新しい日記のページ 2001.12.16~ はなちゃんと虎ちゃんのくちずさみ日記 はじめに くちずさみとはなちゃ 虎ちゃんとその一族 親子の会話 魚捕り大作戦 裸の王様の世界 人のヘアスタイル、ほっといて 越前焼き 織田焼きの窯元の話 「炎の舞」のモデルとして ドラ3兄弟 ドラ1,ドラ2,ドラ3の由来 スキーは楽しい 虎ちゃん~雪に勝った
はな~いつの間にか、お守りされている二人で散歩 花より団子 お花見 月夜の散歩 冬景色 雪の中の柿の木 冬支度 はなの日記 日記(はな) その都度UP 9/26 虎の日記 日記(虎) 虎のアトリエにあります。 はなちゃんは、子供の頃、無口どころか何にも言えない子でした。はなちゃんは、優秀な姉と、かわいい長男の間に産まれた女の子でした。小さいときは、「よい子」という名前の、母の作った人形を片時も話さずに相手にしていた暗い子でした。
一日中黙って本を読んでいるだけのはなちゃんに、小学生の頃、父が1冊のノートをくれました。何の色気もないネズミ色の普通の大学ノートでした。いま思えば、もっとかわいいノートはなかったの、といいたいところですが……。
父は、そのノートに、墨で黒々と、「くちずさみ」と書いてくれました。文章を書くことの好きな父は、 「たつき(生計?)」という日記と「つち」という農業の記録を書いていたように思います。
「何でも思っていることを自由にこのノートに書きなさい。ノートがつまったときはいいにきなさい。また次のをあげるから。」
それからは、
「口ずさみが詰まったよ。」
というと、父は、また同じようなノートを買ってきて、墨をすって、気取った字で「くちずさみ」と書いてくれました。
はなちゃんは、くちずさみに書き続けました。毎日毎日、くちずさみをひろげました。嬉しいこと、悲しいこと、そして、夢。小学校5年生になって、4キロ離れた学校(本校)へ、歩いて通うようになったとき、黙々と歩く時間は、はなちゃんの絶好の創作時間でした。
5年生のときの担任の先生がくちずさみを見つけました。子供ですから、見せてといわれるままに見せてしまいました。その先生は,はなちゃんの詩や作文に発表の場を与えてくださいました。背面黒板に、次々にはなちゃんのくちずさみの詩を書いてくださいました。校内放送で作文を読ませてもらいました。そして、先生は、
「私もあなたのようにノートを作りました。かたらい、と名付けました。日々の自分の思いを素直に書き続けていきたいと思います。」
といってくださいました。
くちずさみは、青春時代、自分の心の足跡を見るのが苦しくて、衝動的に背戸で燃やしてしまいました。でも、自分の中に、いまでもくちずさみの心は残っているようです。
くちずさみと虎ちゃんが私に自信とパワーを与えてくれました。私は、いまでは、少しは言葉を出すことができるようになりました。
最近は、出しすぎではないかという声もありますが、それは、あくまでもインターネット上のことで、現場では、おとなしいのです。あとは、現場の人に聞いてください。目次へ
親子の会話
テレビを小さくして
長電話を始めたはなちゃん。テレビの音が気になったので、側にいたたたちに
「ちょっと、テレビを小さくして。」
しかし、最後まで大きな音のまま。
「どうして?」といったら、たたちはテレビを抱えて、
「う~ん、このテレビはかたくて、どうしても小さくならん。」
はなちゃんは自分でボリュームを下げてしまった。
それを見ていた虎ちゃん、しばらくして、「テレビを大きくして」と言おうとしたが、一瞬考えて
「声を大きくして」と言った。
