって盗まれ、それが警察に届けられたことで彼に捜査の手が伸びる。警察の手から逃れようとした高見は交通事故で死亡し事件は終結したように思われていた。 エアコンを使ったトリックは陳腐ではあるものの、架空の日記と組み合わせることによって殺人の順序を入れ替え、加害者と被害者を入れ替えてしまうという展開はそれなりに目を引く。しかし、面白いかと言われると…。 「死が共犯者を別つまで」…寺田は交通事故を目撃し、被害者の友部義男が25年前の9月に交換殺人を行ったことを彼に告白して死亡する。殺害した相手は聞き取れなかったが、友部の伯父が25年前に強盗に殺害されており、友部が遺産を引き継いで、事件は未解決になっていることが明らかになる。緋色は25年前の9月に起こった未解決事件を調べ、寺田は交換殺人のもう一方の事件に見当を付ける。しかし、緋色は彼の推理を否定。25年前の友部と、交通事故死した友部は別人であると言う。そして、同じ時期に駅のホームで突き落とされて殺害されていた斉藤千秋の夫、斉藤明彦が共犯者であると推理し、友部の伯父殺しの犯人は友部の妻、真紀子であると断言する。真紀子は千秋殺害後、夫の友部も殺害し、過去の共犯の明彦を友部に仕立てて一緒に暮らしていたのだった。 過去の事件の中から、複数の交換殺人事件候補が並べられた時点で、寺田の予想する事件の組み合わせと、実際の組み合わせは違うのだろうという予想は付くが、犯人当てまではさすがに難しい。交換殺人トリックとしては、なかなか良くできていると思うが、やはり物語として面白味に欠ける。
「炎」…本田英美里は、幼稚園の時、両親と叔母を一度に亡くした。叔母の元交際相手が3人を毒殺し、家に火を放って逃亡するという事件を起こしていたのだ。英美里の母は、その時妊娠中であり、彼女は一度に4人の家族を失ったのであった。その元交際相手は、逮捕されるどころか何者かも分からないままであった。 これもなかなかにトリッキーな作品である。しかし、寺田の推理は元捜査一課とは思えないほど馬鹿馬鹿しいものであるし、警察が焼死体を取り違えるということもあり得ないと思われる。歯形などから姉妹のどちらかは確実に明らかになるはずで、妊娠していた女性が、世間での話とは違っていれば、当然事件の真相に警察は気付いたはずだ。 「死に至る問い」…26年前に起きた殺人事件と全く状況が同じ殺人事件が起き、捜査一課の元同僚達が、寺田の所へ過去の捜査資料を取りに来る。複雑な気持ちになる寺田。警察は同一犯の犯行と見て捜査を開始するが、そのような状況の中、監察官の兵藤が博物館を訪ねてくる。兵藤は26年前の捜査関係者の中に真犯人がいるのではないかと考え、再捜査に実績のある緋色に極秘捜査を要請してきたのだ。両方の事件では、被害者のセーターの袖に、被害者とは別の血痕が付着していた点まで一致していたが、緋色は、その両方の事件の血痕に血縁関係はなかったのかという質問を記者会見の場で行った新聞記者・藤野純子こそ犯人であると断言する。藤野は、子供の頃父に虐待されていた。藤野は、ある日、自分を襲わせようと父が連れてきた福田富男という男を正当防衛で殺害してしまう。父はその死体を捨てるが、その死体に自分の血が付いていたことを後で知り、藤野に密告され自分が殺人犯とされてしまうことを恐れ藤野への虐待をやめたが、その後間もなく死亡。結婚し子供をもうけた藤野は、父と同じように子供を虐待してしまう自分が嫌になり、父との血縁関係がないことが判明すれば、自分は子供を虐待しなくて済むという妄想に取り憑かれる。そして彼女は、当時の福田富男と同じ年齢の何の罪もない渡辺亮を殺害し、自分の子供の血液を遺体に付着させて、警察に血縁関係を調べさせようとした。彼女は父と血縁関係がないことを聞かされ、安らかな笑顔で微笑んだのだった。
なぜ事件の真相に気が付いたのかという寺田の問いに対し、「同じようなことを考えたことがあったから」と意味深な答えを返す緋色。今後の続編の伏線だろうが、次元が異なれば多かれ少なかれ似たようなことを考えたことは誰にでもあるのではなかろうか。例えば自宅前に不法投棄があっても、よほど悪質なものでないかぎり警察は捜査などしてくれないだろうが、そこに死体があったら警察は指紋採取やら何やら必死にやって、元の持ち主を見つけ出してくれるだろうにという想像は何度もしたことがある。 突っ込みどころも多いが、どのエピソードも「犯人の意外性」という点では素晴らしいと思う。しかし、何より気になるのは、先に何度も述べたが、面白味に欠ける点だ。問題はキャラクターだと思う。メインの寺田と緋色の人間的魅力が全くないのだ。寺田は捜査資料を容疑者宅に放置するという致命的なミスを犯し、犯罪資料博物館に左遷されてくるわけだが、ここに全く同情の余地がない。もっとやむにやまれぬ事情、例えば事件の被害者の人権を守るために上司に楯突いたとかいうなら、そこに魅力が生まれるわけだが、彼の場合は誰の目から見てもやってはいけないミスだ。そして、左遷先の博物館でも、これといった情熱的な捜査をするでもなく、中途半端な推理で緋色にいいようにあしらわれるだけの存在である。かといってコミカルな味わいがあるわけでもない。そんな彼に引かれる読者などいるわけがない。緋色に至っては、頭がいいだけの、ただのつまらないクールビューティである。時折見せる人間味というものがなければ、そのキャラ設定は生きてこないだろう。 |
『黒野葉月は鳥籠で眠らない』(織守きょうや/講談社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2016年版(2015年作品)19位作品。 弁護士生活2年目に入ったばかりの木村龍一が、先輩弁護士の高塚のアドバイスを受けながら様々な事件に向き合う中で、隠されていた事件の真相に気付き困惑する様を描いた作品。 「黒野葉月は鳥籠で眠らない」…大学生の皆瀬理人は、自分が家庭教師をしていた教え子の高校生・黒野葉月に淫行をさせた罪で逮捕されるが、接見室に現れた皆瀬の他人事のような態度に対し、木村はいらだちを感じる。しかし、関係者に話を聞けば聞くほど木村は困惑する。さらに、弁護士事務所に現れた葉月自身の証言によって、葉月の方が皆瀬につきまとい、自室で皆瀬を押し倒したところを葉月の父親に見つかって通報されたことが明らかになる。葉月は皆瀬に前科が付かないように、彼が起訴されるまでに両親を説得すると言う。 病的で極悪な女ストーカーの話かと思いきや、実は恋愛小説で、最後にはハッピーエンドを迎えるという何とも言えない作品。散々振り回された読者は「なんじゃそりゃ」と呆然とするしかないのだが、まあ、それが作者の狙いでもあるのだろう。
「石田克志は暁に怯えない」…木村のロースクールでのクラスメイトだった石田は、夢より大事なものができたと言ってロースクールを辞め、結婚して働き出したのだが、その石田の妻から、彼が住居侵入の罪で捕まったと木村に連絡が入る。実はその家は、石田を彼の母親と共に捨てた、資産家でもある石田の父の家であった。難病で余命幾ばくもない息子の手術代を借りに行って断られたが、再び引き返したところを、事情を知らなかった家政婦に通報されたということで、彼はすぐに釈放される。しかし石田は木村に住居侵入は本当だと告白する。彼は息子のために本当に盗みを働く気でいたのだと。 前作に引き続き、色々と法律の知識は学べる。身内の家に泥棒に入っても罪に問われることはないとか、子が親を殺せば、その子は相続権を失うが、その子の子、つまり被害者の孫は相続権を得られるとか…。そういう法律ネタをちょこちょこ入れて、読者にへぇーと思わせて油断させておいて、何かを仕掛けてくるのがこの作者の常套手段らしい。弁護士を目指していた石田が、結婚のためにゴミの収集作業員になったという設定が極端にベタすぎてどうかと感じた以外は普通の話であった。ここまで読んでも、まだ作者のスタイルは完全に掴みきれず、戸惑いながら読み進めることになる…。
「三橋春人は花束を捨てない」…行きつけの弁当屋の店員である深浦葵子に、後輩の三橋の離婚のことで相談に乗ってやってほしいと頼まれる木村。三橋は、妻が浮気しており、離婚を考えているが、お金はいらないから1歳の娘の親権だけは欲しいと訴える。木村の働きもあって、無事離婚が成立し、実は両想いであった葵子と三橋がいい雰囲気になるのを微笑ましく見守っていた木村であったが、木村は恐ろしい事実に気付いてしまう。三橋は、独身の時から葵子に迫っていたが、子供が産めないことを理由に彼の求婚を葵子は受け入れなかった。そこで、三橋が考えたのが、離婚を前提に結婚して子供を作るという策だったのだ。 誰かが死ぬような話ではないが、人間の恐ろしさをちょっと変わった方向から示してくれる話。バッドエンドのようで実はハッピーエンドだった第1話と逆で、ハッピーエンドのようで実はそうではなかった(悪人と思われていた三橋の妻が一番の被害者だった)という物語。高塚の言葉が全てを物語っている。 「小田切惣太は永遠を誓わない」…先輩の高塚は、木村が憧れている芸術家・小田切の顧問弁護士であった。高塚に連れられて、喜んで小田切の自宅を訪れた木村は小田切遙子という小田切の妻らしき美しい女性に引かれる。その後、彼女が実は小田切の娘であったことを知り驚く木村であったが、2人の異様に親密な様子と、遙子の泣いている姿を見てしまった木村は、小田切の性的虐待を疑う。
これまでの話と同じように、法の力を利用して望む幸せを得よう必死になる人間の姿を描いているのだが、第2話や、第3話と異なるのは、その人間が決して罪を犯したり、人を傷つけたりはしていないことだ。確かに小田切の遺産を相続できない親兄弟は傷つくだろうが、小田切をそれまで傷つけてきた人々なのだから、これは致し方あるまい。本来得られるべき小田切の妻という座を得られない彼女こそ、一番の被害者とも言えるが、これは彼女が選んだ道である。彼女は、これで幸せなのだろう。 |
『ダブル』(深町秋生/幻冬舎)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2011年版(2010年作品)14位作品。
CJ(クールジュピター)というインド系製薬メーカーが開発した中枢神経刺激薬は、その興奮作用の強さから6年前に販売が禁止されたが、他の薬物に比べて圧倒的な安さのため日本国内で蔓延していた。神宮ェ孝会長とその部下である四天王(軍事担当の鏑木・物流担当の宋、弁護士の小林、買い付け担当の久我)の率いる新興組織・神宮ファミリーは、そのCJの密売で急成長しており、組織の一員であった刈田誠次は、弟の武彦とともにその勢力拡大に一役買っていた。しかし、組織を裏切った兄貴分の五木を処分する仕事をこなしたことをきっかけに、武彦は組織内で御法度だったCJを服用し、警察ともトラブルを起こしたため、組織に追われるハメになる。刈田は元恋人の関根美帆に武彦を一旦預け、偽造パスポートで海外へ逃がそうとするが、組織内でスパイ調査を専門にしている阪本克也によって刈田と武彦は拉致される。
決して面白くないわけではないが、選りすぐられた「このミス」ランキング上位作品の中にあっては、可もなく不可もなくといった感じ。主人公が2度も奇跡的な生還を遂げ、しかも息子の存在を知って元気が出たのか、瀕死の状態で病院を抜け出し姿をくらますラストは、感動するどころかヤリスギ感を感じてしまうが、それ以外は良くできているのではないかと思う。 |
