オーストリア第一共和国の歴史を見る前に,ここではそれ以前の状況を概観しておこう。
19世紀に入ってもなお,いわゆるドイツと呼ばれる地域では,神聖ローマ帝国を構成していた各領邦は分立し,いまだ統一国家は形成途上であった。
1848年のフランクフルト国民議会では、ドイツ統一の方針をめぐり対立が生じている。オーストリアを中心としたドイツ人あるいは,ドイツ系の居住地を含めて統一国家を建設するという考え(大ドイツ主義)と,プロイセンを中心としたオーストリアに居住するドイツ人を除外したドイツ統一を図るという考え(小ドイツ主義)である。
大ドイツ主義では,オーストリアの非ドイツ人居住地との分断を招く恐れがあったため,オーストリア政府は,ハプスブルク帝国が統一国家としての存在を保持しながら、ドイツ連邦国家の指導国となることを目指した。
1860年代に入り,プロイセンによるドイツ関税同盟が完成する。同盟にはオーストリアは含まれず,この同盟が小ドイツ主義の基盤となる。
1866年の普墺戦争での敗北が,ドイツ統一からのオーストリアの撤退を決定的なものとした。
1848年革命,クリミア戦争をめぐる帝国外交の失敗,イタリアをめぐる戦争に続き,普墺戦争で敗北したことを受け,オーストリアは帝国の再編問題に直面していた。
ボヘミアのチェコ人,ガリツィアのポーランド人,ハンガリー人らの民族運動が激しくなってきたのもこの頃のことである。諸民族の運動は,社会的基盤が弱く,大衆的な力を欠いていたため,相互の統一に欠け組織的なものではなかった。
そこで,オーストリアの支配層であったドイツ人は,ハンガリー貴族層と妥協を図ることを選んだのである。1867年,オーストリア=ハンガリー二重王国の成立である。
ハンガリーの「二重制」運動が最も強力な民族運動であり,この妥協により,ライタ河以西(ツィスライタニア)の工業・銀行資本と,ライタ河側以東(トランスライタニア)の農業との分業が進展するはずであった。
アウスグライヒは,オーストリアのドイツ人の最も望んだ形ではなかったが,それは当時の状況から判断すると最も現実的な解決であったということができる。支配民族であった彼らが,オーストリアのドイツ人としての優位を維持しようとするがゆえに大ドイツを望む一方で,ハプスブルク帝国の一員としての彼らの誇りが彼らのその望みを打ち砕いたということが,彼らを望まざる方向へ向かわせた一番の要因ではないだろうか。ハンガリーとの妥協が,彼らの位置を安定させる最も妥当な選択であったと思われる。
戦間期オーストリアにおけるドイツ民族主義運動を考える上で重要な示唆を与えてくれるハプスブルク帝国時代の2つの運動について見ておこう。
1つは,シェーネラー(Georg von Schönerer)による汎ドイツ運動であり,もう1つはルエーガー(Karl Lueger)によるキリスト教社会主義運動である。この2人の人物は,当時,ウィーンで青年時代を過ごしたアドルフ・ヒトラーに多大なる影響を与えている。
オーストリアの政治構造は,主にドイツ民族主義陣営・カトリック保守陣営・社会主義陣営からなる。
シェーネラーの運動はドイツ民族主義陣営のなかに,ルエーガーの運動はカトリック保守陣営のなかに位置づけられる。
○シェーネラーによる汎ドイツ運動
・プロイセン賛美
・(人種的)反ユダヤ主義
・反カトリシズム
→ドイツ系オーストリアとドイツ帝国との統一を目指す
⇒ハプスブルク帝国の破壊を主張・・・少数派
シェーネラーから離反していった人々の運動のなかに,オーストリア・ナチ党の前身であるドイツ労働者党の姿を見ることができる。彼らはハプスブルク帝国の存在は肯定していた。
○ルエーガーによるキリスト教社会主義運動
オーストリア国家のカトリック的性格,帝国の統一性,王朝の栄誉を擁護。
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◆両者の運動に共通するもの
反自由主義,反資本主義,反マルクス主義,反ユダヤ主義
※反ユダヤ主義の背景については,「3.オーストリアのユダヤ人」を参照。
帝国時代,ドイツ系の人々の多数は,オーストリア国家への忠誠とドイツ文化への支持を結びつけることによって,“ドイツ愛郷心(パトリオティズム)とオーストリア国民たることを調和させていたと考えられる。
