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オーストリアの歴史を考える会

戦間期の歴史 〜第一共和国成立から第三帝国まで〜

 

5. ドイツとの合併(アンシュルス)

オーストリアにおけるナチ運動の展開

1903 ドイツ労働者党(DAP)
→ 1918 ドイツ国民社会主義労働者党(DNSAP)
          →1924 リール(Riehl)のドイツ社会協会
→ 1926 ヒトラー運動(NSDAP)
      シュルツ(Schluz)グループ

〜1930年代前半
  数多く存在するドイツ民族主義的,反ユダヤ主義的団体の一つ
  1923年(ヒトラーのミュンヘン一揆失敗)以降は政治的影響力ほとんどなし

1932〜1933
  アンシュルス運動の転換点
  ⇒オーストリア・ナチ党がアンシュルス運動の主たる担い手となる

 地方選挙でのオーストリア・ナチ党の躍進

 NSDAPは,1932年の地方選挙での躍進から1934年の間に,ドイツ民族主義陣営をほとんどすべて吸収する。

  • 大ドイツ人党
  • 農村同盟
  • シュタイアーマルク郷土防衛団
  • 前線兵士協会(die Frontkämpfervereinigung)
  • アンシュルス運動団体
    オーストリア・ドイツ民族同盟(Österreichisch-Deutscher Volksbund)など

※オーストリア史上初めて,ドイツ民族主義陣営が一つの運動に結集する。

[躍進の背景]

  • ローザンヌ議定書への反発・・・アンシュルスの試みの禁止
  • 深刻な経済状況,独墺関税同盟計画の失敗,
    失業者(当時約60万人)問題に対する政府の無能
    ・・・反ユダヤ主義の激化

*キリスト教社会党,大ドイツ人党,農村同盟,郷土防衛団らは政府に関与

[党の社会的基盤]

◆運動の初期
 ・・・公務員や従業員(Angestellte)といったいわゆる新中間層と,自由業者,
   学生の割合が(人口比に比べ)非常に高い。

 *20年代・・・二度の分裂によって階級政党的性格を強めていく。

◆躍進期〜非合法期
  ・・・自営業者,農民,労働者の割合が増加

※キリスト教社会党,社会民主党の勢力の弱体な地域でかなりの浸透を見せる。

 *30年代・・・分派を含むドイツ民族主義勢力を次々に吸収していくことに
   よって,あらゆる階層を含む国民政党(Volkspartei)的性格を濃くしていく。

⇒オーストリアの政治構造に深く根ざす陣営間の壁を一定程度崩すことには成功したが,壁を越えられず。

*ナチ運動の展開の時期区分
(ここでは,1918〜1926 DNSAP 1926〜NSDAPを念頭においている。)

@〜1923.08 リールとヒトラーの対立までの時期
A1923.08〜 ミュンヘン一揆(1923.11)までの時期
      (ヒトラーが刑務所から釈放されるまでを含む)
Bミュンヘン一揆〜1933.06 党の非合法化までの時期
C非合法化〜1934.07 蜂起までの時期
D七月蜂起〜1936.07 独墺協定(あるいは1938.03 アンシュルス)までの時期

@Bの時期
・・・ナチ党が選挙を通して議会に進出することによって勢力の拡大や政権を目指そうとした時期(合法的手段)

ACの時期
・・・蜂起という暴力的手段によって政権奪取をもくろんだ時期
  ただし,A合法的手段の拒否の結果/C合法的手段を奪われた結果

Dの時期
・・・テロ行為などによる非合法な(暴力的な)手段を用いつつも,政府との話合いによる交渉を進めるなど合法的な手段をも放棄していない時期

Bの時期はさらに細かく区分することができる。
  1920年代後半 停滞期/1930〜1933 躍進期

 Bの終わり頃から,正確には1932.04地方選挙での躍進以降,ナチ党はオーストリアの政治的場においてその存在を無視しえない重要なファクターとなる。

※オーストリア・ナチ党の2つの解釈

■オーストリア・ナチ党は完全にドイツのコントロールのもとにあると考える立場
・・・シュシュニクやパーペン(Franz von Papen)ら同時代人,カーステン(F. L. Carsten)らファシズム研究者