『落下する緑 永見緋太郎の事件簿』(田中敬文/東京創元社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2007年版(2006年作品)14位作品。ジャズバンド「唐島英治クインテット」のメンバーで、音楽以外に興味のないちょっと変わり者のテナーサックス奏者・永見緋太郎が華麗な推理で音楽に関する事件の謎を解く本格ミステリー。主人公は永見だが、語り手は唐島となっており、「落下する緑」「揺れる黄色」「反転する黒」「遊泳する青」「挑発する赤」「虚言するピンク」「砕け散る褐色」の7編を収録。作者は「落下する緑」でデビューしながら、その後なぜかミステリーの依頼がなく、ジュブナイルやSF、伝記ホラーといったジャンルの方面で仕事をし、10年もすぎてから続編のオファーが来たのだという。 「落下する緑」…唐島に連れられて抽象画の第一人者・宮堀重吉の展覧会にやって来た永見は、一緒に飾られていた弟子の菊池修介の凡庸な風景画に興味を持つ。そんな時、宮堀の最新作が図版とは逆さまに展示されていることが発覚して宮堀は激怒し菊池に直させるが、そこで永見はあることに気が付く。実は、図版の方が逆さまであったのであり、正しい上下を知っていた菊池こそがこの作品の真の作者だったのだ。菊池は父親の弱みを握られやむなく代作を描かされていたのであった。 ストーリーは普通だが、緑と金色の点の集まりにしか見えなかった絵の中に、金色のテナーサックスが浮かび上がって見えたというラストシーンが印象的。文庫版の表紙もこの絵がモチーフになっており、このアイディアはなかなか。ありえないくらいデリカシーのない美術館職員が登場するが、この人物のせいで永見の変人ぶりがかすんでしまっているのが少々惜しい。当初のプロットでは、職員のセリフも永見に割り振るつもりではなかったのだろうか。 「揺れる黄色」…唐島氏に連れられて今度は国際的なクラリネット奏者である牧沢のステージにやって来た永見は感動して涙を流す。牧沢はキング・オブ・ジャズ・クラリネットと呼ばれたアニー・エドマンからクラリネットを譲られた正真正銘のキングの後継者であった。翌週再び彼の出演するコンサートに向かった唐島と永見。永見は牧沢の兄弟弟子の野々山の演奏を全然面白くないと酷評する。そんな中、楽屋に置いてあった唐島の財布から札が盗まれ、さらに牧沢のクラリネットからバネが消えていた。野々山が自分のクラリネットからバネを外して貸すことで、そのコンサートは無事終わったが、その後の別のコンサートで、野々山は自分こそがアニー・エドマンから彼のクラリネットを継承した真のキングであると宣言し周囲を驚かせる。アニー・エドマンの大親友であったデヴィッド・クラハシが、牧沢のクラリネットを自分が作った模造品であると断定し野々山は勝ち誇るが、永見は野々山が15年もかけて少しずつパーツをすり替えていったという推理を披露する。しかし、牧沢はそのクラリネットは野々山にやると言ってステージに上がる。牧沢のアニー・エドマンの魂のこもった牧沢の演奏に野々山は涙を流すのであった。 少しずつパーツをすり替えて相手の楽器を盗むというトリックは斬新であるが、細かいパーツはともかく、さすがに大きなボディ部分は傷や手触りなどで気が付くのではないかと疑問を持った。15年もの間一度も見つからずに全てのパーツをすり替えたというのもかなり無理のある話。最後に自分が犯人でないことを示すためにバネの貸し借りを演出したことになっているが、このような騒ぎを起こさない方がすり替えを隠すには良かったのではないか。潔くクラリネットを譲ってしまって自分の演奏で何かを伝えようとする牧沢に対し、素直に野々山が敗北を認めるラストは気持ちが良い。 「反転する黒」…バンドメンバーであるピアニストの中島千鶴の様子がおかしいことに気が付く唐島。彼女は、自分の尊敬するトランペット奏者で、失踪していた桜島祐介の最近の写真を入手し、演奏に集中できていなかったのだ。北野天満宮の半纏を着た男がエスカレーターの左側に写っており、半纏の文字が逆になった裏焼きされたらしい写真だったことから、エレベーターの右側に乗る習慣のある京都を捜索するが全く見つからない。そこで永見は、写っている男が半纏を裏表逆に着ているだけで写真が裏焼きではないことに気付く。男がエスカレーターの左側に乗っているのならば、東京の北野天満宮の近くで撮られた写真ではないかと考えられ、その後桜島は程なくして見つかる。しかし、彼はかつての力を失っていた。女優の椎崎ルミにふられた桜島はコンプレックスだった唇の疣を切除したが、そのせいで昔のように吹けなくなったのだ。千鶴はバンドを辞めて桜島と共に喫茶店を始め、いずれライブハウスにするという夢をもつのであった。 写真の裏焼きトリックは子供向けの雑誌の付録についていた小冊子などで昔よく見たが、本当に久しぶりに見た。結局裏焼きではなかったわけだが、オチも含めて今一つの作品。 「遊泳する青」…5年前になくなった大ベストセラー作家でジャズにも詳しい湖波性太郎の肉筆原稿の展覧会に唐島に連れて行かれた永見は、特徴のある下手な字に驚く。そこで大手出版社の編集者の加藤から、性太郎の未完の遺作『遊泳する青』のラストシーンまでの原稿が発見されたという話を聞く唐島。しかし、加藤は、その原稿が性太郎が使っていなかったワープロによる原稿であったことから、金に困っている性太郎の妻が捏造したものではないかという疑いを持っていた。その後肉筆の原稿を妻が提示し、鑑定に立ち会った永見は作者が書いた本物だと断定する。しかし、それは性太郎が書いたという意味ではなかった。真の作者は正太郎の年老いた母だったのだ。永見は性太郎の作品を読んだことはなかったが、絵本作家だった性太郎の母が書いた本は読んでいたため気が付いたのだった。 最初に笑い話として永見がさりげなく紹介した絵本が実はこの物語の大きな伏線で、ラストシーンで生きてくる点は良かったが、ゴーストライターという『落下する緑』とモチーフが全く一緒なのはいただけない。このエピソードだけではさすがに物足りないと思ったのか、作者は例のワープロに入っていたフロッピーから性太郎自身が書いたと思われる味わいのある長文エッセイが発見され唐島を喜ばせたという後日談が付け加えられているのだが、性太郎は結局ワープロは使わなかったという結論で終わるところだったのに、また議論を再燃させるような話を追加したのはどうかと思う。『遊泳する青』というタイトルに深い意味がないのも気になる。 「挑発する赤」…提灯記事ばかり書く嫌われ者のジャス評論家の石倉康宏は、大口を開けてシャウトする歌い方から「挑発する赤」との異名を持つ偉大なシンガー、ビッグ・アルの怒りを買う。アルのコンサートの後、彼の前で彼の歌を絶賛した石倉であったが、彼は声帯を手術した後歌えなくなり、ハープ奏者として活躍していたことを石倉は全く知らなかったのだ。石倉の見当違いの非難記事のせいで自殺したピアニスト・黒川長治の娘で音楽雑誌の編集者となっていた有明淑子は、アルの歌を絶賛した石倉の記事を雑誌に載せることで復讐を企んでいたが、石倉が編集長にかけた圧力により失敗。しかし、有明の上司の鉢辺の策略によって、大御所の大熊のレコ評に対し石倉がそれを酷評する記事を書いたことによって、石倉はジャズ界で死んだも同然になるのであった。 『落下する緑』の宮堀にしろ、『揺れる黄色』の野々山にしろ、『遊泳する青』の湖波夫人にしろ、今回の石倉にしろ、作者はこれでもかというくらいの悪役を描くのが得意なようだ。悪役が強烈だからこそ勧善懲悪のストーリーが引き立つわけだが、シンプルな勧善懲悪ものが少なくなった現在では逆に新鮮な感じがする。勧善懲悪が当たり前だったアニメや特撮モノですら、現在は敵側のドラマも描くことが当たり前になっている時代だ。 「虚言するピンク」…尺八奏者の染田研一郎に弟子入りした元フルート奏者のデイブ・スプリングは、日本の家元制度に不満があり、それ以上に技術を教えてくれない師匠に大きな不満を持って荒れた生活を送っていた。ストレスのたまっていたデイブに永見はフルートを吹かせるが、それが師匠の耳に入り、師匠から「二枚舌」だと言われ破門されたと彼は落ち込む。エレベーターガールに暴行を働いたと言うことで警察に連れて行かれたデイブであったが、彼は彼女の「下に参ります」という言葉を「舌2枚あります」と聞き違えて憤慨しただけだった。師匠の言葉も「そんなことじゃあ破門にするぞ」と言ったのを勘違いしただけであった。そして、師匠はフルートで尺八の曲を演奏するようにデイブに指示し、見事な演奏を披露したデイブは、師匠が伝えたかった「自分の心を表現する」という極意を会得し満足するのであった。 悪い話ではないが、メインはただの駄洒落で全く面白くはない。 「砕け散る褐色」…片桐芳彦は国際的に活躍する素晴らしい技術を持ったベース奏者であったが、人間的に問題がありすぎて、誰もが共演を嫌がる存在であった。そんな片桐と、唐島や永見は「グレイト・ジャズ・バイ・ザ・シー」というイベントで共演することになる。案の定、そこで多くの出演者とトラブルになる片桐。そして事件は起こる。3,000万円もする片桐のベースに穴が開けられたのだ。永見は自分を共演させてくれれば犯人が分かると言って、片桐と同じステージに上がる。それは共演者の性格を知るための策であった。結局、楽器を壊せるような性格の人間は共演者の中にはおらず、金に困っていた片桐の自作自演を臭わす永見。片桐は必死に否定するが、実際に片桐は共演者の山岡に保険金目当てでベースを壊すように指示しており、山岡はそれを実行できなかっただけだった。そして、永見は真相を語る。ベースの中には300年前のベースの製作者がカミキリムシを仕込んでいて、何世代もベースの中で生き続けてきたカミキリムシがついに本体を食い破ったというのだ。このベースが毎年音を変えるのはカミキリムシのせいだったのだ。自然に壊れたベースに保険が下りることはなく、老人のようになった片桐はその場に膝をつくのであった。 作者の描く強烈な悪役像は健在だが、ベースの中で300年世代を重ねて生き続けるカミキリムシのインパクトは絶大。生理的に気持ち悪くてしょうがないという読者もいるだろう。前代未聞のミステリのオチだが、賞賛に値するかどうかは…。 各章の間に挟まるジャズアルバムの紹介コーナーも含め、ジャズの魅力をアピールしようとする作者の気持ちはひしひしと伝わってくる。ちょっと聴いてみようかなという気になったのも事実(実際にYouTubeで何曲か聴いてみた)。永見のキャラも面白い。あとはミステリとしての面白さがもう少しあれば…。 |
『ロンド(上/下)』(柄澤齊/東京創元社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2003年版(2002年作品)8位作品。
実物を目にしたことのある人間が数えるほどしかいないという幻の絵画「ロンド」。作者の三ツ桐威は、20年前にその「ロンド」が絵画大賞に選出されたものの受賞を拒否し、その後間もなく交通事故で死亡、「ロンド」は行方不明になる。津牧寧紀は当時11歳であったが、三ツ桐威の作品の魅力に取り憑かれ、三ツ桐威の作品の35%を所蔵しているSHIPこと多薙市立美術館に学芸員として勤めるようになっていた。 |
『チルドレン』(伊坂幸太郎/講談社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2005年版(2004年作品)16位作品。 「バンク」…大学生の鴨居は、友人の陣内が営業終了間際の銀行に無理矢理バイト代の引き出しに行くのに付き合って銀行強盗事件に巻き込まれる。強盗が現れる前に銀行員にごねていた陣内は、強盗に対しても恐れることなく反抗的態度を取り、鴨居を呆れさせるが、泣き出した婦人に対し歌を歌うことで落ち着かせる心遣いに感心したりもする。人質の1人で盲目の青年の永瀬は、鴨居に銀行員全員が強盗とグルであることを見抜き、犯人はもちろん人質全員にお面をかぶせることで、少しずつ人質を逃がすついでに犯人も一緒に逃げるという計画であるという推理を語る。最初に解放された鴨居、永瀬らは警察にそのことを話すが信じてもらえない。結局事件は、犯人が2億円と共に姿を消すという結末を迎えた。銀行員が全員グルだったらこの銀行で定期預金を作ると豪語していた陣内は、本当に定期預金を作ろうとしていたが、預金する金があるのかとからかう鴨居に対し、強盗にあった時にカウンターにあった30万円を陣内は持ち出しており、それを自慢げに鴨居に見せびらかすのであった。 犯人が解放される人質に紛れて逃亡するというトリックはありきたりで、陣内の行動はあまりにも無茶苦茶。銀行員に対しヤクザのようなごね方をしたり、銀行の金を強盗のどさくさに盗んだり…。描かれる警察もあまりに無能。この物語だけだったら本書は好きにはなれなかっただろうが、しっかりとこの後の続きがあるのだ。