そのとたん、二人の息子が、両サイドから大声を出した。
「わっ。」「何や、これは!」トトロが二匹
新しいマーケットができたので、家族四人で出かけた。
大きなトトロが飾ってある花屋さんで二人の息子がひそひそ……。
「ちょっと、ちょっと、はなちゃん、こっちへ来て。」
はなちゃんが来たとたん、あちらがたたちにに言った。
「なっ、トトロが二匹になったやろう。」
「む!む!」
ちょっとふいてね
食事の後かたづけをしていたはなちゃんが、近くにいたたたちに頼んだ。
「テーブルの上、ちょっとふいてね。」
「よし、分かった。ふくよ。」
ふといやな雰囲気を感じて振り向いたら、
たたちは、口にいっぱい空気を吸い込んで、テーブルに向かって、ふうっ~」
頭、のびたねえ。
食事のとき、おばあちゃんがあちらに言った。
「頭、のびたねえ。散髪に行ったら。」
すると、あちらは両手で頭を抱えて、きょろきょろ。
3人は、にやり。おばあちゃんは、最後まで分からなかった。醤油をまわして
わが家では、食事時の禁句の一つに「ちょっと、そこの醤油をまわして」という言葉がある。
これを言うと、みんな、手元の醤油さしをクルクルとまわしはじめる。
習慣化は怖い。
職場で、「このプリントをまわしてください。」と言われると、つい反応してしまう。
「分かりました。まわしますよ。」と、両手でクルクルクル……。
家族でやっていること
たたちが、学校からPTAのアンケートをもらってきた。
「家族でやっていることを選んでください。」音楽、スポーツetc。
彼は、それを見て、即応えた。
「わが家でやっていることは、やっぱり家族漫才でしょう。」魚捕り大作戦
おばあちゃんが、農協の祭りで100円ですくってきた金魚が、とても長生きをした。はなちゃんとたたち君は意見が一致して、1万円ほどもかけて、濾過装置の付いた水槽を買ってしまった。そして、金魚は、昇天した。残ったのは、水槽のみ。生あるものの定めとは言いながら……何だかなあ。
あちら君とはなちゃん
夏休みに、帰省してきたあちら君。
「よっしゃ、一緒に水槽の中身をとってこよう。」
とはなちゃんに声をかけた。
「でも、こんなおばさんが、魚捕りしてるのかっこわるうないか。」
「ええっ、そんなこと気にする人やったのお、嘘やろお。ドンマイ、ドンマイ!!!!」
ということで、ショートパンツをはいて、麦藁をかぶって、はなちゃんとあちら君は黒河川へ出かけた。暑い日だった。
しかし、甘かった。10時に家を出て、12時になっても魚は一匹もつれない。
「どうする?」
「もうちょっとや、一匹ぐらいつらなあかんで。」
炎天下、魚に遊んでもらって、くたくた。時計はすでに2時。
「ええい、あそこの稚魚をバケツですくって帰ろうか。」
はなちゃんとあちら君は、すっかり日に焼け、おなかもすいて、黒河川の稚魚を持って帰った。2時を過ぎていた。
あちら君とはなちゃんと虎ちゃん
午後、帰ってきた虎ちゃん、いつもと違う水槽の様子に、「ん?」。
「うん、魚を捕って水槽に入れようと思ったけど、捕れんかったから、稚魚をすくってきた。」
予想はしたものの、虎ちゃん。
「下手やなあ、どれ、私が捕りに行こう。」
「では、腕前拝見。」
あちら君とはなちゃんと虎ちゃんは、笙の川へ行って、まさに格闘。虎ちゃんは、何と、2センチくらいのドジョウを2匹、それも、はなちゃんとあちら君がすかさずがばっと上から押さえたので捕れたのだった。でも、一応坊主でないということで……。
あちら君とはなちゃんと虎ちゃんとたたち君
水槽に稚魚とドジョウを入れて、心優しい3人は相談した。受験生のたたち君をこのことに巻き込まないでおこう、と。
