はなちゃんの言葉のパワー

                

紫陽花に想いをこめて

ポリアンサスの心

合格花

がんばれトマちゃん

教室はベゴニアの病院

咲き続けた白い花

お新香巻きパーティの誇り

古代文学に見る言葉のパワー 
万葉集 枕草子 漢文の先生の言葉

みんなの言葉のパワー


紫陽花の切り花が教室で1ヶ月咲き続けました。しかも、枯れるときには、木に咲いているときのように、しおれもせずに色が徐々に茶色に変わっていったのです。


 小学3年生を担任したときの話です。学級に太郎君(仮名)と言うやんちゃな子がいました。
太郎君は、教科書も出さず、勉強もせず、いやなことがあると暴力をふるいました。先生が注意をしてもちっとも聞きませんでした。なぜなら、太郎君は、学校も学校の先生も大嫌いだったからです。先生の言うことも、親の言うこともちっとも聞きたくなかった太郎君は、4月の1ヶ月の間に、いやなことを我慢できなくて、2回も学校から家へ逃げて帰ってしまいました。
 でも、本当は、太郎君もみんなと同じようにほめられると嬉しいし、みんなと仲良くやることも嬉しい子だって、先生は知っていました。それで、なるべく太郎君の頑張ったことを探すようにしていました。教室のみんなにも、太郎君のことを一生懸命話しました。そして、みんなも、太郎君のことを心配し、太郎君の成長を願うようになりました。
 ところで、先生は花がとても好きです。誰かが教室に花を持ってきてくれると、いつも大喜びをしています。生きている花は元気の元だからです。
 6月のある日、太郎君がふらりと先生のそばにやってきました。この頃は、太郎君はとても掃除を頑張っていて、彼のおかげで掃除の上手でなかった次郎君が掃除をするようになっていたので、先生はそのことについては太郎君をいつもほめていました。太郎君は、こう言いました。
先生、花好きか。」 「うん、大好き。」
「うちに、でっかい紫陽花、あるんや。」
「いいねえ。」

 次の日、太郎君は、先生の頭ほどもある紫陽花を1本持ってきて、黙ってぽんと先生の机の上に置きました。後で、太郎君のお母さんから聞いたことによると、太郎君はそのでっかい紫陽花がつぼみの時から、「あれ咲いたらわいが持って行くぞ。」と言っていて、その日は、その花を自分で切って、新聞紙にも包まないで学校へ持ってきたのだそうです。
 その紫陽花を先生が大事にしたのは言うまでもありません。紫陽花1本に込められた太郎君の思いを考えて、先生はとても嬉しかったのです。だから、毎朝、教室に入ったときに、一番に言う言葉は、「おはよう。太郎君の紫陽花、今日もきれいねえ。」でした。ふと気が付いたら、先生と同じように学級のみんなも太郎君の紫陽花を大事にしてくれていました。みんなも、「太郎君の紫陽花、本当に大きくてきれいねえ。」と言って、水を換えてくれました。先生は、学級のみんなの気持ちも嬉しくて、なおなお、紫陽花をほめてしまいました。紫陽花には、太郎君の思いばかりでなく、学級みんなの思いがこもっていたのですから。
 ふと気が付くと、1週間たち、10日がたっていました。みんなの紫陽花にかける言葉は、いつの間にか励ましになっていました。「おはよう、太郎君の紫陽花。今日も元気ねえ。」そのころには、みんな、紫陽花が一日でも長く咲き続けるようにと真剣になっていました。みんなは一生懸命紫陽花を励まし、水を換えていました。太郎君は、それをどのような思いで見ていたのでしょうか。4月のように暴れ回る姿は、ずっと減っていました。
 さらに1ヶ月経ち、暑い7月の半ばに、だんだん紫陽花の色は薄くなっていきました。そして、まるで木に咲いている花のように、しおれることなく、、花びらはドライフラワーのように茶色くなっていったのです。
 そして、太郎君は、自分の紫陽花に声をかけ続けてくれたクラスの仲間と、いつの間にか仲良く話すようになっていたのです。3学期には、学級委員までして、みんなのために働くことができました。
 そうして、このことが、私の、言葉のパワー追求へのスタートだったのです。

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ポリアンサスの花の色が変わりました。
赤から黄色になってまた赤く咲きました。