「チルドレン」…「バンク」から時は流れ、陣内は家裁調査官になっており、主人公はその後輩の28歳独身の武藤。武藤が過去に担当していた高校生の木原志朗が誘拐事件に巻き込まれ、身代金を払って解放されていたことを陣内に知らされ驚く武藤は、当時のことを思い出す。 陣内のイジメの解決方法とそれを思わず実践してしまう武藤、そして万引き少年に付き添って家裁にやって来た男が実は空き巣だったという話の展開は結構面白い。しかし、相変わらずの警察の無能な描き方と、笑えないオチに対しては素直に評価できない。
「レトリーバー」…今回は永瀬の恋人の優子が主人公。時間軸はまた少し戻り、「バンク」と「チルドレン」の間の物語となる。大学卒業を間近に控え、家裁調査官を目指して勉強中だった陣内は数時間前に失恋したばかりで、優子と永瀬の2人はその現場に立ち会わされたのだった。振られたことに納得の行かない陣内は、永瀬と優子に、カポーティが小説の中で「誰かが恋人と別れたら、世界は彼のために動くのをやめるべきだ」と語っているように、「このへん一帯の世界は、動くのをやめたようにしか思えない」と言い出す。ベンチに座っている男女は2時間以上も難しい顔をして話をしているし、その右側のベンチでは怒った顔をした男が鞄を抱えて2時間以上も何かを睨んでいるし、さっきの男女の手前では20代後半の男が駅の階段の手すりに寄りかかって2時間以上音楽を聴いているし、植え込みの花壇の端に座っている女性は文庫本を2時間以上読み続けているのに最初の数ページから読み進んでいないと言うのだ。この現象が気になってしょうがない陣内は文庫本の女の所に自らアンケートを装って聞き込みに行き、さらに鞄を持った男の所へ永瀬を行かせようとする。そして、鞄を持った男に「おまえか」と聞かれた永瀬はこの現象の正体に気が付く。 物語の世界観がどんどん広がっていくのは面白い。しかし、この物語自体は可もなく不可もなくといった印象。
「チルドレンU」…陣内に誘われて呑みに行く武藤。以前「俺たちは奇跡を起こすんだ」と頼もしいことを言っていた陣内が、「奇跡?そんなの起こるわけないだろうが」と言うのを聞いた武藤であったが、陣内が自分の発言に責任を持たないことは日常茶飯事だったので、彼は幻滅することも驚くこともなかった。その店は、陣内が過去に関わった丸川明という青年がアルバイトをしている店だった。明には嫌がられるが、陣内はたまたま来ただけだと主張する。駄目親父に反発した明は前のアルバイト先で暴力事件を起こし高校を退学になっていたのだが、そんな明に陣内は自分のバンドの曲の入ったミニディスクを渡す。 オチを筆頭になかなかいい話だとは思うが、やはり色々と気になる点が。まず、武藤が修次を信じてみようと思うきっかけがちょっと単純すぎる。ほんの一瞬の娘を守ろうとする態度から、それまで浮気を繰り返す男という悪印象を持っていた武藤の修次への意識がそこまで変わるのはどうか。また、その修次を観察するのが目的でライブ会場にやってきた明が、最初から最後まで修次にまったく無関心なのもどうなのだろう。明が父親との関係を修復できたところで、明の母が離婚を考えていることには変わりなく、決してハッピーエンドとは言い切れないこの話。結局、明の両親も、大和夫婦も完全に問題は解決していないわけで、モヤモヤ感が残る。もう少しスッキリした終わり方にしてほしかったところ。
「イン」…銀行強盗事件の1年後の物語。駅前のデパートの屋上のステージ前のベンチに座っている永瀬と優子と鴨居。ここで陣内が一昨日からバイトをしていると聞いてやって来たのだ。
武藤とのエピソードの中で、陣内が自分の父親を自分が殴ったと気付かれないように殴ったという話の真相がここで初めて明かされる。着ぐるみにいきなり殴られた父親は当然怒ってデパート側を訴えて問題にするはずなので、陣内が殴ったことが分からないままコトが済むわけはないと思うのだが、そこは伊坂ワールドのことなので気にしてはいけない部分なのだろう。 |
『殺人の門』(東野圭吾/角川書店)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2004年版(2003年作品)18位作品。
小学校の同級生の倉持修に連れて行かれたインチキの賭け五目並べで散財した田島和幸は、祖母の遺体からお金を盗む羽目になり、それ以来倉持を恨むようになる。和幸の父の健介は腕のいい歯科医で、家は比較的裕福であったが、老衰で死んだと聞いていた祖母が、実は母の峰子によってヒ素を使って毒殺されたという噂が広まり、家庭の崩壊が始まる。しかし、和幸はそのことをきっかけに人の死に異様な関心を持つようになる。和幸は、家政婦のトミが家に出入りしている税理士のみならず父とも関係を持っていることを知り、父に嫌悪感を抱くが、両親が離婚することになると、堅実な生き方ができそうにない母よりも父に付いていくことを選ぶ。父は志摩子という愛人を和幸に会わせるが、彼女の目的は父の金であった。しかも彼女の本当の恋人の男が嫉妬に狂って父を襲い、父はその後遺症で歯科医を続けられなくなる。やむなく土地家屋を手放してアパート経営を始める父であったが、勤労意欲のない父には無理な話であった。
一言で言えば「現代版・人間失格」。昭和の時代に頻発した様々な詐欺事件をモチーフにして、なんとも救いようのない馬鹿な男を描いた作品。もちろん一番悪いのは悪党の倉持なのだが、何度も彼を殺害する計画を立てながら、彼の時折見せる人間的魅力や、時には財力に惹かれて先延ばしにしてしまい、どんどん人生のどん底に落ちていく和幸は、とにかく愚かとしか言いようがない。彼が考えていたように彼の父も愚かであったが、彼自身も彼が気が付いているように相当の愚か者だ。これだけの厚さの作品を最後まで一気に読ませるのは、さすが東野圭吾作品だが、「いい加減気づけよ!」と読者はイライラしっぱなしで、読んでいて気分が悪くなること必至の1冊である。 |
2016年1 1月読了作品の感想
『片想い』(東野圭吾/文藝春秋)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2002年版(2001年作品)15位作品。
第1章…主人公の西脇哲朗ら帝都大学のアメリカンフットボール部のOBで東京に住んでいる者だけが、年に1度、新宿の鍋料理店に集まるようになって今回で13回目。スポーツライターとなった哲朗は、マネージャーだった理沙子と結婚して8年以上たつが、理沙子と、彼女と一緒にマネージャーをしていた日浦美月、そして当時美月と交際していた中尾だけが不参加であった。そしてメンバーの須貝と共に帰途についた哲朗は美月と出会う。筆談を行う彼女の要望で哲朗は須貝と共に自宅へ彼女を連れて行くが、彼女は予想していた喉の病気などではなく、男の声を発して哲朗らを驚かせる。彼女は生まれつき性同一性障害で、金串で声帯を傷つけることによって男の声を手に入れ、現在はホルモン注射をしているという。
第2章…刑務所に入って男になる夢を捨てることは美月にとって絶対に良くないことだと言って譲らない理沙子に渋々ながら同意する哲朗と須貝。帰って行った須貝の代わりに、今度は中尾が現れる。須貝の妻から話を聞き、哲朗の家に美月がいるとピンと来て会いに来た
らしいのだ。中尾は大きなショックを受けることもなく、彼女を警察から守ることに賛成する。理沙子は、警察の目から逃れるため、美月に女の姿に戻った方が良いという前言と矛盾した提案をするが、美月は納得しない。
第3章…哲朗は、美月と会ってから、半陰陽という性の分化がうまくいっていない病気を持つ高校の陸上選手である末永睦美に興味を持つ。彼女と話ができるよう関係者にお願いした哲朗のところへ、恐れていた連絡が来る。早田が取材場所へ一緒に来てほしいというのだ。そこはまさに美月に殺害されたストーカー男の自宅であった。男の母親と元妻を取材した後、「猫目」の
香里の所にまで連れて行かれ当惑する哲朗。そこには警察の捜査の手も伸びていた。早田は、哲朗に対し、お前達は何かを知っていて隠しているが、お前のことはターゲットにせず、別のルートから事件を暴くと宣言するのだった。
第4章…男中心のビリヤードの世界で50歳を越えて活躍している田倉昌子を取材する哲朗。田倉は、「男だとか女だとかいいだすから話が面倒くさいんだよね。あたしは早くそういうものから解放されたいよ」と笑い飛ばす。睦美の話を聞いた美月は、哲朗による睦美の取材に同行したいと言い出す。取材を受けた睦美は美月に興味を示し、取材に協力的であったが、取材後、俺たちは来るべきではなかったと言う美月。
第5章…美月の件を相談するため中尾の自宅を訪れる哲朗であったが、中尾は自分が離婚することになっており、妻の父親が用意したこの家から出て行かなくてはいけないことを哲朗に告げる。次に哲朗は香里のアパートを訪れるがそこはすでに人が住んでいる気配はなかった。翌日の夜、「猫目」を訪れた哲朗は、香里がそこを辞めていたことを知る。今度は美月の実家を訪れる哲朗。美月の両親は、早くから美月の以上に気が付いており、長い間苦しんでいたことを聞かされるが、美月の行方は掴めなかった。
第6章…須貝に紹介された「BLOO」というおなべの店を訪れた哲朗は、そこの主人の相川に美月と香里の写真を見せるが見覚えはないという。しかし、従業員の青年が、香里と一緒に写っていたクリスマスツリーを劇団金童の芝居の中で見たと言う。相川に主宰者の嵯峨正道の自宅を教えてもらい、彼の元を訪れた哲朗であったが、劇団の小冊子をもらえただけで、嵯峨からは何の情報も得られなかった。須貝から中尾と連絡が取れないという電話を受けた哲朗は再び中尾の自宅へ赴くが、中尾の妻の律子から離婚が成立したことと彼が出ていったこと、そして彼の連絡先も知らないことを告げられる。そして早田に呼び出された哲朗は、警察にこの事件を解決することはできないと断言する早田から、この事件にこれ以上タッチするなと忠告される。
第7章…佐伯香里と立石卓の入れ替わりを確信した哲朗。理沙子は戸倉が香里の出したゴミから入手したと思われる美月の戸籍謄本の件を気にするが、それは美月も誰かとの入れ替わりを計画していたことを示していると考えられた。翌日、再び嵯峨のマンションを訪れた哲朗は、「猫目」で会った望月刑事が出ていくところを目撃する。捜査の手はこんな所にまで伸びていたのだ。哲朗が、クリスマスツリーを持ち込んだ人物の連絡先を教えないと、警察が捜している佐伯香里の正体が立石卓という男性であることを警察にばらすと嵯峨を脅すと、嵯峨は哲朗に勝手にパソコンのデータを調べさせるために部屋を出て行く。立石卓の連絡先を見つけた哲朗であったが、前回入手した小冊子の原稿データに目を通している内に、ある芝居の主人公のモデルが自分自身であることに気が付く。そして小冊子を先に読んでいた理沙子はそのことにすでに気付いていた。そして2人はその芝居の脚本を作ったのは中尾であるという結論にたどり着く。
第8章…三たび嵯峨と接触した哲朗は、嵯峨と中尾の出逢いがゴルフ練習場であったこと、そして中尾には、男の心を持った女、女の心を持った男、男に化けた女、女に化けた男を見抜く超能力があったことを聞かされる。さらに、失踪した中尾の母が、男の心を持った女、つまり性同一性障害を持った人物であり、そのことが中尾の超能力に関係しているのではないかという話を聞いて驚く。そうして戸籍交換のシステム作りに手を貸すようになった中尾と連絡が取れなくなり困っていること、中尾が「自分たちのしていることは、単に物事を鏡に映して逆さまにしているだけで、内容は少しもよくなっていないんじゃないか」とこぼしていたことを嵯峨は哲朗に語る。