たたち君が帰ったとき、優しい3人は、何食わぬ顔をして、決して気づかれぬようにしていた。しかし、敵も去る者逃げる者?さすが修行を積んでいる!!!いつもと違う表情を見抜く技を持っていた。
「ん?怪しい顔?」と、キョロキョロ。たちまち水槽を見つけた。
「何、これ?大の大人が3人がかりでこれ?明日僕が行って教えてあげよっさ。」
ということで、翌日は、4人で木の芽川上流へメダカ捕りに。
かなりたくさん捕って、水槽も、賑やか賑やか。
そのあと、誰かに聞いたんだけど、木の芽川って、自然保護区域だからメダカを捕ってはいけない、なんて話、あった?ううん、聞いてない、聞いてない。こそこそこそこそこそこそ。
潜水夫
ということで、水槽の名もない魚たち、稚魚は、4センチぐらいまでになり、大事に育てられた。次の年の夏、二人の息子の帰省を迎えるために、虎ちゃんとはなちゃんは、ホームセンターへ出かけた。求めた物は、水槽用の磁石の潜水夫。水槽の中と外に身体が半々ある人形なのだ。水槽の中に身体半分、水槽の外に身体半分、さて、…。 ギョッとした様子のたたち君、手を出したので、虎ちゃんとはなちゃんは、真剣な表情で忠告。
「だめ!だめ!だめ! とったら、水がこぼれてしまうよ。!」
ドキリとして手を止めたたたち君、しばらくジッと考えている。
それ、逃げろ!!!………………ばれたか。
たたち君、にやりとして曰く、
「ほんまに、退屈せん大人やなあ。」
「ありがとうございます。でも、あんたの親や。」
「何と恐ろしい。!!!」目次へ
裸の王様の世界
中村あずさ風の前衛的なヘアスタイルをお願い
土曜日の午後、美容室へ行った。いつものことながら、同じことを繰り返すのが嫌いなはなちゃん。ちょっとイメチェン願望で、パーマをかけることにした。
「どう?中村あずさ風の髪の毛を自由な方向に跳ねさせて、ボリュームを出すのなんて……。きっと似合うわ。」
と言われて、その気になってしまった。
さて、美容室の雑誌にあるようないわゆるくしゃくしゃボリュームヘアになって、「すっかりイメージが変わって若々しくなりましたね。」
との声に送られて、美容室を出た。
家に帰ると、たたちはあっと驚き、抗議モードになった。
「何?その頭!」
「今流行にしたんだけど……。」
「明日は、僕のところの体育大会なんだけど、その頭で来るの?」
とても傷ついたはなちゃんは、次の日の朝、朝シャンをしていくらかでも髪の毛の大暴れを押さえて体育大会に行った。
昼食の時に顔を見て、開口一番、
「頭直したの?」とは、たたち君。よほど気になっていたらしい。
ほっといてよね。私の頭なんだから。
次の日、いくらか髪の毛に余韻を残したまま学校へ行ったら、職員室では、
「あら、若々しい素敵なヘアスタイルですね。」と言われて、内心にんまり。(ほれ、たたち、みんなはこう言うんだよ。)
教室へ行ったら、
「うわっ、先生、すごい頭。」
「いいでしょ?」
「うん、うちのお母さんもこの間、そんな雀の巣みたいな頭にして来たよ。本人は喜んでいたけど、スプレーでがちがちに髪の向きを決めてあるから、ゴキブリが迷い込んで出ることができなかった。」
うそやろ!
「先生、今までの方がいい。」
(あなたたちが、慣れてるだけだっちゅーの。)
家に帰ったら、たたち君。
「な、な、学校へ行ったら、みんな何て言ってた?」
(そんなことあんたに関係ないやろ。ええ加減、ほっといて。)
職員室での話をしたら、「ふうん。」
「ほんで、生徒は何て言ってた?」
(どこまで追求する気や!)
