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「みかん」と「つるがみなと」の物語   2005/2/12 福井新聞「おとな日」より

それは「みかん」から始まった!

   2005年は日露戦争の講和条約が結ばれてちょうど100年。講和条約の翌年、敦賀とウラジオストク間に週1回の直通定期航路が開設されます。その敦賀港の黎明期を支えたのは、「みかん」でした。


輸出輸入
第1位みかん306,000円 第1位石油535,000円
第2位織物類196,000円 第2位豆粕157,000円
第3位洋服187,000円 第3位大豆  97,000円

   輸入の1位の石油は納得できるでしょう。おなじみの敦賀の赤レンガ倉庫が建てられたのは1905年、当時は石油倉庫として使われていたのだから。だが、輸出の1位はみかんというのは驚きだ。しかも金額は30万円以上。公務員の初任給は50円だった時代の30万円。現在の初任給を20万円とすると、物価は約4000倍、となると、みかんの輸出額を今の金額に直すと12億円!になる計算だ。しかもしばらく輸出の1位はみかんが続く。


1912年(大正元年)は412,000円。その間、輸出総額のほぼ1割以上はみかんが占めているのだ。1909年(明治42年)に、ウラジオストクは自由貿易港の制度を廃止し、綿や紙などに高い関税をかけるようになった。ただし、果実・野菜は無税だったため、みかんはいっそう盛んに輸出されたのだろう。まさに、敦賀港はみかんの港だったのだ。


なぜ、「みかん」だったのか?

   当時のウラジオストクには10万人(ロシア人5万人・中国人4万人朝鮮人1万人)、その周辺も含めると30万人以上が住んでいた。「寒冷に耐えんがため濃厚なる食物を用ひ、野菜・果実の大部分は彼らにとって必要食料品である」とされていた。ビタミンC豊富なみかんは重宝がられたのだろう。

   原暉之「ウラジオストク物語」(三省堂)には、1909(明治42)年のウラジオストク自由港制度廃止後の日本とロシアの貿易について、こんな記述がある。「こうして日本海を挟む対岸貿易では、野菜と果実が日本からの輸出の主要品目となった。

   輸出港の中心は敦賀で、小樽・長崎がこれについだ。この三港は一種の分業体制を形成していたようで、敦賀は「北は青森より南は台湾に至る間の果実・野菜類を広く集め」、小樽は「北海道及び青森産のりんごを主として、尚北海道の玉葱・馬鈴薯を輸出」し、長崎は「同地付近産の果実・野菜を輸出するとともに上海産野菜類の再輸出をなす」といわれた。
(農商務省農務局「本邦農産物対露領亜細亜輸出貿易に関する調」)
つまり、敦賀港は、南の方の果実・野菜に対する比重が重かったのだ。


「ウラジオへ!」奨励されたみかん栽培

   前出のように、敦賀から輸出される果実・野菜類は全国から(どころか台湾からも)集まっていた。みかんは主に愛媛から入ってきていたようだ。敦賀でも輸出用の果物・野菜を作ることができれば、農村部の収入になるということで、敦賀では明治の終わりから、果実・野菜の生産が奨励された。1910(明治43)年に行われた郡農会主催町村農会長会議では、「近時果実ノ需要頓ニ増加シ、当港ヨリ浦潮方面ニ輸出セシ客年中、果実類ノ総価格ハ約四十万円ニ及ベリ。斬ノ如キ状況ナルモ、其多クハ他府県輸入ニ止マレルハ甚ダ遺憾トス。(中略)果樹栽培ヲ奨励スルハ農家余業ノ一トシテ刻下ノ急務ナリト信ズ」と言われている。にもかかわらず敦賀の果実・野菜生産は伸び悩んだが、東浦地区だけは、これがきっかけでみかんの主産地となった。東浦では、江戸時代の終わり頃からみかん栽培が行われていたが、奨励を受けて生産農家も増え、1916(大正5)年には3、660円分を生産したらしい。今もみかん園があり、一種の観光名物でもある。


「敦賀とみかん」その後

   1915(大正4)年には、果実・野菜類も有税となる。第一次世界大戦が始まった影響もあり、ロシアへの輸出品は、生糸や毛織物、綿繊維製品、金属類などが主流になっていった。1917(大正6)年にはロシア革命が起こり、ウラジオストク周辺は大混乱。貿易にも支障が出始める。その後、ウラジオストクは、野菜・果実などを自給自足とする方針をとり、海外からの輸入を禁止するようになったので、次第に敦賀港のみかん輸出は減少していった。対ロシア貿易も減少し、敦賀港は対朝鮮貿易に活路を見いだしていくのだ。

【東浦ミカンの歴史】       [情報提供]東浦公民館

 江戸時代の末に敦賀市阿曽で生まれた「金井源兵衛」さん(1785年生まれ)は、東浦で「特産品」を作って、農家の生活を豊かにしたいと思い、大阪府や和歌山県へ勉強にでかけ、東浦の気象(温度や雨の降る量)や土の条件を考えて、ミカン作りが一番良いと判断し、大阪から「普通ミカン」の苗木を買って、それを東浦の農家に無料で配りました。
やがてたくさんのミカンがなり、明治時代に敦賀港からロシアのウラジオストックへミカンを輸出するまでになり、東浦のミカンは「特産品」となりました。
しかし、その後、敦賀より暖かい九州や四国、和歌山県などで、早くから食べられる「早生ミカン」が作られ、東浦の甘くなるのがおそい「普通ミカン」は、じょじょに面積が少なくなりました。

【観光ミカン園のはじまり】


 東浦でも昭和40年ころから「普通ミカン」にかえて「早生ミカン」が植えられるようになりました。
昭和46年にミカンを作っている農家のみなさんが相談して、「お客さんに景色が美しく、空気のきれいなミカン園に来てもらい、おいしいミカンをたくさん食べてもらえる観光ミカン園」を行うようになりました。
現在、11戸の農家が「観光ミカン園」を行い、毎年、10月~11月には約3,000人が「ミカン狩り」に来ています。
 当初は皮が硬くて酸っぱく不人気でしたが、今や生産者の尽力により品質改良が行われ、甘くてコクのある味になっています。敦賀の名産品として立派に誇れるものに成長しています。


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