第9章…佐伯香里の代わりに哲朗の前に現れたのは美月だった。美月は、中尾が死ぬ気だという。戸倉が、自分が追い回していた佐伯香里が男であることを知り、さらにそれを邪魔していた美月が女であることを知って、復讐のため美月を襲う計画を立て、その美月を救うために中尾が戸倉を殺したことを語る。中尾は自殺することで事件を終結させ、戸籍交換システムに関わる人々に警察の手が伸びないようにしようとしているというのだ。その根拠として、離婚に加えガンの再発の可能性を知った哲朗は、理沙子と合流し、早田の情報提供によって、ついに中尾を見つけ出す。中尾は、哲朗達に自首とガンの治療を約束して去っていくが、結局ガソリンをかぶって火を付け車ごと崖下へ転落して壮絶な死を遂げる。
第1章では、親友とは言え、殺人を犯し自首しようとしている友人を、全責任を持つと言って引き留める理沙子に引いてしまう。他にも本作を読んでいて色々なところで彼女に嫌悪感を抱く。仕事に情熱を持っているのは分かるが、こんな女性と結婚生活を続けている哲朗が不憫でならない。彼女が結婚に向いていない女性であることは確かだ。第2章は、理沙子に続いて、勘の鋭い新聞記者の早田から情報を得ようとして主人公達を危機に陥れる須貝にいらっとする。こういうキャラはどんな作品にもありがちだが実に愚かすぎる。第3章では、早田の勘がいくら鋭いからと言って、ここまで哲朗を疑って彼につきまとう早田に強烈な違和感を感じる。そんなに須貝の交友関係は狭く、須貝と哲朗の中が良いのか?ここはかなり無理を感じる場面だが、この件については、後に戸倉の自宅から美月の戸籍謄本が発見された事実を早田が掴んだらしいことが語られる。しかし、それにしても須貝と美月の2人が事件に関係していることから、哲朗へ早田の関心が向くことについてはやはり納得が行かない。そのくせ哲朗とは別ルートで事件の真相を暴くと言っている早田の真意がよく分からない。 |
『疾走(上/下)』(重松清/角川書店)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2004年版(2003年作品)14位作品。 第1章…舞台は筆者の故郷の岡山県あたりであろうか。主人公のシュウジはごく普通の家庭に生まれた素朴な少年であった。昔ながらの「浜」に住む者は、干拓によってできた「沖」に住む者を見下していた。「浜」に住んでいたシュウジは、小学3年生の頃のある日、自転車が壊れて困っているところを、「沖」に住む流れ者で名の知れたならず者だった「鬼ケン」とその恋人のアカネの軽トラに助けられ、強烈な印象を植え付けられる。その「鬼ケン」はやがて何者かに殺され、アカネは町から姿を消した。 第2章…小学6年生になったシュウジ。「沖」にできた教会の神父はムショ帰りだという噂が流れていたが、友人でいじめられっ子の徹夫に誘われシュウジは会いに行く。優等生だった兄のシュウイチは、神父の正体は6年前にK市で起こった一家4人惨殺事件の犯人で仮出所しているに違いないと主張するが、徹夫に教会でのクリスマス会に誘われたシュウジは再び教会を訪れることにする。
第3章…予想に反して参加者は自分達の他にエリという同じ歳の女の子しかおらず、聖書もケーキも断って逃げ出してしまう2人。 第4章…シュウイチの成績が回復し、喜ぶ両親。シュウジはシュウイチが好きで、シュウイチのことで笑う両親のことも好きだった。陸上部にエリと共に入部したシュウジは、ある日、アカネの姿を町で見かける。バブル末期のリゾート開発の波がこの片田舎にも押し寄せ、「沖」に住む者は大金を手にしてここを去っていくという流れができつつあった。そんな時、シュウイチの期末試験でのカンニングが明らかになり、この事件を境に一家から笑顔が消えた。
第5章…「沖」の立ち退きを仕切っている青稜会の連中が出入りするようになった徹夫の母の店「みよし」は景気が良くなり、徹夫はいじめられなくなった。2学期も学級委員に選ばれたシュウジであったが、中学時代連続9回学級委員選挙でトップという記録を持つシュウイチが壊れてしまったことは学校の誰もが知らなかった。シュウイチを教会へ連れて行ったシュウジであったが、神父を人殺し呼ばわりするシュウイチに、それは弟のことであると神父は告白する。神父は弟の恋人を奪い、その結果、兄を殺せなかった弟は恋人一家を皆殺しにしてしまったのだった。
第6章…エリは松葉杖の生活となり、二度と走れなくなった。青稜会の若頭の篠原と、徹夫の母親が深い仲になったことで、徹夫は変わった。いじめっ子達は徹夫を避けるようになり、徹夫はシュウジを呼び捨てにするようになる。シュウイチまで侮辱する徹夫の首を締め上げるシュウジを神父が止める。 第7章…ついにシュウイチが放火犯として捕まった。父は大工の仕事を次々に失い、シュウジは学校でイジメの標的となり、エリは「沖」から叔母夫婦とともに引っ越していった。 第8章…「沖」で立ち退きを済ませていないのは教会を含めて数軒となったが、教会にだけは嫌がらせや脅しがなかった。実は教会の立ち退きの担当のアカネが教会を守ろうとしていたのであった。立ち退きを神父に承諾させられないことを理由に殴られた跡を残した顔で教会に現れたアカネはシュウジを鬼ケンの墓参りに誘う。そんな時、父に隣の県から仕事が入る。急な仕事だからと言って出かける前にシュウジと外食した父は、その後二度と帰ってこなかった。父は家の貯金を全て持って逃げ出したのだ。 第9章…シュウジは学校でのイジメが続き、母親は化粧品の訪問販売を始めたがうまくいかず、得意客を見つけたと思ったらお金を貸した状態で逃げられる。今日死のうと決意したシュウジであったが、結局彼は死にきれない。 第10章…神父に大阪へ連れて行かれるシュウジ。神父は刑務所にいる死刑囚の弟・宮原雄二に会わせようとしていた。「俺たちは同じだ」という雄二の言葉と、穴ぼこのような彼の視線に吸い込まれそうになるシュウジに、神父は激しく後悔するのであった。 第11章…長距離での好成績を出しながら陸上部に顔を出さず、ロードレースにエントリーしようともしないシュウジに苛立つ顧問。エリのことを忘れていた顧問に怒りを覚え、自分にこれ以上話しかけると死ぬと脅すシュウジ。「沖」にできるはずだったリゾート地『ゆめみらい』はバブルの崩壊と地盤沈下の発覚により終わりを告げていた。ギャンブルに狂う母を横目に、シュウジはあと3か月後に迫った中学卒業後、この地を去ることを心に決めていた。ロードレースを中止するよう主催者に脅迫電話を掛けるシュウジの目が、雄二と同じような穴ぼこのように暗くなっていることに彼自身気が付いていなかった。 第12章…三者面談を休んで大阪のアカネに会いに行くシュウジ。そしてシュウジはアカネと関係を持ってしまう。 第13章…伯父からの借金を踏み倒し姿をくらましたシュウジの母に激怒する伯父。伯父はシュウジの面倒は見ないと断言し、シュウジはその日のうちに町を出ることを決意する。徹夫がシュウジをいじめていたことを知ったアカネが篠原に圧力を掛けたせいで、篠原に殴られシュウジに謝りに来る徹夫。シュウジは徹夫から2万円を借り、教会に寄って、神父からエリの連絡先のメモを受け取って町を出た。 第14章…東京へ向かう途中、大阪のアカネに会いに行くシュウジ。一緒に食事をしているところにアカネの内縁の夫であり、ヤクザの幹部である新田が姿を現す。新田は泥酔していたシュウジをトイレに連れて行き激しい暴行を加える。 第15章…ホテルのスイートルームで、14歳の家出少女のみゆきと共に新田から激しい暴力を受けるシュウジ。みゆきから新田を殺すことを提案されたシュウジは新田を絞殺しようとする。そして新田にとどめを刺したのがアカネの振り下ろしたボトルであった。 第16章…アカネは自首することを決め、シュウジとみゆきを逃がそうとするが、新田の部下の三島から朝7時に迎えに行くというメッセージが携帯に入る。7時前では中学生の2人組はあまりに目立ちすぎるため、ロビーが混み合う時間帯に2人を逃がしたいと考えたアカネは、三島を少し待たせて7時20分に警察に電話を入れようとするが、三島から繰り返し入るメッセージからは今にも部屋を訪問しそうな勢いが感じられた。アカネは慌てて警察に電話し、2人は部屋を出るが、運悪くみゆきは三島に見つかってしまう。申し合わせ通りに振り向かずにホテルを出たシュウジは、みゆきとの待ち合わせ場所で待ち続けるが彼女が現れることはなかった。 第17章…東京駅に着いたシュウジはさっそくエリに電話を入れる。かみ合わない電話を終えて、シュウジは住み込みでの新聞配達の仕事を探す。やっと身元を追及されない専売所を見つけたシュウジであったが、悪徳な所長はプレハブの家賃や自転車のレンタル代などを次々に天引きしていき、求人誌に載っていた当初の月給10万円は4万円にまで減らされる。しかも翌月分を先払いさせられることになり実質はマイナスとなって、結局貸しということで3万円のみが最初の給料としてシュウジに手渡される。 第18章…同室となった老人のトクさんに初任給の祝いに飲みに連れて行ってもらったシュウジは、久しぶりに触れた人の温かみに感動するが、翌朝トクさんはシュウジの給料袋から3万円を抜いて姿を消していた。 第19章…絶望したシュウジは再びエリに電話を掛ける。新宿で2年ぶりの再会を果たした2人。神父がエリに送り続けていた手紙には、シュウジにひとりぼっちじゃないことを伝えてほしいということがいつも書き連ねられていたことをシュウジは知らない。 第20章…今までのことを話ながら歩き続ける2人。そしてエリは唐突にシュウジをラブホテルへ誘う。しかし、部屋に入った瞬間、シュウジの目には新田の死に顔がフラッシュバックし、恐怖の余り床を転げ回る。人を殺したことをエリに告白し、やっと落ち着いたシュウジに向かってエリはナイフを差し出す。「あんたの気が向いた時でいいから殺してよ」という言葉と共に。心中を図った両親と、エリを引き取り自分の身体を求めてくる叔父の話をシュウジに語ったエリは、シュウジに身体を触らせないまま、「でも、そばにいて」と涙を流す。 第21章…エリと別れた後、シュウジの携帯にエリからの電話が掛かってくる。それは、エリが叔父をホテルに誘惑している様子を、叔父に知られないように実況するものであった。時間と場所をさりげなく会話に盛り込み、エリはシュウジに自分を殺しに来てくれと伝えているのだ。叔父がシャワーを浴びている間にホテルの部屋に入るシュウジ。エリを連れて帰ろうとするシュウジに、エリは自分を殺してくれないなら叔父を殺してと頼むが、シュウジは誰も殺さないと言って引かない。そこへシャワーを終えて現れる叔父。シュウジは叔父をその場にとどまらせ、エリを連れて逃げだそうとするが、エリのこともかまわず自分だけ助かろうと逃げ出す叔父をシュウジは反射的に刺してしまう。
第22章…必死で一緒に逃げようというエリに対し、今度はシュウジが疲れたと言って動かない。しかし、エリの「わたしたち、帰らなきゃ!」という言葉にシュウジの心は動く。ついにふるさとに舞い戻った2人。シュウジは荒れ果てた自分の家に火を放つが、その直後警察に取り囲まれる。警官はシュウジの足を撃つつもりであったが、バランスを崩したシュウジの背中を撃ってしまいシュウジは死亡する。