仕方なく、ゴキブリが迷子になったという話をしたら、
「裸の王様の世界やなあ。気いつけなあかんで。」
と注意された。
はい、心して……。
(教育的指導、有り難うございました。)
目次へ
スキーは楽しい1~虎は雪に勝った
瀬戸内海育ちの虎ちゃんは、せっかく名前が似ているのに、雪が大嫌いだった。寒いし、一生懸命雪かきをしても、春になればとけてしまうんだし……。なんという怪物だぁ~と常々思っていた。
しかし、この辺りの学校ではスキー学習をするので、当時の体育主任としては、やらないわけには行かない。
即スキーセットを買った。二人分。それが偉い(?と思ってる??)ところ。新しいことをやるときに、決して1人ではなくはなちゃんを道連れにしようとする精神。バドミントンだってそうだったんだが、はなちゃんの運動神経がついてこなかっただけなのだ。
その頃はまだまだスキーはマイナーだったから、近くのスキー場(車で25分くらい)は、土曜日は駐車料金が無料。
日曜日は、関西からわんさと日帰り客がやってくるという状態で、リフトは1時間待ち。それで我が家は土曜の午後のスキーに重点をおいた。
子どもの頃の体験は偉大である。同じ初心者でも、はなちゃんは雪国育ち、虎ちゃんは瀬戸内海の雪のないところで育ったところが違う。虎ちゃんは、スキーの技をマスターするのだが、すべりおりる度胸はいまいち。下手だけど度胸で降りるはなちゃんとは、二人でちょうどいい勝負だったので、二人には良い接点があったのである。
二人は毎週通った。(その頃から凝り性だったのかな。)ジャージを2枚着た上に、980円のヤッケを着て。滑れなくてもウェアーだけは、という今では、信じられないが……。日曜日には、おにぎりを持って行って、冷たいゲレンデの端で食べた。
スポーツはたいてい好きだったが、スキーをマスターしたことは大きかった。どうしようもない雪に一つ勝った気がしたのだ。そうして、冬は冬なりに、自分のペースで過ごせるようになった。しかし、家の周りの雪だけは、やっぱり許せない。
虎ちゃんが中学校に勤務になり、バレーボールの顧問をしていたときは、土曜日曜は練習試合で、母子家庭状態だった。それで、はなちゃんが毎週土曜日、ドラ2とドラ3をスキーに連れていった。
その後、ドラ2は、スキースポーツ少年団に入団し、ドラ3は、レーシングチームに入り、県大会でメダルを取るまでになった。これ、ひとえにはなちゃんのおかげである。
と言っても全然応えないのが、ドラ2どら3ではあるが……。
スキーは楽しい2 ~はな
スキー場に行くと、たいていチャンピオンゲレンデなどは、リフトのすぐ下に丸見えである。あんまり転びまくりもかっこわるい。
そこで、はなちゃんは、初めてのスキー場では、最初から上級ゲレンデには行かないようにしている。ドラ3に指導されたコース取りに従っても、アイスバーンでは危うい。ちょっと横へ行くとたいがい中級ゲレンデがある。
ドラ2ドラ3は、余裕で滑っているので、「よかったら上級へいっといで。」と言う。そして、そのうち、足馴らしをした虎ちゃんにも上級ゲレンデを勧める。
……そして、誰もいなくなった……となったはずなのに。はなちゃんが滑り終えるとすぐに、その後ろにドラ2かドラ3の姿があるのである。
「何やってんの?」
「ん?滑ってんの。」
「どこ滑ってたの?」
「こっち、(中級ゲレンデ)」
「何で?」
「だって、下手なはなちゃんが1人で滑って怪我したら誰か助けんとあかんから。虎ちゃんは自分が滑るのに一生懸命だから、二人で相談して、交替して、ついて来てんの。」
「ほっといて、こんなところは足慣らしよ。あなた達にスキーを教えたのは私なの。」
とか言いながら妙に満足……。
昔は、いつもドラ2ドラ3の後に虎ちゃんが付いていたのに、この頃は、いつも最後から降りてくるのがドラ2.3君たちだ。なんだか、心に響いたなあ。
目次へ
我が家のドラ3兄弟
ドラエモンが好きである。何とも言えず人間的で可愛いキャラクターである。ドラちゃんのポケットから出てくるものの発想がまた新鮮である。
子どもの小さい頃は、夏休みには水泳と旅行、冬休みにはスキーに行った。ある夏、箱根のホテルに泊まったことがあった。「ひめしゃら」という名前だったかな。富士山の五合目まで行って、白糸の滝を見て、富士五湖で遊んだ。箱根の山の上で、お弁当を食べて、関所址も見た。