■オーストリア・ナチ党の指導者はしばしばドイツの指導部からは独立して行動し,オーストリアの自律性(Autonomie)を保持しようと努めたという立場
・・・ルジャ(Radomír Luza),ポーリー(Bruce F. Pauley),ウィリアムズ(Maurice Williams)らの研究者

 

1938年3月のアンシュルスの実現

・外からのアンシュルス
・内からのアンシュルス−上からのアンシュルス(擬似合法的権力掌握)
               下からのアンシュルス(擬似革命的権力掌握)

 1980年代半ばまでは,外からのアンシュルスという側面が強調されてきたが,ヴァルトハイム問題を契機とした歴史の見直しのなかで,内からのアンシュルスという側面の研究が進んでいる。
  各州の権力掌握がほとんど無抵抗のうちに行われた(上からのアンシュルス)ことから,オーストリア・ナチスの浸透がかなり進んでいたと思われる。街頭ではデモやプロパガンダが行われた(下からのアンシュルス)。

オーストリア・ナチ党はアンシュルスにより,運動から体制へと転化

1938.02.12 ベルヒテスガーデン協定
・・・親独派のザイス=インクヴァルト(Seyß-Inquart, Arthur)の内相としての入閣
  オーストリア経済のドイツへの同調
02.20
ヒトラーの帝国議会での演説
・・・「絶えず苦しみを受けている」1000万のドイツ人に言及
  (オーストリア人を含む数)
02.24
シュシュニクの議会での演説
02.末-03.初 各地でオーストリア・ナチスが蜂起の様相
03.09
シュシュニク,オーストリアの独立についての国民投票を3月13日に実施すると発表
03.11

国民投票の延期とシュシュニクの退陣,及びザイス=インクヴァルトの首相就任を求める最後通牒

各州でオーストリア・ナチスが権力掌握

03.12
ドイツ軍の進駐
03.13
アンシュルスの実現ドイツ軍の進駐

[オーストリア人の反応]

  • 組織的な軍事的抵抗行わず
  • ヒトラー,ドイツ軍を熱狂的に歓迎・・・1938.03.15 英雄広場での集会
         ↑
    写真に残されているのは,一部の人であるという主張があるが,しかし,ドイツ軍がチェコに侵攻した際に撮られた苦痛にゆがんだ顔は見られない。

[アンシュルスを受け入れた主な理由]

  • 経済的期待・・・40万人以上の失業者
  • ドルフス・シュシュニク体制(権威主義的「身分制国家」)の除去
  • アンシュルスイデオロギーとドイツ人としての民族(国民)意識
  • 大国としての地位回復への欲求
  • ティロール・・・南ティロールの回復を期待
  • 州の広範な地域が戦場になることから回避(西部オーストリア:観光業)

 

1938年4月10日の国民投票

国民投票  インニツァー枢機卿(Theodor Innitzer),カール・レンナー(Karl Renner:社会民主党)らが賛成票を投じるよう呼びかける。

◆ナチスの主張との重なり
   ・カトリック陣営・・・反マルクス主義
   ・社会主義陣営・・・ヴェルサイユ,サン・ジェルマン体制の修正
              社会主義革命による広大な経済圏の確立

多数の逮捕者(祖国戦線役人,社会主義者,共産主義者,ユダヤ人ら約7万人)
⇒投票率99%以上,賛成票の割合99%以上という結果。

国民全体がアンシュルスに賛成だったわけではないが,かなりの人が積極的 or 消極的賛成「強いられた」アンシュルスを受け入れる素地があったものと解釈できる。

 

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Last Updated : 2006/09/03
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