景気の良い時には不幸な主人公のドラマが流行り、景気の悪い時はその逆だという話を聞いたことがある。人々がその時代にないものを求めることは理解できる。この物語の書かれた2003年がどんな年だったか特に印象にもなく調べようという気も起きないが、本作の主人公は間違いなく救いようもなく不幸だ。一体どういう読者を狙って描かれたのか分からないくらい不幸である。幸福な人も、ここまで不幸な話を読めば不愉快になるだろうし、不幸な人にとっては、幸福な生活を目指す気力も失せるのではなかろうか。それくらい不幸で救いようのない話だ。それとも、下には下がいるという安心感を得るのであろうか。筆者に言わせれば書きたいものを描いただけと言うことだろう。一言で言えば、孤独を深める現代人の「人とつながりたい」という切実な願いを形にした作品と言えようが、余りにも暗すぎ、あまりにも光が小さすぎる。 |
『トキオ』(東野圭吾/講談社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2003年版(2002年作品)18位作品。ハードカバーでのタイトルは『トキオ』だが、文庫版では『時生トキオ』に変更されている。「トキオ」では検索をかけたときに該当物が多すぎて本作になかなかたどり着けないことに対する配慮か、あるいは何かの商標に引っかかったのかもしれないが、確かに「時生」の方が本作にはふさわしい。 宮本拓実と麗子の夫婦は、難病のために病院のベッドで命が尽きようとしている息子の時生をただ見守るしかなかった。意識が戻ったとしてもそれが最後になると医師に告げられた拓実は、麗子に今まで話していなかった秘密を語り出す。 1979年当時23歳だった拓実は、こらえ性がなく仕事を転々としていた。拓実は生まれてから1年間は母の麻岡須美子と祖母に育てられたものの、彼女達は貧しさの余り彼を宮本家に養子に出す。宮本家で大事に育てられた拓実であったが、拓実が高校2年生の時、養父の浮気と交通事故がきっかけで宮本家は崩壊してしまう。宮本家を出て天涯孤独となった拓実は、その元凶である自分を捨てた須美子を恨みながら生きてきたのだった。 悪徳キャッチセールスの仕事中に上司の余りの悪質さに嫌気がさして彼を殴ってしまい、またしても職を失った拓実は、花やしきでトキオと名乗る青年と出会う。復讐のため元上司達から襲われた拓実に加勢するトキオも一緒に暴行を受けるが、彼はなぜか嬉しそうにしている。なぜか拓実のことに詳しいトキオに拓実は興味を持つが、その正体には全く思い至らない。恋人の千鶴に紹介された警備員の仕事の面接に、遅刻した上に悪態をついて立ち去ってしまう拓実。そんな彼に愛想を尽かした千鶴は姿を消してしまう。 人にたかることしか考えていない拓実に怒りを覚え、須美子の嫁ぎ先である愛知の東條家へ拓実を連れて行こうとするトキオであったが、それを拒む拓実と共に拓実のアパートに戻ると、イシハラという男に捕まってしまう。イシハラは千鶴の行方を捜しており、千鶴よりも一緒に逃げている岡部という男に用があるらしい。イシハラ達にお金を渡され千鶴を捜すように言われた拓実とトキオは、同じく岡部を捜すタカクラという男に出会う。タカクラはイシハラ達に関わるなと忠告し、自分の連絡先を伝えるのであった。 千鶴に大阪の友人がいることを覚えていた拓実は大阪に向かおうとするが、トキオの説得に負けて愛知の東條家に立ち寄ることに。老舗の和菓子屋である東條家に着くと、前妻の娘の淳子から、病に伏している須美子がいつ逝ってもおかしくない病状であること、その須美子は決して贅沢な暮らしをしてきたわけではなく、破産寸前だった東條家を苦労して立て直した立役者であることを語る。それでも拓実は意識のはっきりしていない須美子を一目見ただけで、「俺は…許していない」という捨て台詞と共に東條家を出て行ってしまう。 大阪に着いて、千鶴の友人・坂田竹美が勤めるボンバという店を見つけた2人。千鶴と岡部が高級なブランド品を質屋で現金化していることを知った彼らは質屋に向かうが、千鶴の情報を手に入れるため、淳子から託されていた爪塚夢作男という漫画家の描いた『空中教室』という漫画本を、拓実はトキオが止めるのも聞かずに質屋に売ってしまう。そして、質屋に再び来る可能性を聞き出した拓実であったが、張り込みもむなしく千鶴がイシハラ達に連れ去られるのを目撃する。 千鶴達が潜伏していたらしきホテルを突き止めた拓実は、そこで岡部を発見する。イシハラに電話をし、岡部と千鶴を交換する取引を持ちかける拓実。しかし、トキオが岡部を連れて姿を消したせいで取引は成立せず、拓実はイシハラに捕まってしまう。拓実は、トキオが漫画本『空中教室』をヒントに、ある場所を突き止めたと言っていたことを思い出す。イシハラの部下の日吉と共にそこを訪れてみると、そこは麻岡須美子の生家であった。押し入れに隠れていたトキオと岡部を発見した日吉は、岡部と千鶴と交換するという約束を無視して岡部を連れ去ろうとするが、竹美の恋人の黒人・ジェシーが日吉をノックアウトし、それを阻止する。そしてその直後に、タカクラが現れる。 タカクラは拓実達に今回の事件の事情を説明する。政府系特殊法人の国際通信会社の社員であるタカクラは、その会社の2人いる副社長の内の1人が、社長の音頭で高価な美術品や装身具を密輸して政治家に賄賂として贈っていることを知り、もう1人の副社長側について、会社の自浄を図ろうとしていた。密輸品の管理をしていた男は自殺し、その男の補佐をしていたのが岡部であり、タカクラ達は岡部の身柄を確保し、タイミングを見計らって警察に出頭させるつもりだという。 そこでトキオは、須美子の年老いた母から渡された拓実宛の須美子の手紙を拓実に読ませる。そこには、身体が不自由で売れない漫画家だった爪塚夢作男こと柿沢巧が須美子の目の前で火事で焼け死んだこと、『空中教室』はその時に須美子に託されたものであったこと、柿沢との間にできた子供の拓実を須美子は何とか育てたかったが経済的にそれが不可能で泣く泣く拓実を養子に出したことが綴られていた。この手紙を読んでも心を改めず「俺には関係のないことだ」と言う拓実をトキオは殴り倒す。 老婆の家に戻った拓実は、千鶴を取り戻すため、縛ってあった日吉を解放し、岡部を連れてイシハラのアジトに戻り、もう一度取引をする決断をする。千鶴も岡部も両方逃がす作戦であったが、結局捕まって絶体絶命の拓実。しかし、そこにタカクラが現れ、イシハラの雇い主と、岡部を渡す代わりに拓実と千鶴は解放するということで話を付けたと告げる。 千鶴の入院する病院で彼女と話し合って別れを受け入れた拓実は、須美子に再び会いに行き、彼女に謝罪する。その後、タカクラから事件の顛末を聞いた拓実は、トキオから聞いていたインターネット社会の到来についてタカクラに語り、彼に気に入られて一緒に働くことになる。 須美子の通夜に向かうため高速バスに乗った拓実とトキオであったが、途中でバスを降りたトキオは盗んだバイクで、ある女性を追って行方不明になる。その後、大規模なトンネル事故が起こり、トキオがその被害を最小限に食い止めようとしていたことを知る拓実。助かった女性の1人が後に結婚することになる麗子であった。後日、拓実はトキオとそっくりな人物が水死体となって発見されたというニュースを見る。川辺玲二というその大学生は、一度水死体が発見された後、トキオが現れたタイミングで行方不明となり、トキオがいなくなった後、再び水死体で発見されたのだ。 過去を語り終えた拓実に、麗子は、ある青年にトンネル事故の時に助けられたことを話す。今にも息を引き取ろうとする時生の耳元で、「花やしきで待ってるぞ」と叫ぶ拓実であった。 本作の一番の問題点は、過去の拓実があまりにもクズ過ぎて不愉快すら感じること。もう少し憎めない人物に描けなかったものか。不器用で直情的ながらも、実はその根は情にもろく心優しい部分が見られる人物に描いてくれたら良かったのに、そういう部分が余りに少なすぎて憎しみさえ覚える。現在の拓実とのギャップを強調するためと思われるが、あまりにも人でなしに描きすぎ。 ミステリ作品によく登場するトリックの1つのアナグラム(文字の並べ替え遊び)だが、正直言ってあれのどこが面白くてミステリ作家達が多用するのか理解できない。ドヤ顔で説明されても「だから何?」という感じである。今回も、トキオが「ボンバ」という店の名前の由来が爆撃機のボンバーのことではなくて、アルファベットを並べ替えて「o」を追加して「竹」のバンブーのことだと見破ったエピソードが登場するが、「o」を追加する時点でさらに価値なしではないか。 また、千鶴が岡部と一緒に逃げた理由が今一つ分からない。岡部が千鶴を熱心にくどいたことや、拓実よりもまともなサラリーマンであったという説明は一応あったが、彼の人間的な魅力が全く伝わってこない。これは明らかに本作の欠点の1つであろう。岡部の扱いについては、終盤でも特に気になった点がある。拓実がせっかく拘束した日吉を解放し、岡部を連れて千鶴との交換取引を再度行おうとするところだ。タカクラの話によれば、岡部はイシハラ側に殺される可能性が非常に高いにもかかわらずである。拓実の頭の悪さはここまで読んで十分に分かっているので今さら驚かないが、岡部ではなく拓実の身を心配するトキオの反応や、あれほど岡部の身柄の確保にこだわっていたタカクラが渋々ながらそれを認めてしまう点に大きな違和感を感じる。結末でどうやら岡部は生きたまま逮捕されたらしいことがうかがえるが、ここは本当に気になった。 冒頭で、ものすごく「いい話」を期待させておきながら、過去のエピソードで拓実の駄目人間ぶりに幻滅させられてテンションがだだ下がりだったが、結末を見事に感動的にまとめ上げたのは、さすが東野圭吾と言えよう。一瞬★★★を付けそうになったが、やはりそれまでの不満のすべてを払拭するまでには至らず、★★ということで。 |
『ドミノ』(恩田陸/角川書店)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2002年版(2001年作品)12位作品。冒頭に登場人物リストがある作品は久しぶり。それもただ紹介されているのではなく、登場人物より一言という趣向が斬新。読み始めると、リストにあった大勢の登場人物が一気に登場するのみならず、さらにはリストになかった人物まで何人も登場して結構混乱するが、ノリは軽めで楽しく読める。境遇も年齢も全く違う多数の人々が、今後どのようにこの後絡んでくるのか、非常に期待させてくれるのだが…。 関東生命八重洲支社では、中堅社員の北条和美が、社員用に後輩の田上優子に冷たいお菓子でも買ってきてとお金を渡し、田上は大喜びで東京駅へ買い物に出かける。しかし、額賀義人営業部長に遅くとも3時までには契約書を持ってきてもらい何とか本社への便に乗せなくてはならないという状況の中、架線事故と悪天候で額賀の乗った電車が止まり、額賀からの連絡の入った支社では一気に緊張が高まる。タクシーも捕まらず、万事休すと思われたその時、入社3年目の和風美人の加藤えり子が知り合いのバイク乗りに額賀の移送を頼むと言い出す。実はえり子は元暴走族の幹部で、族時代の後輩で、ピザ屋の店長をしている市橋健児に電話をすると、市橋は愛車の8000ccのバッファロー号でさっそく額賀のところへ向かう。 鮎川麻里花は関東生命がスポンサーをしている子供ミュージカル「エミー」のオーディションに臨んでいる。主人公の友人サリー役の子が急病になってチャンスが回ってきたのだ。しかし、オーディションに強敵の都築玲菜が現れ、さらに玲菜の母に下剤入りのカルピスを飲まされて窮地に陥る麻里花。しかし、腹痛の苦しみが奇跡的な演技を弾き出し、オーディションを担当していた舞台監督、プロデューサー、演出家の3人をうならせることになる。 浅田佳代子は、別れ話をしに来る交際相手をポケットの中に何かを潜ませて東京ステーションホテル内の喫茶店で待ち構えている。彼女と別れようとしている男は、青年実業家の結城正博。いつものように、いとこで画廊に勤務している美人の落合美江を連れて行き新しい彼女ができたと紹介して別れようという魂胆である。 