夜になって、ホテルに入った。和室のきれいな部屋だった。この宿では、小さな浴衣を用意してくれたので、まだ学校前のたたち君にはちと大きすぎたが、3人とも同じ柄の浴衣を着た。さて、私が風呂から帰ってくると、3人はテレビを見ていた。私は思わず吹き出した。
大小の差はあれ、同じ浴衣を着て、同じ顔をした人が3人並んでいるのだ。3人とも同じように横になり、同じ方向の手で肩肘ついてテレビを見ているのである。さらに驚きは続いた。
一緒にテレビを見ていた3人は、同時に笑い出したのだ。3人とも、実におかしそうに、声を挙げて笑ったのである。そして、3人とも静かになった。番組はまだ続いている。すると、また、ある瞬間、3人とも同じときにまた笑い出すのである。そして、同じときに静まる。
これは、ある種の感動でもあった。同じ顔と格好をして、同じものを見て笑うのだ。私は理解した。彼らは、同類だ。
その日から、私は、彼らをドラ3兄弟と思っている。私の父の稲刈りの手伝いに3人で行くと、近所の人から「3人とも兄弟に見えるねえ。」と言われると、まんざらでもない虎ちゃんである。
あちら君など、落ちていたらとどけてくれるよ、と言われた。
たたち君は、「この子は名札がいらないね。」と言われた。
そして、平成14年、「ドラ1」は「虎」に改め、「ドラ2」は「ドラ」に改め、「ドラ3」は「こたろー」に改めた。
目次へ
冬景色 とても懐古的で悲しいが、……。
雪の中の柿の木
冬景色の中に、柿の木が一本ある。雪の中にたくさんの赤い実を付けた柿の木を見て、ふと思った。私の子どもの頃、渋柿は、秋が深まると全部もぎ取られた。柿の木には、来年のために、1個だけ柿が残されていた。もぎ取られた柿は、それぞれいろいろな形で冬のおやつになったものだ。
「つるし柿」「ほし柿」日向におばあちゃんがむしろを敷いて、そこで、つるし柿用の柿の皮をむく。これは、上手にもげたものが優先される。柿のへたのところに、ひっかかりようの軸がちょっと残っていないとうまくつるせないのである。
そうして、おばあちゃんが打って柔らかくした藁で縄を縫い、その間に柿のへたのところの軸を引っかけるのである。そうして、軒先にはのれんのように干し柿がつるされた。それは、大切な冬支度の一つだったようだ。
「じゅくし」柔らかくなりすぎた柿は、もろぶたに入れられて、土蔵の二階に並べられた。そのうち、真っ赤に熟してきた物から、おやつにして食べるのだ。この食べ方にも、はったい粉を使ったり、焼いたりといろいろあるのだが……。
「あわせ柿」「さわし柿」「あわし柿」本名はどれだか分からないが、もぐときに軸がとれたりしたのは、早めに渋抜きをして食べる。ちょっと、柔らかめのものからいくつかは、お湯で渋抜きをする。一晩お湯につけておくと、渋が抜けて甘くなるのである。かなり柔らかめで、もうちょっとの柿は、鍋に入れて火にかけて渋抜きをしたような記憶もある。曖昧な記憶なので、今度母に聞いておこう。いろりの端で焼いたこともある。焼くとおいしい種類の柿もあったような……。
そして、忘れられないのは「塩柿」まだ青々とした堅い柿を、塩水に漬けておくのである。大きなおけに塩水を入れて、柿を入れ、寒いところに置いておく。最近の暖冬ではうまくできないのか、見たことはない。1.2ヶ月すると、とてもさっぱりした柿になる。正月に雪をかき分けて、塩がきを取りに行ったのが懐かしい。
晩秋に、柿をもぐのは、子どもたちの大事な仕事であった。
目次へ
冬支度
昔、冬は厳しい季節だった。春・夏・秋と、植物が芽生え熟す成長の時期を終えると、厳しい冬が来た。冬は、人間や自然を厳しく鍛える時期であった。すぐに道路の除雪ができる現代と違って、車かまだすくなった頃は、幹線道路以外は除雪されず、冬は長い間雪の中に埋もれて暮らした。繁殖した虫は雪の下で死に、伸びすぎた枝は雪で折れた。大雪の年は、田んぼの害虫が少ないんだよ、とは聞いたことがある。
そこで、冬に向けて、いろいろな準備をする。「雪囲い」「雪吊り」の他に、子どもの頃の思い出といえば、食べ物だろう。冬のおやつの準備は、ひとえに子どもたちに活躍にかかっている。渋柿は、適当な日曜日にもいでしまう。
秋、学校から帰ると、子どもたちは何人かで集まって、山へ柴栗を取りに行く。そして、いがごとどっさり、背戸などに積んでおく。天気が悪くて山へ行けないときには、足でいがを踏んで、鎌を使ってくるりくるりといがむきをする。これをゆでて貰って、針に糸を通して栗をつないでいくのである。そのうち、だんだん乾燥してカチカチになる。勝ち栗である。私のところでは、その形が数珠に似ているので、数珠栗という。しかし、その数珠栗も、今では見たことがない。