 小学校4年生を担任していた年です。2月の土曜日、スーパーで、赤と黄のポリアンサスの鉢を買いました。紫陽花以来、ラジオや新聞の記事で、言葉のパワーを裏付けるものが、ふと引っかかってくるのです。そこで、気になっていた言葉のパワーについて、教室でみんなで実験をしてみようかなと思いました。
 家に持って帰ったら、息子二人が、「お母さん、僕たちで実験したい。」というので、家でやることになりました。
 そこで、鏡台の右と左に二つの鉢を置きました。そして、そのときは、赤い花がとてもきれいに咲いていたので、黄色い花に3人で毎日声をかけることにしました。「きれいだね。」「おはよう、今日も元気でね。」「頑張って咲いてね。」等々。
 ところが、それを見ていた幸雄君。「どうして赤い花には何も言わないんだ。」「だって、枯れろとか言ったりけなしたりするのはかわいそうでしょう。」「ふうん」
 幸雄君は、朝ひげを剃るときに、家族を裏切って一人だけ赤い花に冗談で声をかけました。
「おい、黄色い花はほめられるから、おまえも黄色い花を咲かせたらいいぞ。」
 すると、次の日から、赤い花はどんどん花丈を短くして、とうとう半分になってしまいました。それとともに、花の色がどんどん薄くなり、赤からオレンジになり、ついに、木曜日には、小さな真っ黄色の花になってしまいました。
金曜日、隣の席の理科の先生に尋ねました。「〜こんなことってあるかな。」彼は言いました。「もし本当にその言葉かけのせいなら、また赤くなれって言ったら赤くなるかも。」
 その夜、私と幸雄君は、花に言い聞かせました。「あなたは赤い花なんだから、赤い花を咲かせるのよ。」そして、翌土曜日の朝、出勤前にもう一度言い聞かせました。
 土曜日の午後、期待して学校から帰ったら、花は無惨にもしおれていました。不思議なことに、葉っぱだけは元気でした。息子二人にしかられました。
かわいそうに、一生懸命黄色くなった花に、そんなひどいことを言うたから、花は悩んでしもたんや。
「そういえば、悪かったなあ。」
 数日後、枯れた鉢を片づけようと持ち上げたとき、葉っぱの陰に隠れるようにしている1センチほどの丈の小さなつぼみを見つけました。まさに、赤い花が語りかけているようでした。また赤い花が咲くかも知れない。
 それからは、幸雄君も一緒になって、「ごめんね。ふざけて悩ませて悪かったね。」「一生懸命頑張ってね。」と、家族みんなで赤い花に謝り、励まし続けました。
 いったん悩んだ赤い花は、長い間いじけたようにつぼみのままでした。しかし、花丈は、少しずつ伸びていました。
 それから半月以上たった3月20日、ポリアンサスは、ついに、ビロードのような真っ赤な花を咲かせました。その後、赤い花は5月中旬まで次々と美しい真っ赤な花を咲かせ続けました。

 おまけです。
 どうしても納得できない幸雄君。花屋さんに聞きました。
「この花は、黄色くなることもあるのですか。」「そんなこと、絶対にありません。」と怒られました。
次は、愛読している「たの授」の板倉さんに手紙を書きました。しかし、ついに返事は来ませんでした。そして、次の年の正月、板倉さんからの年賀状を見て、「やっぱり、あの手紙は届いていたんだなあ。」「板倉さんにも答えようがなかったんでしょう。」
 今でも、幸雄君は言います。「あれを見ていなかったら、今だって、花の色が変わるなんて話を信じない。」 それほど不思議な話ですが、職場の仲間にはこれを機に言葉のパワーに挑戦して、それなりの成果を上げた人もいます。