筑波山麓で農業を営む吾妻俊策は、東京で開かれる俳句仲間とのオフ会を楽しみにして上京してきたが、東京駅で道に迷った上に、土産の入っていたどらや紙袋が、目の前で転倒した過激派メンバーの川添健太郎の持っていた爆弾入りの紙袋と入れ替わってしまう。そんなことも知らずに、吾妻を待っていた俳句仲間の雫石貫三、山本豊彦、養老秀朝の3人は、時間になっても現れない吾妻を捜すため東京駅に散っていく。実は3人は皆、元刑事であった。 東日本ミステリ連合会の次期幹事長を決めるため、現幹事長の蒲谷真一は、K大学2年の江崎春奈とW大学2年の森永忠司をテストする。その1回戦としてフィリップ・クレイヴン監督作の人気映画「ナイトメア4」の犯人当てを行うが、2人ともに外して引き分け、次に2回戦として東京ステーションホテルで人物観察テストを行うことになる。喫茶店に入ってきた最初の人物の年齢や職業、今までどこにいて、これからどこへ行くのかを当てるというものだ。3人がやって来た喫茶店には佳代子がおり、3人は佳代子の観察を始める。佳代子は若者達の視線を感じて動揺する。江崎と森永の推理の後、蒲谷はアンケートを装って佳代子に話しかけるが、佳代子の目には、結城正博と落合美江の姿しか映っていなかった。美江は、なぜかいつものような下品な女役の演技をせずに、佳代子に正博のいとこであることを正直に打ち明け、正博を慌てさせる。結局、人物観察テストが失敗に終わってしまった3人であったが、江崎は視界の隅を何か黒い物(ダリオ)が横切るのを目撃する。 千葉県佐原市(現在の香取市)に住む主婦の宮本洋子(登場人物リストには載っていない)は季節外れの風邪に悩まされていた。病院の帰りに突然の雨に遭い、コンビニに放置してあったビニール傘を持ち帰る。自宅に帰り着いて、ポーチに広げたまま置かれた傘は強風に煽られて高架線に向かって飛んでいた。 来日していたフィリップ・クレイヴン監督が宿泊するホテルの部屋では、ペットのダリオが、主人のいない隙に開いていたドアから廊下へ出て行ってしまい、部屋に帰ってきたフィリップを慌てさせる。 吾妻俊策は、自分の紙袋が川添健太郎の紙袋と入れ替わってしまったことに気が付いていない。川添は散々迷った末、吾妻から紙袋をひったくって逃げることを決意する。もみ合いの末、なんとか自分の紙袋を取り戻した川添であったが、逃げようとする川添の前に立ちはだかったのは、買い物を終えた田上優子であった。彼女は柔道の有段者だったのだ。川添を投げ飛ばしたまでは良かったが、結局逃げられてしまい、しかも彼女の持っていたお菓子の入ったどらやの紙袋は、吾妻と合流できた雫石の手に。そして吾妻の持っていた爆弾入りのどらやの紙袋は優子の手に移ってしまう。元刑事の雫石は逃げた川添の正体に気が付き通報し、お菓子を置いてきたことに気が付いた優子は、吾妻の名前を覚えていたため放送で呼び出してもらうことを思いつく。 額賀を乗せた市橋のバイクが警察署の前を爆走して通過したことで、市橋を関東連合時代から追っていた警官の東山勝彦達は、多数のパトカーを動員して彼らを追う。 エミーのオーディション会場では麻里花の合格が発表され大喜びする母子。一方、母親の不正行為に気が付いていた玲菜は号泣しながら母親を責める。 今回は演技をしないと決めた美江は、正博がいかにいかに駄目な男かを佳代子に言って聞かせるが、その美江の態度すらも、佳代子を騙して正博と別れさせようとする演技だと思い込んだ佳代子は、死んでやるとつぶやき、用意してきた毒のカプセルを飲み込んでしまう。佳代子にカプセルを吐き出させようとする正博と森永ら大学生達とのもみ合いで、静かな午後のホテルは阿鼻叫喚に投げ込まれる。佳代子は周囲の人間をふりほどき飛び出していくが、胃の中で数時間で溶け出す毒のカプセルを心配して、正博、美江、森永、江崎、蒲谷はその後を追う。その場に居合わせたフィリップと、彼の通訳兼世話役のクミコもつられて追いかける。佳代子が忘れていったどらやの紙袋の中に潜り込んでいたダリオは、外の喧噪をよそに、過去の経験から出ていかないことを決めていた。やがて駅の構内の交番にたどり着いた正博と、優子は、同じどらやの紙袋を持って隣り合わせに並んでいた。 東京駅内の動輪の広場で話し込んでいる過激派グループの川添、妹尾、水沼の3人は、爆弾入りの紙袋を何とか取り戻すことで意見が一致。東京駅の中でお互い母親に待たされていた麻里花と玲菜は一緒に駅の中をうろつき始めていたが、そこで過激派の3人グループの1人がライターを落としたのを目撃した彼女達は、ライターを返そうと彼らの後を追いかける。 交番で、吾妻の呼び出しは駅員に頼むように言われた優子は、パトカーの大群を振り切り額賀と契約書を届けるため駅の通路を通って八重洲に向かった市橋のバイクに驚いて紙袋を投げ出してしまい、そこで正博の持っていたダリオ入りの紙袋と入れ替わってしまう。そして八重洲南口で額賀を降ろした市橋はあっという間に去っていくが、市橋を追って東京駅を取り囲んでいた大量のパトカーを見た雫石達は、通報で駆け付けてくれた応援の警官隊と思い込み、過激派グループ達も自分達を包囲するために集まったものと信じてしまう。バイク便のバイクを奪ったえり子は市橋に代金を払いに行き、その受け渡し現場で宿敵の1人であったえり子の姿を見た東山は興奮の余り倒れてしまう。 追い詰められたと思い込んだ過激派の3人は、麻里花と玲菜の2人を人質にして喫茶店に立てこもる。駅の放送で、吾妻の呼び出しに続いて、佳代子の呼び出しが流れ始めるが、興奮した正博は駅員からマイクを奪って直接佳代子に語り始める。呆れる駅の構内の人々の中で、佳代子だけがその言葉に感動していた。やっと吾妻と再会できた優子であったが、優子の紙袋の中には爆弾ではなくダリオがいることをまだ誰も気が付いていない。人質となった麻里花と玲菜は芝居を打って、水沼に下剤のカルピスを飲ませるよう誘導することに成功。川添はテレビ中継の画像から吾妻の姿を見つけ、目的の紙袋を取り戻すことに成功するが、その中には自分の作った爆弾ではなく、ダリオという名のイグアナが入っていた。大のハ虫類嫌いである妹尾は袋から飛び出したダリオが顔に張り付いたことでパニックになる。トイレに駆け込んだ水沼と、イグアナが顔に張り付いたままの妹尾は逮捕される。残った川添は、爆弾のスイッチを見せて警察を脅そうとするが、持っていたはずのライター型のスイッチがないことに気が付き焦る。その頃、佳代子は不自然な変装と挙動の不審さから、警察に過激派の仲間と疑われ、パニックになって職務質問の警官から逃げたことで、大勢の警官から追われることになる。 交通規制のため契約書が本社に向かっていないことを知った北条和美は再びえり子を頼る。彼女は再びバイク便のバイクを奪って、規制の掛かっていないルートを走る本社行きのバスに向かう。美江が持っていた爆弾入りの紙袋が、そのバイクにぶつかりそうになり、バイクに引っかかってしまう。無事契約書をバスに渡すことに成功したりえ子が減速したことで、紙袋はバイクから落下。無事パトカーが回収し、川添と佳代子も警官に取り押さえられる。麻里花が放り投げたライター型の爆弾スイッチは、様々なものにぶつかって空中を舞い、行方不明となっていたが、結局ポストの中に落ちていた。それを見つけた郵便局員がそれを押してしまうのが先か、都内各地に仕掛けられた爆弾を警察が見つけるのが先か、それはまた別のドミノの話である。
冒頭の関東生命の契約関連の事情説明がいきなり分かりにくい。読者を引き込まなくてはいけない大事な導入部にこれはどうなのか。 良く言えば東京駅を舞台にしたジェットコースター的カオス・コメディ。悪く言えばグダグダ・ドタバタ・ライトノベル。27人と1匹が主人公ということだが、何人かのキャラはなかなか面白いものの、全く印象に残っていないキャラも多い。登場人物リストで言えば、森川、阿倍、山本、養老、白鳥あたり。東山、妹尾、水沼も、もう少し目立たせることができたのでは。前述した宮本洋子に至っては全く意味不明。読了後にamazonの書評を見たら意外と評価が高いことに驚いたが、「○○に爆笑」「公共の場では読まない方がいい」といったコメントには首をかしげざるを得ない。文庫版の裏表紙にも「抱腹絶倒、スピード感溢れるパニック・コメディの大傑作!」とあるが、どこがそんなに笑えるのだろうか。決して嫌いな作品ではないし、そこそこ面白いと思うが、楽しさよりも疲れの方が残った。 |
『ZOO(上/下)』(乙一/集英社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2004年版(2003年作品)20位作品。上下巻に合わせて11編を収めた短編集。
@「カザリとヨーコ」…エンドウヨーコはカザリと一卵性双生児であり、母と3人で暮らしている。しかし、姉のヨーコだけがなぜか母から虐待を受け、ヨーコは台所で寝起きしているが、妹のカザリは大事にされている。食事は妹の残り物、衣服も妹のお下がりという具合である。学校でもクラスメイトは勿論教員からも冷たく扱われていた。そんな苦しく辛い日々を送っていたヨーコは、ある日、アソという名のメスのテリアの迷い犬を飼い主のスズキさんという老婆の元へ届ける。その老婆は大喜びし、彼女を孫のように可愛がり、ヨーコも毎日のように老婆の家に通うようになる。 なぜ、ヨーコだけが虐待されるのか?叙述トリックのミステリなのか?と神経を研ぎ澄ませて読み進めたが、何のひねりもない単純な理不尽極まりない理解不能な虐待ドラマだった。虐待に次ぐ虐待で追い詰められた姉の嘘にまんまと騙されて、姉と入れ替わったことで母親にあっさりと殺される妹と、せっかく入れ替わりを成功させたのに、何のあてもなく家を出て行く姉の姿を描いて、あっけなく幕を下ろす物語。自分を苦しめた妹の命を奪い、母親には殺人という罪を背負わせたことで、主人公の復讐が成就したことになるのか?読者にも主人公にも何の爽快感もないのだが…。実はお金持ちだった老婆の養子になって幸せに暮らすとかいう話ならまだ理解できるが、なんだこれは?★1つ確定。
A「SEVEN ROOMS」…仲の良くない小学生の「ぼく」と中学3年生の姉は、ある日路上で何者かに拉致されてコンクリートの部屋に閉じ込められる。その部屋の中央には幅50センチ位の下水が流れる溝があり、部屋の両側の壁の溝の出入り口を身体の小さい「ぼく」だけが通り抜けることができた。移動してみて分かったことは、同じような部屋が直列に7つ並んでいて、そのうちの下水の上流から4番目の部屋に自分たちが閉じ込められていること、他の部屋にも若い女性が閉じ込められていること、1番目の部屋と7番目の部屋の向こう側には鉄格子がはまっていて移動できないことであった。そして、毎日午後6時になると、何者かによって閉じ込められた日が長い部屋の住人から順番に電動のこぎりによって殺害され、死体の残骸が下水に流されることが判明する。 ありがちな殺人鬼ホラー小説だが、オチがひっかかる。姉と共に殺人鬼を部屋に閉じ込め、主人公だけが脱出したところまでは良いとして、その後の展開が問題。閉じ込められた殺人鬼は電動のこぎりで鉄の扉を内側から壊そうとしていて、一緒に閉じ込められた姉は笑い声が聞こえることから無傷で生きていることがうかがえる。ならば、主人公たちは一刻も早く外の世界に助けを呼びに行き、姉を救い出せる可能性を少しでも大きくするべきではないのか。「姉の悲鳴と共に姉の笑い声は途絶えた」という描写でもあれば別だが、いくら心身共に消耗しているとは言え、生きている姉を置いて、やたらのんびりと出口へ向かう主人公の姿には、まったく納得が行かない。★★。
B「SO-far そ・ふぁー」…もうすぐ中学生になる「ぼく」は、アパートで両親と3人で幸せに暮らしていた。居間にあったソファは、我が家で一番重要な物で3人が座る場所も決まっていたが、ある日を境に、父と母がお互いに相手が見えていないような振る舞いをするようになったことに「ぼく」は不思議な感覚を覚える。列車事故で父と母のどちらかが死んで、死んだことに気付かない死人が幽霊となってそのまま一緒に暮らしていると考えられたが、2人ともとなると説明が付かない。 実は両親共に死んでいた、家族全員が死んでいた、「ぼく」だけが死んでいた、というように様々なパターンを考えながら読んでいたが、真相は何と、最も現実的な誰も死んではいなかったというもので、まんまと作者に一杯食わされた。この話はちょっと深いかも。★★★。