また、家の周りの大栗は、大きな鉢に砂を入れて、その中に埋めておく。なまのまま食べるが、そのうち甘味が出てきてなかなかおいしい。わが家の姉弟達は、秋になると俄然早起きになる。朝起きて、昨夜のうちに落ちた栗を拾うのだ。遅く起きたものには、もう、落ち栗は残っていない。子どもながらに厳しい世界だ。
もちろん、秋にとれたサツマイモも、おやつ予備軍となる。ふかして、天日にほしておく。残ったのは、懐かしい囲炉裏端の床下に籾殻を入れた室があり、そこへ入れておく。サツマイモは温かいところが好きなのだ。
一方、大根は、畑の隅に穴を掘って室を作り、地面に生えている状態で埋め込む。そして、その辺りを藁で囲んで、三角の藁小屋ができる。これが、天然冷蔵庫である。雪を掘り起こして、食べる分だけ取ってくるのである。これで、いつまでも、みずみずしい大根が食べられるのだ。
今では、そのどれもなくなってしまった。たとえ冬でも、雪に埋もれるのは、せいぜい2~3日までだろう。便利だし有り難いが、自然も人間も鍛えられることを忘れたような気がする。
目次へ
二人で散歩
花より団子 サラサドウダンかタラの芽、キイチゴか
「赤坂山にサラサドウダンの咲き誇る頃、……」と、先日るンちゃんから掲示板への書き込みがあったが、そのサラサドウダンをまだ見ていない。
昨年の日曜日、おにぎりとお茶を持って、二人で見に行こうと出かけた。駐車場へ車を止めて、さて、登り口を探したが、見あたらない。やむなく引き返して、別のところを散歩した。
すると、その少し前に、かっさんから教えてもらったタラの芽があるわあるわ……。ここは作業用の林道、まだ実っていないキイチゴもあるわあるわ……。登り口には、わらびが……。
来年は忘れずにここに来よう。サラサドウダンもいいけど、タラの芽もキイチゴも捨てがたいね。
目次へ
お花見
新田義貞が戦ったという金が崎は、今ではお花見の名所。シーズンには花換え祭りもある。そういえば、お花の先生から、言われたな。、
「金が崎でお茶会をしているから時間があったら来てね。」
あちら君からもらったコアラの派手な帽子をかぶって、金が崎天満宮まで散歩した。
まあまあまあ、お花見真っ盛り。ここでの人間観察は退屈しなかった。二人で、話題は尽きなかった。
「新入社員だ。一生懸命食料を運んでいるぞ。」
「自己紹介、あがってるよ。」
「ほれほれ、若い人、つがなくちゃ。」
「あっちの弁当の方が、こっちよりいいね。」
「バーベキューの匂いがいいね。」
「あそこの生ビール、本格的だな。業者が来て補充しているぞ。」
「こっそりとれないかな。」……ウソウソ。
そして、はなちゃんのリュックからは、サンドイッチのみならず、保冷パックに入った缶ビールも出てきたのだ。でなきゃ、人の宴会見ながら、3時間も座ってられないね。
もちろん、お花の先生にもしっかり挨拶済み。運良く(?)満席だったので、お茶のお手前を披露せずに済んだのだった。
目次へ
月夜の散歩
夜の散歩は、いろいろコースがある。健康コースは、日本の3松原に数えられる気比の松原コースである。
ビールコース、歩いていって、ビールを買って、虎ちゃんがウェイトトレーニングをしながら帰るコースである。せっかく歩いても、全くダイエットにはならない。
参上マークコース、これは知ってる人のお宅訪問である。かえるの形のポストイットにはなちゃんマーク(オトトとトトメ……オトトのオは雄につくる、トトメのメは雌につくる。)と「参上」を書いて訪問相手の車の窓などに貼っておく。もちろん、相手は選んでいる。みんな必ずはなちゃんのせいだと思うのである、はなちゃんもそれに甘んじているのだ。が、実は、虎ちゃんの方が乗り気なのである。
わざわさ゜、はなちゃんの目の前にノートパソコンなぞ持ってきて、言うのである。
「はい、参上カードを作らないか?トトメマークをコンピューターで作って印刷しよう。」
結局、はなちゃんの根気が続かず、一つ一つ手書きとなったが、散歩に出かけるときに、
「参上マークとサインペン、ちゃんと持ったか。」
と確認するのは虎ちゃんなのである。
このHPを読んだ人は、思わぬ虎ちゃんの実態を知ることになる。
わあい、また夫婦の危機だあ!