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この花が咲いているから、合格するよ。オーヘンリーの世界

 ポリアンサスの体験の次の年、幸雄君は中3の担任です。10月、研究会があったので、教室に花の鉢がおかれました。幸雄君は、そのときに、ポリアンサスを思い出しました。自分の机の上に置いて、給食の時など「きれいだよ。」「がんばれよ。」と毎日声をかけました。
 元々丈夫な花であったのでしょうが、冬休みを越えて、3学期を元気に迎えることができました。そのころ、学級には、本人も周囲も中学浪人を覚悟で、どうしてもここを受験するという生徒がいました。その生徒が花の世話をしながら、幸雄君によってきては、「先生、この花よう咲いとるなあ。ひょっとして、受験までこの花が咲いていたら、合格するかなあ。」と、時々言うようになったというのです。唯物主義の幸雄君ですが、ふと思ったそうです。
「本当に念の世界があるというのなら、教師としてやるべきことをやった以上は、彼のために祈ってやろう。」
 3月、受験の朝、幸雄君は、「おい、あの花はまだ咲いているぞ。頑張れ。」と励ましました。後に、受験生の彼は、「あの先生の言葉で、僕は落ち着いて試験を受けることができました。」といったそうです。
 合格発表の日、彼は見事に合格していました。しかも、その学年8クラスのうち、幸雄君のクラスのみ、全員第一志望合格だったのです。
 その後、その花は2年間咲きませんでした。わが家の長男が高校受験の年に、見事に咲いたので、わが家では、「合格花」と名付けました。

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「すっかり枯れたはずのトマトが生き返った。」

 はなちゃんが転任して、中学2年生の担任の時の話。不思議な言葉のパワーを話したら、「僕たちもやろう。」と言うことになりました。
 4月28日、接ぎ木のトマトの苗を買ってきました。車の中で1本の茎が折れかかったので、これをまるこさんとし、元々元気なのをばつおくんと名付けました。そして、何とか、まるこちゃんも奇跡的にゴールデンウィークを乗り越えることができたのです。
 5月6日、しかしながら、教室の横のベランダに移すときに、いたずらな一郎君が支え棒の付いた折れかけたところをいじったので、完全に折れてしまいました。ショック!!!クラスの友達はもちろん、一郎君もちょっと困った顔をしていました。
 もちろん、はなちゃんもショックでした。それで、こう言ったのです。
「残念だけど、折れてしまったのは一郎君だけが悪いんじゃない。どんなことも、たくさんの偶然がうまく重なり合って起きるのだから。運ぶときに、傷めた先生も悪い。見ていて、注意をしなかった友達も悪い。みんな、一生懸命生きていたトマトに悪い。起きてしまったことは仕方がないから、せめて、今日はトマトにごめんねって全員で声をかけて帰ってね。」
といいました。
 葉は垂れ下がり、日に日に緑がなくなって茶色くなっていくのに、なぜか気になり、「ごめんなさい。」と謝り続けました。土が乾かないように気をつけながら、ふと何か感じるものがありました。トマトとのインスピレーション??
 6月13日、学校にサイエンスカーがやってきました。大きな宇宙と、小さな微生物の命がふかくつながっている宇宙の神秘を感じました。顕微鏡で見るミジンコの心臓がどきどきしているなんて、ああ、自然ってすごい、と感動しました。その日に、私は、ふとトマちゃんの声を聞いたような気がしたのです。それで、その日以来、ますます熱心に言葉をかけました。「頑張ってね。」「せっかくの命を本当にごめんね。」「今日はいい天気だから、私も頑張ります。」ひょっとしたら、私は、まるで馬鹿に見えたかも知れないね。
 6月20日、全く茶色の葉っぱながら、茎が上をむき始めたのです。「やったあ。」
 夏休み、ついに、トマちゃんは、とびきり甘い実を付けました。トマト嫌いの1年生の女子が、部活の後にトマトを食べて、そのおいしさに驚いていました。それを見ていて、一緒に感動した隣の1年生の担任は、今でも仲良しのお友達、ankyuさんです。もうすぐ、初めてのママになります。彼女のホームページには、ここのホームページからもとべます。
:ただし、現在、PC休養中です。

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卒業式の日に、校長先生が、「このクラスはいろいろな植物が生き生きと咲き、絨毯敷きの豪華な部屋を連想させるような教室でした。」と言われたように、愛情と信頼に満ちた仲間との生活があった年の話です。