C「陽だまりの詩」…ある時、突然病原菌が空を覆い、感染した人間は例外なく2か月で死亡してしまった世界。たまたま感染をまぬがれ、森の中の家で1人で暮らしていた彼もついに感染し、身の回りの世話をするために、私=かつて地球上で広く普及していた女性のアンドロイドを作り上げる。 単なるSFかと思いきや、人間の生と死について、人間以外の者によって考えさせ語らせるという、実に味わい深い哲学的な傑作。文句なしの★★★。 D「ZOO」…主人公の郵便受けには毎日、過去に交際していた女性の死体が腐敗していく様子を撮った写真が投函されている。主人公はそれをスキャナでパソコンに取り込み、警察には通報していない。警察は彼女を単なる家出と見て真剣に捜査する様子がなく、彼は真犯人を見つけるべく、勤めていた会社を辞めて彼女の知人に聞き込みを続けている。 衝動的に彼女を殺してしまい、頭がおかしくなった男の物語。ただただ痛々しいだけ。全く同情する気にもなれないし、感動するポイントもない。なぜ動物園の閉鎖が、あれほど強く彼を縛り付けていたルーチンを断ち、彼に自首を決意させたのかも理解できない。死体の変化を記録するという趣向は、先日読了したばかりの柄澤齊の『ロンド(上/下)』(このミス2003年版8位作品)を思い起こさせたが、恋人の死体の写真をスキャナで取り込んでパソコンで動画にして見ている、というその異常行動を行っている時点で、この主人公を恋人を突然失った可哀相な被害者として見ることは誰もできないのでは?つまり、実は彼こそが真犯人だったという事実を読者に明らかにしても、そこにたいしたインパクトはすでにないのである。表題の作品ということで期待していただけに、裏切られた感も大きく★1つ。 ここまでが上巻だが、ネットのレビューを見てみると、予想通り、賛否両論、好き嫌いの分かれる作品のようだ。「SEVEN ROOMS」を、怖かったという意味で一番印象に残った作品に挙げる読者が多いようだが、この程度のホラーは探せばいくらでもあるように思うのだが…。「カザリとヨーコ」を絶賛し、これを表題作にすべきだったとか、ラストで爽快感を感じたなどというコメントには全く同意できない。個人的にはイチオシの「陽だまりの詩」にも高評価のコメントが多くて安心したが、「SO-far」に対するコメントが妙に少ないのは意外。確かに他の作品と比べるとインパクトは薄いのかも。上巻トータルの評価は★★といったところ。 E「血液を探せ!」…会社を経営しているワシ(64歳)は朝目覚めて自分が血まみれになっていることに驚く。頼りない次男のツグヲ(27歳)に調べてもらうと右脇腹に包丁が刺さっているらしい。ワシは10年前に妻を失った交通事故で痛覚を失っていたのだった。 ナガヲとツグヲとツマ子の3人には、同じ分だけの遺産が渡るように遺言書を書いてあるのことから、ツグヲだけに特に期待をかけているわけではないようなのだが、ツグヲの自分を殺そうとする度胸に満足し、これで会社は安泰だと安心して死んでいくワシの心理が理解できない。トリック自体も全く見るべきものはなく、★1つ確定。 F「冷たい森の白い家」…主人公は両親を事故で失い伯母夫婦に引き取られて馬小屋で生活させられていた。伯母の娘だけが親切にしてくれたが、やがて彼はその馬小屋も追い出され森の中で暮らすようになる。 このような作品にどんな価値があるのか全く理解できない。無理をすれば色々とテーマをひねり出せないことはないが、普通に考えて、人が書かないような残虐でグロいことを書けば、そういう嗜好のある読者は喜ぶだろうという程度の意味しか見いだせない。★1つ確定。 G「Closet」…ミキは夫で画家のイチロウの実家を訪れるが、離れに住むイチロウの弟で小説家のリュウジに呼ばれて、母屋を訪れる前にそこに立ち寄っていた。リュウジは、彼女の友人から聞き出した、ミキの犯した轢き逃げ事件について語る。しばらくの後、リュウジの死体の前でミキは灰皿を床に落としていた。ミキは死体を隠そうと離れにあった古いクローゼットに鍵を差し込む。
叙述トリックによって、読者はミキこそがリュウジを殺した犯人で、リュウジの死体はクローゼットに隠されていると思い込まされるが、最後の1行で、犯人がミキの夫のイチロウであったことが明らかになるというオチ。叙述トリックは、まあ、ありがちだが、結末の描写は、そこそこインパクトがあるかも。 H「神の言葉」…人前で良い子ぶらずにはいられない僕には、小学1年生の頃から恐ろしい能力があった。生物に対して自分の発した呪いの言葉が現実化するという能力である。この力によって厳格な父は手の指を失い、聡明な母はサボテンと猫の区別が付かなくなってしまった。そして、一度発現した現象は二度と元には戻らなかった。 超能力を発揮すると鼻血が出るというのは漫画「GANTZ」(2000〜2013年)にもあったが、どっちが先なのか。もしかすると別に出典があるのか、ちょっと気になった。それ以上に漫画「デスノート」(2003〜2006年)の要素もかなり入っている気がするが。 I「落ちる飛行機の中で」…主人公の女性は、飛行機の中で隣に座る男性から「あなたはノストラダムスの予言を信じていましたか」と突然語りかけられる。その飛行機は東京大学の受験に5回失敗した青年にハイジャックされ、東大へ向けて落とされようとしていた。頼りなさそうな青年を取り押さえようと乗客が次々に彼に挑戦するが、なぜか乗客達は運悪く空き缶に躓き、彼に射殺されてしまう。 シチュエーションは勿論、主人公の女性も、隣の席の男性も、ハイジャック犯の青年もキャラが立っていてそれなりに面白い。ただし、なぜか犯人の取り押さえにことごとく失敗する乗客達のその原因が空き缶に躓いただけとか、青年が東大に入れなかった理由は単に学力がなかっただけとか、青年が拳銃を飛行機に持ち込んだ方法が警備員を札束でぶっただけとか、馬鹿馬鹿しい展開は好き嫌いが分かれそう。個人的にはかなり微妙。つかみどころのないオチは、乙一らしいと言えば乙一らしいのだが、これを面白いと評価すべきかどうかやはり悩むところ。★★。 J「むかし夕日の公園で」…小学生の時、近所にあったこじんまりとした公園に砂場があり、そこは肩まで腕が入ってしまうくらい砂が深かったのだが、その話を父は信じてくれなかった。 わずか4ページの超短編。小中学生向けの怪談話という感じ。 巻末の解説を読むと、やはり「SEVEN ROOMS」が絶賛されており意外な気がした。前述したようにこのレベルのホラーは他にいくらでもあるような気がする。私が敬愛する綾辻行人のホラーの方が余程インパクトがあったように思うのだが(ちなみに彼のそっち系の作品はあまり好みではない)。シンプルな中に恐怖が凝縮されている点がホラー短編作品として魅力なのは分からないではないが、どうしてもそこまでの傑作とは思えない。上下巻のトータル評価としては★★。 |
2016年12月読了作品の感想
『レベル7』(宮部みゆき/新潮社)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」1991年版(1990年作品)14位作品。 第1日(8月12日 日曜日)…主人公の男は目覚めると知らないマンションの一室のベッドの上で記憶を失っていた。一緒に眠っていた女も同様に記憶を失っており困惑する2人。男の左の二の腕には見覚えのない「Level7 M-175-a」という刺青があり、女にも同様に「Level7 F-112-a」という刺青があった。 真行寺悦子(しんぎょうじえつこ)は、結婚後、教師の仕事を辞めて専業主婦をしていたが、夫の過労死を機に生命保険会社が経営しているネバーランドという悩み相談ダイヤルのスタッフとなっていた。そこで貝原みさおという女子高生と友人になったが、彼女は失踪し、その母親の好子が娘の情報を得るため悦子の元を訪れる。高圧的でヒステリックな好子が持参したみさおの日記の最後には、「明日 レベル7まで行ってみる 戻れない?」という謎の言葉が記されていた。 記憶を失った男が、女を部屋で寝かせて外に出てみると、管理人室に管理人は不在で、近くの路上で洗車をしている男から偶然声を掛けられて言葉を交わすことになる。その洗車をしていた男が、自分が出てきた部屋の入り口にあった表札に記された706号室の三枝であることが分かり、記憶を失った男は驚くが、表札の位置がおかしかっただけで、自分が出てきた部屋は、その隣の707号室であったことが明らかになる。洗車を終えた三枝に商店街の場所を教えられた記憶を失った男は、商店街で買い物をして部屋に戻り、女と食事と入浴を済ませて眠りにつく。 娘のゆかりと共に父の義夫と外食した悦子は、義夫にみさおのことを打ち明けるが、悦子にできることは何もないだろうと言われる。帰宅後の深夜、悦子に掛かってきた電話は、「真行寺さん、たす…」という言葉で切れてしまうが、それはみさおが助けを求めるメッセージであると確信する悦子であった。 記憶を失った男は、深夜に女の悲鳴で目を覚ます。女は視力を失ってパニックに陥っていたのだ。そこへ隣に住む三枝がやって来る。ドアを開けないと警察に通報するというのでやむなく彼を受け入れた彼であったが、不覚にも隠していた拳銃を発見されてしまい、女がお金のことを口走ったせいで、三枝に拳銃を突きつけられた彼は、三枝に促されて全てを話すことになる。三枝は話を聞き終えると、自分には前科があるから警察へは訴えないことを告げた後、自分を雇わないかと男に提案する。身動きの取れない記憶を失った2人に代わり、2人が何者で、なぜそうのような状況に陥ったのかを、スーツケースの中の大金を担保に調べてやろうというのだ。男はその提案をのみ、三枝と契約を交わすのであった。 第2日(8月13日 月曜日)…みさおのことを心配した悦子は好子の元を訪れるが、友人の家にいるというみさおからの電話があったから問題ないと追い返されてしまう。みさおの行きつけの美容室をつかんだ悦子は、担当の美容師、網野桐子からみさおのことを色々聞き出すが、「レベル7」という言葉には聞き覚えがないという。みさおの友人の久野桃子から、彼女がパーラー小松という店でアルバイトをしていたことを聞き出した悦子は、桃子から悦子には交際相手がいるのかと聞かれて不思議に思うのであった。 三枝は男女のいた部屋の中から見つけた地図のコピーに残っていた発信先のFAX番号から、榊クリニックが事件に関係していると考える三枝は、さっそく2人を連れてそこへ向かう。アルコール依存症の父を入信させようとしている男女を演じて榊クリニックの事務員の太田明美に接触した2人は、榊先生の奥さんの父親の大先生が経営している病院の方を勧められ、さらにその大先生の息子が幸山荘事件という4人が殺害された事件の犯人であったことを教えられる。 三枝は、大先生こと潟戸友愛病院の院長・村下猛蔵という潟戸町の実力者が2回再婚しており、最初の妻との間に、みどり、一樹、えりかという3人の子供がいて、榊はみどりの夫であること、2人目の妻の連れ子であった孝が事件を起こしたことを調べ上げる。そして孝によって殺されたのは猛蔵の同郷の幼馴染みの三好和夫と緒方秀満、三好の娘と緒方の妻の4人で、緒方の息子と三好のもう1人の娘が遺体の第一発見者だったことを告げる。記憶を失った男は、自分こそがその犯人の孝ではないかと怯えるが、記憶を失った2人の正体は、緒方の息子と三好のもう1人の娘であった。 「ラ・パンサ」店長の村下一樹に「レベル7」まで行かせてもらう約束だったが、戻れないはずのところから戻れたみさおは、一樹を問い詰める。