目次へ
越前織田焼き
1.窯元の思い出
親戚に織田焼きの窯元がいた。いたと過去形なのは、数年前にすでに過去の人となったからだ。彼は、文化の日に瑞宝章をもらった人である。全くの芸術家肌で、いろいろなこだわりを持っている。生前の彼の話からいくつか印象に残ったことを、書き記してみたい。
○焼き物庵
茶屋のような雰囲気で、昔風のものが並んでいる中に、窯元の焼き物が並んでいる。絣の座布団に腰掛けて、楽しみながら作った彼の作品を見ていたら、ふと、焼き物をしたくなるのは私だけではあるまい。
○風呂場
風呂場にもこだわりがあった。家から離れているところに平屋の湯殿を作った。ゆとりのある広い風呂で、まるで温泉のようだと思った。住居から風呂に行くときには、番傘を指していくのだという話だった。
湯殿もまた、焼き物の庵のような雰囲気だった。くつろぎの別宅という感じである。さらに驚いたことには、広い洗い場のタイルの下には保温のために、空の一升びんを逆さまにして敷き詰めていたのである。
○お出かけ
もんぺをはいて、風呂敷包みを持って、
「ちょっと出かけて来るわ」と言うので、家人が
「どこまで?」と訊ねたら、
「東京まで行って来る。」と答えたという。
彼にとっては、織田の隣へ行くのも、東京へ行くのもお出かけで、全く気負いはないのである。
○天目茶碗
焼き物庵においてない焼き物があった。座敷の横の廊下の棚にきちんと並べられていた美しい皿たち。ちょっと記憶は怪しいが、上薬が特殊なようであった。
「これは、いくらお金出すって言うても、手放す気はないんや。」
と誇らしげに見せてくれた。そのときは何もわからなかったが、ネットをやってから、お茶を嗜んでおられるTamae&皓庵さんから、大変価値ある茶碗だと聞いたので、ここに記録しようと思ったわけである。
○焼き物を教えて
興味津々丸の私としては、当然、これらを見ていると自分でも焼き物をしたくなってくる。夏休みを利用して気楽に焼き物を教えてもらおうとやってきた。虎ちゃんと二人でろくろなどの作業の様子も見せてもらった。
「教えて欲しいな。」と言ったら、こう言われた。
「夏休み一杯、毎日弁当を持って通ったら、湯飲みぐらい作られるようになるやろ。」
当時、教員の夏休みは今以上に出張や行事で忙しく、織田まで通うことはできなかった。今では、とても惜しいチャンスだったと思っている。
「もし焼き物をするなら土を選べ」と言われた。
その後、学校で子どもたちと焼き物に挑戦したが、残念ながら半分割れていた。
今、我が家にある自前の焼き物は、私の作った異様に口の大きな花瓶、ドラ2の作った茶色の馬、ドラ3の作った青い牛と白い雪だるまがある。
2.津村節子「炎の舞」のモデルとして
津村節子は、女性の生き方を描いた作家である。「炎の舞」の主人公の女性は、都会に憧れて駆け落ちをするのであるが、六大古窯の1つ古越前の美しさを再現させようと生涯をかけて織田焼きの陶芸家の孫娘として設定されている。彼女は結局祖父がとりつかれている陶芸の世界に身を投じていくという話である。
津村さんは、このための舞台として、全国の窯を訪ね歩き、やきものは、土の性質によって個性の強く出るものであるとともに、それを作る人の姿勢や気質をも反映するものだということを知ったそうである。
そして、この古越前にとりつかれた祖父のモデルが例の窯元である。織田の風土と、芸術家肌のこだわりの窯元が、主人公の生き方の舞台を作っている。
なお、この中で、津村さんは、作中人物にこう言わせている。
「越前の女はちいそうてひよわに見えるが、芯はきついでな。」
誰かを連想する人もいるかも知れない。