 中学3年生の担任をしたときです。とにかく、温かく優しく、エネルギーに満ちたクラスでした。前年に登校拒否気味の子がいたなんて、信じられないくらいでした。今思うと、担任だけが間が抜けており、それを攻めないでフォローしてくれる生徒がいました。しかし、担任が生徒に限りない愛情を注いでいたのも事実です。
 この年、一人一鉢運動で、全校生徒が6月からベゴニアを一鉢ずつ栽培しました。
 秋になって、ベゴニアが自分の教室に置かれるようになったとき、私はふと数年前の「合格花」の話をしました。「このベゴニアが合格花になるといいね。」
受験が近づくにつれて、不安の増してくる生徒たちも、何となくその気になって、競って自分の花に声をかけ世話をしていました。
 12月、ふと気が付くと、学校中のどのベゴニアより、中3のベゴニアが素晴らしいことが評判になっていました。「あの教室は、陽当たりが違うのだろうか。温度が違うのだろうか。」
 1月、中1の子が、「僕のベゴニアは、中1では一番咲いているけど、中3では全然あかん。何でやろ。」と言うので、何気なく、
「じゃあ、中3へ持ってきたら。」と言ってしまいました。
 責任上、みんなで声をかけて世話をしました。そして、一週間後、掃除に来ていた中1の女の子が言いました。
「はじめは、どれが優ちゃんのかすぐにわかったけど、もう区別がつかん。私のは、花が咲いたことないんや。中3へおかせて。」
ぱらぱらと葉っぱがあるだけの、がりがりのベゴニアでした。中3に持ってきた次の日、掃除に来た彼女は、
「あっ、根本の所に新しい葉っぱがでている。」
 わさびみたいと笑われていた彼女のベゴニアのあちこちに、新しい緑の芽が出てきているのです。みるみる元気になったベゴニアは、3週間ほどかかって、ついに花を咲かせることができました。
「中3の教室へ行くと、ベゴニアが元気になる。」とは、生徒の間であっという間に広がりました。
 次は、去年の秋からつぼみはできているけど、そのまま花が咲かないというベゴニアが入院してきました。みんなの期待の中、何ヶ月も縮こまっていたつぼみが、1週間ほどの間に次々に茎を伸ばしてきて、2週間後には見事花を咲かせました。私は、宇宙人かも知れない。」と言われるようになりました。
「そうです、私は実は宇宙人です。あなた達が社会にでた後で、本当に困ったことがまたあったら、どうぞいらっしゃい。きっと力になれると思います。」と答えています。
 もちろん、中3の生徒たちは希望通りに進学できました。ちなみに、その年は、わが家にとっては、長男は大学の、次男は高校の、受験生でありました。その他に、私が今まで教えた高校生以下の人たちはみんな受験学年という不思議な年で、あちこちから合格のニュースが飛び込んできた春でした。

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 保護者もびっくり!!! 小学1年生の教室で、みんなで声をかけた花が1ヶ月も長く咲き続けました。

 小学校1年生の担任となりました。子供たちに「パワーアップ大作戦」をしました。
「相手のことを考えた優しい言葉は、パワーの元だよ。」
と言うことで、教室でみんなでやってみることになりました。
4月29日、小さな二つの鉢に同種の白い花を植えました。2本の花の丈の大きさはかなり違っていました。
4月30日、教室で、小さい方の花に声をかけることになりました。
    「おはよう。」「今日も頑張ろうね。」「さようなら。」「今日も一日楽しかったよ。」「○ちゃんが頑張ってたよ。」
 しかし、期待していた変化はありませんでした。小さな花が大きくなるかと思ったのですが、小さい花は、いつ  までも小さいままでした。早く咲くかとも思ったのですが、変化なし。
5月下旬、2本の花は、同じような白い花を咲かせました。違いは、小さな花が1日早く咲いたと言うだけです。
 しかし、素直な1年生の子供たちは、声をかけ続けました。
6月13日、大きな花が枯れかけました。葉の下の方から緑が薄くなっています。
6月15日、大きな花は完全に枯れ、てっぺんが折れ、つぼみは1つもなく、根元の方から4枚ほどの葉は完全に枯れています。一方、小さな花は、小さなつぼみをたくさん付けて、りんと咲き続けているのです。そして、根元には、新しい芽がたくさん吹き出ています。まさに、力つきたものと、命を次の世代に残そうとしているエネルギーにあふれたものとの差でした。しかし、水はずっと同じようにやり続けました。
7月に入って、小さな花にも少しずつ衰えが見えてきました。
7月18日、成績報告会の日、保護者に花の話をしました。2鉢とも土はみずみずしいのに、大きな花は完全に枯れて茎はからからに黄色くなっています。一方小さな花は、花の寿命はそろそろ衰えかけて来たかなと思うくらいですが、葉っぱはまだみずみずしい姿です。2つの並んだ鉢を見た保護者の中には、
「日頃の自分の子どもへの言葉かけを考えるとぞっとします。」と言われた方もいます。
7月29日、家庭訪問に行ったある家庭で、でてきたお母さんが、開口一番、「ちょっと来てください。」と裏庭へ連れていくのです。なんと、もらった小さな朝顔に親子で声をかけたらどんどん育ったので、「先生に見せたいから、家庭訪問までに花を咲かせてね。」と言っていたら、本当に、その日の朝、最初の花が咲いたというのです。
む、む、む、こんなことって、あり?? 他人がやると、やっぱり驚く !!!