本当にレベル7まで行ったら廃人になるだけだと諭されたみさおは、ふらふらだったため「ラ・パンサ」の奥の部屋で眠るが、目覚めた時に部屋に入ってきた男と一樹がもみ合いになり、気が付いたらみさおは、病院の病室らしき部屋に隔離されていた。その部屋に現れた榊と名乗る医師は、一樹は嘘つきだと断言し、榊にこっそりと部屋の鍵を渡される。猛蔵にファンビタンという鎮静剤を注射され眠らされそうになった彼女は、1人になった後、部屋を抜け出し、事務室から悦子に助けを呼ぶ電話を掛けようとするが、看護婦に捕まって再び閉じ込められてしまうのであった。 第3日(8月14日 火曜日)…緒方祐司と三好明恵。それが、記憶を失った男女の本名であった。三枝は、2人を出身地の仙台へ連れて行く。緒方秀満の経営していた会社の番頭役を勤めている広瀬耕吉から、祐司と明恵が婚約していたことを聞かされ驚く2人。そして広瀬は、2人の腕の刺青を見て青ざめる。潟戸友愛病院の入院患者の腕には同じような番号を付けられているという話を秀満から聞いていたというのだ。幸山荘を共同購入した緒方秀満と三好和夫が殺された後、祐司は、警察が崖下に転落して死亡したと考えている孝が生きていると言って、仕事を辞めて独自に調査をしていたという。三枝は、猛蔵が人の記憶を消す電気ショック療法を潟戸友愛病院で行っていることを告げ、2人の記憶を消したのも彼だと断言する。 パーラー小松で美佐緒と一緒にアルバイトをしていた、みさおに好意を寄せていた安藤光男という大学生と接触した悦子は、悦子を尾行していた男の存在と、足が不自由だったその男が榊クリニックと「ラ・パンサ」というパブに出入りしていたことを知る。そして彼女が「レベル7」という面白いゲームに挑戦すると言っていたことも。悦子と娘のゆかりは、榊クリニックに出向き、芝居を打って4階にみさおらしき人物が閉じ込められていることを確認し、元新聞社の自動車部員で張り込みのプロだった父の義夫にクリニックの張り込みを頼む。そして義夫は、足の不自由な男を取り押さえるが、その男は三枝という義夫の古い知り合いだった。「なにをしようとしているんだ」という義夫に、「仇討ちですよ」と答える三枝であった。 第4日(8月15日 水曜日)…祐司が事件の調査のため住んでいたらしい高田馬場のアパートへ向かう、祐司、明恵、三枝の3人。そこにあった不在配達票を持って郵便局へ荷物を回収に行くと、それは明恵に宛てた祐司の調査結果の書類であった。そこには孝の遺体が浮いていたのを崖下で見たという目撃証言は嘘で、猛蔵が警察に圧力を掛けて孝の捜査を打ち切らせ、孝は猛蔵が匿っているという祐司の考えが記されていた。さらに猛蔵は、火災を起こし多数の死者を出した防火設備に不備があった東京の新日本ホテルのオーナーで、その出火原因が一樹の火遊びであったことを隠蔽したこと、潟戸友愛病院が非人道的な運営を行っていることも記されていた。 悦子は三枝に言われたとおり、潟戸友愛病院の裏手の雑木林の中に隠れていた。榊クリニックから移されたみさおが無事脱出したら、すぐに東京へ向かうようにという指示であったが、そこで悦子は義夫から衝撃的な事実を知らされる。三枝は悦子の母の浮気相手であり、新日本ホテルに一緒に宿泊している時に火災に遭い、三枝は悦子の母を救うために大怪我をして、それ以来足が不自由になったというのだ。三枝は被災者として賠償金を受け取っていなかった。彼は、当時世間で知られていなかった真の事件の責任者が猛蔵であることを知っていたからだ。 病院に侵入した三枝と祐司は、榊に銃を突きつけて猛蔵の部屋へ案内させる。猛蔵は孝が生きていることをあっさり認め、この病院で「パキシントン」という記憶を封じ込める薬の開発に成功したこと、電気ショック療法との組み合わせでより高い効果が望めることを語る。そして「レベル7」というのは表向き「パキシントン」の効果が7日間切れないという意味であり、実際には院長である猛蔵が直に扱う患者を表すことが明らかになる。猛蔵は地下の特別保護室にいる孝の所へ祐司達を案内する途中にスプリンクラーを稼働させて逃亡。みさおを助け出した榊は、義夫と悦子に合流した。 幸山荘の前でついに猛蔵を取り押さえた三枝、祐司、明恵。猛蔵に孝が山荘の中にいると聞き、三枝と祐司が孝のいる部屋に向かうが、反撃してきた孝を祐司は射殺してしまう。しかし、急に目が見えるようになった明恵が猛蔵の笑顔を目撃したことで、全てが仕組まれていたことが明らかになる。幸山荘事件の真犯人は猛蔵であり、猛蔵は自分の罪をなすりつけた孝を祐司に殺害させようと計画していたのだった。そしてそれに協力していたのが三枝であったことも。三枝は、漂着した孝を保護して猛蔵を脅迫していたのだった。 しかし、猛蔵が事件の真相を全て語った後、立ち上がった孝の姿に祐司は驚愕する。三枝と孝は猛蔵を陥れるために協力していたのだ。すべてをビデオで撮影され銃を突きつけられた猛蔵は、逃亡しようとしてベランダのハッチから転落死する。孝は特殊撮影技術で射殺されたふりをしていただけで、しかも相馬修二というホテル火災の被害者の1人だった。孝は本当に崖から転落して死亡していたのだ。 エピローグ…幸山荘事件で猛蔵に雇われて4人を殺害した犯人の暴力団員は逮捕された。三枝は悦子に「あなたはお母さんにそっくりだ」という言葉を残して彼女に別れを告げる。祐司は榊から送られてきた明恵の婚約指輪を彼女の指にはめる。その時、封じ込められていた時間が、最後の一秒まできっちりと巻き戻される音を、祐司はたしかに耳にしたのであった。
比較的好きな作家である宮部みゆき氏の、かなり昔の作品に興味津々であったが、出だしからSFのような展開に大いに引きつけられた。どんでん返しが何度もあるのもこの作品の売りの1つで、それらもそれなりに面白いのだが、読み進めるにつれて、今一つなところが色々と目につき始める。 |
『希望荘』(宮部みゆき/小学館)【ネタバレ注意】★★ 「このミス」2017年版(2016年作品)9位作品。古い宮部みゆき作品の後は、最新の宮部みゆき作品。単なる偶然なのだが楽しみ に読み始めた。読み始めてみると、これは杉村三郎シリーズというシリーズの1つで、『誰かSomebody』『名もなき毒』『ペテロの葬列』『負の方程式』に続く5作目にして初の短編集らしい。『誰かSomebody』は「このミス」ランク外ということもあって未読、『名もなき毒』(「このミス」2007年版6位)と『ペテロの葬列』(「このミス」2015年版7位)は読了しているが、「人の悪意」がテーマだけあって読後感が悪く微妙な感想だった記憶がある。『負の方程式』は『ソロモンの偽証』(「このミス」2013年版2位)の最終巻に収録された短編で、読了しているはずだが記録も記憶もない。 主人公は、児童書専門の出版社「あおぞら書房」に勤めていたが、大グループ企業の今多コンツェルン会長の娘婿となり、そこの広報室に転職した杉村三郎。なぜか事件を引き寄せてしまう体質で、事件の探偵役を務めるものの積極的に解決に努める感じではなく、淡々とした雰囲気の中、事件を傍観し人の心に潜む悪意に気付いていく人物として描かれている。妻の浮気に気付いて離婚し、2作目からずっと臭わせていた私立探偵に、シリーズ5作目にしてついになった。 @「聖域」…離婚後、東京都北区に探偵事務所を開いた杉村は、自分と同じ地主の竹中の店子の1人である盛田から仕事の依頼を受ける。それは、盛田と同じ単身用アパートにかつて住んでいた、すでに亡くなったはずの三雲勝枝という老婆を目撃したので真相を調べてほしいというものであった。勝枝は普段はしていなかったおしゃれをして、フライトジャケットを来た若い女性と一緒に上野駅にいたという。よくよく聞いてみると、勝枝は電話であちこちに死ぬと言い残して、部屋をそのままにして失踪しており、彼女の死亡が確認されているわけではなく、幽霊話ではないらしい。彼女の娘の早苗は宗教団体にはまっており、布施をたかってくる早苗から逃げて盛田の住むアパートに逃げてきたようで、また早苗に見つかったから姿を消したのではとも考えられたが、早苗の住所を調べてみると何と彼女も失踪していた。真相は、勝枝が宝くじで大金を得て、不安になった勝枝が結局娘の早苗を頼り、2人で過去を捨ててまったく新しい生活を始めていたというものであった。勝枝と一緒にいた女性は、早苗が常連となっていた高級インテリア店の従業員であり、そこから杉村は真相にたどり着いたのであった。早苗が高級インテリア店の常連になっていたのは、宗教団体の仲間で早苗と仲の良くなかったベルという女性が、かつてそこの若夫婦を車で撥ねて殺してしまったことへ対するあてつけであった。 探偵役の主人公が淡々と町中で調査を進めて真相にたどり着くというスタイルは、東野圭吾の『新参者』に通じるものがあるが、あちらが人の善意をテーマにしていて心温まるのに対し、こちらは人の悪意をテーマにしているため、とにかく後味が悪い。後味どころか、読書中ずっと気分が悪い。主人公と、その周辺の人々が善意の塊であることだけが救いの作品。早苗が最も不愉快なキャラだが、彼女から逃げつつも結局そこへ戻ってしまう母親の勝枝も残念。ベルの過去のエピソードは、早苗の悪意を強調するために無理矢理絡めてある感じがして今一つ。 A「希望荘」…老人ホームへやって来た杉村。今回は、老人ホームで亡くなった武藤寛二という老人が生前の殺人をほのめかしていたことの真相を突き止めてほしいという、息子の相沢幸司からの依頼であった。ワイドショーで若い女性が殺された事件について流している時に、寛二が「憑きものにつかれてるんだ。ほんにんもどうしようもないんだよ」「つい頭に血がのぼって、手を出しちまった」とつぶやいていたというのだ。
過去の殺人を告白して死亡した武藤という老人の謎で読者を引きつけ、実は彼は演技をしていただけで、ある殺人事件の犯人に自首をうながしていたのだったというどんでん返しや、武藤の孫や過去の殺人事件の遺族と杉村との関わりなど見所は多いのだが、あまりにも展開が淡々としていて、どうにも退屈。正直読んでいて眠くなってしまった。 B「砂男」…離婚後、一度故郷へ帰ることになった杉村が、再び東京に戻って私立探偵事務所を開業するに至るエピソード。故郷で姉の家に住みながらフリーペーパーを契約店舗に配る仕事を始めた杉村であったが、やがて「なつめ市場」のバイトの誘いを受けて働き出す。杉村が、その仕事を心から楽しんでいる時に事件は起こった。
杉村が、これまでのシリーズ内で散々臭わせてきた私立探偵開業というステップにやっと踏み出させた重要人物である蛎殻昴との出逢いについて描かれているのだが、主人公の杉村が38歳にして頭も切れ異様に落ち着いた人物なのに、そんな何の支えもいらないような人物を陰で支える大物が、24、5歳の調査会社を経営している青年実業家という設定にどうしてもなじめない。この蛎殻昴という人物は、杉村の過去を徹底的に調べ上げ、今回の事件の調査依頼をするのだが、もっと年配の、少なくとも杉村より年上の人物を配するべきだったのではないか。身体障害者という設定も果たして必要だったのか疑問。 C「二重身(ドッペルゲンガー)」…311の大地震によって事務所が傾いてしまって困った杉村は、結局大家である竹中家の屋敷の1室を借りて居候することになる。
依頼人の明日菜という女子高生がいきなり口が悪くて閉口。今時の高校生はこんなものかとも思うが、ちょっと脚色しすぎでは。続けてショップのブログを荒らす連中や、明日菜に万引きをさせるクラスメイトなど、とにかく事件と関係なく不愉快になる人物を次々登場させるのは本当に勘弁してほしい。犯罪者でもないのに不愉快さを感じさせる人物がたくさん登場するところにこの作品のリアリティがあるのかもしれないが、とにかく読んでいて辛いだけ。 いずれも良くできた話ばかりなのだが、あまりにも突っ込みたくなる場所が多すぎてトータル評価は★★。 |