アンシュルス(Anschluss)とは,具体的には1938年3月のナチス・ドイツによるオーストリアの併合をさす言葉だが,第一次大戦後のドイツとの合併を表す言葉としても用いられる。
ここでは,1938年のアンシュルスに至るまでの,オーストリアにおけるアンシュルス運動について,簡単に見ておこう。
ドイツ系オーストリア共和国の成立宣言
・・・ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一部である。
政府の主力であった社会民主党を中心とする外交努力。
→サン・ジェルマン条約(1919.09)でのアンシュルスの禁止
・・・オーストリアの独立は国際連盟の同意がある場合以外には,奪うことのできぬものである。

・ティロールでの住民投票(1921.04)
・・・有権者の90%がアンシュルスに賛成
・ザルツブルクでの非公式の住民投票(1921.05)
・・・有権者の78%がアンシュルスに賛成
・シュタイアーマルクで計画されていた住民投票・・・実施されず
→ジュネーヴ議定書(1922.10)でのアンシュルス禁止の再確認

・Österreichisch-Deutscher Volksbund(オーストリア・ドイツ民族同盟)
1925年に設立された,超党派のアンシュルスを目指す組織
(共産党とナチ党を除いたすべての党の代議士を含む。)
目的:アンシュルスのための国民投票の許可を得ること
1929年4月までに,100万人の会員を達成
(オーストリアの人口:約650万人)
ドイツ内・外務省からの援助
・Österreichische-deutsche Arbeitsgemeinschaft
(オーストリア・ドイツ研究会)
学者,経済専門家,文化人,政治家からなる専門家の小グループ
1930年で会員420
・Deutscher Klub(ドイツ・クラブ)
・Deutsche Gemeinschaft(ドイツ共同体)
旧政治・軍事・精神的エリート層からなる秘密結社
ドイツ・ナショナリズム,反ユダヤ主義,反マルクス主義,反民主主義
の混合

独墺関税同盟計画の公表(1931)
→フランスの強い反対⇒ハーグ国際裁判所へ
ハーグ国際裁判所の裁定で,ジュネーヴ議定書に反するとされる。
※ジュネーヴ議定書・・・オーストリアはその独立を危うくするような経済協定を避けるべきであり,またそれは無効である。
クレジット=アンシュタルトの破産
→外国からの援助が必要⇒独墺関税同盟の断念
→1932年,ローザンヌ議定書でのアンシュルス放棄の再確認
※アンシュルス運動の大きな転換点となる
超党派的運動⇒オーストリア・ナチスが主たる担い手

○社会民主党
・・・1933年までは最も熱心な主唱者。
党綱領にもアンシュルス要求が盛り込まれていたが,
1933年ドイツでナチ党政権が成立すると削除。
○キリスト教社会党
・・・消極的,1933年~反対。
○大ドイツ人党らドイツ民族主義派
・・・変わらず支持
参考: オーストリアの政治構造
・カトリック保守陣営・・・キリスト教社会党,(郷土防衛団 Heimwehr)
・社会主義陣営・・・社会民主党,共産党
・ ドイツ民族主義陣営・・・大ドイツ人党,農村同盟,
オーストリア・ナチ党