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死後の魂の存在を信じた古代人は、言葉のパワーを信じた。
額田の王や山上憶良は、天皇のために言葉を選んで発する人だった。
「にきたつに ふなのりせむと つきまてば 
しほもかなひぬ いまはこぎいでな」
と詠んだ額田の王の歌は、中学・高校の国語の教科書によく出てくるものです。
よく考えてみると、この歌の中身は、まさに天皇の言うべき言葉です。「さあ、船を出そう。」
額田の王は、天皇の代わりに、大切なときの言葉を考える人だったと言われます。この時代は、何か大事なことをするときには、幸運を祈って言葉を選ぶことが習慣になっていたようです。
 山上憶良には、「おおきみは かみにしあれば〜」など、天皇をたたえる長歌がたくさんあります。言葉のパワーを信じる古代人ゆえに、彼の存在は大切であったのでしょう。


枕草子は、清少納言の自慢ではない。
中宮定子の幸せへの祈りを込めた文学ではないだろうか。
 
高校時代、古典の先生が枕草子について、こう言われました。 
清少納言は、才能は確かにあったが、自分の仕えている定子中宮の自慢ばっかりしている。」
しかし、大人になってから、また枕草子を読みたくなって、読みました。清少納言に関する他の本も気になっていろいろと読みました。そして、ある本を読んでいて、パッとひらめいたのです。
「そうだったんだ。」
 清少納言は、決して自慢屋さんではなかったのではないかと思うのです。彼女は、本当に誠実に中宮定子に仕えたのだと思います。
 清少納言が使えていた中宮定子は、天皇とは実に似合いでありながらも、大臣であった父親が早く亡くなったため、不遇な宮中生活を強いられました。一方、当時の権力者藤原道長の娘中宮彰子は、子供ながらも父の権力の元に、華やかな宮中生活をしました。紫式部、伊勢大輔、赤染衛門、和泉式部親子など、百人一首に名を連ねる平安時代の名だたる女流歌人は、ほとんど彰子の女房として宮中に仕え、宮中文化を支えました。
 際だつ才能のために、清少納言も道長から勧誘を受けたでしょうが、彼女は、最後まで定子の元を離れませんでした。彰子の女房たちとも対等につき合っている清少納言は、定子の他の女房からは、(嫉妬もあったのでしょうが)裏切り者的に見られることもあったでしょう。
しかし、清少納言は、定子の幸せを願って、彼女の人格の素晴らしさや、彼女の生活の幸せな姿や、自分の身の回りの素晴らしいことなどについて、書き続けたのではないでしょうか。
 枕草子は、自信に満ちてはいますが、決して、自分たちを追いつめていった彰子側のことを悪くは言っていません。「うつくしきもの」や「はるはあけぼの」などを読むと、豊かな感性と選び抜かれた言葉に感動すら覚えます。
 清少納言は、言葉のパワーを信じていたから、よりよい言葉を選びながら、定子の幸せを祈りながら、枕草子を書き続けたのではないでしょうか。そして、時間を超えて現代まで、20代前半で不遇な生涯を閉じた中宮定子の、幸せで華やかな宮廷生活を伝えているのです。私見ですが……。最近の私の思いです。

言葉は命のあらわれ
 大学時代、漢文の先生の言葉を覚えています。「論語」や「荘子」などを習いました。その先生が、
「言葉は命の表れである。」と主張されました。なぜかと言えば、言葉は「こと」のは、つまり「こと」の端なのだそうです。そして、「こと」とは、命そのものなのだということを、「こときれる」という言葉が命を落とすということに例をとって説明されたのを覚えています。
 言葉は、使う人の命であり、人間性をそのまま表すものかも知れない、と思うと、安易なはなちゃんは、考え込んでしまいますが。

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